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新潟県・中越地震、10月23日で発生から15年 !
中越地震の状況は ?
(www.niigata-nippo.co.jp: 2019/10/23 08:25より抜粋・転載)
最大震度7を記録し、68人が犠牲となった、中越地震から、10月23日で15年となった。
甚大な被害が出た中山間地では、住民主体で復興が進み、全国の被災地のモデルとして注目されてきた。一方、過疎高齢化による人口減少に歯止めがかからず、地域の将来像をどう描くか、見つめ直す時期に差し掛かっている。
中越地震は、2004年(平成16年)10月23日午後5時56分ごろ、旧川口町(長岡市)を震源に発生し、マグニチュード6・8を観測した。
全村避難した、旧山古志村(同)をはじめ、避難者は、一時10万人を超え、12万棟以上の家屋が被害を受けた。
地震をきっかけに、地域の在り方を考え、住民活動が活発になった所もある。
復興の過程で、支援者やボランティアと交流が始まり、活力にもなっている。
しかし、地震発生時に、約2200人がいた山古志地域で、千人を割るなど人口減少が激しい。
地域や行政のけん引役も世代交代を迫られる。新潟県の復興基金は、2019年度末で事業を終了する。地域の営みをどう持続し、震災の教訓を語り継いでいくのか、模索が続いている。
(参考資料)
新潟県中越地震(2004年)による地形変化
(isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum56.aspより抜粋・転載)
1.はじめに
新潟県中越地震は、平成16年(2004)10月23日17時56分に新潟県中越地方で発生した直下型地震です。震源の深さ13km、マグニチュードM6.8、川口町で最大震度7を震度計で観測しました。また、同日18時11分にM6.0、18時34分にはM6.5の余震が発生し、川口町で最大加速度2515ガルを観測しました。
新潟県中越地震の本震・余震は、深さ5km〜20kmの浅い地層がずれて発生したため、中越地域で非常に多くの土砂災害が発生しました。このため、新潟県中越地震災害対策本部の平成19年(2007)8月23日現在の消防庁のまとめでは、死者68名、重傷633人、軽傷4172人、全壊4172棟、半壊1万3810棟、一部損壊10万5682棟もの大きな被害となりました。
コラム55でも述べたように、私は砂防学会新潟県中越地震土砂災害調査団(川邉ほか,2005)の一員として、現地調査するとともに、1/2.5万地形図「小平尾」図幅などを用いて作図・地形判読作業を行い、平成19年(2007)5月に、井上公夫・向山栄『建設技術者のための地形図判読演習帳 初・中級編』を著しました。
本コラムでは、初・中級編をもとに、新潟県中越地震による地形変化の状況を説明したいと思います。コラム55の図2は、平成18年(2006)1月1日発行の1/2.5万地形図をもとに、中越地震による地形変化状況を示したものです(初・中級編の裏表紙としました)。
2.新潟県中越地震後の崩壊地・地すべり分布図(国土地理院作成)
平成16年(2004)の新潟県中越地震以後、驚くほど多くの地形・地質に関する論文や写真判読解析図がインターネットや学会などの調査・研究報告として公表されました。ここでは、国土地理院が作成・公表した新潟県中越地震による、崩壊地・地すべり分布図などを紹介します(コラム55の図2も参照して下さい)。
図1は、地震翌日の10月24日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した崩壊地・地すべり分布図(縮尺1/3万,中越地震前の1/2.5万地形図に追記)で、地震から6日後の10月29日に公表されました。中越地震によって発生した非常に多くの崩壊地、地すべり地や土石流などの土砂移動が赤線で示されています。山古志村や小千谷市などの境界が緑線で示されています。
北陸地方整備局中越地震復旧対策室・湯沢砂防事務所(2004年12月)によれば、山古志村芋川流域では842箇所で崩落が起き、52箇所で河道閉塞を生じ、一部では湛水による被害が始まりました。地震発生当時、各河川の水位が低かったため、大きな被害はでませんでしたが、信濃川の堤防の一部には亀裂が生じました。
電気・ガス・水道・電話・携帯電話・インターネットなどのライフラインが破壊されたほか、新潟県内に電話が集中したため、交換機が輻輳し、発信規制がかけられました。また、山間部を繋ぐ通信ケーブルやその迂回路も破壊され、山古志村などは外部から情報面でも孤立する事態となりました。
北陸自動車道や関越自動車道などの高速道路、国道17号や国道8号などの一般国道、多くの県道や生活道路は、亀裂や陥没、土砂崩れ・崖崩れによって寸断されました。このため、山間部の集落の一部は全ての通信・輸送手段を失って孤立しました。
とりわけ、古志郡山古志村(現長岡市山古志地区)は村域から外部に通じる全ての道路が寸断されたため、ほぼ全村民が村内に取り残されました。山古志村の長島 忠美村長は、全村民に対し村外への避難指示を出し、自衛隊のヘリコプターにより、地震から3日後の10月26日までに、隣接する長岡市などに避難させました。避難者の大半が長岡ニュータウン内の仮設住宅での避難生活を余儀なくされました。その後、山古志村は平成17年(2005)4月1日に長岡市に合併しました。
また、山古志村や小千谷市では、数箇所で発生した地すべりによって、河道が閉塞され、複数の集落で大規模な浸水の被害が出ました。閉塞地点より下流域では、天然ダムの決壊による土石流が発生する危険性があるため、ポンプによる排水や、河道付近の民家を撤去するなどの措置が取られました。主要地方道の小千谷川口大和線の木沢トンネルも損傷しましたが、崩落箇所を修復し、復旧しました。
図2は、地震から5日後の10月28日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した崩壊地・地すべり分布図で、11月1日に公表されました。地震から5日経って、河道閉塞地点の背後に河川水が徐々に湛水している状況が紺色で示されています。芋川本川などに多くの天然ダムの湛水池が連なっているのが分ります。
特に、東竹沢地区の大規模地すべりによる天然ダム(流域面積18.6km2、湛水高31.5m、湛水量256万m3)は規模が大きく、湛水範囲が紺色で示され、大きくなっています。芋川上流部の寺野地区の大規模地すべりによる天然ダム(流域面積4.87km2、湛水高31.1m、湛水量38.8万m3)も比較的規模が大きく、湛水範囲が拡大しています。
この2箇所の天然ダムについては、国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所によって、天然ダムの排水対策が検討されました。
図3は、防災科学技術研究所が新潟県中越地震前に作成していた1/2.5万地すべり地形分布図(中越地震直前に、地すべり地形分布図,第17集「長岡・高田」として発行)です。中越地震後カラーの立体図として、平成16年(2004)11月に公開されたもので、図1,2とほぼ同じ範囲を切り出しました。
東頸城丘陵の地域では、無数の地すべり地形が形成されています。コラム55の図2に示したように、この地域ではこの地すべり地形を利用して、集落が形成され、天にまで達する棚田と溜池が構築され、こしひかりや錦鯉の産地として栄えていました(詳しくはコラム55を参照して下さい)。
図3と図1,2を比較すると、古い地すべり地形が新潟県中越地震の激震を受けて、再移動していることが判ります。大日山や東竹沢、寺野も古い地すべり地形とほぼ同じ範囲が再移動しました。
図4は、地震から16日後の11月8日に国土地理院が撮影した航空写真を判読して作成した崩壊地・地すべり分布図で、11月12日に公表されました。
地震から16日経って、河道閉塞地点の背後に天然ダムの満水位に近い高さまで湛水している状況が紺色で示されています。特に、東竹沢地区の大規模地すべりによる天然ダムは規模が大きく、湛水量と湛水範囲がもっとも大きくなっています。
この頃には北陸地方整備局 湯沢砂防事務所による様々な排水対策が行われ、満水・決壊までは達しませんでした。芋川上流部の寺野地区の地すべりによる天然ダムも比較的規模が大きく、湛水範囲が拡大したため、天然ダムの排水対策が実施されました。
なお、国土地理院(2005)では、平成16年新潟県中越地震1:25,000災害状況図(地形分類及び災害情報),小千谷,山古志,十日町図幅,国土地理院技術資料,D・1−No.451 として公表しました。
日本地図センターでは、国土地理院長の承認(承認番号 国地企調発第350号 平成17年12月12日)を得て、2006年1月5日に3枚の図幅として発行し、全国の地理院地図販売店で販売しています。
図5は、芋川流域の芋川本川と支川の河床縦断面図を作成したもので、その上に主な河道閉塞を起こした地すべり・崩壊の位置(河床から最高点まで)を黄色で示し、河道閉塞の高さを赤色で示しました(井上,2005b)。
河道閉塞地点上流部に湛水できる最大湛水深の湛水範囲を青色で示しました。東竹沢と寺野地区を除く他の河道閉塞地点は湛水高が低いため、河床縦断面図では湛水範囲はほとんど表現できませんでした。東竹沢の地すべりの移動土塊量は192万m3(堰止土量65.6m3)、湛水量は256万m3でした。
寺野の移動土塊量は104万m3(堰止土量30.8万m3)、湛水量は38.8万m3でした。
図6は、平成16年(2004)12月28日現在の芋川流域の主な天然ダムと監視・観測体制(国土交通省北陸地方整備局,2005年1月)を示しています。寺野と東竹沢の天然ダムの状況をテレビカメラで監視するとともに、天然ダムの湛水位を観測する水位計が設置されました。
天然ダム下流の芋川の河道沿いには、天然ダムが決壊した場合に洪水流・土石流の到達を監視するワイヤーセンサーと下流地域への警報・連絡装置を数箇所設置しました。
芋川の最下流部(信濃川との合流点付近)には竜光集落があるため、警報器を設置し、決壊洪水が発生した場合に地域住民を速やかに安全な場所に避難させる体制を構築しました。竜光住民には天然ダムの湛水状況を知らせて、避難訓練を数回行いました。
3.東竹沢地区の地すべりによる地形変化
写真1は、国土地理院が昭和51年(1976)11月2日に撮影したカラー写真を立体視できるように加工したものです。写真2は、国土地理院が新潟県中越地震の5日後の平成16年(2004)10月28日に撮影したカラー写真を立体視できるように加工したものです。コラム55の写真12,13は、写真1,2と同じ写真で立体視できる範囲を変えてあります。
写真1は、中越地震から38年前の昭和51年(1976)11月の写真で、東竹沢小学校の校舎がほぼ完成し、校庭の造成工事が行われています。12月以降長い積雪期間となり、翌年の昭和52年(1977)4月に梶木小、芹坪小は75年の歴史を終えて廃校(小千谷市立塩谷小学校の十二平分校も廃校)となり、東竹沢小学校が開校しました。
図7,図8は、大八木(2007,2018)が写真1,2を用いて地震前後の東竹沢の地すべり地形を判読したものです。中越地震後の現地調査結果から判断すると、当地区は新第三紀層の泥岩・砂岩互層が17〜22度西側に傾斜した斜面で、過去に地すべり変動を起こした地区であることが判りました。
写真1 地震前の東竹沢地区の立体写真(1976年11月02日撮影 CCB-76-3, C-34,35)
写真1 地震前の東竹沢地区の立体写真
(1976年11月02日撮影 CCB-76-3, C-34,35)写真2 地震から5日後の東竹沢地区の立体写真(2004年10月28日,C26, 0916,0917)
写真2 地震から5日後の東竹沢地区の立体写真
(2004年10月28日,C26, 0916,0917)
(大八木,2007,2018)
東竹沢地区の天然ダムは、河道閉塞により形成された最も大きな天然ダムですが、写真2の空中写真は、中越地震から5日後に撮影された写真であるので、まだ湛水域はまだあまり拡がっていません。図8によれば、中越地震によって大規模な地すべり変動が発生して、芋川の対岸にぶつかり、河道閉塞している状況が良く判ります。
地すべり土塊の上の樹木は立ったまま変動しているので、17〜22度の単傾斜な地層に沿ってすべり面があり、その上を地すべり土塊はほとんど変形せずに移動しました。河道閉塞の上流側の芋川の河谷は次第に湛水するようになりました。
しかし、最大湛水量は256万m3とかなり大き いのですが、まだ湛水はそれほど進んでいません。芋川の上流部にある寺野地区の天然ダムにより、上流部からの流水が流下してこないことも影響しています。
写真3〜8は、砂防学会中越地震調査団で現地調査した平成16年(2004)11月20〜25日に井上が撮影したものです。写真3は、中山トンネルを通り小松倉から国道291号線を下って、天然ダムの湖畔から湛水状況を撮影したものです(11月25日井上撮影)。写真4は 、台船で湖水を渡らせて頂き、地すべり地域を歩き、河道閉塞を起こした地すべりの背後に現れた泥岩層上面のすべり面を示しています。
すべり面は17〜22度の単斜構造となっていました。すべり面の右側は地すべり移動土塊で、移動土塊の上に繁茂していた樹木が山側に傾斜しています。中越地震によって、前回動いた時とほぼ同じすべり面で移動したと考えられます。
写真5は、地すべりの対岸に登り、河道閉塞区間を撮影したものです(11月20日)。湯沢砂防事務所が排水作業のための排水ホースを何本も敷設している状況を示しており、奥に東竹沢小学校の校舎が見えます。写真6は 、排水ホースが東竹沢小学校の体育館を通過して敷設している状況です(11月20日)。
写真7は、東竹沢小学校の内部を撮影したもので、今にも子供が飛び出してきそうでした。写真8は東竹沢小学校の閉校記念碑で、平成12年(2000)に廃校となって4年が過ぎていました。
写真7 東竹沢小学校の体育館(子供が飛び出してきそう)写真2 地震から5日後の東竹沢地区の立体写真(2004年10月28日,C26, 0916,0917)―以下省略―
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