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(回答先: フォロー感謝! 静かなる遺伝子劣化作戦ですね 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2005 年 10 月 25 日 23:52:51)
記者の目:ベトナム戦争終結30年を追って=沢田猛(社会部)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20051014ddm004070066000c.html
両目のない幼児(手前)ら重い障害の子どもたちを診て回る女性医師=ホーチミン市のツーズー病院内の施設で4月1日、沢田写す
◇枯れ葉剤の惨禍に慄然−−幻の対日散布計画も
戦後60年の夏も終わったが、今年はベトナム戦争終結30年でもある。「北爆」という言葉をご存じの方はいま、どのぐらいいるのだろうか。米軍による北ベトナム(当時)への爆撃を指し、ベトナム戦争が生んだ象徴的な言葉の一つである。そのベトナムでは、戦争の後遺症ともいえる枯れ葉剤被害に苦しむ数多くのベトナム人が癒えぬ傷を抱えながら生きている。その被害の実態を確かめようと半年ほど前、現地を取材した。目の当たりにしたのはまだ終わっていない「戦争」の現実だった。
15年余にわたるベトナム戦争で、枯れ葉剤が散布されたのは1961年からの10年間だ。米軍は、解放勢力が潜む拠点のジャングルを丸裸にする枯れ葉作戦を展開。総量は9万1000キロリットルと推計され、うち67%がオレンジ剤といわれるダイオキシンを含んだ枯れ葉剤だった。ダイオキシンの全体量は約500キログラムとみられる。
枯れ葉剤被害調査国内委員会の代表を務めたレ・カオ・ダイ医師が著した「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ(オレンジ剤)」(文理閣)は「動物実験からある科学者たちが計算した結果によると、ニューヨーク市の780万人の住民は、たった80グラムのダイオキシンが市の水道系に入っただけで全員死に至る」としている。猛毒といわれる理由もここにある。
散布地域ではがん患者、先天異常児などが多発。2世、3世への影響も指摘される。ベトナム人被害者は100万人以上とされる。
私が訪ねたのはベトナム政府が被害者と認定した2世、3世たち。父、祖父がベトナム戦争に兵士として加わり、戦闘地域で枯れ葉剤を浴び、子や孫たちに影響したとみられる障害児だった。
ホーチミン市の病院内の施設で、最初に会った幼児(3歳)は多発奇形症候群で知的障害。外見上性別の判断がつかず、両目がなかった。頭がいの下に脳脊髄(せきずい)液がたまる水頭症の女児(2歳)の頭は普通の2歳児の頭のほぼ倍の大きさだ。
戦後30年のベトナム。そして、戦後60年の日本。枯れ葉剤被害を取材するにつけ、両国の戦争に、ある奇妙な因縁があるという思いを禁じ得なかった。それは、枯れ葉剤がそもそも、敗色濃厚な太平洋戦争末期の日本に散布される予定で準備されていたからである。
対日枯れ葉作戦計画は第二次大戦中の米国機密文書公開を機に、米科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に寄せた米スタンフォード大学の歴史学者、バートン・バーンスタイン教授の論文で明らかにされた(87年6月号)。
同論文によると、45年5月、米陸軍に提出された枯れ葉作戦計画は、東京、横浜、大阪、名古屋、京都、神戸の6大都市周辺の稲作地帯に、枯れ葉剤を散布し、稲の全滅を狙った。しかし原爆投下を優先したことと、日本の降伏が早かったため、枯れ葉剤散布を免れたという内容だ。
枯れ葉剤被害を30年以上にわたり追ってきたフォトジャーナリストの中村梧郎さん(64)は、「あの当時、日本の配給制度は最悪。そこへ米軍が枯れ葉作戦を展開すれば、日本国内では餓死者続出の状況だった。渡米し、バーンスタイン教授からは日本の降伏が長引けば、枯れ葉作戦は確実に行われたはずだという証言を得た」と話している。
対日枯れ葉作戦計画は一般には知られていない。もし日本で使用されていたら、どんな被害がもたらされていたか。慄(りつ)然(ぜん)とするのは私だけではないはずだ。
米軍が北爆を続けていたころ、私はベトナム反戦運動のデモや集会にたびたび参加した学生で、いわゆるベトナム戦争世代の一人だ。私たちの世代にとって、ベトナム戦争は無関心ではいられない大事件だった。
ハノイ、ホーチミンの大都市の中心部から戦争のツメ跡はほとんど消えていたが、枯れ葉剤の影響とみられる被害者のうち、奇形をはじめとする障害児は15万人と推計される。
「枯れ葉剤の影響で、人間としての権利を最初から奪われた子や孫たちが戦後、大勢生まれた。枯れ葉剤を製造した米企業を相手取った裁判では、因果関係を立証できないとして棄却されたが、この子たちの自立への道を何とか探りたい。日本も支援の手を」。ベトナム政府関係機関の幹部の切実な訴えが深く心に残った。
もう一つの“ベトナム戦争”。終結30年を機に、この戦争の惨禍を私は改めて伝えたかった。
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毎日新聞 2005年10月14日 東京朝刊