★阿修羅♪ > 近代史02 > 673.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
O lieb,solang du liebenkannst フェルディナント・フライリヒラート
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/673.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 27 日 13:38:35: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 中欧 フランツ・リスト 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 27 日 01:58:13)

フェルディナント・フライリヒラート(Ferdinand Freiligrath、1810年6月17日−1876年3月18日)は、ドイツの詩人・翻訳家。

ヴェストファーレンのデトモルトに生まれる。父は市の高等小学校に勤めていた。7歳の時、母を病気で失う。16歳の時にギムナジウムを中途退学し、ゾエストという田舎町にある親戚の店に見習奉公に出される。仕事の合間に英語やフランス語、幾何や代数を学習し、ミルトンの『失楽園』やゴールドスミスの『ウェークフィールドの牧師』などを原語で読む。19歳で父が亡くなった頃、最も人口に膾炙した詩「愛しうる限り愛せよ O lieb,solang du liebenkannst」がつくられた。1832年にアムステルダムに移り、両替商の通信係として務める。近代フランスの作家に親しみ、ラマルティーヌ、オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユーゴーの思想や表現を作品に取り入れるようになる。1833年12月から、シャミッソーが編集していた『ドイツ年鑑詩集 Der deutsche Musenalmanach』やコッタ社の『モルゲンブラッド Morgenblatt』のような文芸誌に自分の詩を発表し、注目を浴びるようになる。一時ゾエストにもどり、1838年バルメンの商会に勤め始め、それと同時に最初の詩集が出版され、カール・インマーマンのサークルと交わり、著作家として生きる決意をかためた。1839年にヴェストファーレンやライン河畔の地方を旅行し、1841年に結婚しダルムシュタット、ついでザンクト・ゴアールに移り住んだ。1842年にはアメリカ詩人のロングフェローが彼の新居を訪問し、生涯の友となる。

1843年初めの『ライン新聞』の禁止や『ドイツ年報誌』への弾圧は、フライリヒラートにドイツの自由が失われつつあると気づかせ、政治に傾斜した詩を書き始める。1844年8月、新しい詩集『信念の告白 Glaubenbekenntnis』が出版され、その詩集が表明している民主主義思想への弾圧を予期し、妻を連れてベルギーへ脱出する。ブラッセルでやはり亡命していたカール・マルクスと出会い、交友のきっかけをつくる。1845年にスイスのマイエンブルクへ移り、自作の詩(O lieb,solang du liebenkannst)に曲をつけてくれたフランツ・リストの訪問を受けている。アメリカ詩人のバイヤード・テーラーがやってきたのもこの頃である。その年の秋にホッティンゲンへ居を移り、ゴットフリート・ケラーを知る。ユーゴーやフェリシア・ヒーマンズ、テニソン、ロバート・サウジーの詩を翻訳したのもスイス時代である。

1846年夏、ロンドンへ渡り貧困に苦しむあまり、アメリカ移住まで考えた。1848年2月からフランス・ドイツで革命が起こるとフライリヒラートはその進展を熱心に見守り、5月にはライン州デュッセルドルフへ行き、共和制とドイツ統一のアジテーターとして活動する。パンフレットに印刷され配布された彼の詩が、8月には革命煽動罪として司法当局によって告発され、10月の陪審裁判で無罪釈放となり、彼はライン地方で政治詩人・民主主義者として名が知れわたる。その月の下旬に『新ライン新聞』が創刊され、マルクスやエンゲルスとともに編集責任者の一人となり、詩を寄稿している。しかし翌年の5月17日には新聞はプロイセン政府の弾圧のもと廃刊を余儀なくされ、フライリヒラートは1851年5月にはふたたびロンドンに亡命する。

イギリスでは詩の編集や翻訳、ドイツ語新聞への寄稿、輸入商の事務員などで生計を立て、政治活動からは離れていく。1855年頃にアメリカのウォルト・ホイットマンに注目し、紹介に努めるとともに独訳も進めている。1861年にプロイセン国王による大赦令が出て、フライリヒラートは1868年に帰国し、シュトゥットガルトに住む。詩作とロバート・バーンズなどの独訳に専念し、ネッカー河畔のカンシュタットに没する。66歳没。

参考文献

井上正蔵・訳『フライリヒラート詩集』(1944年、日本評論社)
F・メーリング『マルクス主義の源流』(1965年、徳間書店)
上田進・訳編『マルクス・エンゲルス芸術論』(1957年、岩波書店)
リャザノフ『マルクス・エンゲルス傳』(1947年、研進社)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 五月晴郎 2012年7月30日 02:43:01 : ulZUCBWYQe7Lk : 7V9IIWTBwM
この一連の投稿記事も「ローマ文化王国−新羅 由水常雄著(新潮社)」http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/668.html 同様、『現代国際政治を動かすゾロアスター教の遺産 (JOGMEC)』 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/655.htmlの参考資料です。

18世紀以降の近代自由主義思想は15世紀にフィレンツェで興隆した新プラトン主義に根でつながり、茎が表面に出たものであるという。

新プラトン主義は二元論で説明される。ローマ教会の三位一体説によって異端とされた二元論である。
ローマ教会に弾圧され地下にもぐったのがイルミナティー(フリーメーソン)=勃興する商工業者たちの団体とされる。
モーツァルトやベートーヴェン(「中欧 フランツ・リスト」http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/672.html で触れた古山和男著「秘密諜報員ベートーヴェン」に詳しい)たちも所属していた。

4世紀にローマ皇帝が主催者となったニケーア宗教会議で三位一体説(父と子イエスと精霊を合わせ神)を正しいとし異端とされたグノーシス教も二元論(肉体と思考・知能)である。
グノーシス教はゾロアスター教が変じたものである。


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧