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天皇陛下「即位礼正殿の儀」、海外からの参列者は?
英チャールズ皇太子、アウン・サン・スー・チーさんら
天皇陛下のお言葉・プロフィールとは ?
(www.huffingtonpost.jp:2019年10月22日 14時31分 より抜粋・転載)
ハフポスト日本版編集部:
海外からの参列者が宮殿に入る様子を写真で伝えます。
天皇陛下が即位を国内外に披露するための儀式「即位礼正殿の儀」が22日午後1時から、皇居・宮殿の「松の間」で行われた。
内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁判所長官の「三権の長」をはじめ、約2000人が参列。
イギリスのチャールズ皇太子やミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんら、海外からの参列者らも儀式を見守った。
NHKニュースによると、180ほどの国や地域、国際機関の代表などを合わせておよそ400人の参列が予定されていたという。
○即位礼正殿の儀:天皇陛下おことば全文
(www3.nhk.or.jp :2019年10月22日 13時21分より抜粋・転載)
さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。
ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。
上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
☆国民に寄り添う気持ち、改めて示される !
「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」で天皇陛下が述べられたおことばは前回、平成2年の儀式で上皇さまが述べられたおことばを踏まえつついくつかの新しい表現が加えられたものとなりました。
天皇陛下はおことばの中で、冒頭で即位を内外に宣言し、続いて上皇さまの歩みを振り返ってみずからが象徴としてのつとめを果たすことを誓い、最後に国の一層の発展や国際社会の友好などを願われました。
こうした流れは平成2年の前回の儀式で上皇さまが述べられたおことばを踏襲したものですが、象徴としてのつとめを誓われた部分ではいくつかの新しい表現が加えられました。
平成2年に上皇さまは「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」と述べられました。
一方、天皇陛下は「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べ、「国民の幸せ」とともに「世界の平和」を願いつつ、「国民に寄り添いながら」という一節を加えられました。
「国民に寄り添い」ということばはことし5月1日の「即位後朝見(そくいごちょうけん)の儀」での即位後初めてのおことばや、ことし2月の誕生日にあたって行われた記者会見などでも、天皇陛下が繰り返し述べられてきました。
天皇陛下のおことばは、上皇さまの象徴としての歩みを踏まえながら、国民に寄り添う気持ちを改めて示されたものとなりました。
(参考資料)
○ 天皇陛下のプロフィール:徳仁
徳仁(なるひと、(1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - [1])。称号は、浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。在位中は、今上天皇と称される[2][注 2]。敬称は陛下[3][注 3]。勲等は大勲位菊花章頸飾。
明仁(第125代天皇、上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。皇后は雅子(旧姓:小和田)。昭和天皇の皇孫かつ大正天皇の皇曾孫にあたる。
戦後(第二次世界大戦後)かつ日本国憲法・現皇室典範下の生まれで即位し、また学位を持ち海外留学の経験がある初めての天皇でもある。即位に伴い、平成から令和に改元された。
住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所[4])[注 4]。
☆略歴:
1961年(昭和36年)2月の徳仁親王
お印に用いられた梓(写真は梓とされる樹木の一種・キササゲ)
皇太子旗
1989年(昭和64年)1月7日 - 2019年(平成31年)4月30日
徳仁親王の立太子の礼:1991年(平成3年)2月23日
束帯黄丹袍を着用した徳仁親王
1960年(昭和35年)2月23日16時15分[5]、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となった。
☆1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジ(英語版)に留学して、テムズ川の水運史について研究[12]。 名誉博士(オックスフォード大学の法学)を取得した。
1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い皇太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる第1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、国会、政府の用いる正式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」(こうたいしなるひとしんのうでんか)とされた。
天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで、22回、父である上皇の譲位前の天皇在位中において海外行幸の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[6]。
2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の退位(譲位)[7]に伴い、翌令和元年(2019年)5月1日に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し、日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する[1]。
皇室男子としても珍しく歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山、ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[8][9]。
☆成婚以降
成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女の敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[20]。
2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場を訪れて2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で観劇して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平の天皇特例会見と同様に「中華人民共和国による皇室の政治的利用」と批判されることになった[21][22]。
2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[23]。
2016年(平成28年)1月28日、第125代天皇明仁が皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣で経済財政担当大臣が甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った[24]。
☆天皇即位:
今上天皇と皇后雅子(即位前、皇太子同妃時代の2018年撮影)
2019年(令和元年)5月1日の即位日に、御料車で赤坂御所と皇居間を移動する
今上天皇と皇后雅子
新天皇の即位を祝う一般参賀、皇居・宮殿長和殿(2019年5月4日)
訪日中の米国大統領ドナルド・トランプと同夫人メラニアを招いての宮中晩餐会(2019年5月27日)
2019年(平成31年)4月30日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位し、翌(令和元年)5月1日、皇太子徳仁親王が直ちに第126代天皇に即位した。先帝・明仁は同日、上皇となった[
○皇后雅子様:(ウイキペデアより抜粋・転載)
1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に居住していた[4]。
1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[13]。専攻は数理経済学。
1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)[15]の3学年に外部学士入学する[13]。100名中3名の合格であった[16]。雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら、根無し草になってしまうような気がして、日本に帰りたかった」と語っている。
駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し[17]、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[13]。合格者は28名でうち女性は3名であった[18][19]。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。
1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された[13]。この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。
1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で「北米局北米二課」に配属された[13]。経済局国際機関第二課配属・OECD(経済協力開発機構)の担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。
総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。配属の2日目は徹夜で業務をこなし、その後も徹夜は無いが週に3日は帰宅が午前様になるなど激務であった[20]。1991年(平成3年)3月には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍した。
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