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新天皇陛下:「国民に寄り添い、象徴の責務果たす」初のおことば !
新天皇陛下の経歴・結婚の経緯 !
(mainichi.jp:2019年5/1(水) 11:20より抜粋・転載)
毎日新聞:
新天皇陛下「国民に寄り添い、象徴の責務果たす」 初のおことば
新天皇陛下(59)は、5月1日午前、皇居・宮殿「松の間」で、「即位後朝見の儀」に臨まれた。天皇として国民に向けた初めてのおことばで「自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、寄り添いながら、憲法にのっとり、象徴としての責務を果たす」と述べた。同日午前0時、元号は「令和」に改まった。
朝見の儀には、安倍晋三首相ら三権の長や、都道府県の知事、議長の代表ら約290人が参列した。
皇位継承順位1位で皇嗣(こうし)となった、秋篠宮さまら男女の成年皇族も同席した。
儀式に臨んだ、新陛下は、えんび服で、新皇后雅子さまは、ロングドレス姿。
午前11時10分ごろに入室し、特設の台の上に立った。
新陛下は、「この身に負った重責を思うと、粛然たる思いがします」と述べたうえで、上皇となった前の天皇陛下が、即位時に、「皆さんとともに」守り、従うと誓った憲法に言及した。
続いて安倍首相が、国民を代表して即位を祝福した。
朝見の儀に先立ち、松の間では、午前10時半ごろから、皇位の証しとされる、三種の神器のうち剣と璽(じ)(まが玉)などを、受け継ぐ儀式「剣璽等承継の儀」が行われた。
新陛下の前に用意された台の上に、侍従が、剣璽と天皇が国事行為で使う、印章の御璽と国璽を安置。おことばはなく、新陛下が、侍従らを伴って、退出して終了した。
*補足説明:国璽(こくじ:国家の表徴として押す印章の事)と御璽(ぎょじ:天皇が公式に用いる印章の事)
参列皇族は、皇位継承資格のある男性成年皇族に限る前例が踏襲され、秋篠宮さまと皇位継承順位3位の常陸宮さまの2人のみだった。安倍首相ら三権の長や閣僚ら26人が参列。前回は女性の該当者がいなかったが、今回は片山さつき地方創生担当相が出席した。
憲法や皇室典範には即位に伴う儀式の詳細な規定はない。政府は同日、いずれの儀式も国事行為とすることを閣議決定したが、即位後朝見の儀は、天皇のあいさつに首相が応える形が君主と臣下の関係を思わせ、国民主権にふさわしくないとの指摘がある。
剣璽等承継の儀も神話に基づく調度品が使われる批判があったが、十分には議論されず、平成への代替わりの例が踏襲された。一方で、前回は「奉答」としていた首相のあいさつの名称は「国民代表の辞」に変更した。
両儀式とも公務から退いた前の天皇、皇后両陛下は参列せず、未成年の皇族も慣例で出席しなかった。
新天皇、皇后両陛下は1日午後、前の天皇ご夫妻の住まいとして名称が変更された皇居・吹上仙洞(ふきあげせんとう)御所を訪ね、即位のあいさつをする。その後、宮殿や東宮御所から名称が変更された赤坂御所(東京都港区)で皇族や宮内庁職員から祝賀を受ける行事が午後6時ごろまで続く。
4日には即位を祝う一般参賀が宮殿である。国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」と都内をパレードする「祝賀御列(おんれつ)の儀」は10月22日に予定されている。【高島博之】
(参考資料)
T 新天皇・皇太子徳仁親王
(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)
皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の皇族。第125代天皇明仁と皇后美智子の第一皇子。称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。身位は皇太子(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - )、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。勲等は大勲位菊花大綬章。
住居は東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある東宮御所。
○人物
1989年(昭和64年)1月7日の父・明仁親王(当時)の皇位継承に伴い皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)現在まで、22回、今上天皇の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[1]。
男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通史・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[2][3]。
○成婚以降
成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、雅子妃との間に長女・敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。
学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。
同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。
同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[15]。
○年譜
1960年(昭和35年)2月23日、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。
1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園。
10月29日、着袴の儀を行う。
1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
1972年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
1975年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
1980年(昭和55年)2月23日(20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)を行う。
同年11月30日、大勲位菊花大綬章を受章。
1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
1983年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
1988年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了
(人文科学修士)。
1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、明仁親王(当時)が践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位法定推定相続人)となる。
1991年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿・松の間)。壺切御剣親授(表御座所・鳳凰の間)。
1993年(平成5年)1月19日(32歳)、妃に小和田雅子が内定。
同年4月12日、納采の儀(東京都目黒区南・小和田邸)
同年6月9日、結婚の儀(宮中三殿・賢所)
2001年(平成13年)12月1日(41歳)、敬宮愛子内親王が降誕。
U 皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀
(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)
○婚約・結婚受諾の決意
求婚された雅子は、以前とは違って芽生えてきた結婚願望、皇太子の真摯な説得の言葉やその人柄にひかれる心、日本のために自分を役立てたいという気持ちと、仕事のやりがいを感じている外務省で女性が課長以上に出世できない現実が見えてきたこと[25]、
家族に対しても行われる関係者らの説得などの間で、どう返事をするか悩み、10月中旬には気持ちが固まらないという内意を漏らし[26]、また体調を崩し10日間ほど仕事を休んだ。皇太子はそれに対し返事を催促するようなことはせず、雅子を追いつめずに「時間をかけて納得がいくまで考えてください」と返事を待ち続けた。
しかし11月後半頃には、次第に皇室で役立つことが自分の役割なのではないかと考えるようになり、悩む雅子に対し皇太子が「皇室に入られることにはいろいろ不安もおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」という言葉を告げたことが決意を促した。
12月9日、雅子の誕生日には午前0時になると同時に電話をして誰よりも早く祝福し、彼女に対し「本当に幸せにしてあげられるのだろうか」と悩んだことを打ち明けた。雅子は12月12日の午後、仮御所訪問時についに受諾の返事をした[27]。
このとき雅子は「本当に私でよろしいのでしょうか」と皇太子に尋ね、肯定されると「お受けいたします限りは、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身もいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので(後略)」と答えている[27]。
12月25日、雅子は仮御所で天皇・皇后と初めて会い、皇太子とともに歓談した。年末、雅子は両親に、これまでへの感謝と新しい人生への決意を伝えるクリスマス・カードを贈っている[28]。[14][24]
○婚約内定
内定以来、雅子のスケジュールや皇太子との連絡は東宮侍従の曽我剛が管理し、護衛の手配、成婚のために購入するものの準備や業者などを指示した。また友人への手紙なども彼のチェックを受けた[29]。
年が明けて1993年1月6日、報道協定の外にあるアメリカの新聞『ワシントン・ポスト』が、皇太子妃が雅子に内定したことを報じ、日本国内での協定は事実上無効になった。これに伴い、日本国内のマスコミも一斉にこの件を報じた[27]。
この日の夜、20時45分、テレビ放送は全ての放送中の番組を打ち切り、皇太子妃内定に関する緊急特別番組に切り替え、全国の新聞社24社が号外を発行した。また翌日の朝刊、各ワイドショー、翌週の女性週刊誌、総合週刊誌がこの件を祝賀する関連報道に埋め尽くされた[30]。
婚約以前の雅子は、トレンチコートなど、男性に伍して働く外務省勤務のキャリアウーマンらしいファッションが多かったが、婚約が明らかになって以降はドイツのブランドのコートなど、気品あるファッションでマスコミ、世間に話題を呼び、以前マスコミに追い回されたときとは違って表情も柔らかくなった[31]。
1月8日、内定報道後初めて自宅から姿を現し、皇室会議のために帝国ホテルでポートレイトを撮影した[32]際は、白いコートに、白とピンクの格子柄ジャケットとピンクのスカートの襟なし丸首スーツ、真珠のネックレスとブレスレットで[33]、優雅でいかにも皇太子妃らしい姿への変貌に驚きの声をあげた報道陣もいた[34]。
皇太子はこの新年の歌会始(1月14日)で、婚約の喜びを次のような和歌に詠んだ。
大空に舞ひ立つ鶴の群眺む幼な日よりのわが夢かなふ
— 皇太子徳仁親王、平成5年歌会始、お題「空」[35][36]
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