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(回答先: 相撲・ 桜川村浮島 (相撲の起源が豊穣を祈願する年占であった点である。) 投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 28 日 13:33:00)
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/shis/ss02.html
「神話・伝説」の中に…は見られぬ相撲の起源
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有名なところとしては、「国譲り」の問題を力比べで解決した話がある。
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皇祖天照大神が、葦原中津国を皇孫邇邇芸命に支配させんとし、そこを領有して支配していた大国主命を帰服せしめようとするが、大国主命は肯わず、天照大神は建御雷神を派遣して説得させる。大国主命は帰順の意嚮を示し、息子の言代主神もこれを勧めた。ところが建御名方神は納得しない、そればかりか建御雷神に力比べを挑み、先に手を取らせろと言い放った。こうして互いに手を取り合ったが、建御名方神は手もなく(「若葦を取るが如」(古事記))捻られ投げ捨てられてしまったのである。建御名方神は逃亡するが、建御雷神はこれを追い、「科野国須羽」、つまり信濃国諏訪で遂に建御名方神は降る。建御名方神は諏訪社に祀られ、葦原中津国は邇邇芸命のものとなった。
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「国譲り」が「相撲」によって解決された、と看做されることが多いが、現今の相撲とは懸け離れている。武力による争いを、手を取り合うという表現で譬えたものと見られ、旧勢力(大国主命)が新勢力(「皇孫」邇邇芸命)に征圧される、つまり、天皇支配の形成経過を説話として記したものと考えられている。より有名と思われる、野見宿禰と當麻蹶速の力比べの話も見てみる。
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大和国當麻村に蹶速という「勇み悍き士」(日本書紀)がいて、人々に「四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇して、死生を期はずして、頓に争力せむ」(日本書紀)、つまり、周りには俺と同等の力を持つものなどいまい、どうかして骨のある奴に出会って、力を比べたいものだと公言して憚らなかった。垂仁天皇 7年( 300) 7月 7日、噂が天皇の耳に達し、天皇が「當麻蹶速は無双の力士(優れた力を持った人)だと聞いた。これに太刀打ちできる者はおらぬか」と下問する。或臣が、「出雲の国に勇士がおります。野見宿禰と申します。試しに召し出して當麻蹶速と対戦させましょうか」と応える。その日に野見宿禰を召し、當麻蹶速と戦わせた。向かい合い、互いに足を上げて蹴り合った。そのうちに、野見宿禰が當麻蹶速の肋骨を折り、挙句には腰まで踏み挫き、殺したのであった。天皇は當麻蹶速の所領をすべて野見宿禰に与えた。その地は「腰折田」の名で呼ばれるようになった。野見宿禰は、そのまま天皇に仕えた。
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これも現在見られる相撲で決着したようにはとても見えない。「今日のキックボクシングとプロレスまがい」(「大相撲名力士 100選」和歌森太郎監修・小島貞二著)という風情である。しかし、野見宿禰の子孫という菅原道真が、自著「類聚国史」の相撲条において、この説話を第一に掲げている。しかも、日本書紀における表記(手へんに角+力)は、通常「すまひとらしむ」と訓読されている。遅くとも平安期にはこの説話が相撲の起源として意識されていたということを示している。だが、ちょっと読めば明らかなように、これらの記紀説話からは、現在見られる相撲に至る道程を読み取ることはできそうにない。寧ろ、先にいた民族の最強者が、後に遠方からやってきた民族の強者(異能者・折口信夫のいうマレビト)すなわち(記紀撰進当時の支配者である)天皇の勢力に駆逐され、その征服と支配を正当化するという意図が前面に押し出されている。もう一つ目立つのは、宿禰と蹶速の説話に見える「垂仁天皇 7年 7月 7日」といういかにも作為的な年月日であるが、この点は次項に譲る。
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