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キライな日本語――養生なき「健康」
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投稿者 あやみ 日時 2011 年 10 月 12 日 02:55:28: oZZpvrAh64sJM
 

キライな日本語――養生なき「健康」
つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-58.htmlより転載

「健康」というこの言葉には日本語になじまない何かがある。日本語が日本の暮らしを綴る言葉であるという考えを以ってすれば、「健康」と日本人の間にそぐわぬ何かがありそうだ。
健康茶、健康蕎麦、健康味噌、何でもいいがおよそ食品に「健康」の文字がくっついただけでマズそうになる。食べ物に限らず「健康ランド」「健康ビジネス」「健康ショップ」と、健康の次にカタカナ語がつづくとチャチになる。まことに不可解なことばだ。


まずは語原。
易経に出典をもつ「健体康心」、健やかな体と康らかな心を意味する。もちろん、やまとことばに縁もゆかりもない外来語、いや、外国語だ。
今から三千年以上も前、孔子以前から存在した「易経」が明確に現れたのは漢の武帝のころであった。後の後漢の時代に詩、書、礼、春秋、など並び「五経」と呼ばれ儒教の基本経典となった。

我が日本には531年(継体帝)に百済の五経博士がそれを伝えたとされる。しかし「健体康心」の一節はとくに目を注がれることもなく、日本語として息を吹き返すまで千年以上待つこととなる。

「健康」にあたる古語はない。一番近いのが「まめ」だが、かなり新しい。遠い先祖たちは病気や禍のないことを「つつがなし」といったが健康とは違う。「健康」は日本でまだ日が浅いのだろうか。


古語「むくろ」は「ム(霊、身)」と 「クロ(殻)」からなり、「からだ」を意味する。
やまとことば(古代日本語)の語彙はすべて二音節の単純な動詞からはじまる。その動詞に語尾が一つ、時には複数くっついて別の動詞に、または形容詞に、名詞に変わって語彙が増えてゆく。この特徴は「膠着語」と分類され、朝鮮語、フィンランド語、テュルク(トルコ)語などが仲間だ。

「クル(繰る)」から「クルム(包む)」が生まれ、胡桃、栗、そして殻、蔵、倉がさらに生まれた。殻も蔵も何かを包み込む容器として考えられる。では「ムクロ(躯)」は何を包んでいたか、それは「タマ(霊)」に違いない。

「玉の緒よ 絶えなば絶えね 永らえば 忍ぶることのよはりもぞする」

霊(玉)をむくろに繋ぎとめているものを「玉の緒」といい、それが絶たれると霊がスルリと抜けてしまう。死を意味する。霊の抜けた体を「ナキガラ(亡骸)」といった。日本の祖先は人の体を霊の入れ物と捉えていたことが判る。

死は「穢れ」と恐れられた。病や事故、天変地異そして犯罪も「穢れ」に含まれる。「汚れ」との違いは「洗い」流せないところにあり、「忌み(祓い)」を行うことが求められた。夏のはじめに菖蒲の葉で屋根を葺いた小屋に大事な働き手である女たちを集め、日本人の恐れた季節、夏にそなえる「五月忌み」を行った。(この風習は紆余曲折あって「こどもの日」となった。)菖蒲の葉の持つ薬効を穢れを祓うものと解していたのだ。

わが国の医療の原点はここだった。

「穢れ」は「ケ(褻)」が「カレ(枯れ)」た状態である。ケとはハレを祝祭などの非日常としたときそれに対する日常をいう。つまり日常が枯れ豊かさを失ったさまをさす。病人や怪我人、災難を被った者、飢えた者、家族を失った者は日常を欠き心を乱し、躯が傷み、「穢れ」が進み死に至る。心と体をそれぞれ別のものと捉えながらも互いに強く影響を及ぼしていることをよく知っていた。。外的あるいは内的な要因が体調を崩す、そしてそれが進行し命を落とすことはかなり昔から認められていたことになる。しかしそれは今ではとうに忘れられ「穢れ」は差別を仄めかす言葉と化した。

そして人と国の間にも同じ絆を見出していた。薬効のある植物、塩や酒で患部を清め、罪人を咎め、地神海神を祀って赦しを請い、死者を墓に葬り「穢れ」を遠ざけた。政治を意味する「まつりごと」は「祀りごと」であった。


心が痛むと体が病む。その心を痛めるものとは禍々しい出来事すなわち「穢れ」である。そして、その穢れの中には「病」も存在する。「病」のみならず悪いことは輪を描いて立ち戻る。すべては循環する。


古代から中世へと時代が降るにつけ、世の中を握る貴人と呼ばれた人々の心は権力欲にとり憑かれ人を欺き陥れることに明け暮れた。その罪悪感にと末法の世に対する恐れが重なって生まれたものが「悪霊」である。天災や疫病、国の乱れの原因を「たたり」によるものとした。有名なのは菅原道真、讒言のすえ大宰府に配流され失意のうちに世を去るが、都の人々は寄せ来る災禍を道真の祟りと恐れ、神として祀ることでこれを鎮めんとした。そのほかにも仏教界は「鎮護国家」を名目にここぞとばかり寄進を募り寺院建立と勢力の拡大を図った。相次ぐ遷都、造営、戦乱に国は疲弊し、病み、さらなる国の乱れを引き起こした。

鎌倉時代以降、世は貴族から侍の手に移った。

「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、 我こそは…」

名乗りを上げて真っ向から戦うことを潔しとし、自ら太刀を振り、常に死と背中合わせに生きる武士が国の実権を握るようになると人心はようやく悪霊から開放された。また、家、国、民を守るために命をかけた武士たちは相次ぐ戦いに臨む強さを得るために粗食を旨とし体と心の鍛錬を怠らなかった。このような世の中でも百姓衆の間で猿楽や田楽が興りそれが能楽の礎となった事は、この国の底辺にいた人々でさえ食うや食わず以上の暮らしをしていたのを物語る。

そして戦乱は鎮まり、泰平の世が訪れた。執政者のみならず市井の人々までもが歴史の表舞台に立つ時代、江戸時代が幕を開けた。

江戸の中頃、朱子学者の貝原益軒によって体と心を養う術を綴った「養生訓」が著された。これは儒教の精神に基づいてはいるが漢文の書きくだしのような難解なものではない。庶民にもわかり実践できるようにと易しい文体で書かれていた。
「天寿というものは本来長く、人は気を損なうことで自ら命を縮める」
「内敵(欲と感情)、外敵(風・寒・暑・湿)を畏るべし」
「およそ人の楽しむべきこと三あり、善き行いを楽しみ、病なきを楽しみ、長寿を楽しむべし、富貴などはその内にあらず」

欲と感情の虜になって「気」をすり減らすと風・寒・暑・湿という外的要因によって体の機能が破られる。これを病という。「やまいは気から」の本当の意味はこれである。もともと「気」とは中国気孔術でいう血や体液、内分泌の通り道、さらには天地との関係を意味する。今の日本語の「気のせい」「気にするな」などにみられる「気」は漢語外来語を日本流に柔らかく解釈したものであるが、本来の意味を失ったわけではなく我々が見落としてもはや気づかなくなっているだけである。
時間のゆるす方はこの「養生訓」をぜひ読んでいただきたい。原文でもじゅうぶん理解できる傑著である。

幕末、蘭学者たちの間では「強壮」「壮健」「康健」などの言葉が使われだした。そして「健康」が日本語としてはじめて使われたのは高野長英の著した「漢洋内景説」(1836年)、続いて緒方洪庵による「病学通論」(1849年)であるという。洪庵のほうがより積極的にこの語を使用したことが著書から伺われることから「健康」の親は洪庵であろうという見方がある(北澤一利『「健康」の日本史』 平凡社新書)。
緒方洪庵は漢学をも修め、造語にも秀でた才をもっていた。。易経などにも通じていたと想像できる。

一般の日本人に「健康」なるものを広く知らしめたのは洪庵の門人、福沢諭吉であった。英語healthの対訳に「健康」を適用、「学問のすゝめ」をはじめとする著書のなかでたびたび使用し、国民に「健康」を啓蒙した。
しかし健体康心を語原にもつ割にはあくまで生理的、物理的な正常さを説くにとどまり「心」の方はあまりにもおろそかにされた。日本人の体格を西洋人のそれと比較し遅れていると見なし、追いつき追い越さんと強壮を謳い、一方では兵力と労働力を強化するために子供を生み増やす事を奨励した。 

北澤氏は福沢の「健康」に対する理念が富国強兵政策の道具にされ残念だ、と嘆いているが、逆である。たしかに国民を鼓舞して世論を新政府の意向にそぐわせたのは明六社、そして福沢諭吉らであった。が、新政府の政策を西欧列強に追随せしめたのもまた明六社を筆頭とする啓蒙家たちであったことを忘れてはならない。この売国行為の末、先祖の教えを軽んじ、あめつちとの関わりを絶った日本は内側から綻び、病んでいった。

いま、戦力はあまつさえ労働力もあまり必要でなくなった。機械が働くか、輸入する。すると「健康」は政府の手を離れ市場の道具と化した。不要で過剰な医療によって大金が動きそのぶん体は痛めつけられ、抗菌・滅菌商法はさらなる疾患の元となった。そして「健康商品」「健康食品」にすがるが如く投資する。わざわざ「心の健康」なる言い回しをせねばならないのは「健康」がそもそも物質であることを意味している。

「健康」などはまさにカネで売買するものでしかない。国をも売り買いする輩が生み出した言葉にふさわしい。

「健康」は商売になっても養生ビジネスなどは成立しないのだ。養生とともに本当に必要な医療とは、感染症から弱者を守り、難産から母子を救い、怪我人に迅速な手当てを施すことだ。みなが「養生訓」を実践したのでは今の医療の殆んどは要らなくなってしまう。そして医者の多くが路頭に迷うことになる。そんな世の中が来ることを願う。

人ひとりがつつがなく楽しく生きるためには、その入れ物である国が病んでいてはならない。同じく、けがれなき国をつくるにはそのあるじたる一人ひとりが善い生き方をせねばならない。つつがない、けがれない暮らしを喜び、そうあるために努めるのが国をつくることに繋がる。殆どの病は備えを怠り欲に負けた自らが引き起こす。国難もしかり、国民が行いを正すことで救うことができる。

もし、息子たちが医者になりたいなどと言い出したら、
「食べていかれないから よせ」
と諭すつもりである。


 

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