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(回答先: スターリンとヒットラー(太田述正コラム) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 07 日 11:26:37)
太田述正コラム#0568(2004.12.19)<マキアヴェッリとヒットラー(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955265.html
太田述正コラム#0569(2004.12.20)<マキアヴェッリとヒットラー(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955264.html
太田述正コラム#0571(2004.12.22)<マキアヴェッリとヒットラー(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955262.html
太田述正コラム#0572(2004.12.23)<マキアヴェッリとヒットラー(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955261.html
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1 始めに
トマス・アクィナスがプロト欧州文明の大イデオローグであることは既にご説明した(コラム#547以下)ところですが、(このプロト欧州文明が生み出したところの)イデオロギーの文明たる欧州文明が生んだ嫡出的鬼子であるファシズムの思想的淵源は、マキアヴェッリ(Nicolo Machiavelli。1469??1527年)に求められる、と私は考えています。
ファシズムの「旗手」はヒットラー(Adolf Hitler。1889??1945年)ですから、ヒットラーはマキアヴェッリの申し子だ、と私は考えている、ということです。
2 マキアヴェッリの君主論
(1)結論
マキアヴェッリはチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia。1475??1507年。コラム#544)と同世代人ですが、マキアヴェッリの主著『君主論(Prince)』は、いわば最悪の法王であったアレクサンデル6世と冷酷にして凶暴な、その子チェーザレに捧げたオマージュ(佐々木毅「マキアヴェッリと『君主論』」(講談社学術文庫1994年)中の『君主論』209??218頁、247??248頁、263頁、269??270頁)であり、トマス・アクィナス論難の書でもあります。
すなわち、マキアヴェッリは君主論において、トマス・アクィナスの試み・・異端者を抹殺すること等によってカトリック教会の権威を維持増進することにより、危険に満ちた不安定な世界に生きていた欧州の人々の共通の紐帯を確保し、秩序を確立しようとした(コラム#552)・・の限界を自覚し(注1)、アレクサンデル/チェーザレ的でかつアレクサンデル/チェーザレ以上に「ワル」の君主が欧州に出現し、欧州を統一することによって初めて、欧州の社会から危険と不安定さを取り除くことができる、と考えたのです。
(注1)佐々木東大教授教授は、「あらゆる社会的関係が解体し、人間が相互に常時対立・抗争する世界(欧州(太田))の中でどのような手段によって、またどのような内容の統治が可能であるか、がマキアヴェッリの関心であったのである」(佐々木前掲書中の解説76頁)と指摘している。
最初にこのことを、『君主論』とこの『君主論』に対する佐々木教授の解説(いずれも前掲書)を引用することによって明らかにしましょう。
(2)引用
佐々木教授は、マキアヴェッリはアクィナスとは対照的であって、
ア 「権力の正当性の弁証がなく、権力は端的に存在するものとして前提されている。」(君主は法的正当性や伝統的正当性など顧慮しないでよろしい。(太田。以下同じ))
イ 「王と暴君との区別がほとんど完全に消滅している。・・倫理学は政治学と無縁のものとして現われ、・・統治と倫理的価値との一体性はまったく見られない。」(君主はキリスト教的倫理になどに縛られてはならない。うそをついたり、人を拷問したり虐殺したり、またこのようにしてカネを貯め込んだり、何をしてもよろしい。)
ウ 「政治的共同体はまったく姿を消し、相互になんらの共通項をもたない君主と臣民との関係がすべてとなる。」(臣民もまた君主の手段に過ぎない。)
エ「<アクィナス>の場合、外敵の防衛の観点から消極的にその存在を肯定された軍事問題が今や君主の最大の義務と規定される。」(君主は臣民兵からなる強大な軍事力を整備し、ひたすら領土の拡大を目指さなければならない。)
と『君主論』で主張していると指摘しています(「」内。前掲書中の解説173頁)。
イ に関しては、『君主論』中に以下のような記述があります。
「支配者は自らの臣民の団結と自らに対する忠誠とを維持するためには残酷だという汚名を気にかけるべきではない。」(263頁)、「信義のことなどまったく眼中になく、狡智によって人々の頭脳を欺くことを知っていた君主こそが今日偉業をなしている。闘争手段には二つのものがある・・。一つは・・人間に固有の方法であり・・法によるものであり、他は・・野獣に特有な方法であ<り>・・力によるものである。・・君主は野獣と人間とを巧みに使い分けることを知る必要がある。・・野獣の中でも狐と獅子とを範とすべきである。」(268??269頁)、「大衆は、事柄を外見とその結果とからのみ判断するものだ・・。そしてこの世にはかかる大衆だけが存在し、大衆が支持する場合にのみ少数者は初めて影響力を持つことができるのである。」(271頁)。
また、エ に関しては、『君主論』中に以下のような記述があります。
「領土獲得欲というものは、極めて自然で当然のものである。能力のある者が領土を獲得するのは称えられることでこそあれ、非難されるものではない。」(189頁)、「君主は戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業としてはならない。それというのもこれのみが支配する人間に望ましい業であるからである。この能力は極めて重要であって、それは生まれながらの君主にその地位を保たせるのみならず、多くの場合私人から君主の地位に昇るのを可能にする。」(251頁)、「自己の軍隊・・傭兵隊・・援軍・・のうち傭兵隊と援軍とは有害無益で、危険である。」(238頁)。
(3)結論への補注
「これまで外国の侵入に苦しめられてきた・・イタリア・・において・・救世主がどれほどの熱愛・・どれほどの復讐への渇望や断固たる忠誠心、献身、涙をもって迎えられるかは筆舌に尽く難い。・・それゆえ高貴なるあなたの一門は、正義にかなった事業を起こすときの勇気と期待とをもってこの任務を担うべきである。」というくだりが『君主論』の終わり近く(319??320頁)にあり、かつマキアヴェッリがこの本をメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ。Lorenzo de Medici。1492??1519年)(注2)に捧げているからといって、マキアヴェッリが『君主論』を欧州統一ではなくイタリア統一を念じて執筆した、と考えるわけにはいきません。
(注2)偉大だった彼の祖父の大ロレンツォ(il Manifico=The Magnificent。1449??92年)と同姓同名なのでしばしば混同される。
マキアヴェッリのこの献呈や本文の記述は、あわよくばメディチ家へ再就職したいと考えてゴマスリ目的のためになされただけだったからです(前掲書解説128、131頁)。
佐々木教授が、マキアヴェッリの他の著作である『ドイツ事情報告』・『ドイツの状況と皇帝についての論考』・『ドイツ論』及び『フランス人について』を踏まえつつ、「マキアヴェッリにとってはイタリア<は>腐敗と堕落の巣窟であり、・・<また>・・フランスではイタリアやスペイン同様、政治的、社会的不平等が極めて大き<いのに対し>・・ドイツ<こそ>自由と素朴さによって・・理想の世界<であった>」(前掲書解説90、92、101、102頁)と指摘していることからも分かるように、マキアヴェッリは欧州全体を視野に入れており、その中で彼が真に希望を託していたのはドイツだったのです。
そして、彼が『君主論』を本当に献呈したかったのは、まだ見ぬ将来のドイツの「君主」に対してであったに違いない、と私は見ているのです。
3 理想の「君主」ヒットラー
(1)「君主」の来臨
ア 始めに
『君主論』の執筆が完了したのは1512年末であったと考えられています(前掲書解説168頁)。
それから、400年以上も経過してから、ようやくマキアヴェッリの申し子たる理想の「君主」がドイツに現れるに至ります。
アドルフ・ヒットラーその人です。
イ 意地汚い「君主」
今月、ヒトラーの意地汚さが明らかになりました。
ヒトラーは確信的脱税常習犯だったのです。
彼の脱税は少なくとも1921年には始まっていたと考えられています。
ベストセラーとなった『我が闘争』を出版した1925年から総統に就任する1933年までの約8年間、ヒトラーはこの本の印税だけでも120万ライヒスマルクもの収入がありましたが、自家用車を「公用」と弁明したり、運転手と秘書の経費がかかったと称したり、慈善事業に寄付したと虚偽の報告をするなどして所得税の滞納を続け、その「滞納額」は確定額だけで約40万5,000ライヒスマルク(現在の貨幣価値で約8億4,000万円)に達していました。
ヒトラーは総統就任後、上記滞納額について担当税務署長に「納税免除」の決定を出させ、しかもその事実を口封じし、見返りにその署長を昇進させたというのです。当然と言うべきか、それ以降も、ヒトラーは首相としての給与を年間約4万5,000ライヒスマルクももらっていたのに、一切所得税を払おうとはしませんでした。
利己心を捨てて公のために奉仕するようにドイツ国民に呼びかけながら、鉄面皮にもご本人はそれと正反対のことをやって恬として恥じなかったわけです。
(以上、http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20041218/eve_____kok_____001.shtml(12月18日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1376472,00.html(12月18日アクセス)、及びhttp://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20041219ddm007030057000c.html(12月20日アクセス)による。)
この点だけとってもヒトラーは、まさにアレクサンデル/チェーザレ父子と生き写しであり、マキアヴェッリ的「君主」の鑑ではありませんか。
ウ 『君主論』を実践するヒトラー
1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(National Socialist German Workers Party)(注3)をつくり、その党首(Fuhrer)となったヒトラーは、党員を隊員とする、突撃隊(storm troopers。SA)と親衛隊(Schutzstaffel=SS)なるミニ軍隊を編成します。まことに「君主」にふさわしい門出でした。
(注3)=Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=NSDAP=the Nazi Party。ちなみにナチス(Nazism)は、NationalsozialismusのNaとziとsmをくっつけて短縮形としたもの(http://en.wikipedia.org/wiki/Nazi。12月20日アクセス)。
同時にヒトラーが、「外見」に弱い大衆(コラム#568)・・第一次世界大戦でのドイツの敗北以降精神的アノミー状態に陥り、かつ経済的苦境に呻吟していた・・に受けるのをねらってつくったキャッチコピーが、アーリア(Arian)民族至上主義であり、反ユダヤ主義であり、国家社会主義でした。
1923年にヒトラーは、力によってババリア州政府を打倒しようとミュンヘン一揆(Beer Hall Putch)を起こしますが、警官隊に発砲され失敗します。これ以降ヒトラーは、力は示威的に活用するにとどめ、合法的に権力を簒奪する方針に切り替えます。「君主」は成長したのです。
一揆を起こした廉で9ヶ月間入獄したヒトラーは、獄中でキャッチコピーを敷衍した『我が闘争』(Mein Kampf)を著すのですが、この本は、大衆にバカ受けし、1939年までに500万部も売れ、ナチス党員及びシンパは急速に増えて行きます。
1932年7月、ナチスは総選挙で37.3%の得票率を獲得し、国会で第一党になります。同年の11月の選挙では、ナチスは得票率を減らしますが、第一党の地位は保ち、翌1933年1月、ヒンデンブルグ(Hindenburg)大統領は、しぶしぶヒトラーを首相に任命します。
そしてその2月に起こった(ヒトラーが起こした?)国会火災事件を契機に国家緊急事態をヒンデンブルグに宣言させたヒトラーは、3月、国会から立法権を事実上剥奪する、いわゆる授権法(Enabling Act)を国会に上程します。国会の外をSAが取り囲み、議場の通路にまでSAが入り込んで無言の恫喝を加える中で、議決に要する三分の二の票を、ナチスはカトリック系政党をウソでたらしこむことによって確保し、授権法は可決され、ここにワイマール共和国の下の民主主義は死を迎えるのです(注4)。
(注4)これまで何度も(例えばコラム#47、48で)述べてきたように、日本では議会制民主主義は敗戦時まで機能し続けた。この点だけでも戦前の日本とナチスドイツとは180度異なっている。
これは、『君主論』ご推奨通りの、力と法を絶妙に組み合わせて行った権力簒奪でした。
その上で、1935年にはヒトラーはヴェルサイユ平和条約違反の大軍拡に着手し、1936年には同条約で武装禁止地帯とされていたラインラントに軍隊を進駐させます。
やがて欧州最精鋭の軍隊の整備に成功したヒトラーは、軍拡による経済成長に幻惑され、一層ヒトラーに支持を寄せたドイツ大衆を兵士と兵站要員に仕立て上げ、『君主論』が「君主」の最大の使命とするところの、領土拡大・欧州統一に乗り出して行くことになるのです。
(以上、http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/hitler.html及びhttp://www.historyplace.com/worldwar2/riseofhitler/dictator.htm(どちらも12月19日アクセス)による。)
(2)ヒットラーは「君主」合格か?
さて、その後ヒットラーがたどった軌跡は皆さんよくご存じのとおりです。
ヒトラーは1945年4月30日に自殺し、ナチスドイツはその一週間後に連合国に降伏します。
このような結末は、ヒットラーの「君主」としての限界を示すものなのでしょうか。
私は必ずしもそうは思いません。
ヒットラーは、マキアヴェッリの思い描いた理想の「君主」としてその生涯を見事に全うしたと言えるのではないでしょうか。
なぜなら第一にヒットラーは、一切「戦争と軍事組織、軍事訓練以外に目的を持ったり、これら以外の事柄に考慮を払ったり、なにか他の事柄を自らの業と」(コラム#568)することがなかったからです。
ヒットラーは、彼の「自己の軍隊」たるナチスドイツ軍(Wehrmacht)を世界再精強に鍛え上げました。
それはナチスドイツ軍が、ノモンハン事件において旧日本軍に自らより大きい損害を与えて勝利したソ連軍に対し、米英軍と戦ってナチスドイツ軍が出した戦死者を併せても、なお戦死者比率で4倍以上の損害を与えた(注5)ことだけとっても分かります。
(注5)第二次世界大戦におけるソ連軍の戦死者1,360万人、ナチスドイツ軍の戦死者325万人(http://ww2bodycount.netfirms.com/。12月21日アクセス(以下同じ))
更につけ加えれば、ナチスドイツ軍は、ナチスドイツ降伏に至る第二次世界大戦の最後の一年間という圧倒的に不利な時期に、米英軍に対して依然15万2,000人もの戦死者をもたらしています(注6)(注7)。
(注6)旧日本軍は、先の大戦の全期間を通じ、米軍にわずか9万2,000人の戦死者をもたらしたにすぎない(http://www.dvd-ichiba.com/document/DKLB5007.html)ことを思い起こして欲しい。
(注7)1944年9月には会戦に勝利し(Operation Market Garden=Battle of Arnhem。コラム#523。http://www.nntk.net/arnhem_1944/arnhem_1944.html以下)、1944年12月から翌年1月にかけてなお、米英軍と互角に戦った(Ardennes Offensive(独)=Battle of the Bulge(米英)。http://www.mm.com/user/jpk/battle.htm)。この点も、開戦初期を除き、米英軍に負け続けた旧日本軍とは対照的だ。
私がヒットラーは「君主」として合格だと考える第二の理由は、彼があくことなく「領土獲得」を追求した(コラム#568)点です。
確かにヒットラーは、欧州統一に成功せずして斃れましたが、それは彼が、イギリス(後に米国がこれに加わる)と戦いながら更にソ連(ロシア)を攻撃するという、たった一つの致命的なミスを犯したからにほかなりません。
振り返って見れば、マキアヴェッリはイギリスを訪問したことがなく、そもそもイギリスは彼の関心の外にありましたし、ロシアに至っては彼の視界には全く入っていませんでした。
余りにも遅い時代にヒットラーが登場し、そこにマキアヴェッリの想定外の世界が待ち受けていたことがヒットラーの挫折を運命づけたのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A6301-2004Dec16?language=printer(12月18日アクセス)による。)
4 終わりに
ソ連軍がベルリンの郊外に達し、英米軍がエルベ川に達した1945年3月19日、ヒットラーは、ドイツの(戦禍を免れて生き残っていた)すべての工場及び輸送通信システムの破壊を命じます。(jewishvirtuallibrary前掲)
「臣民もまた君主の手段に過ぎない」(コラム#568)以上、「君主」亡き後に「臣民」が生き残っても何の意味もありません。ヒットラーは、だから「臣民」たるドイツ人の生存手段を奪おうとしたのです。
彼が最期の最期まで、「君主」らしくあったことに、驚異の念を抱くのは私だけでしょうか。
プロイセンのフリードリッヒ大王(Frederick the Great=Frederick??。1712??86年)が1739年に「反マキアヴェッリ論:マキアヴェッリの君主論吟味(Antimachiavel, ou Examen du Prince de Machiavel)」を匿名で著し、当時もてはやされていた『君主論』を真っ向から否定した(http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_the_Great)のは、あたかも200年後にこの書を実践する者がドイツに破滅をもたらすことを予感していたかのようですね。
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