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ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去、94歳
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投稿者 青木吉太郎 日時 2018 年 12 月 03 日 20:15:25: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去、 94歳 !

  ブッシュ氏の政治経歴とは ?


(news.yahoo.co.jp:2018年12/1(土) 14:08配信より抜粋・転載)

CNN.co.jp:ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去、94歳 !

(CNN) 第41代米大統領を務めた、ジョージ・H・W・ブッシュ氏が、米国テキサス州ヒューストンで、死去したことが、12月1日までにわかった。

同氏の広報担当者が、明らかにした。94歳だった。

大統領の在任期間は、1989年1月から1993年1月まで、ソ連崩壊による冷戦終結など、国際情勢が激動する中で、米国のかじ取りに当たった。1991年1月には、イラクのクウェート侵攻に伴い、湾岸戦争開始の決断も下していた。

1992年の大統領選で、再選を狙ったが、国内経済の不振への不満が高まり、敗退した。庶民の苦しい生活に、思いが至らない大統領、との印象も持たれていた。しかし、退任後は、思慮深く手堅い方法で、外交問題を処理する能力が、評価されるようになっていた。

詳しい死因は伝えられていない。

晩年には、体調を崩し、自らパーキンソン病を患っていることも明かしていた。自力歩行がかなわず、車イスやスクーターで移動していた。呼吸障害や自宅で転倒しての骨折なども起き、入院を繰り返していた。

裕福なウォールストリートの銀行家で、後にコネティカット州選出の上院議員となる、父親の息子として、マサチューセッツ州で生まれた。旧日本軍による、真珠湾攻撃後、空母配属の海軍航空隊の操縦士として、太平洋戦線で戦闘任務に従事した。旧日本軍の対空砲火で、自機が撃墜され、捕虜になる危機に遭遇しながら、味方の潜水艦に、間一髪で救出された逸話も持つ。

終戦後は、石油探査企業設立などを経て、1966年に下院議員に初当選。共和党全国委員長、米中央情報局(CIA)長官などの要職を歴任。1980年の大統領選に立候補したものの敗退。レーガン元大統領の副大統領を務め、現職副大統領として、1988年の大統領選に挑み、当選していた。

長男のジョージ・W・ブッシュ氏もその後、大統領を務めた。次男のジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事も、2016年の大統領選に出馬したが、支持率が伸び悩み撤退していた。

今年4月には、妻のバーバラ・ブッシュさんが、92歳で死去していた。

(参考資料)

   ジョージ・H・W・ブッシュ氏の政治経歴

(ウイキペディアより抜粋・転載)

◆米中連絡事務所所長時代に天安門にて、1975年

1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して、上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。

ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。

ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。

◆CIA長官

ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。

また、1年間と短い期間ではあったが、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)を務め、初の中華人民共和国への特命全権公使の直後であったため驚きを持って受け取られた。

◆副大統領(1981年 - 1989年)

副大統領を務めたロナルド・レーガン政権の閣僚とともに、1981年2月4日

1980年にブッシュは、共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。

共和党大会直前に、ロナルド・レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。

レーガンも銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断ったことをきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。

ブッシュは、元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であり、後に敵対することになるサッダーム・フセイン大統領のイラクとの関係強化の決定にも関わっている[2]。結果として2期8年間をレーガン政権の副大統領として勤めた。

◆1988年の大統領選挙

2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、共和党選ではボブ・ドールやドナルド・ラムズフェルドなどを破って選出された。本選では、マサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。

現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。

大統領職・パナマ侵攻・大統領就任式(1989年)

ゴルバチョフとともに(1989年)

湾岸戦争勝利パレード時のブッシュ(1991年)

北米自由貿易協定調印(1992年)

◆ロンドンサミット(1991年)

1989年1月、第41代大統領に就任した父ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。彼はその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権に対する侵攻を決意する(パナマ侵攻)。

12月に、2万4千人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕され、アメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。

◆冷戦終結

1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。

この会談には、ソ連側からはエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣、アメリカ側からはジェイムズ・ベイカー国務長官及びブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官などが同席している。ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では当初からマルタ会談は「時期尚早」として、ソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領、イギリスのマーガレット・ヒルダ・サッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳、及びアメリカ合衆国議会はゴルバチョフとの対談を説得し実現した。

◆湾岸戦争

マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にサッダーム・フセイン率いるイラク軍が隣国クウェートへ突如侵攻すると、国際連合は史上初の武力行使容認決議を可決、拒否権で停滞してきた安保理では歴史的なことであり、これを父ブッシュは新世界秩序と呼んだ。

アメリカ軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した(湾岸戦争)。ただし、イラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。

1991年1月17日の多国籍軍によるイラク空爆により、湾岸戦争は本格化した。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、父ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。

◆1期のみ

1991年2月28日に湾岸戦争に勝利し中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、北米自由貿易協定調印したことなど対外的成果を強調して同年の大統領選挙に挑んだ父ブッシュであった。

しかし、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、民主党のビル・クリントンに敗北した。

◆外交・対日

対日関係ではアメリカ国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物とりわけコメ、牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業の対米輸出を大幅に規制させるなど、日本に対してアメリカ大統領としては異例といえる保護貿易主義を取った。

ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員等からも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり後に年次改革要望書が作成される事になる。なお、1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。

国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題や、資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し多額の資金援助を行ったにも関わらず日本への謝意が演説で述べられなかった事などから「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。

◆外交・対中

対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも議会と対立してまで最恵国待遇を更新し、ボーイング[3]や人工衛星の輸出を許可[4]するなど制裁全面化に消極的であり、かつて米中連絡事務所所長も務めたことから、兄のプレスコットや息子のニールが中国共産党政府とビジネスもしていたため、後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったともされる。

ブレント・スコウクロフト補佐官を北京に派遣して秘密交渉を行っていたこともあって、第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した[5]。

 

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