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パーティー:石破元幹事長、 総裁選へ改めて意欲 !
参院選へは「挙党一致 !」
石破氏のプロフィールは ?
(mainichi.jp:2019年5月13日 20時47分より抜粋・転載)
毎日新聞:自民党石破派は、5 月13日、東京・紀尾井町のホテルで政治資金パーティーを開いた。石破茂元幹事長はあいさつで「夏の参院選に向けて、どの派閥であろうが、どんな立場であろうが、全力で自民党の(候補者の)当選のためにまい進する」と述べ、参院選に挙党一致体制で臨む必要性を強調した。
石破氏は「党内には憲法も安全保障も社会保障も、いろんな考え方がある。そこに選択肢を提示するのは、我が党が党員に果たすべき責任だ」と述べ、党総裁選への意欲も改めて示した。パーティーには自民党の二階俊博幹事長や細田博之元官房長官らが出席。ただ、過去3回の石破派のパーティーと同様、安倍晋三首相は姿を見せなかった。
【立野将弘】
(参考資料)
石破氏のプロフィールとは ?
(ウイキペデアより抜粋・転載)
◆プロフィール
石破 茂(いしば しげる、1957 年(昭和32 年)2月4日生まれ:62 歳)は、日本の政治家。
自由民主党所属の衆議院議員(11期)、水月会会長、自由民主党水産総合調査会顧問。血液型はB型[2]。
防衛庁長官(第68代・第69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)、内閣府特命担当大臣(地方創生)、さわらび会会長、無派閥連絡会顧問、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。
父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗[3]。
◆衆議院議員
1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した[11]。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。
1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった[4]。なお鳥取県全県区からは田中派の平林鴻三が選出されていた[12]が石破は1985年2月27日に田中角栄が脳梗塞で倒れた後、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄と通じ中曽根派から立候補した[13]。
以後9期連続当選。1990年の第39回では鳥取県全県区でトップ当選する。1990年、衆議院農林水産委員会理事に就任。1992年、宮澤改造内閣で農林水産政務次官。
1993年の宮沢内閣不信任決議を巡っては、与党の一員でありながら賛成票を投じるが、離党はせず、直後の第40回衆議院議員総選挙では、無所属で出馬し、再びトップ当選する。
しかし細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため自民党を離党。同じく自民党を離党した西岡武夫らと共に改革の会を結成した。その後自由改革連合を経て新進党結党に参加。
しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。
以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。1997年3月、自由民主党に復党。2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命され、2001年の第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。
◆小泉政権
元々、石破は農水族として地歩を築いてきた[要出典]が、自身も「国防がライフワーク」と語る[要出典]ように「新国防族」などと称され[要出典]、外交・安全保障に精通する政策通で知られた。
拉致議連の会長を務めた後、2002年、第1次小泉内閣第1次改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣した。防衛庁長官在任中はアメリカ同時多発テロ事件の発生による有事法制の制定や、陸上・航空自衛隊のイラク派遣に取り組んだ[14]。
◆福田政権
安倍晋三の退陣に伴う2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持し、福田が総裁に選出される。福田康夫内閣では防衛大臣に任命され、約3年ぶりに防衛省へ赴任する。翌2008年、福田首相の退陣に伴う自由民主党総裁選挙に出馬し、25票で立候補者5人中最下位に終わった(当選者は麻生太郎)。
◆麻生政権
2008年、麻生内閣で農林水産大臣に任命される。農林水産大臣は松岡利勝(自殺)、赤城徳彦(辞任)、遠藤武彦(辞任)、太田誠一(辞任)ら前任者の多くが不祥事に見舞われていたが、石破は特に目立った不祥事を起こさず、約1年間、農林水産大臣を務めた。しかし総選挙が近づくと、閣内にありながら与謝野馨財務大臣らとともに麻生おろしに加担し、退陣要求を行った。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では鳥取1区で民主党の新人に比例復活を許さず8回目の当選を果たした。鳩山由紀夫内閣の発足に伴い、農林水産大臣を退任。
◆自由民主党幹事長
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自由民主党総裁に選出された安倍の下、無派閥ながら自由民主党幹事長に起用され[20]、2012年の第46回衆議院議員総選挙、2013年の第23回参議院議員通常選挙の陣頭指揮を執った。
◆第2 次安倍政権
2014年9月3日の第2次安倍改造内閣発足に先立ち、安倍は石破に対し、新設する安全保障法制担当大臣への就任を打診していたが、石破は8月25日にラジオ番組に出演し、安保法制担当相への就任を辞退する意向を明言し、内閣改造後も引き続き幹事長職に留まりたい意向を表明した[21]。
しかし、日刊スポーツによると、「幹事長が公の場で人事の希望を言うなど前代未聞」等、石破に対する批判が高まり、自民党参議院幹事長の脇雅史は「個人の見識があるのは当然だが、内閣、組織の意向に従うのが常識だ」と苦言を呈した[22]。
安倍はさらに、挙党体制の確立のため石破に安全保障法制担当相以外での入閣を打診し[23]、8月29日に正式に会談した際、石破もこれを受け入れた[24]。
9月3日に発足した第2次安倍改造内閣では、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)及び「元気で豊かな地方の創生のための施策を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣(地方創生担当大臣)に任命された[25]。
同年9月30日、党内の無派閥の議員を中心に構成される、無派閥連絡会に入会、その2日後に顧問に就任した[26]。同会は2012年の総裁選で石破を支持した議員が中心メンバーであるため、一部のマスメディアや自民党議員から、「事実上の石破派」と結成当初から目されていたが[27][28]、石破本人は無派閥の議員の共助が同会の趣旨と述べ、これを否定した[29][30]。
同年12月24日に発足した第3次安倍内閣では、地方創生担当大臣兼内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)に再任[31]。
2015年9月8日の自民党総裁選には立候補せず、安倍の無投票再選となった。石破は後に、「閣僚か党役員として仕えているときは総裁選に出ないのが私の信条」、「安倍政権の支持率が比較的高い中で出馬することに意味があるのか」と語っている[32]。
翌日の9日に、自身の派閥を結成する意向を表明[33]。同月28日に「水月会」の名称で石破派が発足し、石破を含め20名が参加した[34]。
石破は派閥発足時の会見で、自身が大臣を務める安倍内閣を支えると同時に、安倍の任期2期6年(ただし、2017年に総裁再選規定が改正され、最長3期9年となる)の折り返しの段階から時間をかけて、政策体型・政権構想を練り上げたいとの意向を示し、「私のようなものでも、仮に政権を担うのが望ましいということであれば、それを目指したい」と述べた[35][36][37]。
同年10月7日に行われた第1次内閣改造において、内閣府特命担当大臣(地方創生)兼まち・ひと・しごと創生担当大臣に留任[38]。
2016年8月3日の第2次内閣改造で大臣を退任[39][40]。石破は後のインタビューで、「いつまでも続く政権はない。次は誰かがやらないといけない。安倍首相を支えるのも、次に備えるのも、自民党が果たすべき責任。」と退任について語っている[41]。
閣僚退任後は、衆院中国ブロック代表として党総務を務めていたが、政権に批判的な言動をとる石破に不満を抱えていた前総務会長の細田博之(島根1区選出)の反対にあい、8月29日に退いた。石破の後任には、同じ石破派の赤沢亮正(鳥取2区選出)が就く。[42]
2018年8月10日、9月に行われる自民党総裁選挙への出馬を表明[43]。
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