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8月19日・NHK大河ドラマ『西郷どん』
自公政治家・NHK等が隠蔽・誤魔化す、倒幕・明治維新の深層・真相は ?
(www.nhk.or.jp:2018年8月19日より抜粋・転載)
2018年8月19日放送:「龍馬との約束」
慶喜(松田翔太)が再び長州征伐を断行しようとする中、吉之助(鈴木亮平)は坂本龍馬(小栗旬)を薩摩に連れて帰る。龍馬は雨漏りする西郷家に驚き清貧を貫く吉之助にほれ直す。
すでに幕府を見限った吉之助は、長州は朝敵ではなく倒幕のために共闘すべき相手だと考え始めていた。そんな吉之助に龍馬は「自分なら両藩の手を結ばせることができる」と早速、桂小五郎(玉山鉄二)に接触する。
西郷どんの目線:龍馬さぁが、西郷家にやってきます !
史実として伝わる「雨もり」のシーンもあり、そのエピソードでいっそう龍馬さぁがおもしろい人間だと吉之助は思うんですよね。
とはいえ、お互いの立場が違いますから、決してただの友達とはならないけれど、どこか緊張感がありながらも人間的にひかれあっていく……。僕はふと、橋本左内さんを思い出しました。龍馬さぁと一緒にいる時間がもっともっと長ければ、左内さんのようにバディーの関係になったかもしれないですよね。
そして、西郷家といえば、吉之助の嫁になってくれた糸どんとの再会も……!ちょっと気恥ずかしい夫婦としての会話の中で、初めて糸どんの気持ちを知るシーンがあります。
ただの幼なじみではなく、形としての夫婦でもなく、気持ちがガッと動く瞬間を目撃していただきたいです。
(参考資料)
武器商人トーマス・グラバーは、「長州藩田布施一味」を操って、
日本を乗っ取った !
(ブログ「心に青雲」より抜粋転載)
1、 明治維新で日本を乗っ取った、「長州藩田布施一味」
1) 「朝鮮人部落」の人間が、金融財閥の家来=明治政府権力者 !
鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で「長州藩田布施一味」に国家を乗っ取られたということであることが解る。
長州藩の田布施一味とは、「山口県熊毛郡出身の政治家」らのことである。
熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。
大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この「田布施一味の末裔」である。
2) 「ユダヤ国際金融権力」は、被差別部落の
「弱み」を握って、「支配してきた」!
「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た〜安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなった時の遺骨を見ても、韓国系の体型だったと言っている。
“田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が、国の権力を握っている”ことに変わりはないようだ。安倍晋三は、「統一教会と縁が深い」のだからまさに「朝鮮半島勢力」である。
小泉の次の安倍政権、そのいずれもが「朝鮮人部落」だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
「ユダヤ国際金融権力」は、こういう人間を使って、「日本乗っ取り」を支援しながら、連中の「弱み」を握って、思い通りに「支配してきた」のだ。
ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。
例えばとして、鬼塚氏の研究によれば、幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の「被差別部落」を調査させている。
2、 幕末維新革命の真相 ! (欧州財閥による日本支配が実態)
・・・・サッスーン財閥(ロスチャイルド巨大財閥の子分)の代理人としてグラバーが登場します。
この長崎に来た、武器商人トーマス・グラバーは、日本を支配するためには、武家政権が最大の障害であり、武士の支配の総元は、徳川幕府だと認識します。
★徳川幕府の統治を転覆し、日本は自分たち
英国・巨大財閥が支配する事を狙う!
徳川幕府の統治を完全に転覆しないと日本は自分たち英国・巨大財閥のものにならない。
そこに、嘉永6、7年(1853〜54)、アメリカの「ペリー艦隊」が来て、無理に日本を開国させ、欧米列強が日本に入り込みます。
グラバーは、日本の武家の政治を転覆するためにいろいろな「策謀」を巡らします。
ところが、孝明天皇は、朝廷と武家と一体になり、日本全国民が一致して西洋の不当な侵略、日本支配に対抗して、日本を守らなければならないという「公武合体策」を唱えます。
そして、孝明天皇の妹宮である和宮が、14代徳川家茂(1846〜66)将軍に嫁ぎます。
★巨大財閥は、日本を支配するため、「公武合体策」・
尊皇攘夷主義者・孝明天皇を抹殺する謀略を実行 !
これでは埒が明かないというので、グラバーは、薩摩と長州に内訌して、薩長の軍隊と徳川の軍隊を全面的な内戦に持ち込んで、日本を中国のようにバラバラに解体する「植民地支配」を目論んだのです。 その最大の障害が、尊皇攘夷主義者・孝明天皇だったわけです。
そして、慶応2年12月25日(西暦では1867年1月)に「孝明天皇弑逆事件」が起こりました(「弑逆(しいぎゃく)」とは、臣下・岩倉具視・伊藤博文等が主君を殺す大悪のこと)。
翌、慶応3年(1867年)1月9日には、睦仁親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、さらに、慶応4年(1868)8月27日に即位式をあげ「明治」と改元されました。
ところが、この睦仁天皇も16歳くらいでしたが、言うことを聞かなかったのです。
英国の手先・薩長になびかず、徳川幕府と朝廷が一致して日本を守るという孝明天皇の政策を改めなかったのです。
★「公武合体策」主張の睦仁天皇も邪魔だと
いうことで「弑逆」された !
翌、慶応3年(1867年)1月9日には睦仁親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、さらに、慶応4年(1868)8月27日に即位式をあげ「明治」と改元されました。
ところが、この睦仁天皇も16歳くらいでしたが、言うことを聞かなかったのです。
英国の手先・薩長になびかず、徳川幕府と朝廷が一致して日本を守るという孝明天皇の政策を改めなかったのです。
そこで、睦仁天皇も邪魔だということで「弑逆」されて、行方がまったくわからなくなったのです。
★「大室寅之祐」がニセ明治天皇になった !
そこで、睦仁天皇も邪魔だということで「弑逆」されて、行方がまったくわからなくなったのです。
「大室寅之祐」(伊藤博文の子分)という名前の人物を「睦仁にすり替えて」詐称しているからです。
日本国民が、「孝明天皇弑逆事件」の真相を明らかにして、それ以降の日本には歴史的正統性が存在しないということを明確に日本人が認識する・・・ということが必要ではないかと思うわけです。
*孝明天皇弑逆説:山陰基央、徳富蘇峰、山岡荘八、鹿島昇、大田龍、鬼塚英昭、
加治将一
なお、明治初期・中期、京都の公家、有力市民の多くは、孝明天皇弑逆を知っていた。
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