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松下幸之助は1976(昭和51)年に、PHP研究所創設30周年記念事業の一つとして、『私の夢・日本の夢21世紀の日本』と題する一冊の本を著した。それは、松下が“今日の日本にはいろいろな問題が山積しているが、21世紀にはこういう好ましい状態であってほしい。またこういう社会を実現していかなくてはならない”と考えた、いわば理想的な日本の国家・社会の姿を物語風に描いたものである。
この近未来小説は、西暦2010年、つまりまさに本年の初めに、大掛かりな国際世論調査の結果が発表されたという設定で話が始まる。その調査の質問の1項目に、「今日の世界において、もっとも理想的と思われる国はどこか」というものがあり、そこで日本が圧倒的な第1位にランクされたというのである。日本を訪れたある国際視察団一行の足取りを追いながら、その実情はどのようなものなのか、また日本がそうした理想的な国家をつくりあげることができた要因は何かを探るという筋書きである。
PHP研究所では、松下が描いた2010年を迎えたこの機会に、松下の“夢”とはどのようなものだったのかを振り返るとともに、それが現在、どの程度まで実現に近づいているのかを検証することにした。
◇国としての方針・目標を確立せよ◇
本書が著された1970年代半ばの日本は、戦後30年余りが経過し、目覚ましい復興発展を遂げて“経済大国”と称されるまでになっていた。しかしその一方で、高度経済成長の負の面ともいえる公害や過疎過密の問題、物価騰貴、さらには青少年の非行、犯罪の多発といった好ましからぬ現象が社会の各面にみられるようになっていた時代でもあった。
松下幸之助はそうした状況をみて、物の面の急速な成長発展に対して心の面の進歩向上が伴わず、そこに物心のアンバランスが起こって、さまざまな弊害を生み出しているのではないかと憂えていた。その危機感を、「終戦直後にも比すべき一つの大きな危機に立っている」と表現し、「これではいけない、このままでは日本は衰退し、お互いの不幸を招くばかりだ」と述べている。
急速な成長発展を遂げながら、結果として社会の各面に大きな混乱・混迷を生んだ原因の一つに、松下は、戦後、日本が国として明確な方針なり目標をもたなかったことを挙げている。もちろん、“経済を復興させて日本を再建する”という目標は国民共通のものだったが、それはいわば必要に迫られてのものであって、明確な方針に基づいてなされてきたわけではなかった。したがって、国民個々は懸命に努力したとはいうものの、「一面においててんでんバラバラであった」と分析している。
そのようなことから、当時の行き詰まった事態を打開し、安定発展を生み出していくためには、日本の国としての方針なり目標をはっきりともつこと、さらにいうなら、“20年後、30年後の日本をこのような国にしていく”という目標を国民の合意によって定め、その目標に向かって一丸となって努力していくことが不可欠だと考えたのである。
これは、松下自身が自らの事業経営の体験から得た信念であった。松下電器産業(現・パナソニック)グループでは、毎年1月10日にその年の経営方針を発表し、全社員が心を一つにしてそれらの方針実現に力を尽くすのが恒例だが、その結果、目標をおおむねそのとおりに達成してくることができた。また、1932(昭和7)年に、松下は会社の使命、産業人としての使命を達成していくための「250年計画」を掲げて、その実現に努めた。そうしたことによって従業員の自覚も高まり、会社もそれまでに比べて飛躍的に発展することができたのだった。
そして、同様のことは、企業のみならず一国の運営においても大切であり、“これからの日本をどのような方向に進めていくか”ということを国民の合意によって早急に生み出さねばならない、その端緒となるものを著したいという思いが、本書発刊の動機であった。
夢の日本の姿とはいうものの、たんなる荒唐無稽なユートピアとか、まったく実現不可能な空理空論ではなく、考え方ややり方に当を得さえすれば、21世紀を迎えるまでの25年、30年という時日のあいだにそういう好ましい社会を実現できないことはない、と松下自身が考えた姿を描いたものである。
◇「高い生産性」と「共存共栄」◇
では、松下幸之助が描いた「夢の日本」とは、どのような姿なのか。
まず経済についてみると、景気・不景気の大きな波のない、おおむね年率4〜5%で推移する安定した経済成長を続けている。
物価水準も安定し、多くの先進国が物価騰貴に悩まされるなか、輸入物資の急激な騰落が一時的にあることを除けば物価の変動はほとんどない。それは、企業間の過当競争を戒める風潮が強いこと、大企業と中小企業が互いに支え合い調和し合って共存共栄する経済が実現していることによる。
また、多くの事業において国営から民営への移管が進み、経営の合理化、効率化が研究されている。そこに適正な収益が生み出され、社会全体の生産性もきわめて高い。
国際間の経済交流においては、自国の利益のみを追求するのではなく、相手国優先の経済交流を心掛けることで、結果的に自国経済にもプラスの効果が生まれ、国際間でも共存共栄の姿が実現されている。
企業経営については、企業それぞれが社会的責任を自覚し、その責任を全うすべく努力している。企業の社会的責任とはすなわち、(1)企業本来の事業を通じて社会生活の向上と人びとの幸せに貢献すること、(2)事業活動から適正な利益を生み出しいろいろなかたちで国家社会に還元すること、(3)企業の活動の過程が社会と調和したものであること、の三点である。
暴利を戒めつつ、適正利潤を求めて推進される企業経営が、先に述べた堅実で安定した経済成長を可能にしているといえる。
また、経営は自己資本によって行なうのが健全な姿だという考え方が一般化しており、企業は借金のきわめて少ない経営を行なっている。普段から資金や設備、在庫や人員に余裕をもたせた、いわゆる“ダム式経営”を進めることで、急な経済状況の変化にも柔軟に対応できるよう努めていて、これも景気の浮き沈みの少ない経済の大きな要因となっている。
教育の面では、教育権を行政府から特別に切り離して“教育府”を新設するという大改革が行なわれた。大臣の任期が短く、次から次へと交代するために一貫した教育政策を行なえないとか、時の政府の政党色が出ることで教職員が振り回されるといったように、国民の教育が政情によって左右されることを防ぐためである。
独立性の高まった教育府では、知識や技術よりもまず、人間として当然身に付けておかねばならない道義道徳を教える教育を最優先する施策がとられている。幼児期の家庭のしつけを奨励するとともに、義務教育の年限を一年延ばし、人間性を高める教育に力を入れて、自他相愛の精神や、自国の伝統や文化、歴史を尊重する気持ちを育むよう配慮されている。
さらに学歴偏重の傾向が是正され、誰も彼もが高等教育に進むというのではなく、学問に適性をもつ人や、より高等な学問知識を必要とする職業に向く人だけが高等教育に進み、それ以外の多くの人に対しては、各種の職業教育を含めた広い意味での実際教育を行なう体制が整えられている。それによって個々人の適性に合った教育が実現し、それぞれの素質・天分が十二分に発揮され、国民の幸福感も非常に高いものとなっている。
国土と社会については、人口や施設が特定の場所に集中する過密状況や、逆に人が極端に減って経済が成り立たなくなるような過疎状況のない、平均化した開発がなされている。これは、強力に推進されている“国土創成計画”によるところも大きい。
日本は人口の割に国土が狭く、しかも国土の約7割が山岳森林地帯である。国土創成計画とは、その7割の山岳森林地帯のうちの2割を開発し、同時にその土を使って海を埋め立て、有効可住面積を倍増させることで、将来もっとも懸念される問題の一つである食糧問題をはじめ、地価の高騰、住宅不足、公害、交通事故などの諸問題を解決しようという国家的事業である。これは、1970年代に発案され、20世紀末までの二十数年をかけて周到綿密な計画が作成されたうえで、21世紀初頭から約200年をかけての実現をめざしている。
また、この国土創成の過程では、自然破壊的な乱開発を厳に慎んでいる。自然の美観を損なわないようにしながら道路その他の施設を整える、いわば“美と調和の観光開発”によって、あまり広くない国土のなかに多様性に富んだ美しい景観を生み出すことに成功しつつある。
最後に政治についてだが、政情不安に悩む国が多いなか、主義主張を異にする政党同士であっても自党の主張にとらわれず、“日本のため”という共通の目的に向かって対立しつつも調和するという姿が実現している。すべての政党の衆知が活かされ、生産性の高い、安定した政治が推進されていることから、国民の税負担が抑えられ、皆が意欲をもって自らの活動を力強く行ないつつあり、民間も含めた国全体の生産性を高めることに寄与している。
そして自衛と安全の確保についても、国民の意識がきわめて高い。軍国的にではなく、平和裡に安定発展していこうという国民的合意の下に、近代的で質の高い自衛力を備える一方で、徳行国家、平和国家として国としての総合力を高め、世界各国との結びつきを固くすることによって、自国の安全をより盤石なものにしている。
◇日本の歴史と伝統に誇りをもて◇
このように、松下幸之助の描いた2010年の日本は、“あらゆる面で理想的”とはいえないまでも、それに向けて着実に進んでおり、少なくとも世界各国から理想国家として憧れを抱かれる国になっている。
冒頭に述べたように、本書が著された1970年代半ばには、さまざまな社会問題が噴出していた。松下が考えた“理想”にはほど遠い状態から、わずか三十数年でこれだけの変化を可能ならしめるには、国民のあいだに大きな意識変革が不可欠だろう。以前のままの考え方、やり方では、そうした劇的な変化は望めまい。いったいどのような意識をもつことが必要なのか。
松下はそれを、「首相の演説」と題した本書の終章で、日本国首相の口を借りて明らかにしている。そこには、松下が現代日本に、また日本人に欠かすことができないと考えた物の見方と価値観が如実に表現されている。
その第一は、「新しい人間観の確立」である。これは、人間の幸せを考えるにはまず人間が人間自身を知らなくてはならない、という松下の信念の表れである。つまり、適切な人間観に立脚して政治や経済、教育や宗教などいっさいの活動を行なってこそ、それらが真に当を得たものとなり、人間の幸せに結びつくというのである。
では、その「新しい人間観」とは何か。松下は、「人間というものはきわめて偉大な存在である」「万物の王者とも申すべきもの」と述べている。この新しい人間観のもっとも大切なところは、これまでともすれば弱いものと考えられていた人間を、本質的にもっと偉大な存在として認識しようとするところにある。万物の王者であるということは、人間にはその王者たるにふさわしい責務がある、言い換えれば王者としての慈悲の心をもち、衆知を集めて万物と人間自身を適切に活かし合っていかねばならない、と説いている。
第二は、「日本人としての自覚」である。人間には、すべての人に共通の普遍的な本質があると同時に、異なった歴史や気候風土のなかで培われてきた国民性や民族性がある。とりわけ日本は、四面を海に囲まれた島国で、その国土は変化に富み、多彩な季節の移り変わりがあるという特有の気候風土と、建国以来2000年近くの長きにわたり、天皇家がつねに国家国民の精神的中心として発展してきたという歴史をもつ。そうしたなかで培われてきた日本独自の伝統精神を、松下は「和を貴ぶ」「衆知を集める」「主座を保つ」の三つで説明している。
「和を貴ぶ」とは、平和を愛好し調和を大切にする精神である。第二次世界大戦のような2、3の過ちを除けば、日本人は一貫して平和を求めつづけてきたとし、一例として聖徳太子の17条憲法の第1条「和をもって貴しとなす」を挙げる。
「衆知を集める」は、日本が長年にわたって外国のよいもの、すぐれたものを進んで受け入れ、それらを活かすことによって国を発展させ、日本文化をつくりあげてきていることを指す。それは、仏教やキリスト教のような宗教・思想から、漢字のような文字、さらには科学技術や社会制度まで多岐にわたる。もちろん、このように世界の衆知を集める前に、日本人同士で物を考え、事を行なう場合にも、つねに衆知を集めつつ行なうことが大切であるのはいうまでもない。
「主座を保つ」というのは、自主性や主体性をもつことを意味する。日本は外国からいろいろな思想や文化を受け入れるに際しても、それらをたんに鵜呑みにするのではなく、日本人としての立場を失わずに、日本の伝統に即し、日本流に咀嚼して消化吸収してきている。
以上の三つが日本の伝統精神の中心をなすものだとするが、これらに対する日本人自身の理解と認識が低いことに、松下は危機感を抱いていた。というのは、第二次世界大戦後の日本においては、占領政策もあって日本の歴史や伝統が十分に教えられず、そうしたものが国民のあいだから次第に薄れてきていたからである。またさらに進んでは、日本の歴史や伝統を否定的にみるような風潮すら生まれていた。日本人が日本の歴史や伝統に誇りをもち、この国日本に対して深い愛情を抱いて初めて、他国の歴史や伝統を理解・尊重できるようになり、そこから真の国際親善や世界平和が生まれてくる、というのが松下の確固たる信念であった。
そして第三として、松下は「明確な国家目標」を挙げる。第二次世界大戦からの三十余年を、ややもすればその時々の問題を処理することに追われて、長期的なビジョンを描くことなく過ごしてきたために、各界各層の国民活動がバラバラになり、全体として力弱いものになってしまったことへの一大反省である。
先に述べた国土創成事業は、21、22の両世紀にわたる長期のビジョンを立てるとともに、20年後の日本はこうあるべきだ、50年後はこういう姿にしていこうという理想を描き、それを国民共通の目標とすることで力強い発展を可能にする一つのプランであった。一国が好ましい姿で安定した発展を続けていくためには、明確な国家目標、あるいは国家のあるべき未来像をもつことが不可欠である、と松下は考えたのだった。
1970年代半ばに松下幸之助が著した2010年の日本の理想像は、個々にみると、現在では掲げるべき目標としてはふさわしくないものもあるかもしれない。しかし全体としてみれば、多くの現代日本人が憧れうる姿であろうし、参考とし目標とすべき内容を多く含んでいるのは間違いないだろう。現実の2010年を迎えたいま、松下の描いた理想像を議論の取っ掛かりにして、われわれが現在置かれた状況、行なっていることを虚心坦懐に反省してみることもまた、意味のあることではなかろうか。
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