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(回答先: 「イスラエル軍による大虐殺」…まるで「ポチョムキンの階段」や「血の日曜日事件」 投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 13 日 15:22:28)
http://www.ffortune.net/social/history/seiyo-mod/krovavoye-voskresenye.htm
血の日曜日事件(1905)
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これがこれから17年間にわたって続くロシア革命の幕開けでした。
当時のロシア皇帝はニコライ2世です。皇太子時代に日本を訪問していて、
大津事件に遭い負傷。その因縁の日本と1904年2月から1905年9月まで日露
戦争を戦っています。しかしその戦争の最中に起きたこの事件以降の動き
によりロシアはどっちみち戦争継続不能になっていました。
1905年1月22日(革命後の新暦による。当時の暦では1月9日)の日曜日、かね
てからの生活苦に不満を抱いた市民たちが首都ペテルブルグの冬宮前広場に
集まりデモを始めました。市民たちはガボン(*1)の煽動もあり、憲法改正を
も叫ぶようになっていました。政府はこの騒ぎを鎮圧するため軍隊を出動さ
せ、両者の衝突で軍隊が発砲。死傷者3000人以上という大惨事を引き起こし
てしまいます。
これに反発した全国各地の民衆は各地でストライキを断行。ロシアの経済が
マヒ状態に陥ってしまいました。そして6月には戦艦ポチョムキン号の水兵
の反乱まで起き、追いつめられた政府は日露戦争を終結させる一方、十月勅
令を出して、国会の開催と立憲君主制の実現を約束せざるを得なくなります。
この日露戦争終結にあたって日本との賠償問題交渉に赴いたのがヴィッテで
した。彼は巧みな交渉術で、賠償金も大きな領土分割も無しで切り抜けてし
まいます。せっかく勝った日本は朝鮮半島での優先権、旅順・大連の租借権、
長春以南の鉄道の利権、南樺太の領有権を得ただけでした。そしてこのヴィ
ッテが立憲君主制下の初代首相に就任します。
ニコライ2世はこの十月勅令に先立ちドイツ皇帝とビョルケ密約を結んでい
ましたがヴィッテはこれを破棄させて改革を進めていきます。しかしもっと
急進な改革を要求する民衆は12月モスクワで大規模な蜂起を起こします。こ
れにたいして皇帝はブルジョワ勢力と連携してこれを弾圧。やがてヴィッテ
も辞任に追い込まれて、ストルイビンが次の首相に就任しました。
ストルイビンは革命勢力を徹底的に弾圧する恐怖政治を行う一方農地改革を
行って自由農民を多数生まれさせ、ブルジョア国家への道を模索します。し
かし1911年暗殺されてこの道も挫折。
1913年ペルブルグの大ストライキ、1914年から始まった第一次世界大戦、と
混乱と社会不安が同時進行し、やがて1917年の3月革命により帝政は倒れます。
翌年ニコライ2世は家族と共に処刑されてしまいます。
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(*1)ガボンはよく分からない人物である。警察のスパイで、わざと騒動を
大きくしていたともいう。1906年に暗殺される。
血の日曜日事件 (1905年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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血の日曜日事件 (ちのにちようびじけん) とは1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者による皇宮への請願行進に対し、政府当局が強硬に弾圧を加えた事件。
1905年1月9日は日曜日で、請願行進はガポン神父に主導された。ガポンはロシア正教会の司祭であると同時に、国家秘密警察の給与を受ける工作員であったともいわれている。
請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝はコンスタンティノープルの東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた。
行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルグの全労働者18万人中、11万人に及んだと言われ、行進参加者は6万人に達した。
この行進の弾圧による死者の数は不明確である。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた。ガポンによる集会は即日閉鎖され、ガポンは直ちにロシアを離れた。10月に帰国した際、ガポンは社会革命党によって暗殺された。
この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、後にロシア第一革命と呼ばれた全国規模の反政府運動がこの年勃発したとみなされている。この時に始まったロシアの共産主義運動は、1917年のロシア革命(二月革命、十月革命)の原動力に成長してゆく。
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