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4月30日、天皇陛下が最後のお言葉:「国民に心から感謝」退位の儀式
天皇陛下と皇太子殿下について:要約解説
(www.asahi.com:2019年4/30(火) 17:10より抜粋・転載)
朝日新聞デジタル:
陛下が最後のおことば「国民に心から感謝」 退位の儀式
天皇陛下(明仁さま)は、4月30日夕、皇居・宮殿松の間で、退位の国事行為「退位礼正殿(せいでん)の儀」に臨み、「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と在位中最後の「おことば」を述べた。
皇后さま、新天皇ご夫妻となる、皇太子ご夫妻、皇族方のほか、閣僚らが、参列した。
安倍晋三首相が、「深い敬愛と感謝の念を、いま一度新たにする次第であります」と国民代表の辞を述べたのに続き、天皇陛下が、おことばを述べた。
天皇陛下は、「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と切り出し、「これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述懐した。
「明日から始まる、新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結んだ。
天皇陛下は、85歳。高齢に伴い、2016年8月に、退位の意向をにじませる、ビデオメッセージを公表し、2017年6月、一代限りの退位を認める、皇室典範の特例法が成立した。
この法律に基づき、天皇陛下は、4月30日をもって退位し、5月1日に、皇太子さまが、新天皇に即位する。1817年の光格天皇以来、202年ぶりに、天皇の逝去によらない、代替わりが実現する。
退位した、天皇陛下は、「上皇」、皇后さまは、「上皇后」となり、一切の公務から退く。
当面は、現在の皇居のお住まいで暮らし、東京都港区の仮住まい先へ移る、準備を進める。
皇太子妃だった雅子さまが、新皇后、秋篠宮さまが、皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」となる。
皇位継承資格者は、上位順に53歳の秋篠宮さま、12歳の悠仁さま、83歳の常陸宮さまの3人となる。
(参考資料)
T 今上天皇
今上天皇(きんじょうてんのう)とは、日本において在位中の天皇を示す呼称である。聖上(せいじょう)とも呼ばれる。 当代の天皇の呼称。
「天子摂関御影」の「今上」の用例。後光厳天皇に比定される。
今上は漢語であり、『史記』秦始皇本紀に「今上知天下、」云々とある。「聖上」と同じように、現在の帝(みかど)を意味する語である。当今(とうぎん)ともいう。「いまのうへ」というやまとことばを漢字で書いて今上としたとの説は、「からごころ」を排除する国学の影響によるものとされる。
一方、天皇は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる「諡号(おくり名)」であった。また、この制度は、大宝令を初出として公式令や義解に解説された漢土(中国)の制度の全くの摸倣であった[1][2]。
日本や唐以前の中国では、敬意を示すものについてはっきりした言い方を持たない文化があり、当代の天皇の呼称もあまり発達しなかった。
しかし、平成時代の今日において先々代の大正天皇や先代の昭和天皇と並べて表記したい場合に、「今上」もしくは「今上陛下」では言葉のすわりがよくないことと、「今上天皇」と表記すると語感から客観的な表現に感じられるため、中立を求められる表現の中で使用される頻度が高くなってきた。また美智子皇后も自身の夫を「今上陛下(きんじょうへいか)」と公の場では呼んでいる。
○現在での用例
政府などの公的機関および主要メディアなどでは、皇室典範に定められる敬称「陛下」を入れて「天皇陛下(てんのうへいか)」と呼称することが一般的である[3]一方、天皇制廃止論(君主制を維持している諸外国の君主制廃止論に相当)に立つ者、基本的に敬称を避ける傾向にある学術的な世界に身を置く者は、単に「天皇(てんのう)」と呼称する(内閣総理大臣と同じく、肩書きでもあるため。
「総理閣下(そうりかっか)」「首相閣下(しゅしょうかっか)」とは普通は言わない)か、あるいは実名を直接呼ぶことも多く[4]、当代の天皇を特定する場合には「今上」「当今」とだけ呼称することもある。なお、一般市民が公でない場で「天皇」と呼称することがあるが、だからといってその人が必ずしも「皇室に批判的である」ということを示すものではない。
また、英語圏など外国では「The emperor …」と呼ばれることから「名前+天皇」の用例がある(例:映画『ラストエンペラー』では、「The emperor Hirohito」という台詞が「裕仁天皇」と翻訳している。この映画が公開された1986年当時、昭和天皇は存命で在位中であり、「昭和天皇」の諡はなかった)。
国内でも同様の用例は見られるが、前述の通り、名指しは天皇に特別な敬意を示さない意思表示として受け取られる場合が多い。
U 第125 代天皇・明仁さま
明仁(あきひと、1933年〈昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - )[注釈 1]。称号は継宮(つぐのみや)、お印は榮(えい)[1]。在位中は今上天皇(きんじょうてんのう)と称される[注釈 2]。皇室典範に定める敬称は陛下で、天皇陛下(てんのうへいか)と呼ばれる[2]。
第124代天皇・昭和天皇と香淳皇后の第一皇子。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。
日本国憲法および現皇室典範下で初めて即位し、即位翌日より「平成」と改元された。また、東京都で即位の礼を挙げた最初の天皇である。勲等は大勲位菊花章頸飾。
○人物
1933年(昭和8年)12月23日に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて、父:昭和天皇、母:香淳皇后夫妻の第五子かつ第一皇子(皇男子)として誕生。
1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年。1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し浩宮徳仁親王(現・皇太子)・礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)・紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女をもうける。
1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇の崩御[3]に伴い皇位継承し、第125代天皇となる[4]。
2019年(平成31年)1月現在、85歳である。高齢だが年間約1000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度[5])、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している[6]。
しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる[7][8]。
1960年(昭和35年)2月23日に第1子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
1965年(昭和40年)11月30日、第2子・第二男子礼宮文仁親王が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子・第一女子紀宮清子内親王が誕生。
V 皇太子徳仁親王
(ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋・転載)
皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の皇族。第125代天皇明仁と皇后美智子の第一皇子。称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。身位は皇太子(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - )、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。勲等は大勲位菊花大綬章。
住居は東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある東宮御所。
○人物
1989年(昭和64年)1月7日の父・明仁親王(当時)の皇位継承に伴い皇太子(皇位継承順位第1位、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)現在まで、22回、今上天皇の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為臨時代行を務めている。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った[1]。
男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通史・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[2][3]。
○成婚以降
成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、雅子妃との間に長女・敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。
学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。
同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。
同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[15]。
○年譜
1960年(昭和35年)2月23日、東京都千代田区千代田の皇居・宮内庁病院にて誕生。
1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園。
10月29日、着袴の儀を行う。
1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学。
1972年(昭和47年)4月8日、学習院中等科に入学。
1975年(昭和50年)4月7日、学習院高等科に入学。
1980年(昭和55年)2月23日(20歳)、加冠の儀(皇居宮殿・春秋の間)を行う。
同年11月30日、大勲位菊花大綬章を受章。
1982年(昭和57年)4月8日(22歳)、学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)。
1983年(昭和58年)10月15日、英国オックスフォード大学マートン・カレッジに入学。
1988年(昭和63年)、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(人文科学修士)。
1989年(昭和64年)1月7日(28歳)、明仁親王(当時)が践祚したことに伴い、皇太子(皇位継承順位第1位法定推定相続人)となる。
1991年(平成3年)2月23日(31歳)、立太子の礼(宮殿・松の間)。壺切御剣親授(表御座所・鳳凰の間)。
1993年(平成5年)1月19日(32歳)、妃に小和田雅子が内定。
同年4月12日、納采の儀(東京都目黒区南・小和田邸)
同年6月9日、結婚の儀(宮中三殿・賢所)
2001年(平成13年)12月1日(41歳)、敬宮愛子内親王が降誕。
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