http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/666.html
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(回答先: 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません (西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 4 月 29 日 02:13:10)
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/11225
(投稿者)題名は(おそらくわざとで)バカっぽいですが、下記考察は「歴史」の本質に迫っていると思った次第で転載投稿します。
=転載開始=
(略)
東海アマ(このツイッターは取り扱いに注意)さんのツイッターから。
* 「このメディアは取扱いに注意を要すると?@tokaiama
@Santiago_Hotel 実は大久保利通らの生まれた加治屋町高麗町は島津氏が拉致した在日朝鮮人の町だった。西郷が征韓論を主張したとき大久保は拒絶し、密偵による刺客まで送った。大久保は平田国学徒、松下村塾も平田国学を採用した。」
https://twitter.com/tokaiama
なるほど、ですねえ、これは。
幕末の動乱時代には、あれほどチーム・ワークのよかった西郷・大久保が、維新がなるや、さっそく対立したことの背景にあったのが、これでしたか。
史実的には、征韓論での対立です。
このへんのところは、司馬遼太郎氏が『飛ぶが如く』で丁寧に描写しています。征韓論で決断を下さねばならなくなった三条実美の振る舞いが滑稽です。律令体制における権威ばかりはあるが、実力がまつたくない人物そのもの。権威は、もちろん、藤原氏由来の血統書です。藤原北家。不比等の次男の房前を祖とする家系です。つまり、不比等の血脈です。
で、司馬遼太郎は、西郷と大久保の対立を、在日朝鮮人・大久保と在日日本人・西郷の対立とは見ていません。
司馬史観では、西郷は、いざとなると、いつもその大役を投げ出す人物、です。だから、いつも大久保は、最後の仕事を引き受けざるを得なくなる、と。征韓論の時の問題は、明治維新直後に、日本は、国家の政策として、まず何をやるか、でした。
征韓論、というのが西郷の主張でした。それに対し、大久保は、それよりもまず内政を確立せよ、と主張し、両者が真っ向から対立したのでした。ちなみに、小沢一郎が「尊敬する政治家」の1人に名前を挙げるのが大久保です。
しかし、東海アマさんの視点を取り入れると、なるほど、そうだったのか、とも思えてきます。この両者は、在日朝鮮人と在日日本人のところで対立していたのか。
いや、「在日日本人」、という用語があるのかどうか、私は知りませんが、私は、もとを質せば、日本列島にいる人間は、すべて列島の外から来た人たちだろう、と考えています。遠い昔に列島に定着したのが縄文人、新参者が弥生人。
もし大久保が在日だとすれば、大久保はホットです。非常に新しい渡来人の子孫です。拉致渡来人、といいますか。
ははあ、なるほど、最近死んだばかりの北のワンマンさんは、そのようにして日本人を拉致したのか。秀吉の時代の倭国人もそうしたではないか、と。
まあいいではないですか。
我ら、みな兄弟、ではないですか。地球は一つの家族、でしょうが。
なんてことが、いまどき、通用するか。
ちょうどいい話題なので、なぜいまも東海アマさんが指摘する如く、在日が問題になるのか、といきましょう。
日本人になりたいのなら、きょうから日本市民である、という具合に、日本社会では、なぜならないのか? なぜいつまでも、「在日・非在日」の区別・差別意識が続くのか?
律令理性論から見れば、答えは簡単です。
天皇・律令制度自体が、血脈・血統にその権威の根拠を置いているため。
だから、日本国民は、常に、その血統を意識せざるを得ない、と。
つまり、律令理性にとって、血統・血脈とは、精神のアイデンティティーの根拠そのものである、ということです。
自分とは誰か? 言い換えれば、日本人とは誰か?
もちろん、日本人は、「われ思う、ゆえに我あり」とは言いません。
天皇がいるところ、そこが日本人である、となります。
天皇と日本人は、セットです。切り離すことは出来ません。
このような存在様式を作ったのが、藤原不比等です。これを私は「不比等戦略」と呼んでいます。
したがって、日本社会が律令体制である限り、「在日」問題は終わらない、と予言できます。 なぜなら、まさにそここそが日本人が日本人である根拠が明示されるフラッシュ・ポイントだからである。
ちなみに、話題はガラッと変わりますが、なぜ日本には記者クラブがあるか、といきましょう。
官邸デモでは、岩上安身氏が強調していました。
「皆さん、あの建物を見てください。官邸の正門の、道を隔てた正面にある建物、あれが記者クラブ会館です。大手メディアがここに入っています。だから、彼らはここに集まった人々を見ているはずです。しかし、報道しない。なぜなのでしょうか?」
6月の終わりか、7月の始めのデモで、岩上氏がこのように述べました。
答え。
日本社会は律令体制であるため、市民が存在しないから。
市民が存在しないところ、市民のために存在するメディア、というものがあり得るはずがない、と。
だから、必然的にメディアの役目は、権力の広報になるしかない、と。
この点、官邸デモに集まる人たち、それを報道する岩上・IWJは、すでに革命です。
大飯原発を止める、という点では失敗していますが、権威と民、という関係の点では、官邸デモが起きている事実をもって、すでに革命が起きています。
=転載終了=
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