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大河ドラマ・西郷どん:第40回「波乱の新政府」西郷、再び表舞台に !
東京で待っていたのは…
大久保利通・討幕派の深層・真相は ?
(mantan-web.jp:2018年10月28日より抜粋・転載)
俳優の鈴木亮平さん主演のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の第40回「波乱の新政府」が28日放送される(総合・午後8時ほか)。政から離れ、故郷で静かに暮らしていた西郷隆盛(鈴木さん)は、日本の近代化を推し進める盟友・大久保利通(瑛太さん)たっての願いを受け入れ、再び政治の“表舞台”に立つが……。
新政府への不満が高まる中、大久保と岩倉具視(笑福亭鶴瓶さん)は、薩摩から西郷と島津久光(青木崇高さん)を新政府に引き入れようとするが、久光は、東京行きを拒む。一方で西郷は、日本の近代化を一気に推し進めるため、「廃藩置県」を断行したいという大久保に賛同。明治4(1871)年、熊吉(塚地武雅さん)を連れ、上京する。
しかし西郷は、資金がないと言いながら、ぜいたく三昧な日々を送る新政府の役人たちに違和感を抱き……というストーリー。
「西郷どん」は大河ドラマ57作目で、西郷隆盛の生涯を描く。
第39回「父、西郷隆盛」は、奄美大島で愛加那(二階堂ふみさん)と共に暮らしていた息子の菊次郎(城桧吏さん)を引き取る西郷。しかし、菊次郎は幼い頃に離ればなれになった父のことを覚えておらず、新しい家族に心を開かない。
一方、明治新政府は版籍奉還など急激な改革を進めるも、不平士族や農民たちが各地で反乱。そこで大久保は事態を収拾すべく、西郷を東京に呼び戻そうとする……という展開だった。
(参考資料)
T 西郷の墓地で大久保の法要「待った」 反発受け名称変更
(www.asahi.com:018年5月5日07時21分より抜粋・転載)
朝日デジタル・町田正聡:
明治維新の立役者である薩摩藩の大久保利通の没後140年の法要を、西郷隆盛が眠る鹿児島市の墓地で催そうとした有志のグループが反発を受け、法要の名称などを変更していたことがわかった。西郷と幼なじみだが、西南戦争で西郷を敗死させた大久保への風当たりは今も強い。法要は西南戦争の戦没者を政府軍、薩摩軍問わず追悼するものとして、6日に開催される。
大久保と西郷は同じ鹿児島・加治屋町の出身。徳川幕府を倒し、明治維新を成し遂げた2人だが、新政府の政策をめぐって対立。1877年に薩軍を率いて反乱を起こした西郷を鎮圧した大久保の人気は、西郷に比べるといま一つだ。
明治維新150周年の今年は、西南戦争の翌年に東京で暗殺された大久保の没後140年にもあたる。
そこで、西郷らが葬られている同市の南洲墓地に昨年9月、政府軍と薩軍を一緒に弔う慰霊塔を建立した有志の団体「西南之役官軍薩軍恩讐(おんしゅう)を越えての会」が、大久保の命日である今月14日に近い6日に、「大久保利通公没140年法楽」を慰霊塔前で催そうと計画した。
同会の会長は、NHKの大河ドラマ「西郷どん」で時代考証を担当している鹿児島県立図書館の原口泉館長が務めている。
しかし、東京・上野の西郷像の清掃や西郷の研究活動などに取り組む市民グループ「敬天愛人フォーラム21」(東京)が、「大久保は西郷を死地に追いやった人物」と反発。南洲墓地での大久保の法要を取りやめるよう求めた。
内弘志・代表世話役は「大久保は南洲墓地に葬られているわけでもない。賊軍の汚名を着たまま眠る人々や遺族の思いを考えてほしい」と話す。
同会事務局を務める鹿児島市の大雄山南泉院の宮下亮善住職は「法要は大久保だけのためでなく、官軍側、薩軍側の分け隔てなく平等に供養したいだけ」とするが、反発を受けて、法要の名称を「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての法要」に変更。
予定していた原口会長の講演のタイトルも「明治維新と大久保甲東」から「大河ドラマの中の西郷と大久保」に変えた。原口会長は「対立を深めるようなことは好ましくないと判断した」と話した。
南洲墓地での法要には、西郷の子孫らを含めて110人ほどが出席する予定という。(町田正聡)
U 大久保利通の深層・真相は ?
(ウイキペディアより抜粋・転載)
◆倒幕・王政復古
志士時代の大久保利通(明治元年頃)
文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主・松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。同年5月20日、御小納戸頭取に昇進となる。この昇進により、小松清廉、中山中左衛門と並んで久光側近となる。文久3年(1863年)2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する[注釈 2]。慶応元年(1865年)1月下旬から5月の間に利通と改諱する[注釈 3]。
慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。
小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。
武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結んだ。なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。
10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古の大号令を計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。
◆明治維新後 サンフランシスコにて撮影(明治5年)
珍しい帯刀姿の写真。右が大久保利通、左側は堺県知事時代の税所篤。大久保の日記(明治四年五月六日条)に「今日税所子同行写真所等江参」とある。
慶応4年(1868年)1月23日、太政官にて大阪への遷都を主張する。
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。
明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出した[注釈 4]。
大久保が目標としていた国家はプロイセン(ドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれる[注釈 5]。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。
◆暗殺された !
明治11年(1878年)5月14日、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一および島根県士族・浅井寿篤により、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて殺害された(紀尾井坂の変)。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
V 幕末・明治維新以降の深層・真相は ?
(ブログ「心に青雲」より抜粋転載)
○明治維新で日本を乗っ取った、「長州藩田布施一味」
◆「朝鮮人部落」の人間が、金融財閥の家来=明治政府権力者 !
鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で「長州藩田布施一味」に国家を乗っ取られたということであることが解る。
長州藩の田布施一味とは、「山口県熊毛郡出身の政治家」らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。
大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この「田布施一味の末裔」である。
小泉純一郎元首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の「朝鮮人」である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、「朝鮮人部落」である。
純也は、上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の「婿養子」となって「小泉姓」を名乗り(小泉純也)、「日本国籍を取得」したのだ。―以下省略―
◆幕末維新革命の真相は ?
(欧州財閥による日本支配が実態)
サッスーン財閥(ロスチャイルド巨大財閥の子分)の代理人としてグラバーが登場します。
この長崎に来た武器商人トーマス・グラバーは、日本を支配するためには、武家政権が最大の障害であり、武士の支配の総元は、徳川幕府だと認識します。
徳川幕府の統治を完全に転覆しないと日本は自分たち英国・巨大財閥のものにならない。
そこに、嘉永6、7年(1853〜54)、アメリカの「ペリー艦隊」が来て、無理に日本を開国させ、欧米列強が日本に入り込みます。
グラバーは、日本の武家の政治を転覆するためにいろいろな「策謀」を巡らします。
―以下省略―
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