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アングロサクソンとは(http://blog.ohtan.net/archives/cat_50038741.html)
(これは、遠江人さんによるコラムです。)
--太田さんオリジナルの文明論「アングロサクソン論」の紹介--
1.はじめに
いわゆるアングロサクソンと呼ばれる人々がブリテン島において形成されて以来、大航海時代以降に多くの人々が海外に出て行くことはありましたが、基本的には現在に至るまで欧州という地域の中にアングロサクソンは存在してきました。このこともあってアングロサクソンは、アングロサクソン以外の欧州の国々と多少の文化の違いはあっても、それほど大きな違いがあるわけではなく、当然のように同じ欧州文明に属するものであると、当事者である欧州以外の人々は思いこんでいるのではないでしょうか。
しかし、アングロサクソン文明とそれ以外の欧州文明は、実は全くの異質な文明である、といったらどう思われますか。さらに世界の近現代史を貫く最大のテーマはアングロサクソン文明とそれ以外の欧州(西欧)文明の抗争の歴史であると。
まさにそのように主張しているのが太田さんオリジナルの文明論「アングロサクソン論」なのです。
2.アングロサクソンは純粋のゲルマン文明
ではアングロサクソン文明とアングロサクソン以外の欧州(以下、欧州とします)文明は、なぜ近くにあって大きく違うのでしょうか。また、それぞれどのような文明なのでしょうか。
太田さんの言によると、アングロサクソンはゲルマン民族の伝統をほば変わらず持ち続け、他方、欧州(のゲルマン諸族)はローマ化してゲルマンの伝統をほぼ失ってしまった人々であり、また(大雑把に言って)アングロサクソン文明はゲルマン由来の「個人の自由の尊重」(=個人主義)を中心的価値とする文明であり、欧州はローマ由来の「宗教(中世まで)や一般意思(近代以降)の優越する」文明(=全体主義的)、ということのようです。
では具体的に、ゲルマン民族の価値観や文化とはどういうもので、どのように形成され、なぜブリテン島のアングロサクソンにだけ受け継がれたのでしょうか。
3.戦争を生業とするゲルマン人
「タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫1979年4月。原著は97-98年(1世紀))は、ローマ時代のゲルマン人について記述した有名な書物ですが、以下のような記述があります。
「人あって、もし彼ら(筆者注:ゲルマン人のこと)に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<によって>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77頁)
これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。
こういうゲルマン人がやがてローマ帝国に侵攻し、これを滅ぼしてしまうのですが、欧州大陸のゲルマン人はやがてローマ化していまい、戦争が生業ではなくなっていきます。
ところが、ローマが自分でイングランドから撤退した後、文明のレベルが違いすぎてローマ文明を受け継ぐことのできなかった原住民のブリトン人(ケルト系)を、スコットランドやウェールズといった辺境に駆逐する形でイングランドを占拠したアングロサクソン人(ゲルマン人の支族たるアングル、サクソン、ジュート人がイングランド侵攻後、混血したもの)は、ゲルマン「精神」の純粋性を保ち続けます。
だから、アングロサクソンにとっては、戦争は生業であり続けたのでした。」(コラム#41(*1)より抜粋)
「では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。
私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・(略)(77頁)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注8)。
(注8)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、
家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他す
べてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰にのみ打ち
暮らす。」(79頁)というメリハリのきかせ方だった。
ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。
つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。
しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。
「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)
戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注9)。
(注9)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行な
い、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身
柄を賭けても争う・・。」(112頁)
注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。」(コラム#852(*2)より抜粋)
以上のように、ゲルマン民族は一人一人が戦士であり、戦争を生業とする人々であったようです。額に汗して働くことよりも、自分が負傷したり命を落とすリスクがあっても、戦争によって掠奪品を得るほうが、はるかに効率がよく得るものも大きいと、当然のように考えている人々だったのです。
そして戦争遂行という最優先事項のためには、部族の全員が一丸となって協力し、また戦争をする上では、合理的な計算に基づいて、可能な限りコストや被害を少なくして、いかに効率よく戦争を遂行できるかということを追求した形で、実行されていたのです。
(*1)コラム#41<米国憲法第一条第八節第11項>
http://blog.ohtan.net/archives/50955794.html
(*2)コラム#852<郵政解散の意味(補論)(続x4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954981.html
4.個人主義
ゲルマンの成人男子は一人一人がプロの戦士で、部族全体が戦争という生業のために一致協力していた、ということは分かりました。では、その戦闘民族的な側面以外に、ゲルマン特有のユニークな点はあるのでしょうか。
「ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴル等の遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。
それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。
その個人主義と民主主義です。
「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81〜82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89〜90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。
また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65〜69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。
以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。」(コラム#852より抜粋)
「まず、押さえておくべきは、プロの戦士であったアングロサクソンにとって経済活動は、食い扶持を確保した上で、更に戦士としての実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしに過ぎない、ということです。
ここで実益の追求とは、個人的戦費及び集団的戦費(税金)を確保することであり、かかる実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしを、彼らはいかに楽に行うかに腐心しました(注13)。
(注13)ちなみにアングロサクソンは、「戦士としての実益の追求を兼
ね」ない趣味ないし暇つぶしの多彩さでも知られている。彼らが後
に、読書・科学研究・スポーツ・レジャー・観劇・旅行、等に狂奔
したことが、近代文学・近代科学・近代スポーツ・近代レジャー・
近代演劇・パック旅行、等を生み出すことになった(コラム#27)。
タキトゥスの叙述からもお分かりのように、彼らは、その生業としての戦争に従事している間、生死をかけること等に伴うストレスにさられただけでなく、集団行動に伴うストレスにも(個人主義者なるがゆえに)さらされたことから、平時においては、各自がばらばらにリラックスをして過ごすことによって、精神的バランスを回復する必要がありました。
しかも彼らにはその「自由の意気と精神」から支配者がおらず、またその「戦争における無類の強さ」に恐れをなして彼らを掠奪の対象とするような者もほとんどいなかった上に、彼らにとって戦争が経済計算に立脚した合理的営みである以上、戦費は巨額なものにはなりえませんでした。ですから彼らは、支配者に貢ぐために、あるいは外敵によって掠奪されることを見越して、あるいはまた巨額の戦費を捻出するために、ひたすら額に汗して働かなければならない、という状況にはなかったわけです。
そういうわけで彼らが経済活動にあたって考えることといえば、目標とした一定の収益を、いかに最低限の労力やコストの投入によって確保するかだけでした(注14)。」(コラム#857(*3)より抜粋)
自由の意気と精神、つまりは戦士たる己の力(能力)のみを頼りとして支配されることを由としないということ、それぞれが戦士として自立していること、戦時以外の自由を尊重すること、これらのことから、ゲルマン人にはごく自然なこととして個人主義が定着していたと思われます。
部族内においては、戦時以外では自分も他人も自由が侵されず、制度的なしがらみもない。ゲルマン人は戦争を生業とする戦士であったことで、かなりの程度、個人主義、自由主義が文化として浸透していたようです。また(義務を果たしている人々である)戦士による直接的な民主主義も行われていました。一見、個人主義や民主主義というと、古代ギリシャ等、文化的に高いレベルにあって初めて実現すると思い勝ちかもしれませんが、なるほど、武の伝統から生まれることもある、というところはユニークで面白いですね。
(*3)コラム#857<郵政解散の意味(補論)(続x6)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954976.html
5.アングロサクソンの起源
では、このようなゲルマンの伝統が、いかにしてブリテン島に伝播し、維持されていったのでしょうか。アングロサクソンの起源を確認しておきましょう。
「今まで随時、アングロサクソン論を展開してきましたが、このあたりでアングロサクソンとは何かを振り返っておきましょう。
5世紀に、スカンディナビア及び北ドイツから様々なゲルマン支族がイギリスに渡ってきて、ケルト系先住民のブリトン人(=ローマ文明を継承できていなかった)を辺境に駆逐した上で定住し、相互に通婚してアングロサクソンとなります。(8世紀にベード(Bede)は、アングル支族、サクソン支族、ジュート支族の三支族が渡ってきたと記しましたが、これは単純化しすぎだと言われています。)(Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books, 1987 PP30)
このアングロサクソンは、7世紀末までにキリスト教化します(前掲Historical Atlas of Britain PP32)。アングロサクソンの部分的ローマ化、欧州化です。
しかし、9-10世紀には、アングロサクソンは、まだキリスト教化していない、デンマーク(一部ノルウェー)のバイキング(デーン人)の侵入、定住化を経験します。(前掲 PP38)(なお、11世紀初頭には、アングロサクソンは、後にデンマーク王とノルウェー王を兼ねることになる、デーン人(その頃には既にキリスト教化していた)の王族カヌートに一時征服されます。(前掲 PP52))
更に1066年には、アングロサクソンは、フランス北部に侵入、定住したバイキング(ノルマン人)の子孫である、ノルマンディーの領主ウィリアム公に征服されます。(前掲 PP55-57)
このように、アングロサクソンは、もともとゲルマン人としての純粋性を維持していた上に、キリスト教化した後も、累次にわたってかつての同胞であるバイキング・・キリスト教化していなかった者も少なくなく、しかも、極めて能動的(=悪く言えば、好戦的で侵略的)でした・・の侵入、定住化、征服を受け、その都度、ゲルマン精神を「再注入」させられ、「純化」させられたのです。そのおかげで、アングロサクソンは、精神のローマ化・欧州化を基本的に免れることができたのです。(アングロサクソンとノルマンの同根性、同質性を強調するのがBBCの歴史サイトです(http://www.bbc.co.uk/history/war/normans/society_01.shtml。11月10日アクセス)。)」(コラム#74(*4)より抜粋)
「また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。」(コラム#1397(*5)より抜粋)
以上のとおり、ガリアのゲルマン諸族はローマ化した結果、ゲルマンの伝統を失うことになり、海を渡ってブリテン島に渡来して現地民と同化したアングロサクソンには純粋な形で残ることとなりました。さて、そんなゲルマンの伝統をほぼ純粋に受け継いだアングロサクソンの国、英国とはどのような社会になったのでしょうか。(ちなみに最新の研究によるとアングロサクソンの起源はバスク系の人々とベルガエというゲルマン系の人々がかなり関係しているようです。詳しくはコラム#1687(*6)を参照してください。)
(*4)コラム#74<アングロサクソンと北欧神話(アングロサクソン論3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955759.html
(*5)コラム#1397<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954436.html
(*6)コラム#1687<アングロサクソンの起源>
http://blog.ohtan.net/archives/50954197.html
6.法の支配とコモンロー
コモン‐ロー【common law】
1 英国で、通常裁判所が扱う判例によって発達した一般国内法。一般法。→エクイティー
2 ローマ法・大陸法などに対して、英米法の法体系。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=07686006861500
かんしゅう‐ほう〔クワンシフハフ〕【慣習法】
慣習に基づいて社会通念として成立する法。立法機関の制定によるものでなくても、法としての効力を認められている慣習。一種の不文法。習慣法。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC&dtype=0&stype=1&dname=0na&ref=1&index=04483903890000
アングロサクソン社会のユニークな点として、まずはコモンローを挙げてみたいと思います。コモンローと言えば、アングロサクソンの慣習法、自然法といったことを思い浮かべますが、太田さんはどのように考えているのでしょうか。
「クライムスは、「11世紀初頭において、[イギリスを征服したデンマーク王]カヌートは、それより半世紀後のウィリアム征服王と同様、・・彼らの前任者たる王達によって、築かれた伝統や身分を破壊しようとはしなかった。」と述べ、アングロサクソン期と中世の連続性を指摘した上で、「[アングロサクソン期の]イギリス王は、法の源ではなかった。・・法は種族の慣習、または部族に根ざす権利からなり、王は、部族の他のすべての構成員同様、法に全面的に従属していた。・・法は、本質的には、その起源からしても非人格的なものであって、いにしえの慣習や、部族共同体の精神に由来すると考えられていた。法を宣言し、裁定を下すのは、王の裁判所ではなく、部族の寄り合い(moot)であり、王の任命した判事や役人ではなく、訴追員や審判員の役割を担った、近所の自由人達であった。・・王は、単に、法と寄り合いの裁定を執行するにとどまった。」と言っています。
こういうわけで、自由と人権の起源もはるか昔の歴史の彼方へ渺として消えていってしまいます。
この、マグナカルタ、権利の請願、権利の章典、アメリカ独立宣言などを次々に生み出していった淵源としてのアングロサクソン古来の法こそ、Common Law (コモンロー)なのです。
われわれは、個人主義が、アングロサクソン文明の核心にあることを見てきました。しかし、個人主義社会という、人類史上空前の「異常」な社会が機能し、存続していくためには、個人が、他の個人、集団及び国家の侵害から守られていなけれなりません。守ってくれるものが、王のような個人であったり、グループや、国家であったりすれば、それらが、一転、おのれの利害にかられ、私という個人の自由、人権を侵害するようなことがないという保証はありません。守ってくれるものが非人格的なコモンローであり、王も含めて全員がこの法に拘束されるということの重要性がここにあるのです。
(略)
フォーテスキューは、フランスは絶対君主制であり、すべての法が君主に発し、人々はそれに服するが、イギリスは、人々の自発的黙従に基づく制限君主制であり、王自身、彼の臣民と同じ法に拘束されるとし、「予想される不幸や損害を防止し、一層自らと自らの財産を保護するためだけに王国を形成した国が、イギリス以外に存在しないことは明白である。」と指摘します。」(コラム#90(*7)より抜粋)
アングロサクソンにとってのコモンローとは、古来からの個人主義の精神に基づいて、必然的に生まれた慣習法体系だと言えそうです。個人の自由や権利や財産を守るための法が自然法として定着していて、王といえど権利を制限され法の支配の下に置かれるというわけです。このことは、アングロサクソンは古来から人治主義ではなく法治主義であったという見方ができますね。
考えてみれば、個人主義であるためには、法の整備と遵守が全員に徹底していなければ実現できないであろうことは、当然と言えば当然ですね。
ちなみに個人主義だけでは遠心力が働いて社会が瓦解してしまうことを防ぐための制度として、コモンローとはまた別にアングロサクソン文明固有の「信託」という思想があるようです。信託については、コラム#1399(*8)と#1400(*9)を参照してください。
(*7)コラム#90<コモンローの伝統(アングロサクソン論8)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955743.html
(*8)コラム#1399<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954434.html
(*9)コラム#1400<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954433.html
7.資本主義と反産業主義
個人主義社会であるからには、同時に、資本主義社会でもあると言えそうです。個人主義が貫徹している社会であれば、個人が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を、誰もが持っているはずだからです。
「個人主義社会とは、個人が部族・封建制・教会・領域国家等、欧州史の古代・中世におけるような社会諸制度のしがらみから、基本的に解放されている社会です。
ちなみに、個人主義社会と資本主義社会はイコールであると言ってよろしい。個人主義社会とは、上記のごとき社会諸制度によるしがらみから基本的に自由に、個人が自分の財産(労働力・カネ・モノ)の使用・処分を行うことができる社会であり、これぞまさしく資本主義社会だからです(注6)。
(注6)これは、英国のマクファーレーン(Alain Macfarlane)の指摘だ
が、この話をもっと掘り下げて論じたいと以前(コラム#88)記しな
がら、マクファーレーンのその後の著作等の勉強を怠っているた
め、今後とも当分の間、この「約束」を果たせそうもない。」(コラム#519(*10)より抜粋)
「しかも、個人主義社会なのですから、アングロサクソンの各個人は、自分自身(の労働力)を含め、自分が所有する全ての財産を、誰の干渉も受けずに自由に処分する権利を持っており、実際にその権利を頻繁に行使しました。そういう意味で、アングロサクソンは全員が「商」(資本家)でもあったわけです(注15)。
(注15)このような意味で、個人主義社会であるところのアングロサクソ
ン社会は、生来的に(つまり最初から)資本主義社会であると言え
よう(コラム#81)。」(コラム#857より抜粋)
「いずれ詳しくご説明するつもりですが、イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。
そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)」(コラム#81(*11)より抜粋)
「また、古典ギリシャ社会においても古ゲルマン社会においても、労働には低い社会的評価しか与えられていませんでした。アテネ等のポリスでは、奴隷が労働に従事し、市民はもっぱら政治と軍事に精を出したものですし、ゲルマン民族の男達は、「戦争に出ないときにはいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食に耽りつつ、無為に日をすごす・・家庭、家事、田畑、一切の世話を・・女たち、老人たち<など>・・に打ち任せて・・懶惰にのみ打ちすごす」(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版)78〜79頁)のを常としました。
ですから、貧しかった時代ならいざ知らず、豊かになった現在の西欧諸国において労働時間が著しく減ってきたのもむべなるかなとお思いになるでしょう。
それでは、アングロサクソン諸国の労働時間の長さはどう説明したらよいのでしょうか。
アングロサクソンは世界でほぼ唯一生き延びた純粋なゲルマン人であり、ゲルマン人の生業(本来の労働)は戦争(=略奪行為)だったことを思い出してください(上記引用参照)。これは戦争以外の時間はゲルマン=アングロサクソンにとっては来るべき戦争に備えて鋭気を養う余暇だったということを意味します。だから農耕・牧畜(=食糧確保)に比べて狩猟(=食糧確保+戦争準備)をより好んだとはいえ、これら「労働」も「無為・懶惰に過ごす」こととともに余暇の一環であり、「労働」を減らす、制限するという観念は、元来彼らにはなじまないのです。
そして、キリスト教の聖書を世界で初めてに民衆が読める自国語に翻訳して大量に普及させたアングロサクソンは、ゲルマン人としての彼らのもともとの好き嫌いを踏まえ、農耕・牧畜等の「懲罰」としての「額に汗」する「労働」(labour。「陣痛」という意味もある。同義語はtask)と狩猟等のそれ以外の「労働」(work。同義語はbusiness)とを明確に区別し、hard work を厭わず(?!)labourを減らすことに腐心してきました。その最大の成果の一つがイギリスを起源とする18世紀のいわゆる産業革命です(コラム#81参照)。
これに対し、西欧ではこの二種類の「労働」を区別することなく、どちらも忌むべきものとして削減することに努めてきた、と私は考えています。」(コラム#125(*12)より抜粋)
アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であったというのは面白いですね。楽をしたいからhard workを厭わないというのも、とても面白いと思います。英国が様々な創意工夫をして近代的な発明を数多く生み出したのも、よく分かる気がします。
ちなみに太田さんは、近代文明はイギリス文明そのものといってよく、近代のほぼ全てがイギリスで始まっている、とも仰っています。コラム#84(*13)を参照してみてください。
それと、経済的物質的に貧しい社会においては、個人主義を成り立たせる余裕が無く、乏しきを分かちあいながら、共同体に埋没して生きて行くより他はないところ、イギリスで個人主義が維持できたのはイギリスが大変豊かだったからだ、という側面もあるようです。コラム#54(*14)を参照してみてください。
(*10)コラム#519<米国反仏「理論」あれこれ(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955314.html
(*11)コラム#81<反産業主義(アングロサクソン論4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955752.html
(*12)コラム#125<各国の労働時間の違い>
http://blog.ohtan.net/archives/50955708.html
(*13)コラム#84<イギリス文明論をめぐって(アングロサクソン論5)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955749.html
(*14)コラム#54<豊かな社会(アングロサクソン論2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955781.html
8.本来的には反民主主義的な文明
「ゲルマン人にとっては、戦争による掠奪こそ、その生業であった。
ゲルマン人の政治集会には、戦士のみが出席を許された。集会は、各自が武装したまま開催され、軍の司令官である王の選出、慣習法および王例の承認、また戦争によって掠奪された戦利品の分配等が行われた。
これが西欧における議会制の起源であり、ゲルマン議会制が最も純粋な形で残ったイギリスにおいて、これが後に近代議会制へと変貌を遂げるのである。」(『防衛庁再生宣言』P139〜140より抜粋)
「(注1)イギリス議会の起源はゲルマン民族のどの部族にも見られた部民全
体会議である。部民全体会議参加有資格者は戦士たる成人男子だっ
た。王も将軍も基本的にこの会議において選出された。(タキトゥ
ス「ゲルマーニア」(岩波文庫版。原著が執筆されたのは、紀元97
〜98年)52〜53頁、65〜76頁)
してみれば、議会が軍隊を興して議会の意向に従わない国王と戦
ったり、その議会軍が代議員を政治集会に派遣したりするのは、
(大陸に残ってローマ化して「堕落」したゲルマンと違って)純粋
なゲルマン民族の風習を受け継いだアングロサクソン(イギリス
人)にとってはごく当たり前のことだったに違いない。」(コラム#372(*15)より抜粋)
太田さんの「ゲルマン人がユニークだった点は、その個人主義と民主主義です」との言もあり、当然、アングロサクソンは個人主義と同様に民主主義も大好きなのかと思ってしまいますね。しかし、どうもそう単純な話ではないようです。
「私は手放しの民主主義礼賛者では全くありません。
私の好きなアングロサクソン文明は、反民主主義文明の最たるものです。フランス人貴族のトックビルが書いた「アメリカにおける民主主義」という余りにも有名な本は、そのタイトルだけでも多大の誤解を読者に与え続けています。哲人ソクラテスを、青年達を惑わしたとして死に追いやったのはアテネの民主主義でした。このような権力を握る多数者による少数者・個人の自由の恣意的侵害を許さない、という世にもめずらしい文明がアングロサクソン文明なのです。
アングロサクソンは、手続き的正義と実体的正義が渾然一体となった慣習法=コモンローを墨守してきました。議会制定法によるコモンローの改廃を基本的に認めないという考え方です。
そして政治制度にあっては、英国は、王制や貴族院制度、そして王制と表裏一体の内閣制度等の反民主主義的制度、米国は、大統領の間接選挙制(その名残が、この前の大統領選挙の総得票数でゴアを下回ったブッシュの当選)、三権分立による権力の相互牽制、連邦制(「合衆国」ならぬ「合州国」)等の反民主主義的制度、を堅持してきたわけです。(議会制そのものが、直接民主制の否定という側面を持っていることもお忘れなく。)
ですから、英米における民主主義の進展は遅々としたものでした。米国の黒人の投票権問題に端的にあらわれているように、両国における普通選挙権の確立に至る紆余曲折の歴史を振り返ってみれば、そのことは明らかです。英国の貴族院制度、つまりは貴族制度に至っては、その「民主化」に手がつけられたのは、つい最近のことに過ぎません。
しかし、このようなアングロサクソンの自由主義が貫徹されるのは平時だけの話であり、有事にはアングロサクソンの姿が完全に変貌することを我々は忘れがちです。」(コラム#48(*16)より抜粋)
「イギリスが筋金入りの個人主義社会であることには既に触れましたが、個人主義社会では自由競争の結果、必然的に階層分化がもたらされます。この階層分化を前提にすると、民主主義は、有能で財産と教養ある上流階層を犠牲とする、無知で無能で貧乏な人々による支配以外のなにものでもないことになります。イギリス人がそんな民主主義を好きなわけがないのです。
19世紀初頭までのイギリスやbastardアングロサクソンたるアメリカでは、代議政治がすでに確立しており、それはそれで世界史上特筆されるべきことなのですが、それらは、あくまでも、上流階層による代議制であり、英米いずれにおいても、反民主主義的風潮が支配的であったのです。
16世紀において、ホッブスが、絶対王政を擁護したことは、よく知られていますが、アメリカ独立革命に大きな思想的影響を与えたジョン・ロックも、決して民主主義者ではありませんでした。
(略)
ところで、案ずるより生むがやすしということでしょうか、ミルの死後11年たった1884年以降、大衆の要望にこたえて、イギリスでは男子普通選挙制度が実現されていくのですが、ミル達が懸念したような形での、労働者階層による政治の専断的支配は起こりませんでした。
その後のイギリス民主主義100有余年の経験は、民主主義が、少なくともイギリスでは実行可能であったことを示しています。しかし、依然としてイギリス人は、民主主義が、世界のどこにでも、時と場所を問わず、適用できる普遍的政治システムであるとは考えていません。」(コラム#91(*17)より抜粋)
多数により少数の権利が犠牲になるから民主主義は嫌いだ、というわけです。なるほど、個人主義が徹底しているのなら、そういう意見はむしろ出てきて当然なのかもしれません。しかし、民主主義を絶対的価値として崇めるような社会より、民主主義を警戒しつつも代議制や内閣制などの工夫をしつつ民主主義を維持していく社会のほうがよほど健全な社会のように感じます。
(*15)コラム#372<民主主義の起源(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955461.html
(*16)コラム#48<先の大戦中の日本の民主主義(続き)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955788.html
(*17)コラム#91<民主主義嫌い(アングロサクソン論9)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955742.html
9.戦争とイギリス
「緊急事態において、近代国家は意外な本性をかいまみせる。
(略)
最初の例は平時の場合だし、その次の例は植民地における有事の場合である。これが英国本土での有事ともなれば、次のようなおどろおどろしい場面が展開する次第となる。すなわち、戦争が勃発し、勅令等で緊急事態が宣言されるや、全地方自治体は機能を停止させられ、国土全体が10個の方面に分けられ、各方面は、軍・警察・行政の三者統合委員会の掌握するところとなる。そして全てのマスコミは接収され、電話の私的使用も原則禁止されるに至るという(コリガン&セイヤー『ザ・グレート・アーチ』ブラックウエル、1991年による)。
これらのことは実は意外でも何でもない。近代国家の最大の特徴は、国民等の自由・人権を憲法によって保障する立憲国家たるところにあるが、近代国家たる欧米諸国にあっても、国内外の敵に抗して自らの存続を図ること、すなわち安全保障が至上命題であることに変わりはない。その限りにおいて、物理的生存権を含め、人権が制限されることがあるのは、至極当然のこととされているからだ。
今日、近代文明の恵沢を我々を含め世界中の人々が享受しているのも、その近代文明発生の地であるイギリスにおいて世界で最初に成立した近代国家が、島国であるという地理的優位性を生かしつつ、強力な安全保障政策を一貫して採用し、近代国家を育み、発展させてきたからである。
(略)
戦争好きで戦争に強いイギリス人!この恐るべきイギリス人が後に、あの日が沈むことのない大帝国を築くのである。」(『防衛庁再生宣言』P202〜204より抜粋)
「(注2)このように、多くの欧州諸国の憲法は、人権の一部を制限したり、
制限をすることを許容しているわけだが、それに対し、日本の場合
は、憲法に人権制限規定はないし人権制限を許容するような憲法解
釈論も存在しない代わり、憲法に国権の一部(自衛権)を制限する
規定(第9条)がある。日本の憲法の国権制限規定は、「押しつ
け」られたものであり、憲法を改正するなり解釈改憲をすること
で、この制限規定を廃止すればよいだけのことだ。他方、上記欧州
諸国では、制限や制限許容を取りやめることなど、到底考えられな
い。」(コラム#993(*18)より抜粋)
「さて私は、アングロサクソンの本来の生業は戦争である、と繰り返し申し上げてきました(コラム#41、61、72、82、125、307、399、426、489)。
そう言うと、新しい読者の中には、英国は最近そんなに戦争をしていないではないか、という素朴な疑問を抱かれる方がおられることでしょう。
私に言わせれば、英国が戦争を余りしなくなった理由は単純そのものです。経済的利得につながる(ベネフィットがコストを上回る)ような戦争が少なくなったからです。そういうわけで最近では、不本意ながらイギリス人は戦争以外で主たる生計を立てているのです。」(コラム#616(*19)より抜粋)
近代国家においては安全保障は至上命題であり、一旦戦争状態になれば、平時の個人主義とは正反対に人権は制限されます。大変メリハリが利いていますね。このアングロサクソン由来の安全保障体制が今ではすっかりグローバルスタンダードになっているわけですが、何のことはない、戦争を生業とすること以外は、ゲルマン人の生き様そっくりですね。
(*18)コラム#993<徒然なるままに(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954840.html
(*19)コラム#616<米国とは何か(完結編)(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955217.html
10.欧州文明とは何か
ではアングロサクソンと同じように見られがちな欧州文明とは具体的にどのような文明なのでしょうか。
欧州文明の源泉は、西欧大陸の人々が継承した古代ローマ文明にあり、カトリック政教一致時代(=プロト欧州文明。宗教権力が世俗権力と連携しつつ個人に対して宗教教義(doctrine)の強制を行うことを最大の特徴とする文明)を経て、欧州文明時代(=全体主義的独裁時代)へと至ります。
「大方のイギリス人は、古代「ローマは、巨大で、一枚岩の独裁体制であって、いやがる人々にその意思を押し付け、どのように生きるか、何をしゃべり、何を信仰するかを指示した<ところの、>ナチスのごときものと見て」います(http://www.bbc.co.uk/history/ancient/romans/questions_01.shtml。5月3日アクセス)。」(コラム#1755(*20)より抜粋)
「(1)ローマ帝国のキリスト教国教化
ローマ帝国におけるキリスト教弾圧は、ネロ(Nero)帝による紀元64年のキリスト教徒迫害から始まり、哲人マルクス・アウレリアス(Marcus Aureliu)帝による165〜180年の迫害、更にはディオクレティアヌス(Diocletian)帝による303年の大迫害へと続きます。
ところがコンスタンチヌス(Constantine)帝の時にそれが一転します。コンスタンチヌスは313年にミラノ勅令を発出してキリスト教を公認し、325年にニケーア(Nicea)にキリスト教指導者達を集めて会議(council)を催し、原始キリスト教の反政治的・反権威的色彩を改めたニケーア信条(Nicene Creed)を制定させ(注4)、かつ337年の臨終の際にローマ皇帝として初めて正式にキリスト教の洗礼を受けるのです。
(注4)これは、キリスト教の堕落を意味した。
(略)
その結果、ギリシャ文明が全地中海世界を包摂したヘレニズム時代は、いわば信教の自由が担保された開放的な時代であったというのに、ローマ帝国が上記のような形でキリスト教を国教化したことによって、単一の宗教が国家権力と結びついていた、ヘレニズム以前の信教の強制を伴う閉鎖的な古代地中海世界がここに復活してしまうのです。
そして、西欧はカトリック教会の下で、東欧及びロシアは正教会の下で、そして7世紀にはキリスト教の影響の下で生まれたイスラム教の下で、欧州、ロシア、及び中東は爾後それぞれ、抑圧に満ちた悲劇的な歴史を歩むことを運命づけられるのです。」(コラム#413(*21)より抜粋)
「(注2)プロト欧州文明とは、キリスト教(カトリシズム)を体現する教会
と欧州の諸国家が提携しつつ、各国家が勢力伸張を競い合った文明
であり(コラム#61、65、231、457)、欧州文明とは、欧州の諸国家
が各種イデオロギー(ナショナリズム・共産主義・ファシズム)を
手段として勢力伸張を競い合った文明だ(多すぎるのでコラム番号
は記さない)。そしてこの両者をつなぐ移行形態が、ルイ13、14世
時代のフランス絶対王制であり、フランスがカトリシズムを手段と
してその勢力伸張を図った(コラム#100、127、129、148、162、
498)。」(コラム#503(*22)より抜粋)
「私は、世界の近現代史の最大のテーマは、アングロサクソンと欧州大陸(後には欧州・ユーラシア大陸)の間の大抗争(Great Game)であると考えている。これは、「個人主義=自由主義・経験主義」対「全体主義・合理主義」の大抗争であった。全体主義の起源は、欧州大陸において原始キリスト教が変容して生まれたカトリシズムである(ここでカトリシズムというのは、欧州の中世のそれであって、現在のカトリシズムではないことに注意)。
カトリシズムにあっては、主権者(国王等)が被治者に特定の信仰を強制するのが特徴である。つまりは、特定のイデオロギーによる洗脳が行われる。このカトリシズムの風土に生まれたのが、(フランス革命の鬼子たる)ナショナリズムであり、(ドイツ観念論の鬼子たる)マルクシズムやナチズム(ファシズム)である。異端審問(あるいは審問会議)や魔女狩り(あるいは粛清、エスニック・クレンジング)がカトリシズムと結びついていることは、容易に理解できよう。
これらは、アングロサクソンの最も嫌いな代物である。だからこそ、イギリス人は、今でも「English Channelの向こうから野蛮が始まる」(1988年、ロンドン滞在中に聞いたイギリス人の友人の言)と思っているのだ。」(『防衛庁再生宣言』P191〜192より抜粋)
「両文明は本来相容れないはずです。なぜなら「自由」を至上原理とするアングロサクソン文明は人間の言動のみならず心までも規制しようとするイデオロギーを何よりも厭うのに対し、欧州文明は、世界史上めずらしいイデオロギーの文明だからです。カトリシズム・プロテスタンティズム・絶対主義・ナショナリズム・共産主義・ファシズム・無神論等のイデオロギーは、カトリシズムを原型として、欧州文明が手を代え品を代えて次々に生み出してきた欧州文明固有の特産物であり、アングロサクソン文明にとっては、ことごとく異質な仇敵なのです。」(コラム#504(*23)より抜粋)
「欧州的な考え方とは、古代ローマないしカトリシズムに由来する合理論的・演繹的な考え方・・理論ですべてを割り切ろうとする・・だ。これに対し、イギリス的な考え方は、ゲルマンに由来する経験論的・帰納的な考え方・・理論と現実のフィードバックを重視する・・だ。」(コラム#1256(*24)より抜粋)
欧州文明は、宗教のドグマや特定のイデオロギーを人々に強制する、集団主義的、絶対主義的な文明だったと言えそうです。
また、社会や世界の仕組みを、経験によらず、「理論」で以て組み立てて導き出し、その導き出した「答え」を、現実の政治に適用することで(そこで初めて試す!)、その度に欧州の人々に惨禍をもたらしてきた、とも言えそうです。
このような欧州をアングロサクソンは当然のように野蛮な文明視しているわけですが、それを表に出してしまっては欧州の人々を怒らせることになるので、けっして表に出さないのがアングロサクソンのようです。だから欧州地域以外の人々には、両者の違いが分からないのかもしれません。
「この手の論考は、イギリス人の間では常識的な共通認識・・アングロサクソン文明は世界の頂点に位置し、欧州文明も、その他のもろもろの文明同様、一段と低い野蛮な文明である・・をイギリス人たる筆者とイギリス人たる読者が密かに再確認し合い、ほくそ笑み合うのが目的なのです。内々のエールの交換だ、と言ってもいいかもしれません。
そんな身内同士の密かな楽しみのために、イギリス人以外の人々、とりわけ一衣帯水の位置関係にある欧州の人々、を怒らせてしまうようなことは愚の骨頂であり、避けなければなりません。
そこで筆者は、意図的に論理構成を無茶苦茶にすることによって、欧州の人々に具体的な攻撃材料を与えないようにしているのです。
欧州の人々は、イギリス人が自分達を野蛮人視していることをうすうす感づいているし、この論考がこのようなイギリス人の欧州観を記したものであることも何となく分かるけれど、筆者は、プライドが高い欧州の人々が、明確に侮辱的文言が記されているわけではない上に論理構成も無茶苦茶である論考であれば、怒りを飲み込んであえてイチャモンはつけないことを知っているのです。」(コラム#1256より抜粋)
(*20)コラム#1755<米国とは何か(続々)(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/51059826.html
(*21)コラム#413<トラディショナリズム(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955420.html
(*22)コラム#503<米国とは何か(続)(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955330.html
(*23)コラム#504<米国とは何か(続)(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955329.html
(*24)コラム#1256<アングロサクソン論をめぐって(続x3)(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954577.html
11.最後に
以上、アングロサクソンとは何かを順を追って見てきましたが、自由主義、民主主義、資本主義、これらの価値観はすべて個人主義に由来し、その個人主義は軍事を前提としていました。今やグローバルスタンダードになっているこれらの諸価値が、アングロサクソンの由来であることが正しければ、リベラルな人々は、これらの大好きな言葉と同じように、軍事も尊重すべきではないでしょうか。いや、リベラルでここまで軍事を忌避しているのは日本だけでしょう。
「世界の歴史と現状を理解するためには軍事とアングロサクソンを理解しなければならない。」これは太田さんの言葉ですが、アングロサクソン文明のほぼすべてが軍事から来ているとするのなら、即ち、軍事の知識を身に付けることが、政治、社会、世界、そして個人の生活をも、本当に理解することに繋がるのかもしれません。
ところで太田さんは、日本文明はアングロサクソン文明と最も親和性があり、日本人は本来アングロサクソンの最大の理解者です、と仰っています。
「こう見てくると、アングロサクソンと日本は、違いは沢山あるものの、多元主義と寛容の精神という、世界的に見て極めて稀な価値観を共有していることになる。」(『防衛庁再生宣言』P192より抜粋)
日本とアングロサクソンが、お互いを良き理解者として、対等な立場で尊重しあえる日は来るのでしょうか。
(終わり)
<太田のコメント>
私より私のアングロサクソン論をよくご存じであるとさえ思える遠江人さん、すばらしい紹介をしていただき、まことにありがとうございました。
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