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原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html
広島原爆投下 原爆 10秒の衝撃
もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。 ルーズベルト「日本人は獣である」 「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。 一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。 「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」 「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」 「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」
日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」 など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下 ハイドパーク協定 1944(昭和19)年9月18日 フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が 1972(昭和47)年に初めて公開された ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の 「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア ハル・ノート:日本が対米開戦を決断した無理な米国側の要求。 トルーマンのカバートへの返事 1945年8月11日 日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)
ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。 ところがアメリカのヨーロッパでの敵は、ドイツ人自体ではなくヒトラー一派であり、ジャーナリズムも、日本軍の残虐行為については盛んに報道したという。 ダワー教授は、このような相手を人間以下とみなす発想は、日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものにすぎないとしている。
ハーバード大学総長で連邦科学行政官のジェームズ・B・コーナントの提案により、陸軍長官ヘンリー・スティムソン は、就業労働者が多数いて、周囲に労働者住宅が密集する軍需施設がもっとも望ましい原爆投下の攻撃対象になるだろうと同意した。 これについてネーション誌は次のように解説している。 お上品な婉曲表現を剥ぎ取って考えれば、この議事録は非戦闘員である労働者とその妻子を殺戮する意図をはっきりと謳っている。これは第二次世界大戦の残虐行為の一部であった。 さら続けて、ネーション誌は指摘する。 広島は軍事上の攻撃目標ではなかった。住民の大部分は非戦闘員だった。広島を原子爆弾の攻撃目標とするにあたって、米軍参謀部と文官指導層はそのことを正確に予想していた。原爆を投下する第1の目的は、敵の非戦闘員を大量に殺戮することにあり、さらにこれによって生存者を威嚇することにあった。
1927年(昭和二年)にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。 それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。 たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。 そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。 (米英にとっての太平洋戦争、下巻) 太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。 「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。
昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。 その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。 「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」 そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」 投降を勧める放送は再三くり返された。 投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。 我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。 そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。 ……なんたることをするのだ! 小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった) 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。 あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。 残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。 二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。 『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋 ここにこんな写真がある。 これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。 「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等 エノラゲイの元機長ティベッツは、2年前、我々の取材にこう答えた。 「人類にとって原爆投下が最善の道だった。我々は殺戮を止めたのだ。」
対日枯葉剤(エージェント・オレンジ=ダイオキシン)散布作戦 ベトナム戦争のベトコンへの枯葉剤散布作戦は、もともと太平洋戦争末期、日本人に対して計画されて、幻に終わった作戦だったなんて。 枯葉剤エージェント・オレンジに含まれる史上最強の催奇性物質がダイオキシン。 この除草剤に含まれる催奇性物質は、DNAの合成を阻害する史上最悪の催奇性物質。 日本の6大都市東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市周辺の稲作地帯に枯葉剤を散布し、稲の全滅を狙ったらしいです。 ベトナム戦争後の枯葉剤の遺伝的影響を追っているフォトジャーナリストの中村梧郎さんの著書を読むと、その恐ろしさに慄然としてしまいます。 そんな恐ろしいことを日本に対して、計画していたなんて初めて知りました。おぞましさでは、個人的には原爆よりこちらの枯葉剤の方がコワイデス。
両目のない幼児(手前)ら重い障害の子どもたちを診て回る女性医師=ホーチミン市のツーズー病院内の施設で4月1日、沢田写す ◇枯れ葉剤の惨禍に慄然−−幻の対日散布計画も 戦後60年の夏も終わったが、今年はベトナム戦争終結30年でもある。「北爆」という言葉をご存じの方はいま、どのぐらいいるのだろうか。米軍による北ベトナム(当時)への爆撃を指し、ベトナム戦争が生んだ象徴的な言葉の一つである。そのベトナムでは、戦争の後遺症ともいえる枯れ葉剤被害に苦しむ数多くのベトナム人が癒えぬ傷を抱えながら生きている。その被害の実態を確かめようと半年ほど前、現地を取材した。目の当たりにしたのはまだ終わっていない「戦争」の現実だった。 15年余にわたるベトナム戦争で、枯れ葉剤が散布されたのは1961年からの10年間だ。米軍は、解放勢力が潜む拠点のジャングルを丸裸にする枯れ葉作戦を展開。総量は9万1000キロリットルと推計され、うち67%がオレンジ剤といわれるダイオキシンを含んだ枯れ葉剤だった。ダイオキシンの全体量は約500キログラムとみられる。 枯れ葉剤被害調査国内委員会の代表を務めたレ・カオ・ダイ医師が著した「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ(オレンジ剤)」(文理閣)は「動物実験からある科学者たちが計算した結果によると、ニューヨーク市の780万人の住民は、たった80グラムのダイオキシンが市の水道系に入っただけで全員死に至る」としている。猛毒といわれる理由もここにある。 散布地域ではがん患者、先天異常児などが多発。2世、3世への影響も指摘される。ベトナム人被害者は100万人以上とされる。 私が訪ねたのはベトナム政府が被害者と認定した2世、3世たち。父、祖父がベトナム戦争に兵士として加わり、戦闘地域で枯れ葉剤を浴び、子や孫たちに影響したとみられる障害児だった。 ホーチミン市の病院内の施設で、最初に会った幼児(3歳)は多発奇形症候群で知的障害。外見上性別の判断がつかず、両目がなかった。頭がいの下に脳脊髄(せきずい)液がたまる水頭症の女児(2歳)の頭は普通の2歳児の頭のほぼ倍の大きさだ。 戦後30年のベトナム。そして、戦後60年の日本。枯れ葉剤被害を取材するにつけ、両国の戦争に、ある奇妙な因縁があるという思いを禁じ得なかった。それは、枯れ葉剤がそもそも、敗色濃厚な太平洋戦争末期の日本に散布される予定で準備されていたからである。 対日枯れ葉作戦計画は第二次大戦中の米国機密文書公開を機に、米科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に寄せた米スタンフォード大学の歴史学者、バートン・バーンスタイン教授の論文で明らかにされた(87年6月号)。 同論文によると、45年5月、米陸軍に提出された枯れ葉作戦計画は、東京、横浜、大阪、名古屋、京都、神戸の6大都市周辺の稲作地帯に、枯れ葉剤を散布し、稲の全滅を狙った。しかし原爆投下を優先したことと、日本の降伏が早かったため、枯れ葉剤散布を免れたという内容だ。 枯れ葉剤被害を30年以上にわたり追ってきたフォトジャーナリストの中村梧郎さん(64)は、「あの当時、日本の配給制度は最悪。そこへ米軍が枯れ葉作戦を展開すれば、日本国内では餓死者続出の状況だった。渡米し、バーンスタイン教授からは日本の降伏が長引けば、枯れ葉作戦は確実に行われたはずだという証言を得た」と話している。 対日枯れ葉作戦計画は一般には知られていない。もし日本で使用されていたら、どんな被害がもたらされていたか。慄(りつ)然(ぜん)とするのは私だけではないはずだ。 ____________________________________________________________________________ 2.トルーマンの原爆観 どうしても害虫を駆除したがった_ハリー・トルーマン トルーマンは、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。 トルーマンは誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。 トルーマンは日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。 トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死した後を継いで大統領になった時は頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。だから、男らしいところを見せようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだ。 トルーマンは自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。 そして、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。 「我々が強力な新兵器を持っていた以上、それが大量殺人兵器だからといって、私はこれを使うことに良心のとがめを感じることはなかった。 戦争には反対だが、勝てる兵器を持ちながら、それを使わなかったとすればバカげたことである。」 トルーマン大統領の「罪」は、原爆の対日投下と、戦後の無秩序な核開発だけにとどまらない。彼は、1947年の国連による「パレスチナ分割案」を強力に後押しし、国連加盟諸国へ脅しの根回しをして、イスラエル建国を実現させた元凶でもあるのだ。
トルーマン大統領はこともなげにこう言った。 「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが」 このように、トルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである。 原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、イスラエル建国といい、彼は、自分の下した決定が、どんな深刻な悲劇を生み出すのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。
アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、ステ
「日本は降伏しようとしている」とのアイゼンハワー司令官の 日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大 降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開 さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨー 削除された「天皇制容認」条項 日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めるこ しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半 マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇 となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言 われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警告 トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスは
ヘンリー・スチムソンは、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。 それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。 ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。 これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。 スチムソンは、日系アメリカ人を強制収容所に送った最高責任者でもある。
英国政府は、米国が原子爆弾を使用する決定を「独立」と呼称して、米独立記念日〔7月4日〕の日、それを歓待することに決定した。 その日、東京では、スイスからの新たな情報について協議していた。その情報とは、陸軍の主席和平特使である岡本中将からのものであった。岡本は第三者を通じ、在欧OSS(戦略事務局)長官、アレン・ダレスに、もしありうるなら、どのような事項を日本に譲る用意がありうるのか、探りを入れていた。これに対するダレスの返答は、「もし日本が降伏するなら」、連合軍が天皇制の持続を許すことになるであろうと米国は「理解」している、というものであった。 それは、数ヶ月前、日本の指導者たちが、最悪の場合が生じた時、その解決のために必要なただ一つの条件であった。しかし、それをどれほど信頼してよいものか、誰にもわからなかった。日本のスパイたちは、中国で、あてもなく、その確証をえようと打診を繰り返した。一方、7月2日、インディアナ出身の上院議員、ホーマー・カペハートは、「日本の降伏は差し迫っており」、「天皇の地位の持続のみが決定されるべき条件となっている」、と米国議会で発言していた。 7月半ばに予定されているポツダム会議では連合軍指導者たちが東洋の命運を決定しようとしているとの報が、海外放送の分析から、裕仁に届けられた。またトルーマンは、日本への攻撃にアメリカ兵の損失を減らすため、ソ連軍や中国軍さえ合流させることを考えているかもしれなかった。 ソ連の参加という考えは戦慄をもよおさせるもので、かつ、中国による報復という考えは、冷たい汗を流させるに充分であった。 ワシントン時間の7月14日、連合軍の指導者たちがポツダムへと向っている時、最初の原子爆弾が、テストのため、ニューメキシコ州の砂漠にある塔の先に取り付けられていた。7月17日、ポツダム会談の朝、トルーマンはテストの結果についての最初の報告を受けていた。 その爆発の効果は、TNT火薬に換算して 2万トンであった。 7月22日、チャーチルは、詳細報告書を読んだ後、自分の椅子から前に乗り出し、葉巻を振り回して厳粛に言い放った。「スティムソン、火薬が何だ。とるに足らん。電気が何だ。無意味だ。原子爆弾は憤怒したキリストの再来だ。」 チャーチルは後にこう付け加えている。「日本を降伏させるために、原子爆弾を使用するか否かの決断は、問題とするほどのことではない」。しかし、トルーマンにとっては、それは懸念の種であった。7月18日、その爆弾の能力についての報告を受け取った日、彼は軍事顧問あるいは価値ある意見が期待できるあらゆる人に相談をもちかけた。また、ポツダムを訪れていたアイゼンハワー将軍は、後年になって、その同じ日のことをこう回顧している。大統領から打診された彼は、「そうしたことを決して行ってはならないと考えること自体が、戦争を何か悲惨で破壊的なものへと導くのではないか」と自分の意見を述べたという。 スティムソン陸軍省長官は、その爆弾は日本人が求めている降伏への口実を提供する可能性があり、「そもそも米国が言う無条件降伏とは何かを天皇にさとさせる、もっとも考えつくされた方法」 使用されるべきであると主張した。 チャーチルや他の政治家は、スティムソンに賛同した。 そして7月24日、ポツダム会議の最中、トルーマン大統領はカール・スパーツ将軍に、最初の「特殊爆弾」は、8月3日以降、「天候の許す限りすみやかに、第509混合部隊によって」投下されるべきであると、作戦命令を下したのであった。
3. ユダヤ人の原爆観 日本を見るユダヤ人の目は今も厳しいのです。 ユダヤ人学生は、広島の平和記念公園に、ホロコースト慰霊碑があることに驚いて、 また、ホロコースト生存者の映画を撮ったユダヤ人女性は、
エノラゲイではアロハシャツを着て原爆を落としていったとどこかで聞きました。 ポール・ティベッツは確か「人類初の原爆投下をした男」というTシャツを作って、得々として着ていたはずですし、「眠れない夜などない」発言でも知られています。
原爆を落とした爆撃機の機長、ポール・ティベッツ大佐はユダヤ系のアメリカ人です。 全人口に対してユダヤ人口が5〜6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた。 機長のポール・ティベッツもユダヤ人である。広島に原爆を落としたとき、彼はまだ30歳だった。ポール・ティベッツ機長をはじめ搭乗員の多くは、戦後もずっと「全く後悔していない。夜眠れなくなったことも一度もない。あの時、我々は人類にとって最善のことをしたんだ」と述べ、原爆投下の正当性を強調している。
「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」というユダヤ人組織がある。 「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパーの見解: 新潮社編集部の「第二次世界大戦で人類に対する明らかな犯罪が2つあったと思います。ひとつはホロコースト、もうひとつは原爆投下です。その責任追及を『SWC』がする予定はないのでしょうか?」の質問の中で、次の問答がある。 ◆編集部 : 原爆による無差別爆撃の事実は明らかで、これは戦争犯罪ですから、アメリカの戦犯追及を考えるべきです。 ◆クーパー: 率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません。 ◆編集部 : それは納得できません。非戦闘員の殺害は明らかに戦争犯罪じゃないですか。 ◆クーパー: ノー。戦争というのは非常に悲惨な出来事なわけですけれども、2つの原爆を落としたことで、戦争が終わったという事実はあるわけです。もしトルーマンが原爆を落とさなければ、さらに多くの死傷者が出たでしょう。 「SWC」を「平和・人権団体」と呼ぶ人がいるが、「SWC」は非ユダヤ人の平和・人権に関しては無頓着だといえる。その偽善ぶりに、最近では、「SWCはホロコーストを商業化している!」として、一般的なユダヤ人からも批判が出ている。
つい最近、日本政府はイスラエル政府に、ユダヤの「イェド・ファシム機構」のような「日本災害機構」を広島市に建設する計画を提案したことがある。イスラエルからユダヤの災難を表す物品を提供してもらい展示するというものだった。 しかしこの要請は断られた。 「アウシュヴィッツの悲劇」を、「原爆の悲劇」とは比較することのできぬ「人類史上最悪の出来事」として、このままずっと世界中の人々に強くアピールし続けていきたいのだろう。 害虫駆除に貢献したユダヤ人
原爆の開発をスタートさせたのはユダヤ系ルーズベルト大統領(強烈な親中反日主義者) ユダヤ人オッペンハイマーは最初から最後まで投下目標について日本だけを論じドイツを投下目標として論じたことはなかった。 原爆投下命令を出したのはユダヤ系トルーマン大統領 原爆投下指揮官はユダヤ系ルメイ少将(ルメイは民間人への無差別爆撃の発案者で東京大空襲(死者10万人)の指揮官) 原爆を投下したエノラ・ゲイ乗組員15名のうち7名がユダヤ人で機長のティベッツもユダヤ人 戦争中原爆はユダヤ人コミュニティーの独占管理のもとにあり
●戦後のアメリカの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産官学複合体)を生み出す大きなきっかけとなったのは、「マンハッタン計画」である。 この軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」は、多くのユダヤ人科学者が参加したことで知られている。具体的にみてみよう。 害虫駆除に貢献した科学者 ●まず最初は、「コンピュータの父」として知られるフォン・ノイマンである。 彼はハンガリーの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、1930年に渡米。天才的頭脳の持ち主であり、現在のほとんどのコンピュータの動作原理であるストアードプログラム方式を考案した。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者で、現在使用されているコンピュータは「ノイマン型コンピュータ」と呼ばれる。また、彼はゲーム理論におけるミニ・マックス法の発明者としてや、自己増殖オートマトンの考案、量子力学についての研究でも知られている。 爆縮レンズ開発に従事し、爆薬を32面体に配置することにより核爆弾が製造できることを10ヶ月に渡る計算により導いた。また、地面ではなく空中で爆発させたほうが原爆の破壊力が増すことも計算により導いた。 その圧倒的な計算力と、極めて広い活躍領域から、「悪魔の頭脳」と評された。 「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。 しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。 一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。 アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。 スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。 最終的に、2個の原爆が日本に「無警告」で投下されたことに満足したフォン・ノイマンは、戦後のビキニ環礁の核実験に立ち会ってガンになり53歳の短い人生を終えた。 ●「ロスアラモス研究所」の所長に就任して「マンハッタン計画」を主導したロバート・オッペンハイマ(彼はニューヨーク生まれのユダヤ人である)。 ロバート・オッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物である。彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけを論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。 彼は戦時中、日本への原爆使用に反対した科学者たちを巧みにのけ者にしていった。そして、1945年7月に、ロスアラモスで最初の原爆実験に成功した際、狂喜して、「いま私は死神になった。世界の破壊者だ!」と叫んだ。
「バルーク家」はラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーで、ロスチャイルド家と深いかかわりをもち、彼は「アグダス=イスラエル・ユニオン」というユダヤ系結社の代表を務めていた。 バーナード・バルークは、相場の世界では冷徹な投資で巨額の資産を作った相場師として有名であり、政治家としても幅広く活躍した。 第一次世界大戦前、バーナード・バルークは100万ドルの資産を持っていたが、それが終わった時には2億ドルになっていた。ヒトラーが戦争を起こすと、彼はチャーチル、ルーズベルトと語らってアメリカを参戦させた。 バーナード・バルークは、第二次世界大戦中は、原爆開発の有力な支援者となり、「マンハッタン計画」を指導した。「マンハッタン計画」は、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行なわれる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。この計画の存在については大統領や陸軍長官など限られた関係者のみに知らされ、議会への報告などは一切行なわれなかった。 そして原爆が完成すると、バーナード・バルークは大統領顧問として、原爆の対日使用を積極的にすすめたのである。彼にとって、日本人の命なんてどうでもよかったのだろう。(彼は京都への原爆投下を主張していた)。 戦争が終わると、バーナード・バルークは「国連原子力委員会」のアメリカの主席代表となり、原子力の管理に大きな影響力を持つようになる。彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者でもあったのだ。 このように、ユダヤの大富豪であるバーナード・バルークは、第一次と第二次の2つの世界大戦で重要な役割を演じ、「原爆」と「冷戦」の誕生にも深く関与していたのである。彼は戦争によって自分の資産を増やしていた。一部の研究家の間では、バーナード・バルークは「戦争仕掛人」と呼ばれている。(バーナード・バルークは1965年に亡くなった)。
原爆開発を最初に立案したのはイギリスでした。 ところが、ナチスドイツとの戦争で疲弊したイギリスは財政的に逼迫し原爆開発は頓挫します。 そこでイギリスはアメリカにこの計画を売り込むのです。 チャーチルとルーズベルトは「ケベック協定」を結び、イギリスの原爆開発情報はアメリカに譲渡されたのです。 この裏にはもちろん、ロスチャイルド系イギリス企業インペリアル・ケミカルズとアメリカの企業デュポンとの蜜月関係が背景にあります。
先のインペリアル・ケミカル、デュポンを始め、モルガン系企業GE(ゼネラル・エレクトリック)、カナダのインターナショナル・ケミカル、はてはドイツのIGファルベンまでも単一カルテルを形成していた! この金属独占大資本網こそが、物理学において原爆開発の兆しが見え始めた第二次大戦前あたりを境に「原爆製造」という巨大産業の実現に与した真の黒幕。 ドイツに原爆が落とされず、日本に落とされた理由もそこにある。 さて、周知の通り原爆にはウラン濃縮型とプルトニウム型の二種類ありましたが、前者に必要とされるプルトニウ235は、「ロックフェラー=メロン財閥」が主に製造したものであり、後者のプルトニウムは「モルガン=デュポン」(ロスチャイルド)が主に製造したもの。 そして重要な点はこれからなのですが、ロックフェラー勢の主導により時期的にも先行したウラン型爆弾の開発は比較的早い時期の完成を見ます。ところが、ロスチャイルド主導のプルトニウム爆弾の方は開発が遅れてしまいます。 アメリカ(いや、正確には原爆カルテル)としては、どうしても両タイプの原爆を使用したかったのです。 原爆プロジェクトの総指揮をとった陸軍長官ヘンリー・スティムソンはモルガン財閥と深い関係のある人物であり、終戦を引き延ばし、プルトニウム爆弾を是が非でも日本へ投下する使命を帯びていました。 そのためにこそ日本へ無条件降伏が突きつけられたのです。
ところが日本人の多くは、「第二次世界大戦を早く終わらせるために、アメリカは日本に原爆を投下せざるをえなかった」と教育され、いまだにそう思い込んでいます。 実際、昭和20年の東京大空襲など、一連の空爆による日本全土焼き払い作戦のときから、米軍部は日本に戦争遂行能力がないことをはっきりと知っていました。日本全土を焼き払うこと自体、すでに人体実験です。一般市民が無差別に死んでいくなかで、戦争の恐怖がどのように天皇を頂点にした国家を変えていくのか、研究していたのだと私は見ています。そして、その次に原爆投下です。敗戦前の少なくとも半年の間、日本人は国ごと一部の米国人の実験用モルモットとして、やりたい放題に殺されたというのが歴史の事実です。
【ラスベガス(米ネバダ州)4日=杉本宏】ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、太平洋戦争末期に実施された広島、長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。 この刊行物は同事務所が毎年、編集・発行しており、昨年5月に出された第12版が最新のもの。米国が1945年7月から91年12月までの間、同実験場などで実施した843回の核実験(英国との共同実験も含む)について、103ページにわたり実施時期、場所、爆弾の威力などを記載している。 この中で、米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。 原爆の対日使用は「人体実験」だった。 「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について 第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・ 第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。 第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC 広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。 「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。 その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。 しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。私たちは焼け跡の草を
A死の灰が出ることが予測されていたうえ、過去の実験から居住地域に向かうことがわかっていた。 Bロンゲラツプなど風下の4環礁の住民に対し、意図的に事前警告をせず、避難措置もとらなかった。 C米兵は34時間以内に救出されたのに、住民の救出には最大4日かかった。同程度被ばくしたアイルツク環礁には避難措置はなく汚染した水や食料でさらに被ばくした。 D汚染の残るロンゲラツプ環礁に対する安全宣言を出して避難した住民を帰還させ、人体への放射能の長期的影響を調べた。 E全島が被ばくしたにもかかわらず、人体研究の対象となった環礁以外では、医療援助や総合的な検診がない―などだ。 マーシャル住民らに実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、これまで 「医療ケア」プログラムとして知られていた。同研究の存在が明るみに出たことで、「ケア」の裏側で「放射能が人体に長期的に及ぼす影響」についての徹底的なデータ収集を進めていたことが判明した。現在も研究はエネルギー省の手で続けられており、特定の被ばく者集団を対象に40年以上にわたって追跡調査されたデータは、原爆傷害調査委員会(ABCC、放射線影響研究所の前身)が集めた広島、長崎の被爆者データとともに同省健康研究室で一括して管理されている。 セリグマン同省次官補代理(同室長)は、一連の資料を「完全なデータセツト」と呼び、放射能の人体への影響を調べるうえでの基本資料であることを隠さない。マーシャル側が「モルモット扱いだ」と批判してきたのも調査目的の「二面性」とかかわる。 これまでの調査から、「医療ケア」では説明できない事例も判明している。赤血球の追跡調査目的で、放射性クロムを注射した事例と、主として被ばく直後に放射性物質の除去のために使われるエチレンジアミン四酢酸(EDTA)という物質を被ばくから七週間たってから投与した例だ。 米軍による一連の「放射能人体実験」について調査した米大統領諮問委員会は95年、「全体が人体実験だったとはいえない」としながらも、二例は患者の治療目的を逸脱した研究だったと結論づけた。 マーシャル側は、独自調査で少なくとも20人以上が放射性物質を注射されたことを突き止め、うち生存者5人も特定した。ロンゲラツプ環礁の議員ナビ・クンさんの母アトミネさん(58)もその一人で、乳がんや脳しゅように苦しんでいる。クン議員は、「本人への情報開示がないため、『実験』との因果関係を調べることが難しい」と話す。 これに対し、研究にかかわった医師らは現在でも「ケアのために必要な措置だった」と強弁する。エネルギー省当局者はマーシャル側に「注射は、X線検査のようなもので害はない」と説明したという。 放射能実験にかかわる人権問題に詳しい米国人弁護士クーパー・ブラウン氏によると、米側が実施した被ばく者の甲状せん摘出手術についても、「摘出する必要がないのに、放射能以外の原因のがんや肥大との比較研究のために摘出された疑いがある」という。 ブラウン氏は同時に、当時の米原子力委について、 「(マーシャル住民は)文明化されていないがネズミよりは我々に近いと公言する幹部もいた」 と述べ、人体実験の対象になったアラスカ先住民らと同様、「人種差別的」な要素が合まれていた疑いを提起する。 米国防総省 広島、長崎の原爆被爆者データ 核戦争研究に利用 【ワシントン30日共同】米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的の研究にも利用していた事実がこのほど、同省や全米科学アカデミーなどの解禁文書で確認された。 国防総省は、核使用の際の医療対策に収集データが役立つと期待。広島、長崎のデータとビキニ環礁での原水爆実験の資料を比較し、爆心周辺で放射線から身を守るには服装をどうするか、などといった分野も研究していた。 また日本で「ABCCの研究は非人道的」との非難が強まることを恐れた米側が、病理標本やデータを重要機密資料として、その保護に極度に配慮していたことを示す文書も見つかった。 1946年11月26日、トルーマン大統領は「原爆が人間に与える長期的影響の研究を継続すべきだ」との陸、海両軍医務総監の勧告を承認。これを受けて全米科学アカデミー研究評議会に原爆傷害委員会(CAC)が設置され、現場機関として広島、長崎にABCCが発足した。 CAC議事録によると、47年3月のCAC第1回会議で海軍の代表が「防御的措置」と「攻撃的措置」の両面で被爆者データを利用することを提案した。またパターソン陸軍長官は同月、ジュエット科学アカデミー総裁に送った書簡で被爆者研究の「軍事的重要性」を強調し、極東司令部による協力を約束した。 翌48年6月に「特殊兵器プロジェクト」(国防総省国防核兵器局の前身)のハズブルック参謀長がまとめたメモは、被爆者データは「放射能戦争研究に非常に重要」だとして、核攻撃の際の死傷者数や負傷者の治療などに関する情報への利用に期待を表明した。 ABCCで収集されたデータや生検、解剖標本はこうして同プロジェクトや陸軍病理研究所で保管され、47−49年にまとめられた核戦争防護の各種研究に生かされた。 さらにクーニー原子力委員会軍事応用局放射部長の論文は、広島、長崎でのデータとビキニ実験との比較から身体器官への影響を分析。「爆心から1.5キロ離れた地点なら軍服、シャツの着用でも防護になる」などと指摘した。 近藤幸四郎・広島県被団協事務局次長の話 中学生の時、先生に(調査のためABCCへ)行ってくれんか、と言われた。アメリカにはとても協力する気になれず断った。モルモット扱いは、我々は前々から言っていて今さら驚かない。50年たって、ようやく証明されたかという感慨が強い。 <ABCC> 原爆放射線の長期的な医学影響調査を主な任務として1946年11月、トルーマン大統領が設立を指示した。47年から広島、長崎で調査を開始、予算は米国原子力委員会などから出された。日本からは国立予防衛生研究所が参加。約12万人を対象に寿命(死亡)調査、成人健康調査、病理学的(解剖)調査、遺伝的調査などを実施した。(共同)(毎日新聞 1995/07/30) 核戦略用に設置? 米の研究所、治療はせず 米国は47年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立。広島、長崎に研究所をつくり、原爆が人体に与えた影響を調べ始めた。75年からは、米国エネルギー省と日本の厚生省が費用を折半する財団法人の放影研が調査を引き継いでいる。 ──ABCCの研究は軍事目的だったのですか。 「研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった」 ──ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。 「治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ」 現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆2世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。 被爆者をモルモット扱いしたと言われるABCCの姿勢は、放影研にも引き継がれてはいないだろうか。 占領史研究者、笹本征男さん(54)は、今年末に発行される「通史日本の科学技術〈国際期〉I・II」(学陽書房)の中で、ABCCの研究を引き継ぐ放影研の設立目的にも不明確さが残る、と指摘している。 財団法人の目的には「被爆者の健康保持及び福祉に貢献する」ことをうたっている。一方、両国政府が74年に交わした公式の外交文書では、目的は「放射線が人に及ぼす影響の調査研究活動」とされ、「被爆者のため」という文言はどこにもないのだ。
6月末に訪れたワシントン郊外のエネルギー省で、「シーダ」という名前のデータベースを見た。 ハンフォード、ロスアラモス、オークリッジといった核兵器製造現場で働いた人たちの健康状況を1人ひとり追跡するデータベースだ。その中に「JALSSA01」というファイルがあった。 ABCC、放影研が集めた被爆者7万5991人の被ばく線量、性別、死因などの関連がオンラインで分析できる。利用するにはエネルギー省の許可が必要だという。 被爆者のデータは、実は原爆をつくり、落とした国の、核兵器をつくる省に管理されていた。 同省のセリグマン次官補代代理は「放射線の人体への影響を知るには、日本の被爆者の研究が最も基本となる」と話す。被爆者のデータは、核兵器、原子力関係の労働者から得られたデータと違い、一挙に放射線を浴びせられた子供から老人までの男女多数が、長期にわたって追跡されているからだ。 米国が今も年間約20億円を広島・長崎の研究に投じ、威力の見直しなども進めているのは、データの重要性が極めて大きいからと思えば納得できる。原子力発電、X線などの医療分野、そして核兵器工場でも、放射線をどれだけ浴びると有害かという基準づくりに、被爆者を追跡したデータは必要不可欠となっている。
原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。 原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。 朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。 ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。 50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。 また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。 こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06) http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html ●「マンハッタン計画」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。 「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である。」 「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。 そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である。」 「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。 このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。」 「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである。」 「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ。」 「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである。」 「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの“放射能の安全論”であった。ここで数々の生体実験を行なってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。 〈後略〉」 「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。 『1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。 原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』『GM』 『フォード社』 『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。 この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。 『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。
●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。 ●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。 ●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。 ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。 そこで得た研究成果は、「ダウケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。 ●この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、更に同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。 このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした“中央集権的組織”となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。 更に、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。 ●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。 例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。 ●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。 プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。
「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的に、それを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである。」 ●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。 「アメリカが必要としているのは、永久的な“戦争経済”である。」 ●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。 「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる“ビッグ5(国連常任理事国)”の兵器産業である。」 ________________________________________________________ 5. 昭和天皇の原爆観__昭和天皇を襲った恐怖とは アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」 「日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。 1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。 三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。 昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,中国人ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンの米軍と全く同じですね. そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう. そして,昭和天皇が中国で行った組織的財宝略奪と それをカモフラージュする為にやらせた(?)大虐殺の黒幕だったことが明らかになってしまう. 昭和天皇は戦犯として処刑され,天皇制は廃止,昭和天皇の悪逆非道な行為は世界中で永遠に語り継がれる事になる. そこで昭和天皇が考えた(?)起死回生の名案とは: 対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。 あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。 アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。 あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。 マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。 占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。 米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。 戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった 真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った. 天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。 負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。 ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。
アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。 現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。 かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。
日本は帝国主義国であるがアメリカの完全なる属国だ。高度に資本主義が発達した植民地。 日本国内に駐留している米軍は4万〜5万人。それなのにどうして支配できるのかというと、日本の支配機構を使っているからだ。 日本は廃刊になったところは一社もなく、そのまま機能しはじめた。 D ドイツの場合は独立性を持っている。日本はまるきり隷属。この違いは何か。 第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、 海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。 山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官? 何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。 3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。 お互いにシナリオを決めて、さてこの線で始めますかなどとやっているのです。 ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だった。 天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。 佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、 「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。 しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。 責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。 ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる ◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は ◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人であった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で自殺する。(山本五十六も辛かったんだね) 真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。 山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。 昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。 東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。 日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった. 強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。 真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。 確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。 日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。 山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。 軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。 支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。 当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。 ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。
6. 原爆投下まで @第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。 Aその決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。 B日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。 C昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。 D広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。 E長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。 F日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。 ルーズベルトやトルーマンは単なる飾り物で、原爆を落とす命令はすべてスティムソンによってなされた。その情報は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。 原爆を投下される迄 日本が頑張った理由 第二次世界大戦中、昭和天皇は、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。 天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。
ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。 ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。 ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。 この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。 この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。 そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。 無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである: 「あるルート」 = ヘンリー・ステイムソン → ジョセフ・グルー
ロスアラモスの目的は、原爆兵器の効果を広島・長崎で「人体実験」する事にあった。 米国は日本に対し戦争で勝つ事は十分に知った上で、人体実験のために広島・長崎に原爆を投下した。 何故ならロスアラモスもFEMAも、新型兵器の効果とそれが「どの位抵抗心を失わせ支配を容易にするか」の実験、研究を元々専門にした機関、つまり「心理戦争局」だったからだ。
前項の中で、私はグルーのもう一つの顔について触れた。その中でグルー[外部リンク]が太平洋戦争前から駐日大使を勤めた約十年間に、吉田茂、樺山愛輔らの間に、尋常ならざる交流を結んでいたことを書いた。この二人のルートで、グルーは御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受け取り、アメリカ国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書『滞日十年』に書かれている。 このグループは"ヨハンセン・グループ"といわれていたこともすでに書いた。 ここでは一人の男を中心に、プリンシプルのない男たちの物語について書こうと思う。日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。 白洲次郎という男がいた。その男の書いた随筆や座談記録などが一冊にまとめられて、世に出た。その本の題名は『プリンシプルのない日本』(二〇〇六年)という。 白洲次郎の経歴が載っている。 一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。 ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。 ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。 青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。
『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。
前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。 白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。 柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。 「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」 これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲[外部リンク]の日時を知っていたのか。 柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。 この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。 徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある。 一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。 徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。 クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。 「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。 引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。 FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。 白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。 白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。 父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。 白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。 私は前著『日本のいちばん醜い日[外部リンク]』でヨハンセン・グループについて詳述した。 その中で、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記−−天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。 彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報がその真実性は私には判りませんが−−入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐しいものでないと信じられておりました。 後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。
アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。グルーはトルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物である。 白洲次郎はスティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男である。 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。 Wikipedia にはこうある。 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。 白州がお目付役となって随行したにすぎまい。 日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下はセットになっている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。 アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522 ・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。 ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528 「原爆の秘密 [国外篇] 殺人兵器と狂気の錬金術」 鬼塚英明著 成甲書房 を読みました。 この本の著者鬼塚氏は、「どうしてアメリカは日本に原爆をおとしたのであろうか」と考えて資料を読みあさっているうちに、私たち日本人はだまされてきたのだと確信するようになりました。広島・長崎の悲劇を繰り返さないため、日本人は現実を直視しなければならないと、鬼塚氏は訴えています。 日本がすでに終戦工作をしていたにもかかわらず、原爆投下は決まったこととして、進められ、ウラン、プルトニウムの両方を落とすために、終戦が引き延ばされたと著者は見ています。また、イギリス留学中に実家が破産してウォーバーグ財団の援助を受け、岳父が貞明皇太后と密接な関わりを持っていた白州次郎を介して、皇室と皇太后の周囲にいたヨハンセングループと言われる吉田茂らに情報が渡っていたと思われます。鬼塚氏は、アメリカが天皇制の存続を条件に、ポツダム宣言を「無視する」とのことばを天皇に言わせたと見ています。少なくとも天皇は事前に知っていたのです。 鬼塚氏は、ルーズヴェルトは原爆を落とす前に日本に警告するべきと主張したので、殺されたのではないかと推理しています。次の大統領に成ったトルーマンも繰り人形に過ぎず、実際に指揮をとっていたのはスティムソン陸軍長官でした。スティムソンはエール大学でスカルアンドボーンズという組織(ジョージ・ブッシュや大統領候補だったケリーも入会していた)の会員で、ロスチャイルドのザ・オーダー(国際金融寡頭勢力)の中枢にはいっていた人物とのことです。 マンハッタン計画の資料によれば、そのスティムソンが討議すべき問題として挙げているのは、「現在における」ではなく、「将来に置ける」兵器や国際競争です。ウォール街の利益のため、ザ・オーダーのために戦争を長引かせたのだという著者の主張が納得できる気がします。 つまり、湯水のように税を投入したマンハッタン計画の効果を国民に見せるため、スペクタクルが必要だった。実際投下すると非難の声が上がり始めたので、犠牲者を減らすために必要だったと宣伝し始めた。もちろん投入された資金は原爆カルテルの懐に入り、それ以降も原爆産業として成立していったわけです。また、ソ連に見せつける効果もありました。 日本に2発以上の原爆を落とす計画がうまく行くためには、天皇がポツダム宣言をその前に受諾しては困るので、国内にも協力する勢力があったはず、ということで、「原爆の秘密 国内篇」に続きます。
・広島の原爆で、爆心地近くに集められていた徹底抗戦派の軍人たちは全滅したのに、第2総軍司令部は山腹にあり、ほとんど死者を出していない。 ・東京ローズがアメリカ軍向け宣伝放送で、第509航空群(原爆投下のために作られた航空群団)を名指しで挙げ、Rの記号がついているからすぐわかる、日本軍にやられないうちにおかえりなさい、と言っている。 ・謀略機関で働いていた人たちは、戦後戦犯として裁かれるのを免れた上に、権力と富を手にしている。 ・原爆投下数日前に爆心地近くに学童・生徒が集められていた。 ・アメリカ兵捕虜は原爆投下時、長崎にいなかったので、犠牲者がいない。しかし投下後、アメリカのジャーナリストが取材にはいったときには存在した。どこから出てきたのか?
鬼塚氏は、天皇、日本の陸軍参謀本部とアメリカが終戦工作のために通じていたと考えます。 第509航空群団の飛行機にRのマークがついたのは、東京ローズの放送直前のこと、そんなことを知っているとは、そうとしか思えない。国策通信社である同盟通信社と陸軍参謀本部が作った原稿を東京ローズに読ませたのだろう、ということです。同盟通信社と吉田茂たち貞明皇太后周辺にいたヨハンセングループは深い関係にあった。同盟通信社の幹部だった松本重治、長谷川才次は、戦後ロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸っているし、陸軍参謀本部の有末精三陸軍中将は「有末機関」をつくり、米軍に協力した。 参謀部は原爆投下を前もって知っていたので、助ける人と原爆死させる人を選別した、また、あらゆる人が犠牲になることでスペクタクルを盛り上げるべく、生徒たちが動員されたのだろうと、推測しています。 考え過ぎかもしれない、と思う部分もありますが、世界の世論の非難をかわすために、放射能は存在しないことにされ、被爆者が見殺しにされたこと、高松宮が総裁だった日本赤十字が治療薬を断ってしまったことなどに対する著者の怒りには、共感せずにいられません。 ペンタゴンがABCC(原爆病等調査委員会/アメリカの調査団と厚生省の国立予防研究所が協力してできた)に対し、データ収集のため、治療をしてはならないという内部通達を出していたこと、18000人がなお追跡調査対象になっていることが、2002年に、公表されたこと、ご存知でした?
天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。 つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。
広島の害虫駆除は大成功
・他の二機は観測機器と写真装置を運ぶ。三機は互いに交信してはならず、無線沈黙を厳密に維持する。 ・気象観測機が、該当国および標的地域上空より帰還する。それらは貴機とは直接交信せず、あたかも、テニアン島の基地と交信しているかに通話する。貴機は、したがって、極めて注意してその報告を聞く。もし、その報告が聞き取れなくても、無線を通じて発信してはならない。その報告は繰り返されるよう、あらかじめ手配してある。 ・貴機は標的に対地速度480キロメートル/時で接近し、約9,000メートルの投下高度を維持する。 ・爆弾が投下されるやいなや、貴機は150度旋回する。 ・標的の上を飛行するという、通常の爆撃方法に従ってはならない。・・・繰り返すが、貴機は、その爆発の上空を飛行してはならない。 ・爆弾が投下された後は、その装置の爆発による爆心の上を飛行しなくてもよいように、急激な旋回をおこなう。貴機は、自機と爆心との距離をより長くとるため、飛行高度を下げてもよい。 こうした詳細手順に従って、第509混合部隊の爆撃機は、17日間にわたり、トーペックス火薬〔爆雷用の高性能爆薬〕を用いた奇妙な形をした“かぼちゃ”を、日本のいくつもの都市に投下した。日本の対空監視員は、三機編隊でやってきて一発の爆弾を落とすだけで大した被害のない、B29の機影に慣れてきていた。日本の無線工作員は、重要性と機密を鼻にかけていると第509混合部隊をなじる、テニアン島の米軍の地上員ののん気なおしゃべりを傍受していた。東京ローズ〔日本が流した対連合国軍宣伝のためのラジオ放送の女性アナウンサーに米国兵がつけた愛称〕は、同部隊が、アメリカのとっておきの策、「魔法」の訓練をやっている、と報じていた。 1945年8月6日、第509混合部隊のエノラ・ゲイは、魔法でもかぼちゃでもなく、「リトルボーイ」――細長い容器で、中に、発火を待つ少量のウラン235を一端に、他端に多量のそれをもつ、つまり原子爆弾――を搭載していた。テニアン島を離陸して6時間半後の、日本時間の午前8時15分17秒、特製の爆弾倉の扉が開けられ、〔爆撃照準機と連動した自動投下装置でなく〕トグルスイッチにより、パラシュートの付いた爆弾が投下された。ポール・W・ティベッツ大佐は、爆撃航程パイロットのトーマス・W・フェアビー少佐から機の操縦を引き継ぎ、急旋回をおこない、全速力で帰還に入った。約二分後、24キロメートル離れたところで、エノラ・ゲイは、まるで野生馬のように跳び上がった。航行記録をつけていた機長のロバート・ルイスは、「我々が標的を爆撃するまでの間、ちょっとの休息があるだろう」と直前に記録していたが、今度は、「おお神よ」と、驚嘆のみをしるしていた。 その爆弾は、晴れた青空の中、24万5千の人口をもつ市の、北西中心部、地上約450メートルで炸裂した。その瞬間、あたかも太陽の中心部のような、直径75メートルの火の玉が空中に出現、6万4千人の市民が瞬時に燃え上がり、あるいは木っ端微塵に粉砕された。さらに、2万6千人余りは、中性子とガンマ線が無数に体を刺し抜き、焼かれ、数分、数日、数週、あるいは数ヶ月以内に死亡した。 その閃光は、160キロ先にまで届いた。爆発の衝撃波により、瞬時に6,820棟の建物がなぎ倒され、その音は16キロの彼方にもとどろいた。幅1.6キロの市の中心部全体が炎に包まれた。熱気と灰――建物や人間の灰――の巨大な気流が空中へと吹き上がり、キノコ型の雲となって広がった。その灼熱のキノコ雲の足元に生じた真空状態に向かって、冷たい空気がどっと流れ込み、爆発から2ないし3時間、次第に速度を増す時速48キロから64キロの突風が、街を焼く炎を煽った。その火の嵐の周辺部では、熱波の先端が燃えやすいもの全てを発火させ、あたかも炎の舌のように、地上をなめつくしていった。数時間のうちに、10平方キロが焼けつくされていた。 大気に吹き上がった塵のとばりは空をおおい、燃える市街を暗闇につつんだ。市内の河川の水が蒸発して吸い上げられ、ひょうの大きさの泥水の粒となり、その雲のあちこちから、雨という形で降りそそいだ。電離化した大気は、稲妻の付近でにおう、あるいは溶接の火花がもたらすような、電気的においを広がらせた。その火の嵐の縁では小さな竜巻がおこり、廃墟を巻上げ、ようやくでも立ち残っていた木々を倒した。 爆心近くの倒壊した建物からなんとか這いずり出れながらも呆然自失の人びとは、戸外にいてひどい火傷を負い、まだ生きていながらも幽霊のようにさまよっている人びとの列に加わった。火傷は中度でも放射線照射にさらされた人びとは、火の地獄と現世の境で、肉親を探していた。そうした人びとは、何かにつまずき、熱で皮膚をはがれたり、黒く炭化したり、いまだ泡噴いていたり、灰色の断片と化していたりした人の死体をその目で見、そのシーンを脳裏に焼け付けた。市の中心を流れる三つの川は、大人や、ことに、火傷を癒そうと水に入った子供たちの死体で埋まり、流れさえ止まっていた。 火の手の拡大は、怪我を負い、倒壊した建物の下敷きとなっていたたくさんの人々を飲み込んだ。そこを通り過ぎる避難民は、幾人かを助けることはできたが、他の人々には目をつぶった。肉親を探していた男は、立ち止まりながらも、わが身を助けることを第一としなければならないことを詫びなければならなかった。市の何箇所かでは、公園や広場に避難した人々が、周囲を火で囲まれ、瀕死の状態にあった。そうしたにじみ寄る火との戦いにさらされた人びとは、破壊された水道管や流水からえた数杯の水を分配しながら、子供に話しかけ、何がおこったのかの推測を交換し、この先何が起こるかうわさを広げていた。一機の低空をとぶ飛行機が、機銃掃射の恐怖をもたらしていた。異様な雨は、最後のいけにえをつくるため、市にガソリンが撒かれたのだという声もあった。兵士たちは、アメリカの落下傘降下兵を捜索しようとしていた。 最初の30時間、生存者は、瓦礫の中を掘り返して回って、知らないとはいえ、恐しい放射線輻射に身をさらしていた。電気は消え、水道管は7万箇所で壊れていた。45の病院のうち、3病院が破壊をまぬがれ、290人の医師のうちわずか28人が、1,780人の看護婦のうち126人が、無傷でいたのみであった。そのような状態でも、生命は生き続いていた。それは後日に発見されたのであるが、たとえ爆心地でも、地面からわずか十数センチ下では、みみずがうごめいていた。 序々にではあるが、地上でも、表面的な秩序は復活していた。爆撃の翌日、県知事は、「被害を受けた市の復興と悪魔のようなアメリカ人を絶滅させるために、戦う精神の高揚」を呼びかけていた。軍隊は、すべてが未熟ながら、比較的、近代的で効率的な組織であり、救援体勢をとった。被災者は病院へと集められた。軍の食料および毛布の貯蔵が放出された。山をなす遺体は、ガソリンが撒かれて焼却された。火災は三日にわたって燃え続き、その残り火も、数日にわたりくすぶり続けた。 長崎の害虫は全部駆除できなかった___困ったね ファットボーイは第二の原子爆弾であったので、その投下にかかわった誰もが、畏怖にたる歴史を作ろうとしていることを自認していた。広島に関しての犠牲者の見積もりもすでに公表されていた。ラジオ放送は、原子時代の幕開けの意義について、解説や憶測を報じていた。すなわち、日本はすぐに降伏するにちがいない。神風特攻隊員であっても、自国の都市が一つひとつ消滅させられてゆくのを、名誉と歯を食いしばってはいられまい。 加えて、ソ連の戦車が、満州・ソ連国境に集結し、崩壊しつつある日本の帝国の大陸部分をもぎ取ろうとしていた。そして、ソ連の侵攻は、日本時間の8月8日の真夜中をもって開始された。トルーマン大統領は、その一時間後、その報告を受け、さらにそのニュースが報道された。早朝の離陸体勢に入っていた太平洋の爆撃部隊員は、コーヒーを飲みつつ、任務指示を受けていた。 ファットボーイは、8月11日、日本に投下されるよう計画されていた。ソ連の進撃が開始される数時間前の8月8日の午後、ファットボーイ爆撃チームは、太平洋に「かぼちゃ」を投下する訓練をしていた。その夕方、「ボックス・カー」と命名されたB29が太平洋のテニアン島の空軍基地に着陸し、チームは、その夜すぐ再離陸できる準備をするようにとの突然の命令を受け取った。 今回は本番であった。太平洋上では、台風が発生しようとしていた。日本南部は、翌日の天候は曇りで、その後四日間、雲で閉ざされることが予想されていた。どんな誤りをも避けるため、トルーマン大統領は、レーダーによらず目視によるファットボーイの投下を命令していた。 二度目の原子爆弾をいつ投下するかの判断権を与えられていたテニアンの司令官、トーマス・ファーレル大将は、その日を、11日から繰り上げて、9日の朝とすることを決定した。 しかし、ボックス・カーのチームは、その出だしから、悪運につきまとわれているようであった。未明の離陸に備えるためには、彼らは、2時間の睡眠しかとれなかった。午後11時に起床し、真夜中までに任務指令を受け、軽食をとり、爆弾の搭載を見とどけ、そして、複雑なすべての機器類のチェックを行った。だが、その最後の段階で、航空機関士は、補助燃料ポンプが働かず、長距離飛行の帰路に用いる2,300キロリットルの補助燃料が使えないことを発見した。ボックス・カーの操縦士、チャールス・スウィーニー少佐は、「地獄行き」を決断し、同機は、日本時間の午前1時56分、離陸した。 1時間後、ボックス・カーの乗組員は、テニアン島の本部からの異例な無線沈黙の中断によって困惑させられた。随行する二機の写真撮影機の一機が、科学観測上不可欠な高速度カメラを操作するはずであった物理技士を乗せ忘れてきていた。無線を通じた全関係者を巻き込んだ30分のやり取りのため、日本の電波探索者により、その聞いたことのない名のカメラの操作方法を、盗聴されてしまった恐れがあった。さらにその一時間半後、ファット・ボーイを監視し制御するブラックボックスが赤いランプを点滅しはじめ、すべての点火回路が作動し始めたことを示していた。ただちに、同乗の電子技術担当の大尉がそのブラックボックスを精査しはじめ、その間、機の乗組員は、核分裂が起こるかもしれない緊迫した30分間を過ごさねばならなかった。だが、その点滅は、スイッチの欠陥によるもので、意味もない警告が発せられているだけであることが判明した。そしてその後1時間半は、仮眠と通常作業の時間に当てられた。午前8時12分、ボックス・カーは、日本の南方沖で、二機の写真撮影機の一機と落ち合った。一方、物理学者を乗せ忘れた第二の写真撮影機は、やや北側を、さらに高い高度で飛行していた。40分間、三機は互いを目視しようと旋回をつづけたが視界に入らなかった。8時56分、操縦士スウィーニーは、それ以上の探索は燃料の不足のため不可能と判断、標的に向けて北に航路をとった。先行する気象観測機からは、天候は良好との報告が入った。朝霧が晴れつつあり、青空が輝きはじめていた。 当初の標的は、長崎ではなく、17万の人口をもつ、日本最南部の主要な島、九州北沿岸の工業都市、小倉であった。この都市は、それまでに小規模の爆撃はうけていたが、第一の標的であった。小倉は、平野地帯に位置し、戸畑、若松、八幡――後に四市は合併して北九州市という日本第五の大都市となった――という工業都市と隣り合わせていた。 もしその朝、ボックス・カーがファットボーイを小倉に投下していたら、四市合計61万の人口のうち、30万人が死亡することが予想されていた。 午前9時30分、小倉に接近した時、スウィーニー少佐は、天候は変わらず、空は晴れ上がり、視界が良好であることに安堵した。しかし、機が標的上空にさしかかった時、爆撃手のカーミット・ビーハンは、照準地点として使うはずの兵器工場が目視できないと報告してきた。工場の煙突からの煙がそれを覆っていたからであった。スウィーニー少佐は旋回し、二度目の爆撃航程に入った。しかし、再び、市が眼下に入り、川や他の目標物は明瞭に見えたが、兵器工場は相変わらず目視できなかった。再度、爆撃手ビーハンは、「投下せず」と呼号した。三度目の爆撃航程の際、乗組員は、日本の対空砲火が高度を捕らえ始め、また、日本の戦闘機が上昇してきていると不平を言った。三度目も、爆撃手ビーハンは照準器に標的を捕らえることができず、「投下せず」と叫んだ。 旋回しながら市の上空の対空砲火の白い煙玉を観察し、スウィーニー少佐は、投下を断念し、第二の標的である140キロ南の長崎に向かうことを通知した。すでに、燃料は限界にきており、テニアンまで戻る可能性は無くなっていた。機は、硫黄島か、最近獲得した沖縄の飛行場で給油を受けるかのいずれしかなかった。 ボックス・カーは、午前11時数分前、長崎に向け出力を上げた。いらいらした乗組員は前方の雲を見、レーダー投下を要望した。しかし、爆撃の全権を持つ海軍司令官、フレッド・アシュワースは即座にそれを拒否した。スウィーニー少佐は、「標的の300メートル以内に達する自信があります」と彼に確約した。それに、重い爆弾を沖縄まで運ぶ燃料は残っていなかったので、他にとり得る唯一の策は、ファットボーイを海に捨てることであった。一瞬のためらいの後、司令官アシュワースは、トルーマン大統領の命令を無視する決断を行い、その承諾を与えた。 長崎は、V字型の湾の奥に位置していた。港にそう二本の大通りが市の中心で交差し、狭い谷間に伸びていた。識別の容易なX型の市は、レーダー画面でも明瞭に確認できた。爆心は、そのXの中心であるはずだった。しかし、ボックス・カーがそれに迫った時、爆撃手ビーハンは、雲の合間に運動競技場を捕らえた。それは、偵察写真で彼が見ていたものであった。「これをやる」と彼は叫んだ。彼は右方向への航路修正を求め、それがなされた。一分以内の午前10時58分、彼が爆弾を目視で投下すると、ファットボーイを爆撃倉から切り離した機体は突如浮き上がった。スウィーニー少佐は、自機を大きく傾かせ、沖縄での強制着陸を目指し、南方へと機首を向けた。 機の背後では、パラシュートから吊り下げられたその「仕掛け」は、後で「ピカドン」と地上の人びとに呼ばれるようになるのだが、空中にただよっていた。それは、標的から300メートルどころか、3,000メートル以上も外れて投下されていた。それは、長崎の最も重要な軍需工場、三菱大砲製造所のある、浦上の鍋状の谷の上を降下していた。また、この谷にそって、もうひとつの重要な標的――その半島上の都市と他の日本とを結ぶ鉄道が走っていた。 生き残り、元気になり、何かを書き残した数十人の日本人は、その時、青空を探して空を見上げていたことを思い出した。うち何人かは、機影を見、二人は爆弾とパラシュートを目撃していた。三菱の工場で、旋盤に付き、魚雷や小火器を製造していた労働者には、何も聞こえなかった。東洋で最大のローマカトリック教会である聖母マリア教会での金曜会合に集まっていた人びとは、何も見ていなかった。機械の轟音やステンドガラスの不透明さは、彼らを死へと向かう恐怖から救っていた。 投下から4分後、上空約450メートル、鉄道から60メートル東の地点で、爆弾は炸裂した。その直下では、その破壊は広島よりもさらに完璧で、死は即死であった。しかし、浦上の谷状地形は、長崎の他の部分への放射線の直撃をさえぎった。火災の嵐は生じず、泥の雨も降らなかった。谷間の3.2キロの大通りは、まったくのさら地と化せられた。その爆発音は周囲の山々に反響し、飛び去るボックスカーをとらえ、少なくとも5回の頭を殴られたような振動を与えた。6ヶ月後の集計では、39,214人の男、女、子供が死亡していた(##)。 (##) 爆撃手ビーハンの3,000メートルの爆撃ミスがなかったとしたら、もう5万から7万5千人の犠牲者を生んでいた。ビーハンはただ、そのミスが全くの誤爆であるとはしていない。彼は、爆弾を投下した場所がどこであるか知っていたし、雲の切れ目より目視した運動競技場は「第二の標的」であったと語って自己防衛した。
反転爆撃 戦時中、広島で原爆を体験した若木重敏氏は、アメリカ軍の爆撃機B29は、広島への原爆投下に先立って「巧妙なトリック」を仕掛け、人間の被害を極大にしたと述べている。 若木氏によれば、8時15分の前に、爆撃機は広島市上空を旋回し、警戒警報を出させ、その後いったん飛び去り、警報が解除されて市民が安堵感から防空壕や家から外に出てきた頃合いを見計らって、直ちに「反転」して広島市上空に戻り、原爆を投下したという。 その証拠に、「エノラ・ゲイ号」とその僚機の当日の航路など、具体的な行動記録については現在に至るまで公表されていないという。 「爆撃を行なった当のアメリカの権威ある数多くの著書のどれにも、エノラ・ゲイ号が日本に近づいてから、どんな航路を取り、またどこでどのように進路を変えたかの具体的な記述をしたものは一冊もない。 その異様さの第一は、日本の海軍も陸軍もNHKの放送も、豊後水道および国東半島を北上した大型3機が広島上空に来襲し旋回したので警戒警報が出されたといっているのに、アメリカのどの文献にもその3機のことについての記載が全く出てこないことだ。またアメリカの文献では一様に気象観測機のストレート・フラッシュ号が広島を襲ったので7時9分に警報が出されたと書いている。日本のどの記録にも、ストレート・フラッシュ号のことなどは問題にしていない。問題にしているのはアメリカ人だけである。 この明白な2つのウソをなぜ揃いもそろって書かなければならなかったのだろうか。それは、この2点こそが、アメリカ空軍の作戦を立てた人が、日本人に、いや世界の人に最も知られたくない問題点であったからではないかと私は思うのだ。」 「私は自分の得た情報に基づき、エノラ・ゲイ号らは、いったん広島上空を西から東に飛び、ついで方向を東から西に変え、いわゆる『反転爆撃』をしたのではないかと推測している。 爆撃機(3機のB29)が広島上空を旋回し警戒警報を出させ、播磨灘に抜けたのは7時25分であり、警報解除になったのが7時31分である。 〈中略〉 ……すなわち、私は爆撃機がいったん広島上空を飛んで警戒警報を出させ、ついで飛び去り、警報が解除になり人々が防空壕から出て、リラックスしたその瞬間を狙って爆弾を炸裂させた、謀略的に人間の大量殺戮実験を行なったのではないかという懸念を抱いているのだ。 〈中略〉 広島爆撃の2ヶ月前の名古屋空襲でも、警報解除後を見計らっての爆撃という同じことが行なわれ、恐るべき人員殺傷効果を上げた事実がある。警報発令、次いで解除された状態で、アメリカ空軍が爆撃して大きな殺傷効果を上げたことは、すでにヨーロッパで実験済みである。」 広島の空に白く大きく華やかに開いた「落下傘」の謎 ■ヒロシマの空に開いた落下傘 / 河内朗著 (1985年) ……そして、ひどいと言えば、いまひとつ非道が残っている。 パラシュートである。 朗は江川隆の眼球が溶けて真珠になったのを目撃し、親友が「見てくれ、おれはこうして死んだ」と呼んだのだと信じた。でなければ、あれだけ多数あった死体の中で、かれとも知らず、その一体にだけ惹きつけられた理由がない。 落下傘は「観測筒」を吊ったという。 直径35cm、全長1.6mの「観測筒」の内部にはリレーだのスイッチだの発信装置らしいものが入っている。説明も気圧測定のラジオ・ゾンデと同じように原子爆弾炸裂時の圧力その他を無線で送信したとあり、一般もまたそのように納得した。 しかし、それは日本側の自己解釈だから、マンハッタン機構側の裏づけを取る必要がある。ところが、どうしたわけか、観測データどころか、「観測筒」そのものについても説明が見つからない。犠牲者が出るとわかっていたからその場で観測したと発表するのにとがめを感じたのだろうか、とにかく、「観測筒」についてもデータについても話が全く出てこない。 〈中略〉 マンハッタン計画の司令官グローブス少将の陰険な性格と自己顕示の心理からして何かわけがあると直感し、つぎのように調べてみると、なんと、爆発力測定が無益無用であった。 兵器専門家、火薬担当官などに尋ね、科学書で裏づけを取ってみると、爆薬の強さは爆風圧で測るが、爆風圧は距離の二乗に反比例してツルベ落としの急激さで弱まるので、距離はごく精密に設定しなければならない。 ということは気圧源との距離を無視するラジオ・ゾンデとは全く似て似つかぬ方法なのであった。 ヒロシマの場合はどうか。 落下傘にブラ下がってフワフワ降りる「観測筒」は風向き次第、感知器はどこへ行くやら知れたものではない。一方、爆弾は石ころのように落ちる。このどちらも動いている両者の間の距離は、絶対に、測り得ない。また、そうまでムリをして概算しなくても7月16日、アラモゴードでは、動かない地上の2点間をあらかじめキッチリ測り、爆発力はすでに計算してあった。 とすると「観測筒」は全く無用──。 しかしあのグローブス少将が不必要なことをするはずがない。 よく考えてみると「観測筒」は見せかけのラジオ・ゾンデとして皆を欺くためであり、実際に必要なのは、だれ一人としてその意味を疑わないであろう「落下傘」なのであった。 なぜ「落下傘」か? 地上の人間の注意を喚起するためである。落下傘は現在ですら珍しい。当時とすれば尚更のことで、結構な見世物になった。かすかな爆音に気づいたヒロシマの人たちが不安を感じてその方角を見上げると、青く晴れた空にポッカリ、見たこともない落下傘が白く大きく華やかに開く。 思いがけない光景に人びとは袖を引き、他の人に声をかけ、アレヨアレヨと皆で3個の落下傘を見守った。 その背後に「原子爆弾」がツーと落ちつつあるとも知らないで……。 そしてその人たちはすべて死ぬか、目を焼き切られた。 「そういえば、爆音がして一番先に気づいたのは落下傘だった」と繁が言った。 「ぼくも見た」と優が言った。 シルク・ロードを描いて有名な平山郁夫画伯をのぞき、他にあの「落下傘」を見て無事な人はいない。 天皇の原爆しょうがない発言 この会見の場で、 「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・ こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、 広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」
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