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一般参賀:天皇陛下「世界の平和を求めつつ、一層の発展を」、
令和初の一般参賀始まる !
新天皇陛下の経歴・結婚の経緯 !
(mainichi.jp:2019年5月4日14時22分より抜粋・転載)
毎日新聞:
○一般参賀に14万人が訪れた !
天皇陛下の即位を祝う一般参賀が4日午前10時、皇居で始まった。宮殿・長和殿のベランダに天皇、皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻ら皇族方が並び、集まった人々に手を振って祝意に応えられた。陛下は「皆さんの健康と幸せを祈るとともに、我が国が諸外国と手を携えて、世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げることを心から願っております」とあいさつした。
令和となって最初の一般参賀には、大勢の人が集まった。宮内庁は、開門時間を20分早め、午前9時10分に変更した。開門時、皇居前には4万9300人が集まった。
5 月1 日に即位した、天皇陛下は、あいさつで、「今日このように皆さんからお祝いいただくことをうれしく思い、深く感謝いたします」と述べた。公務から退いた、上皇ご夫妻は、参加しなかった。
一般参賀は、午後3時までの1時間ごとに計6回予定されている。
東京都心は4日、夏日になる予報が出ており、宮内庁は暑さ対策を取るよう求めている。
【高島博之】
○天皇陛下のあいさつ全文
即位を祝う一般参賀での天皇陛下のあいさつ全文。
このたび、剣璽等承継の儀及び即位後朝見の儀を終えて、今日このように皆さんからお祝いいただくことをうれしく思い、深く感謝いたします。
ここに皆さんの健康と幸せを祈るとともに、我が国が諸外国と手を携えて、世界の平和を求めつつ、一層の発展を遂げることを心から願っております。
(参考資料)
T 新天皇・皇太子徳仁親王
(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)
皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960 年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の皇族。第125代天皇明仁と皇后美智子の第一皇子。称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。身位は皇太子(在位:1989 年〈昭和64年〉1月7日 - )、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。勲等は大勲位菊花大綬章。
住居は東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある東宮御所。
○人物
1989 年(昭和64 年)1月7日の父・明仁親王(当時)の皇位継承に伴い皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となり、1991 年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1987 年(昭和62年)より2016 年(平成28年)現在まで、22回、今上天皇の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。2016 年(平成28 年)1月28日には、平成時代の臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[1]。
男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通史・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[2][3]。
○成婚以降
成婚8 年後の2001 年(平成13年)12月1日、雅子妃との間に長女・敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991 年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992 年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004 年(平成16 年)5 月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007 年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[15]。
○年譜
1960 年(昭和35年)2月23日、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。
1964 年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園。
10月29日、着袴の儀を行う。
1966 年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
1972 年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
1975 年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
1980 年(昭和55年)2月23日(20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)を行う。
同年11月30日、大勲位菊花大綬章を受章。
1982 年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
1983 年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
1988 年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(人文科学修士)。
1989 年(昭和64年)1月7日(28歳)、明仁親王(当時)が践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位法定推定相続人)となる。
1991 年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿・松の間)。壺切御剣親授(表御座所・鳳凰の間)。
1993 年(平成5年)1月19日(32歳)、妃に小和田雅子が内定。
同年4月12日、納采の儀(東京都目黒区南・小和田邸)
同年6月9日、結婚の儀(宮中三殿・賢所)
2001 年(平成13年)12月1日(41歳)、敬宮愛子内親王が降誕。
U 新天皇・皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀
(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)
○婚約・結婚受諾の決意
求婚された雅子は、以前とは違って芽生えてきた結婚願望、皇太子の真摯な説得の言葉やその人柄にひかれる心、日本のために自分を役立てたいという気持ちと、仕事のやりがいを感じている外務省で女性が課長以上に出世できない現実が見えてきたこと[25]、家族に対しても行われる関係者らの説得などの間で、どう返事をするか悩み、10月中旬には気持ちが固まらないという内意を漏らし[26]、また体調を崩し10日間ほど仕事を休んだ。皇太子はそれに対し返事を催促するようなことはせず、雅子を追いつめずに「時間をかけて納得がいくまで考えてください」と返事を待ち続けた。
しかし11月後半頃には、次第に皇室で役立つことが自分の役割なのではないかと考えるようになり、悩む雅子に対し皇太子が「皇室に入られることにはいろいろ不安もおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」という言葉を告げたことが決意を促した。12月9日、雅子の誕生日には午前0時になると同時に電話をして誰よりも早く祝福し、彼女に対し「本当に幸せにしてあげられるのだろうか」と悩んだことを打ち明けた。雅子は12月12日の午後、仮御所訪問時についに受諾の返事をした[27]。
このとき雅子は「本当に私でよろしいのでしょうか」と皇太子に尋ね、肯定されると「お受けいたします限りは、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身もいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので(後略)」と答えている[27]。
12 月25日、雅子は仮御所で天皇・皇后と初めて会い、皇太子とともに歓談した。年末、雅子は両親に、これまでへの感謝と新しい人生への決意を伝えるクリスマス・カードを贈っている[28]。[14][24]
○婚約内定
内定以来、雅子のスケジュールや皇太子との連絡は東宮侍従の曽我剛が管理し、護衛の手配、成婚のために購入するものの準備や業者などを指示した。また友人への手紙なども彼のチェックを受けた[29]。
年が明けて1993 年1月6日、報道協定の外にあるアメリカの新聞『ワシントン・ポスト』が、皇太子妃が雅子に内定したことを報じ、日本国内での協定は事実上無効になった。これに伴い、日本国内のマスコミも一斉にこの件を報じた[27]。この日の夜、20時45分、テレビ放送は全ての放送中の番組を打ち切り、皇太子妃内定に関する緊急特別番組に切り替え、全国の新聞社24社が号外を発行した。また翌日の朝刊、各ワイドショー、翌週の女性週刊誌、総合週刊誌がこの件を祝賀する関連報道に埋め尽くされた[30]。
婚約以前の雅子は、トレンチコートなど、男性に伍して働く外務省勤務のキャリアウーマンらしいファッションが多かったが、婚約が明らかになって以降はドイツのブランドのコートなど、気品あるファッションでマスコミ、世間に話題を呼び、以前マスコミに追い回されたときとは違って表情も柔らかくなった[31]。1月8日、内定報道後初めて自宅から姿を現し、皇室会議のために帝国ホテルでポートレイトを撮影した[32]際は、白いコートに、白とピンクの格子柄ジャケットとピンクのスカートの襟なし丸首スーツ、真珠のネックレスとブレスレットで[33]、優雅でいかにも皇太子妃らしい姿への変貌に驚きの声をあげた報道陣もいた[34]。
皇太子はこの新年の歌会始(1月14日)で、婚約の喜びを次のような和歌に詠んだ。
☆大空に舞ひ立つ鶴の群眺む幼な日よりのわが夢かなふ
— 皇太子徳仁親王、平成5年歌会始、お題「空」[35][36]
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