http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/729.html
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(回答先: 「吹雪で動けない」 爺ケ岳の女性 投稿者 中川隆 日時 2015 年 2 月 16 日 18:41:18)
1969年1月 剱岳大量遭難 プロジェクトX 「魔の山大遭難・決死の救出劇」
プロジェクトX 「魔の山大遭難・決死の救出劇」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=fNlPKBfBapI
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88X+%E3%80%8C%E9%AD%94%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E3%83%BB%E6%B1%BA%E6%AD%BB%E3%81%AE%E6%95%91%E5%87%BA%E5%8A%87%E3%80%8D
剱岳 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%89%A3%E5%B2%B3
剱岳、登山用ルートの核心部 日本アルプス登山ルートガイド - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=nA_xtZx5XNI
剱岳登山 (危険個所) 2013-8-11 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=UcX7FkfRFKs
剣岳カニのヨコバイ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=_yyXDHmJ-1A
1969年(昭和44年)1月 中日ニュース「剣岳で“大量遭難”」 - YouTube 動画
富山県北アルプス剣岳で厳寒のすさまじい吹雪に150人が閉じ込められ死者多数。
https://www.youtube.com/watch?v=Rm7xMFwGxss
http://www.chunichieigasha.co.jp/?p=13220
1969年(昭和44年) 剱岳周辺 大量遭難 葛飾山岳会他(5パーティ18名)
剣岳周辺で相次ぎ遭難死
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昭和44年1月11日、捜索打ち切りとなった剣岳付近で起きた雪崩による相次ぐ遭難事故では5パーティ18人が犠牲となった。
このうち最大の8人全員の犠牲者を出した東京都の葛飾山岳会は小窓尾根から1月2日に下山予定だったが、奥大日尾根付近で遭難したものと思われた。
次いで4人の犠牲者を出した大阪府立大の13人のパーティは大明神山の尾根1000mで1人が死亡、そして山頂に取り残された6人のうち3人が死亡した。
日比谷高校山岳部OBのパーティは3人全員が昨12月22日に薬師岳に入山して1月3日までに下山せず、遭難したものと思われた。
清水RCCの2人は剣岳早月尾根の2800mの場所から東大谷側に滑落死、
電電九州小窓隊の5人は剣岳頂上付近で1月3日、雪崩でテントが潰され1人が死亡した。
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-70.html
魔の山、剱岳
北アルプス立山連峰、剱(つるぎ)岳。
標高二九九八メートル。荘厳なまでに美しく、しかも険しいその姿から、「岩と雪の殿堂」と呼ばれる。三〇〇〇メートル級の山々が一〇を超して連なる北アルプスでも、屈指の名峰である。
しかし、剣の刃先のごとく連なる鋭い絶壁、深く入り組んだ沢、狭い尾根。半歩足を踏み外せば深い谷に吸い込まれる。日本海までわずか三〇キロ余り、富山平野から急に三〇〇〇メートルも立ち上がっている地形は、他の山よりはるかに変わりやすい天候と、冬場のドカ雪をもたらす。
滑落、雪崩(なだれ)、疲労凍死……。日本で近代式登山が始まり、剱岳の登頂がめざされるようになったのは大正時代半ば。それ以降、剱岳がのみ込んでしまった命はあまりにも数多い。
昭和二(一九二七)年、当時、前剱の東斜面にあった剱沢小屋が雪崩で崩壊し、『東大山の会』のメンバーや山岳ガイドなど七名全員が死亡。
昭和二五(一九五〇)年、剱岳から西に走る早月(はやつき)尾根の北側直下、二二〇〇メートル付近で雪崩に遭い、山岳ガイドが死亡。
昭和二七(一九五二)年、単独行の明治大学生が、頂上手前で疲労凍死。
昭和三四(一九五九)年、早月尾根北側の池ノ谷で雪崩に遭い、立命館大学山岳部の六人パーティーが全員死亡。
昭和三六(一九六一)年、池ノ谷で雪崩に遭い、『不二越山岳会』の三人が死亡。その池ノ谷をはさんだ北側の赤谷(あかたん)山で耐寒訓練中、豪雪に閉じ込められ、富山大学山岳部のパーティー六人が凍死。
別名、魔の山。
死と隣り合わせであることで、ますます多くの登山者をひきつける山。それが剱岳だった。
昭和四四(一九六九)年正月。その剱岳で、史上最悪の大量遭難が発生した。一五パーティー八一人が、猛吹雪に閉じ込められた。かろうじて機能していた無線で救助を要請してくるパーティーがいた。何の連絡もないまま、下山予定日を一週間過ぎても下りてこないパーティーがいた。
救助に向かったのは、発足から四年目の『富山県警山岳警備隊』。そして、北アルプスの山岳ガイドからなる民間協力隊。そこに全国から駆けつけた三〇〇〇人のボランティアたちも加わった。
山岳警備隊の指揮官には、つらい過去があった。弟を山で失った。子どもや兄弟を失って嘆き悲しむ家族の姿は、もう見たくなかった。
この日に備え、岩場や厳冬期の剱岳で猛訓練に励んできた隊員たちは、張り切っていた。
その前に、冬の剱岳が襲いかかった。風速三〇メートルの猛吹雪に視界は消えた。先頭を歩くベテランガイドは、雪山の罠に落ちた。
残されたのは三人の若手隊員。
「俺たちの助けを待つ人がいる」――隊員たちは魔の山の頂に、踏み出していった。
これは、剱岳で遭難する人たちを救おうと、魔の山に挑んだ男たちの物語である。
愛知大学山岳部一三人、薬師岳に消ゆ
この物語の大量遭難事故から逆上ること六年前、昭和三八(一九六三)年一月。日本列島を戦後最大のドカ雪が襲った。日本海側の福岡から新潟まで、交通が寸断。新潟や富山、石川では積雪が平野部でも二メートルに達し、家や工場に潰れるものが出て、都市機能はマヒした。のちにいう「三八(サンパチ)豪雪」である。
一月一三日。
剱岳のふもと、富山県上市(かみいち)町の警察署に、突然連絡が入った。剱岳の南約一八キロにある薬師岳(二九二六メートル)を登山中の、愛知大学山岳部パーティー一三人の捜索依頼だった。下山予定は一月六日。すでに一週間が過ぎていた。
急きょ、警察官九人と山岳ガイドからなる捜索隊が結成された。
隊長は、刑事課鑑識係の伊藤忠夫。大正一一(一九二二)年生まれの四〇歳。山登りの技術は県警一だった。五年前に「山岳救助担当兼任」ということで上市署に転勤になっていた。
降りしきる雪の中、先頭を歩く伊藤――。捜索に出るたびに去来する苦い記憶があった。
――伊藤は四人兄弟姉妹の長男。下二人は妹で、一番末が弟の辰三(しんぞう)だった。伊藤の兄弟は、父親譲りのスポーツ一家。伊藤自身、スキーは県大会で優勝するくらいの腕前だったし、弟・辰三は、それに加えて野球のピッチャーもこなすという万能選手だった。伊藤は六つ下の辰三をことのほかかわいがってきた。
戦後まもない、昭和二三(一九四八)年、その辰三が山で行方不明になった。営林署仲間といっしょに朝日岳(二四一八・三メートル)に向かったまま、帰らなかった。まだ二一歳の若さだった。父の小四郎は猟師や村人を雇って探し回ったが、見つからない。自費で人を雇い入れ探してもらうしかない時代である。家の財産はひと月で底をついた。当時、「家族が山で遭難すれば家が潰れる」といわれていた。しかし、どんなに月日が経とうとも、母は、葬式を拒みつづけた。
「両親はいまにどっかから出てくるんじゃないか、明日にでも帰ってくるんじゃないかと、何回でも言っとりました」
伊藤はそんな両親の姿を見ていられなかった。せめて骨だけは拾ってやりたい。それから何年も周辺の山を探しつづけてきた。伊藤の山登りは、そんななかで培われたものだったのである――。
愛知大学の一三人のもとに向かった、伊藤たち救助隊。当面の目的地は標高二二七三メートル、薬師岳頂上まで約四キロの地点にある山小屋『太郎小屋』だった。
「小屋にこもってくれていれば、助かる」
しかし、吹雪と、三メートルを超す積雪が行く手をふさいだ。
http://www.papy.co.jp/act/books/1-21822/
富山県警山岳警備隊まとめ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PLU-RtLANLs-eNDLCVIRZa6tSvouMer3EU
富山県警山岳警備隊 剣沢警備派出所 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=DbpkXtcenNs
プロフェッショナル 富山県警 ヘリ救助 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=nWuyyNWd03k
登山者「落ちるなら富山へ」 中日新聞 2016年1月31日
一流登山家も多くの命を落とす県内の北アルプス立山・剣岳などで遭難救助に当たる県警山岳警備隊が発足から半世紀を迎え、記念式典が富山市で三十日にあった。関係者は日本屈指の救助技術を誇る集団へ成長した歩みをたどり、山岳救助への決意を新たにした。(伊勢村優樹)
前身の山岳救助隊ができたのは一九五九(昭和三十四)年。隊員は機動隊員が中心の十五人だった。
救助隊時代から所属し、警備隊長を務めた谷口凱夫さん(77)によると、昭和三十年代半ばは、登れば初登のパイオニアワークの時代。
毎年のように悲惨な遭難が起き、社会問題になったことが警備隊発足のきっかけになった。
中でも、「三八豪雪」の六三年にあった愛知大生全十三人の薬師岳大量遭難は歴史に残る悲劇。
その二年後の六五年三月、組織改編で警備隊が誕生した。隊員も二十五人に増えたが、当時は山の知識、技術、経験に乏しく、 十分な予算もない。登山者からは「貧乏隊」とからかわれたという。
救助の中心は立山一帯を知り尽くした地元の山岳ガイドで、隊員は補助的な役割にとどまっていた。それが六九年一月に剣岳周辺で十五パーティーの八十一人が遭難し十九人が死亡、ガイドが二重遭難する事態が発生。
「民間人を危険にさらすわけにはいかない」と、警察主体の体制へ切り替わった。
全国に例のない山岳警備派出所を整備し、年間常駐体制をとり、最新鋭のヘリコプターを導入した。冬に五十キロの荷物を背負って山に登るなど厳しい訓練を実施。救助体制や救助道具を学ぶため欧州遠征も重ね、遭難者を背負って搬送する装置などを取り入れた。
これまで三人の隊員が命を落としている。遭難者の遺体搬送中に崩れてきたブロックの下敷きになったり、訓練中に雪崩に巻き込まれたりした。
「警備隊に入ったら、死を覚悟せよ。できないならやめろ」。〇八年まで約十年間隊長を務めた椙田正さん(68)は、若い隊員らにそう言ってきた。
技術を磨くには、危険な場所での実戦的訓練が欠かせないからだ。
苦難を乗り越え着実に実力をつけ、日本一まで成長した警備隊。いつしか登山者の間では「落ちるなら富山側へ」が“定説”に。命を助けた登山者や死亡した登山者の家族からの礼状が続々と届き、隊員の励みになっている。県外から警備隊を目指す人も増え、今では二十八人中十九人が県外出身者だ。
谷口さんは、ヘリによる救助ができるようになった今でも「救助の基本は担いで歩くこと。担がれた人が絶対大丈夫だという安心感を与えられるようにならないと」と現役に伝授。高瀬洋隊長は「私たちの取り組みが広く登山者からも基本とされるよう努力を続けることが今後の使命と考えている」と意欲を見せた。
___________
昭和30年代、日本は登山ブームを迎え、山での遭難事故が増え始めた。昭和38年、後にサンパチ豪雪と呼ばれるドカ雪で、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡。前代未聞の大量遭難となった。
この事故で、救助チームの隊長を務めたのは富山県警上市署の鑑識係、伊藤忠夫40歳。伊藤はかつて最愛の弟を山で亡くしていた。昭和40年、伊藤を指揮官とする山岳警備隊が発足。しかし県内の警察署から集められた隊員達は、山歩きの経験が無い素人集団。伊藤は助っ人を頼もうと、北アルプス麓の集落、あしくらじ芦峅寺を訪ねた。黒部ダム建設の際、資材を運搬。第一次南極観測隊にも選ばれた山のエキスパート達が住んでいた。隊員は、あしくらじ芦峅寺の男達に山登りの技術を学んだ。
昭和44年正月、剣岳を記録的なドカ雪が襲った。15パーティー81人、史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊はあしくらじ芦峅寺の男達に応援を頼み、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助に向かった。しかし猛吹雪の中、先頭を切っていたベテランガイドが谷に転落。あしくらじ芦峅寺の男達は仲間を救出、山を降りた。後には、3人の若き警備隊員が残された。「今こそ厳しい訓練の成果を見せる」遭難者が待つ山頂に、足を踏み出した。
http://www.papy.co.jp/act/books/1-21822/
2005/01/26 事実を捻じ曲げるプロジェクトXの番組改変問題
昨日、「魔の山大遭難 決死の救出劇」というドキュメンタリー番組を見た。内容は、富山県山岳警備隊の活躍を賛美する内容だ。
昭和38年、北アルプス薬師岳を登山中の愛知大学山岳部13人が全員死亡するという事件を契機に、富山県は山岳警備隊を発足。県内の各警察署から集められた隊員が、黒部ダム建設に従事した立山町芦峅寺の男たちに山岳技術を学ぶ。
昭和44年正月、猛烈な寒波とドカ雪の剣岳で15パーティー81人という史上空前の大量遭難が発生。山岳警備隊は、山頂付近にいた金沢大学山岳部17人の救助するために、芦峅寺の男たちを山岳ガイドに救助に向かうが、ガイドの一人が雪屁を踏み抜き滑落。救助に成功するも、二重遭難の危険から撤退を主張するガイドに、山岳警備隊は救助の続行を主張してガイド抜きで救助を続行。山頂にいた遭難者と合流し救助したという内容だった。
番組では、合流後、後続隊の人海戦術によるルート工作で、安全に下山したことを映像を流し付け加えていたが、番組は、ガイド抜きで遭難者と合流したことで遭難者が救われたと、山岳警備隊の賛辞に終始している。
しかし、後続隊の存在を知りながら遭難者との合流を目的とする救助ならば、食料などの運搬が主目的となるが、この救助隊の編成では、とても17人分の食料を持っているとは考えられない。また、安全に下山させることが目的であれば、山岳ガイドは必要不可欠であり、当時の山岳警備隊のメンバーではこれも意味をなさない。
結果的に、麓に集まった大勢の山仲間によるルート工作で安全に下山できたのであり、他のパーティーで十数人も遭難死が出たのが現実である。総合的に考えると、二重遭難を回避する山岳ガイドの判断は正解であり、これを無視して山頂に向かった山岳警備隊は、むしろ17人の遭難者と合流することで二重遭難から逃れられたのではないのだろうか。
番組の最後には、山岳警備隊のヘリコプターによる救助や、ロープを使った救助の映像が流れていたが、むしろ、この事件を契機に、人海戦術による救助から機動力を使った救助に方針転嫁したのではないだろうか。
隊員たちの訓練風景の映像でも、現在のフリークライミング技術による岩登りを、クライミングシューズではなく、登山靴をつかって困難さを強調したりいわゆるヤラセが目に付いた。折りしもNHKの番組改変問題が起きているが、ドキュメンタリー番組であるのに、製作者の意図的な行為で、出演している人の意見や主張が捻じ曲げられているという問題と、永田町とNHKのズブズブの関係という問題は別問題だ。
この「魔の山大遭難 決死の救出劇」は2002年11月19日放送されたものであり、昨日のはアンコール放送だそうだが、あのような内容の放送を繰り返し放送させていいのだろうか。昭和44年正月の剣岳大量遭難で得た教訓が捻じ曲げられるのは、日本の登山の歴史に泥を塗る行為である
http://link-21.com/masahiro/diary/kd_diary.cgi?viewdate=20050126
富山県警山岳警備隊と遭難事故、「またか」。 2016年05月03日
交通事故以外に何も深刻な話題がない普段の富山のローカルニュース。しかし、春シーズンがやってくると「またか」と思ってしまうニュースが駆け巡ります。
言うまでもなく、春山の遭難のニュースがそれで、「北アルプス◯◯岳付近で◯◯県の会社員が不明、県警山岳警備隊が付近を捜索中」と流れると、「またか」と思ってしまいます。
(ほとんどの場合、◯◯県の部分は東京か愛知で、不思議なことに大阪っていうケースはありません。)
そして、5月1日のローカルニュースでもそんな「またか」が起きてしまいます。
好天から一瞬にして吹雪へと変わる「ホワイトアウト」に襲われたものだと思われます、問題はその遭難に遭われた方。富山在住の山屋の多くの方が、そのニュースを聞いて「またか」ではなく「まさか」と思われたのでは。
狭い社会の富山、とやどこ管理人の「知り合いに知り合いがいる」くらいの有名な方らしく、とにかく立山登山のベテラン。登山装備も通常の登山者の倍は持ち歩くという入念な方で、まさかこのような事態が起きるとは誰も思っていなかったとのこと。
そんな登山の大ベテランでも遭難してしまう春の立山連峰、標高2450mまで「誰でも気軽に」行けるようにしてしまったアルペンルートが遭難者を増加し続ける一助になっているのは否定できません。
富山県警では、そのような特殊な事情を鑑みて全国でも珍しい「山岳警備隊」を設置しています。現役の警察官たちが山岳事故に備えて春から秋にかけて室堂ターミナルや剣の登山口馬場島に併設された派出所に常駐しています。
北アルプスを登る山屋さんの間では「滑落するなら富山県側に!」との言葉が囁かれているほどの、山岳事故における精鋭部隊である富山県警山岳警備隊。
その訓練の厳しさは有名で、50kgにも及ぶ装備を担ぎながら10Kmの雪道を走破。
まさに、命懸けの訓練を行う富山県警山岳警備隊が創設されて、今年で50年。
もともとは、立山町芦峅寺地域の佐伯氏一族を始めとする有志により結成された救助隊がその起源で、その後救助隊は県警の山岳事故の対応に「協力隊」として参加。
初期の「協力隊」のリーダー佐伯文蔵氏の「遭難者を親、兄弟と思って親身に行動せよ。」の言葉が、現在の富山県警山岳警備隊に受け継がれているとのこと。
職人技に加え、ハイテクも導入する富山県警山岳警備隊、昨年11月には最新鋭のヘリに更新、富山空港から10分で救助地に到達。このヘリ、場合によっては救助者を乗せてそのまま富山市の市民病院の屋上に降り立つことも可能です。
まさに、陸空医の三方面から遭難者の救助にあたる、日本一のマウンテンポリス、富山県警山岳警備隊、しかし一番の願いことは彼らが「活躍しない日々」が続くこと。
http://toyadoco.blog.jp/archives/1056721651.html
県警剣岳遭難、へえ〜死んだ一人は夏まで残置ってか 2011-03-01
富山県上市町の北アルプス・剱岳の「池ノ谷ガリー」(標高2750メートル)付近で富山県警山岳警備隊員が雪崩に巻き込まれた事故で、県警は1日早朝、県の防災ヘリで捜索を開始、救助を待っていた6人のうち5人を収容し病院に搬送した。
雪崩は2月28日午後1時20分に発生。冬山での救助訓練のため1列になって登っていた6人のうち、前の3人が雪崩に巻き込まれた。自力で脱出した飛弾(ひだ)晶夫警部補(40)が、約3分後に木村巡査を、約20分後に丸山巡査部長を救助したが、2人とも意識がなかったという。
その後、巻き込まれなかった3人が飛弾警部補らと合流。丸山巡査部長はすでに心停止状態だと判断し、木村巡査を発生場所から標高差で約240メートル下った地点まで運び、5人でテントに泊まって救助を待っていたという。
県警生活安全部地域室は「冬山の山岳救助は困難を極めるため、あえて難しい状況下での訓練を実施することも必要だった」としている
(記事から読み取れること)
あのなあ、雪崩くらいでビビるなよ。それが訓練だったんじゃないのか。
5人を救出にきたヘリから、スノーボートくらいはおろして、そして登り返して死んだ一人は、現時点で救出しなくてどうするんだ。そういう訓練で、剣岳にきたんじゃないのか、訓練中に、実に実践的な事例が生じたのだから、そこで成果見せてくれよ、ポリさん。少なくとも3人は元気なのだから、宿泊した1900mから、死体残置の2100mまで登り返して、引きずり出してヘリに乗せるべきだと思うけどね。んなこともできないのから、最初から救助隊辞めてくださいね。
まあいまどきのゆとりポリとは、暖房の部屋の中での計画段階は勇ましいけど、ちょっと実践っぽくなると、とたんにへにゃへにゃになるとは、まさにこのこと。遺体も夏までここママじゃ、浮かばれないなあ。
ここで特有の是々非々持論を言わせてもらうと、発生して流された雪崩にビビらずに、ここで冷静に対処できるポリ登山者だったとしたから、いまどきの池ノ谷ガリーを、視界が100mしかないときに登山なんかしないというわけだ。つまり雪崩なんかに遭遇しない。
逆に、特攻隊死にそこない部隊だったからこそ、こんな死にそこない事象が発生して、そしてこういう現場に出くわすときに限って、口先特攻隊というのは、ビビりまくりで何もできないというわけなんです。
したがって余談だけど、65年前の特攻隊というのも、いきなり死んでくれたからこそ、それらしく歴史に残っているけれど、あれはイスラムの自爆テロ以下の、ただの昭和ニッポンが指令した、犬死部隊だったということです。
http://blog.goo.ne.jp/sptakagammon/e/e17c29140271a2d1a508d59461a93c77
「山ガール」ブームに潜む危険な側面〜「剱岳遭難の富山県警山岳警備隊員、5人を救助」 2011/03/01
【剣岳山頂からのパノラマ(夏山期)】
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/444/21/N000/000/000/129905666918316103080_0107_Tsurugidake_south_v_name.jpg
【剱岳遭難の富山県警山岳警備隊員、5人を救助】-----
(2011年3月1日11時56分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110301-OYT1T00495.htm
富山県上市町の北アルプス剱岳・池ノ谷ガリー(2750メートル)で救助訓練中の県警山岳警備隊員6人のうち3人が雪崩に巻き込まれた事故で、現場周辺で野営していた重体の上市署巡査・木村哲也さん(33)と、足などにけがを負った同署警部補・飛弾晶夫さん(40)は1日午前6時45分頃、県防災ヘリで救助され、富山市内の病院に搬送された。
木村さんは意識を回復した。
重体となっている入善署巡査部長・丸山政寿さん(45)は、心肺停止状態で、雪崩で押し流された険しい場所(2140メートル)にとどまったままという。
天候状態も悪いため、ヘリは現場に近付けないままとなっている。県警は天候の回復を待って、同日中にも救助したいとしている。
また、この3人と一緒に訓練していた同パーティーの残りの3人も1日早朝、ヘリで富山市内に運ばれた。けがはなかった。
-----------------------------------------
【山岳警備隊員2人を救助=北アで訓練中に雪崩―富山県警】-----
(2011/03/01-11:14 時事ドットコム)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011030100368
北ルプスの剱岳で訓練中、雪崩に巻き込まれた富山県警山岳警備隊員3人のうち2人が1日、同隊にヘリコプターで救助された。
2人とも命に別条はなく、同隊は残る1人の救助を急ぐ。
県警生活安全部地域室によると、救助されたのは飛騨晶夫警部補(40)と木村哲也巡査(33)。
木村巡査は意識不明の重体だったが、会話ができるまでに回復、飛騨警部補は足首を捻挫しているという。
残る丸山政寿巡査部長(45)は心肺停止となっており、天候回復を待ってヘリで救助に向かう。
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山岳警備隊=山岳救助隊は、登山のプロである。
しかし、いくらプロだろうが遭難事故が起きてしまう程、積雪期の北アルプルとりわけ後立山連邦(「後立」)は危険な地域だと思う。
しかも雪崩に巻き込まれればひとたまりも無い。
雪崩に遭い、滑落したにも生還したのは、普段の訓練と充分な装備があったからだろう。
しかし今尚、心肺停止状態のまま雪に埋もれているという事から考えると時間との闘いとなり、かなり厳しい状況だと思う。
一般的に12月〜2月頃までの「冬山」=「厳冬期」は危険と思われだが、実際は3月頃の春山の方が危険度は高いと思う。
厳冬期の後立はドカ雪で動けなくなるケースが多いが、充分訓練や装備をしていれば耐えられる。
しかし、春山は予期せぬドカ雪と気温の上昇から今回の事故のような雪崩の発生、雪庇のぶち抜きなど様々な危険な要因が多い。
以前、後立では無いか、3月に涸沢西尾根から涸沢岳に順調に登頂し、その後も何ら問題無く涸沢岳から縦走し奥穂岳を通過して西穂岳にむかう途中に、天候が急変し一夜でテントが埋まり慌ててテントを放棄し雪洞を掘り避難した事があった。
それまで順調に来ていたので気の緩みがあった。
本来はパーティーので交代で夜はテントが潰されないように、雪かきをしなければならなかったのだが、あまりにも順調だったので、3名のパーティーだったが、皆眠りこけていた。
目が覚めた頃には、テントのポールは折られており、皆雪の中にから慌てて脱出し、なんとか最低限の装備だけを掘り起し、丸々1日かけて雪洞を掘った。
稜線上だったので、かなりの暴風と豪雪で目もあげていられない状態だった。
雪洞に無事避難した後は、雪洞の入り口が塞がらないように3時間置おきに交代で、入口を守った。
一応、ビバーク用のツェルト(簡易テント)はあったが、問題は稜線上でありテントが無いという事で、一気に下山しなければならないという点だった。
このような暴風と豪雪に再度みまわれると、ツエルトもあまり期待ができない。また稜線上なので、雪洞を掘れる程の積雪が無い場合、休む場が確保できない。
仕方が無く、体力を温存し天候の回復を待って強行下山を試み、無事約20時間程かけて新穂高温泉のスキー場まで下山できた。
更にスキー場を下降している頃には真夜中だったが、たまたまスキー場の整備をしていた大型車の除雪車に出会った。
運転手の方から声を掛けてもらい、快く乗せてもった。
更には夜中にも関わらず付近の宿を手配してもらって、無事宿にたどり着いた。
皆、疲労困憊で後輩は直ぐに寝てしまったが、宿の主人が話し好きで、貴重な熊の肉や鹿の肉などを焼いて食わせてもらった。
自分が所属していた山岳部は事故率の低さで定評があったが、十数年前に涸沢西尾根を登攀中に雪庇を踏み抜き滑落するという事故が起きた。
宿の主人はたまたま、その際に編成された救助隊に加わっていたという事で、話しが盛り上がった。
しかし、滑落したOBは残念に救助隊が到達する前に息絶えてしまっていたのである。
眠い目をこすり、疲労困憊な身体だったが、不思議な縁から朝まで酒を交えて様々な話しを想い出す。
とにかく積雪期の北アルプスはいくら訓練で体を鍛え、充分な装備をしても危険から逃れられない。
実際に積雪期の際に備えて入れる保険は皆無である。
登山ショップで、山岳保険の受付けをしているが、ピッケル・アイゼンを付けるような積雪期登山は、地震・天災・革命・暴動などと並んで免責事項として列挙されている。
唯一、掛け捨ての山岳保険があった。思い出せないが、その保険会社は後に倒産していまった。
当時入れた保険は死亡・遭難時に100万しかおりないというもので、救助用のヘリ費用の足しになる程度だったと思う。
今、「山ガール」といったブームが起きているようだが、安易に山に入るのは、地震・天災・革命・暴動などと並んで危険という事だけは肝に銘じておくべきである。
各都道府県では様々な山岳団体が存在する。例えば日本勤労者山岳連盟や日本山岳協会などである。
登山をはじめるにあたってこれらの山岳団体で講習や研修、訓練等が受けられる。
特に北アルプスや南アルプスを目指すならば、上記の山岳団体等で充分な訓練と装備を教わり、日頃の体力作りをして緊急時に対処できるだけ力量が付き前までは、近郊の低山で訓練を重ねるべきである。
更に各消防署に問い合わせれば、救急救命救助の基礎的な講習が受けられる。
気道の確保や人工呼吸などの初歩的な緊急救急手当などのやり方を習える。
充分な知識・体力・装備で、緊急時に冷静に対応できる力量を日頃から養っておく必要性がある。
http://fxtrader.at.webry.info/201103/article_3.html
- 剱岳行方不明 _ 19歳の妹が9/8の日曜の夕方から行方不明です。何か情報をお持ちの方よろしくお願いいたします。 中川隆 2019/9/13 03:45:46
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