2014-03-01 エヴェンキ族ノート 1. ビハル州のガンジス河沿いの町サヒブガンジの南にあるラジマハール丘陵には、北方ドラヴィダ語のひとつマルト語を話す焼畑耕作民マーレル人(パーリア族)が住んでいる。 1963年、若き研究者佐々木高明と山田隆治は彼らの村にテントを張って調査した。 彼らの間にはシャーマニズムがある。 シャーマン(デマノという)は、たとえば翌年の焼畑の場所を決めるプジャ(儀礼)で、ハトを供犠したあと、太鼓を叩いてデマノを神懸りさせる。そして彼が言う神のことばを司祭役のマンジーが聞き取り、村人に伝える(佐々木高明:156f., 195f.)。 デマノは儀礼において重要な役割を果たしているにもかかわらず、村内におけるその地位は高くなく、司祭マンジー(日本式に言えば審神者(さにわ)であろう)よりずっと低い。 マーレル人では太鼓があるようだが、ムンダ人(オーストロアジア語族)など北部・中部インドのシャーマンは、箕で米をふるいながらトランス状態に入るという(エリアーデ:下197)。 箕は、マーレル人の間でも収穫儀礼に供物をいれるのに使われるなどしており、この地域の儀礼に欠かせないようだ。 シャーマニズムは世界中にある宗教形態だが、特にシベリアで発達している。 「シャーマン」の語もツングース系諸民族の間の「シャマン、サマン」に由来する。 それがこの宗教者を表わす一般的な名称になったのは、単にヨーロッパ人の旅行者・研究者がツングースの儀礼に接して記述するのが早く、それが広まったというだけの偶然だが、しかしその名の語源については考えさせられる。 それは仏教の「沙門」(男性修行者・出家者、パーリ語:samaņa、サンスクリット語:śramaņa)に起源するのではないかという説があるのだ(エリアーデ:下328ff.)。 仏教僧を表わすこの語は、中央アジアのトカラ語やソグド語にも入っていた。 ツングースの精霊の名(たとえばブルハン)はモンゴルや満洲族起源であり、モンゴルや満洲族はラマ教からそれを受け入れた。シロコゴロフはツングースのシャーマニズムを「仏教に著彩されたシャーマニズム」だと考える(同:下331)。 エリアーデの結論は、「南方の影響は、実に、トゥングースのシャーマニズムを変化させ、かつ豊かなものとした。−しかしトゥングースのシャーマニズムは仏教の所産ではない」(同:下331)。 「シャマン」=「沙門」起源説には反対もあるが、シロコゴロフとエリアーデが一致して支持するなら、傾聴しなければならない。 シャーマニズムは、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。
トゥゴルコフとエリアーデによってそのやりかたを見よう。 「シャーマンの衣裳の細部は、いろいろなエベンキ人の集団によって異なっている。
十八世紀のウダ=エベンキ人のシャーマン衣裳は、多数の革紐、小さな鐘、小鈴、ビーズ飾り、金属板の飾りが下げられた長い「ハラート」、それに同じく長くて、これも小さい革紐の下がった胸当て、さらにいま一つリスの尾を縫いつけた柔かいかぶりものとその上にかぶるトナカイの角のついた鉄の帽子、の三つからなっていた」(トゥゴルコフ:188)。 その重さは30キロもあった。そして、「木の撥で打ち鳴らす手太鼓に合わせて、シャーマンは、呪文をとなえたり、踊るのであった。 エベンキ人の太鼓は卵型をし、鳥と獣の色つきの図が描かれていた。 木撥のかわりにシャーマンによっては、乾かしたクマの足を使っていた」。 「シャーマンの歌はカムラーニエの際、シャーマンが遠くに旅したことを示している。 彼は急流を渡り、山をよじ登り、密林をくぐりぬけ精霊と決闘を交えなくてはならないのであった。 道中の大部分をシャーマンは鳥になって「飛んでいく」と考えられていた」(同:189)。 「トゥングースのシャーマンは数多く色々な機会に呼ばれて、その能力を発揮する。 病人の魂を探しに行くにしろ、悪霊を追い払うにしろ、彼は病気治療には必要欠くべからざるものであり、かつ魂の導き手である。 彼は犠牲を天界や冥界に持って行く。 その社会全体の精神的平衡をしっかりと維持するのはシャーマンにしかできぬ仕事である。 病気、不幸、不作などが部族を脅かすことがあれば、彼はその原因をつきとめて正常な状態に戻すのである。 トゥングース人は近隣の部族よりも悪霊−冥界の霊、この世にいる霊などおよそ無秩序なるものの主犯人すべて−にかなりの重要性を認めているから、ごく普通の巫儀(病気、死、神々への供犠など)に加え、何かちょっとでも霊と交わったり、霊を抑える必要のある事が起こるたびに、簡単な「小さな巫儀」を頻繁に行なう」(エリアーデ:上304f.)。 1940年代、あるオロチョンの猟師が病気になって生死の境をさまよっていたとき、関烏力彦という女性シャーマンは「ジツゥニン」という儀式を行ない、あの世へ行って病人の霊魂を奪い返した。
シャーマンは「静かに地面に横になり、飲食を摂らず、両眼を閉じて、身体を静止させて、小声で話したり、神歌を歌ったりして、霊魂をあの世へ行かせる」。 「彼女の左右両側には、各一人の男性が伴をして横になり、二神(助手)になる。関烏力彦シャーマンは寝言のように神語を話し、二人の二神を通じて人々に起きたことを告げる。すなわちシャーマンの霊魂があの世へ行く経過を説明する。 「ジツゥニン」の儀式を行なう時には、関烏力彦シャーマンの愛犬は彼女のお伴をして、彼女の頭の前に腹這いになり、静かに微動だにしない。この時、この犬はすでに神犬となっていて、その魂は主人に付き従ってあの世へ行き、シャーマンが鬼神と闘うために協力する。
関烏力彦の長女孟鬧傑が、当時彼女の母親が話すのを聞いたところによると、あの世に行くには、九つの山・九筋の河を乗り越えなければならない、 各道には鬼神が守っていて、通らせない。 ゆえに、あの世へ行くには、知恵と超能力を持っていなければならない。 それがあれば、いろいろな困難と危険を克服することができる。 鬼神に勝つことができて、はじめてあの世へ到達する。 当時、孟弾刻(病人)の霊魂はすでに八つの山を乗り越え、八筋の河を過ぎて、まもなくあの世の入り口に到達しようとしていたので、関烏力彦シャーマンの霊魂は急いで追いつこうとした。 道の関門を過ぎる時に、妖怪・子鬼たちはみな阻むので、関烏力彦シャーマンの神犬はその妖怪・子鬼を咬み殺し、主人のために障碍を除いた。 この時、シャーマンの身体のそばで横になる神犬の身体は左右に揺れ動き、前の爪で力一杯に地を掻き、後ろ足は後方に向かって伸び、まるで戦っているようである。神犬のこのような行動は。オロチョン語で「アンクゥアニン」と呼ばれる。 シャーマンの霊魂があの世に行くとき、シャーマンの側の二神は「ザロチン」と呼ばれる行動を始める。すなわちシャーマンに合わせて、シャーマンの話を復唱する。 シャーマンがいくつかの山を乗り越え、いくつかの河を越えて、どのような鬼神に遭遇し、どのような神が、彼女を危地から脱するのを助けてくれたか、そして神はなにを求めているかなどを、人々に告げる。 二神の話によって、人々は神の要求を知り、恭しく獣の肉・獣の血・酒などのお供え物を捧げる。 長い時間を経て、関烏力彦シャーマンの身体はゆっくり動き始め、震え始めて、神歌を唱える声も大きくなる。 この時、人々は急いで彼女を助けて、彼女に神帽をかぶせると、関烏力彦シャーマンは神がかりになり始めて、その動きはゆっくりしたものからしだいに速くなり、穏やかなものから狂ったように激しくなる。 鼓の音は天地を震え動かし、神服上のリボンはすべて飛び舞う。 神がかりが終わると、神を送る儀式を行ない、シャーマンの魂があの世へ行く儀式のすべてがやっと終わる。 このシャーマンの儀式を経て、孟弾刻の病気はよくなった」(王・関:61ff.)。 さて、ではそのツングースである。
2.
浜田市南郊の山腹にたつ島根県立大学には、高名な言語学者にしてアルタイスト、服部四郎教授旧蔵書の寄贈を受けた「服部四郎ウラル・アルタイ文庫」がある。 ツングースは、エヴェンキとかオロチョンと自称する狩猟採集民をロシア人が呼んだ名前で、トルコ、モンゴルと並ぶアルタイ諸語の3つのグループのひとつをその南方派の満州語グループとともに形成しているから、服部文庫にはもちろんツングースに関する文献が相当数所蔵されている。居住地域の関係上、露文が多い。 服部四郎自身、戦前北満ハイラルに言語調査のため長期滞在していたとき、彼らを調査したことがある。 「昭和九年ホロンバイルに滞在していた頃、私は三河地方奥の興安嶺にヤクート人が居ると云ふことを時々耳にした」。 「ヤクート」に実際会った話も日本人から聞いた。 ヤクート人はテュルク系の牛馬飼養民で、彼らの住むサハ自治共和国は、首都ヤクーツクを中心にスタノヴォイ山脈の北から北極海まで広がっており、その境界は満州国の国境から300キロ離れている。 不思議に思ったのは、「道案内に連れて行つたオロチョンがヤクートと自由に話をすると云ふ点であつた。何となればヤクート語は土耳古系の言語であり、オロチョン族は通古斯系だから、彼等が母語で話し合つたのなら通じない筈だ。 而もロシヤ語に堪能な赤木氏には全然わからない言葉だつたと云ふからロシヤ語ではあり得ない。 オロチョンには蒙古語の多少出来るものがあるから蒙古語で会話したのだらうか? この点が甚だ疑問で腑に落ちなかつたのだが、… 蘇聯領の余り遠からぬ所にヤクート自治共和国もあるのだから満州国領にヤクートが居ることも可能性のない事ではないと、ヤクートの存在自体は疑はないで居た。日本へ帰るまでにヤクート語の話されるのを一度でも聴いて見たいものだなあなどと思つてゐたのである」(服部:1)。 そうしているうち、三河地方へ自動車旅行する機会を得た。 その地方の中心ナイラムトへ行くと、「全く偶然にも明日ヤクート人が山から出て来て(それは一年に数へる程しかない事だが)、こゝから数里離れたドゥオーワヤと云ふ部落で物々交換をする。 日本側からはM、H両氏が行かれる事になつてゐるから一緒に行つて見られては如何と云はれるので、同行させて頂く事に決定した」(同:.2)。 そこで会った「ヤクート人」は35、6歳の青年だった。 「私は尋ねた。
「あんたは蒙古語が出来ますか?」 之は蒙古語だった。… するとこのヤクートは当惑の面持でM氏の方を眺めるのである。 今度はロシヤ語で同じ質問を発する。そこで、 「いや全然出来ません」
「オロチョンと会話が出来るか?」 「出来ます」 「彼等とは何語で話すか?」 「ヤクート語で話します」 「オロチョンはヤクート語が出来るか?」 「彼等の言葉がヤクート語に似てゐます」 こゝに至つて私は当惑した。ヤクート語とオロチョン語が似て居る?」(同:4)
彼の住むテントへ行ってみることにした。 「馴鹿や老人達はドゥオーワヤの上流三露里の地点に待つてゐると云ふ。 村には馴鹿が来られないためと、ヤクート自身にも村の空気が悪くて気持が悪いからだと。 村と云つても二十戸位のものであつた!」(同:4) 氏はさっそく言語調査にとりかかった。
「ロシヤ語を媒介として、数詞から始めて思付く単語を筆記して行つた。所が最初に調べた数詞によつて、彼等の言語が計らずも通古斯系のものなることが明かとなつたが、調査を進めれば進める程それは明瞭となつた。私は屡ゝ鉛筆を投げて膝を打つた。 ヤクート語ではないことが充分にわかつたので、嬉しさの余りすぐその場で之を同行の人々に報告したのであるが、期待しない結果を惹起した。M氏とH氏が之に対して非常に不愉快な様子なのである。 そして彼等が「ヤクート」であることを再三言明される。領事さんは「之は大発見だ」と小声で云はれたきり、表向きには味方して下さらない。私は妙な孤独の立場に置かれた。そして凡ての人が真理を愛し得るのではない事を身にしみて感じた。 両氏の中のどちらかの方が、彼等は近頃ロシヤ領より移住して来たものですよと私に云はれる許りでなく、私の眼前でヤクート人にまで叱る様な口調でその意見を押し附けて居られるのを私は悲しげに眺めてゐた。 併し私は機会を見て、この「ヤクート人」と次の会話をするのに成功した。 年上の男に対し「自分の言葉で自分自身をどう云ふか?」 答「エヴェンキ!」 男二人に対し「何処で生れたか?」 答(二人とも)「此処」 男二人に対し「老婆は?」 答「此処で生れた(山奥を指しつゝ)。吾々はずつと前から此処に住んでゐる。」 若い男に対し「自分等で自身をヤクートと云ふか?」 答「云はない。ロシヤ人がさう云ふだけだ。」 私のノートには右の様に筆記してある。 彼等が自分自身をヤクートと云ふのは、さう云へば外国人にはわかり易いと思つてゐるからなのだ」(同:6f..)。 「五族協和」の満州国に、赤いソ連から逃れてきた珍しいヤクート人まで住んでいることが特務機関員にはあらまほしかったのであろうが、真実はどなれば変わるものではない(あるいは当時の日本軍ではどなれば変わったのかもしれない)。
ロシアからやってきたこと自体はそのとおりだ。 しかしロシア革命後に来たのではなく(革命後満州に流れ込んできたいわゆる白系露人と違って。 なおこの調査行の舞台三河地方は白系露人・コサックのコロニーである)、それ以前である。ロシア語もでき、ロシア正教を受け入れてもいた。ただヤクートではなかっただけで。 ちなみに「ヤクート」の名は、隣人であるツングース(エヴェンキ)が彼らを呼んでいた「ヤコ」「ヨコ」からロシア人が呼ぶようになった名前で、自称はサハである。 なお、ヤクートは同じ時期の北サハリンにはいた。 エヴェンキとともに、毛皮商人としてやってきたのである(シロコゴロフ1941:179)。 「ヤクート」でなくとも、「オロチョン」がすでに十分にエキゾチックであった。 「オロチョン」の名はなかなかに人口に膾炙してたものの、その実態については一般には知られていなかった。 たとえば、仏教学者長尾雅人は戦中の昭和18年内蒙古のラマ教寺院を調査したが、そのときの旅の汽車でとなりあわせた北満駐屯の日本兵からいろいろおもしろい話を聞いたうちに、「オロチョンは人間を喰う食人種だ」という風説を耳にしている(長尾:19)。 「エヴェンキ」は彼らの自称で、それが民族呼称になった。漢字では「鄂温克」。
中国で「鄂倫春(オロチョン)」と呼ばれている人たち以外はみなこれが自称だ。 今は遊牧民、農牧民となっているソロンもそう自称する。 シロコゴロフによれば、語根「エヴェ」に動作の主体を表わす接尾辞「ンキ」がついた形だという(シロコゴロフ1941:97)。 「オロチョン」は「トナカイ(オロン)を飼う人」、または「山頂に住む人」の意だとされるが、大興安嶺・小興安嶺に住む中国の「鄂倫春」は、トナカイを飼わず、馬を飼う。彼らも昔はトナカイを飼っていたと伝える。 自称でもあり、他民族がそう呼ぶ他称でもあって、現在彼らが独占する形になっている「オロチョン」の名は、かつてはいま別の名で呼ばれている集団にも他称としてつけられていた。 トナカイ・エヴェンキもそうだし、エヴェンキとは同系別族のサハリンに住むウイルタ(トナカイ飼養民、旧称オロッコ)も、ロシア人によって「オロチョン」と呼ばれていた。 網走の「オロチョンの火祭り」は、戦後南樺太がソ連領になったとき、ウイルタの一部も日本人やアイヌとともに北海道に移住したのだが、その彼らの歌舞を見せる催しとして始まったものである。 「ツングース」はロシア人がエヴェンキを言う名前で、ヤクート人がそう呼んでいたのをロシア人が取り入れたもので、つまり「ヤクート」と逆の関係だ。 以下「ツングース」と言うときは、狭義にエヴェンキのことを指す場合と、広義にツングース諸語を話す民族一般を指す場合がある。 このオロチョン(とモンゴル)は日本の民族学者を鍛える場であった。 彼らを調査した人々は、のちに日本民族学のビッグネームとなった人たちばかりである。
鳥居竜蔵(オロチョン狩猟民には遭遇しなかったが、ソロンや遊牧エヴェンキの調査はしている)、秋葉隆、泉精一、京大大興安嶺探検隊の今西錦司・梅棹忠夫・川喜多二郎・吉良竜夫たち、それに服部四郎も。モンゴルまで広げれば、江上波夫や石田英一郎などの名前がそれに加わる。 騎馬民族征服王朝説や照葉樹林説、霊長類学や文明の生態史観など、戦後の学界をにぎわせた諸学説の源に海拉爾と張家口(西北研究所)がある、という図だ。 (不思議なことに、身近な異族のアイヌはそうではない。 沖縄については、民俗学のほうを大いに鍛えた。柳田国男の「沖縄発見」以前と以後で日本民俗学はさまがわりした。) 3.
エヴェンキとはどんな人たちか。トゥゴルコフの書いた「身上書」を見てみよう。 「名称 ツングース。現称エベンキ。 ヤクート人など隣接地域の住民は、かれらをツングースとよんでいた。 現在、かれらが自称する「エベンキ人」が公式名称として用いられている。 人口 2万5000人。
居住面積
約700万平方キロメートル(日本の面積の20倍近い)シベリアの全面積の約7割を占める。 居住域の境界 西部はエニセイ川左岸、東部はオホーツク海沿岸およびサハリン、北部は北極圏、南部はアムール川ないしモンゴリアと中国東北部の中部。 言語 エベンキ語。アルタイ語系のツングース・満州語に属す。 この言語のほかに各地方でロシア語・ブリヤート語・ヤクート語その他の言語も使用している。 生業
本来は、狩猟・トナカイ飼養。 若干の地区では、馬・ラクダ・牛・羊の飼養。 副業は、漁労・採集・海獣狩猟。現在はさらに、野菜栽培・畜産業(乳牛・肉牛飼育など) 生活様式 トナカイ飼養者と馬飼養者は遊牧生活。 トナカイを飼わない漁労者は定住生活。 両者の中間に属する者は、半定住。 現在、エベンキ人の大部分は定住生活に移行している。 世界の他の民族から区別する最も大きな特徴 少数の人々で他に例を見ない広い領域を占めていること」(トゥゴルコフ:6)。 これを「文化人類学事典」(弘文堂、1994)で補えば、 「エヴェンキの生業の中では狩猟がすべての基礎をなしている。 彼らの狩猟対象は、食肉用として野生トナカイ、オオシカ、ノロ、クマなどがあり、毛皮用として、リス、テン、キツネなどがある。 現在は銃が使われるがその普及前は弓矢・槍が使われた。 各種わな類も広く使われる。 漁撈と海獣狩猟は副次的であるが、河岸や海岸の住民の間では重要であった。 エヴェンキのトナカイは主に輸送用であり、飼育頭数も概して少ない(多くても1家族当たり100頭内外)。荷駄用・騎乗用に使われることが多いが、北部の森林ツンドラ地帯の住民の間では橇も使われる。 南部では牛馬の牧畜の影響で搾乳も行われる。 エヴェンキの物質文化は木材と皮革を主体としている。 住居は毛皮または白樺の樹皮で覆った円錐形のテントが広く使われ、衣類の多くは毛皮を縫い合わせて作られる。 布は中国人、モンゴル人、ロシア人などとの交易でもたらされた。 ナイフや鏃、槍の穂先となる金属製品も多くは交易でもたらされたが、かれらも鍛冶技術を持ち。作り直すこともした。 土器はなく、容器の多くは木や木の皮でつくられた。 かれらの社会は多くの父系の氏族に分かれ、氏族外婚が厳しく守られていたが、狩猟組織はそれに関係なく結成されることが多く、獲物を近隣の者に分配するという慣習も励行された。
宗教ではシャマニズムが有名で、またよく発達しており、少数の大シャマンを頂点とする階層があり、儀式用の衣装も多くの装飾がほどこされていた。
しかし、他方でクマ、オオカミ、フクロウ、カラスなどの動物や自然の主への崇拝・儀礼もあり、これらの中にはシャマニズムとのつながりの薄いものもあった。 ロシア人との接触で多くの者がキリスト教化したが、革命後の宗教活動はそのほとんどが衰退した」(佐々木史郎)。 シベリアには17世紀におよそ36000人ほどいたと推定されている(フォーシス:66)。
1979年の統計では、ソ連に約27300人、1978年に中国に約13000人とされているが、ただし後述するようにその8割は同族と言うにはやや問題のあるソロン族で、同族ながら別立てのオロチョンは約3200人を合わせても減った勘定になる。 とにかく絶対数において非常に少ない。居住地域の広大さと、それに反比例する人口の少なさ。 北方の苛烈な気候はそもそも人間の生存に適していない。 そして近代以前、気候や生態的条件はこの地域に農耕や牧畜(トナカイ以外の)を許さなかった(ヤクート人が牛馬の飼育をしているのは例外である)。 人は狩猟採集によってしか生きることはできず、その狩猟は、農耕はもちろん、牧畜に比べても人口を養う力が非常に弱いのである。 エヴェンキの狩人をイメージしたければ、アルセーニエフの「デルスー・ウザーラ」を見ればいい。
黒沢明が映画化したことでも有名なあの探検記の主人公デルスーは、アルセーニエフが沿海州のシホテ・アリン山地を探検したときに同行したゴリド(ナナイ)族の狩人で、エヴェンキではないが同じツングース系の民族である。 彼らは痕跡解読の達人である。
「デルスーは黙って歩き、冷静にすべてを眺めていた。 私はすっかり風景に感心していたが、彼は人間の手先のとどく高さのところで折られている小枝を観察し、その小枝の曲げられている方向によって、彼はその人間の歩いていった方向を知った、また折られた部分の鮮度によって、その行なわれた時間を判定したり、その人間の履物などを推定したりしていた。 何か私にわからないことがあって、疑問を表明すると、彼は私に言ったものだ。 「なんだ、あんた、何年も山あるき、わからないか」 私にはわからないことが、彼には単純明快だった。 ときどき、私が何か見つけようと、いかに希望しても、なんにも見つけなかったところに、彼は何ものかの足あとを見てとった。 で、彼は老いたるアカシカの雌と一歳仔がそこを通ったことを見てとった。 彼らはシモツケソウの葉をむしりとって、それから何かにおどろいたらしく、大急ぎで逃げていったのだった」(アルセーニエフ:上246)。 「翌日の午前、じっさい、デルスーはわれわれに追いついた。
彼はわれわれ一行に起こったことを、足跡によってよく知っていた。 われわれが休息した場所を、彼はみていた。 また、われわれが一カ所に長く立っていたことを知っていた。 それはちょうど小路がきれた場所だった。 そこでは私がほうぼうへ路さがしに人をやったことを、彼はみていた。 ここでは兵士の一人が靴をかえた。また地上にちらばっている血のついたぼろ切れや綿屑から、誰かが足に怪我をした−などを彼はみてとっていた。 私は彼の観察能力になれていたが、兵士らにはそれは意外な新発見だった。 彼らはおどろき、めずらしそうにゴリドに目を見はっていた」(同:下39)。 「私がなんらかの明白な足跡を見逃したりすると、デルスーは私をからかって、頭をふり、こう言った。
「フム! 子供と同じ。子供みたいに歩き、頭をふる。 目あり、何も見えない。わからない。 まったく、こんな人、町に住む。シカさがさなくてもいい。 食べたいもの、買う。ひとりで山に生きる、できない。−すぐ死んでしまう」 そう、彼の言ったとおりだ。数千の危険が密林では単独旅行者を待ちかまえている。
そして、いろんな足跡をときあかすことのできる者だけが、この闘争から勝利者として出ていくことができるのである」(同:上247)。 このような観察の習性は、伝達に使うこともできる。 「文字はもたなかったが、エベンキ人は一定の記号の体系を作りあげた。 たとえば、そこの木の小枝に一かたまりのコケが置いてあり、そのコケの上に細い若木の先端が置いてあると、エベンキ人ならだれでも、ここの若木の先端の指す方向に、狩で倒した獲物を隠してあるということを悟るのだ。 また、タイガの中で家畜が行方不明になったときなど、その動物の頭をシラカバの皮に描いて捜索を乞うサインとすることもあるという。… 小枝に刻み目を入れて自分たちの行動を伝えることもある。 たとえば、ハコヤナギの樹皮に小枝が斜にはめ込まれ、その先端が上を向いていたとする。 それは、ここに、少し前まで人がいたのだが、ずっと遠くへいってしまったことを示している。 小枝の刻み目が五つなら五「ヌルギー」。 一ヌルギーというのはトナカイに乗って一日に移動できる距離だから、このサインを残した人たちは、ここから五日の道のりのことろに行ったのだ」(トゥゴルコフ:68f)。 京大の大興安嶺探検隊によると、手紙を送ることもできたという。
「オロチョン道が出あうところにはよく、シラカンバの皮にかきつけたロシア文字の手紙が、木の枝にはさんで地面につき立ててあった。 これらの手紙は、通りすがりの者の手によって、つぎからつぎへと場所をうつされ、ついに目的地まではこばれるしくみになっているのである。 たとえはてしない樹海のなかに分散していても、かれらのあいだには、いつでもよく連絡がたもたれ、いま誰がどの地点にいるかということを、すべての者がたがいによく知りあっており、ほかの家族の移動の道すじも、手にとるようにおぼえていた」(今西:383f.)。 エヴェンキにはデルスーのような狩りの名人がたくさんいた。
リスのような毛皮獣は、毛皮に傷がつくと値が下がる。 1930年代に「ある狩人のとった300枚1束のリスの毛皮は、どのリスも頭を撃たれていた」(トゥゴルコフ:30)。 永田珍馨は「1キロさきの雑草の動きで動物の種類をみきわめ、20メートルほどもある高い赤松の梢で、実を求めて走り回るリスの頭だけをねらい」、確実にしとめる彼らの腕前に驚嘆している(永田:78)。 彼らの間には、撃ち取った獲物の肉は、狩猟に参加した者もしなかった者も含め、同じ部落(キャンプ)の人間みなで分け合うという不文律がある。 「翌朝、デルスーははやばやと帰ってきて、シカをとったから、その肉を野営地へ運んでくるのに、馬をかしてくれ、と私に頼んだ。…
午前十時頃、デルスーは肉を運んできた。 彼はそれを三等分して、一つを兵士らに、一つを旧信徒に、一つを近所の小屋に住む中国人たちに分配した。兵士らがそれに抗議した。 「いかん」デルスーが反撥した。 「わしら、そうできん。みんなにやるんだ。ひとりでみんなとる、わるい」 この原始共産観念が、彼のあらゆる行為に、いつも一筋の赤い線のように通っていた。
自分のとってきた獲物を、彼は民族を問わず、隣人みなに等分に与え、自分はそれと同じ分け前をとったのである」(アルセーニエフ:下16f.)。 社会は安全保障の体系である。
北の狩猟民は死と隣り合わせに生きている。 冬の山の中の狩りは、農耕とは比べものにならぬほど危険に満ちている。 不猟が重なれば、荒天が続けば、死がすぐそばに歩み寄る。 そんな彼らにとって、狩りに参加しなかった集落成員にも平等に肉を分配するという形での相互扶助は生存のために不可欠で、この習慣(ニマトという)を続けているうちに血肉と化したのであろう。 生きんがためという背景事情を差し引いても、利己的なふるまいの氾濫にうんざりしているわれわれには実に魅力的だ。 「森のシャーロック・ホームズ」と呼びたくなる痕跡の解読能力とともに。 チュームと呼ばれる彼らの天幕は、木を円錐形に組み、その上に白樺の樹皮や毛皮をかぶせたもので、いちばん上は煙出しのために空けられていた。
移動のときは樹皮や毛皮だけ持っていき、木組みはその場に残しておく。 あとから来たほかの者が使ってもいい。 京大大興安嶺探検隊の支隊は、途中から持参のテントをやめて、若木を切ってこのオロチョン式チュームをたてることにした。
「この案は大成功だった。なかに陣取ってみると、感じはひろびろとして、立つこともできた。荷物はすべて手のとどくところにあり、われわれ五人が、まるでオロチョン一家のようにくつろいでも、さしてきゅうくつではなかった。… キャンプのあとには。オロチョンの移動したあとのような、しかしそれよりはすこし手ぎわのわるい円錐形の骨ぐみが、つぎからつぎへとのこされていった。 ほんもののオロチョンたちは、いつかはこの骨ぐみをみて、眼をまるくしていぶかしがることだろうと、われわれは腹をかかえた」(今西:228)。 なに、眼を丸くしはしないだろう。北満のロシア人も干草刈りの出作り小屋としてエヴェンキ式の天幕を立てていた(Lindgren1930:528)。 土地のことは土地の者に学べ。 シベリアのロシア人は寒地適応度の高いツングース式の長靴や手袋などを取り入れたし、焚火のしかたもエヴェンキにならった。 「薪を火の上に積むのではなく、扇状に横に並べる方法で、ずっと燃料を節約して強い火力を得ている。… このような焚火の横に寝ていて、冬に凍死したという話を私は聞いたことがない」(トゥゴルコフ:105)。 貯蔵庫を作っておくこともある。
「ツングースの全ての群団に於いて、食料や衣服や何らかの器具が必要なものは、何人でも貯蔵庫が見つかり次第その品を取り出すことが許されている」(シロコゴロフ1941:575)。 「通例その家族以外の者が貯蔵庫から物を取出せば、これを旧に返すことになっていたが、夏季に悪くなることのある肉だけは例外である」(同:576)。 これも相互扶助の一形態である。 容器や袋は白樺の樹皮や獣皮で作る。これならば軽いし、落としても割れない。 自給もでき、重くて壊れやすい土器や陶器とちがい、移動生活に適合している。
食事の際の慣習として、 「普通の食事の時は、食物の一部を天に向かってはね上げ、地に落とし、火に投入してから、馬神像につけてこれを拝むのであるが、出猟にあたっては別に二椀を設けて一を馬神に、一を家神に供えて大猟を祈ってから食事する。 また出猟中は食事前必ず山神にその一部を捧げる意味で地に捨てるのである」(泉:22)。 酒を飲むときも同様である。
長老格の者が「酒を火にそそぎ、なにやらとなえると、ほかの者もこれにつづき、さらに茶碗の酒を指先で四方にはじき神々にささげる」(永田:109)。 オロチョンは酒ばかりでなくタバコも好み、人が出会ったときのあいさつにもタバコが用いられる。 「客ある時はまず客の煙管をもらって、煙草をつめて火を点じて進め、次に客は家族の煙管を一つ一つ受け取ってこれに自分の煙草をつめて火を点じて返す」(泉:22)。 人の好きなものは神も好みたまうべしとてか、山の中の神霊にもタバコを供える。 たとえば山神パイナチアの祭祀として、 「一本の高い老樹を選び出し、その樹皮を削り、そこに人の顔形を描き入れて、紅布でこれを覆う。 狩人がそこを通り過ぎるときに、煙草に火を点けて捧げ、酒を供え、叩頭し、獲物を山神へと捧げる。 そして馬の尻尾、あるいはたてがみの毛を数本ほど切ってその付近の木に縛り付ける。 遠くに猟へ出かける時には必ずこれを行なう」(王・関:172)。 名前のタブーについて、(エヴェンキの1氏族である)マネグル族を調査したマークはこう書いている。
彼らは「成人となった同族の名をいかなることがあっても人に告げることがない。 もし誰かがマネグル族に向ってこれをたずねることがあれば、「お前さんのたずねるのはこれこれの人物の息子か父か親戚だ」と答える。 それ以上に正確な回答をうけることは絶対にできない。 この奇異な習慣は年少者にたいしては適用されない。 年少者の名前についてならばどのマネグル族にたずねても即座に答えるのである。 マグネル族が自分の名を尋ねられた場合には沈黙して答えないか、全然別の名をもって答えるのが普通である」(マーク:145)。 トナカイについては、「異境雑話」にある中川五郎治の観察を引こう。 エトロフ島番所につとめていた1807年にロシア人に捕えられ、オホーツクに連れて行かれた五郎治は、そこを逃亡、ヤクーツクを経てイルクーツクへ至り、1812年に松前に帰着した。 彼がたどった道は北方ツングースのただ中であった。彼はツングースを「トングシ」と呼んでいる。 「鹿(オレニ、一名サハタ)、毛色種々にして白きもの斑なるもの、灰色のものもあり、腹多く白し、トングシ、之に乗るには左足をオレニの尻の上へ掛け、鞍壺へ飛乗る也。予等乗るに、トングシの膝を台にし、夫江足を掛け乗馬の如く鞍へ力を入れば、鞍翻(ひっくりかえ)る也。 トングシ、鹿に乗るには右よりす。魯西亜にて馬に乗るには皆左方よりす。 故に右よりするものはトングシ也とて大いに笑ふ。 鹿は一日、エツテ、宿に着すれば皆放ち遣る也。 其時、鹿、雪中に鼻を差入、嗅ぐ、而してモーハという苔の在所を自ら掘て之を喰ふ。飼葉の世話する事もなき也」(加藤1986:147f.)。 「夏は青草を喰ふ。人の小便を至て好む。若し人、途中にて尿すれば、此鹿、荷を駄し人を載せながら争ひ集って嘗む。…
(トナカイは)腹の上には乗らず、前足の上に小き鞍体の物を置き、皮の腹帯一筋かけて乗る也。鞍持ち至て悪しく、初て乗時には隙なく落つる故、左手に綱を取り、右手に雪杖を持て乗る也」(同:148)。 乳搾りもするけれど、牛などと違いそれによって生活を立てるわけではない。 トナカイは運搬手段・交通手段であった。 そういうものとしては馬がいるが、草原の動物である馬は牧草のないタイガの中では生きられない。 体格も積載量も馬には劣るが、トナカイ苔の生えているツンドラ地帯および凍土層の上の樹海の中では、トナカイこそよい交通手段なのである。 彼らの足のつくりも森の中を歩くのに適していて、林中を行くなら馬よりずっと速い。 ただし、オロチョン族はトナカイを飼わず、馬を飼う。 トナカイ苔の南限に近い北満ではトナカイ飼養がむずかしく、逆に草原には近いので、馬飼養に移ったのだろう。 トナカイを飼うエヴェンキを漢人は「使鹿部」、馬を飼うオロチョンを「使馬部」と呼んだ(「使犬部」もあり、これは犬橇を用いるアムール川下流のナナイなどを指す)。 狩猟は男の仕事で、トナカイの世話は女の仕事であった。
エヴェンキ族の間では男女の分業が厳格に守られていた。 言うまでもない女の仕事の第一はお産であるが、それは産屋でする。 家族の幕居のそばに小さな幕居を立てて、そこで行なうのだ。 潔めが終わるまでそこにとどまる。 育児・炊事も女性の肩にかかる。 男女の分業は、馬オロチョンの場合「男の仕事は出猟、獲物の処理、交易、薪割り等であり、女の仕事は子馬の飼育、放牧馬群の監視、馬乳搾り、馬乳加工品製造、白樺材の器具、衣服等の製作等である」(泉:28)。 トナカイ飼養民の場合馬とトナカイがいれかわる。 皮を剥ぐのは男の仕事で、なめすのは女の仕事になる。 シャーマンには男も女もいる。 狩りは山野を跋渉し、冬の森の中に野宿したり、2日も3日も待ち伏せをしたりと、体力も集中力も、知識も技能も必要なたいへんな仕事であるが、狩りに出ないときのエヴェンキの男はキャンプで怠惰にのらくらしている。 キャンプでの毎日の仕事はほとんど女の肩にかかっている。 仕事の男女分業が厳格なためだが、しかしいつも忙しいわけではなく、「ツングース族の間では、五時頃にはどこかの家々(極く普通のツングース族の幕舎)に、数人の人々が必ず集まっている。 其所では彼女等に恰も欧羅巴の交際社会に於けるように、お茶を飲み、そしてあらゆる種類の事について話をしている。 それらの風習、仕方、そして特に彼等が流行や風聞などに払っている関心は、欧羅巴人のそれらに類似していることは、真に驚くほどである。 或る有名な旅行家はツングース族を"La noblesse de la Sibérie"(シベリアの貴族)と呼んでいるほどである」(シロコゴロフ1967:222)。 食用や販売用の果物を採集するのも女性の仕事である。
それをさがしに森へ入ったとき、「婦人達は往々、果物や漿果を極めて好む熊に遭うことがある。しかし実際上からいえば、熊は決して婦人達を襲うことがなく、時としてはこれに一顧も与えず、これと並んで漿果を食べつゞけることもある。 もし熊が襲って来れば、婦人達は極めて敏捷に防ぐのである」(シロコゴロフ1941:518)。 彼らの生活を支える狩りの獲物は主に鹿であるが、熊狩りも行なった。 しかし熊には畏敬の念をもっていた。
熊は「父の兄を意味する「アマハ」と尊称された」(大塚:114)。 熊狩りは冬に行なう。 熊の穴に棒を突っ込んで目覚めさせ、熊が怒って穴から頭を出したところを鉄砲で撃つ。 「狩人は獣の中で、クマを獲ったときだけ「ボタール」という。これは、弾が当たったという意味であるが、クマを撃ち斃したことを、直接あらわすことばではない」(同:216)。 熊の肉で「スウヴァー」という特別な粥が作られるが、それを食べはじめる前に、「ひとりひとりが「カァー、カァー、カァー」と、カラスの鳴き声をまねるのが決まりである。その理由をたずねると、だれもが分からないという。 オルグヤより北方のモー河で育ったひとりの狩人は、「俺が食うんじゃないぞ、ロシア人が食うんだぞ」と言ってから食べるそうだ」(同:217)。 「格別な霊力をもつ森の支配者であるクマの骨は、宴のあと大切に残さず集められ、ほかの獣のばあいにはなされない、霊送りの儀礼が手厚く執り行なわれるのである。
頭骨・頸骨・脊椎骨・肋骨・四肢骨など、おもだった骨はすべて骨格どおりに順序だてて、ていねいに細いヤナギの枝で苞状につつまれ、他人の眼につきにくい森に持って行く。/そこに二本の柱を立てて、人の高さほどの位置に横木をわたす。この横木に骨の包みを縛りつけるが、頭骨は陽がのぼる東の方に向いていなければいけない。 これによって、クマの霊は森に還ってゆき、そこで「骨からの再生」をはたして、ふたたび人間たちの前に毛皮の衣服を着てあらわれると信じられていた」(同:217f.)。 アイヌの熊送りにも連なる北方狩猟民の熊崇拝のあらわれである。 狩猟民である彼らは、恵みとして獲物を与えてくれる「森の主」「獣の主」を信じていて、それに基づく儀礼もあった。
「昔エヴェンキ族はシンケーレーヴーン(毛皮すなわち獲物を追う)という狩猟儀礼を全氏族的規模でこぞって催し、それを氏族の聖所、ブガドという聖なる岩もしくは樹木の傍らで行なった、狩人たちは毛皮外套に身を包んでトナカイやオオシカの群をあらわし、動物ダンスをすることによって、群を氏族の猟区に誘い込む。彼らは動物を仕とめたしぐさをして、この無言劇を終える。 そのほか小さな動物の木偶を配して、密林全体の光景をミニチュアで再現し、集団狩猟のおきてを例示する。 シャマンもまたこの儀礼的な狩猟準備に参加する彼は神おろしの儀を行なって聖なる氏族岩ブガドの下に住む動物の女主人のところに脱魂状態のうちに到達する。 ここでシャマンは、この動物の女主人が巨大な牝オオシカあるいは牝の野生トナカイの姿をして大群の中にいるのに気がつく。その許しを得て、シャマンは自分の氏族の猟区につれて来た群から動物を捕える。 類話によっては、この女主人を老婆としており、エスキモーのセドナと同様、シャマンはどの皮シャツにいるしらみをとってやらなければならない。 そのすきにシャマンは彼女の脇の小さな革袋から、密林獣の毛を数本盗んで、自分の氏族の猟区にふりまくと、たちまち野獣に変わる」(ポドカーメンナヤ・ツングースカ川地方。フリートリッヒ:121)。 このような無言劇や踊りを伴う狩猟儀礼は、シベリアの、たとえばレナ川上流シシキノの岸壁画を思い起こさせる。
そこには石器時代から17・8世紀まで、その時代のその地の住人によって絵が描きつがれてきた。 その中には動物の絵、なかんずく狩りの主要な獲物であった鹿の絵が多い(オクラードニコフ)。 その中のどれかは彼らの祖先によって描かれたかもしれない。絵に描くことも呪術のひとつであっただろう。 絵に描けば、対象を自分の力の下におくことができる。 なお、エヴェンキの踊りは輪踊りである。 1843年にミッデンドルフが見たオホーツク海沿岸のツゴール川のエヴェンキの踊りは、熱狂的なものだった。 「最初小さな輪をつくる。その輪は、男女が交互にならび、それには非常に年とった老人も入っている。… 手をつなぎ側方へ足を移動するだけの単調な踊りがはじまった。 ほどなく、しかし輪の踊りは活気をおびてきて、とんだりはねたりする動作になり、全身がゆれ、顔はほてり、叫び声は歓喜にみち、互いに相手の声を圧倒しようと大声をはり上げた。 毛皮の半外套(毛皮上着)を脱ぎすて、腰当て(すねあて)も脱ぎすてた。 最後は狂気が一同をとりこにした。何人かのものは、なおもそれにあらがおうとしたが、もうすでにその中の一人の首がかすかに拍子をあわせて、右へ左へと揺れはじめる。と突然、強固な堰が破れたかのごとく、見物人が踊りの輪の中に突入する。踊りの動作はまったくばらばらになり、騒然となって、歌は絶叫と化す。 フルヤー、フルヤー−フーゴイ、フーゴイ−、ヒョーギー。ヒョーギー−フムゴイ・フムゴイ−ヘーカ・ヘーカ−アハンデー・アハンデー−ヘールガ・ヘールガ。 ついに踊りの輪はつかれ切って乱れ、足はいうことをきかず、声もかれはてる」(トゥゴルコフ:121)。 彼らの狩りは、夜の天空にも神話的に映される。
大熊座は宇宙のオオシカ=ホグレンである。 「ホグレンはある時天のタイガの藪から出てきて、山の頂に太陽があるのを見つけると。そこへ行って、太陽をつかまえ、藪の中に持ち去った。そのために、真中の世界は夜になった。 人間たちは驚き、度を失い、何をすべきか、どうなったのか分からなかった。 真暗闇のなかで暮らすのは大変だった。恐ろしいし寒い。だが、どうやってこの災いから逃れるべきか誰も分からなかった。 その時、人間たちの中で英雄マインが名乗りをあげた。足に軽いスキーをはくと、彼はホグレンの足跡を追った。真夜中に追いつくと、巨大な弓で矢を放ち、射止めた。善良な英雄はホグレンから太陽を奪って、真中の世界に昼をとり戻した。 しかし、英雄自身はもはや人間たちのもとに帰ることができず、天に留まり、昼と太陽の守護者、生命の源泉となった。 それ以来、地上では昼と夜の交替が起こる。すなわち、ホグレンが明るく暖かな太陽をつかんで、天のタイガの藪の中に持ち去る度に、善良な英雄マインは滑りの良い翼スキーをつけ、オオジカの後を追いかけ。真夜中にこの宇宙の獣に追いつくと、明るい太陽、すなわち昼を人間たちのために奪い返すのである。 この伝承では大熊座のひしゃくの四つの星はホグレンの脚、柄の三つの星はマインとマインの放った二本の矢と考えられている。すなわち、最後の。もっとも遠い星がマイン、その次はマインが疾走中に大弓から放ち、獲物を外れた一本目の矢、ひしゃくに近い三つ目の星がホグレンを射止めた二本目の矢である」(荻原:122)。
天の川については別の伝承がある。 「宇宙の熊アンギは天空を東から西へ太陽のオオジカ(トナカイ)を追いかけ、それに追いつき、そして殺す。天の川はアンギのスキーの跡である。大熊座は熊にまだ食べられていないオオジカの脚である、オオジカを食べてしまうと、熊は最後には体がひどく重くなって、辛うじて足をひきずって行った。それで、天空の西の方では道は一本でなく、二本残った」(同:122)。 彼らの宇宙観は、世界を三層に考えていた。 最高神と他の神々が集う天上界、人々が日常暮らしている中間の世界、死者の魂の宿る地下の世界に。 それは氏族河の上流・中流・下流とも観念された。 中流には生きている氏族員が、下流には死んだ氏族員が住んでいる。 上流には将来この世に現われる氏族の魂が大きな天幕に住んでいる(フリートリッヒ:115)。 シャーマニズムは、そのことば(「シャマン」)にしてからがツングース語であり、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。これについては前述した。 19世紀から20世紀の初めにかけての彼らは、こういう人々であった。
4.
エヴェンキは今も私たちを鍛えつづける。 研究は資料がなければできない。当たり前のことであるが、それはつまり、資料によって研究が規定される、ということでもある。基づく資料によって結ばれる像は異なるのである。
エヴェンキ族の研究には、民族学・言語学、歴史学、考古学などが関係する。歴史学は史料・古文献により、考古学は発掘された遺跡や出土物により、現在学としての言語学や民族学は現地調査の報告によって進められる。 それを総合する必要があるわけだが、そのとき上の事情をよくわきまえておかなければならない。相互参照はもちろん必要だが、しかしできるだけ、文献史料なら文献史料自体、考古学資料なら考古学資料自体によって解読されるべきで、安易に性格のまったく異なる隣接分野と突き合わせてはならない。 まずそれぞれの領域で尽くしてから始まるのだ、ということを忘れてはならない。それぞれに方法が異なるのだから、安直な突き合わせは安直な結論しかもたらさないだろう。 戦前に大きくはばたいた日本の東洋学は、かなりの部分が漢字をアルファベットにする作業であった。驚くべき大量の文献の堆積は、中国史とその周辺史にとって宝の山である。 ただし、それは表音文字でない漢字で書かれている。漢族については漢字でいい。しかし異族異域の固有名詞は何を表わしているのか、それをまず解読しなければならない。 土地の比定、族名の比定、人名の比定を重ね、読み解いていく基礎工事をまずほどこす必要がある。かつ、漢文文献を近代語に「翻訳」する場合、それら特有の思考法、コンテクスト、「語法」や「文法」(社会的歴史的な)に通暁しなければならない。 その点で日本人は有利な立場に立っていた。欧米人はやはり漢字文献読解の力でも量でも一歩落ちるし、当時の中国人は伝統的な学問に縛られていて、この分野に弱かったから。それが日本、なかんずく京都を支那学・東洋学のひとつの中心にした。 日本における東洋学のパイオニア白鳥庫吉は、たとえば匈奴は何民族かという問いに対し、記録に残る断片的な彼らの言語資料、固有名詞や役職名などを手がかりに、それを近現代の言語学資料で解き、匈奴はモンゴル系である、などという答えを出した。 考えてみればすぐわかるとおり、この方法はおかしい。千年前二千年前から言語も民族も移り変わっているだろうに、昔の名称を変化を経たあとの近代の辞書中の単語と突き合わせて施した解釈で出した結論は信頼できるのか。 それはもっともな論難だが、しかしほかに何も参照できるものがなければ、無理筋気味の力わざもやむをえない。しかし、そういう「英雄時代」のあとでは、それぞれの分野での研究を突き詰めたのちに相互参照するのが本道である。 エヴェンキの研究においては、日本は有利な位置を占めている。
ロシア・中国は実際にエヴェンキ族を国民にかかえ、それは研究に非常に有利だ。特にエヴェンキ族の大半をかかえるロシアは。 だが、為政者として「当事者」であることのデメリットも同様に存在するわけで、そうでないことによる客観性が、離れた国々にはある。 また、ロシア始め欧米は漢文史料にうとい。逆に、中国は漢文史料と漢字に縛られすぎる。固有名詞の漢字表記もわずらわしいが、普通名詞についても、長すぎる漢字の伝統がすべての語に含意を与えるので、独特のやりにくさがある。 即し、かつ離れる距離があるのは大きなメリットだ。実は「当事者」でもあった。満州国時代には現地調査もできた。だから、外にはロシア・欧米の研究成果と中国の伝統を踏まえ、内には八百万の神々や神懸りを今もどこかで信じていて、「森の民」(国土の3分の2が森だ)でもある日本人は、彼らを理解するためのいい条件を備えている。 エヴェンキに関して言えば、明清時代以前に記録はない。中国人には宿痾があり(おそらく不治の病だろう)、何でも中国にある/あったと考える。だからもちろんエヴェンキについても中国の古史書の中に発見できると信じている。だが、その点はよく検討されなければならない。
「アジアの書記官」中国の史官たちは、周代以来厖大な量の歴史記録をせっせと積み上げてきた。漢字で。その古記録のうちには周辺の民族についても山ほど記述があるわけだが、しかしそれらは基本的に受身の記録である。 朝貢に来た部族、侵攻してきた部族の記録がほとんどで、それをしない部族についてはせいぜい伝聞であり、それ以上の記述はない。要するに、農耕・牧畜を行ない、首長がいて、軍事行動を起こすことができ、国家を形成しているかその手前の状態にあるものの記録と、彼らから得た偏見まじりの伝聞ばかり、ということだ。 狩猟・漁労・採集、トナカイ飼育(馬飼育)、円錐形テントによるタイガ・ツンドラ地域の移動生活、風葬、氏族制と族外婚、シャーマニズム、無土器などがエヴェンキ民族を形成する指標的な文化要素である。 少なくともこれだけの文化要素の複合がなければエヴェンキ民族とは言えない。そして、古記録中にそれぞれの文化要素についてはさまざまな記載があるが、この複合をもつものについてはない。 明清時代以前の古文献中、関係がありそうなのは断片的な文化要素の記述にとどまる。 トナカイについては、「新唐書回鶻伝」にある記事が最古らしい。いわく、「太宗の時代に、能くみずから〔唐に〕通交した北狄としては、さらに烏羅渾があり、これは烏洛候または烏羅護ともいい、京師の東北六千里ばかりの地にあたり、東は靺鞨西は突厥、南契丹、北は烏丸に達するが、だいたいの習俗はみな、靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸ともいう。/また鞠〔という部族〕があり、あるいは裓ともいい、抜野古の東北に住んでいた。〔その地方には〕木はあるが草はなく、地面には苔が多い。〔その地方には〕羊と馬はおらず、「人は鹿をやしなうこと牛馬のごとし。ただ苔にみを食す」(松田:294)。 その〔鞠の〕風習としては、車に乗り、また、鹿の皮で衣をつくり、木を集めて家屋を造り、尊い者も卑しい者もいっしょに住む」(「回鶻伝」、佐口透訳注、騎馬民族史2:447。1個所松田氏により訂正した)。 トナカイを飼うのならたぶんエヴェンキの祖先だろうが、きわめて断片的な伝聞である。 「契丹の別類」室韋という集団はおもしろい(「室韋・契丹・奚伝」、田村実造訳注、『騎馬民族史』1)。 「北史室伝」によれば、「その言語は庫莫奚・契丹・豆〔莫〕婁と同じである」(p.291)が、南室韋・水室韋・鉢室韋・深末怚室韋・大室韋と五部に分かれるうちの、大興安嶺の西にあったと思われる大室韋は、「言語は通じない」(騎馬民族史1:294)。 「新唐書室韋伝」によれば、「その言語は靺鞨語である」(同:291)。「旧唐書」では9、「新唐書」では20余部に分かれるとされ、そのうちには史書中「モンゴル」の初出である「蒙兀/蒙瓦部」もある。 つまり言語を異にし、生業も異なるらしい雑多なグループをその中に含んでいるわけだ。 「父母が死ぬと男女はあつまって哭くこと三年。屍は樹上に置く」(「魏書失韋伝」、同:290)という風葬の習俗や、「貂皮を多くとる。… 男女とも、みな白い鹿皮の上衣と袴を着る」という記述にはエヴェンキと似た点も見出せるが、農耕牧畜民である点で決定的に違う。 「多くの粟や麦および穄がある」(同:291)。 羊はおらず、馬は少なく、豚や牛が多い。「牛車にのり」(同:292)、「麯で酒をつくる」(同:291)。 しかし、以下の記述には注目するべきだ。 「契丹の北のかた三千里にある」南室韋から「北方へ十一日ゆくと北室韋(水室韋であろう)に至る。〔北室韋は〕九部落にわかれ、吐紇山をめぐって住んでいる。その部落の大酋長は、乞引莫謹賀咄と号す。各部には、莫何弗が副としている。気候はもっとも寒く、雪が深くて馬の背を没するほどである。 〔人びとは〕冬は山に入って穴居生活をするが、牛畜は凍死するものが多い。麞や鹿が多い。〔人びとは〕狩猟を本務とし、肉を食い毛皮を着る。氷を割って水中に没し網で魚や鼈をとる。地には積雪が多く、〔人びとは〕穴に落ちこむのをおそれて木〔そり〕にのって進み、おとし穴があると止まる。みな貂を捕えるのを仕事とし、狐や貂の毛皮を冠り、魚皮を衣る。 また北へ行くこと千里で鉢室韋に至るが、〔その部落の人びとは〕胡布山のもとに住んでいて、人口は北室韋より多く、幾部落あるか知れない。樺の皮で屋舎をおおう。そのほかは北室韋と同俗である」(「北史室韋伝」、同:293)。 さまざまな集団の寄り集まりらしく思えるこの室韋の中、特に北室韋と鉢室韋の中には、ダウールとかソロンの祖先のような部族も数えられていたかもしれない。 「徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに臣属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった」(「新唐書室韋伝」、同:301)。 ダウールは、1643年に探検に来たポヤルコフの報告に、 「彼等はゼーヤ河およびシルカ河沿岸に六種の穀物を作っていた。 即ち大麦、燕麦、稷、蕎麦、豌豆、亜麻である。 同地方にはまた胡瓜、罌粟、大豆、蒜、林檎、梨、胡桃等も生長する。彼等の有する家畜は馬、牛、豚(極めて多し)等で鶏も亦飼っている」(池尻:224) とある。農耕牧畜を営むかたわら狩猟・漁撈も重要な生業であり、エヴェンキと関係の深い彼らの祖先は、室韋の中にきっといただろう。だが、純粋な狩猟民であるエヴェンキはその中に含まれてはいまい。 氏族制と族外婚については、たとえば「後漢書烏桓伝」にも見ることができる。 「その性格はたけだけしく頑固で、怒れば父や兄すらも殺したが、しかしついにその母親には、危害を加えなかった。そのわけは、母親には肉親の一族があり、〔もし母親を殺せば、復讐を受けることを免かれないが、これに反して〕実の父や兄は〔殺しても〕一族の者から報復を受けなかったからである」(「烏桓・鮮卑伝」、河内良弘訳注、騎馬民族史1:155)。 1712−15年、清朝からカスピ海北方のトゥルグート汗のもとへ使した満洲人トゥリシェンの旅行記「異域録」には「ソロン人」への言及が多々あるが、「ソロン」の名で指しているのは明らかにシベリアのエヴェンキ族である。
エニセイスクにロシア人、ブリヤート人とともに住んでいる「ソロン人」(トゥリシェン:53)は、もちろんいま中国で「ソロン(索倫)」と呼ばれている人々ではありえないが、清代の「索倫部」ということなのだろう。 それには山中に住む狩猟民を指す「鄂翁喀拉索倫(エオンコル・ソロン=ダウール語で:野生ソロン)」という集団もあった(シロコゴロフ1941:120)。 「ロシア人は、ソロン人のことを、カムニハンともトゥングースとも呼んでいる。 ソロン人は馴鹿を飼っているが、その色は薄白く、体の形は驢馬や騾馬に似ている。ソロン人は荷を積んだり、車につないで牽かせたりして使う」(同:57。カムニハンはブリヤート人がエヴェンキを呼ぶ名前)。 そして、シベリアの狩猟漁撈に従事するソロン人からは毛皮、狩猟漁撈をしないソロン人からは金を貢納させている(同:87)。清国内のソロン人やダフール人は蝶鮫を貢物としている(同:123)。 一方で、使いの者の出身地のさらに向こう(黒竜江中流域)には「ビルラ(ビラルチェン)、使犬国(ゴリド/ナナイ)、モニイル(マネグルであろう)、グルイル、などという部族」がいて、毛皮を貢物とすると言っている(同:125)のを見れば、同じくツングースであるこれらの諸族とソロンとは区別されているようだ。 この例をもって推せば、ある族名(ここでは「ソロン」)のうちに、似てはいても生業において来歴において相違も大きい集団(エヴェンキ)が含められてしまうのはよくあることである。 その一方で、今日の民族学知識に照らせば同族であるはずの集団が別族のようにあげられる(ここではエヴェンキ=ソロンと別立てにされたビラルチェン、マネグル)。 割合新しく正確な清代でそうならば、まして元明以前の古記録はそうだろう。 後述「開原新志」にある「乞烈迷」(ギリミ)には今日のギリヤーク(傍白:今の公称はニヴヒだが、これは大陸側の彼らの自称であり、サハリンに住む者は「ニグヴン」を自称とするのだから、そうは言わないサハリンの人々まで「ニヴヒ」で標準化するのはどうか。「ギリヤーク」でいいんじゃないか。 でなければ「ニヴヒ」「ニグヴン」の2つに分けるか)以外の民族も含まれているようだし(ギリヤークは「吉里迷」と別字で書かれる)、「西伯利東偏紀要」(1885年)には、「費雅喀」(フィヤカ:ギリヤーク別称)と別に「済勒彌」(ギリミ)を挙げ、「松花江ノ両岸ハ旧ト費雅喀人ノ居ル所為リ、今ハ則チ俄倫春・奇勒爾二族ヲ合シ、凡ソ江沿ニ遷居スル者、済勒彌ト統称ス」(和田:495)としているのを見てもいい。 そのように明らかな異族がひとつにまとめられているのは、しかるべき理由があってのことかもしれないと考えてみていい。あるいは単にその史料の書き手の恣意によるのかもしれず、そこはよく吟味されなければならない。 明清時代を見ると、「大明一統志」に引かれた元代の地誌「開原(開元)新志」にある「乞烈迷」(ギリミ:ギリヤークを指すナナイの呼称)の四種のうち、「北山野人」は「鹿ニ乗リテ出入ス」(和田:467)。明末の「遼東志」には、「鹿ヲ養ヒ、乗リテ以テ出入ス。海驢・海豹・海豬・海牛・海狗ノ皮ヲ水産ス」(同:478)と、海獣狩猟を業とすることが書いてある。
これはオホーツク海沿岸に住むエヴェンキに近いエヴェン(ラムート)族の祖先かもしれない。 乾隆時代の「皇清職貢図」には「鄂倫綽」(オロチョン)の名が見える。いわく、 「近海之多羅河・強黔山ニ游牧ス。男女皆披髪跣足、角鹿(即ち馴鹿)ヲ養ヒ魚ヲ捕フルヲ以テ生ト為ス、居ル所魚皮ヲ以テ帳ト為ス、性懦弱、歳ニ貂皮ヲ進ム」(同:480)。 「多羅河」はアムール河口の西でオホーツク海に注ぐトゥグル河であろうとされる。 「鄂倫綽」は「吉林通志」にも言及される。「奇勒爾」(キレルKiler、アムール地方のツングース系諸族が新来のツングース族を称した語)は寧古塔の東北二千余里の所にいるが、そこは「即使鹿ノ鄂倫春遊牧スル処所、職貢図ニ所謂鄂倫綽ナル者是也、有使馬・使鹿二部、使鹿ハ使馬之外ニ在リ」云々(同:490)。 清代からエヴェンキの歴史時代が始まる、と言っていい。
姿の見えないエヴェンキたちが、このへんからようやく見えてくる みずからが南方ツングースである清朝はエヴェンキ族の分布地の南縁を実効支配していたので、情報も正確になってくるし、ロシア人による記録も出てくるので、それと対照しつつ論じることができるのだ(ごくわずかながら日本人の記録もある)。 それまでは漢文史料の独占状態であるから、漢文史料の性格を斟酌しつつ読み解いていく作業となり、記述の背景や事情や意図や誤解半解や漢人文化特有の偏向など、さまざまなものがからんでいるのでわずらわしい。見方が複眼となるこのあたりからすっきりしてくる。 19世紀になると、特に1854−56年のシュレンクの探検以降は、完全に「断片的古記録」から「体系的民族誌の時代」に移行する。 清代とは、明代から組織化が進んできた毛皮貢納体制が完成する時代である。 ロシアのシベリア進出も毛皮を求めてのことだった。 気の毒な貂の災厄が東西から国家的に追い求められた。
貂皮は紀元前から文明世界に知られていたが、美しいその毛皮は北の果てからもたらされるものだから貴重だった。紀元100年ごろの「説文解字」に、貂は「鼠の属なり、大にして黄・黒。胡の丁零国より出づ」とあるように、北方の遊牧民がそれをもたらしていた。 遊牧民中北辺の者がみずから狩ることもあったろうが、彼らのさらに北の森の中に住む狩猟民から得ていたにちがいない。それを交易する「セーブルロード」はたしかに存在していた。モンゴル高原を通り「北荒」に至る唐代の「参天河汗道」は貂皮を税として維持されていた(松田:309,311f.)。 タイガの狩猟民もかなり昔からユーラシア商業に連なり、北の森にない物資を得ていたのである。 オロチョン族の猟師は、ダウール人や漢人、ロシア人の「アンダ」(友人)と商売関係を結んでいた。 定期的に開かれる交易市(バクジョール)での物々交換の相手であり、またオロチョンが必要に迫られて村を訪ねたときは必ず自分のアンダの家に泊まり、アンダも親戚の訪問のようにこれをもてなすし、毛皮をもたずに前借りを求められてもこころよく応じる。 計算にうといオロチョンとの取引は大きな利益になるからである。 この関係でオロチョンは金銭に直せば大損をしているのだが、金銭の外にある彼らにも一応のメリットがあるシステムだから続いたのであろう。 17世紀、ロシアがアムール河岸に暴力的に進出してきたとき、清朝は、アムール川の北にいてロシア人の襲撃を受けていたダウール族とソロン族を嫩江地域に移住させた。1650年の頃である。
彼らの安寧のためでもあり、彼らから食料を略奪して調達していたロシア人から糧道を断つ目的でもあった。 そして、ロシア人をアムール地方から駆逐し、ネルチンスク条約(1689)を結んでこの地方を清朝領と確定させた康熙帝の頃から、布特哈八旗を始め、ダウール人、ソロン人とともにオロチョン人も八旗軍に組織された。布特哈八旗は打牲部とも言われる。狩猟する者をもって編成されたのでこの名がある(池尻:51ff..)。 ロシアでも同じ頃、「友好的な」ツングースとブリヤートの氏族から徴兵してロシア人を支援する予備隊として使ったという。のちにザバイカル地方のツングースとブリヤートのコサック連隊となった(フォーシス:115,189)。 満州国時代の日本軍も、山野を自分の庭のごとく知り尽くし、射撃に秀でた彼らを、来るべきソ連との戦いに利用すべく訓練を施していた。中露の伝統に忠実だったのだ。 軍には「文化に浴せしめず即ち原始生活の維持。帰農せしめず。特殊民族としての隔離。阿片厳禁。白麺厳禁。独立自活の道を講ずる、即ち依存生活の排撃等」という指導要領があったという(中生:234)。 アヘンのことも書いておかなければならない。
「彼らの言によると、だいたい次の二点から阿片を用いるようになったとのことである。 (1) 厳寒期出猟露営の際、これを服用すると、酒と異なって身体のしんから暖まって睡眠を取りやすくなる。 (2) 不猟で食物がないとき、阿片は空腹感を麻痺させる不可思議な力を持っている。 以上の理由から阿片を常用することとなり、その後は中毒者となり、禁断症状がおきると、身体のあらゆる面に圧迫感を感じ、涙・唾液などが止めどもなく流れ、あくびを連発する」(泉:21)。 「阿片服用は一人前になって出猟しうる男子の当然の権利であり、誇りでもある」(同:21)から、泉の調査した1936年に25歳以上の男子では81パーセントがアヘンを常用していた。 ただ、彼らはアヘンを吸わず、生のまま食うので、生理的な悪影響は少ないという。 この悪習は清朝末期に漢人苦力から入ってきたものであるが、日本軍はみずからの指導要領に反してそれを利用していた。 永田がオロチョンの調査に行ったとき、特務機関を訪ね、オロチョンを掌握する方法を聞くと、機関員はこともなげに、「それは簡単だ。彼らが手にいれにくい阿片を利用することだ。これさえあれば何でもないよ」と即答したという(永田:17)。 こういう陶酔への溺れやすさが彼らの致命的な弱点かもしれない。民族を滅ぼしかねない過度の飲酒癖や、煙管があいさつの小道具とまでなった愛煙癖と並べて考えるべきである。すべて農耕定住民が彼らを籠絡すべく山にもたらしたものであった。 あるいは、シャーマニズムの本質でもあるエクスタシーがそこに関係しているのかもしれない。 また、シャーマニズムを信奉するシベリアの諸民族の間には、不意の刺激に対する過敏なヒステリー反応(いわゆる「極北ヒステリー」)がよく見られたことを想起しておこう。これらの嗜好はそういう諸連関の中に置いてみてもいい。 考古学は、結局のところ「石と骨の学問」である(もっと言えば、「学問的墓暴き」、「穴を掘って穴を見つける作業」)。定住して、しかるべき大きさの構造物を作り、墓を掘って埋葬をする集団でないと、考古学の網にはかかりにくい。エヴェンキのような天幕で移動する小集団は、あらかじめそこから漏れるようにできているようなものだ。
竪穴式住居にも住むことはあったようだが、死体は風葬、つまり樹上に置き朽ちるにまかせて墓を作らず、土器もなく、石器の道具類ぐらいしか残さなかったツングースの祖先を、考古学調査で発見することはむずかしい。 鉄器を使っていても(彼らの間には鍛冶師がいる)、その生活形態は「歩く旧石器時代」なのだから。 オクラードニコフは新石器時代末期のシルカ川洞穴遺跡や紀元前1800−1300年ごろのグラズコヴォ文化の遺跡出土の人骨がエヴェンキ人に酷似するというが(加藤1994:35f.,43f.)、土器をもち埋葬をする文化なら、今のエヴェンキ狩猟民に直接結びつくことはない。 定住民からタイガの移動狩猟民が析出したとも考えることはできるが、それは仮説にすぎず、証拠はない。 定住民集団から流出する個人や集団はあったに違いないが、流入していく先には、生活技術の体系に裏打ちされた文化を伝承してきた狩猟民の集団がいたのだから。 たとえば記録のある近世に牧畜民ヤクートがトナカイ飼養民の社会に流入し、生業は受け入れながら言語はヤクート化した例のようなことは史上何度もあっただろう。 だが、重要なのは太古からの連続のほうであって、中期旧石器時代から人類はシベリアに広がっていたが、それはもちろん狩猟採集民である。こちらが本質的な問題で、それがエヴェンキかどうかは二義的な問題だ。 土を掘る考古学では、「土」が特権的である。葬法には土葬・水葬・火葬・風葬があるが、「骨の学問」である考古学は、骨を残す土葬をよりどころとする。 風葬は偶然骨が残ったときだけしか研究されない(しようがない)。 器具においても土器陶器が卓越する。 木や皮のように朽ちてしまうものはそもそも資料として例外的にしか存在しないし、金属器は金属器時代以前にないのはもちろんだが、以降も、有機物ほどではないが腐食の問題があり、それが多少のさまたげになる。 朽ちずに残り、加工しやすいため形や文様で分類しやすい土器は、考古学の寵児である。だからそのふたつをもたないエヴェンキは、その存在自体が考古学の手から逃れるためにあるようなものだ。 土器のない文化は、ひとつは先土器文化であるが、「非土器文化」もあるわけだ。 移動生活に不便(重い上に壊れやすい)な土器をもたないのもひとつ、しかしインドのような高度な文明地域でも、金属器を好み陶器をほとんど使わないなどということがある。インドは「土器陶器の専制」を相対化してくれる。 歴史学や考古学がこうである。つまり、彼らの歴史について憶測以上のことは言えない、ということだ。そういうふうに学問の網の目をすりぬけるというのはすばらしいことのように思える。すべからくわれらのごとくあるべし、と筆をもつ人たちは考える。われらのようでなければ、われらのようにならねばならない、と。だがそうではないのだ。そのことをエヴェンキは示している。
いま、そのエヴェンキの民族文化は死滅に瀕している。
中国では、恐るべき漢族の厖大な数に圧倒されて、その海に水没せんとしている。 定住を強制され、狩猟を禁じられ、銃を取り上げられた。 狭苦しい日本から見れば広大な興安嶺の森も、漢族の植民と林業開発の波をかぶれば狭い。野生動物も減った。 オロチョンの娘は同族の男と結婚したがらないそうだ。 飲んだくれで、酔えば妻を殴り、農業など定住生活に不適合とくれば、誰が好んで結婚するだろうか。それはもう末期の姿である。 だが、なぜ彼らは酒を飲むのか思いやってもいい。 女が飲んだくれの男を避けるのと同じくらいの道理は、酒を飲む男のほうにもたぶんある。アルコール中毒やそれに起因する変死は中国政府の政策による強制定住のあと激増した(思2000b:19)。 オロチョン自治旗におけるオロチョンの平均寿命は47.5歳(!)である(麻:116)。 文字のない彼らのことばも若年層では話せない者が増えている(文字化されておらず、学校で教えられていないのも話者が減っている一因だが、それは妙な話だ。ロシアでは文字化されているのだから)。 20歳以下のトナカイ・エヴェンキ人の80パーセントがエヴェンキ語が話せない(思2000b:6)。 もともと絶対数が少ないのだから、今の高齢者たちが世を去った後には、定住の村々にはもとオロチョンだった漢族を見ることになるだろう。 民族意識だけは残るかもしれないが(たぶん残る)、それ以外は漢族と区別のつかない人々を。 それはシャモたちがアイヌにしたことでもあった。 「彼らの最大の欠点は怠惰である」と言われている(トゥゴルコフ:43)。 だが、ソ連時代初頭のヤクート北方委員会の報告が言うとおり、「これは、寄生的・ブルジョワ的怠惰ではなく、別の生活習慣および経済条件の産物である。 原住民の生活の一つの面である休息中のみをみて、他の面を見落としている。 つまり、この休息期間によって、いま一つの狩猟の際の極端なエネルギーの消耗−緊張、長時間の忍耐、厳しい寒さ等々による−に適応できる比類ない力を呼び起すのである」(同:45)。 それにはさらにもうひとつの側面があるだろう。 生きていくのに必要なだけの獲物をとり、獲り過ぎないという調整の側面も。 移動生活を送る狩猟採集民である彼らは、定住民の病である「富の蓄積」の強迫におかされていない。 食べていけて、その上に少しばかり余裕があればいい。 だが、蓄積がないということは、「食べていくこと」をむずかしくする。 被狩猟動物の減少は狩猟者である彼らの飢餓につながるから、過剰な狩猟の抑制は死活的に重要である。 そんなエヴェンキは、定住民の、たとえば漢人の狩猟者たちが動物がたちまち絶滅してしまうようなやり方で狩りをするのを憎んでいた(シロコゴロフ1941:198)。 現在中国ではエヴェンキに狩猟が禁じられている。おかしな話だ。 狩りを禁じなければならないほど野生動物が減ってしまったのは彼らのせいではなく、その逆なのに。 ロシアの状況はこれよりずっとましである。 シベリアははるかに広大で、ロシア人は少ない。本来の住地でもある。 その「少なさ」はしかし相対的なもので、絶対的に少ないエヴェンキの人口から見れば絶対的に多い。
集団化(コルホーズ化)はソ連のほうが中国よりずっと早く、死滅したシャーマニズムは中国でより長く残っていた。 現在シベリアで狩猟やトナカイ飼育を行なっている者は少数民族人口の1割以下である。 銃や弾丸は管理され、狩猟は免許制で、許可された頭数以上を獲ってはならない。シベリアが、世界がいかに広くとも、わずか数万の狩猟民を容れるほどに広くない。 それでも中国よりましなのは、面積の広さとともに、あるいはそれ以上に、長く寒い冬や北の大地の広さに感覚が同調しているロシア人のメンタリティに、エヴェンキと似たものがあるからかもしれない。 特にコサックには。リンドグレンが指摘するように、山と平地に棲み分けている北満のコサックとエヴェンキの間には相互に敬意や親愛の感情があった(Lindgren1938)。 中国人にとってはロシア人も北狄で、その意味で同一範疇であろう(たとえばこんな例: 支那人は「露西亜移住民や、稀には原住民のツングースにとって甚だ魅力ある獲物となる場合が非常に多い … 何時も黄金を携帯していた支那人を追捕し殺害することは、ある時期に於いて地方商業の重要な部門であったのである」! シロコゴロフ1941:174)。 狩猟民は生態系の正当な構成員である。「肉食動物」としてその地域の食物連鎖の頂点に立つ。 彼らを養えるほどの獲物の棲む広いテリトリーを必要とし、獲物の数が許す個体数以上は生存できない。 農耕が(そして牧畜が)生態系の「異物」であるのとはまったく違うありかただ。農耕はことの性格として生態系を改変するし、さらに進めば破壊する。 いわんや工業は。 狩猟が地球にとって正常な細胞であるのに対し、農耕はガン細胞なのである。 今そのガン細胞は地表を覆い尽くさんばかりだ。 アムールトラが絶滅に瀕している。人間はそれを保護しようとする。 同じ「肉食動物」の狩猟民も絶滅に瀕しているが、狩猟民以外の人類はその死滅をうながす。彼らから狩猟を取り上げることで。 人間が馬以下だった先の戦争を思い出す。人間の兵卒は一銭五厘の令状でかき集められるが、軍馬の調達はずっとむずかしく、大切にされていたのではなかったか。動物園のトラが酒びたりになっている光景を想像するべきかもしれない。 彼らは、彼ら同士あるいは近隣の狩猟民との間では争いがあったし、攻められれば反撃したにしても、征服戦争をするわけでなし(できるわけもないが)、それ以外には何も問題を起こさなかったのに、歴史は彼らの民族文化に退場を命じている。われわれの残念な歴史は、ただ前へと進む。 http://d.hatena.ne.jp/agarih/20140301
|