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(回答先: 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません (西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 4 月 29 日 02:13:10)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/
=引用開始=
(序章・西郷と大久保の誕生地について)
薩摩の盟友「西郷と大久保」。
二人を題材にした小説の中では、同じ町内に生まれ育ち、深い友情で結ばれた二人が力を合わせ、お互い助け合い、明治維新を成し遂げたかのように描かれています。
しかしながら、実際二人は生まれた場所も違い、育った環境も大きく違っています。西郷は鹿児島城下の下加治屋町(したかじやまち)の生まれですが、大久保は甲突川を挟んだ対岸の高麗町(これまち)の出身です。
ところが、現在の鹿児島市加治屋町には、「大久保利通君誕生之地」という碑が大きくそびえ立っています。
これには次のような理由があります。
明治22(1889)年、西郷と大久保の誕生地碑を制作した段階では、大久保の誕生地は下加治屋町だと信じられていたのですが、石碑公開直前になって、実は大久保の出身は下加治屋町ではなく、高麗町であったという説が有力となりました。
しかしながら、誕生地を示す石碑も既に完成していたため、変更がきかず、石碑の説明文を誕生地と書かずに、その住居跡であるという風に記載することにより、石碑本体はそのまま公開となり、現在に至っているのです。
現在、鹿児島市が制作している観光案内地図にも、加治屋町の大久保利通の住居跡は「大久保利通誕生地」と記さずに、「生い立ちの地」という標記を使っています。
そして、実際の大久保の誕生地である高麗町には、小さな大久保利通誕生之地という石碑が最近になって立てられました。
話は少し余談の方に偏ってしまいましたが、つまり私が言いたいのは、西郷と大久保を理解する上で、二人の育った環境の相違というものは、大きなポイントとなってくるということなのです。
それでは、西郷と大久保はいつ頃から、深い親交を始めたのでしょうか?
その具体的な時期は、今でははっきり分かりませんが、二人を結びつけたのは、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動(おゆらそうどう)」であると言えましょう。
(お由羅騒動と西郷と大久保)
「お由羅騒動」とは、島津家27代当主で薩摩藩主の島津斉興(しまづなりおき)の世継ぎ争いが生んだお家騒動です。
斉興は自分の跡継ぎには、正室の子で当時大名間でも英明な世子(せいし・藩主の跡継ぎとなる子供)として名高かった斉彬(なりあきら)ではなく、愛妾・由羅(ゆら)の子である久光(ひさみつ)にしたいと考えていました。
(付記:その理由等については、薩摩的幕末雑話 第三話「父と子−島津斉興と斉彬−」または第二十二話「島津斉興の密書 −斉興と斉彬と久光の関係−」をご覧下さい)
当時、薩摩藩内には斉彬を思慕する藩士の集団があったのですが、彼らは藩主の斉興が、斉彬ではなく久光を藩主に就任させたいという意向を持っていることに危機感を感じ、「斉興隠居・斉彬襲封」に向けての運動を陰で始めました。
しかし、その動きを察知した藩主の斉興は烈火の如く怒り、斉興は首謀者の高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)以下五十名にものぼる藩士を切腹、遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。
これが世に言う「嘉永朋党事件(かえいほうとうじけん)、別名「お由羅騒動」や「高崎崩れ」、「近藤崩れ」と呼ばれているものです。
このお由羅騒動が西郷と大久保の二人に与えた影響というものは、非常に大きかったと言えます。
まず、西郷の場合で言うならば、西郷の父である吉兵衛は、お由羅騒動に連座し、切腹して果てた赤山靱負(あかやまゆきえ)の用達(ようたつ。御用人のようなもの)を務めていました。赤山は、島津家の一族の日置島津家の二男にあたる人物です。
西郷家と赤山家は縁の深い関係であったため、西郷の父・吉兵衛は、赤山の切腹の介錯人を務めたと伝えられています。西郷も赤山とは当然面識があり、正義の士である赤山は、青年時代の西郷が憧れる存在でもありました。
父から赤山の切腹の様子を聞き、そして赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を遺品として授けられた西郷は、その日の終夜、その肌着を抱いて泣きながら過ごしたと伝えられています。
一方、大久保の場合ですが、大久保の父である次右衛門利世(じうえもんとしよ)は、お由羅騒動に連座して、喜界島に遠島されています。
また、大久保自身もその罪のあおりを受けて、「記録所書役助(きろくじょかきやくたすけ。今で言う役所の書記官補助のようなもの)」を免職され、謹慎を命じられています。
大久保家にとっては、唯一の男手二人が遠島・免職されたことにより、収入源が途絶えた形となったため、その財政状況は急激に悪化しました。
このように、お由羅騒動が西郷と大久保の二人に与えた影響はそれぞれ大きいものであったのですが、この騒動後、西郷と大久保は合い知る仲となり、お互いに親交を深めていく大きなきっかけとなったのです。
ただ、このお由羅騒動という一連の事件に関して、二人が感じ得たものは、それぞれ違っていたと言えましょう。
(二人の行動パターンと性格)
西郷はその人生の中で、しばしば上役や身分の高い人物に対して、「自分が正しいと思うことは、死をも恐れずに思い切って発言する」というような大胆な行動に出ています。これは西郷の人生における一つの行動パターンとなっています。
西郷は終生の恩師であった主君の島津斉彬に対しても、「斉彬の世継ぎのこと(斉彬の子供らはいずれも幼い時に亡くなる等、なかなか跡継ぎが出来なかったことから、斉彬が自らの跡継ぎを異母弟・久光の嫡男・又次郎忠義に継がせようと考えたこと)」や「お由羅騒動に関連した者達の信賞必罰のこと(斉彬が藩主に就いてからも、お由羅騒動に連座した者達の赦免がまだ済んでいなかったこと)」に対して、思い切った発言をしています。
西郷にとっては、神とも言えるような存在である斉彬に対してですら、西郷はこのような行動に出たのですから、これは一種の西郷の行動パターンであるといって良いでしょう。
斉彬の世継ぎの事については、西郷も意見を引かず、しばらくの間、君臣不仲であった時期があったとも言われていますので、後の久光との確執も、この西郷の行動パターンからきていると言っても良いのではないでしょうか。
西郷がこのような行動パターンを取る性格に形成されていったのは、生まれついての正義感などもあるでしょうが、「お由羅騒動」で受けた影響が大きくあると思われます。
「正しいものが処罰され、悪がはびこる」(少なくとも西郷はそう信じていました)
赤山の筋を通した見事な切腹を聞き、血染めの肌着を授けられた西郷は、公に対する憤りというものを強く感じ、権力に対する反抗精神を心の中に植え付けられたことが、西郷が死をも恐れず、思い切ったことを大胆に発言する性格に形成された一つの原因になっているように思われます。
一方、大久保ですが、彼が「お由羅騒動」で感じ得たことは、西郷とは大きく違っていたと思われます。
大久保はこの騒動において、「権力というものが、いかに強大で、かつ恐ろしいもの」であるかという、権力の本質を悟り、感じたと思われます。
また、それと同時に権力への憧れというものも同時に感じたものと思われるのです。
「例え正義がこちら側にあったとしても、少数の徒党では組織の権力には絶対にかなわない。事を成し遂げるには、必ず強大な権力を背景としたものが必要となってくる」
父の遠島や自分の免職謹慎処分で塗炭の苦しみを味わった大久保は、このような思いを抱いたのではないでしょうか。
実はこのことはまったく西郷とは正反対の感じ方です。
西郷は「権力に対する反抗精神」を感じ、大久保は「権力への憧れ、権力欲」を感じたということは、二人のその後の生き方を理解する上で、非常に重要なポイントとなってきます。
(大久保の権力への執着)
西郷が斉彬によって見出され、華やかな表舞台で活躍していた頃、まだ大久保は薩摩の片田舎でくすぶった状況下に置かれていました。
しかし、斉彬が急死したことにより、状況は大きく変化します。
斉彬の死によって藩政府の方針が百八十度変わり、西郷と月照が「安政の大獄」のあおりを受け、一緒に心中しようとしたことは非常に有名な話ですが、月照は絶命し、西郷は奇跡的に蘇生しました。
藩政府は幕府の目をごまかすため、西郷を奄美大島に身を隠させるのですが、その間、西郷がいなくなった「誠忠組(西郷と大久保らが結成していた若手改革派集団)」は、大久保が事実上の首領的地位につくことになりました。
そして、ここから大久保の権力への執着の行動パターンが表れてくるのです。
大久保は「お由羅騒動」の経験から、何事も事を成し遂げるには、必ず強大な権力が必要となってくる、という教訓を受けのではないかと前述しました。事の成否には権力側に居ることが重要であると考えた大久保は、その権力に近づく計画を立てます。ここからの大久保の行動は、まさに大久保の大久保たる所以を表すものと言えるでしょう。
斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟・久光の嫡男の忠義でした。
当時、久光は鹿児島城下の北方にある重富(しげとみ)という場所の領主になっており、臣籍(家臣の位)に下っている状態でした。いかに前藩主の弟であっても、当時の大名の次男・三男というものは、このように冷遇されていたものなのです。
大久保はまずこの久光に目をつけました。
「忠義公が藩主となったからには、その後はその実父であられる久光公が実権者になるに違いなか。今、藩主の忠義公に近づくよりも、まだ臣籍に下っている久光公に近づく方がはるかにやりやすい。ここは、久光公に取り入る必要がある」
このように考えた大久保は、まず久光の趣味が囲碁であることを調べ上げ、久光の碁の相手をしている城下南泉院(現在の照国神社の位置にあった)の子院・吉祥院の住職であった乗願(じょうがん)に碁の弟子入りをしました。
乗願は誠忠組の同志・税所喜三左衛門(さいしょきざえもん。後の篤)の実兄であったと伝えられているので、大久保は税所に頼んで弟子入りを志願したのでしょう。
ただ、大久保は若い時分から碁を嗜んでいますので、習いに行くというのは名目上のことだけで、まずは乗願に顔を売ることが必要だと考えたのだと思います。
こうして大久保は乗願の許に出入りするようになり、碁を習い始めるのですが、その碁の手習いの最中に乗願に対し、自らの時局に対する考え方や誠忠組のことなどを熱心に話し込んでいきました。そんな大久保の話を常日頃から聞いていた乗願は、自然久光の碁の相手をしている時、大久保のことや誠忠組のことなどを世間話として語りました。つまり、大久保の狙いは、そこにあったのです。大久保は自らの存在を売り込むために、碁をもって間接的に久光に近づいたのです。
一旦心に決めたことは何事があっても挫けずに目標に向かって邁進していく大久保の意思の強さ、そしてそこからくる大久保の権力志向の強さというものは、この久光への近づき方をもってしても計り知れないものを感じます。
そして、その大久保の計画は見事に的中し、久光は乗願の話から大久保や誠忠組のことを初めて知ることになるのです。
しかし、大久保の計画はこれだけに留まりませんでした。
当時の江戸では、国学者の平田篤胤の『古史伝』全三十七巻が刊行され始めていたのですが、乗願の弟であった税所喜三左衛門は、江戸勤番の頃に平田塾に入っていた関係で、この古史伝が刊行される度に薩摩に送ってもらう約束をしており、それが次々と薩摩に送られてきていました。
誠忠組の同志らは、その『古史伝』を回覧する形でまわし読みしていたのですが、そのことが乗願を通じて久光の耳に入りました。おそらく大久保が久光の耳に入るようにそう仕向けたのだと思います。
久光という人物は、学問も人並み以上にあり、非常な読書家でありました。また、久光は何よりも国学を非常に好んでいましたので、平田篤胤の『古史伝』には非常に興味を持っていたのです。
そのため、久光は「何とか借りて『古史伝』を読むことは出来ないだろうか?」と乗願に頼みました。平田派の国学は、当時最も流行った学問でしたので、久光としてはどうしても読みたい書物だったのでしょう。
そこで、いよいよ大久保の登場です。
大久保は乗願からの話を聞くと、久光に『古史伝』を貸すことを計画したのですが、誠忠組の同志らは、「奸女・お由羅の子である久光に、本など貸す必要はない」と大久保の計画に反対でした。
しかし、大久保はこうと決めたらテコでも動かない強靭な意志を持つ男です。
大久保は誠忠組内の反対意見を抑えこみ、「久光公にお渡し下さい」と言って、乗願に『古史伝』を手渡しました。そして、その『古史伝』の中に、一つの細工を施したのです。
大久保は、ペリー来航以来の日本の情勢についてや現在の政治状況、そして誠忠組の考え方、同志の名簿、大久保の意見書等を書面にしたため、『古史伝』の中にそれらを挟み込んで、乗願に手渡したのです。
当時は新聞や週刊誌などというものは当然無く、情報が行き交わない時代でもあり、身分の高い人物ほど、時局や時勢については疎かったものです。ましてや薩摩の片田舎に暮らしていた久光なら尚更です。
久光は『古史伝』を借りる度に挟まれている書面を現在の新聞を読むような感覚で読み、次第に時局に目覚めていきました。そして、そのことは大久保が久光のブレーンとして登用される大きなきっかけともなったのです。
こういった大久保の久光への近づき方を見ても、大久保の権力への執着心、その用意周到さ、目的のためには手段を選ばない手法、そして強靱な精神力などを大久保の行動から見ることが出来ます。
久光の側近として登用された大久保は、明治11(1878)年5月、東京の紀尾井坂で暗殺されるその瞬間まで、一度も権力の座から下りることはありませんでした。
ここに大久保の権力への異常なまでの執着が見てとれると思います。
(結び・西郷と大久保)
これまで長々と書いてきましたが、西郷と大久保は、その性格、考え方、志向、全て異なった人物であったということがよく分かります。
そんな西郷と大久保の二人が、幕末の動乱期、お互いに助け合い、力を合わしたということが奇跡に近いようにも思えるのですが、二人ともに自分に無い要素をお互いに求めあったことが、二人を近づけ、その関係を深くしたように思えます。
世直し(つまり、革命)ということには、必ず表舞台と裏舞台に欠かせない人物が必要となってきます。
西郷はその大いなる徳望をもって表舞台で活躍し、大久保はその余りある才能をもって裏舞台で権謀術策を使い、その西郷の活躍を手助けたと言えます。
演劇には、それぞれ違った役どころの登場人物が出てくるように、同じ個性や考え方の人間がたくさん集まったとしても、良い劇は作ることは出来ません。違う個性同士がぶつかり合ってこそ、初めて良いものが生まれてくるのです。
西郷と大久保は、その典型と言えるのではないでしょうか。
これらから考えあわせると、明治6(1873)年6月、朝鮮への使節派遣を巡って、この両雄が激しくぶつかり合ったのも、当然の結果であったと言えます。
西郷と大久保については、まだまだ書き足らないことがありますが、今後もサイト内で二人について取り上げていきたいと考えています。
(参考文献)
海音寺潮五郎『西郷隆盛』、鮫島志芽太「西郷と大久保の関係」(西郷南洲顕彰館発行『敬天愛人』第6号)
=引用終了=
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