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=引用開始=
(征韓論の経緯)
いよいよ西郷隆盛最大の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。
簡単に前述しましたが、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
それでは、なぜ西郷が征韓論の巨魁と呼ばれることが歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、つまり悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。
元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていた間柄でした。
しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのでしょう。
このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間がありませんでした。当時の幕府としては、国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があるのを見つけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。朝鮮政府としては、先の「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
このように朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否し続け、一向にらちが開きませんでした。
明治政府は、そんな朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の職にあった佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。
しかし、この三人は朝鮮の首都にも入ることが出来ず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。
この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。
後年、征韓論に反対したとされる木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかもしれませんが、これはまぎれも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
このように当時の木戸は征韓論に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題が先にあったため、征韓論ばかりに構っているわけにはいかず、また廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立つこととなったため、木戸としては一先ず征韓論を胸中にしまう形となりました。
しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の高官達になおも熱心に説いてまわったので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてくることとなりました。
明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされました。朝鮮現地においては、まさに日本と朝鮮とが一触即発の危機にあり、その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。
(西郷の遣韓大使派遣論)
閣議に出席した外務少輔の上野景範(うえのかげのり)は、
「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」
と説明しました。
その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。
「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」
板垣はそう述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議したのです。
しかし、その板垣の提案に当時閣議の中心人物であった西郷は首を振り、次のように述べました。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここはまず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす」
西郷の主張することは、まさしく正論です。西郷は、板垣の朝鮮即時出兵策に真っ向から反対したのです。
西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな」と言いました。
しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ったのです。
「いいえ、兵を引き連れるのはよろしゅうありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」
西郷の堂々たる意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張したのです。
その意見に西郷は、
「政府の首脳が一同に会した閣議において、国家の大事の是非を決定出来もはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切を取るのを止めたほうがよろしゅうごわす!」
と、大隈に強く言い返しました。
このように西郷に言われれば、大隈としてももはや異議を唱えることは出来ません。
また、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、現在のこじれた朝鮮問題を解決出来るのは、自分しかいないとも自負し、相当の自信もあったのでしょう。
しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。
西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。また、この朝鮮へ派遣される使節には、大きな危険が伴う恐れがあったため、西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあれば、政府にとってこれほどの危機はありません。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。それでも西郷はあくまでも自分を朝鮮に行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。
これまで「征韓論」と呼ばれる一連の出来事の経過をごく簡単にですが書いてきました。
これを読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、西郷のどの言葉や行動にも、「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。
また、逆に「征韓論」について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
こういった事実とは反して、西郷を征韓論者だとする人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡(西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これは全く当ての外れた推測としか言いようがありません。
この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後「テーマ随筆」で取り上げていくつもりですので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは控えます。
しかし、一応この後のこの征韓論争の経過だけを簡単にですが、書いてみたいと思います。
その後、紆余曲折の過程を経て、西郷は正式に朝鮮使節の全権大使に任命されることになります。西郷としては大いに頑張るつもりでその準備を始めたのですが、ここに洋行から帰ってきた岩倉具視と大久保利通が西郷の前に立ちはだかりました。岩倉と大久保は、再び閣議を開き直し、その席上において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べたのです。
その理由は次のようなことでした。
「西郷参議が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である」
一見すればもっともな意見に思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提にして反対意見を展開しています。
しかし、西郷は戦争をしないために平和的な使節を派遣したいと主張しているのです。
西郷としては、岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べることが納得出来ません。そのため、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局は西郷の主張が通り、西郷の朝鮮への派遣が正式決定されたのです。
しかし……、最終的には岩倉の非常に腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいます。岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとはせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。
今から考えればそんな不条理なことがあるかと思われるかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。岩倉の行動を考えると、それでは今までの閣議は何のための会議だったのかと思わざるを得ません。一人の人間の私心によって、国の運命が決定づけられたのです。
このようにして西郷が主張した遣韓大使派遣論は潰されたのです。
最後に一つ付け加えます。
「明治六年の政変」(いわゆる「征韓論争」)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれているものが多数を占めていますが、これはまったく事実と反します。
まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一度も主張していません。前述したとおり、当初は板垣の主張した兵隊派遣に反対し、平和的使節を送ることを主張すらしているのです。
また、内政を優先させるのが先決であるとして西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した大久保ですが、彼が中心となってその後した事と言えば、明治7(1874)年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌明治8(1875)年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮とも問題を引き起こしています。朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
西郷の使節派遣に反対し、内政の方が優先であると主張した大久保がこんなことをやってのけたのです。これをもってしても、「外征派対内治派」という構図が、いかにまやかしであったのかが分かるのではないでしょうか。
歴史の通説において、いつの間にか西郷を征韓論者だと決め付けるようになったのは、当時西郷と対立した大久保らが自らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったと考えるべきではないでしょうか。
この「征韓論」に関しては、いずれ「テーマ随筆」で取り上げていきたいと思っています。
=引用終了=
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