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君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 27 日 22:54:18: 3bF/xW6Ehzs4I
 


日本人はみんな,天皇家は精神薄弱の家系で昭和天皇も自分では何一つ決められない意志薄弱の知恵遅れだと思い込まされてきた.

しかし,それは世を欺く仮の姿だったのだ:


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

東京から80キロメートルほど海岸線沿いに下った山間に、節くれだった松林に囲まれ、等身大以上の観音像――慈悲の仏教の女神――が立っている。 観音の衣の背後の草むらの中に、1.2メートルほどの空地を見つけることができる。下部の通路からは見えないそこに、七枚の灰色に変色した無塗装の細板が地面に突き立ててある。

それぞれには、墨で書かれた以下の名前が見られる。

東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、広田広毅、木村兵太郎、武藤章そして松井岩根。

彼らは、日本のヒットラー、ヒムラー、ゲーリングとして、二年間の審問の後の1948年、連合軍によって絞首刑に処せられた者らである。

その近く、数百メートル下った海を見晴らす高台に、小さな神社がある。その軒先には、色とりどりの紙で飾られたしめ縄がかけられている。その周り廊下の端に置かれた台の上に記名帳があり、そうした絞首刑にあった者の家族らが、1950年初め以来、毎月一回ないし二回、そこに記名している。

おおくの日本人にとって、彼ら七人は、そう罰した国際法廷が言う意味での有罪犯ではなかった。彼らは、日本を戦争へと導いた悪い陰謀者でも、ヒットラーやその一味のような狂った者らでもなく、むしろ、天皇への忠誠な奉仕者であり、政府の責任ある官吏であり、西洋式法廷の要求を満たすため、支配階級によって白羽の矢が立てられた象徴的身代わりであった。

 日本人のほとんど誰もが、1948年の戦争犯罪法廷での判決を非難するが、だからといって、日本人は、多数の選択として戦争を行ったとも、その兵隊たちが公式の指令なくして強姦や殺人を行ったとも思っていない。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。

昭和天皇がある時期から靖国神社を参拝されなくなった理由は「A級戦犯」合祀であろう、という推測が以前からあった。この記事内容が事実であるなら、その推測が資料で裏付けられたことになり意義深いと思う。

首相の靖国参拝問題などの諸問題は、このことで一気に解決するとは思えない。
そこで記事の引用(2件)

<昭和天皇>靖国合祀不快感に波紋…遺族に戸惑いも

 「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。富田朝彦・元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。A級戦犯分祀論や、小泉純一郎首相の参拝問題にどのような影響を与えるのか。

■A級戦犯の遺族
 「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」――A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、そう言い切った。


日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。

天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、このうちの一つを大きくクローズアップした。

 宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、75年までに戦後計8回参拝した。

 途絶えた理由に挙げられるのは

(1)78年のA級戦犯合祀
(2)対外関係の考慮
(3)公人私人問題――など。

今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。
http://yy32zi.at.webry.info/200607/article_10.html


問題の天皇発言は、富田朝彦元宮内庁長官(故人)の手帳に記されていた(1988年4月28日付)。メモによると、昭和天皇はA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司を名指しで批判、

「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などと語ったという。

 天皇メモをスクープした日本経済新聞は「昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」(7/21社説)として、小泉首相に靖国神社参拝を自制するよう求めた。「朝日」「読売」なども同様の論調を掲げている。

 時代錯誤とはこのことを言う。大手メディアがそろいもそろって首相の行動をいさめるのに天皇の言葉を持ち出すとは、とても主権在民の憲法を持つ国の出来事とは思えない。これは明らかに「天皇の政治利用」にあたる。
 そもそも、マスメディアのメモ解釈には無理がありすぎる。

昭和天皇が戦後も続けていた靖国神社への参拝を、A級戦犯の合祀(78年)を理由にとりやめたのは事実であろう。ただしそれは「戦争への痛切な反省と世界平和への思い」からではない。自身の戦争責任追及を昭和天皇が恐れたからだ。

 A級戦犯を神と崇める神社に参拝などしたら、苦労して築き上げた「平和主義者・天皇」のイメージが一瞬にして瓦解する。

つまり昭和天皇は天皇家の延命という観点から、靖国神社の勝手な行動に激怒した−−こう考えたほうが自然である。

 昭和天皇が松岡洋右元外相らに開戦責任を押しつける発言をしていたことは他の史料でも明らかになっている。戦犯連中にしてみれば、「本来なら最高責任者の陛下こそ戦犯じゃないか」というツッコミをあの世から入れたい気分ではないか。
http://www.mdsweb.jp/doc/947/0947_08a.html


昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。

彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。

1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。

出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。

友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm

マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。

東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html

昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根

ついに本当の事は言えませんでしたね:

「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も
一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、
当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane

キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、
松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


南京強奪の不気味な作戦は、1937年8月15日に開始されるべく、すでに着手されていた。

その日、松井岩根大将――戦犯を祀る熱海の神社の女神官と親族であり、「南京の虐殺者」と歴史上に名を残すこととなる男――は、天皇裕仁に召喚され、宮中へと向かっていた.

その前日、松井には近衛師団長より通知があり、裕仁が中国での命令を彼に与えようとしていることを知た。それは、彼にとって大きな名誉で(10)、その召喚に直ちに応じた。

松井は、中国との友好の主唱者であったので、彼にとってこの召喚はことのほかの喜びであった。ほんの二ヶ月前には、中国との全面戦争を避けるための工作を計画していた(11)。彼はそれを知らなかったのだが、特高警察の報告により、その件は天皇のもとにも届いていた.

突然に天皇が姿を現した。松井は、めまいを感じながら、深く頭をさげ、光栄であることを表し、さらに、日本の計画をめぐって、中国人に用いられなければならない平和的方法についての自身の信念について説明を始めた。

裕仁は理解したかのようにうなずき、上質紙の公式書類を広げた。松井を一瞥し、天皇は、その甲高い声でそれを読み始めた。近衛師団長よりそっとつついて促され、松井はそこにひざまづいた。裕仁は彼に、華中日本軍司令官を命じ、彼の新たな命令を象徴する司令杖をさずけた。

二日後の中国への出発の前夜、東亜連盟の役員たちによって壮行会が開かれた席で、松井大将はこうあいさつしていた。「私は前線へ敵と戦いに行くのではありません。わが兄弟と和する志をたずさえて行くのです」。

9月の初め、裕仁は、宮中内部に人的配置計画を彼独自で監視できる大本営(17)の設立を要求した。その役務が天皇の出席――神の存在――においてなされるという、この組織の人員構成と原則は、当然にその正体を物語っており、この大本営の存在は、11月半ばまで、明らかにはされなかった。裕仁は、一部、上海の情勢の行き詰まりを、一部、9月初めに参謀本部への彼の指示が、作戦部の部長、石原莞爾少将の書類入れのなかで眠らされていたことを理由として、その設置を主張した。

鈴木は、裕仁が最もよく知り、最も信頼をおいた2、3人の若い軍人の一人であった(25)。鈴木は、南京の強奪を、京都にある第16師団本部の机上より、無線によって管理監督した。

彼はおそらく、その机上作業を、飛行機による前線との間のすばやい往復で補強していただろうが、彼の視察の回数と頻度についての〔東京法廷での〕証言(26)は、混同かつ矛盾していた。彼は、30年前、東京の参謀大学時代以来、蒋介石を知っており、過去何回か、裕仁の私的密使として(27)、蒋介石のもとへ出向いていた。加えて、彼は陸軍の経済面の指導的な専門家でもあった。

つまり彼は、二重の役割を果たす能力を備えていた。ひとつは、南京強奪が進行中、蒋介石と近衛首相との間の秘密の無線交渉における仲介者の役を演じており、他は、侵攻のコストのみかえりとして、南京での組織的略奪を行うその第16師団を指揮していた。


上陸後の三日間で、第6師団は、上海郊外へ向かう64キロの行程うちの40キロを、焼き払いそして爆破して進んた。そして三日目には、松江〔スンチャン〕の町を占領した。9週間後、ある英国の特派員は、松江に何が残されているかをようやくにして目撃することができた。そしてこう書いている。「建物は焼き尽くされ、残っている建物はほとんどない。くすぶる廃墟やひとけのない通りは、薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。目に入る生き物といえば犬のみだが、死体を食って異様に太っている。およそ十万人が住む人口密度の高い松江だが、私が見たのはたった5人の中国人で、フランスの教会施設に涙ながらに隠れていた。」

華北から派遣されてきた「黒い」艦隊の16師団は、夜陰に乗じて揚子江河口をさかのぼり、パイモウ入江という、トーチカ線のちょうど背後の、中国軍の北の弱点に上陸した。海路を使った日本軍の挟み撃ち攻撃の「黒」側は、その勢力では敵と互角であった。かくて、南京の処刑係が到着することとなった。

この新師団は、京都の例の鈴木によって指揮されており、前線では、中島今朝吾〔けさご〕中将――55歳、小さなヒムラーといった男で、思想取締り、脅迫、拷問の専門家――がその指揮者だった(39)。この中島が、南京虐殺をめぐるその細部の監督に当たろうとしていた。

戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm

残忍な部隊が南京に接近している時、松井大将は、揚子江デルタの蘇州〔サンチョウ〕の前線本部で、結核の熱のため、寝たきりでいた。

またその5日前の12月2日、天皇裕仁は、松井の責務から、前線部隊の人的監督を除いて安心させ、華中方面の総司令官へと格上げした。そして南京地区軍の司令官としての松井の地位に代わって、裕仁は、自分のおじ、朝香宮〔あさかのみや 鳩彦〕を任命した。


朝香宮の前線への任命は、他のいかなる権威をも超越する天皇の意向によるもので、病床にある松井大将の指揮権はまさに蹂躙されようとしていた。彼は部隊を引き上げ、南京の城壁の外3、4キロの場で、三集団に再編成するよう命令した。

それは、城市内に進駐するのは、統制のとれた数大隊に限り、占領が「中国人の目にも輝かしく、日本のもとでも安心できると思わせる」ように、実行されるためであった(55)。

そして彼は、彼の管轄下の将校を蘇州の病室に呼び、通常の指揮としては極めて異例な以下の命令書を手渡した。

 帝国陸軍の外国首都への進入は、世界の耳目を集める、わが国の歴史における偉大な出来事である。しかるに、秩序を乱す部隊は、市内に進ませない。城市内に入る部隊は、この目的に沿って、所轄の師団司令官によって特別に選別されたものとさるべきである。そうした部隊には、留意すべき事項と、城市の人々の権利と利益の地位保全が前もって通知される。それらは、略奪者とはまったく縁のないものにさせなければならない。必要に応じ、見張り兵が配置される。進入部隊とともに、多くの憲兵、補助憲兵を城市内に入れ、これをもって不法行為を予防する


朝香宮は、彼の判を押し、「極秘、破棄せよ」と付記した一連の命令を発した(60)。それは単に、「すべての捕虜を殺せ」とあった。中国軍兵士は、姿勢の変化を察知し、南京の城壁内へと逃げこみ始めたが、少なくとも、四分の三の兵士が、もう一日、生きて戦った。残りの七万五千人は、南京城市内部に閉じ込められ、実質上、この首都強奪を目撃した欧米の観察者による犠牲者の統計に加わった。
 朝香宮の諜報参謀の中佐(#)は、その「殺せ」という命令を自ら率先して偽造した〔訳注〕、と友人に告げている。もしそうだとすれば、彼が軍法裁判にかけられなかったことが注目されるが、1945年6月、沖縄の洞窟壕で中将として死ぬ〔自決〕まで、軍人としての経歴をまっとうした。

 (#) 長勇(ちょう いさむ)。さかのぼる1931年、宮中の支援のもと、二件の擬似クーデタ〔1932年の三月(血盟団)事件と5.15事件〕の組織を助けた。これにより、情勢は混沌と化し、満州征服に伴う国内政治の危機の〔軍部主導による〕沈静化をもたらした。

 〔訳注〕 この命令の作成にあたり、松井総司令官はそれを制止しようとしたが、長中佐がそれを無視したらしい。

天皇のおじ、朝香宮の命令は、すべての捕虜を殺せという厳格なものであった。

南京を占領する、武藤、中島、朝香宮によって解放された8万余りの兵士は、勝手にできる場では、強姦、殺人、略奪、放火を重ねた。上官の指揮のもとにある場合でも、酔っ払ったり規律を無視して見境なく行動したが、それも組織的であった。こうして南京の虐殺は、中島が南京に入った12月14日より始まり、6週間それは続いた。そして、世界中からの抗議にも拘わらず、近衛宮が裕仁に、もはや蒋介石を失権させる以外に希望はないと認めるまで、それは止まなかった。

日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。

南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。

 そうした犯罪においてことに南京が銘記されることとなったのは、12月15日の同じ日、それが組織的遊戯と化したことだった。言葉達者な将校に率いられたトラックが、安全地区の難民避難所を回り、「尋問」との理由で、若い女性を満載して運び去った時、集団強姦が始まった。いくつかの場面では、兵士たちが、女性がトラックに載せられる前から公衆の面前で強姦におよぶにいたって、それが口実と早くも露呈してしまっていた。

教育があったり、あるいは美貌の女性は、通常、それぞれの獲得物から選りだされ、大佐や大将のハーレムにおいて、質の異なる者らのために仕えさせられた。だが、そうと違って運に恵まれぬ女たちは、兵士たちが宿泊する公共施設や公会堂などに運ばれた。多くは、一晩に十人とか二十人とかの男に強姦され、翌朝に解放されたが、後日、幾度も他のトラックにより呼び戻された。多くは暴力を振るわれ、そのあげくに殺された。

未熟な少女は、そうした虐待に我を失い、まもなく命を絶っていった。気丈夫な人妻たちはしばしば、小隊あるいは隊全体の奴隷として使われ、昼間は洗濯をさせられ、夜は売春婦としての役目を負わされた。多くの若い女性は、ただベッドに縛りつけられ、あたかも永久の付属物かのように、やってくる者だれもの利用に供された。そして、彼女らが、欲望を果たすには余りに泣きくれたり病気であったりすると、すぐさま処分された。路地や公園には、その死後、切り刻まれたり詰め物をされるなどの屈辱を受けた、いくつもの女性の死体が放置されていた。


凱旋入城

 12月17日金曜日の朝、南京の大虐殺は、小男、松井大将の凱旋入城の式典のために、その度がゆるんでいた。慢性結核のぶり返しのため熱を出していた松井は、海軍のランチで川を遡上し、車に乗り換え、市の東側にある三重のアーチを持つ、損傷した中山門付近へ到着した。

パレードに参加していた兵士の奇声や外見、そしてホテルでの宴会で耳にした言葉などから、松井は、南京で何が起こっているかについて、深い疑念を抱いていた。選ばれた数大隊のみが市内に駐留せよとの彼のことさらの指示は、まぎれもなく無視されていた。彼は晩餐を早めに切り上げて、参謀会議を招集した。参加していた将校によると、彼は中島と武藤をしかりつけ、すべての不必要な部隊を市から出すように命令した。宿営担当の武藤は、農村地区に新たな宿泊地を設けることを言明した(116)。

 翌朝、メトロポリタンホテルで目を覚ました時、松井は憂鬱な気分にとらわれていた。彼の民間人補助役のひとりからその理由を聞かれた松井はこう答えた。「我々が知らないうちに、この都市で、もっとも許しがたいことを成してしまったことを、私はここで覚らされた。南京から避難した多くの中国の友人の気持ちや心情、そして両国の将来をを考える時、私は落胆を禁じえない。私は非常に孤独で、この勝利を祝賀する気持ちになぞ毛頭なれない。」(117)

 その朝の記者会見の場においても、彼は義務的に東京の立場を口にしたが、大言壮語の中に、悲嘆の表現を忍び込ませていた。「将来の我が軍の作戦は、蒋介石と国民政府のとる姿勢に全面的にかかっている。私は個人として、人々がこうむった悲劇を申し訳なく思う。我が軍は、中国を悔やませるようなことを続けてはならない。今は冬だが、この季節は熟考の時間を与えている。私は私の弔意と深い同情を、百万の罪なき人々にささげる。」

彼が市を去るやいなや、残虐行為は再び開始された。

上海にあって松井は、南京で毎日繰り返されているさらなる残虐行為について耳にしていた。彼は、それを止めさせる力のないまま、朝霞宮の評判について「いたく憂慮」していた。朝香宮が市内に移ったクリスマスの日、松井は、ニューヨークタイムスの特派員、ハレット・アベンドによるインタビューの中で彼の懸念を表し、同記者には、松井が「感じよく」また「痛ましい」人との印象を与えた(132)。ニューヨークタイムス紙の記事を通し、天皇裕仁へのその間接的懇願にかすかな希望を託して何らかの良き結果期待し、そして松井は、その翌日、朝香宮の参謀に以下のような文書を送った。

 「不法な行為が行われているとのうわさがある。・・・ことに、朝香宮が我々の司令官であるからこそ、軍紀はいっそう厳密に守られなければならない。誤った行為を働くものは、いかなる者といえども、厳しく処罰されなければならない。」(133)

 新年の乾杯の席で、松井は、私見としてある日本人外交官にこう語った。「私の部隊が、とてつもなく悪く、きわめて遺憾なことを行ってきている。」(134) 後年、部隊は言うこときかなくなり、凶暴化したのか、との質問に対しては、「規律は良好だが指導と行いがよくないと考えた」、と答えている。


1946年より1948年までの極東国際軍事法廷で、各国より選抜された判事による二年間の審問によって認められた数字によれば、最終的には、南京では、2万人の女性が強姦され、市の民間人の少なくとも四分の一に相当する、二十万人以上が殺された(###)。市の三分の一は(137)火災によって灰燼と帰した。価値あるもののすべては廃墟から搬出され、日本軍の倉庫に納められた。

南京での犠牲は、明らかに、偶発的なものではない。十万人の人が二十万人を殺すことは、不注意や、酒酔いや、違法行為があったとしても、容易になせることではない。

しかし、世界中からの抗議にも拘わらず、当時の日本政府によって、そうした犯罪者の誰も、何の処罰も受けなかった。戦地における部隊が狂暴となり、それには手の施しようがない、というのが東京の公的見解であった。

しかし、いったん南京から兵の帰還が始まると、その多くはそれとは異なった見方――彼らが見、そして行った、胸を悪くする話――を語った。「強姦と強盗以外に軍隊で学んだことはない」とか、ただ機関銃の効果を試すために捕虜を撃たなければならなかったとか、中国女の扱いについて、上官から「ことをすました後は、金を払うか、辺鄙な場で殺すか、とちらかにせよ」と命令されたとか、と苦言をこぼした


南京陥落の日、天皇裕仁は、皇后の大おじで陸軍参謀長の閑院宮に、「極めて満足」と表現し(143)、また、閑院宮は、松井大将に祝電を送り、「これほどの目覚しい軍事的進展は歴史上かってない」と述べ(144)、さらに、一月末、ファシスト的な皇后のいとこ賀陽宮は、南京から戻って天皇に、その地で見てきたことの全面的報告をし、そして、ひと月後の2月26日、天皇裕仁は、葉山の御用邸に、熱のある松井、王侯然たる朝香宮、そして熱血漢の柳川を迎え入れ、それぞれに銀の台に菊の紋を浮き出させた一対の勲章を授与した、ということである(145)。

 裕仁は、これらの戦争犯罪人のいずれにも、名誉を与えこそすれ、その一人をも処罰せず、今日まで、血縁、朝香宮とともに、温情厚く、生きてきている。

 そのすべての責めを一身に担ったのが、結核病みの小男、松井大将であったのは、南京における最大の逆説である。

彼は、熱海の神社に祀られている他の六人とともに、極東国際軍事法廷にかけられた。同法廷の15万ページにのぼる記録には、本章で見てきたように、その強奪における松井にかかわる論旨が発見できる。だが、松井がその強奪の秘密の命令を出したとの証拠は、そのどこにも見当たらない。その告発にあたった連合軍の検事も、決して松井の誠意について問責しておらず、一つの嘘をも指摘していない。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


南京大虐殺を命令した昭和天皇を庇う為に色々な人が与太話を広めていますね:

南京大虐殺の真相?

長勇大佐は、或る日田中隆吉に語った。

「南京攻略のとき、私は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。
上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り(中略)

 自分は通州於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと 喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対して、これ等の捕虜を皆殺しに すべしと命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話により伝達した。
(中略)
命令の結果大量の虐殺が行われた。ただし逃亡するものもあって、皆殺しと言うわけには行かなかった。

自分(長勇)は此れによって通州の残虐に報復したのみではなく、犠牲と成った無辜の霊を慰めえたと信じる」
田中隆吉『裁かれる歴史』より(中公文庫)
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/nankin01.htm

わが陸軍関係にも次のような記録がある。

昭和十二年(一九三七)八月から翌十三年三月まで、松井石根大将の専属副官であった角良晴大尉(陸士三十二期、終戦時には大佐で台湾にいた第九師団参謀長)の回顧録を遺族がまとめた図書『七生賦』(自費出版・非売品)には、次の記事がある。

「南京は思ったより困難なく攻略できた。下関に十三万人の支那人が対岸の浦口に渡れずに残った。

これに対し、第六師団から、『どうするか』との電話があった。
第二課長長参謀(中佐)(筆者註 長勇中佐は、中支那方面軍と上海派遣軍の参謀を兼ねていた)は、
『ヤッテシマエ』と返事した。

私は、すぐ本件を総司令官に報告した。総司令官は長参謀を呼ばれて、
『十三万の支那人を殺すことは許さぬ、直ちに解放せよ』と命令された。

が、長中佐は、『この中には軍人も混ざっております』
と言った。総司令官は、『軍人がいてもかまわぬ、却って軍紀がよくなってよいだろう』
と言われた。

長中佐は、『ハイ』と言った。が、二度目の電話でも、『ヤッチマエ』と命じた」
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/16618/bbs_plain?base=24490&range=1


日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。
そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。
そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。
それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、
いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
http://www.geocities.jp/yu77799/nihonjin.html

たかが一介の中佐がそんな大それたことをやる筈もないのですが,
昭和天皇が命令したことが明らかになると,昭和天皇が処刑されるだけでなく,天皇家自体が廃絶される事になりますからね.


これが南京大虐殺の真相

昭和天皇に指示された組織的な虐殺だったことは間違いないですね:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/


南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった


第二次世界大戦が終結する数ヶ月前、フィリピンにおいて、山下奉文将軍はルソンの山々で遅延活動を闘っていた。
一方、日本の皇室の皇子たちは未来にそなえて準備していた。彼らは略奪した金の延べ棒と、また別の盗んだ財宝を近くの洞穴やトンネルの中に隠すことに忙しかった。

それらは後に発見される運命ではあったのだが。これらは数千年にわたり集積されたアジアの十二の国々の財産であった。

日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


昭和天皇が日中戦争を起こした本来の目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。

以下、久保井規夫著『戦争と差別と日本民衆の歴史』(明石書店)より。

ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。
麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。
日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。

『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには絶対に勝てないという事だったのです. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね:


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と
戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:

日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、
米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、
手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.

そして,昭和天皇が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.

しかし,昭和天皇は凡人には想像を絶する程の賢こかったんですね.

昭和天皇が考えた天才的アイデアとは:

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、
海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。
ぇええ?
山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官?
日本連合艦隊司令長官が奴らの手先?

何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。

3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。
多くの日本人が無念のうちに死んでいった先の大戦は奴らが最初からシナリオを作り、そのシナリオ通りに動いた日本人たちによって引き起こされた。
信じたくなくても事実なのだからしょうがありません。

必ず戦争にはシナリオがある。

お互いにシナリオを決めて、さてこの線で始めますかなどとやっているのです。
ハーバード大学でワンワールド思想の素晴らしさに陶酔してしまった山本さんは自国民を大量殺りくするということも何とも思わないほど洗脳されてしまったのです。
新しい世界を作りたい。すばらしい世界を作りたい。
それが日本のためでもあり、世界のためなんだ。

そういう自分たちが正義と思った瞬間こそ、人間が一番残酷になれる時なのですた。
本人は正義のつもりだったのです。大真面目だったのですた。
ご多分にもれず、山本五十六さんたちは、日本を敗戦に導くようにわざと戦略上の失敗を繰り返します。

ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。
あの戦争は、結局のところわざと負けたのですた。

http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-275.html


日本帝国海軍の中枢は欧米派であった。このため、日本海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。

宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任については吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で戦死の狂言を実行する。
http://watch-fr-br.iza.ne.jp/blog/entry/926847/

アメリカの完全なる属国に 戦後の日本社会

 A 第二次大戦後の日本社会の基本構図をみなが実感している。
日本は帝国主義国であるがアメリカの完全なる属国だ。高度に資本主義が発達した植民地。

先進資本主義国が植民地になっているのは歴史上も例がない。

日本の独占資本やその代理人たる政治家であれ、官僚であれ、
日本の支配機構を使って植民地支配してきた。この支配階級の売国性がすごい。

アメリカに身も心も売り飛ばして、日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばした。
ブッシュは「日本支配がイラク占領のモデルだ」と公然と主張したが、そういうことだ。

 日中戦争で満州を支配するのに、関東軍は60万人配置されていた。
ピーク時には100万人だった。外国を占領しようと思ったらそれほどの人員を要した。

日本国内に駐留している米軍は4万〜5万人。それなのにどうして支配できるのかというと、日本の支配機構を使っているからだ。

大新聞も戦争を煽り上げた反省もなく、戦後は廃刊にもならず、
そのまま何もなかったかのように発行しはじめた。同じ敗戦国のドイツは新聞はみな廃刊になった。
日本は廃刊になったところは一社もなく、そのまま機能しはじめた。

天皇制もしかり。財閥もそう。


D ドイツの場合は独立性を持っている。日本はまるきり隷属。この違いは何か。

ドイツは連合支配だった。日本は単独占領だ。そのための原爆投下だった。

ドイツはアメリカもいるがソ連もいるし、フランスやイギリスなど欧州の国国もいるなかで共同管理になった。一国がなにもかも隷属させることはできなかった。

日本はアメリカの思う通りに戦後の大改革がやられた。
単独占領は原爆によってもたらされたものだ。


 A 戦後64年たった日本の現状を、死んだ320万人の霊は何と思うかと、年寄りは語っている。

「何たる様か」「顔向けできない」と。戦時中の日本人の苦難を思うと、
まさに人間が虫けら同然だったわけだが、今も虫けらだ。

誰が虫けらとして扱っているかというと、アメリカであるし日本の支配階級だ。

あれほど全国空襲で焼き払って、戦地で餓死させた連中が、引き続き労働者はまともな生活ができないモノ扱い。
年寄りが長生きしたら国賊扱いをする。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hinnkonntodokusaitosensounometubousurukunini.html
 

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01. 中川隆 2010年2月28日 01:03:24: 3bF/xW6Ehzs4I

東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

ソ連型の敗戦革命は、北進論の放棄と支那戦線の拡大が両輪だった。対ソ戦のみちを封じたうえで、日支を消耗戦にひきこみ、共倒れになったところで、「敗戦から内乱」のセオリーにしたがって、陸軍の一部と革新官僚が、革命軍・ソ連を迎え入れるという筋書きである。

これを、海軍にあてはめると、西方戦略の放棄が、北進論の放棄にあたり、支那戦線の消耗戦が、真珠湾攻撃から南太平洋海戦にいたる海軍の不可解なたたかいに該当する。ちがうのは、敗れた日本を支配するのが、ソ連ではなく、アメリカということだけである。


日米開戦の直前まで、日本の対米戦略は「漸減邀撃作戦」だった。

これは、マリアナ諸島やパラオなど、日本の委任統治領だった赤道以北の島々をまもり、遠路はるばるやってくる米艦隊を、漸次、痛めつけておいて、日本近海で全滅させようというもので、戦略目的は、本土と海路の防衛である。

世界一の戦艦大和と武蔵、質量とも、アメリカ艦隊を上回る空母艦隊と艦上機は、そのためのもので、背後に航空基地をもつ島喚防衛戦で、日本海軍が、遠方からはるばる航海してくるアメリカ海軍に負けるわけはなかった。

真珠湾攻撃も南太平洋の艦隊決戦も、日本が、わざわざ、負けにいったたたかいだった。海軍が、そんな戦略をとったのは、陸軍の親ソ派(統制派)が、支那戦線を拡大させてソ連を救ったようなもので、イギリス仕込みの海軍内部に、チャーチルにつうじるルートがあったとしか考えられない。奇想天外だが、想像をこえているからこそ、敗戦革命は、だれにも気づかれることなく潜行して、あとからふり返っても、歴史的必然としか見えないのである。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった.

敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。

真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。まさにハーバードは日本にとって疫病神であり、竹中平蔵も榊原英資もハーバード出で、まさに対日スパイ工作員の養成所なのだ。

海軍は三国同盟が結ばれるまでは開戦に反対していましたが、それが主戦論になってからは、御前会議などでも陸軍の思惑とは反対に超楽観的な見通しを述べて戦争へ突き進んだ。しかしシュミレーションでは日本海軍が連戦連勝でも二年もすれば燃料がなくなり軍艦は鉄の棺桶になってしまう。海軍が正直にアメリカと戦争しても勝てないと言ってくれれば開戦は防げた可能性が強い。

このように海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。


確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。


山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/405.html

山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。


 日本は、国家としてあろうことか、日本軍閥の中には、利敵行為を働く買国奴を戦争指導者と仰(あお)ぎ、太平洋戦争を戦わねばならなかったのです。

各々の局面は、日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局が次第に暗転していきます。
 こうした失策を犯すのは、ある特定の人物ばかりであり、これを詳しく調べると、その人物の指導によって、日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けているのです。

かつての旧陸海軍の兵隊の士気、下士官教育の優秀さ、空母や戦艦の造船技術を以てしても、あるいは航空機にしても、兵器や物量の所有数においても、日本はアメリカを凌駕(りょうが)出来るくらいの物を持っていたのです。

 そうであるにもかかわらず、このような悲惨な負け方をして、広島・長崎に人類初の原子爆弾が落とされると言う非人道的な行為を頭上に受け、最後までズルズルと負け戦を強(し)いられねばならなかったのでしょうか。

 このような負け方をする理由は唯一つ、それは戦略や作戦に携わった司令官や参謀達が無能であったという以上に、陸海軍の中枢に敵と通じ、日本が敗北する事を望んだ奸計(かんけい)を働く者が居たからです。日本は、日米開戦を戦う前から敗れていたのです。


▲米内光政。早々と日本を敗戦に導いた大戦末期の海軍大臣。日本軍敗北には必ず絡んでいた。

▲連合艦隊司令長官・山本五十六。ミッドウェー海戦で、白村江の鬪い以降の大負けをし、日本海軍を大敗北に導いた。

▲服部卓四郎。陸軍のあらゆる重大な作戦に関与し、利敵行為を働いて、敵軍に塩を送り、日本軍を敗北に導いた。

▲陸大出身のエリート・辻政信も、大いに利敵行為を働いたが、連合軍のBC戦犯容疑で指名されなかったのは米軍に恩を売った為か。

▲第一機動部隊参謀長・草鹿龍之介海軍中将。南雲・草鹿コンビで、負け戦を展開した。

▲第二艦隊司令長官・栗田健男海軍中将。レイテ湾突撃を目前にして、戦艦「榛名」麾下艦隊を、謎の北への反転を命令した。

http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama29.html

山本五十六は日本海軍を壊滅させた大功労者

山本五十六は軍国主義化した日本を是正し、民主主義国家にすべく、アメリカと手を握った。 なぜハーバード大学まで出た彼があのような痴呆のような作戦を立て続けたのか? 帝国海軍か゛まけるよう負けるよう仕組んだとしか考えられない

そして、連合艦隊司令長官として「わざと負けるように」作戦指導をした。
真珠湾で空母を逃したのも、強引にミッドウェー作戦を進めたのも、
日本を劣勢にするためである。

その後、山本の思惑通りに海軍は壊滅。日本は敗戦を迎える。

宇垣も山本五十六の有力な協力者で、彼の「作戦」が成功するよう参謀長として尽力しており、まさしくその「作戦」は大成功を収めたのである。

スパイといっていいすぎなら間違いなく国賊だ。 あのでたらめな作戦を見ろ ミッドゥェ−の時だって空母にほとんど護衛をつけてないじゃないか
沈めてくれと言っているようなものだ

又自分でガダルカナルまで戦線を拡大しながら自分は一度も救援にいってない。 トラック島という安全地帯で毎晩クーラーのきいた超ゴージャスな戦艦大和の最上階で部下の死闘もなんのその毎晩英国料理をたらふく食って太ってしまったというてはないか


真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。


ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは            [TOP]

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。

  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることが山本五十六の役目だったのである。

  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
  ただしその攻撃は不徹底なものとする。
    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)

● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)

● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)

● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。

  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。

真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。

  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。

  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。

  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。


  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/105.html


●真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力

連合軍隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦は最早避けられない物として何時の間にか「真珠湾攻撃」を口にする様になる。

 欧州では既に昭和14(1939)年9月3日、第二次世界大戦が勃発して独国が破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済し米国を参戦させる事は米国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせて米国の世論を激Vさせ、其の怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

 山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲の構想を練ったのである。  山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年余り経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの電撃訓練が行われた。

 五十六の乗る連合艦隊旗艦「長門」そして「陸奥」及び空母「蒼龍」を目標に艦上攻撃機、双発陸上攻撃機、急降下爆撃を行う艦上爆撃機等81機が上空低空から襲いかかり模擬魚雷等を撃ち込んで三隻とも撃沈間違い無しの戦果を上げたのである。山本長官は此の時「飛行機でハワイを叩けないものか」と呟いたと云う。山本五十六は昭和16年1月、及川古志郎海軍大臣に宛てた私信の中で次の如く述べている。

 「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は、開戦劈頭
 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救ふ可かざる程
 度に、其の士気を阻喪せしむ事是なり。此の如くにして、初めて東亜
 の要衝に占居して不敗の地歩を確保し、依て以て東亜共栄圏も建設維
 持し得べし」

 五十六の計画の中には、既に機動部隊に依る真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
 1月下旬、連合艦隊司令部は真珠湾攻撃の研究を開始、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に極秘で此の研究を依頼した。大西は五十六と同じ思想を持つ航空主兵、艦隊無用論者であった。

 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行われた。

斯うして訓練に訓練に重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠湾に集結、昭和16(1941)年11月26日秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機はハワイ・オアツ島パール・ハーバーにある米国太平洋艦隊の基地を奇襲した。

 ハワイ真珠湾攻撃を米国大統領ルーズヴェルトは事前に知っていた。日本の外務省が使用していた『紫暗号(パープル)』は盡く米国に筒抜けであったが、此のあには日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。

 真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は主な物で戦艦アリゾナ、オクラホマ、ウェスト・ヴァージニア、カリフォルニア、ネバダ、テネシー、メリーランド、ペンシルヴェニアの8隻、重巡ニューオルリンズ、軽巡ローリ、ホノルル、ヘレナの3隻そして駆逐艦ショー、カシン、ダウンズ、オグララ、ドックの5隻総計17隻である。

 ところが不思議な事に空母レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。

 被害を受けた戦艦は何れも1910〜20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って態々攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破等の被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等は何れも引き上げが容易で短期間の内に修理、再就役し太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

 斯うして見ると真珠湾攻撃と云うのは一種の茶番劇であった事が分かる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」に依り英雄視されているが、其の結果残った物は「日本の卑怯な欺し討ち」と云う非難と米国の対日積極参戦の意識高揚そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。此の時死んだ米国兵2403名は今でも米国人にとって対日憎悪の対象と為っている。


●最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。

◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。

◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。
 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。


戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。


●不徹底な攻撃で米国を助ける
 ところで「攻撃の不徹底」であるが其れには二つの意味がある。
 一つは真珠湾上の米国海軍艦船に対するものであり、もう一つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。

 真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された膨大きなものはではなかった。戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻は其の後全て水深15mと云う浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。

 又陸上施設に就いては南雲第一航空艦隊司令長官による第一次、第二次攻撃隊は全く手を触れておらず、第三次攻撃隊を出す事も中止している。第三次攻撃に関しては殆どの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第二航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第三波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀は愚か、遥か後方の戦艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官迄が其の必要性を認めていないのである。


若し、此の時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯あ庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。

 ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、此の攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯あされていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間に亙って不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。

 更にもう一つ付け加えるばらば、ハワイ攻撃の日が何故12月8日であったかと云う事だ。勿論日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上此の日になったと云うのは一つの説明であるが、山本長官が此の日は真珠湾に米国空母がいない事を予め知っていたからであろう。

 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し、「卑怯な日本」と云う既成事実を作れば其れで良かったのである。


4、日本兵を大量に無駄死にさせた山本の作戦

●日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的

 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。此の作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して此処に強固な前進基地を構築し、米国とオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させる事だった。

 此のあ、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省及び参謀本部・軍令部で戦争指導計画の再検討が行われ、「今後採ルベキ指導ノ大綱」が妥協に依って3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、出来るだけ早く占領或いは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

(1)ソロモン諸島のツラギ、及びニューギニア南岸のポートモレスビー
   の基地を占領し、珊瑚礁とオーストラリア北部の支配あを確立する

(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面
   作戦により撃破する

(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、米国合衆
   国とオーストラリアとの直接連絡を断つ

 此の内(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」計画(2)は「MI」とされ、此の二作戦が失敗した場合、計画(3)は中止すると云う物だった。斯うして先ず「MO作戦」が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、其の真の意図は此の作戦により米国太平洋艦隊を此の海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させる事だった。

@驚くなかれ、山本長官の狙いは米国の太平洋艦隊を撃破する事では無く、其の逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、進路から此の地を攻略する為井上成美中将の指揮する第4艦隊は珊瑚礁に於て5月7日、8日の両日、米国太平洋艦隊(司令長官チャスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。

此の海戦で日本粗互角の叩き合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥鳳」一隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各一隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空席「レキシントン」が沈没、「ヨークタウン」は大破した。

 だが此の時井上中将は何故か「ヨークタウン」に止めを指す事をせず、攻撃を中止して北上するのである。此の「ヨークタウン」がハワイの海軍基地に帰り僅か2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、彼の連合艦隊撃滅の立役者となるのである。

 此の珊瑚海海戦で井上成美第4艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。其れは「手緩い攻撃」に依って引き起こされた戦術的勝利戦略的大敗北に他ならない。

 しかも真珠湾攻撃同様、暗号は盡く米軍に依って解読されていた。ニミッツに依る空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦を全て事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しい物となり、日本軍の限界を示すものとなった。

 昭和17年4月P8日、空母「ホーネット」を発進したドーリットル中佐率いる双発爆撃機B25十六機が日本に向かい、東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸の各都市を爆撃した。此れに依って日本側は死者45名、重傷者153名、家屋全焼160戸、全壊21戸の被害を出した。

 此の「ドーリットル空襲」に大きな衝撃を受けた陸軍部は太平洋に於ける制海あの確保、防空作戦上の見地から太平洋海域に於ける重要拠点の確保詰まり島嶼の領有を検討し始める。

 海軍が主導するミッドウェー(MI)、アリューシャン(AL)両作戦に当初反対であった陸軍は、4月20日此の太平洋方面作戦で海軍と同一歩調を取る事を決定したのである。
 元々太平洋戦争開始に際し、海軍が取って来た戦争指導は早期撃破、戦果拡大であるのに対し、陸軍は長期持久であり、守勢思想の重視であった。「ドーリットル空襲」は結果的に往来の陸軍の作戦指導を変更させる事になった。


●真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行

 真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦も又山本長官の強引な主張に依って計画されたものであった。山本長官の主張とは昭和17(1942)年中に米太平洋艦隊を誘き出して此れを撃滅する。其の為の餌としてはミッドウェーが最適であり、此処を占領してハワイに脅威を与えれば米国の戦意は著しく衰え、其れに依って和平交渉への道が開かれると云う物であった。

 だが此の計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。其の第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って米国が和平交渉を提案する事は有り得ないと云うのである。

 又日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!忍)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
 其れよりもニューカレドニア、フィージー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断を謀る方が戦略的価値は高く、米国艦隊も本国基地から強く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊を誘き出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線を脅かされる為米国に救援を頼むのは確実である、と強く反駁したのである。

 ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出し此れを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。


ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。

 そもそもハワイ真珠湾でq空機による奇襲攻撃を実施し、航空機の持つ破壊力と重要性を態々米国に教えた事のみならず、生産力では圧倒的に勝る米国が此の事を教訓に大量生産の下、航空戦力の飛躍増大を図った事は山本長官の決定的間違い(実は陰謀)ではなかろうか。以後米国はあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。

 ミッドウェー作戦自体も真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊を誘き出した上で、此れと決戦すると云う二つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅出来た場合は続いて10月あハワイを攻略すると云う物であったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。

 米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官は其の反対には全く耳を貸そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html

源田実先生も日本海軍を壊滅させた大功労者

[源田]:は真珠湾攻撃時の戦闘機隊総指揮官だった。

映画「トラトラトラ」での源田は、男らしく清清しいキャラクターとして描かれていたが、実際は *中国での海軍用軍需品調達のからみで、あの児玉誉士夫と臭い仲* であった。参議院偽員に何度も当選、贋右翼諸団体のカリスマであったらしい。


源田実は何故上層部にこれ以上空母を作らない様に進言した:

日本は第二次大戦で真珠湾攻撃で米太平洋艦隊の戦艦を、航空機攻撃によってすべて葬り去ったということがありました。

アメリカはこの敗北体験から、戦艦建造を止め、素早く空母中心に艦隊を、
再編成したのです。一方,日本はどうしたのかというと、その後も戦艦大和、武蔵などを相次いで建造し、宝物のように温存し続けたのです。

戦後、この点を不思議に思った一橋大学の野中教授が、元航空参謀で、戦後参議院議員を務めた源田実氏に、直接疑問としてぶつけたときの話が同書に紹介されています。何と!源田実元航空参謀の答えは、

「長年苦労させてきた水兵たちに対して、『もう君らの時代終わった、これからは飛行機乗りの時代だ』とは言えなかったというものであった」

源田によって零戦の防御は軽視された

ゼロ戦の開発に際し、ともに戦闘機パイロットであった、故源田実 (軽量・旋回性能重視の名人向き戦闘機推奨) と故柴田武雄 (速度・航続距離重視) の大論争があったが、スタンドプレイに勝った源田案が重視されたことが、その後のゼロ戦の悲劇の原因になった。


太平洋の島礁で航空機の戦いでした。 日本機は燃料タンクが防弾構造になっていません。 燃料はガソリンですからすぐ発火します。 熟練パイロットを次々と失う結果になります。 現地から防弾構造燃料タンクの要望があがります。 結果は源田実(海軍・戦後参議院議員)が、がたがた云うな!!。一機でも多く生産しようでチョン。  彼の馬鹿さを書くと私が悶絶発狂しそうです。

この非論理的発言で防弾燃料タンク開発を封じ込めたその当人が、昭和50年(1975)に発売された「別冊週間読売」のコラムで海軍では、論理の通っている議論が尊重され ・・・・ 云々。と述べている。 勝手で都合のよいことを書くな!!。

極めつけは、昭和19年9月、海軍は大森仙太郎海軍中将を特攻部長に任命し、同13日軍令部参謀源田実は一通の電報を発した。 「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・」 すなわち、特攻部長を決め、特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行っている。 そして突入は10月25日。

この事実をどう説明するのか。  あくまで指導部は特攻隊を「志願」であったという詭弁を弄する。志願ならなぜ1名を除いて佐官の特攻隊員はいないのか。なぜ将官の特攻隊員はいないのか。なぜ、皇室関係者はいないのか。特攻を知らなかったとでも言うのだろうか。単座1名の航空機以外に、艦攻、艦爆の副座にご丁寧にもペアを乗せて特攻させた。佐官、将官が操縦できなくてもペアは組めたはずだ。志願が聞いて呆れる。愚弄するにも程がある。

 殉国の至情に基づく先に航空特攻があった。と公言して憚らない連中に聞きたい。

 彼、源田はこの特攻について戦後、片言隻語触れなかった。 馬鹿らしいのでこれで終わり。 この先は、半藤一利氏著:昭和史(上・下)を読んで知って下さい。 それでないとあなたが馬鹿にみえますよ。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/entrance/entrance.htm

源田実「 レイテ沖海戦で武蔵(戦艦)が沈んだのは、特攻機の出し惜しみが原因だ 」
http://ch05028.kitaguni.tv/c9474_2.html


山本五十六が航空の先駆者だなんて大嘘です。 日本海軍戦闘機の進捗を阻害したのが山本五十六。その土台となる提案をしたのが源田実。結局、山本五十六につながる連中はおべっか使いのおっちょこちょいばかりそろっている。それらが日本海軍の中枢にいたわけです。あの大戦中に零戦がいかに優秀であったとしても、昭和15年に出まして、小手先のモデル・チェンジだけで、太平洋戦争の第一線の戦闘を6年間もず〜っと使った。そんな文明国があるか。これほど馬鹿なんです。

源田部隊が始まった時に、私は、その時の副長からぜひ来てくれということで、呼ばれていったんです。現場は、もう惨憺たる状況。紫電改の操縦法と紫電の空戦法を指導してくれと。

 差しつかえるから、ほんとのことはあまりいえませんけれどね。惨憺たるものでした。源田が指揮すると、ばったばったとやられていく。冗談じゃない、あんなに戦死者・犠牲者の出た部隊はないんですよ。聞いていたのとまったく違う場合が、軍に関する限り、あまりにも多すぎる
http://www.takjapan.com/newsmakerssakai.htm

源田実先生は戦後も売国を続けてるね  


ポンコツ戦闘機 F104Jを自衛隊に買わせてアメリカから勲章を貰ったんだね:

あの東京大空襲の首謀者、カーティスルメイに勲章を与える運動をしてまで、アメリカに出向き防衛庁が決定していたグラマンG98スーパータイガーをチャブ台返ししてまで大騒動になった「悪夢のような戦闘機」なのである。

その時期、機種選定にF−X選定調査団を率いた人こそ、あの源田実だった。源田実航空幕僚長(自衛隊内の呼称を旧軍でいえば「空軍大将」とでも言うところだろうか)230機、国産されているがこの受注は、御存知三菱重工である。

当時、一機4億円。総額1000億円もの高額の買い物だ。喫茶店で珈琲が20円ぐらいの時代だから今の物価ならば80億円ぐらいなのだろうか。当時防衛庁が、購買の段階でさらに価格が高騰して、青くなったという風聞だ。

笑えるのは、殺人鬼カーティスルメイに勲章をやってまで導入した源田実ご推奨なる冒頭のF104Jは、長距離攻撃大好き米戦略空軍には嫌われて、、、実は、空軍用兵思想には合致しないと、あっというまに蔑視されて早期退役させられたポンコツ戦闘機なのである。

軽制空戦闘機を、あてがわれたのはアメリカの豚が食べたがらなかった、危険なまでの不健康な飼料だったあの脱脂粉乳を、こともあろうに捨てるのが勿体無いと日本の小学生の学校給食に輸出した食糧マフィアらと発想は同じだ。

その片棒をかついだのがポチの頭目のひとり、源田実というのが真相だろう。
F104Jは、その後日本で迎撃専用機に仕立て上げられたが、機体が小さくその機体内部に、全天候レーダーやAAMを装備組み込みするのに大難儀したことが語りつたえられている。飛行機は、購入して飛ばせば良いというものではないのだ。低空をとられれば、操縦不能になりやすいF104は、世界中でよく墜落したものだ。つまり、日本の国防はこのような隙だらけの戦闘機に託されていたのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200612300002/


02. 2010年2月28日 01:43:30

神風を考えたのも昭和天皇?

特攻第一号神風隊の関大尉の別れの杯、

特攻隊員に対する昭和天皇の「よくやった」というお言葉を隊員に紹介する隊長、

「見事に死んでもらいたい」と訓示する上官、そして

昭和天皇は大元帥であったことを再確認する馬に騎乗し閲兵する姿
http://anarchist.seesaa.net/article/49087839.html


最初の特攻であった、海軍神風特別攻撃隊の隊長である関大尉。

戦後出版されてきた、捏造戦記では、特攻を命ぜられて、すぐに「ぜひ、私にやらせてください」と答えたなどと都合よく書かれていたが、実際は違った。

「一晩、考えさせてください」と言ったのが真実。

今も昔も変わらない。上司からの命令は絶対であった。雪印や三菱のような不祥事が続く悪しき温床は、昔から続いている。

艦爆乗りで腕に自信があった彼としては、戦闘機(零戦)に乗ること自体が納得いかず、特攻は新婚の兵士に命ぜられることはないと聞いていたので、がっかりしたというのが本音であった。

実際、彼は同盟通信特派員につぎのように語っている。

「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。

やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。

ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA(妻)のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」

まったくもって無念であったろう。彼は、戦死するが、みごと軍神となった。

残された貧しい母は軍神の母となって、絶望的な戦局の中、国民を欺くプロパガンダに利用された。

敗戦となると、あれほど近所から尊敬された『軍神の母』は、周りから罵声を浴びせられ、ひどい仕打ちを受けたそうだ。
http://www.asyura2.com/0406/war57/msg/880.html

特攻隊で思い出したが、当時の軍幹部はひどい手口を使ったと言われてる。
まず全員に氏名入りの紙を渡し、特攻志願者を募ったらしい。

「どうしても事情が許さない場合は、印を打ちなさい」
「その者は除外する」

そうしておいて翌日、紙を回収するんだな。
すると、20人ぐらいの対象者の中で必ず印を付けるやつがいる。

「ああ、これで死ななくてもすむ」

ところがホッとしたのも束の間、実は、印を付けたやつが不良分子と
決め付けられ、有無を言わさず、優先的に特攻に行かされたらしい。

戦艦大和の特攻も昭和天皇の命令?

特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。


伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」と“御下問”があった。

及川総長はこれを「水上部隊は何をしているのか」という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」という疑問の言葉は「あるなら使ってはどうか」という〈間接的・暗示的命令〉として解されうる。「海上部隊はないのか?」という否定疑問文では,こうした〈間接的・暗示的命令〉性がいっそう強まるだけではなく,「あるのになぜ使わないのか!」という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」という“御下問”を深読みし,そこにまず「あるなら使ってはどうか?」という〈間接的・暗示的な命令〉を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても〈面子まるつぶれ〉ではないか。〈間接的・暗示的な命令〉は「あるのになぜ使わないのか!」という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには〈海上特攻艦隊〉という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。
こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/hasep/yh-seminar/2002/Fukushima_20425.html



03. 中川隆 2010年2月28日 01:54:20: 3bF/xW6Ehzs4I

東京大空襲成功の影の功労者

1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

東京大空襲 昭和20年3月10日 史上最大の虐殺

米軍は次のような計画をたて無差別虐殺を実行したのです。

@ ドイツの空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将を東京空襲の責任者に任命。 

A 日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、日本本土空襲専用の焼夷弾を開発。 

B テキサスの砂漠に日本の家屋を建ててその焼夷弾の効果を 確認。 

C 江戸時代の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているというデータに基づき大空襲決行日を陸軍記念日の3月10日にした。 

D 最初に空爆目標地の外周隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を絶つ

E そして300機以上のB29で地上を嘗め尽くすように焼夷弾を落とす。(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)
 
F 焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行う(暗闇の攻撃だったため、まさかB29が低空飛行で来るとは気付かず日  本軍の高射砲はB29のはるか上で炸裂したのでした)

犠牲者

縁者が引き取った遺体  約20,000人
無縁仏・行方不明者    約88,000人 


10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?


1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。参謀としては、状況がはっきりしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇陛下は地下の防空壕に非難しなければならなくなるし、社会の機能はその間に麻痺することになるだろうとの、配慮があったのだと思う。

そのうち敵機が下町に焼夷弾を投下したとの情報が入ってきた。この時、始めて空襲警報が発令された。3月10日の空襲警報が、空襲が始まってから発令されたのはこのような経緯があったからである。


当時、東部軍司令部所属、陸軍中尉藤井恒男さんの証言だ。(78年3月9日放送「NHK特集 東京大空襲」より)

「屋上から肉眼監視が刻々と状況を伝えてきますけど、とにかく、火の海であると。それで、僕は上へ上がってみました。そしたら、それはとてつもない火でしたね。すぐ下へ降りてきて、一戸という参謀に参謀、屋上からいちどご覧になってください≠サうしたら参謀もそうか、藤井、そんなに酷いか≠ニ、それで屋上に上がって、燃え盛る火の海を見て戻ってくると、一戸参謀は、机の上に両手で頭を抱えてうつ伏して涙を流しておられましたね。そりゃ想像はつきます、現場に行かなくても。どういう惨状があそこで起きているかということを」


1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。

天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。


カーチス・ルメイ将軍が、戦略爆撃という軍事思想を作った人物で、自ら、対ドイツ爆撃(ドレスデン爆撃その他)や、日本各都市の大空襲の戦略を組んで、実行した人だ。敵国を、民間人(非戦闘員)もろもとも焼き殺して火の海にして、焼け野が原にした。

このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。

カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。 広島、長崎の原爆投下もルメイ戦略である.

それに対して天皇は、「勲一等旭日章受勲」で報いた.

参議院議員で元航空幕僚長の源田実(ミッドウェイでアメリカを勝たせる為の戦略を立て,日本海軍を崩壊させるのに大きな貢献をしたそうです)もルメイの東京大空襲の大成功を非常に高く評価し,勲章授与に尽力した.
http://anarchist.seesaa.net/article/35751184.html


04. 2010年2月28日 02:19:14
 天皇がドうであれキチガイ中川にはカンケエねえだろう。
オメエのいってることは嘘ばっかりだ。
オメエの卑しさがわかるだけだぜ。
畏き方々にはオメエのような粘着キチガイが居ないことは確かだな。

05. 中川隆 2010年2月28日 02:25:10: 3bF/xW6Ehzs4I

原爆を投下される迄 日本が頑張った訳


第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/

昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

 Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。

なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。

こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している

攻撃の対象は日本の一般民であって、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。


 昭和天皇にとっては「国体護持」だけが狙いで,アメリカが原爆を投下してくれた事にも感謝していた

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


昭和天皇は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042

・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511

・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521


・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。

天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。

そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。

間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html


21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。

http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


天皇の原爆しょうがない発言

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html


06. 2010年2月28日 13:52:18
あんまり雄志でもない終わり方ですな。

 ・・・軍は天皇機関説問題に対して、何故こうも過剰とも思える反応を示したのであろうか。天皇自身、異常なばかりの天皇機関説排撃運動に戸惑い、本庄侍従長に対し「自分の位はもちろん別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なきはずなり。従って機関説を排撃せんがめ、自分をして動きのとれないものにすることは精神的にも身体的にも迷惑の次第なり」といったほどで、しばしば軍方面の天皇機関説論議に批判的意見をもらしたという。こういう天皇の態度に対し、侍従武官長の本庄陸軍大将は陸軍の態度を次のように弁明したのだが、これは、軍が天皇機関説を徹底的に排除しようとした理由をよく表している。

 軍においては天皇を現人神(生きている神様)と信仰しあり。これを機関説により人間並に扱うが如きは、軍隊教育および統帥上至難なり。

若槻泰雄『日本の戦争責任』小学館ライブラリー


07. 2010年3月02日 16:29:00
>02さん
>神風を考えたのも昭和天皇?

「神風が吹く」と言ったのは
伊勢神宮の巫女です。

「戦争をしても日本は神の国なので神風が吹いて勝つ」と戦争を
そそのかした伊勢神宮の巫女の言葉(=神の言葉として)を
信じていた天皇と皇后が言ったからと伝えられている。

当時は「8月14日に神風が吹くから大丈夫だ」と言われ続けていたようです。


08. 2010年3月02日 17:56:45
相変わらず、明後日の方向に生きているなあ!
馬鹿だ無能だ気狂いだ!と苛められて退位させられた、一寸余計な事を言って仕舞う正直な人は、昭和天皇の父である大正天皇。
昭和天皇は、幾分(生まれの所為か)身勝手な部分もあるけど、普通の常識人だよ。
だから、先に大正天皇を追い込んだ軍部も、ある意味利用し易かった。
それを見ていた平成天皇は結構苦労してるよ。

09. 2010年3月03日 20:00:24
天皇は長崎に引っ越してほしい、グラバー邸にでも住んだらいい。(夢想)

10. 2010年3月04日 16:26:59
昭和天皇の勇姿なんて見たことある日本人がいるのか?
何で、日本武尊でなくて、ナポレオンなのだ!
しかも普段から洋食に洋服だったそうではないか!
そのそも、
皇室は、天武天皇の「殺生肉食禁断の令」のご詔勅に見られるごとく、
上古から四足の肉は食べないのが倣いなのだ!
穀物・菜食であったはずなのだ!
肉食などするから、霊力がなくなり、神風が吹かなくなったのだ!
「紙帝」とは、良く言ったものだ!

11. 2010年3月04日 17:54:21
古臭い国家神道時代の手法が、今尚通じると信じるなんて、だから右翼は質の悪化が著しい。
軍部の罪を全部昭和天皇に擦り付けて、しかしイメージ的に天皇は偉い、格好良い、慈愛に満ちている、と祭り上げる。
それが余程嫌だったのだろう、昭和天皇は戦後真っ先に人間宣言した。
死後にも昭和天皇の一番嫌がるであろう事を続ける、罪深さよ!

12. 中川隆 2010年3月07日 17:08:25: 3bF/xW6Ehzs4I

秘密は墓場まで__最後まで名優であり続けた昭和天皇_迫真の演技

昭和天皇の変わり身の素早さには驚かされる。

つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。

天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


私の調べた確証から浮かび上がる昭和天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

昭和天皇は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、昭和天皇は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、昭和天皇の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、

わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


13. 2010年3月07日 19:59:44

        ..,,,,,ll,,,,,,,|||Illllla,,_
      : .,,,illlllll゙゙¬゙|ll|l》゙|ト砲,、
     、,llllll゙゙`″  : : `:   ``ミi、
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   广'i、ァ   ゙゙‐'‐'" : :::  ゚"ー'″ .|i、
   .;ヒ'::;,il|      _.:::::::  .=@  ||
   .'fi,;゙l;ヒ  : : ;:  :":・lll゙l,.'l・!°   |′
     ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l゙
      .”゙l   /゜,,,,,lwew-ii,, ゝ ,l′     (世界大戦は私のせいで多くの人が死んだ? あ、そう! だから何?
       ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i´
      ,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : :   : : _,r°
    ,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】

14. 中川隆 2010年3月09日 22:10:12: 3bF/xW6Ehzs4I

広田弘毅 :「天皇陛下漫才!!!!!! 天皇陛下漫才!!!!!!」

今やっと「漫才」というの意味がわかる様になりましたね:

三階から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。

『三誓偈』の初めの三頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、「非常に有難うございました」とお礼をいわれた。それから松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。


仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第二組の三人、 板垣、広田、木村さんが降りて来られた。

顔を合せると、すぐ広田さんが真面目な顔で、

「今、マンザイをやってたんでしょう」

といわれた。

「マンザイ? いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか」

私も真面目に、こうこたえた。

「いや、そんなことはないが・・・・・・」

お経の終ったあとで、広田さんが、

「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか」

といわれた。私も、やっと気がついて、

「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」

といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

「それでは、ここでどうぞ」というと、広田さんが板垣さんに、「あなた、おやりなさい」とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は「天皇陛下万歳」を三唱された。

花山信勝 「巣鴨の生と死」  
http://www.c20.jp/1948/12senpa.html


15. 2010年3月12日 21:02:35
中川隆ひさしぶりだなぁ〜
わかるだろぉ、俺様だよ。

相変わらず粘着貼り貼りしてるのぉ。
一言、言わせてぇ

コメントにわざわざ「中川隆」っていれなくてもわかるからぁ
まったくぅ、統一性がないんだからぁ。

前俺とコメントした時とネタ変わってねえじゃん。
相変わらずだなぁ。

自ら立てたことに敬意を表するけどぉ
板変えてもおんなじコメじゃつまらないって。

前にあんたがはっつけたコメント全部保存してるからぁ
なんだったら、俺が貼ってやろうかぁ?

コメントの頭に、【新】とか、【未】とか入れといてよぉ
じゃなきゃダブって保存しちゃうからぁ。

ネタ元変えてね❤

期待してるからぁ
今日もまた来るんでしょう・・・・
た・の・し・み


16. 2010年3月12日 21:09:14
❤❤中川ファン❤❤

昭和天皇が日中戦争を起こした目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。

以下、久保井規夫著『戦争と差別と日本民衆の歴史』(明石書店)より。

ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。
麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。
日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。

『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


17. 2010年3月12日 21:21:13
❤❤那珂川ファン❤❤

昭和16(1941)年12月8日、日本は、ハワイ・真珠湾を攻撃し、米英 ── とりわけアメリカと開戦しました。

太平洋から東南アジア、更にはインド洋に至る広大な海洋を戦場にして、日米両国は空前絶後、史上例を見ない「真の世界大戦」 ── 「大東亜戦争」(太平洋戦争)を戦いました。

そして、4年にも及んだ「真の世界大戦」は最終的に、昭和20(1945)年8月15日、日本の敗戦によって終結を見たのです。

しかし何故、日本は、国土の広狭・資源の有無等を無視して、「対米開戦」に踏み切ったのでしょうか? 

そこには、好むと好まざるとに関係なく、日本に「対米開戦」を選択させる様、し向けたアメリカの「責任」があったのです。

と言う訳で、今回は、日本が「対米開戦」に踏み切らざるを得ない状況に追い込まれた事情を通して、アメリカの「戦争責任」について書いてみたいと思います。

「アメリカが日本に送ったと同一のものを他国に通告すれば、非力なモナコ公国やルクセンブルク大公国と言った欧州の弱小国でさえ、必ずやアメリカに対して自衛の為に武力を以て立ち上がったであろう・・・」

これは「東京裁判」(極東国際軍事法廷)において、長文からなる判決趣意書を以て、堂々と「日本無罪論」を展開した、インドのパール判事の言葉です。

日本が好むと好まざるとに関わらず、「対米開戦」を選択せざるを得なかった理由、それこそ、アメリカが日本に突きつけてきた『ハル・ノート』だったのです。

『ハル・ノート』(Hull Note)。

正式には、『合衆国及び日本国間の基礎概略』(Outline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)と言い、開戦前夜の昭和16年11月26日、アメリカ国務長官、コーデル・ハルが日本政府に通告してきた文書で、これを読んだ日本側はアメリカ側からの「最後通牒」と解釈したのです。

当時、日本は、アメリカ(America=A)・イギリス(Britain=B)・支那(China=C)・オランダ(Dutch=D)による、いわゆる「ABCD包囲網」と呼ばれる対日経済封鎖網によって、石油・ゴム・タングステンと言った資源のほとんど全てを供給停止(禁輸)されていました。

つまり、日本には外から、工業生産は元より日々の生活に必要な資源が何一つ入ってこない状況に立たされていたのです。


考えても見て下さい。もし現在、当時と同様に海外から資源の供給を停止されたら・・・。石油一つ採っても、自動車・航空機・船舶を動かす事が出来なくなってしまいます。

それは、過去二回味わった「オイル・ショック」の比ではありません。

その様な状況に半世紀前の日本は立たされていたのです。

だからこそ日本は、天然資源が豊富な南方(仏印や蘭印)への進出を真剣に考えたのです。

そんな状況下にありながらも、日本は日米戦争を回避すべく、ぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願ったのです。その条件「甲案」とは、

[甲案](概要)

1. 日支(日本と支那)間に和平が成立した暁(あかつき)には、支那に展開している日本軍を2年以内に全面撤兵させる。

2. 支那事変(日華事変・日中戦争)が解決した暁には、「仏印」(フランス領インドシナ=現・ヴェトナム)に駐留している日本軍も撤兵させる。

3. 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那に対してもこれを認める。

4. 日独伊三国同盟への干渉は認めない。

と言った内容であり、更に、「甲案」での交渉決裂に備えて、日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意したのです。

乙案(概要)

1. 蘭印(オランダ領東インド=現・インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した暁には、南部仏印から撤退する。

2. 更に、支那事変が解決した暁には、仏印全土から撤退する。

要は、日本に対する経済封鎖が解除され、石油等の資源が供給されるのであれば、資源確保の為に南方(仏印や蘭印)へ進出する必要性が無くなる。

それと引き替えに、日本も、支那・仏印からの全面撤退に応じる、と言っているのです。

この事については、駐日英国大使、ロバート・クレーギーが帰国後、政府に提出した報告書 ── いわゆる『クレーギー報告』にも、

「日本にとって最大の問題は「南進」(仏印・蘭印への進出)では無く、耐え難くなりゆく「喉輪(のどわ)攻め」(レスリングの攻め技の一つ。ここでは「経済封鎖」を指している)を何としてでも振り解(ほど)く事だった」

と書かれており、日本の南方進出が「領土的野心」等では決して無かった事を物語っているのです。

そして、この日本案については、「東京裁判」の際、弁護人を務めたアメリカ人・ブレークニー氏も、「日本の真に重大な譲歩は東条内閣が作成した「甲案」であり、「甲案」において日本の譲歩は極限に達した」と言っているのです。

つまり、日本側は対米交渉において、これ以上は応じられない程の最大限の譲歩(最大限の「値引き」)を提示したと言う事なのです。

しかし、それに対してアメリカは、11月7日に「甲案」を、11月20日に「乙案」をも拒絶し、11月26日、日本が到底受け入れる事の出来ない『ハル・ノート』を突き付けて来たのです。

「ハル・ノート」(概要)

1. 日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵。

2. 支那における重慶政権(蒋介石政権)以外の政府・政権の否定(つまりは、日本が支援する南京国民政府=汪兆銘政権の否定)。

3. 日独伊三国同盟の死文化(独伊両国との同盟を一方的に解消)。

早い話が、日本に対して、「明治維新」(1868年)以来、血の滲(にじ)む様な苦労をして営々と築いてきた、大陸における一切の権益を全て放棄しろ、と言ってきたのです。

これは、アメリカに対して、王国を滅ぼして併合したハワイや、ロシアから買ったアラスカ、更にメキシコから「戦利品」として奪ったカリフォルニア・ニューメキシコ・テキサス等の諸州を全て放棄し、建国当初の東部十三州に戻れ、と言っている様なものです。

到底、受け入れられる様なものではありません。

そして、こんな条件を突き付けながら、一言も、「経済封鎖」の解除には触れていないのです。

これでは、日本に「死ね」と言っている様なものです。

かくして、日本は、自らの「生存権」(生きる権利)を賭けて、「対米開戦」と言う「カード」を選んだのです。つまり、アメリカは、日本に好むと好まざるとに関わらず、「対米開戦」と言う選択を取らせたと言う事です。それを物語っているのが、『ハル・ノート』が日本側に突き付けられた翌日、11月27日の朝、ハル・国務長官が、スチムソン・陸軍長官に言った言葉、「私は日米交渉から足を洗った。今や、この問題は貴方とノックス(海軍長官)、すなわち陸海軍の手中に落ちた」(ベアード『ローズヴェルト大統領と戦争の到来』)だったのです。

つまり、ハル・国務長官は、日本が、『ハル・ノート』を到底受け入れない事、そして、否応なく「対米開戦」に踏み切るであろう事をはからずも「吐露」しているのです。

「大東亜戦争」において日本はアメリカに敗北し、「東京裁判」において日本は「悪」の汚名を甘受させられました。

しかし、本当に「戦争責任」があるとすれば、それは、昭和天皇が『宣戦の詔書』で

「(前略)帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ、更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ、遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ、帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ。(中略)彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク、徒ニ事局ノ解決ヲ遷延セシメテ、此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ、以テ我ヲ屈從セシメムトス。斯ノ如クニシテ推移セムカ、東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ、帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ。事既ニ此ニ至ル、帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ。」

と表明している様に、日米交渉を妥結しようとせず、殊更(ことさら)、日本に「無理難題」な要求を提示し、遂には日本を「対米開戦止むなし」と言う所にまで「追いつめた」アメリカにこそあるのではないでしょうか?

* 2月 7日 北方領土の日
* 2月11日 建国記念日(紀元節)


18. 中川隆 2010年8月12日 21:05:04: 3bF/xW6Ehzs4I: MiKEdq2F3Q

実は東京裁判には重大な思惑も潜んでいた。天皇の戦争責任回避である。

 終戦直後、米国内の天皇への見方は非常に厳しかった。真珠湾攻撃や戦時中の残虐行為から、天皇を訴追すべきだとの声が強く、世論調査ギャラップでは30パーセント以上が天皇処刑を支持した程だ。

 一方、マッカーサーとGHQは円滑な占領に天皇を利用したかった。だが開戦詔書が天皇の名で出された以上、何らかの理論武装が必要だ。そこで考え出されたのが、全責任を東條に押しつける戦略だった。マッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズは、米内光政元首相にこう語っている。

〈対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。「開戦前の御前会議に於て仮令(たとえ)>陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た」と〉(『戦争裁判余録』)

 米内はこう応じた。

〈全く同感です。東條(元首相)と嶋田(元海相)に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます〉(同書)


山下大将守った 弁護士の「正義」
 これを裏付ける文書をバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館が保管している。フェラーズの部下ジョン・アンダートン少佐がマッカーサーに提出した覚書だ。天皇が開戦詔書に署名した事実を列記し、こう進言していた。

〈結論 詐欺、威嚇または強迫により不本意な行動を取らざるを得なかったと天皇が立証できれば、民主的裁判所で有罪判決を受けることはない。

勧告 (a)占領を平和裏に進めて日本を復興させ革命と共産主義を防止するため、開戦の詔書作成とその後の天皇の立場を巡る事実の内、(天皇に)詐欺、威嚇または強迫が行われていたと証明する事実を収集する。(b)上記の事実が抗弁を十分に立証するに足る物であれば、天皇が戦争犯罪人として訴追されるのを阻止すべく積極的措置を講じる〉(45年10月1日、アンダートン覚書)

 要は、天皇は東條に威嚇され開戦詔書に署名した。自らの意思ではなかったと証明せよとのアドバイスだ。半ば強引な裁判には日米共通の狙いがあったのだった。

http://www.asyura2.com/10/senkyo92/msg/323.html


19. 2010年8月20日 21:09:39: MiKEdq2F3Q

アメリカは皇居も財閥の工場も攻撃しなかった。

国会議事堂も霞ヶ関も残った。

ドイツ戦ではヒットラーが標的になり、イラク戦でもフセインが殺された。

対日戦では日本人は虫けらのように殺されたが、天皇は標的ではなかった。

変な戦争だ。そして支配層はアメリカの単独占領を歓迎した。

支配層は日本人民が革命をやり、自分たちの地位を失うことを恐れていた。

米英に支配の地位を守ってもらうために、戦争で日本国民を犠牲にし民族的な利益をみな売り渡す道を進んだ。


米に負けるため南進 目的同じ日米司令部


最初からアメリカに負けるために南進したのだ。

日本人民の経験でも市民は焼き殺すが、軍や三菱は無傷だったというのが実感として語られている。

最近の史料で明らかになったことで、戦前に駐日米大使をしていたグルーなどが「日本の軍需工場を攻撃するな」と主張していた。
それがウォール街の共通認識だったという。

グルーはJPモルガンの利益代表だが、彼が駐日大使だったときに三菱や住友と深い関係を持ち、アメリカ資本が日本の大企業に相当投資してインフラを整備しており、今から日本の資本主義を段階を画して発達させ、収奪していくんだという狙いを持って戦争に臨んでいた。

だからみずからが投資してきた三菱などの軍需工場への攻撃を避けていた。

これに対して日本側の三菱などは日米開戦のときに、

「米英はこれまで通り友人だ。だから資産をきちっと守って、戦後も同じようにやっていけるよう、みんなもそのつもりでおれ」

と岩崎小弥太が檄を飛ばしていた。ウォール街の意向と一致している。


「鬼畜米英」といわせながら、日米両方の司令部が同じ目的で動いていたのだ。

中国に侵略してひどいことをしたが、日本民族もさんざんに殺させる。

そして民族の利益を売り渡すことで自分たちの支配の地位を守る。

それが唯一の道だと。日本の支配階級の卑劣さも少少ではない。売国奴、かいらいの道を進んだわけだ。


天皇が原爆を落としてほしかったのだ。

8月15日の終戦の詔勅にある「原爆が投下されたからだ」という理由ができた。

武器も食料もなしにどんどん輸送船を出すというのは「殺してください」ということだ。

南方にはとり残され、戦争能力がもうないのだから、本当は戦争をやめるほかはない。

みんな「おかしな戦争だった」というが他のどの戦争を見てもあんな戦争はない。


戦争なら皇居を狙うのが普通だ。将棋でも王将をとるかとられるかだ。

しかし下町ばかりが焼かれた。


ドイツの場合は「ドイツ国民はわれわれと同じ人種で良識ある国民だが、悪いヒトラーをやつけないといけない」というスタンスだった。

だからドイツではドレスデン空襲はあったがほとんど空襲はやっていない。

しかし日本の場合は「天皇が敵だ」とはいわず、日本人全体を「ジャップ」といい、野蛮な未開の人間ではないジャップを殺せというのが最初からの姿勢だ。
インディアンと同じ扱いだ。

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/genzainitudukunihonminzokuzetumetusakusen.html


20. 2012年10月28日 16:25:59 : bDBUl7kQxQ
初めてここを読んだ時、何ておかしな連中がいたものかと訝しく思ったが、孫崎氏の「戦後史の正体」を読んでまんざらウソでもなさそうだと思うようになった。

日本の戦後のアメリカ追随・・・いや従属の基礎を作ったのは天皇だった。
ウキィリークスも色々暴露してくれてる。


21. 中川隆 2013年5月10日 09:38:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


革命に恐れおののいていた天皇家の人々

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。

伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』

(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html


22. 中川隆 2013年8月17日 13:27:28 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

39 :名無しさま:2012/10/27(土)

山本五十六は言ってるじゃないですか一年ぐらいは持つって、
勝った勝ったでいくだろうと。

だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。

やらないと自分の身が危ないと
スキャンダルをみなばらされて全部失うと
スイスに貯めた金も失うと

なぜ石油があったか考えてみたことありますか?

これはですね戦争のときにアメリカは日本には石油を売らないと

ところがパナマ国籍の船ならば石油を積んでいって日本に売っても自分達は攻撃できない

というような理屈で日本に石油を間接的に売るわけです

本当の話です


23. 2013年8月17日 13:28:52 : W18zBTaIM6

これに三菱が作った昭和通商という会社がそれを引き受けるわけです

昭和通商と三菱は同じですけどそこでまずいので
日本水産という会社が代行するわけです

魚を運ぶのでなくて魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので戦争は長引くのです

太平洋でいっぱい戦争しました

あれはアメリカの石油をもらってアメリカの石油を使った軍隊と戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ

そしてある時になってもう石油をやらないというときに、 天皇は気がつく

ああ遂に終わりがきたかと

これが真相なんですよ。

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳ですhttp://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1347415555/


24. 中川隆 2013年10月03日 16:02:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

正直者は馬鹿を見る


おまけにこの連中 命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。

この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う:

48. 2013年10月03日 01:18:26 : ZsffPrh7kg

_聞いたところでは遠縁にあたる親類の叔父さんは南方方面の物資補給艦に乗っていて潜水艦からの魚雷攻撃を喰らって死にました。

_物資の補給というキーポイントにいたから海軍の話は色色と聞いているよ。
戦況は完全に駄目だと相当前から云っていたようだ。

_上官の程度が悪すぎるというのは日本海軍での通説のようだ。
今も同じで責任は一切とらないで逃げ回るだけなのがどうも伝統らしい。

_大和がどうした以前の第一の問題として大本営発表の連中とこの上司の誰かさんが相当変なように思うよ。

_おまけにこの連中命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。

_この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

_東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う。

_例えば大本営発表の連中とこの上司や予科練の指導官や神風突撃隊の指導官や憲兵の連中はほとんど生き残っているんでしょう。
従ってこんな馬鹿らしいタラレバの投稿を見るとムカムカするだけだよ。
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/813.html#c48


25. 2013年10月10日 22:20:11 : W18zBTaIM6
・上官の程度が悪すぎるというのは日本海軍での通説のようだ。
今も同じで責任は一切とらないで逃げ回るだけなのがどうも伝統らしい。


・大和がどうした以前の第一の問題として大本営発表の連中とこの上司の誰かさんが相当変なように思うよ。

・おまけにこの連中命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。

・この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

・東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う。

・例えば大本営発表の連中とこの上司や予科練の指導官や神風突撃隊の指導官や憲兵の連中はほとんど生き残っているんでしょう。
従ってこんな馬鹿らしいタラレバの投稿を見るとムカムカするだけだよ。
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/813.html#c48


26. 2013年11月20日 19:02:25 : Gq69xexIaY
群馬県民の一人として、郷土の偉人中島知久平の稿に異論があります。国民の中にも日本のため私欲をすて命をも顧みず、頑張った方々が多数おりましたが、中島知久平の生涯も一死報国、一社報国の精神が貫かれた一生だったのです。
にも拘らず世間では武器で儲けた戦争成金という風評が支配的でした。それが最近ようやく正しい認識も広がりつつあります。
戦争成金なら終戦時、なぜ中島飛行機の法人税が納められず各地の主要工場の多くを物納せざるを得なかったのでしょうか。
貴殿は世に正しい道を説く努力をされている方と拝見しますが、ネツトという波及効果の大きい媒体で、検証することもなく、単なる風評を鵜呑みにして特定の人物
の人格及び名誉を著しく毀損し、世に誤解を与えることは貴殿の本来の目的に反している事ではないでしょうか。

27. 中川隆 2014年2月08日 20:32:28 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

B-29東京大空襲の奇怪〜3月10日の大空襲を知っていた人々
 

東京大空襲で米軍が使った焼夷弾は、新型M69で、これは着弾するとすべて燃え尽きるまで火が消せない。どれほど残虐な兵器だったか。

 親爆弾に子爆弾19発が2段に集束され、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。 

 それが一夜にして32万発、160トンも東京下町に投下された。

 こうした市民(非戦闘員)への無差別爆撃は、B29による日本本土空襲を嚆矢として、その後も朝鮮戦争・ベトナム戦争でのナパーム弾、イラク戦争・アフガン戦争でのクラスター爆弾へと引き継がれていった。

 その意味で東京大空襲は、ドイツのドレスデン空襲と並んでユダヤ=アメリカによる大規模な市民殺戮の実験だったのだろう。

 しかも3月10日とは、陸軍記念日であった。陸軍記念日は日露戦争で奉天会戦に勝利したことを祝う日だった。米軍はそれを狙ったとする説もある。

 鬼塚英昭氏の新著『白洲次郎の嘘』(成甲書房)も、この柴田哲孝氏の『異聞 太平洋戦争』の記述を紹介しながら、日本側の動きを追っている。
 端的には、3月10日に大空襲があることを、一部の人間は知っていたということである。事前にその情報に運良く接した人たちは、避難して難を逃れている。

 日本軍側は米軍に対して、NHKが東京ローズの放送を通じて、迎撃しませんよどうぞ安心してたくさん焼夷弾を積んでいらっしゃいと伝えていたのである。
 謀略放送を担当したのは陸軍参謀本部情報局である。その実権は裕仁の弟宮だった三笠宮(少将)が握っていた。
 爆撃に参加した元兵士はこう語る。「日本政府は…少なくとも軍部の一部は…大空襲を“わざとやらせた”ということさ」

 鬼塚氏は、白洲次郎の暗部を解いてゆく。以下に引用する。
 
   *     *

 白洲次郎と正子は鶴川村へ疎開する。白洲次郎に徴兵の通知が来るが裏で手を回して忌避している。この忌避工作をしたのは東部軍参謀だった辰巳栄一である。招集主任に連絡して白洲の招集を取り消しにしたのであった。辰巳栄一は戦後、吉田茂のブレーンとなっている。

 1942(昭和17)年5月、水産統制令により日本水産は日本海洋漁業統制株式会社と帝国水産株式会社に分割することが命じられる。白洲次郎は帝国水産の理事に就任する。帝国水産は戦争中、何をしていたのか。白洲次郎賛美本の多くは、戦争中、彼は武相荘に籠り、カントリー・ジェントルマンとして百姓をしていたと書いている。

 しかし、これらはみな嘘っぱちである。帝国水産は三菱と組み、秘密裏にロックフェラーの石油会社から石油や兵器を密輸入していた。代金はゴールドで支払った。昭和通商という軍需国策会社が麻薬を中国人に売りつけて獲得したゴールドだった。だから戦争末期、松本重治と白洲次郎は上海に行き、関東軍と結託していた里見甫に麻薬の仕事を中止させたのである。

 ここにも、天皇閥とヨハンセン・グループの影が見える。

鬼塚氏は、柴田氏が実名を出さずにフィクション風に書いていることを実名でしたためている。

 亜細亜産業に勤めていたある女性は、3月5日の夜、上司が家に尋ねて来て、9日か10日に大空襲があるから逃げろと教えられたことを書いている。
 3月5日とは、米軍でも9日までは作戦がないと将兵達に伝えられた日と同じだった。米軍の決定がただちに日本側に伝えられたことがわかる。

 亜細亜産業は、右翼の矢板玄がやっていた会社で、日本金銀運営会の入っていた同じライカビルに居をかまえていた。
 先日のブログで小林秀雄の暗部を書いたときに、亜細亜産業はキャノン機関とも深く関わっていたことをしるした。

 空襲前に情報を受け取った女性は、事務員でありながら当時としては破格の給与をもらっていたそうだ。男の公務員の給与が80円の時代に140円ももらったと。いかに闇の商売をやっていたかわかる。

 亜細亜産業は表向き、軍需産業に関係するパルプ産業や鉄鋼業、各種貿易業務などを中心に据えていたが、「ある種の謀略機関」と柴田氏は書いている。
 社長の矢板玄は、戦時中に軍の特務機関長であったのに、戦後はGHQの訴追を受けなかった。奇妙なことどもである。

 それどころか、GHQのG2(参謀第二部)の下部組織として関わり、昭和電工疑獄事件や、国鉄にまつわる三大事件(下山、三鷹、松川)に関わったとも言われる。

 亜細亜産業は白洲次郎から空襲の情報を得て、従業員に教えていた。

 鬼塚氏は「もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか…」と書いておられる。

 すなわち、白洲次郎はヨハンセン・グループから情報を得ており、それを亜細亜産業の連中にも教えたのだろう。

 文芸評論家・河上徹太郎も空襲で家は焼かれたが、身は免れているから、親しかった白洲次郎から情報をもらったのであろう。彼の家にあったグランドピアノだけは焼け残ったので、白洲が鶴川の武相荘に引き取ったということになっているが、あれだけの火の海で、グランドピアノだけ無事なわけがない。

 つまり白洲が河上に空襲情報を教えたので、事前にピアノや家財道具を運び出したのである。

 鬼塚氏はこう書く。

 「ヨハンセン・グループについてである。このグループの主要メンバーは、吉田茂、樺山愛輔、牧野伸顕、貞明皇后、秩父宮雍仁、である。彼らはすべてクリスチャンである。この5人を主要メンバーとして、のちに白洲次郎が加わる。彼らは平和主義者で、日本の軍国主義化に反対し、太平洋戦争阻止に動いた人々の集団である。ということに“公式”にはなっている。

 しかし、真実はまるでその逆である。彼らは日本及び日本人を裏切り、国際金融家たちの命ずるままに、真珠湾奇襲の裏切りを演出し、東京大空襲の手引きをし、原爆投下に全面的に協力した、悪党の中の悪党であったのだ。このグループに天皇裕仁と木戸幸一(内大臣)を加えたい。また、白洲次郎と行動をともにした松本重治と牛場知彦も加えたい。」

 さらに、

 「この八百長劇が十万単位で東京の市民を殺したのである。この八百長劇が完成するためには、天皇裕仁と牧野伸顕と貞明皇太后がヨハンセン・グループを使い、アメリカの国務省と国防省、そしてルーズヴェルトと交渉したことが分かる。白洲次郎がアメリカ側と交渉したと私は思っている。」

 裕仁は、貞明皇太后と西園寺八郎の子、また秩父宮は貞明皇太后と牧野伸顕の子であると、鬼塚氏は解明している。こういう皇室スキャンダルを、アメリカは暴露するぞと脅しに使い、ヨハンセン・グループを組織させて、大東亜戦争へと引きずり込んだ。

 だから東京大空襲で市民10万人が死ぬはめになった。
 その10万人だけではない。大東亜戦争で、兵員が230万、市民80万が殺された。

 なんで死ななければならなかった? 貞明皇太后の不倫が暴露されたくないばっかりに、ユダヤ国際資本の言いなりになった、ということではないか。

 なのに、評論家・副島隆彦は「大御心に従え」などと狂ったことを言いやがる。アホか。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/


28. 2014年8月19日 17:18:17 : k7DhuTulrg
↑って 幸福実現党だよね。実現してないけど(笑) ザ 歌うたい ♪( ´θ`)ノ

29. 中川隆 2015年4月09日 08:25:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

沖縄にアメリカ軍の基地が集中した理由のひとつは地理的な条件。アジア支配の拠点として最適の場所だということだ。もうひとつは昭和天皇の意思で、アメリカ軍の沖縄占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを望むというメッセージを1947年9月に天皇から出されている。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫)

 このメッセージは、天皇が側近の寺崎英成を通じてGHQ外交局長のウィリアム・ジョセフ・シーボルトに伝えたとされ、そのシーボルトが残した文書の中に記述されていた。天皇の生涯を記録したという「昭和天皇実録」を宮内庁は編集している。その宮内庁は沖縄占領に関する天皇のメッセージについて「事実とは認定していない」としているらしいが、この官庁に歴史的事実の真偽を「認定」する権利はない。

 降伏後、日本とアメリカとの交渉は天皇とホワイトハウスとの間で行われたという研究報告があるが、皇室の力を考えれば当然だろう。降伏前、日本軍には少なからぬ皇室のメンバー在籍していた。軍の幹部だった人、あるいは軍の内情に詳しい人によると、皇室は軍の内部で特別な存在だった。軍には階級があるが、そうしたものと関係なく、皇室の人間が立場は上になるという。

 皇室出身の軍人は中国での戦争にも参加、例えば、1937年12月の南京攻略当時、昭和天皇の叔父にあたる朝香宮鳩彦は上海派遣軍司令官だった。形式上、この作戦は中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、松井が朝香宮に逆らうことは不可能だったはず。関東軍が「暴走」できたのは、そうした仕組みがあったからだとしか考えられない。この攻撃の直後、イギリスの支配層でソ連を第一の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていた。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)、

 この同盟案は日本軍の真珠湾攻撃で消滅しただろうが、真珠湾を攻撃しなければ別の展開があったと考えている人が支配層にいても不思議ではない。戦争に反対なら、1872年の「琉球処分」から続くアジア侵略をまず問題にすべきであり、アメリカと戦争を始めたことだけを「無謀だった」と反省するのはおかしな話。

 それはともかく、日本と戦った相手の国で天皇の戦争責任を問う声が出てくるのは必然で、処刑を求める圧力が高まる恐れもあった。極東国際軍事裁判(東京裁判)や新憲法の制定を急いだ一因はここにあるだろう。

 民主化を徹底したいなら、徹底的に審理し、ゆっくり条文を吟味しても問題はない。東京裁判で身代わりを処刑し、天皇制を存続させる憲法をアメリカは作ったのだろう。天皇は「神」から「象徴」へと表現は変化したが、その後も「神聖にして侵すべからざる存在」でありつづけている。

 それでも天皇は憲法第9条を懸念していた。コミュニストが日本を制圧し、自分を絞首台や断頭台の前に引きずり出すのではないかと恐れ、ダグラス・マッカーサーに対してその不安を口にしたというのだ。

 しかし、戦争が終わったときにはアメリカを親ファシスト派が主導権を握り、権力構造が大きく変化していたので天皇の不安は杞憂に終わる。ニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月12日、ドイツが降伏する前の月に執務室で急死したことが切っ掛けだ。ルーズベルトはウォール街の親ファシスト派にとって邪魔な人物だった。

 1932年の大統領選挙で初めて当選した直後、JPモルガンをはじめとするウォール街の支配層はルーズベルトを排除し、ファシズム体制を樹立するためのクーデターを計画していた。これはクーデター派から誘われたスメドリー・バトラー退役少将らの議会証言で明らかになり、失敗に終わる。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201504090000/


30. 中川隆 2015年4月09日 08:34:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs


沖縄に関する昭和天皇メッセージ
(日本独立後も沖縄を米国に50年等の長期租借を提案) 

 戦後憲法は天皇を象徴とした。

 しかし、昭和天皇は、戦後の米国との関係に最も関わってきた人物である。

 それは多くの国民の期待に反してである。

 総司令部政治顧問シーボルトは「疑いもなく私利に大きくもとづいている」
と評価した。

 天皇の政治参加という戦後史のタブーの分野に最初に手を付けたのが、進藤榮一氏である。

進藤榮一筑波大教授が、米国から帰国後、沖縄分割に関する天皇メッセージ電文を発掘掲載した衝撃的論文「分割された領土」(岩波書店の月刊誌『世界』1979年4月号)で発表した。

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた昭和天皇の見解をまとめたメモ。

 寺崎英成は1947年2月、宮内省御用掛に任命され、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の通訳を数回務めが、50歳の若さで死去。柳田邦男原作『マリコ』の主人公のモデル。

総司令部政治顧問シーボルトから国務長官宛の書簡

 主題:琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解

 国務長官殿 在ワシントン

拝啓

天皇の顧問、寺崎英成氏が同氏自身の要請で当事務所を訪れたさいの同氏との会話の要旨を内容とする1947年9月20日付けのマッカーサー元帥あての自明の覚え書きのコピーを同封する光栄を有します。

 米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。

また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。

                              敬具

                合衆国対日政治顧問 代表部顧問

                    W.J.シーボルト                   東京 1947年9月22日


「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」を主題とする在東京・合衆国対日政治顧問から1947年9月22日付通信第1293号への同封文書

 連合国最高司令官総司令部外交部

 1947年9月20日

 マッカーサー元帥のための覚え書

天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日を約束して訪問した。

 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。

天皇の見解では、そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼及び左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件をひきおこすことをもおそれている日本国民の間で広く賛同を得るだろうと思っている。

 さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)にたいする米国の軍事占領は、日本の主権を残したままでの長期租借
――25年ないし50年あるいはそれ以上――の擬制にもとづくべきであると考えている。

天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、また、これによる他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。

 手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。

寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講和という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある。

 W.J.シーボルト

(引用:tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumesseji.htm‎)
http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/636.html


昭和天皇のインテリジェンス 国際的フィクサー・田中清玄

週刊朝日  2015年4月10日号より抜粋


 かつて昭和天皇には影の藩屏(はんぺい)が存在した。国際情勢のインテリジェンスを届けた右翼の黒幕――。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が取材した。

*  *  *
 今から33年前の1982年4月9日、午後5時を過ぎた頃、都内港区の都ホテル(現在のシェラトン都ホテル東京)に一台の車が到着した。周囲は白金の住宅街で静寂な雰囲気が漂う。後部座席から降りたのは一人の老紳士だった。

 年齢は70代後半、落ち着いた身のこなしが育ちの良さを感じさせた。

 エレベーターに消えた彼は、ある部屋の前でドアを叩いた。出迎えたのは同年輩の男性だった。古武士然とした容貌で目つきが鋭い。横には秘書兼ボディガードの若い男が控えた。

 老紳士の名は入江相政(すけまさ)、昭和天皇の侍従長を務める宮内庁幹部だ。迎えた男は田中清玄(きよはる)、国内外の豊富な人脈で知られる右翼の黒幕である。二人は挨拶を交わすとテーブルを挟んで座った。秘書がホテルに電話を入れ、頼んでおいた料理とワインを運ばせた。

 それから約3時間、食事を取りつつ田中は入江に最近の国際情勢を説明した。中国やソ連、欧州の政治動向、各国指導者の近況など内容は多岐にわたった。

 側近を通じて天皇に情報を提供し、時には政府を介さないコミュニケーション・ルートを果たす。いわば昭和天皇のインテリジェンスというべき存在、その立役者の一人が田中清玄だった。

 世間では「右翼の黒幕」と呼ばれた田中だが、その足跡は波乱に富んでいる。

1906年、会津武士の子孫として北海道で生まれた田中は東京大学在学中、日本共産党に入党した。当時の共産主義運動は非合法で、書記長の田中は武装路線を取り官憲殺傷を引き起こす。その結果、治安維持法違反で逮捕され11年近くを獄中で過ごした。ところが戦後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者になった。

 また土建業や海外の石油開発など様々な事業を手掛け、中国の〓小平やアラブ首長国連邦のシェイク・ザイド大統領、インドネシアのスハルト大統領、山口組3代目の田岡一雄組長など絢爛たる人脈を築いた。1993年に亡くなるまで国際的フィクサーだった人物だ。

 その田中は独自に入手した海外情報を天皇に提供していた。入江侍従長の死後発表された日記がそれを裏付ける。

 例えば冒頭の1982年4月9日は「五時に出て都ホテル。食事を共にしつゝ田中清玄さんと話。中ソは絶対に手を結ばないこと。西独、ソ連寄りになる懼れありとのこと」(『入江相政日記』第6巻)。同年9月27日、翌年10月11日にも同様の記述がある。

 田中の元側近や関係者によると、入江との会合は都ホテルの個室で、まず事前に用意したレポートを渡す。食事をしながら背景を説明し、それらはテロ情報も含まれた。紀尾井町の入江の自宅に夜、秘書がレポートを届けたこともあったという。生前は「国士」「政商」など毀誉褒貶(きよほうへん)が激しかった田中だが、国際情勢に関して独特のカンと洞察を持っていたのは間違いない。一例を挙げる。

 英国立公文書館が保管する記録によると、1973年9月14日、ロンドン滞在中の田中は英政府首脳に書簡を送った。近く中東で武力紛争が発生し石油供給に深刻な影響が予想される。至急、必要な対応を取って欲しいという。アラブ諸国によるイスラエル奇襲で第4次中東戦争が勃発、世界を石油危機が襲ったのは翌月だった。

 その田中の情報源の一つに、欧州きっての名門ハプスブルク家の当主オットー・フォン・ハプスブルクがいた。旧オーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝の長男オットーは、第2次大戦中、ナチスへの抵抗運動を行う。戦後は反共活動に尽力して田中と知り合い、晩年まで親交を結んだ。かつて欧州を支配したハプスブルク家は東西両陣営を超えたシンパを抱えた。彼らからは折に触れ確度の高い情報が集まる。それはオットーから田中に回り、日本語に訳され入江に渡ったのだった。

 しかし一右翼の田中がなぜ、天皇側近と関係を築けたのか。答えは昨年公表された「昭和天皇実録」で確認できる。今から70年前の敗戦直後、田中は天皇に単独で拝謁していたのだ。

 きっかけは週刊朝日(1945年12月2日発行号)に載った田中のインタビューだった。当時は国内を共産主義が覆い、革命前夜の空気があった。

 その中で田中は天皇制擁護を訴え、実力行使も辞さない覚悟を述べた。それを読んだ側近が働きかけ、1945年12月21日、拝謁が実現したのだった。

「午後、吹上御苑内を御散策の際、生物学御研究所にお立ち寄りになり、同所において田中清玄に謁を賜う。田中は、自身の経歴を紹介後、天皇家存続の歴史自体が日本民族の統一・融和の証左であるとして感謝を表明するとともに、第一に天皇の御退位や摂政の設置に反対し、第二に皇室財産を以て飢餓に瀕する国民を救済し、第三に復興へ向けて立ち上がる国民の姿を御覧の上、御激励されたき旨を願い出る。これに対し、田中家の出自の会津藩、及び田中により起業の土建業等につき御下問になる」(「昭和天皇実録」)

 この拝謁は侍従だった入江も同席し、後に田中はこう振り返っている。

「お話し申し上げていて、陛下の水晶のように透き通ったお人柄と、ご聡明さに本当にうたれて、思わず『私は命に懸けて陛下並びに日本の天皇制をお守り申し上げます』とお約束しました」(『田中清玄自伝』)

 当時はまだ皇宮警察の体制も整わず、皇居に左翼陣営がデモをかけることもあった。それを聞いた田中は自分の土建会社の荒くれ男を多数送り、デモ隊を殴り倒させた。また1987年9月、昭和天皇が初めて開腹手術を受けた際、田中は皇太子(今上天皇)に見舞いの書簡と欧米やソ連の政治情勢レポートを届けている。天皇に海外のインテリジェンスを提供し、敵対者には実力行使も躊躇わない、いわば皇室の影の藩屏と言えた。
http://www.asyura2.com/15/senkyo182/msg/737.html


31. 中川隆 2015年4月23日 14:19:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

吉田裕著『昭和天皇の終戦史』を読む - 近衛文麿と昭和天皇の暗闘 (世に倦む日日)
 

昭和天皇の終戦史 (岩波新書) 新書 – 1992/12/21 吉田 裕 (著)

http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E7%B5%82%E6%88%A6%E5%8F%B2-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%90%89%E7%94%B0-%E8%A3%95/dp/4004302579/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1429766118&sr=8-1&keywords=%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E7%B5%82%E6%88%A6%E5%8F%B2
 



NHKスペシャルの「戦後70年 - 日本人と象徴天皇」の放送を見た後、吉田裕著の岩波新書『昭和天皇の終戦史』を開いて読んだ。非常に面白い。これを読むと、従来の昭和天皇像が一変するし、終戦時の昭和天皇をめぐる動きがよく理解できる。学生にも社会人にも必読の書として推薦したい。昭和天皇の戦争責任の問題を考える上で教科書となる一冊であり、改憲の危機が迫った戦後70年の政治状況の中で、一人一人に確かな知見を与えてくれる本だと評価できる。新書が出たのは1992年、今から23年前、村山談話の3年前になる。宮沢内閣から細川内閣のとき、今からは考えられないほどリベラルな空気に充ち満ちた時代だった。

果たして、右旋回を強める岩波がこうした本を出し続けられるのか、今後のアカデミーの環境でこのような現代史研究が生息できるのか、時勢を考えると率直に不安に感じられる。想像の飛躍かもしれないが、ファシズム権力に睨まれて発禁というか、日本的な自粛(自己内強制)で品切れとなり、書店から回収処分されるのではないかという予感すら漠然と抱く。

右翼には「悪魔の書」だ。昨年の「実録」以降、マスコミを動員した昭和天皇美化の言論工作はまさに徹底的な絨毯爆撃の感があり、それに異を唱える「反日分子」の異端は一匹も許さないという空気になっている。


一読して、きわめて生々しい昭和天皇の実像が浮かび上がる。

嘗ての昭和天皇のイメージは、政治や軍事には直接タッチせず、現場の情報から遠ざけられた、何もかも臣下や参謀に任せきりのお飾りの操り人形だった。実際はそうではなく、木偶人形の像は捏造されたものであり、戦争責任の追及を逃れるべく偽計された虚構の言説だったということが、この本の中で実証的に暴露され、覚醒させられる中身になっている。

日本近現代史の到達と成果が示され、歴史は大きく塗り替えられた。米国から公文書が漸次的に公開され、それを吉田裕らが丹念に拾って精査し、検証作業が積み重ねられ、従来とは全く逆の、政治にも軍事にも前のめりで介入関与していた昭和天皇の真相が、正しい歴史認識として確定されている。

特に、1979年に発見された昭和天皇の沖縄メッセージ(天皇メッセージ)の意味が大きく、この史料が決定版の証拠となって昭和天皇の表象が覆り、禁治産者然とした姿から黒幕として国策を決め動かす権力者の姿となった。

昭和天皇はあらゆる国策の局面で(上奏の形式で)判断と指示を下しているし、自分の思惑どおりに政治をキャリーすべく、人事に干渉し、側近を使った裏工作を繰り返している。実権を持ち、権力を存分に行使しながら、責任を後で問われないカムフラージュを細工している。戦争責任とは別に、正体はきわめて卑劣で矮小な政治人格だ。

この本の感想を論じるにおいては、最初の部分(P.11-83)が特に印象的で、昭和天皇と近衛文麿の真実を抉った叙述に大いに蒙を啓かれたことを言わないといけない。のっけから目から鱗の衝撃で、昂奮させられて文章に食い入り、何度も戻って読み返した。実に鮮烈な、そして説得的な昭和史が示されている。これまでの私の認識では、軍国支配者たちはどれもこれも同じ口上で昭和天皇を庇い、自己保身と責任逃れの醜悪な立ち回りをし、機械的に「国体護持」で右往左往するロボット群だった。

が、実はそうではなく、個々がさまざまな計略を持ち、昭和天皇を含めて陰湿な駆け引きを演じ、裏切り、裏切られる魑魅魍魎の人間模様があったのだ。昭和天皇は、木偶人形どころではなく、後白河とか後醍醐とか、古代や中世に暗躍する腹黒い天皇を彷彿させるマヌーバーに没頭していた。

1941年10月、対米交渉が実を結ばず挫折、近衛文麿は内閣総辞職するが、これは昭和天皇が自ら対米開戦積極論を主導して国策を方向づけ、東条英機を重用した結果である。近衛文麿は、米国が要求する中国からの撤兵を受け入れる方針で粘ったが、昭和天皇がそれを裁許せず、軍部の中でも最も冒険的な海軍の真珠湾攻撃を採択する。近衛文麿は失脚し、東条英機が国政を独裁する形になった。近衛文麿はすぐに敗戦を確信し、浪人の身で、どうやって終戦するか、開戦の時点から策を練り続ける毎日を送る。


近衛文麿の予想どおり、戦争はすぐに形勢不利となり、ガダルカナル戦で負け、サイパンを落とされ、本土がB29に空襲される事態に到り、東条英機は苦境に立たされ、1944年7月に内閣総辞職に追い込まれる。開戦から3年、終戦まで1年。東条内閣の打倒を工作した主力は岡田啓介ら重臣グループで、その中心には内大臣の木戸幸一がいた。すなわち黒幕の昭和天皇がこの権力闘争を差配していた。1945年2月、近衛文麿を含む7人の重臣(平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野野伸顕、岡田啓介、東条英機)が呼ばれ、昭和天皇の前で戦局の見通しを上奏する。吉田茂らの協力を得て作成した上奏文の中で、近衛文麿は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と断じ、敗戦と共に発生するであろう「共産革命」から天皇制を防護するべく、ただちに戦争終結に踏み切るべしと提言した。

これに対し昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と却下、なお戦局の挽回に固執して戦争の継続に及ぶ。3月10日には東京大空襲があり、4月1日には沖縄本島への上陸があり、多くの人命が失われて行った。昭和天皇が終戦の決意をするのは、5月7日にドイツが連合国に降伏した後の6月22日で、ソ連を仲介にした終戦工作の着手を御前会議で表明、特使に近衛文麿を指名する。3年半前と逆の政治になり、東条英機が退場し、近衛文麿が復活した。

近衛文麿がブレーンと作成した「和平交渉の要綱」では、国体護持を絶対条件としつつ、帝国憲法を改正し、武装解除に応じるという内容が含まれている。「最悪の場合には御譲位もまた止むを得ざるべし」と、天皇退位までも終戦工作のカードとして視野に入っていた。近衛文麿の終戦工作は実を結ばず、7月17日にポツダム会談の開催となるが、この近衛文麿の天皇退位策が8.15以降の政治に尾を引くことになる。1945年7月末から8月上旬、昭和天皇はポツダム宣言の受諾に動いて「聖断」に持ち込む。が、ポツダム宣言には戦争犯罪人の処罰の一項があり、ここから昭和天皇の窮余の保身作戦が始まった。

敗戦と同時に成立した東久邇内閣で、近衛文麿は国務大臣として入閣。水を得た魚のように活動し、10月4日にマッカーサーと会談に至る。天皇とマッカーサーが会談した1週間後だ。この席で、日本の赤化を防止して建設的なデモクラシー国家を作るには皇室と財閥の保持が必須だと説き、すべての戦争責任を軍部に押しつける持論を展開。

この近衛構想はマッカーサーの戦略と近かったため、マッカーサーは近衛文麿を買い、憲法改正の主導役になるよう示唆する。近衛文麿が絶頂のときだ。ところが、近衛文麿の戦後構想には昭和天皇の退位と皇室典範の改正が明確にあり、これが木戸幸一や昭和天皇の不興を買い、勝手にGHQのカウンターパートになろうとする独断専行が咎められて確執と反撃が始まる。

1945年10月、マッカーサー司令部と昭和天皇と近衛文麿の三者の間で、微妙な権力闘争劇が発生していた。吉田裕はそこまで明示的な説明はしていないが、降服直後の9月、昭和天皇と木戸幸一は明らかに近衛文麿の退位論と改革論を活用し、これを前面に立て、退位まで受け入れる命乞いの素振りでGHQとの交渉に臨んでいる。戦争責任が避けられない以上、絞首刑になるより退位の方がマシだ。

が、10月中旬以降、情勢が急変し、戦後再出発の仕切り役を自認していた近衛文麿が失脚するのである。11月9日には米側に尋問を受け、12月6日には戦犯容疑で逮捕命令が出される。どういうことか。一般の理解では、E.H.ノーマンがGHQ政治顧問のアチソンに提出したところの、近衛文麿を弾劾するレポートが決定的な役割を果たしたとされている。

しかし、どうやら、それとは別の陰謀工作が蠢いていて、近衛文麿が罠に嵌められた可能性が高い。

昭和天皇と木戸幸一は、側近を使って情報収集を重ねる中で、マッカーサーが昭和天皇に対して戦争責任を問う意思がないこと、むしろ何があっても昭和天皇の身柄を守り、その地位のまま利用する形で日本の占領政策を進めようとしている方針をハッキリと確認していた。となると、退位、退位と大声で騒ぎ、退位を既定路線化しようとしている近衛文麿は邪魔になる。戦前、国民に人気のあった近衛文麿は目立つ存在で、軍部(東条英機)と対立して失脚した経歴はこのとき勲章になっていた。

近衛文麿の思惑では、昭和天皇に退位させ、幼い少年の皇太子が成長して即位するまでの間、弟の高松宮を摂政に据える予定だった。その当事者の高松宮がこの退位論に色気を出して乗っかる態度を示し、当時、昭和天皇の戦争責任について歯に衣を着せぬ批判を漏らすという状況が生じていた。

ここで、退位を阻止せんとする木戸幸一と昭和天皇が巻き返しに出て、近衛文麿が呆気なく追い落とされるのである。

11月の政変。近衛文麿は、まさか自分が戦犯指定されるとは夢にも思っていない。このとき、彼ら軍国支配者たちの頭にあった「戦争犯罪人」の「戦争」の概念は、太平洋戦争(日米戦争)のことであり、真珠湾攻撃のことであり、中国との戦争(満州事変以降の15年戦争)は全く想定しておらず、そこにGHQによる戦犯追及が及ぶ展開は寝耳に水だったのだ。

吉田裕は明示的にそういう推論を述べているわけではないが、紙背を読めば、自然に支配層内部の凄絶な暗闘と角逐が浮かび上がる。極東委員会が立ち上がり、正式な裁判(極東軍事法廷)が動き出せば、中国に対する戦争犯罪の問題は必ず生じるもので、それをどう巧く処理し、ソ連や豪州など昭和天皇の戦争責任を厳しく問う意見を排除して丸め込むかは、マッカーサーの重要な政治課題であった。

そこで、スケープゴートにされる運命になったのが近衛文麿なのだ。近衛文麿は、戦争責任を軍部(東条英機)に押しつけ、昭和天皇を退位させ、戦争の始末をつけようと図ったが、皮肉なことに、近衛文麿が昭和天皇に身代わりにされて中国に対する戦争責任をとらされる羽目になった。

歴史のピエロというか、因果応報というか、哀れな最期に同情を禁じ得ない。きっと近衛文麿は「(昭和天皇に)嵌められた」と思っただろう。すべて昭和天皇の思惑どおりに転び、邪魔者が自分の代わりに罪を被って消えた。青酸カリを飲んだり、巣鴨で首を縛られたり、歴史の一寸の機微で、それは昭和天皇に及ぶ運命かもしれなかった。

近衛文麿が1945年の前半に終戦工作に奔走しなければ、木戸幸一と昭和天皇はなお「神風」の未練に妄執し、ポツダム宣言もどこ吹く風で本土決戦を選び、となると、躊躇する米軍を尻目に赤軍が北海道に侵入、蹂躙し、沿海州から渡海した80個師団が帝都に突撃していたかもしれない。米国単独の日本占領支配は大きく歯車が狂い、ニュルンベルク裁判と同じように、東京裁判もソ連が大きく口出しする構図になっていたことだろう。
http://critic20.exblog.jp/23972790/


32. 中川隆 2015年5月18日 09:46:11 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

東條英機元首相ら7人のA級戦犯の処刑 謎を解く米文書〈週刊朝日〉
週刊朝日  2015年5月22日号より抜粋


 67年前、東京裁判の末に処刑された7人のA級戦犯。家族にすら遺骨の引き渡しを拒んだ理由は何だったのか。そして今も国内外で論議を呼ぶ「A級戦犯」処刑の“謎”とは──。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が機密解除されたGHQ(連合国軍総司令部)文書で真相に迫る。

 答えはGHQ参謀二部(G2)の文書にあった。講和条約調印後、A級戦犯の遺骨返還の要請が来た。その時のG2会議録を見てみる。

「(遺骨返還は)以下の3点から極めて不適当である。a. 事実上、われわれの戦犯に対する長期的方針を逆転させてしまう。b. 急進的ナショナリズムの復活に格好の結集点と根拠を与える。c. 日本人の多くは東條(英機)や他の戦犯を英雄でなく背信者と見ており、われわれとの間に距離を生んでしまう。従ってこの要請には、遺骨は返還できないよう破棄されたと回答すべきである」(1951年11月29日、G2内部メモ)

 ここで重要なのは「戦犯に対する長期的方針」「背信者」という言葉だ。そもそも東京裁判はこれまで多くの批判に晒された。ポツダム宣言にない「平和に対する罪」で裁いたこと、不明確な被告人選定の基準は一方的な“勝者の裁き”と言われた。なぜGHQはそこまで無理をしたのか。

 敗戦直後、米国民の天皇への見方は厳しかった。真珠湾攻撃の記憶も生々しく天皇処刑の声すらあった程だ。だがGHQは天皇を裁かず円滑な占領に利用したかった。しかし開戦詔書が天皇の名で出た以上、理論武装が必要だ。そこで考えられたのが全責任を東條元首相らに押しつける戦略だった。それはマッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズが米内光政元首相に語った言葉で分かる。敗戦後、東京裁判対策に関わった元海軍大佐の豊田隈雄が紹介した。

「対策としては天皇が何等の罪のないことを日本人側から立証して呉れることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於いて東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。即ち東條に次のことを言はせて貰い度い。『開戦前の御前会議に於て仮令陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た』と」(『戦争裁判余録』)

 米内はこう応じた。

「全く同感です。東條(元首相)と嶋田(元海相)に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます」(同)

 これを裏付ける文書を米バージニア州のマッカーサー記念館が保管している。フェラーズの部下がマッカーサーに提出した覚書で、開戦詔書が作成された際、「(天皇への)詐欺、威嚇または強迫が行われていたと証明する事実を全て収集する」と勧告した。要は、天皇は東條に威嚇され詔書に署名した。自らの意志ではなかったと証明せよというアドバイスだった。

 その後、GHQの民間情報教育局(CIE)は軍国主義者の糾弾キャンペーンを始めた。国民は東條らに騙され無謀な戦争に導かれたと宣伝された。A級戦犯すなわち背信者のイメージが確立する。強引な裁判の裏には日米共通の思惑があり、遺骨返還はこの戦略を揺るがす恐れがあったのだった。

 6年8カ月続いた占領は、ある意味で大いなる矛盾の時代であった。日本の民主化を唱えつつ、GHQは絶対権力者として君臨した。国際正義の名で開いた東京裁判は“勝者の裁き”と呼ばれた。そしてカバーストーリー(真実を隠すための物語)が広がっていった。

 闇に消えたA級戦犯の遺骨、それはあの矛盾に満ちた時代の象徴だと言える。


33. 中川隆 2015年5月23日 08:42:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

東京大空襲はルメイと昭和天皇の共同作戦だった


最近、第2次世界大戦中の本土空襲に対する政府の対応について書かれた


検証 防空法:空襲下で禁じられた避難 単行本 – 2014/2/7
水島 朝穂 (著), 大前 治 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%A4%9C%E8%A8%BC-%E9%98%B2%E7%A9%BA%E6%B3%95-%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E4%B8%8B%E3%81%A7%E7%A6%81%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%BF%E9%9B%A3-%E6%B0%B4%E5%B3%B6-%E6%9C%9D%E7%A9%82/dp/4589035707

という本を読んだんですね。

戦前の政府は、対米戦が始まる前から本土空襲を想定して「防空法」という法律をつくるのですが、その基本精神は「国民は逃げてはいけない」ということなんです。

なぜかというと「初期消火が国民の義務」だからです。

政府は焼夷(しょうい)弾の威力をよくわかっていながら

「焼夷弾なんて怖くない。国民は逃げずに都市にとどまって、勇猛果敢に火と戦え」と。

学童疎開が行なわれましたが、それは若い命を救うためではなくて、あくまで「消火の足手まといになるから」というロジックでなされたのです。

しかも、

「すぐに飛び出して初期消火ができるように、防空壕(ごう)は家の床下に穴を掘って造るように」

としたのです。でも、家が空襲で燃えれば、防空壕に避難した人が蒸し焼きになって死んでしまうことなどわかるはず。戦前の政府は国民の命を守るのではなく、この「防空法」で彼らに逃げることを許さず、都市に人間を閉じ込めて蒸し焼きにしたのです。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150523-00048231-playboyz-pol

1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。

天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。

このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。

カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。 広島、長崎の原爆投下もルメイ戦略である.

それに対して天皇は、「勲一等旭日章受勲」で報いた.
http://anarchist.seesaa.net/article/35751184.html


34. 中川隆 2015年6月24日 18:05:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

沖縄基地問題の原点は昭和天皇だ 山崎行太郎「月刊日本」7月号

―― 本土に住む人たちの多くは、メディアの沖縄批判を疑問なく受け入れているように見えます。

山崎 それは本誌1月号でも述べたように、沖縄の歴史を知らないからです。沖縄はもともと琉球王国として独立国家を形成していました。しかし、彼らは琉球処分によって大日本帝国に組み込まれ、戦争末期には沖縄戦という凄惨な戦争を強いられました。もっと遡れば、薩摩藩による武力侵攻も経験しています。それ故、沖縄が本土に反発を覚えるのは当然のことです。

 またそれに加え、なぜ沖縄が戦後本土から切り離されてしまったのかということを知る必要があります。沖縄が本土から切り離されて米軍統治下に置かれたのは、サンフランシスコ講和条約によってです。これを締結したのは吉田茂です。

もっとも、吉田は最後まで講和会議に全権として参加することを固辞していました。この時、旧日米安保条約も同時に締結されることになっていましたが、その目的が米軍を占領期と同じように日本全土に自由に駐留させることにあったからです。

 もともと吉田にはこれほど不平等な条約を結ぶ気はありませんでした。ちょうどその頃朝鮮戦争が勃発したため、アメリカは戦略上どうしても在日米軍基地を必要としていました。吉田はその状況を利用し、基地提供を外交カードとすることでアメリカから譲歩を引き出そうとしていました。

 ところが、吉田は結局このカードを切ることなく、無条件的に基地を提供することをアメリカに約束してしまいました。それは何故か。そこには昭和天皇が大きく関わっていた可能性があります。

この点については、前関西学院大学教授の豊下楢彦氏が『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店)の中で、具体的な資料に基づき実証的に論じています。それによれば、昭和天皇はアメリカに文書を送り、在日米軍基地について「日本の側からの自発的なオファ」が必要である旨を述べています。「自発的なオファ」とはすなわち、日本側からお願いして米軍に駐留してもらうということです。

こうした昭和天皇の考えが、吉田の外交方針に大きな影響を与えた可能性があります。実際、吉田は日米交渉の節目節目で昭和天皇に内奏しており、あれほど嫌がっていた講和会議への参加を決めたのも昭和天皇に拝謁した後でした。

昭和天皇は沖縄についてもアメリカに自らの見解を伝えています。いわゆる「沖縄メッセージ」です。そこでは、米軍による沖縄占領が25年から50年、あるいはそれ以上継続されることを望む旨が述べられています。

私はこの昭和天皇の決断は、日本の共産化を防ぐための政治的リアリズムだったと考えています。当時の日本では共産革命が現実味を帯びていました。吉田のようにアメリカと駆け引きして米軍基地を減らしていれば、日本は今頃共産化していたかもしれません。

これは沖縄の人たちには受け入れられない理屈かもしれません。もとより昭和天皇も米軍に沖縄占領を許したことに強い責任を感じていたと思います。その思いは今上天皇に引き継がれています。それは今上天皇が何度も沖縄を訪れていることからも明らかです。


昭和天皇の沖縄メッセージは、共産革命が起こって日本が消滅するかもしれない、あるいは分裂するかもしれないという危機感を背景にしていたと思います。
http://www.asyura2.com/15/senkyo187/msg/352.html


35. 中川隆 2015年6月27日 17:12:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

東京を囲むように米軍基地がある。横須賀に海軍もある。

東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。


36. 中川隆 2015年7月10日 19:55:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


37. 中川隆 2015年7月19日 09:05:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

戦後、社会主義者・共産主義者などの左翼勢力が大きくなった。国会でも社会党や共産党が議席を大きく伸した。また既にソ連と米国を中心とした西側との間で冷戦が始まっていた。この冷戦構造は1951年のサンフランシスコ講和条約締結を巡って日本国内に対立を生んだ。単独講和を目指す政府・与党と全面講和を主張する社会党・共産党が鋭く対立した。

またこの頃にはソ連の対日工作が始まっていた(有名な工作員にはイワン・コワレンコ、ラストボロフや、後に米国に亡命したレフチェンコ)。この冷戦下で問題になったのが日本の再軍備である。ソ連や中国にシンパシーを感じる社会党などは、第9条を盾に自衛隊や日米安保に猛反発した。特に社会党は、ソ連軍の侵攻による日本の社会主義化を目論でいたため「非武装中立」と言うまやかしのスローガンを掲げた。


ちなみに1951年の講和条約締結と同時に日本は米国と日米安保条約を結んだ。

この条約締結の真相を言えば、これはわざわざ日本の方から米国に請うたものであった(外交交渉による取決めなので、国民向けには全く違った表現を使ったかもしれないが)。もし連合軍が占領終了と同時に撤退すれば、日本を防衛する術が全くなくなるからである。

安保条約で日本は米軍に基地を提供した。また今日こそ米軍基地は機能的に配置されているが、当時は日本全土にバラバラに在った。自衛隊が整備されるにつれて米軍基地も整理統合されて行った。

ところが左翼はこの安保条約を米国に強いられたものと事実と全く違う宣伝をずっとして来た。


ただこんな経緯があったためか、この最初の安保条約では米国が日本を守る義務はなかった。

しかし日本を守る義務がなくとも、日本国内に米軍が駐留していれば他国からの侵略は防げるという日本側の発想である。まさに駐留する米軍人は、日本にとっての人質の役目を果した。

ようやく60年の安保条約改定で米国が日本を守る義務を課した条項が追加されたのである。しかしこれも日本が米国を助ける必要のない片務条約であった。
http://www.adpweb.com/eco/


38. 中川隆 2015年7月20日 10:22:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

いまさら「日米安保体制を望んだ昭和天皇」を強調する産経新聞


きのう7月19日の産経新聞が国民必読の大スクープ記事を掲載した。

 その記事の要旨は、鈴木九萬という外交官の日記の発見によって証明された、戦後の日米安保体制構築に及ぼした昭和天皇の強い影響力だ

 遺族や親族のもとに保管されていた鈴木氏の日記から分かった事は何か。

 それは「戦力を保持しない日本の安全保障は駐留米軍に委ねるべきであると最初に打ち出した」いわゆる芦田メモが米国にわたっていた事がこの日記で明らかにされたことだ。

 なぜ、このことが重要なのか。

 芦田外相の下で作られたこの芦田メモは、1947年9月につくられ、戦後の日米安保体制の原型とされている。

 すなわち、独立後の日本の安全保障は米国との特別二国間協定より米国に委ね、日本の基地を米軍に提供するのが「最良の手段」と位置付けたメモだ。

 このメモが当時終戦連絡横浜事務局長であった鈴木氏からアイケルバーガー米陸軍中将(マッカーサーにつぐ占領軍ナンバー2)に私信として手渡されていたことはわかっていたが、それが米国政府にどう活用されていたかはこれまで確認されず、研究者の間でも米国政府要人には見せなかったのではないかという見方が定説だったという。

 ところが鈴木日記でマイケルバーガー中将が、「自分は日本の将来の安全保障を扱ったその文書を大いに活用した」と述べ、アイゼンハワー参謀総長(のち米国大統領)らに伝えていた可能性があることがわかったというのだ。

 そして産経新聞のその記事は次のように続ける。

 昭和天皇はマッカーサーとの会見で、駐留米軍で日本を共産主義から守ってくれと頼み、戦力の不保持を謳った憲法9条と国連が日本を守るのだと逆にマッカーサーから諭されたと言われている。

 その昭和天皇は、米国が沖縄および他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望し、そのことが米国の利益になり、日本を保護することになる、という考えを示した(いわゆる天皇メッセージ)

 アイケルバーガー中将は、共産主義勢力に対する日本の治安維持能力に危機感を抱き、マッカーサー元帥の安保構想に批判的だった。

 そのアイケルバーガーが1948年7月に離任・帰国する際、戦後初の外国人の賓客として昭和天皇に皇居で午餐に招待されている.

 この昭和天皇の安全保障観は、豊下楢彦教授の名著「日米安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)で書かれた吉田茂の天皇外交への恭順と見事に照合する。

 吉田茂もまた芦田と同じく外務官僚だった。

 もういいだろう。

 この産経新聞の大スクープ記事がいわんとするところは、戦後の日本の安全保障体制は昭和天皇と外務官僚によってつくられ、米国にそれを要望してできた国策であるという事だ。

 なぜ産経新聞はこのタイミングでこのようなスクープ記事を大きく掲載したのか。

 それは安倍首相の掲げる日米同盟強化も、集団的自衛権行使容認も、安保法制案の採決も、昭和天皇の外交以来の国策であるということだ。

 それに反する者は国賊であるといわんばかりなのだ。

 しかし、時代は変わった。

 昭和天皇から明仁天皇の時代となり、国民の意識も、国際情勢も、米国の影響力も、なにもかも大きく変わった。

 いまこそ日本の安全保障政策も、歴史の大きな流れを読み間違えることなく、正しく変わらなければいけない時である(了)
http://new-party-9.net/archives/2236


39. 中川隆 2015年7月23日 07:10:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

【戦後70年】日米安保『原型』芦田メモ 「米本国要人へ伝達」の証言記録 定説覆す可能性
2015.7.19 05:00 産経新聞


 戦力を保持しない日本の安全保障は駐留米軍に委ねるべきだと戦後の日本政府が最初に打ち出したのが、占領期の昭和22年9月、芦田均外相下の外務省で作成された「芦田メモ」だ。日米安全保障体制の「原型」と評価されながら、メモは米国政府に届けられなかったという説が有力だったが、占領軍ナンバー2のロバート・アイケルバーガー米陸軍中将を通じ、対日占領政策決定機関の極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたという証言が、メモを中将に手渡した終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬(ただかつ)氏の日記に記録されていた。(渡辺浩生)

 芦田メモは、占領軍でマッカーサー元帥に次ぐ地位にあった米第8軍(本拠・横浜)司令官のアイケルバーガー中将が、鈴木氏に占領軍撤退後の日本の防衛について見解を求めたのをきっかけに、外務省幹部が作成。芦田外相が決裁した。

 米ソ関係が改善されない場合、再独立後の日本の安全保障は2国間の特別協定により米国に委ね、日本の独立が脅威にさらされた際には、米軍に国内の基地を提供するのが「最良の手段」と位置づけた。

 22年9月、一時帰国する中将に対し、鈴木氏から私信として手渡されたが、メモが米本国でどのように活用されたかは、従来の公開資料でも不明で、研究者の間では「(中将は)自らの参考にするだけにとどめ、アメリカ政府の要人には見せなかったようである」(坂元一哉氏「日米同盟の絆−安保条約と相互性の模索」)という見方が定説となっていた。

 遺族や親族の元に保管されていた鈴木氏の日記(大学ノートに英文で記載)には、翌23年7月下旬、中将と面会した際、前年9月に手渡した芦田メモに対する米国内の反応を尋ねた会話が記録されていた。

 中将は、「自分は日本の将来の安全保障を扱ったその文書を大いに活用した」とし、「大勢の著名人が読んだ。例えば極東委員会委員長の(フランク・)マッコイ少将だ」と答えた。

 極東委員会は占領政策の最高政策決定機関としてワシントンに置かれ、米英中ソのほか仏豪蘭比印など11カ国で構成され、マッコイ氏は委員長と米国代表を兼務していた。

 実際、すでに公開されているアイケルバーガー中将の日記によると、中将は一時帰国中の22年10月にワシントンでマッコイ氏と会見。アイゼンハワー参謀総長やロイヤル陸軍長官ら陸軍首脳、グルー元駐日大使とも面会していた。こうした要人らにメモが閲覧されていた可能性が出てきた。

 講和後の安保問題の検討は吉田茂政権に引き継がれ、25年、日本国内の基地を米軍に提供する意向が米側に正式に示され、26年1月の講和交渉と同9月の日米安全保障条約締結に至ったが、吉田氏は自著で芦田メモを「日米安全保障体制の基本をなす考え方と全く同一のものであった」(「回想十年」第3巻)と評価していた。

           ◇

■昭和天皇にメモ報告

 日米安全保障条約の「原型」とされ、占領軍ナンバー2のアイケルバーガー中将を通じて昭和22年秋、極東委員会トップら米本国の要人に伝達されていたことが明らかになった「芦田メモ」。パイプ役を務めた終戦連絡横浜事務局長、鈴木九萬氏の日記によると、昭和天皇もメモの行方について報告を受けていた。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が日本の「非武装中立」を提唱する中、再独立後の日本の安全保障に天皇が寄せられた深い憂慮を改めて裏付けている。

 昭和22年3月、マッカーサー元帥は早期講和を提唱し、憲法9条で戦力の保持を禁じられた日本の再独立後の安全保障は、国連に委ねるべきだとの考えを表明した。元帥の構想は米ソの協調維持を念頭に置いたものだった。

 外務省は水面下で対応策の検討に着手。9月に芦田均外相の決裁で作成された芦田メモは連合国軍総司令部(GHQ)を介さず、鈴木氏を通じて一時帰国するアイケルバーガー中将に私信として託す手法がとられたが、米ソ関係悪化を予測して、駐留米軍による防衛という選択肢を日本自ら示す初めての文書となった。

■講和後の安保体制にご関心

 この時期、昭和天皇の最大のご関心も、講和後の日本の安保体制の行方にあった。22年5月のマッカーサー元帥との会見で、「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其ノイニシアチブヲ執ルコトヲ要スルノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」と懇願された(児島襄「日本占領第3巻」)。

 「芦田メモ」が作成された同じ同年9月には、寺崎英成・御用掛(天皇の通訳)がGHQのシーボルト外交局長を訪ね、天皇の「沖縄メッセージ」を伝えている。「米国が沖縄および他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益になり、日本を保護することになるとの考え」を示したもので、同局長から米国務省にも報告された(「昭和天皇実録」)。日本の安全保障を確保する手段として沖縄への米軍の長期駐留の意向を天皇自ら示されたものとされている。

 天皇は翌23年7月には、離任・帰国するアイケルバーガー夫妻を、戦後初の外国人の賓客として皇居での午餐(ごさん)に招待された。

■中将は日本の治安維持に危機感

 一時はマッカーサー元帥の後任に目されたアイケルバーガー中将は、共産主義勢力に対する日本の治安維持能力に危機感を抱き、元帥の安保構想にも批判的だった。中将に「敬意を表し最善を尽くした」(鈴木氏)天皇のもてなしは、帰国後の協力を期待された“宮廷外交”ともいえる。

 鈴木日記によれば、7月19日の午餐での天皇のお言葉は、戦前に御用掛として天皇に仕えた鈴木氏の助言で起草され、「思いやりと理解ある占領政策の指揮」への感謝と、「帰国後も日本の将来に関心を持ち続けてほしい」という要望を伝えられた、という。

 鈴木氏はその5日後の24日、葉山御用邸を訪れ、約20分間拝謁。「陛下のご希望をかなえるよう最善を尽くすことを約束する」という中将のメッセージを伝えるとともに、「私が書いた昨年9月の機密文書と今用意している新しい機密文書についてご報告申し上げた」とある。

 「昨年9月の機密文書」とは、鈴木氏が22年9月に中将に託した芦田メモを指す。鈴木氏はこの拝謁の3日前に中将から、「メモが極東委員会委員長のマッコイら米本国要人に読まれていた」という証言を聞き出していたので、おそらく天皇に報告したであろう。

 「新しい機密文書」とは、中将の要望により鈴木氏が新たに作成したメモで、米ソ関係の悪化により、芦田メモで示したシナリオ通りに事態は向かっている−と分析。離日前の中将に手渡された。

 「米国民が戦後の日本に対して一層理解を深めるよう中将の取り計らいを希望する」。天皇が鈴木氏に託したお言葉である。天皇は芦田メモの成り行きを通じて、安保構想をめぐる最新の検討状況を把握されていたといえる。

 中将は帰国後、陸軍省顧問に就任。「反共のとりで」の日本は米国の安全保障と不可分だとして再武装などを意見具申し続けた。

           ◇

 ■現代史家・秦郁彦氏の談話「曲折たどり日米安保条約に」

 昭和天皇はマッカーサー元帥との間で対等に近いトップ会談を続けた。一番重要な問題は日本の安全保障だったが、元帥は最初は国際連合に依存すれば大丈夫だと考えた。米ソ冷戦が厳しくなっても、憲法第9条を事実上作ったのは自分だから、再武装にも終始消極的。だから、天皇には元帥との信頼関係を保持しながらも、米国側の中にチャンネルを複数持ちたい、という戦略があったと思う。

 そのひとつにアイケルバーガー中将が選ばれたのではないか。午餐も、儀礼的な要素をひっくるめて、天皇が大切に思っていますよという意思表示ができれば十分だったと思う。

 沖縄を再開発し空から日本を守ってもらうという発想も、米本国にアピールするのが一番良いと、寺崎英成・御用掛を使って国務省の出先であるシーボルトGHQ外交局長に届けさせた。天皇の頭の中では、この「沖縄メッセージ」と「芦田メモ」はセットだった。外務省の正規ルート以外にいくつかのルートを設定し全体をみながら調整することを、自らおやりになったのだと思う。

 芦田メモの存在は随分前から知られていたが、それが米国内でどういう形で議論され、回覧されたかはずっと不明だった。その点は今回裏がとれた。米国では『日本は東洋のスイスたれ』という元帥と本国との間に意見の乖離(かいり)があったが、客観的に見てメモが示した選択肢以外方法はなく、紆余(うよ)曲折をたどりながら日米安全保障条約につながっていく。

               ◇

 芦田メモ 芦田均外相(片山哲内閣)下の外務省幹部が昭和22年9月13日付で作成。米ソ関係が良好となった場合、日本の安全は国連が担うとし、米ソ関係が改善されない場合(1)平和条約の実行監視に関連して日本国内に駐留する米軍が安全保障機能を担う(2)日米間で特別協定を結び、平時は沖縄や小笠原諸島を念頭に日本本土の周辺に展開する米軍の抑止力に期待して、独立が脅威にさらされる有事には米軍が日本国内に進駐して軍事基地を使用できるよう取り決める−との選択肢を提示。(2)が日本の安全保障の「最良の手段」とした。

 鈴木九萬 明治28年茨城県生まれ。東大法学部卒。大正10年外務省入省。昭和12年宮内省御用掛(昭和天皇の通訳)。15年駐エジプト公使。日米開戦で9カ月の抑留生活を送り、17年交換船で帰国。20〜27年終戦連絡横浜事務局長。第8軍司令官、アイケルバーガー中将との間で築いた緊密な関係は、GHQを介さない対米チャンネルとして活用された。駐豪大使、駐伊大使を歴任し36年退官。62年死去。

 ロバート・アイケルバーガー(1886〜1961年) 1942(昭和17)年以降、米陸軍第1軍団司令官、第8軍司令官としてニューギニアなど南西太平洋諸島、フィリピンでの対日戦を指揮。45年8月横浜に進駐し、本土の各地に展開した占領軍を指揮した。48年離任。49〜50年ヴォルヒーズ陸軍次官の対日顧問。54年大将に昇任。
http://www.sankei.com/life/news/150719/lif1507190017-n1.html


40. 中川隆 2015年8月02日 22:09:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs


戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国


時事通信 8月2日(日)15時29分配信


 日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。

 蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。

 時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。

 国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。

 これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。

 蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。

 最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
 蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。


41. 中川隆 2015年8月04日 09:15:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える (集英社新書) – 2015/6/17
高橋 哲哉 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0-%E2%94%80%E3%80%8C%E7%9C%8C%E5%A4%96%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%93%B2%E5%93%89/dp/4087207900


―本書でもうひとつ、非常に重要な意味を持つのが「天皇メッセージ」に関する部分です。

敗戦直後の1947年、昭和天皇がアメリカに対して沖縄の軍事占領を希望するというメッセージを送っていたものですね。

高橋 当時はすでに今の日本国憲法が施行されていますから、本来ならば天皇は政治的な権能を持っていませんでした。それにもかかわらず、昭和天皇は占領軍に対して、当時の吉田政権の頭越しに自らのメッセージを発しています。その内容は


「日本国天皇は沖縄に対する米国の軍事占領が25年ないし50年あるいはそれ以上にわたって続くことを希望する。それが日本の防衛に役立ち、かつアメリカの利益になるだろう」

というものです。


この極秘文書は1979年に筑波大学の進藤榮一さんが発見したのですが、いまだにその存在があまり広くは知られてないと思います。日本のメディアがこれを大々的に報道するのを自粛しているように感じます。

実際に、日本政府はその後の主権回復と引き換えに沖縄を米軍支配下に譲り渡し、本土復帰を経ても、米軍が沖縄を占領しているような状態が今も続いている。あたかも日本政府は、70年近く前に昭和天皇が希望したように振る舞い、戦後の歴史が展開してきているわけです。
http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/113.html


42. 中川隆 2015年8月08日 05:59:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

1. 2015年8月08日 05:53:58 : v1gbxz7HNs

・最初から過剰労働力の削減、人口調整、資産の強奪が目的だとしたら、戦時中に実施された説明のつかない不合理が全て説明がつくんだ。

・これまでは戦争の狂気で説明していたが、それはつまり合理的な説明がつかないと認めているようなものだ。

・国民から宝石貴金属を買い上げる。財源は紙幣。その紙幣は戦時国債で回収する。少国民用戦時国債で子供の小遣いすら吸い上げた。そして国債は敗戦で紙くずになり、償還する必要がない。現物以外のペーパーは、消えてなくなるんだよ。最後に現物を持っていた者の勝ちというマネーゲームだ。

・国だけでなく財閥をはじめとした有力者は銀行からカネを貸りて国内の資産を買い進めた。買った資産を担保にカネを借り、また買い集める。しかしこのくりかえしで積み上げた膨大な債務は、敗戦によるハイパーインフレで消えて無くなった。

・潜水艦の待つバシー海峡に何十万もの兵を生け贄として黙々と送り込んだ理由、玉砕命令を出し、特攻という無意味な自殺を強いた理由は、血の気が多く行動力を持つ者を処分する必要があったからだ。

・政権への不満と行動力が結びつくとクーデターの危険がある。

また敗戦後、それらの軍人上がりは社会的な不安定を招きかねない。

・だいたい内地だけでは急膨張した1億人を食わせる方法がなかったので、どうしても整理する必要がある。だから敗戦までにできるかぎり多くの国民を殺しておく必要があった。

・国民から命と資産を奪う口実として、戦争というのはとても好都合である。
ほとんどそのためにあると言っても過言ではない。

・行き詰まった時の戦争は、勝てばチャラに、負けてもチャラにできる魔法の策だ。
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/761.html#c1


43. 中川隆 2015年8月09日 11:43:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
昭和天皇がここまで政治・外交に関与していたとは衝撃的だー(天木直人氏)
8th Aug 2015 市村 悦延 · @hellotomhanks


これも私が知って驚いた歴史の一断面だ。

昭和天皇が安保条約成立の過程でマッカーサーと何度も二人だけの会談を重ね、吉田外交を出し抜いて天皇外交をしていたことは、

豊下楢彦教授の名著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E6%9D%A1%E7%B4%84%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E2%80%95%E5%90%89%E7%94%B0%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%96%E4%BA%A4-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%B1%8A%E4%B8%8B-%E6%A5%A2%E5%BD%A6/dp/4004304784


で知った。

 新しい日本国憲法ができて象徴天皇として政治にかかわらないことになった後も、かくも重要な外交に繰り返し携わっていたことは驚くばかりだ。

 そう思っていたら、もっと衝撃的なスクープ報道が7月31日の東京新聞に掲載された(北京発時事)

 すなわち、秘密指定解除された米国務省の外交文書によれば、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に対し、国連代表権問題で、「日本政府がしっかりと蒋介石(台湾)を支持する」ように促していたというのだ。

 いうまでもなく日本は米国と一緒になって二つの中国を推進したが、最後は国連総会決議に従って中国を唯一の代表と認めることになる。

 占領時代ならまだわかる。

 しかし、1970年代にもなっているのに、昭和天皇はここまで外交に関与していたのだ。

 あたかも昭和天皇は新憲法によって象徴天皇になったことを認識していないかのごとくだ。

 そして、とどめを刺したのが、発売中の週刊新潮夏季特大号(8月13・20日号)における「特別読物」

「英国情報工作員とも引見した『昭和天皇』復興のインテリジェンス」

に書かれていた、昭和天皇の八面六臂ぶりである。

 ジャーナリスト徳本栄一郎氏の手になるその記事は、昭和天皇が国際情勢に非常な関心を抱き、ローマ法王から海外のインテリジェンスに至るまで、幅広く接触して情報収集に努めていた史実を教えてくれている。

 我々は昭和天皇のこの行動と、それを容認していた政府、宮内庁をどう考えたらいいのだろうか。

 憲法99条は天皇を含めたこの国の指導者たちに憲法遵守義務を課しているのではなかったか。

 知らされていない史実はあまりにも多いに違いない。
http://www.twitlonger.com/show/n_1sn7qi0


44. 2015年8月10日 06:53:28 : b5JdkWvGxs


昭和天皇は戦争を選んだ! 2015/6/15 増田都子 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%EF%BC%81-%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%83%BD%E5%AD%90/dp/4907127146


目次

はじめに
1 育鵬社教科書、発行の経緯
2 育鵬社歴史教科書の昭和天皇記述を見てみよう

第一部 満州事変・日中戦争と天皇
第1章 満州事変と天皇
1 大日本帝国は不戦条約を最初に破った国となった
2 天皇は、皇軍の独断越境を許した
3 天皇は、謀略と知りながら、満州侵略軍におほめの勅語を与えた

第2章 日中戦争と天皇
1 五・一五事件と二・二六事件に対する天皇の態度の違いは?
2 天皇は、日中戦争拡大派だった
3 天皇の直接統帥命令である軍令で、大本営が設置された
4 「天皇は国策決定の御前会議では発言しない」というカラクリ
5 天皇は、板垣陸軍大臣に「朕の命令なく一兵も動かすな」と命令した

第ニ部 太平洋戦争と天皇
第1章 開戦決定と天皇
1 天皇が言う「八紘一宇の真精神」とは?
2 天皇の「八紘一宇の真精神」と「平和主義」
3 天皇の裁可により、日本軍は対米戦へのルビコン川を渡った
4 天皇は、対米戦に直結する南進作戦計画作成を命じた
5 天皇は、火事場泥棒を裁可した
5 天皇は、まだ対英米戦の決意はできなかった
6 天皇は平和主義者だったから、明治天皇御製を読み上げたのか
7 天皇は、対米戦を避け得る道を拒否した
8 大日本帝国憲法は立憲君主制か
9 「白紙還元の御諚」は、天皇の平和主義を証明するか
10 天皇は、対英米開戦の「要領」を納得して裁可していた
11 念には念を入れた天皇の「聖断」で開戦が決定された
12 天皇は、九月六日の御前会議で示した態度の理由を語っていた
13 天皇は、「自分の考えと異なる」ことのない開戦実行に満足していた
14 敗戦後の天皇の「開戦時」に関する発言を確認しよう

第2章 開戦後の天皇
1 天皇は、緒戦の勝利に舞い上がった
2 軍は国民も天皇も、欺していたか
3 天皇は、焦って軍に決戦を要求した
4 支配層の一部は一九四四年から「終戦」を考えたが、天皇は考えなかった
5 天皇は、近衛の早期降伏論も拒否した
6 天皇は、東京大空襲を受けても降伏を考えなかった
7 天皇は、一九四五年五月ころから、やっと終戦を考えるようになった
8 近衛の和平交渉条件には何が書いてあったか

第3章 敗戦と天皇
1 天皇は、原爆が投下されても降伏を考えなかった
2 天皇は、国民を救うために「降伏」を決意したのか         
3 天皇は、八月十五日から「朕の一身は如何あろうとも、国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」か
   ら終戦にしたと大宣伝した
4 天皇は、「鬼畜米英」のマッカーサーに、協力を申し出た
5 天皇は、真珠湾奇襲の責任を東条に押し付けた
6 天皇は、マッカーサーとの第一回会見時、「全責任を負う」と発言したか
7 天皇は、食糧等の「配給量を一般国民と同じにし、粗末な食事をとっていた」か

第三部 日本国憲法制定後の天皇
第1章 天皇と日本国憲法
2 天皇の戦争責任免罪のため、日本政府は嘘で固めて敗戦後を出発した
3 天皇は共産党が嫌いだが、右翼は気に入っていた
4 天皇バンザイ教カルト信者は、平然と真っ赤な嘘を公表した
5 天皇は、アメリカの占領統治に役立つ協力者として免罪された
6 憲法第一条と第九条は天皇制を守るためのワンセット
7 昭和天皇は、いやいや、日本国憲法を受け入れた
8 昭和天皇は、戦争責任を認めず、退位を拒否した
9 東京裁判は、天皇免罪が大きなテーマだった

第2章 日本国憲法下の天皇と沖縄・安保条約
1 天皇は、ストを行う国民を憎悪した
2 天皇は、日本国憲法施行と同時に憲法を蹂躙する政治干渉を開始した
3 天皇は、沖縄を売った
4 天皇は、マッカーサーの袖にすがって退位を免れた
5 天皇は、側近だった木戸の退位進言を拒否した
6 天皇は、政府の頭越しに日本国の主権も売り渡した
7 天皇は、主権を売り渡した安保条約成立を慶賀した
8 宮内庁(天皇)は、『風流夢譚』事件のテロを助長した
9 天皇は、ずっと日本国憲法ではなく、大日本帝国憲法を守っていた!?
10 天皇は、自分の戦争責任を暴露する高松宮に激怒した
11 天皇は、初訪米で謝罪したかのような発言をしたが、日本国内向けは違っていた
12 『裸の王様』の死後も、明仁天皇と政府は虚飾の衣装を賛美し続ける

おわりに
1 敗戦後五〇年、昭和天皇死去から六年後、初めて日本政府は「侵略と植民地支配の過去」を認めたが…
2 敗戦後七〇年、歴史の歯車を逆回転させる、戦争する憲法を作っていいか


45. 中川隆 2015年8月12日 09:43:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す−日米文書で判明
2015/07/30

 蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。

「中国観」明確に示した天皇=佐藤首相、発言を利用か−「内奏」重く受け止め


 この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は71年10月、毛沢東主席の中華人民共和国(中国)政府に移った。

台湾の蒋介石総統

 こうした経緯は、国連の中国代表権問題を詳しく検証した井上正也・成蹊大学法学部准教授(日本外交史)の研究で明らかになっている。「二つの中国」で揺れ動いた戦後70年の日中関係をめぐる「秘密折衝」の一幕が浮かび上がったが、井上氏は「蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか」と解説する。

 米外交文書によると、71年6月2日にマイヤー大使と会談した佐藤首相は「天皇は建前上、政治問題に関心を持たないのだが、(蒋介石)総統が過去において日本のために多くのことをやってくれたと述べた」とした上で、天皇による「蒋介石支持」の意向を大使に伝えた。日本側外交文書はこれほど明確ではないが、佐藤首相が大使に天皇の「心配」を伝え、「日本政府としては蒋介石総統に対する信義の問題ということもあり、本問題については慎重検討中である」と説明。「まず台湾の国連における議席を確保する要がある」と訴えた。

 一方、秘密指定が解除された「佐藤首相・マイヤー大使会談」記録を保管する日本外務省の外交史料館(東京)では、「実は先刻陛下に御報告の際、通常陛下は政治問題には直接関与されないことになっているが、特にこの問題については心配しておられた」という佐藤首相の発言を黒塗りにして公開された。外務省は、天皇の政治関与発言が公になることに神経をとがらせているとみられる。

 97年に発行された「佐藤栄作日記」によると、佐藤首相はマイヤー大使との会談に先立ち、宮中に参内し、「中国台湾問題」を奏上したと記している。

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「中国観」明確に示した天皇=佐藤首相、発言を利用か−「内奏」重く受け止め
2015/07/30


 昭和天皇は戦後も、首相や閣僚と個別に会い、所管事項について口頭で報告を受ける「内奏」を通じて国政に関して意見交換し、歴代首相らは天皇の発言を重く受け止めてきた。

史料や日記などの公開で天皇の政治的発言が公になることはあった。ただ国連中国代表権問題が佳境を迎えた1971年、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に「蒋介石支持」を促し、佐藤氏がそれを米大使に伝えていたことについて、成蹊大学法学部の井上正也准教授(日本外交史)は「外交問題で昭和天皇が明確な姿勢を示した記録は珍しい」と解説する。

昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す−日米文書で判明


 日本国憲法は第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と明記している。しかし「内奏」に関する著書がある愛知学院大学文学部の後藤致人教授(日本近現代史)は「戦後になっても天皇は立憲君主意識を持ち続け、外交に関しても首相に御下問を通じて意見表明した」と語る。

 「昭和天皇」の著作がある日本大学文理学部の古川隆久教授(日本近現代史)は「内奏の際に昭和天皇が要望や希望という形で意見を述べること自体は珍しくない。普通はこれを口外せず、もしその政治家が天皇の意見を正当だと認め、自分の意見として表明し、実行に努めるという形であれば問題にならないが、内奏者が口外すれば政治的利用ということになる」と説明する。

 内奏が政治問題として表面化したのは、73年に当時の増原恵吉防衛庁長官が、内奏後の記者会見で

「国の守りは大事なので旧軍の悪いことはまねせず、いいところを取り入れてしっかりやってほしい」という昭和天皇の発言を紹介し、「国会での防衛二法の審議を前に勇気づけられました」と述べた問題だ。

「天皇の政治利用」と批判され、増原氏は辞任に追い込まれた。

 71年6月に佐藤首相は米国のマイヤー駐日大使に、「蒋介石への支持」を促した昭和天皇の発言を伝達したが、それに先立つ1月にも中国問題を天皇に内奏。佐藤首相はその日の「日記」に「陛下の御心配は台湾の処遇にある様子」と記している。後藤氏は「佐藤首相は戦後歴代首相の中でも特に天皇に畏敬の念を抱いてきた」とした上で「保守政治家にとって昭和天皇の言葉は重く、政策意思決定に無関係であったとは思わない」と解説する。

 日本の外交文書によると、国連代表権問題で米国以上に中華民国(台湾)の議席確保にこだわった佐藤首相は、マイヤー大使に「日米は相互に協力して打つべき手を打っていかなくてはならない」と訴えた。しかし、その4カ月後の71年10月に台湾は代表権を失う。

 古川氏は「佐藤が天皇の発言を利用しようとした意味は、万が一(発言が)漏れれば政権や皇室を揺るがす可能性さえある危険なことをしてしまうほど、台湾支持政策が正統性を失いつつあったことの一つの証拠ではないか」との見方を示した。(北京時事)


46. 2015年8月28日 19:46:09 : b5JdkWvGxs

第2次大戦中に日本が中国から略奪・・文化財10万点、金6000トン―中国紙2015年08月28日
http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/427318/


27日付の中国紙・広州日報は、第2次大戦中、アジア各地で略奪を繰り返した日本は、中国から金6000トンを奪い取ったと報じた。

この他にも東南アジアから金1万トン、中国の貴重な文化財を約10万点も奪い去ったとして、記事は「アジアから奪った財産が日本の戦後復興の基盤となり、アジア各国は日本に略奪されたせいで貧困に陥った」と指摘。当時、中国での略奪に関与した人物も「日本は卑劣な手段で中国の財産を略奪した。埋葬された死者が身に着けていた金のネックレスまで見逃さなかった」と語った。

抗戦勝利70周年を迎えた今年、日本の各博物館では70年前の侵略戦争中に略奪された中国の財宝が数多く展示されている。上野公園の東京国立博物館東洋館にも、例えば紀元前5世紀の獅子や大鉄鍋、南宋官窯の「青磁j形瓶」など、当時略奪された文化財が日本の「重要文化財」として展示されている、と記事は指摘した。

(編集翻訳 小豆沢紀子)


47. 中川隆 2015年8月29日 18:15:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

・2. 2015年8月29日 01:33:06 : kKN4p9I90A

・「かつて 北京の紫禁城に 蓄えられていた 金銀財宝は現在 ロンドンのバッキンガム宮殿に 移されている」

・こんな情報がネット上で 話されています。

・実は これに 日本軍が重要な役割を演じた。

・[天皇の金塊]とは [女王陛下に捧げる金塊]でも有った訳です。

・第2次世界大戦とは 壮大な茶番劇。

・大英帝国と大日本帝国は 闇の権力組織の中で同盟国だった。

・それどころか 参戦国全ての権力層はグルで,勿論 中国側にも その恩恵にあずかった特権階級は存在していた。

・結局 大衆を 欺き通し 愛国心を 惹起し 思うがままの 偽歴史を演出した。

・戦後 サンフランシスコ講和条約で 米国と日本は 同盟国となる。

・表向きは 軍事同盟の体裁をとりながらも, 本質は[天皇の金塊]を 米国の権力組織が管理し, 日本側で必要性が生じたとき, それを使う という密約だった。

・マーシャル・プランも 資金は ここから捻出されている。
・別に 米国民の税金が使われたわけではない。
・更に中国共産党にも 大量の金塊が提供されている。

・米国議会で 予算の承認など得られはずのない極秘裏の戦争資金もここから提供されている。

・こんなトップ・シークレットを証言したのはスペイン人で枢軸国側の超大物スパイだったベラスコ氏。

・バチカンの庇護のもと活動し 2003年に他界している。

・世界史の裏側つまりは[真実の歴史]を 自らの眼と耳で 体験してきた男が事も有ろうに 日本人のジャーナリスト高橋五郎氏を「我が息子」と呼び,その 一部始終を 明かしてしまったのです。

後世の歴史家は この奇跡に こう叫ぶでしょう。
Oh! May God.

・[参考]ベラスコの告白 / 高橋五郎
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc101.html


3. 2015年8月29日 04:12:51 : OPBsOLn0CE

2さん
その通りですね。
仏教僧侶が下見に行き協力・・・
という話は聞いたことがありますね。

金の仏像などは溶かしてインゴットに化けて日本に運ばれたという話です。

アジア中の十数カ国より略奪。
指揮は天皇家。昭和天皇の弟。
朝香宮も加わっている。

これが大戦の一義的な目的でした。

金(ゴールド)の略奪。

下級の軍人が戦争を勝手に始めて云々の、戦後の嘘歴史プロパガンダに騙されてはいけません。

同じ軍人でも皇族軍人、天皇家軍人といますので。
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/787.html#c2


48. 中川隆 2015年11月06日 08:44:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

米、在沖海兵隊撤退を検討 復帰直後 機密文書明記 日本が残留望む

琉球新報 11月6日(金)5時5分配信


1973〜76年に米政府がテニアンに米軍基地を整備することを検討していた計画案の文書


 米国家安全保障会議(NSC)が1973〜76年に、72年の沖縄復帰を契機とした政治的圧力で在沖米海兵隊を撤退する事態を想定し、海兵遠征軍をテニアンに移転する案を検討していたことが、機密指定を解除された米公文書などで分かった。

遠征軍は米本国以外で唯一沖縄に拠点を置く海兵隊の最大編成単位。米海兵隊は普天間飛行場などを運用しているが、当時米側はその「本体」である海兵遠征軍ごと沖縄から撤退し、テニアンに移転することを想定していた。文書はテニアンに滑走路や港湾などを備えた複合基地を整備する必要性に触れ、同基地は

「返還に向けて沖縄の戦略部隊や活動を移転できる」

とした上で、対応可能な部隊として「最大で遠征軍規模の海兵隊」と挙げている。日米両政府が沖縄を海兵隊の駐留拠点にする理由として説明する「地理的優位性」の根拠が一層乏しくなった形だ。

 米軍統合参謀本部史によると、73年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退させる案が米政府で検討され、国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建設に言及しているが、計画は74年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し、日本側が海兵隊を引き留めたこともあらためて明らかになった。

 文書は野添文彬・沖国大講師が米ミシガン州のフォード大統領図書館で入手した。野添氏は統合参謀本部史でも詳細を確認した。

 フォード図書館所蔵の文書はNSCが73〜76年に作成した「ミクロネシア研究」つづりに含まれている。海外の基地は「受け入れ国からの政治的圧力に対して脆弱(ぜいじゃく)だ」と分析し、米領内での基地運用を増やす利点に触れている。

 一方、米軍統合参謀本部史(73〜76年)は、ニクソン政権が73年2月の通達に基づき太平洋の兵力を再検討、在沖海兵隊と在韓米陸軍の撤退を含む4案を議論したと記している。

国務省は77〜78年度にかけ最大の削減案を支持、軍部は最少の削減を主張した。73年8月、大統領は「現状維持」を選んだ。統合参謀本部史は「沖縄返還で当初予想された部隊移転を強いられることにはならなかった」と振り返っている。(島袋良太)


49. 2016年3月06日 07:09:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1765]


2016年01月17日22:03

カテゴリ本

カトリック教徒になろうとした昭和天皇

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)
昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


50. 中川隆[2199] koaQ7Jey 2016年4月02日 09:11:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2194]

戦後日本の「安保」はこうして作られた 〜アメリカ・昭和天皇・吉田茂 「戦後レジームの正体」

「日米安保条約は、憲法と同じように、アメリカ側が強要ともいえるかたちで日本に求めた」

「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」

占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけた。


憲法は、GHQがいわば密室作業でつくり上げたのだが、日米安保条約が、アメリカの強要によるとはどういうことなのか。あらためて日米安保条約が結ばれる経緯をたどってみることにする。


■踏みにじられた正論


1950年、朝鮮戦争が勃発する直前に、国務省の顧問だったダレスが日本にやって来た。東西冷戦が激しくなり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むために、講和条約と日米安保条約の取りまとめを急ぎ、その交渉のために訪日したのである。


ダレスは、当時首相だった吉田茂に「再軍備をせよ」と強く要求した。だが吉田はこの要求を頑として断った。

吉田茂〔photo〕gettyimages


「『経済もいまだ回復していないのに、再軍備をするのはおろかなことだ』というのが、吉田の主張であった。それに、日本が再軍備をすればアジア近隣諸国が日本軍国主義の復活を恐れるだろうし、だいたい、日本は憲法で軍備を持たないことになっているから、持てるはずがないと彼は付け加えた。そして、吉田は彼の主張を支える手を打っていた。彼はマッカーサーに対し、日本の再軍備は無理だという立場を前もって説明しておいた」


当時京都大学助教授だった高坂正堯は『宰相吉田茂』(中央公論社)の中で、こう書いている。


ダレスと吉田は、翌1951年1月末にも「再軍備」の話し合いを行った。


「ダレスは前年と同じ議論をくり返し、吉田もまた同じように反駁した」(前掲書)ということだ。つまり、アメリカ側が執拗に再軍備を要求するのを、吉田は懸命に拒んだということになるのだが、豊下楢彦(元関西学院大学教授)は、著書『安保条約の成立』(岩波新書)の中で、この構図を否定している。

ジョン・フォスター・ダレス。日米安保の"生みの親"〔photo〕gettyimages


ダレスは、吉田と会う前のスタッフ会議で、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」と述べているというのである。つまり、日本の再軍備への約束を獲得することが最も重要な課題ではなかったというのである。


もっとも、吉田は、独立後もアメリカが占領時代と同じように日本に軍事基地を持つことに反対だったようだ。


1950年7月29日に、参議院で社会党の金子洋文の質問に対して、吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し、連合国の側も日本に軍事基地を「要求する気もなければ、成るべく日本を戦争に介入せしめたくないというのが、日本に平和憲法を据えるがいいと希望した連合国の希望だろうと思います」と答弁しているのである。


だが、被占領国である日本が、占領国のアメリカに対する「バーゲニング(交渉)」能力を持てるはずがなく、吉田首相の筋の通った「正論」は、いわば無残に踏みにじられてしまい、ダレスが述べた「我々(※筆者注 アメリカ)が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得してしまうのである。


■日本を無期限に縛る不平等条約


1951年9月8日のサンフランシスコ講和会議で日本が独立してまもなく刊行された「フォーリン・アフェアーズ」誌(1952年1月号)で、ダレスは講和会議の日の午後に調印された日米安保条約について、「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」と明言しているのだ。


そこで、豊下楢彦の前掲書を引用して、日米安保条約の核心を点検しなおしたい。


「まず、安保条約の第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の『権利』と規定されている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも『権利』放棄をして米軍を撤退させることができるのである。


さらにこの米軍は、『日本国の安全に寄与するために使用することができる』のであって、ダレスのいうように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の『内乱』に介入し『鎮圧』することができるのである。


より重要な問題は、これら在日米軍の“任務”を規定した条文の最初に、『極東条項』がおかれていることである。しかもそこでは、『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するためと述べられているだけで、米軍の“行動基準”はなんら示されていない。極東とはどの地域を意味するのか明示されていないし、国連との関係にもまったくふれられていない。


要するにこの規定は、米側が『極東』とみなす広大な地域における、日本を拠点とした米軍の『一方的行動』を“保障”したものにほかならないのである」


「第三条では、米軍の配備を規律する『条件』が行政協定で決定されることが謳われている。五二年二月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比〔※筆者注 アメリカ・フィリピン〕基地協定にさえ明記されている)が欠落した『全土基地化』の権利が米側に保障されている。


さらに、基地外で公務中ではない米軍人の犯した犯罪についても、フィリピンにさえ与えられている裁判権が日本には付与されていない。要するに、米軍には『治外法権』が保障されているのである」


さらに第四条では有効期限も定めず、日本を「無期限」に縛る、占領下と変わらないひどい不平等条約である。


■すべては天皇を守るため


「バーゲニング」能力が全く持てない吉田首相の精いっぱいの抵抗は、講和会議に出席しないこと、「忌避」することであった。吉田は講和会議には「外交界の長老であり、前総理・衆議院議長であった幣原喜重郎」(吉田の発言)に全権を委任するという決意をダレスに示していた。ところが1951年3月10日に幣原が80歳で他界した。


そして4月に訪日したダレスとの会談では、吉田は、佐藤尚武参議院議長に全権を委任すると主張した。首相の自分は日本を離れられないというのが理由であった。


だが、吉田は講和会議を忌避しているのではなく、同じ日に調印することになっている不平等きわまる日米安保条約を忌避するつもりだったのである。


7月7日には会議の開催地がサンフランシスコと決まったが、吉田の「忌避」の姿勢は変わらなかった。


だが、ダレスを含めて米国側は、吉田首相以外の全権は全く想定していなかった。そして吉田首相の「日米安保条約」の「忌避」を認めなかった。結局、吉田首相は「忌避」を翻すのである。どういういきさつがあったのか。


豊下楢彦は、前掲書で「推測」を交えて、それまで誰も示していなかった大胆なストーリーを展開している。


「それでは、かたくなに『異常』なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであったろうか。それは、天皇への『拝謁』であった。(中略)一九日(※筆者注 1951年7月)の朝に天皇に『拝謁した後に』、吉田は日本の全権団を率いることに『同意』した」というのである。


そして豊下は次のように書いている。


「推測の域を出るものではないが、ダレスは吉田への圧力として“最後の切り札”を切ったのではなかろうか。ダレスは『然るべきチャネル』を通して、吉田への『御叱り』と『御下命』を天皇に要請したのではなかろうか」


徹底的に「固辞」する吉田首相に「全権」を引き受けさせるために、ダレスは昭和天皇を使ったというのである。


占領体制の延長のような安保条約を吉田首相が認めず、全権を「固辞」したのは、それこそ精いっぱいの正論であった。それを、なぜ昭和天皇は「叱り」、吉田首相を翻意させたのだろうか。昭和天皇は、占領体制の延長のような安保条約をどのように捉えていたのか。


豊下は、次のように説明している。


「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった(中略)昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店)


占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけたのだというのである。


しかし、これは豊下が勝手に決めつけているのではなく、安保条約が調印されて10日を経た1951年9月18日に、マッカーサーに代わったリッジウェイ司令官との会談で、昭和天皇は講和条約を、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」だと高く評価して、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」「日米安全保障条約が成立し貴司令官の如き名将を得たるは我国の誠に幸とするところである」と、安保条約の成立を絶賛している。


繰り返し記すが、昭和天皇にとっては、天皇制を内外の共産主義から守ることが第一義で、そのためには米軍駐留の確保が絶対条件だったわけだ。


こうして、占領体制の継続ともいえる日米安保条約は、交渉の最高責任者である吉田首相が固辞するのを、ダレスと天皇の圧力によって翻意させ、締結にいたったのである。
http://www.asyura2.com/16/senkyo203/msg/767.html


51. 中川隆[3042] koaQ7Jey 2016年6月23日 06:43:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3376]
英国でEU離脱が現実味を帯びる中、J・ロスチャイルドやG・ソロスが離脱するなと恫喝する背景
2016.06.22 04:23:45 櫻井ジャーナル


 イギリスがEUから離脱するかどうかが話題になっているが、EUから離れたいという声が高まっている国はイギリス以外にも少なくない。金融拠点のひとつであるロンドンを抱える国がEUを離れるインパクトは大きく、その影響が世界へ波及することは避けられないものの、EUの実態はEUへの幻想を壊し、離脱派を後押しする。

 そうした出来事のひとつがギリシャのEU残留。そのような決定で利益を得ているのは国内外の富豪や巨大企業だけであり、庶民の生活は悪化するばかり。EU幻想に取り憑かれたウクライナ西部の住民はキエフでのクーデターを支持、東部や南部に住むロシア語系住民を殲滅しようとしたが、ファシストが支配する西部や中部の地域は破綻国家になっている。

 当初、イギリスがEUからの離脱を言い始めた理由は他の加盟国、例えばドイツやフランスを脅すためだったと言われているが、それが現実になりそうな雲行きになり、富豪は慌てている。ジェイコブ・ロスチャイルドやジョージ・ソロスのような富豪は有力メディアで離脱すると不利益を被ると庶民を脅迫しているが、それほど彼らを怒らせているのは世界支配のプランが崩れてしまうからだろう。

 アメリカをはじめ、西側の支配層は現在、巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。そのベースになる考え方はイタリアの経済学者ビルフレド・パレートから学んだのだという。

 後に西側では全体主義をファシズムとコミュニズムを一括りにするタグとして使うようになるが、これは巨大資本の情報操作。本来は企業主義(企業支配)と結びつけるべきものだった。巨大資本が定義した意味で全体主義というタグを使うのは、情報操作に踊らされていることを意味する。

 1933年11月といえば、アメリカの巨大資本が反フランクリン・ルーズベルトのクーデターを計画していたころ。その5年後の4月29日にルーズベルトはファシズムについて次のように定義している。

「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 ここに書かれているようなことをアメリカの支配層は目論んでいる。その突破口になる協定がTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)の3点セット。このうちTTIPはアメリカとEUの協定で、EUから離脱した国には適用されない。勿論、EUが解体されればTTIPは雲散霧消だ。

 ところで、前にも書いたように、ヨーロッパ統合は米英支配層の計画だった。1922年に創設されたPEUに始まり、第2次世界大戦後にACUEが作られ、その下にビルダーバーグ・グループもできた。NATOの創設は1949年だ。EUの前身であるECについて、堀田善衛はその「幹部たちのほとんどは旧貴族です。つまり、旧貴族の子弟たちが、今ではECをすべて取り仕切っているということになります。」(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』集英社、1993年)と書いている。EUでも同じことが言えるだろう。その旧貴族をカネと暴力で支配しているのが米英の支配層であり、その支配のためにNATOやUKUSAは存在する。

 こうした仕組みを作り上げた米英の支配層は当初、イギリスが主導権を握っていた。そのイギリスで1891年に「選民秘密協会」が創設されている。セシル・ローズ、ナサニエル・ロスチャイルド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、ウィリアム・ステッドが中心メンバー。ブレッドは心霊主義の信者としても知られるビクトリア女王の相談相手で、後にエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。

 ジョージタウン大学の教授だったキャロル・クイグリーによると、1901年までローズがこの結社を支配していたが、それ以降はアルフレッド・ミルナーが中心になる。そのミルナーはシンクタンクのRIIA(王立国際問題研究所)を創設した。後にRIIAのアメリカ支部と見なされるようになるアメリカのCFR(外交問題評議会)は設立直後、JPモルガンに乗っ取られた団体だ。

 モルガン一族が富豪の仲間入りする切っ掛けは、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンにあったジョージー・ピーボディーの銀行の共同経営者になったこと。1857年にその銀行が倒産寸前になるが、そのときにピーボディーと親しくしていたナサニエル・ロスチャイルドが救いの手をさしのべている。

 1864年にピーボディーは引退し、モルガンが引き継ぐ。その息子がジョン・ピアポント・モルガン。この息子はロスチャイルド財閥のアメリカにおける代理人となった。この人物の名前から彼の金融機関はJPモルガンと名づけられたわけだ。

 本ブログでは何度も書いているように、関東大震災の復興資金調達で日本政府が頼ったのがこのJPモルガンで、それ以降、日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。有り体に言うなら、ウォール街の属国になり、ファシズム化が始まった。だからこそ血盟団による暗殺や二・二六事件が引き起こされたのだろう。

 ニューヨークの株式市場で相場が大暴落した1929年から大統領を務めたハーバート・フーバーはウォール街の巨大金融資本を後ろ盾にしていたが、その経歴をさかのぼるとロスチャイルドが現れる。スタンフォード大学を卒業した後に鉱山技師として働いた鉱山を所有していたのがロスチャイルドだった。そのとき、利益のためなら安全を軽視する姿勢が気に入られたようだ。

 相場は大きく変動するときがチャンス。下がれば損をするというものでもない。暴落のタイミングを知っていれば、つまり暴落を仕掛けられれば大儲けできるのだ。1929年にもそうしたことが起こったと言われている。相場の下落で儲かるだけでなく、二束三文で価値あるものを手に入れられる。その時に政府をコントロールできていれば、やりたい放題だ。

 そうした意味で1928年や32年の大統領選挙は重要だったが、32年の選挙でフーバーは再選に失敗する。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。当然のことならが、JPモルガンをはじめとする巨大金融資本はショックを受けた。

 当時、大統領の就任は3月。選挙から4カ月のギャップがある。その間にルーズベルトはフロリダ州マイアミで銃撃事件に巻き込まれるが、弾丸は隣のシカゴ市長に命中、市長は死亡した。引き金を引いたのはレンガ職人のジュゼッペ・ザンガラなる人物で、足場が不安定だったことから手元が狂ったとも言われている。この銃撃犯は直後の3月20日に処刑されてしまい、真相は不明のままだ。

 ルーズベルトが大統領に就任した後、支配層はニューディール政策の実行を妨害する。その最前線にいたのが最高裁判所だった。そして1934年にクーデター計画が発覚する。名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人で信望が厚かったスメドリー・バトラー海兵隊少将は議会でこの計画を明らかにしたのだ。

 バトラーによると、クーデター派はルーズベルト政権を倒すため、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、フランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていたという。

彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃、50万名規模の組織を編成して圧力をかけ、大統領をすげ替えることになっていたという。

現在、アメリカの支配層がカネ儲けに邪魔な政権、体制を倒すために使う手法と基本的に同じだ。

バトラー少将の知り合いだったジャーナリストのポール・フレンチもクーデター派を取材、その際に「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で証言している。

 このクーデター計画を聞いたバトラー少将はカウンター・クーデターを宣言する。50万人を動員してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げたのだ。つまり、ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろというわけである。

その結果、クーデターは中止になるが、クーデター派を追及して内戦になることを恐れたルーズベルト政権は曖昧なまま幕引きを図った。大戦の終盤、ルーズベルトはドイツや日本の略奪財宝を回収するのと同時にナチスと巨大企業との関係を明らかにしようとしていたと言われているが、これはルーズベルトが執務室で急死したため、実現しなかった。


 何度も書いてきたが、JPモルガンと日本とを結ぶキーパーソンはジョセフ・グルー。

駐日大使として1932年に赴任してきたが、彼のいとこのジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻だ。またグルーの妻、アリス・ペリーは少女時代に日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで後に大正(嘉仁)天皇の妻(貞明皇后)になる九条節子と友人になったという。


 グルーは1932年から41年まで駐日大使を務めているが、妻と皇室との関係も利用して松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らと親しくなったという。

1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカに宣戦布告した直後、グルーは大使の任を解かれたが、42年になって岸信介(つまり安倍晋三の祖父)はグルーをゴルフに誘っている。それから間もなくしてグルーはアメリカへ戻った。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心メンバーとして「右旋回」、つまり戦前回帰を推進する。安倍首相やその仲間たちはこの政策を促進しようとしているだけである。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606210000/


52. 中川隆[3108] koaQ7Jey 2016年7月01日 05:15:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3449]

2016.06.30
戦前日本は米巨大資本に従属、その巨大資本と対立していたルーズベルト政権と日本の対立は必然

 安倍晋三政権は「戦前への復古」と「アメリカへの従属」を目指しているが、これは矛盾していないどころか、コインの裏と表の関係にある。幕末から日本の支配層は基本的にイギリスやアメリカの巨大資本を後ろ盾としてきた、つまり強い影響を受けてきたのだ。この関係が機能しなかったのは、ニューディール派政権だった1933年3月から45年4月、あるいはジョン・F・ケネディが大統領だった1961年1月から63年11月くらいだろう。

 現在、この従属関係を「日米同盟」と呼ぶが、かつては「対米協調」と表現されていた。そうした政策を打ち出した代表的な政権は1929年7月から始まる浜口雄幸内閣。アメリカ巨大資本の要求に従った政策、フランクリン・ルーズベルトやベニト・ムッソリーニが言うところのファシズム(注)を導入、例えば、緊縮財政と金本位制への復帰を実行した。最近の表現を使うならば、新自由主義的な政策を導入したのだが、これによって貧富の差が拡大、東北地方で娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になる。

 こうした経済政策の中心にいた人物がJPモルガンと緊密な関係にあった井上準之助であり、こうした背景を抜きにして、1932年の血盟団による井上準之助や団琢磨の暗殺、また1936年の二・二六事件を理解することはできない。二・二六事件では、昭和天皇も井上たちと同じ立場だということが明らかになった。

 ウォール街が支援していたハーバート・フーバー大統領をルーズベルトは1932年の大統領選で破ったのだが、その3年前にニューヨークで株式相場が暴落、経済破綻が顕在化していた。

 第1次世界大戦(1914年から18年)でライバルのヨーロッパ諸国は疲弊したが、アメリカは戦場とならずに物資の販売や金融で大儲け、自動車の大衆化が進み、映画やラジオの登場など技術的な進歩で豊かになっているように見えた。

 しかし、富が一部に集まる政策が推進され、社会は衰退する。大戦後に兵士が帰国すると街には失業者が溢れ、ストライキやデモが続発していた。そうした中、1919年にボストン近郊で起こった現金輸送車襲撃未遂事件が起こり、ニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが逮捕された。1920年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件でも有罪とされた。

 いずれの事件もふたりを有罪とするような証拠、証言はなく、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視して死刑を言い渡している。ふたりが「アナーキスト」だったということが理由だと見られている。ふたりは1927年の8月に処刑された。

 勿論、1950年代から60年代にかけて公民権運動が高まるまでアメリカでは人種差別が公然と行われ、決して「自由で民主的な国」とは言えない。そうした国の内部で庶民の不満は強まり、1932年の大統領選でニューディール派を勝たせることになる。

 当時、日本の支配層が従属していた相手は「自由で民主的な」アメリカ人でなく、富を独占し、人種差別を行う人びと。フランクリン・ルーズベルト政権の誕生は、日本の支配層がウォール街に従属するという関係を崩した。この関係が復活するのは、1945年4月にルーズベルトが執務中に急死してからだ。

 このアメリカと日本が戦争を始める切っ掛けは、言うまでもなく「真珠湾攻撃」。この攻撃がいかに無謀だったかを語る人は多いが、日本はすでに戦争をはじめていた。1927年5月に山東出兵、31年9月に柳条湖事件と呼ばれる偽旗作戦を実行して侵略を開始、中国東北部に「満州国」と称する傀儡国家を樹立させた。1937年7月の盧溝橋事件後、宣戦を中国の全域に拡大、そして41年12月の真珠湾攻撃だ。

 しかし、日本が東アジア侵略を始めたのはその遥か前、1872年に琉球国を潰して琉球藩を設置したところから始まる。本ブログでは何度か指摘したが、1871年7月に廃藩置県を実施済みなわけで、この琉球藩設置は台湾へ派兵する口実作りの可能性が高い。実際、そのころ来日していた厦門の領事のチャールズ・リ・ジェンダーは外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めていた。そこから江華島への軍艦派遣(朝鮮に対する挑発)、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦へとまっしぐらだ。この背後にはイギリスとアメリカが存在していた。

 東アジアを侵略している間に盗んだ財宝も曖昧なまま、アメリカ支配層と山分けした可能性が高い。その過程で吸った甘い汁を日本の支配層は忘れていないはず。アメリカ支配層の最近の動きを見ていると、過去の「成功体験」を再現しようとして失敗しているようで、日本がアメリカの真似をして再び中国を侵略しようとしたなら、取り返しのつかないことになりそうだ。

 こうした道へと日本を導いているのが安倍政権。危険な流れを察知した人びとが小沢一郎の率いる民主党を選挙で勝たせたのだが、それをマスコミと検察が潰し、菅直人や野田佳彦は国民の期待を裏切って現在がある。ここで諦めたなら、支配層の思う壺だ。

【注】

(1) ベニト・ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。

(2) 1938年4月29日にフランクリン・ルーズベルトはファシズムについて次のように定義した。「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201606300000/


53. 中川隆[3166] koaQ7Jey 2016年7月06日 08:26:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3513]
《櫻井ジャーナル》 2016.07.05


日本が正式に連合国へ降伏したのは1945年9月2日。政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の旗艦ミズーリ上で降伏文書に調印したのがこの日だ。

 しかし、日本の支配層は自分たちが敗北したという認識が希薄だったようで、戦前の治安体制を維持できると考え、政治犯を拘束し続けていた。そうした中、1945年9月26日に哲学者の三木清が獄死している。

 日本の思想統制を担当していたのは内務省だが、その最高責任者である内務大臣だった山崎巌にロイターのR・リュベン記者が10月3日にインタビュー、その際に山崎は特高警察の健在ぶりを強調、天皇制に反対する人間は逮捕すると言い切ったという。敗北の意味を理解できていなかったようだ。その日、岩田宙造法相は中央通訊社の宋徳和記者に対し、政治犯を釈放する意志はないと明言している。

 ロイターや中央通訊社の報道後、ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官は「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令、10月10日に政治犯は釈放された。

 1947年1月に上海から帰国した作家の堀田善衛は引き揚げ船が佐世保沖で足止めになっていたとき、様子を見にきていた警察官に日本で流行っている歌をうたわせたところ、出てきたのは「リンゴの唄」だった。

 これを聞いた堀田は、「敗戦ショックの只中で、ろくに食べるものもないのに、こんなに優しくて叙情的な歌が流行っているというのは、なんたる国民なのかと、呆れてしまったんです」と書いた。しかも、「明白な敗戦なのに"終戦"とごまかしている。この認識の甘さにも絶望しました」という。(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』集英社、1993年)

 内務大臣や法務大臣だけでなく、日本全体が戦争に負けたという事実を認識できていなかった、あるいは目をそらしていたようだ。いや、今でも歴史を直視しようとしない人がいる。戦争の経験者が少なくなるにつれ、そうした人びとの妄想は現実から乖離していく。

 1946年11月3日に公布、47年5月3日に施行された日本国憲法の柱は天皇制の継続、民主化、交戦権の放棄だと言えるだろう。敗戦後も維持するつもりだった支配システムとは天皇制官僚国家。官僚にとって天皇制の継続は大きな問題だっただろう。

 しかし、日本の外では、当然のことながら、天皇に対して違った見方をしていた。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)が、侵略されたアジアの人びとだけでなく、イギリス、オーストラリア、ソ連なども天皇に批判的だった。

 日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は事実上、アメリカ軍だったが、時間を経るに従って天皇に批判的な声が高まることは必然。第2次世界大戦の前から日本の支配体制と強く結びついていたアメリカの支配層、つまり巨大資本としても天皇制官僚国家を維持したかったはずで、民主主義と平和主義の衣をまとった天皇制を定めた憲法を速やかに作り上げることになった。

 勿論、安倍政権が目指す改憲で天皇制が否定されることはないだろう。民主主義と平和主義をかなぐり捨てたいのだ。これはアメリカを拠点とする巨大資本の意思でもある。

 この巨大資本は1933年3月から45年4月にかけての期間、ニューディール派が主導権を握る政府と対立関係にあった。その中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領。

 スメドリー・バトラー少将の議会証言によると、ウォール街を拠点とする巨大資本は1933年から34年にかけての時期、ニューディール派を排除するためにクーデターを計画していた。バトラー少将から話を聞いたポール・フレンチ記者はクーデター派を取材し、「コミュニズムから国を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を聞いたと議会で証言している。勿論、議会での証言である以上、記録に残っている。

 クーデター派の中心だった巨大金融機関のJPモルガンは日本とも関係が深い。1923年の関東大震災で大きな打撃を受けた東京周辺を復興させるために必要な資金を日本政府は外債の発行で調達しようとしたが、その債券を引き受けたのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も親しかった日本人と言われているのが井上準之助だ。

 また、1932年に駐日大使として赴任してくるジョセフ・グルーは、いとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻。戦後、グルーは日本の民主化を止め、ファシズム化へ方向転換させたジャパン・ロビー(ACJ)で中心的な役割を果たすことになる。(詳細は割愛)

 安倍政権が目指している「日米同盟」は、1923年から32年までの日米関係をモデルにしているように見える。この時期の関係を「対米協調」とも表現するが、明治維新以降、日本は東アジアと協調しようとしていない。侵略、破壊、殺戮、略奪だ。明治維新によって日本は周辺国との友好関係を破壊、侵略国家に変貌したと言えるだろう。

 安倍政権は「戦前への復古」と「アメリカへの従属」を目指しているが、これを矛盾と言うことはできない。遅くとも関東大震災以降、日本はウォール街に従属し続けている。フランクリン・ルーズベルト政権の時代が例外なのだ。日本の支配層にしてみると、こうした政権がアメリカに登場することを阻止しなければならない。そのため、さまざまなことが行われているだろう。そうした工作で「金の百合」が「ナチ・ゴールド」と同じように重要な役割を果たしてきたことは想像に難くない。

 安倍政権を含む日本政府が進めてきた政策は基本的にウォール街発。TPPはアメリカを拠点とする巨大資本が国を支配する仕組みだが、日本の支配層にとっては必然なのだろう。安保法制は1992年にアメリカの好戦派によって作成された世界制覇プロジェクトに基づいて作られたが、その背景には世界を自分の所有物にしたいという強欲な巨大資本や富豪が存在する。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607050000/


54. 中川隆[3451] koaQ7Jey 2016年7月28日 12:43:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3804]

ホイットニー文書 昭和天皇の日本国民に対する見解全文
http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/430.html
http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/302.html

ホイットニー文書に昭和天皇の日本国民に対する見解が記されていることは、ご存知の方が多いだろう。


■ホイットニー文書は、1946年(昭和21年)10月16日(日本時間)、第3回天皇とマッカーサーの会談で天皇の通訳を務めた寺崎英成による英文の会議録である。したがって、英訳された天皇の言葉が大半を占めるわけだが、その中には、マッカーサー元帥の極めて重要な言葉が含まれていたのだ。

【原文抜粋】
I said that we Americans believed that Allied objectives for Japan were in the best interests of the Japanese as well as the world at large and we looked forward to the development of a democratic and economically sound Japan which would respect the rights of other nations and become a cooperative member of the Commonwealth of Nations.

【和訳抜粋 wikipedia『昭和天皇』より】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E3.83.9E.E3.83.83.E3.82.AB.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.BC.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.8D.A0.E9.A0.98.E9.95.B7.E6.9C.9F.E5.8C.96.E3.81.AE.E5.98.86.E9.A1.98.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1

自分たちアメリカ人は、日本について連合軍の目的が、世界全体についてと同様、日本の最善の利益にあると考えており、日本が他国の権利を尊重しイギリス連邦の協力的な一員となり、民主的でかつ経済的に健全な国へと発展することを楽しみにしていると、マッカーサー元帥は話した。

文末の"Commonwealth of Nations"が、「イギリス連邦」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E9%80%A3%E9%82%A6


■wikipedia『昭和天皇』-[マッカーサーへの占領長期化の嘆願とその理由]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E3.83.9E.E3.83.83.E3.82.AB.E3.83.BC.E3.82.B5.E3.83.BC.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.8D.A0.E9.A0.98.E9.95.B7.E6.9C.9F.E5.8C.96.E3.81.AE.E5.98.86.E9.A1.98.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E7.90.86.E7.94.B1
【和訳全文】
2週間前の手紙で占領はあまり短くならないよう期待していると述べたことの根拠を説明したい。日本人の心にはまだ封建制度の名残が多々あり、それを根絶するには長い時間がかかるだろうと感じていた。日本人は全体として、民主主義のために必要な教育に欠け、また真の宗教心にも欠け、そのため極端から極端へと走りやすい。日本人の封建的特徴の一つは、人につき従うことを喜ぶ心。また日本人はアメリカ人のように自分の力で考えることを訓練されていない。徳川幕府は、民は彼らの領主に従うべきであり、忠誠心以外のいかなる道理も与えられるべきではないという論理の上に築かれていた。だから平均的な日本人は、自分で考えようとすると、因襲的な障害に直面してしまう。

やみくもにつき従う本能でもって日本人は今、アメリカの考え方を受け容れようと熱心に努力をしてはいるものの、労働者の状況が明かす日本人は身勝手で権利ばかりに意識を集中し、務めや義務についてを考えてはいない。この動機の部分は、日本人の思考と態度における長年の氏族的習慣に由来する。日本人が藩に分かれていた時代は、実際には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚を利益を希求する仲間とみなし、他人は利益を考慮してあげるに値しない敵と考えている。

日本人の間で宗教心が欠如していることについて、最近たくさん話した。天皇自身、神道を宗教と考えてはいない。神道は単なる儀式なのに、アメリカでは過大評価していると思っている。しかし、ほとんどの神道信者は大変保守的であり、彼らと神道家そして超国家主義を神道と同一視していた復員兵は、団結する傾向があり、まだいくらか危険な側面がある。信教の自由という憲法の下で現在、政府が彼らを取り締まる手段を持っていない状況が危険だ。神道分子とその同調者は反米であるため、注意が必要と考えている。

日本人のいかなる美徳についても話している場合ではなく、日本人の欠点を熟慮すべきと、天皇は感じていた。日本人の短所のいくつかは、「占領は長期化すべきという結論」に天皇を導いた、前述の考え方全般に示されている。

天皇は、マッカーサー元帥とその行いに大変感銘を受けている。マッカーサー元帥は、自分がアメリカと連合軍の両方の利益のために尽力する最もりっぱなアメリカ人の1人であり、天皇も知っているとおり、日本人の利益のために心から最善を尽していると話した。自分たちアメリカ人は、日本について連合軍の目的が、世界全体についてと同様、日本の最善の利益にあると考えており、日本が他国の権利を尊重しイギリス連邦の協力的な一員となり、民主的でかつ経済的に健全な国へと発展することを楽しみにしていると、マッカーサー元帥は話した。

賠償金に関する問合せへの回答について、マッカーサー元帥は、この問題をできるだけ早く解決するためには、日本の実業家たちが仕事に取り掛かり、そして食料の輸入や国内消費に必要な商品の生産ができるようにと、非常に焦っている。マッカーサー元帥とその部下は、日本における経済の安定を早めるためにできる、ありとあらゆることをこなしていた。そしてマッカーサー元帥は、産業とその振興の妨げになる日本人の倹約体質、また経済状況改善のための最善の努力を喚起する必要について、いくらかの意見をつけ加えた。

天皇は、対日理事会におけるアメリカの態度に非常に感謝し、そしてそれは安定効果があると感じている。しかし天皇は今、この国の労働状況に甚だ憂慮している。そして、アメリカの炭鉱ストライキが速やかに解決することを望んでいる。なぜなら、日本人労働者たちの摸倣する志向性に障り、義務などお構いなしに、アメリカの労働ストライキに影響されるからだ。

天皇は、彼の治世に付せられた名「昭和、平和を啓発する」が今は皮肉に見えているが、その元号を維持することを望んでいると何度も言った。そして、誠に「壮大な平和」の治世になることを保証するために、十分に長生きすることを希望している。
天皇は、鈴木貫太郎海軍大将の損失に、心を痛めている。降伏の準備をする内閣を率いるよう任命したのに、海軍の恩給だけならまだしも、文官としての恩給まで失ったのだ。彼は、長年天皇の大侍従長を務め、降伏の準備を整える任務を成し遂げたが、陸軍大将の軍位と首相としての戦時中の地位は当然ながら追われることとなった。彼の皇室での勤めに由来する恩給の受け取りは止められていない。天皇は、そうした剥奪が鈴木陸軍大将個人にとどまらず、日本人国民にも理解されずに、占領や日本自身のためにもならない反米感情を生み出しているため、不安を募らせている。


【出典】
●憂慮するアジア研究者紀要―Full Text of the Top-Secret "Emperor's Message"
http://criticalasianstudies.org/assets/files/bcas/v31n04.pdf p.22-23

●ホーリーネームズ大学―The Text of the Memorandum
http://www.jpri.org/publications/workingpapers/wp61.html  


55. 中川隆[3515] koaQ7Jey 2016年8月05日 07:42:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3870]

天皇制官僚国家が成立したのは、いわゆる「明治維新」。薩摩藩と長州藩を中心とする勢力がイギリスと手を組んで徳川体制を倒したのであり、誕生の瞬間からアングロ・サクソンの影響下にあった。その辺の事情は本ブログで何度か指摘した通りだ。

 アメリカの金融資本が大きな影響力を持つようになった切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災。その復興支援の調達をJPモルガンに頼ったことから、この金融機関は日本に大きな影響力を持つようになる。その代理人として1932年に来日した人物がジョセフ・グルー駐日大使。そのいとこであるジェーンが結婚した相手がJPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだった。またグルーの妻、アリスは少女時代に華族女学校(女子学習院)で九条節子(貞明皇后)と親しくなっている。つまり、皇室にもパイプがあった。

 グルーが日本へ来た1932年までアメリカの大統領はハーバート・フーバー。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったところを見込まれて「出世」した人物である。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 1932年の大統領選挙でフーバーの再選を阻止したのは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対していたニューディール派のフランクリン・ルーズベルト。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするウォール街の住人はニューディール派を排除してファシズム政権を樹立しようと目論む。

 このクーデター計画はスメドリー・バトラー少将やジャーナリストのポール・フレンチの議会証言で明るみ出て実行されなかった。当時、軍の内部で人望の厚かったバトラーを抱き込もうとして失敗したのである。その際、バトラーはクーデター派に対してカウンタークーデターを宣言、内戦を覚悟するように伝えたという。この結果、日本の支配層が従属していたJPモルガンの影響力は低下してしまった。

 日本国内でもJPモルガンの傀儡に反発していた勢力も存在する。例えば、血盟団や二・二六事件を引き起こした将校たちだ。現在の表現を使うならば、この傀儡たちは新自由主義者。庶民は貧困化し、東北地方では娘の身売りが増えた。労働争議や欠食児童も問題になっている。その一方、支配層は裕福になり、貧富の差は拡大した。

 こうした政策の背後にはJPモルガンがいたのだが、この巨大金融機関と最も親しくしていた日本人は「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じて親しくなったという。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。この井上は1932年、血盟団に暗殺された。その前、1930年には浜口雄幸首相が銃撃されて翌年に死亡、井上が殺された翌月には三井財閥の大番頭で、ウォール街とも親しくしていた団琢磨が暗殺された。二・二六事件は1936年である。

 その後も日本にはソ連へ攻め込もうと考える一派が強い影響力を持ち、1939年には中国東北部とモンゴルの国境地域で日本軍がソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊は日本軍の第23師団を壊滅させてしまった。このソ連に対する攻撃はウォール街の意向に沿うものだったはず。ソ連に対する攻撃が成功していたなら、ソ連は西と東、両面作戦を強いられた。このソ連軍との衝突は台湾派兵、日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされたとも言える。つまり、米英の戦略に合致しているわけだ。

 日本では「関東軍の暴走」という話をよく聞くが、もし本当なら日本軍は軍隊の体をなしていないということになる。説得力がない。もし、参謀本部や陸軍省が関東軍を押さえられなかったとするならば、理由はひとつしか考えられない。皇族の介在だ。

 1941年6月に今度はドイツがソ連へ攻め込む。「バルバロッサ作戦」である。当初、ドイツ軍が優勢なときに米英の支配層は傍観、1943年1月にドイツ軍がソ連軍に降伏してから慌てて動き出したことは本ブログで何度も指摘してきた。バルバロッサ作戦が始まった半年後、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、アメリカとの戦争に突入する。その翌年までグルーは日本に滞在、日本とアメリカとの戦争を回避するために努力したというが、当然だ。彼らは日本をソ連侵略の手駒と考えていたのだから。投資の回収をどうするかも大きな問題だっただろう。離日の直前、グルーは岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 大戦後、グルーは日本からニューディール派的、つまり民主主義的な要素を払拭する活動を始める。その中心になったグループがジャパン・ロビーだ。岸の孫にあたる安倍晋三が首相を務める政権はその延長線上にある。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608030000/


56. 中川隆[3554] koaQ7Jey 2016年8月08日 02:49:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3916]

1937年12月に日本軍は南京を攻略している。

中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。

そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)


日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。

 つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。

 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。

 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。

 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/


57. 中川隆[3555] koaQ7Jey 2016年8月08日 02:53:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3917]

天皇制官僚国家が成立したのは、いわゆる「明治維新」。薩摩藩と長州藩を中心とする勢力がイギリスと手を組んで徳川体制を倒したのであり、誕生の瞬間からアングロ・サクソンの影響下にあった。その辺の事情は本ブログで何度か指摘した通りだ。

 アメリカの金融資本が大きな影響力を持つようになった切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災。その復興支援の調達をJPモルガンに頼ったことから、この金融機関は日本に大きな影響力を持つようになる。その代理人として1932年に来日した人物がジョセフ・グルー駐日大使。そのいとこであるジェーンが結婚した相手がJPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだった。またグルーの妻、アリスは少女時代に華族女学校(女子学習院)で九条節子(貞明皇后)と親しくなっている。つまり、皇室にもパイプがあった。

 グルーが日本へ来た1932年までアメリカの大統領はハーバート・フーバー。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったところを見込まれて「出世」した人物である。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 1932年の大統領選挙でフーバーの再選を阻止したのは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対していたニューディール派のフランクリン・ルーズベルト。1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするウォール街の住人はニューディール派を排除してファシズム政権を樹立しようと目論む。

 このクーデター計画はスメドリー・バトラー少将やジャーナリストのポール・フレンチの議会証言で明るみ出て実行されなかった。当時、軍の内部で人望の厚かったバトラーを抱き込もうとして失敗したのである。その際、バトラーはクーデター派に対してカウンタークーデターを宣言、内戦を覚悟するように伝えたという。この結果、日本の支配層が従属していたJPモルガンの影響力は低下してしまった。

 日本国内でもJPモルガンの傀儡に反発していた勢力も存在する。例えば、血盟団や二・二六事件を引き起こした将校たちだ。現在の表現を使うならば、この傀儡たちは新自由主義者。庶民は貧困化し、東北地方では娘の身売りが増えた。労働争議や欠食児童も問題になっている。その一方、支配層は裕福になり、貧富の差は拡大した。

 こうした政策の背後にはJPモルガンがいたのだが、この巨大金融機関と最も親しくしていた日本人は「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じて親しくなったという。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。この井上は1932年、血盟団に暗殺された。その前、1930年には浜口雄幸首相が銃撃されて翌年に死亡、井上が殺された翌月には三井財閥の大番頭で、ウォール街とも親しくしていた団琢磨が暗殺された。二・二六事件は1936年である。

 その後も日本にはソ連へ攻め込もうと考える一派が強い影響力を持ち、1939年には中国東北部とモンゴルの国境地域で日本軍がソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊は日本軍の第23師団を壊滅させてしまった。このソ連に対する攻撃はウォール街の意向に沿うものだったはず。ソ連に対する攻撃が成功していたなら、ソ連は西と東、両面作戦を強いられた。このソ連軍との衝突は台湾派兵、日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされたとも言える。つまり、米英の戦略に合致しているわけだ。

 日本では「関東軍の暴走」という話をよく聞くが、もし本当なら日本軍は軍隊の体をなしていないということになる。説得力がない。もし、参謀本部や陸軍省が関東軍を押さえられなかったとするならば、理由はひとつしか考えられない。皇族の介在だ。

 1941年6月に今度はドイツがソ連へ攻め込む。「バルバロッサ作戦」である。当初、ドイツ軍が優勢なときに米英の支配層は傍観、1943年1月にドイツ軍がソ連軍に降伏してから慌てて動き出したことは本ブログで何度も指摘してきた。バルバロッサ作戦が始まった半年後、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、アメリカとの戦争に突入する。その翌年までグルーは日本に滞在、日本とアメリカとの戦争を回避するために努力したというが、当然だ。彼らは日本をソ連侵略の手駒と考えていたのだから。投資の回収をどうするかも大きな問題だっただろう。離日の直前、グルーは岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 大戦後、グルーは日本からニューディール派的、つまり民主主義的な要素を払拭する活動を始める。その中心になったグループがジャパン・ロビーだ。岸の孫にあたる安倍晋三が首相を務める政権はその延長線上にある。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608030000/


58. 中川隆[3665] koaQ7Jey 2016年8月20日 05:26:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4045]


2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」



この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。

終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


22才のベアテが作った日本国憲法条文

よく知られている話であるが、日本国憲法とその成立過程は本当にデタラメであった。新憲法の原案をGHQがたった8日間で作成し、これを和訳して日本政府に示した。日本政府はこのデタラメの原案を元に体裁を整え日本国憲法を策定し、47年5月3日に新憲法は施行された。この成立過程を見れば、いかに現行の日本国憲法がデタラメであるか理解できるはずである。

しかし卑怯者の日本の憲法学者は、当然、成立過程の真相を知っているのに、ほとんどこの真実に触れない。むしろ日本国憲法の正統性を声高に唱えるばかりである。そもそも成立過程が本当にデタラメなのだから、一つ一つの条文を吟味することは無意味とさえ筆者は考える。この無意味でばかばかしいことを毎日やっているのが、ほとんどの日本の憲法学者である。


このデタラメさを示す一例として、ベアテ・シロタ・ゴードンという当時22才の女性が日本国憲法作成に関与した話を取上げる。ベアテ女史は、両親がウクライナ系ユダヤ人であり、元の国籍はオーストリアであったが(ロシア革命でユダヤ人が排斥されたため両親がウクライナからオーストリアに移住した)、後に米国に変った。父親レオは有名なピアニストで、演奏会を開くため半年の滞在予定で来日した。しかし東京音楽学校(現在の東京芸大)の教授の職を父親のレオが得たため、5才のベアテは両親と共に日本に住むことになった。

彼女は大森ドイツ学園とアメリカンスクールで16才まで教育を受けた。途中でアメリカンスクールに移ったのは、ドイツでナチスが台頭し、ユダヤ人のベアテが大森ドイツ学園に居づらくなったからである。両親は教育熱心で、ベアテにフランス語と英語の家庭教師を付けた。この結果、彼女は、ドイツ語、ロシア語だけではなく、フランス語、英語、さらにラテン語にも堪能になった。また10年間も日本に住んでいたため日本語もできた。この語学の才が後に日本国憲法起草に関わるきっかけを作った。

16才で彼女はサンフランシスコのミルズ・カレッジに留学した。一時、両親も訪米したが、大平洋戦争開戦の直前に日本に戻った。戦争で両親との連絡が途絶え、仕送りがなくなったベアテは、アルバイトとして米連邦通信委員会(FCC)で日本短波放送の翻訳の仕事を得た。さらにFCCから戦争情報局(USOWI)に移り、ここでは対日プロパガンダの原稿作成のアルバイトを行った。彼女はタイム誌を経て、終戦後、両親が住む日本に戻りGHQ民政局に職を得た。GHQに採用されたのも、ベアテが日本語が堪能であったからである。とにかく当時の米国には、日本語を理解する者がほとんどいなかった(日本語が出来る白人は全米で60名程度)。


•日本国憲法は「埋草」

GHQは、日本の占領統治に法律の整備が必要と考え、まず憲法を新たに制定することにした。ところが時間に迫られ、憲法の原案を一週間で策定することになった。ここで狩り出されたのが、日本語が出来る22才のベアテ女史であった。まるで冗談のような話であるが本当の事である。

実際、彼女は日本国憲法の24条、25条、27条の制定に深く関わった。特に24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)はほぼベアテ女史が原案を策定したと言って良い。GHQ上層から日本国憲法策定の指示を受けた彼女が参考にしたのは、ワイマール憲法、米国憲法、フィンランド憲法、そして何とソ連憲法であった(都内の図書館でこれらを閲覧)。ちなみにソ連憲法を参考に「土地の国有化」を日本国憲法に取入れようと条文を作ったが、さすがにこれは上司が削ったという。


このように日本国憲法の成立過程は相当デタラメであった。ところがこのデタラメさはGHQにとって決して不合理ではなかった。とにかく早急な日本統治に必要な法体系の整備に迫られていた。明治憲法を廃する以上、これに替わる新たな憲法を作る必要があった(もちろん暫定的な憲法)。つまり明治憲法の「埋草」が新しい日本国憲法である。したがって「埋草」だから体裁が整っておれば何でも良かったのである。

GHQは、連合国の占領が終わり日本が独立すれば、当然、日本国民は自分達で憲法を新たに制定するものと考えた。しかし少なくとも占領終了までは憲法は形として必要であり、したがって占領政策を邪魔するものでなかったなら何でも良かった。法律を専門に学んだわけでもない22才女史のアルバイト感覚で作った憲法の条文も可であったのである。また暫定的な憲法だからこそ、素人の22才の女史に憲法原案の策定を命じることができたのである。むしろ占領が終結して60年以上も経っているのに、このデタラメな憲法を改正しない日本の方が異常と米国は考えていると筆者は思っている(内政干渉になるから口には出さないのであろう)。


問題の戦争放棄の第9条も日本の占領政策に沿うものである。当然、敗戦国の日本が占領軍にクーデターを起こすことを警戒した条文と考えられる。しかし未来永日本が戦力を持たないということは全く想定していなかった。それどころか第9条を押付けておきながら、早くも新憲法施行の翌年の48年には米側の関係部署で「日本の限定的再軍備」という答申がなされている。

再軍備は日本側が働きかけたのではなく、新憲法で日本に戦争放棄を迫ったはずの米国から打診されたのである。むしろ再軍備を渋ったのは、吉田茂首相率いる日本政府の方であった。たしかに戦後の経済の混乱で食う物も食えない状態の日本にとって、とても再軍備の余裕はなかった。

しかし朝鮮戦争の勃発などによって、米国からの再軍備の要請はさらに強くなった。ついにこの要請を受け入れ日本は、50年に警察予備隊を設立、また52年はこれを保安隊に改組し、さらに54年には自衛隊を発足させた。これから解るように戦争放棄を唱った第9条は、米側(GHQ)の手違いみたいなものであった。実際、筆者は、新憲法の施行が1年遅かったなら、戦争放棄の第9条は憲法に盛込まれなかったとさえ思っている。
http://www.adpweb.com/eco/eco848.html


英米派と大陸派の憲法観の違い

世界の中で日本だけが「憲法」を異常な捉え方をしていると筆者は思っている。年中、憲法で騒いでいるのは日本ぐらいである。このような事態になったには、先週号で取上げたように戦後の左翼勢力と左翼思想の存在が原因としてある。また日本のマスコミと憲法学者がこれを助長してきたと筆者は思っている。こんな中、今週は安倍政権に対しいくつかの提言を行いたい。


まず観念論者は、全体の法体系の中で憲法というものを位置付ける。理想的な憲法がまず出来上がり、その下に各種の法律が制定される。もし法律が憲法を逸脱していたなら違憲ということになる。

しかしどれだけ完全で理想的な憲法を作っても、時間が経ち状況が変化すれば、現実に合わなくなる。そこで憲法の改正という話になる。しかし一般の法律と異なり、どの国でも憲法改正の条件を厳しくている。例えば議院議席の3分の2以上の賛成というのが一般的である。さらに日本のように全ての条項の改正に国民投票を課す国がある。ただそのような国は少数派である(アイルランド、オーストラリア、韓国など)。


ところで案外知られていないことであるが、憲法に重きを置いている国とそうではない国がある。前者の国は成文憲法を絶対と捉え、一般の法律が憲法に逸脱することを許さない。ドイツやフランスといった大陸派の国である。したがってこのような国では頻繁に憲法の方が改正されている。戦後だけでも、ドイツ59回(先週号で58回としたのは間違い。ドイツが異常に多いのはおそらく東西ドイツの統合も影響)、フランス27回、イタリア16回という具合である。

これらの大陸系の成文主義に対して、英米のような成文憲法を軽く見る一方で、むしろ判例を重視する国がある。このような国では憲法改正にこだわらない(ただそれでも米国は戦後6回の憲法改正を行っているが)。特に英国は成文憲法さえ制定していない。

日本は、事実上憲法改正が不可能なので、これまで憲法の事実上の解釈の変更で現実に対処してきた。典型例が砂川事件裁判での最高裁判決「日本には自衛権がある」である。この判例を元に政府は自衛隊の整備を進めてきた。これは英米派に近い対応だったと言える。


ところがこれに対して日本の左翼やその取巻きの憲法学者は、ずっと大陸系の成文主義にこだわってきた。したがって自衛隊は違憲と強固に主張してきた。もっとも保守陣営にも成文主義を唱え、憲法改正を推進する者がいる(憲法を改正して自衛隊の立場を明確にすると主張・・既に必要がないのに)。

GHQがたった一週間で作った憲法原案を占領下の日本政府に示し「ほれこれで憲法を作れ」としたのも、米国が憲法というものに重きを置いていないからと筆者は思っている。新憲法施行後、たった1年で日本の再軍備を画策したり、本当に米国は憲法を軽んじる国と理解する必要がある。ちなみに筆者は、昔、改憲を支持していたが、今日、憲法不要論を唱えている。


上記で述べたように成文憲法を軽視する英米に対して、成文憲法を重視する大陸系(ドイツやフランスなど)に分けられる。しかし大陸系の国々は、成文憲法に重きを置く結果、何十回も憲法を改正するという馬鹿馬鹿しいことをやっている。あまりにも憲法に細かい事柄を盛込むからこのような事態に陥るのである。むしろ憲法は、抽象的で未来永劫変ることがないような価値観だけを条文化すれば良いのである。そしてこれを突き詰めれば憲法不要論となる。


また日本の憲法学者の「立憲主義」という言葉は、怪しくしばしば誤解を招くと筆者は思っている。筆者は、立憲主義は王権に対抗する概念と理解している。つまり欧州における歴史的な王権と民権の緊張関係から生まれた言葉なのである。国王(君主)の自分勝手な振舞い、例えば国民に住民に重税を課したり、無謀な戦争を始めるといったことを牽制するための議会と王との間の取決めが憲法の始まりと筆者は認識している。

立憲主義は、王権を制限する概念と筆者は捉えている。つまり国王の暴走から国民を守るものが立憲主義であり憲法と思っている。ところがドイツやフランスには既に国王は存在せず、政治を司るのは選挙で選ばれた政治家である。そもそも中世の欧州のように国王(君主)が絶対的な政治権力を持つような国は、今日、少なくとも先進国には見当たらない。つまりどの先進国でも、政府は選挙民の投票行動でひっくり返るのである。もはや政府を憲法で縛る必要はない時代になっている。つまり大陸派の成文憲法の重視という考えは、本当に時代錯誤で時代遅れである。

•憲法改正の可能性は全くない

今日の最大の政治的テーマは安保法制である。安倍政権はこの法案成立を目指し9月まで国会の会期を大幅に延長した。しかし一連の法案が憲法に抵触すると言って、野党は強い抵抗を示している。これに対して与党は、法案はギリギリ合憲の範囲内と突っぱねている。

また安保法案に関連し、憲法改正を先行させるのが筋という意見が多い。しかしこのもっともらしい話が曲者と筆者は見ている。今日、憲法を改正しようという動きはむしろ安保法案成立の足を引張ると考える。安倍政権が本当に安保法案の成立を目指すのなら、憲法改正の動きを中断するか、一層のこと止めるべきと思っている。もっとも憲法が不要と考える筆者にとっては、憲法改正なんて論外ではある。


そもそも日本国憲法を改正することは不可能である。まず両院で三分二の賛成を得ることが考えられない。小選挙区比例並立制になり、衆議院だけはかろうじて与党が三分二の議席を得るケースが稀に出てきた。しかし参議院で与党が三分二の議席を得ることは絶望的である。

実際、これまでの参議院選で与党が三分二の議席に近付いたことさえない。特に与党にとって難しいのは複数議席の選挙区であり、ここは事実上の中選挙区になる。中選挙区では各党が議席を分け合うことになり、与党にとって不利である。そして複数議席の選挙区の定員が増えている。したがって与党が三分二の議席を得ることがますます難しくなっている。つまり衆参の与党が同時期に三分二の議席を占めるということは奇跡であり、未来永劫ないことと筆者は思っている。


そして意外と問題なのが国民投票と筆者は見ている。各種の世論調査を見ても、憲法改正に賛成する国民は5割を超えている。しかし憲法第9条の改正に限れば、賛成が5割を大きく下回る。つまり第9条含みの憲法改正案は、国民投票で否決される可能性が大きい。与党はこのことを甘く考えている。

もし国民投票で第9条含みの憲法改正案で5割以上の賛成を得るには、よほどの状況に日本が置かれた場合しか考えられない。筆者は、5年前の中国漁船の海上保安庁の巡視船への体当たり事件みたいなものがタイミング良く起らない限り、5割以上の賛成を得るということはないと見ている。つまり仮に奇跡が起って衆参で与党が三分二の議席を占めたとしても、国民投票で否決される可能性が極めて高く、その場合には憲法改正は大失敗に終わるのである。安倍政権としては、この大きなリスクのある方向に進むべきではないと筆者は考える。


また奇跡的に憲法改正が国民投票の段階を迎えれば、護憲派という左翼勢力は実力以上の力を発揮し大いに張切るはずである。左翼というものはどの時代でも自分達の非力を自覚している。しかしその分プロパガンダに長けているのが左翼である。マスコミを取込むのもうまく、今日の安保法案審議の報道にも左翼勢力の影響が見受けられる。むしろボロボロなのが保守陣営であり、彼等は「けんか」の仕方を知らない。特に若い保守派政治家は、左翼のことを全く解っていない。

日本の左翼勢力(=護憲派)は、ソ連の崩壊や成田闘争の敗北などで(他には労働組合の弱体化など)ほぼ消滅したはずであった。ところが福島原発事故をきっかけに少しずつ盛返している。ひょっとすると今回の安保法案闘争は、保守と左翼の最終決戦になるかもしれない。この大事な時期に憲法改正という左翼にとって「絶好の餌」を投入れるなんて信じられないことである。


安倍政権は今の安保法案の成立を目指して真直ぐに進めば良い。憲法を改正しようとするから下らない憲法学者が大勢しゃしゃり出てくるのである。特に憲法を先に改正すべきという憲法学者は「隠れ護憲派」と見なして良い。少なくとも憲法改正の動きは、安保法案成立にとって邪魔なだけである。

今の安保法案は憲法の許容範囲を越え違憲という声が大きい。しかしそれは個人や団体の意見に過ぎない。法案成立までの手続きに瑕疵がなければ、当然、法律は制定されることになる。

ただ法案成立後、もちろん新しい法律が違憲と訴えられるかもしれない。しかしその場合は最終的に最高裁がどのような判断をするかである。まず最高裁が高度に政治的な問題と判断を回避することが考えられる(統治行為論)。また部分的に違憲と判断することも有りうる。その場合には成立した法律の手直しが必要になるかもしれない。しかしこれらは今の段階で考えることではない。そして今日の安倍政権にとって最も需要なことは、日本国民が被る可能性がある軍事的な脅威に対する必要な法整備である。あまり時間はない。
http://www.adpweb.com/eco/eco850.html

日本国憲法、アメリカが書いた 2016-08-17
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12191064891.html

我が国の憲法(日本国憲法)は、 「日本国民が主権を保有していない時期」 すなわち、1945年8月15日から、サンフランシスコ条約が発効になった1952年4月28日の「間」に作られたからこそ、問題なのでございます。


 誰が日本国憲法を書いたかといえば、もちろんGHQです。


 などと書くと、すぐに、

「いや、憲法九条は幣原喜重郎首相(当時)が提案したとマッカーサーが語っている。日本国憲法は『押し付け憲法』ではない」

 などと、妙な反論をされてしまうのですが、誰が提案したとしても、日本国憲法が「日本国民に主権がない時期に制定された憲法」であることに変わりはないのです。


 ついでに書いておくと、幣原首相が憲法九条を提案したとして、一体、何の権利を持って提案したのか、という問題が生じます。幣原首相は、日本国民の主権を代表する立場だったのですか?


 何しろ、当時の日本国民には主権がなかったわけで、「存在しない主権を代表する」ことはできません。幣原首相が憲法九条の提案者だったとしても、「主権がない時期に制定された憲法」であることには変わりませんし、むしろ幣原首相は一体全体「何の権利」に基づき、憲法九条を提案したのか、という別の問題が出てきてしまいます。


 憲法九条の提案者については、諸説あるようですが、問題はそこではなく、主権という「根本的な話」なのです。


『バイデン副大統領「日本国憲法、米が書いた」
http://mainichi.jp/articles/20160816/k00/00e/030/200000c

 バイデン米副大統領は15日、東部ペンシルベニア州スクラントンで民主党大統領候補のヒラリー・クリントン前国務長官(68)の応援演説をし、「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と語った。共和党大統領候補の実業家、ドナルド・トランプ氏(70)を批判する中での発言だが、米政府高官が、日本国憲法を「(米国が)起草した」と明言するのは極めて異例だ。 』


 核武装させないためというよりは、日本国を二度とアメリカの脅威に成長させない「瓶の蓋」として機能させるために、「アメリカ」が日本国憲法を書いたのでしょうが、それをアメリカの有人が認める発言したのは、初めてではないかと思います。いずれにせよ、わたくしたち日本国民が、アメリカが書いた憲法により政治的な制約を受け、安全保障が弱体化していっていることは紛れもなき事実なのです。


 ちなみに、わたくしは憲法九条の改正論者ですが、例えば、

「日本国憲法はアメリカが押し付けた憲法だ。無効だ!」

 などと、ラディカルなことを言いたいわけではありません。同時に、今すぐ憲法九条(及び前文)を改正するべき、と主張したいわけでもありません。


 と言いますか、現在の日本が憲法九条改正を巡り国民投票をやった日には、間違いなくブレグジットの英国以上に国民が分断され、国民統合が壊されることで逆に安全保障が揺らぐ可能性が高いと思います。中国という仮想敵国の脅威が本格化しているこの時期に、国民統合を壊す国民投票を実施するのは、むしろ危険だと思います。(そういう意味で、イギリスの国民投票は本当に参考になりました)


 ならば、中国にどう対処するべきか、と言われそうですが、ですから尖閣諸島の問題は公務員(自衛隊)を常駐させれば、とりあえずは終わります。南シナ海の問題は、より厄介ですが、こちらは東南アジア諸国(及びアメリカ)と集団安全保障の道を探るしかありません。


 いずれにせよ、まずは国民が、

「自分たちは外国(アメリカ)が書いた憲法下で安全保障に関する制約を受け、さらに中国という仮想敵国の脅威が高まっている」

 という「事実」を認識した上で、議論していくべきだと思うのです。


 上記を認識すれば、例えば憲法九条をご神体のごとく崇める行為が、いかに愚かであるかが分かります。草案者がGHQだろうが、マッカーサーだろうが、幣原首相だろうが、誰であろうとも、日本国憲法が「日本国民が主権を持たない時期」に制定されたことに変わりはないのです。


 ちなみに、別にわたくしは反米ではありませんし、上記の「事実」により反米感情を高めたいわけでもありません。アメリカは、あくまで自国の国益のために、日本国憲法を書いたわけです。もちろん、先日も書いた通りハーグ陸戦条約違反ですが、それを日本国側から追求しないのが問題なのです。


 この手の「事実」が国民に広く共有されて初めて、我が国はアメリカの「瓶の蓋」から逃れることができるでしょうし、中国との「軍事バランス」を均衡させることも可能になります。


 それにしても、アメリカの政治家が「日本国憲法、アメリカが書いた」と堂々と発言してしまうわけですから、時代の移り変わりをまざまざと感じさせられました。


59. 中川隆[3710] koaQ7Jey 2016年8月23日 00:17:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4095]

ウォール街は第2次世界大戦で日本が降伏した直後から中国支配を狙ってきた。その手先と考えられていたのが国民党。1945年4月、ドイツが降伏する前の月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還、親ファシスト/反コミュニスト、そして植民地を肯定する方向へアメリカの舵は切られた。

 しかも、1944年9月にソ連駐在のアメリカ大使だったアベレル・ハリマンはモスクワでソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相から中国共産党を援助しないと言われた。1945年4月にヨシフ・スターリンやモロトフと会談したパトリック・ハーレーによると、スターリンは蒋介石に好意をよせていたともいう。国際連合の創設に関する会議に中国共産党の代表を呼んだのはアメリカのルーズベルト大統領だった。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 そのルーズベルトが死んだことで、中国は蒋介石が率いる国民党が制圧すると見る人は多かったようだが、実際は違い、1949年1月に解放軍が北京へ無血入城し、コミュニストの指導部も北京に入り、5月には上海を支配下におく。中華人民共和国が成立したのは10月のことだ。

 大戦後、アメリカは破壊工作を目的としたOPCを創設、東アジアにおける拠点は上海に置かれていた。その上海が解放軍に制圧される見通しが立つと、拠点を日本へ移動させている。その拠点の数は6カ所で、中心はアメリカ海軍の厚木基地だった言われている。

 その1949年の夏、日本では国鉄を舞台とした「怪事件」が続いた。下山事件、三鷹事件、そして松川事件だ。1950年末までにOPCは日本で1000人以上を訓練、ゲリラ戦の戦闘員として戦争が行われていた朝鮮半島へ送り込まれている。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, "The United States And Biological Warfare", Indiana University Press, 1998)
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608220001/


60. 中川隆[3804] koaQ7Jey 2016年8月31日 11:20:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4190]

2016.08.31
安倍政権は米好戦派の命令に従って改憲を目論んでいるが、その好戦派に憲法9条は通用しない

 安倍晋三政権は現在の日本社会を完全に破壊し、二度と民主化への道を歩めないようにしようと必死だ。さまざまな問題を抱えてはいるものの、現在の憲法は民主主義という柱を持っていることも事実。その憲法を壊そうとしている。国を巨大資本の支配下に置く、つまり庶民から基本的人権を奪うTPP(環太平洋連携協定)の推進とも深く関係していると言えるだろう。

 彼らが嫌っている憲法の条文のひとつが第9条だが、これについては2004年にリチャード・アーミテージが自民党の中川秀直らに対し、「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明していた。自分たちが従属しているアメリカの好戦派の命令なので第9条を変えたがっているわけだ。

 憲法が施行された直後、この第9条を嫌っていた代表的な人物が昭和(裕仁)天皇。彼は、コミュニストが日本を制圧して自分を絞首台や断頭台の前に引きずり出すのではないかと恐れていたようだ。そこで天皇はダグラス・マッカーサーに対して憲法第9条への不安を口にしたという。

 この話は通訳の奥村勝蔵がメディアにリークしているが、その立場からすれば、天皇を含む日本の支配層にとって都合良く加工されていたはずだと考えるのが常識的。奥村の流した話では、マッカーサーが天皇に対してアメリカが日本の防衛を引き受けると保証したということになっているが、奥村が隠した後半部分に重要な会話があった。

 その後半部分で「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である」とマッカーサーは語ったという。(豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』)

 日本では「冷戦」によってアメリカ側の姿勢が変化したかのように説明する人がいるのだが、本ブログでは何度も書いているように、1945年4月にルーズベルト大統領が急死した時にアメリカは反ファシストから反コミュニストへ主導権が移っている。5月のドイツが降伏するが、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチルがソ連に対する奇襲攻撃を計画していたことも本ブログで紹介している。アレン・ダレスたちは戦争の終盤、ルーズベルト大統領に無断でナチスの幹部たちと接触していたことも知られている。

 アレン・ダレスは兄のジョン・フォスター・ダレスと同じようにウォール街の大物弁護士、つまり巨大資本の代理人。その巨大資本はナチスのスポンサーであり、ルーズベルトが大統領に就任した1933年から34年にかけてクーデターを目論んでいたことも海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将の議会証言で明らかにされている。この当時からアメリカの巨大資本はファシストだということであり、TPP、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TISA(新サービス貿易協定)を推し進めようとするのは必然だ。

 現在のアメリカを築いたのは、1620年にメイフラワー号でアメリカへ渡ったピューリタンだとされているが、この人びとに続くヨーロッパ人は先住民を殲滅し、土地や資源を奪い、生態系を破壊した。北アメリカでの制圧が一段落すると、カリブ海、中央アメリカ、そして南アメリカを侵略していく。彼らの富は生産でなく銃口で築いたと言える。この点、やり口はイギリスに似ている。

 19世紀のイギリスは経済力で中国(清)に完敗、貿易赤字を埋め合わせるためにアヘンを売りつけ、侵略戦争で富や利権を手にした。そのイギリスの手先になることで徳川幕府を倒し、実権を握ったのが長州藩や薩摩藩を中心とする勢力だ。彼らが東アジアを侵略するのは必然だった。

 ピューリタンは1640年から60年にかけて革命を成功させているいるが、その際に議会軍を指揮したのがオリバー・クロムウェル。王党派を破った後、小農民や職人層に支持されていた水平派を弾圧し、アイルランドを侵略して住民を虐殺した。彼は宗教的な信念からユダヤ教徒をイングランドへ連れて来るが、その先、パレスチナへ移住させることを想定していたようだ。

 こうした伝統を受け継いでいるのか、現在のアメリカを支配している人びとも破壊と殺戮を繰り返し、「平和に対する世界の輿論」など意に介していない。メディアやハリウッドの力で庶民は簡単に操れると考えているのだろう。こうした種の人びとに対して憲法第9条は無力だ。アメリカにこの条項は通用しない。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608310000/


61. 中川隆[3877] koaQ7Jey 2016年9月04日 07:30:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4263]

戦前の日本はウォール街、つまりアメリカの巨大資本に支配されていた。

その切っ掛けは1923年の関東大震災。その復興資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大金融資本、JPモルガンに頼ったのだが、それ以降、日本はウォール街の影響下に入り、最近の用語を使うならば、新自由主義を導入する。

 その当時、日本で最もJPモルガンと親しくしていたのは井上準之助だと言われている。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がJPモルガンとの関係を深めるのは1920年の対中国借款交渉以降。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。

 震災後、1925年に「治安維持法」が制定されて思想統制が本格化、27年には第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵と張作霖爆殺。日本共産党関係者らが大量に検挙されたのも1928年だ。

 1931年には、関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案した計画に基づいてい満鉄の線路が爆破され、いわゆる満州事変が勃発、32年には日本の傀儡国家である満州国の建国が宣言された。

 この1932年にアメリカでは大統領選挙があったのだが、ウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーがニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。ニューディール派は資本主義を延命させるため、大企業の活動を制限、労働者の権利を拡大しようとしていた。ファシズムや植民地にも反対している。

 そうした事態に慌てたウォール街はJPモルガンを中心として、1933年から34年にかけて反ニューディール派のクーデターを計画する。これは海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将の議会証言などで発覚、記録に残されている。

 1932年には、アメリカ大使としてジョセフ・グルーが日本へ赴任してくる。この人物のいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻、つまりJPモルガンは自分たちの強力な代理人を日本へ送り込んできた。グルーと最も親しかった日本人のひとりが松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1932年までの日米関係は基本的に今と同じで、日本政府の新自由主義的政策は不況を深刻化させた。そのころ、東北地方では娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になっている。支配層は裕福になり、庶民は貧困化、つまり貧富の差が拡大している。

 こうした政策を推進した浜口雄幸首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡し、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺された。その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺され、5月には五・一五事件が引き起こされている。そして1936年2月には二・二六事件だ。

 ウォール街の戦略に従うならば、攻撃する相手はソ連。1939年に日本軍は中国東北部とモンゴルの国境地域でソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊が攻撃で日本軍は壊滅してしまった。このソ連軍との衝突は日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされている。

 ドイツがソ連に攻め込むのは1941年。「バルバロッサ作戦」だ。当初、ドイツ軍が優勢だったが、この時にアメリカやイギリスの支配層は傍観している。ルーズベルト大統領はソ連を支援する意思があったようだが、実行できなかった。

 ところが、1942年の冬に形成は逆転、43年1月にドイツ軍はソ連軍に降伏する。これを見てアメリカは慌てて動き出し、1944年6月にはノルマンディー海岸に上陸する。オーバーロード作戦だ。これを「反攻」と呼ぶのは適切でない。この時点でドイツ軍の主力は崩壊していたからだ。

 バルバロッサ作戦が始まった半年後、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの戦争に突入するが、その翌年までグルーは日本に滞在、離日の直前に岸信介からゴルフを誘われて一緒にプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 グルー/JPモルガンという座標軸で流れを見るならば、松岡も岸も井上も浜口もウォール街の傀儡にすぎない。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609040000/


62. 中川隆[3944] koaQ7Jey 2016年9月09日 04:28:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4331]

ルーズベルトが率いていたニューディール派は巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、ファシズムや植民地に反対すると主張していた。

巨大資本を含むアメリカの支配層はその主張が自分たちの利益に反すると考え、ルーズベルトが大統領に就任した1933年から34年にかけてクーデターを計画した。

 クーデターの中心はJPモルガンだったようで、彼らはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていたという。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を攻撃し、50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることになっていたという。

 このクーデター計画を成功させるため、軍の内部で人望の厚かった伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将をウォール街は懐柔しようとしたのだが、拒否されてしまう。クーデター派にカウンター・クーデターの意思を伝える一方、議会で計画を明らかにしたのである。当然、その証言は公式の記録として残っているので、容易に確認できる。

 バトラーからクーデターの話を聞いた知り合いのジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国を守るため、ファシスト政府が必要だ」という話を引き出している。これも議会証言として記録に残っている。

 クーデターを実行すればバトラー少将がカウンタークーデターで対抗、内戦になることは必至だったが、ルーズベルト大統領がクーデター派を摘発すれば、やはり内戦になる可能性が高かった。そこで有耶無耶のうちに幕引きになったが、この時代を研究している学者や記者が知らないはずはない。

 第2次世界大戦の終盤、ドイツが降伏する前の月にルーズベルトは急死、ウォール街が主導権を奪還する。その後はニューディール的な要素を消し去る作業が始まり、1999年11月にはグラス・スティーガル法の求めていた銀行業務と証券業務の分離がグラム・リーチ・ブライリー法の成立で撤廃され、その目的の大半は達成された。そうした作業の総仕上げと言うべきものがTPP、TTIP、TiSAだ。これらの協定によって巨大資本が国を支配することが可能になる。その間、1970年代のアメリカでは「多国籍企業」が問題になっていたが、その時点で巨大資本による世界支配を懸念する人はいたということだろう。

 巨大資本が世界を支配するという形は新しくない。例えば、ラテン・アメリカ諸国はアメリカの巨大資本に支配され、「バナナ共和国」と呼ばれるていた。また、イギリスなどヨーロッパ諸国は19世紀までインドを私企業である東インド会社が実行している。

 インドを支配するためにイギリスは傭兵を使っている。全兵力23万8000人のうちイギリス兵は3万8000人、残りの20万人はシパーヒー(またはセポイ)と呼ばれる傭兵だった。シパーヒーは上級カースト出身者が多く採用されたという。そのシパーヒーが1857年に反乱を起こした。「インド大反乱」、あるいは「第一次インド独立戦争」と名づけられているが、かつては「セポイの反乱」と呼ばれていた。

 当時、イギリスは技術革新にともなって工場制生産に移行している。いわゆる産業革命だが、中国(清)との貿易でイギリスは大幅な輸入超過に苦しむことになる。近代的な工場が作り出す製品が中国の絹や茶に負けたということだ。

 その苦境から脱するため、東インド会社はインド産のアヘンを中国へ密輸するのだが、それを中国側が禁止するとイギリスは武力による制圧に乗り出した。アヘン戦争(1840年から42年)である。この戦争で中国における利権を手にするが、まだ不十分だと考えたようで、1856年から60年にかけてはアロー戦争を仕掛けている。

 1865年にはイギリスが麻薬取引の拠点にしていた香港で香港上海銀行が創設され、66年に横浜へ進出、さらに大阪、神戸、長崎にも支店を開設している。1867年には「大政奉還」、長州藩と薩摩藩を中心とする新政府が誕生した。

 この当時、イギリスの支配層はライバルのフランス、ドイツ、ロシアに対抗するために約14万人の兵士が必要だと考えていたが、実際の兵力は7万人。そこで目を付けられたのが日本で、1902年には「日英同盟協約」が結ばれる。日本人を一種の傭兵にしようというわけだろう。この同盟は1921年、日本、アメリカ、フランス、イギリスの4カ国条約の成立によって廃止が決まるまで続いた。

 1904年に日本はイギリスのライバル、帝政ロシアと戦争を始めるが、戦費とし約2億ドルを融資したのはロスチャイルド系のクーン・ローブ。この金融機関を率いていたジェイコブ・シフと日銀副総裁だった高橋是清は親しい。言うまでもなく、ロスチャイルドはイギリスの動きと深い関係にある。日清戦争の後、日本は戦艦の建設に力を入れているが、その際にイギリス海軍が協力している。ロシアと日本との戦争を見通してのことだろう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609080001/


63. 中川隆[4461] koaQ7Jey 2016年10月15日 09:57:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4871]

朝鮮半島から中国を狙う拠点としてもイギリスは日本を重視していたが、兵力の不足分を日本に化代わりさせようともしていた。フランス、ドイツ、ロシアに対抗するために約14万人の兵士が必要だと見られていたが、実際の兵力は7万人。足りない分は日本に使うということだ。「明治維新」の背後にはイギリスが存在していたが、1902年には日英同盟協約が結ばれている。

 「明治政府」は1871年7月に廃藩置県を実施して中央集権化を進めるが、琉球国を潰して琉球藩をでっち上げるのは72年。そして1879年に沖縄県が作られた。この琉球処分、つまり琉球併合は1871年10月の宮古島漁民の難破事件が引き金になっている。

 1872年に厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーが来日しているが、この人物は外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めたとされている。その後、リ・ジェンダーは1875年まで外務省の顧問を務めた。

 日本は1874年に台湾へ派兵、75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功する。無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させた。条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席したようだ。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣した。それに対して朝鮮政府は清(中国)に派兵を依頼、日清戦争につながる。この戦争に勝利した日本は大陸侵略を本格化させていく。

 当時、朝鮮王朝をコントロールしていたのは閔妃(高宗の妻)の一族。閔妃はロシアへ接近すると考えた日本政府は三浦梧楼公使を使い、閔妃を含む女性3名を惨殺する。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになった。なお、その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についている。

 そして1904年に日本は帝政ロシアと戦争を始めるのだが、戦費はロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブのジェイコブ・シフが用立てた。日本に対し、約2億ドルを融資しているのだ。当時、日銀副総裁だった高橋是清はシフと親しくなる。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610150000/


64. 中川隆[4657] koaQ7Jey 2016年10月26日 07:41:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5069]

日本の体制は戦前も戦後も基本的に同じで、天皇制官僚国家。「国体」は護持されたと言えるだろう。

そのつながりを象徴する人物が1932年6月から41年12月まで駐日大使を務めたジョセフ・グルー。

そのいとこにあたるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまり巨大金融機関J・P・モルガンを率いていた人物の妻だ。


 J・P・モルガンと最も近い関係にあった井上準之助は1932年2月に射殺されているものの、松岡洋右のように親しい日本人は残っていた。松岡の妹が結婚した佐藤松介の甥にあたる岸信介や佐藤栄作もグルーとはつながっていた。

 1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街に支援されていた現職のハーバート・フーバーが破れている。そこで、J・P・モルガンをはじめとするウォール街の金融資本がファシズム体制の樹立を目指してクーデターを計画した。この計画はスメドリー・バトラー少将の議会証言で明るみに出ている。

 J・P・モルガンが日本を属国化する切っ掛けは1923年の関東大震災。復興資金の調達を引き受けたのがこの金融機関だった。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がこの金融機関と結びつくのは必然だったのかもしれない。

 震災後、1925年に「治安維持法」が制定されて思想統制が本格化、27年には第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵と張作霖爆殺があった。1928年には日本共産党関係者らが大量に検挙されている。

 そして1931年、関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案した計画に基づいてい満鉄の線路が爆破され、いわゆる満州事変が勃発、32年には日本の傀儡国家である満州国の建国が宣言された。この満州国について、アジアにコミュニズムが広がるのを食い止める防壁だとウォール街の大物弁護士で、ロックフェラー財団の理事長でもあったジョン・フォスター・ダレスは考えていたという。(Mainichi Daily News, September 14, 1971)

 ウォール街がイデオロギーだけで動くとは考え難く、満州国の建国を中国略奪の一環として捉えていたのではないだろうか?

 それはともかく、グルーと親しくしていた日本人は少なくない。その中には吉田茂や白州次郎も含まれ、外務大臣だったことから豊田貞次郎海軍大将も親交があった。豊田の親戚の中には日本開発銀行の頭取になる小林中がいる。

 また、グルーを中心に活動していたアメリカ対日協議会(ジャパン・ロビー)を支えていたひとりであるウィリアム・ドレイパー(ディロン・リード銀行の出身で、陸軍次官を経験)は池田勇人と親しく、その池田の子分にあたる人物が福田赳夫。つまり、吉田、岸、池田、佐藤、福田はジャパン・ロビー、つまりウォール街に直結している首相だった。そして、岸の孫が安倍晋三だ。

 現在、アメリカが進めている政策は1992年2月に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリン(DPG草案)に基づき、日本の軍事化はその流れの中でのこと。日本が進む方向を戦争へと導いてきた人物として、ジョセフ・ナイ、リチャード・アーミテージ、マイケル・グリーン、パトリック・クローニンといった名前が挙がっているが、安倍を操っているのはI・ルイス・リビーだとも言われている。リビーはウォルフォウィッツと一緒にドクトリンを書いたネオコン/シオニストの大物でもある。

 日米関係は戦前も戦後も基本的に同じだ。戦後はニューディール派の影響で民主的な要素も加わったのだが、それは数十年かけて消されてきた。その間、民主主義を破壊する作業を大半の日本人は傍観、戦前以上のファシズム体制が迫っている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610260000/


65. 中川隆[5342] koaQ7Jey 2016年12月08日 12:28:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5777]

真珠湾攻撃へ至る道のりは1872年の琉球併合から始まっているが、その終着点はまだ見えない

 今から75年前、1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃、アメリカの太平洋艦隊は大きな打撃を受けた。どのような経緯があったとしても奇襲攻撃は奇襲攻撃だった。

 この攻撃へ至る道のりは1872年、薩摩と長州の政権が琉球を併合したときから始まっている。1874年に日本政府は台湾へ派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を始めている。1931年には日本軍の奉天独立守備隊の河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こしたが、この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だった。

 1932年には「満州国」の樹立を宣言、37年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしているが、その時に組織的な財宝略奪作戦が始まったとも言われている。1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こした。

 1932年はアメリカで大統領選挙があった。この選挙でウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバー大統領がニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北してしまう。フーバーの周辺は日本の中国侵略に寛容な姿勢を見せていたが、反植民地、反ファシズムを掲げ、巨大企業の活動を制限して労働者の権利を認めようとしていたルーズベルトが大統領になったことで日本の置かれた状況も大きく変化した。

 ドイツ軍が飛び地問題を解決するためにポーランドへ軍事侵攻したのが1939年9月。その2日後にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して第2次世界大戦は始まるが、約半年の間は戦闘らしい戦闘がなかった。

 1941年5月にナチスの副総統だったルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランドへ飛ぶ。西からドイツを攻撃しないと約束させることが目的だったという説もある。

 この年の6月にはドイツ軍がソ連に向かって進撃を開始する。「バルバロッサ作戦」だ。当初はドイツ軍がソ連軍を圧倒し、42年8月にはスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入する。そうした状況をイギリスやアメリカは傍観していた。日本軍が真珠湾を攻撃したのはこうしたドイツ軍が優勢だった時期だ。

 ところが、1942年6月に日本海軍はミッドウェー諸島の攻略作戦でアメリカ海軍に壊滅的な敗北を喫し、この年の11月にはソ連軍が反撃を開始、翌年の1月にはドイツ軍が降伏している。この結果、日本が苦境に陥っただけでなく、ドイツ軍は主力部隊を失い、戦争の勝敗は決したと言える状況になった。

 慌てたアメリカとイギリスは1943年5月にワシントンDCで善後策を協議、7月にマフィアと手を組んでアメリカ軍がシチリア島へ上陸、44年6月にはノルマンディーに上陸している。「オーバーロード作戦」だ。ハリウッド映画で有名になったが、この時点でドイツ軍の敗北は決定的。アメリカやイギリスが見ていた相手はソ連だ。そこから陣取り合戦が始まる。

 この時点でナチスの幹部やナチス協力者がアレン・ダレスなどに接触、アメリカ側もそうした人びとを救出、逃亡を助け、保護することになる。ルーズベルトが執務中に急死した翌月、つまり1945年5月にドイツが降伏するとウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)はソ連を攻撃する作戦を作成した。これが「アンシンカブル作戦」。

 それによると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、参謀本部が反対して実現せず、首相は下野することになる。そのチャーチルは1946年3月にアメリカのミズーリ州で「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。ドイツの敗北でソ連を倒すことに失敗、冷戦を始めたと言えるだろう。「日米同盟」はその延長線上にあり、中国やロシアとの戦争へ安倍晋三政権は向かおうとしている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201612080000/


66. 中川隆[5686] koaQ7Jey 2016年12月26日 12:21:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6127]

「真珠湾」通告遅れは意図的か 対米開戦に新説 九大教授が米記録発見
西日本新聞 12/26(月) 10:29配信 q

三輪教授が米国公文書館で入手した米軍資料。訂正電報を傍受した記録が暗号で記されている


 太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、ワシントンの在米日本大使館の怠慢だったとする通説を覆し、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因とする説が浮上している。九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、通告の訂正電報を外務省が13〜14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見した。開戦から75年。安倍晋三首相がハワイ・真珠湾を訪問するが、通告の遅れに関する真相究明が進んでいる。

【画像】入手した米軍資料。訂正電報を傍受した記録が暗号で記されている
三輪教授が米国公文書館で入手した米軍資料。訂正電報を傍受した記録が暗号で記されている


 日本が日米交渉の打ち切りを米国に伝えた「対米覚書」が、開戦通告と位置付けられている。

 三輪教授が発見したのは、覚書の一部である二つの電報の発信記録。外務省が大使館に発信し、米海軍が傍受したもので、1941年12月7日の「午前0時20分」と「午前1時32分」(いずれも米東部時間)とある。この電報の存在と時刻が何を意味するのか。

電報は14部に分けて発信

 旧日本軍が真珠湾攻撃を開始したのは、同7日午後1時19分。覚書が当時のハル米国務長官に手渡されたのは1時間後の午後2時20分だった。この遅れが、米国から「だまし討ち」と批判される原因となった。

 覚書は、外務省が発信した暗号電報を大使館が解読し、英文に直してタイプライターで作成した。長文のため、電報は14部に分けて発信された。

 1〜13部は同6日午前8時〜11時25分に発信されており、内容はこれまでの日米交渉を確認するにとどまる。交渉を打ち切るという「結論」は14部で初めて分かるが、ぎりぎりまで機密を保持するため、13部から約15時間後の7日午前2時38分に発信された。
.

二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」

 現在の通説はこうだ。大使館は6日中に13部までをタイプライターで清書し、7日朝に14部を追加すれば開戦前に通告できたはず。しかし、大使館は7日朝から1〜14部の清書を始めたため、間に合わなかった。6日夜に大使館内で送別会があっていたことなどから、大使館の「怠慢」が通告遅れを招いた−。

 だが、三輪教授は、元外務省ニュージーランド大使の井口武夫氏が2008年の著書で触れた訂正電報の存在に注目した。当時、大使館の1等書記官だった奥村勝蔵氏が、1945年に「夜半までに13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と陳述していた。

 三輪教授は、大使館が1〜13部の「訂正電報」を待っていたため、清書ができなかったとする仮説を立てた。訂正が175字に上っていたことも外交資料で分かった。当時のタイプライターは途中で挿入や訂正ができない。大使館は「訂正電報」が届くまで清書ができなかったのではないか。

 発見した二つの電報は、他の電報の詳細と突き合わせた結果、「訂正電報の可能性が極めて高く、奥村証言を裏付ける証拠」と三輪教授は読む。13部が発信された6日午前11時半から、二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」がある。この間、大使館は清書ができない。

 これが事実とすれば、では何のために、外務省は訂正電報を遅らせたのか。
=2016/12/26付 西日本新聞朝刊=


真珠湾攻撃に新説 「訂正」打電遅れ、陸軍が指示? 大使館は清書できず
2016年12月26日 10時22分


開戦前後の日米の動きと米海軍の傍受記録


 九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が発見した2通の電報記録。外務省が在米日本大使館に発信したもので、これらが「訂正電報」とすれば、急を要するはずの対米覚書の訂正を、外務省は半日以上遅らせていたことになる。

 その理由を三輪教授は「陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されぬよう、わざと遅らせ、外務省も協力した可能性が高い」とみる。着目したのは、いくつかの他の電報の存在だ。

 米東部時間で1941年12月6日午前9時54分、米国人タイピストの使用禁止を指示(表の1)。14部の発信から約2時間後の7日午前4時18分、大使館に初めて、米政府に「(7日)午後1時に通告」するよう指示している(2)。外務省は事前に、対米覚書が開戦通告という極めて重大な文書であることを大使館に伝えていなかった。

 同午前4時44分には、電報を解読するための暗号機3台のうち、2台の破棄を命令した(3)。開戦後の米政府による押収を恐れた措置とされる。

 元ニュージーランド大使の井口武夫氏が、大使館の電信担当官の吉田寿一氏にこの時の状況について聞いている。吉田氏は7日午前9時ごろから、未明に届いた電報解読に取り掛かった。「終わりの方になって『午後1時にハル長官に…手交せよ』というのがあった。急いで14部の解読に当たった」と証言している。

 三輪教授は、米軍が電報を傍受していたことを旧日本陸軍が極度に警戒し、開戦ぎりぎりか、遅れて通告しても構わないと考えていたとみている。

 175字もの訂正電報を7日の午前0時20分、同1時32分に送ったのも、こうした推論を裏付ける。「大使館の作業を遅らせる意図があったとしか考えられない。陸軍、外務省は大使館をも欺いていた」

電報消失し、「大使館の怠慢」通説に だが、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)や外務省幹部らの証言で、通告遅延の原因は「大使館の怠慢」説が広がり、定着していく。東郷茂徳外相(開戦時)は東京裁判で「通告に時間がかかったのは、大使館が案文の修正に手間取ったからである」と証言している。

 三輪教授は2011年、日本の国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」と題したファイルの中から、これまで明らかになっていなかった法務省作成の「弁護方針(案)」という文書を見つけた。

 旧日本海軍と外務省が東京裁判の弁護方針を打ち合わせた記録には、こう書かれていた。

 〈「最後通牒」手交ノ遅延ハ在華対(ママ)日本大使館ニ於ケル事務遅延ノ為ニシテ我方ノ意図ニ反セルコト 詳細ハ外務省内部ノ決定ニ一任ス〉

 裁判後、怠慢説を広げる中心となったのは、開戦時の外務省アメリカ局第1課長だった加瀬俊一氏と大使館海軍武官補佐官の実松譲氏だ。著書やインタビューで「6日夜、大使館員は送別会で出払い、誰も電報に気付かなかった」「翌日は午前9時半に近いというのに、本国からの大量の電報は郵便受けに放置されたままだった」と繰り返した。

 だが、大使館の電信官は7日未明まで待機し、電報は手渡しで受け取ることになっていた。2人の証言が事実と異なることが今では解明されている。

 そもそも、2通の「訂正電報」は1942年の外務省の火事や45年の空襲で焼失したとされ、長らく存在さえ知られていなかった。

 こうした事実や状況から、三輪教授は「通告の遅れは、大使館の事務作業の遅れが原因だということにしようという意図が働いていた」とみている。

 その理由をこう結論付ける。「開戦の意図を米軍に察知されたくなかった陸軍や、A級戦犯だった東郷外相に重い罪を科されないようにするため、大使館の責任にする必要があった。そのために、発信時刻が判明する訂正電報を焼却したと考えるのが合理的だ」

 三輪教授は、歴史から教訓を得るには開戦時のさらなる史実の検証が必要だと訴える。

=2016/12/26付 西日本新聞朝刊=


真珠湾攻撃に新説 専門家3人に聞く
2016年12月26日10時17分 (更新 12月26日 11時57分)

 対米開戦に関し、九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が発見した2通の電報記録について、専門家3人の見方を聞いた。

「価値ある物的な証拠」長崎純心大の塩崎弘明教授の話 くすぶり続けている通告遅延の責任問題で、外務省の訂正が十数時間も遅れたことを示す貴重な資料だ。開戦通告を巡っては、日米それぞれでいろいろな説が唱えられており、単なるイデオロギー論争にもなりがちだ。そうした中で物的な証拠を示したことに価値がある。今後の開戦通告の事実が大きく解明されることを期待したい。

「内容不明で判断困難」現代史家の秦郁彦氏の話 三輪教授が発見した訂正電報の発信時刻を示す記録は、訂正内容が分からなければ資料的価値の評価は難しい。2通の訂正電報が十数時間遅れていたからといって、全ての通告遅延の原因が外務省にあるとは言い過ぎではないか。大使館では、日米の大事な局面にもかかわらず、職員を一度は自宅に帰しており、大使館の対応にやはり問題はあったと考えている。

「責任所在解明に意義」筑波大名誉教授の波多野澄雄氏の話 分割発信された対米覚書の14部の発信が遅れた原因については、これまでの研究で参謀本部(通信課など)の介入が指摘されてきた。覚書の誤字脱字の訂正に関する2通の訂正電報まで13〜14時間も発信が遅れたとすれば、大使館の対応をさらに困難にしたことは間違いない。今回の発見は、開戦通告の遅延に関する責任の所在を明らかにするという意味で大きな意義がある。

=2016/12/26付 西日本新聞朝刊=


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要するに、ルーズベルトとグルだった昭和天皇の指示で吉田茂が宣戦布告を意図的に遅らせた

という事ですね


67. 中川隆[5730] koaQ7Jey 2016年12月28日 07:36:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6171]

2012-09-08 吉田茂は“マッカーサーのペット”だった

ベストセラー「戦後史の正体」の著者・孫崎 亨氏がNHKドラマ「負けて勝つ~戦後を創った男・吉田茂」(9月7日よりスタート。午後9時~10時13分・連続5回)の正しい見方を伝授している。


(引用、ここから)
孫崎 享 2012年9月7日 - 15:05

吉田茂:NHKドラマ吉田茂の「負けて勝つ」。
本当か!

歴史を見れば、吉田茂、本質従米以外の何者でもない。

今日日本の政治の醜さの原型は吉田首相に。
占領下米国隷従の吉田首相が独立後も政権を担ったのが日本の悲劇。
かつ池田勇人等、吉田学校とか言ってその後の政治家も継承。

米国隷属の権化を英雄に仕立てようとするNHKドラマは何を意図?
番組偶然でない。

野田首相はTPPやオスプレイ等で全くの隷属。
その時期にこの番組。

という訳で、見る時の手引き書を作成


 @占領軍の性格を正確に伝えているか。

  降伏文書は「日本はポツダム宣言実施のため、連合国総司令官に要求された全命令を出し行動とる事を約束する」、


 A吉田首相の基本姿勢は

  『鯉はまな板の上にのせられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子』。

  それを知らせているか。


 Bマッカーサーは

  「軍事占領は、一方はドレイになり、他方はその主人の役を演じ始める

と述べ、吉田を含め日本側をドレイに見てたことを知らせているか


 C吉田茂はGHQの情報部門の代表者ウィロビーの宿舎に夜こそこそ出かけ指示を仰いでいたことを報じているか、


 D占領直後、米国は日本の経済を徹底的に破壊する姿勢を示したが、その時吉田はどうしていたか、


 E米国の対日政策が変更したのは冷戦が深刻化し、米国が日本利用決定し対日経済政策変更、これを単に吉田の業績としてないか、


 F吉田首相の最大の問題は安全保障で日米安保条約に署名したこと。


ダレスは

「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標」。

 吉田首相はこれにどう抵抗したか、

またダレスは米紙に

「米国は日本を守る義務をもっていない。」

と書いているが、これに吉田首相はどう対応したか」

皮肉なことにNHK放映、「戦後史の正体」ベストセラーになる真っ最中。

「戦後史の正体」の多くの読者は「この番組何」と厳しい評価を下すだろう。
(引用、ここまで)


“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

 そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

 吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。

 吉 田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。

 養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。

吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。
日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。

ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。


 富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵の長女・雪子。

 雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。

実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。

アリスの母の旧姓はキャボット。
黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。


 吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

 前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。
 
 NHKドラマ「負けて勝つ」はまさか吉田茂が“売国奴”だったことなど触れるわけがないだろう。5回にわたるドラマは最も重要であり真実である部分を隠蔽するに違いない。この点を凝視する必要がある。

 ところで、吉田茂の身長は155センチ。かなりの小柄だ。主演の渡辺謙は何と184センチという長身だから、このことをとっても“嘘”なのだ。今の若者にとっては吉田茂が小男だったことなどは知る由もないから、イメージのギャップもない。それを良いことにマッカーサーにひけをとらない長身の吉田茂を視聴者に印象づけようとしている。

 解散総選挙が視野に入りつつある今、保守本流と言われてきた吉田茂を持ち上げるドラマが放送されることに違和感を感じなければならない。
http://ameblo.jp/parody/entry-11349418084.html


68. 中川隆[5770] koaQ7Jey 2016年12月31日 09:24:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6211]

真珠湾攻撃75年目の真実 〜なぜ対米通告は遅れたのか? 通説は「完全な誤り」だった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50619
2016.12.30 近藤 大介 『週刊現代』編集次長 現代ビジネス 


■通説は「完全な誤り」

日本時間の12月28日早朝、安倍晋三首相が、現職の首相として初めて真珠湾を訪問し、オバマ大統領とともに日米和解のスピーチを述べた。

このテレビ映像を、万感の思いで見守っていたのが、井口武夫元ニュージーランド大使(86歳)である。父親は、1941年12月の日米開戦時、ワシントンの日本大使館で参事官を務めていた井口貞夫元駐米大使。日米開戦当時、11歳だった井口武夫氏も、ワシントンで日本大使館が混乱していく様子を、鮮明に記憶しているという。

そんな井口氏が、生涯をかけて取り組んでいるのが、なぜ真珠湾攻撃の際の日本の対米通告が遅れたのかという問題である。

2008年に『開戦神話――対米通告はなぜ遅れたのか』(2011年に『開戦神話――対米通告を遅らせたのは誰か』として増補改訂)を出版した井口氏が、最新の研究によって明らかになった真珠湾攻撃と日米開戦の真実について明かした。

             

以下、井口氏との一問一答である。

近藤:安倍首相が真珠湾で、17分近くにわたるスピーチを行いました。これをお聞きになってどう思われましたか。

井口:非常に画期的な出来事だったと思います。それと同時に、これで日米開戦の問題にフタをして、おしまいにしてはならないという思いです。

近藤:真珠湾攻撃に関しては、アメリカ側から、宣戦布告のない奇襲攻撃だったとの非難を受けています。

東京裁判では、外務省幹部たちが「最後通牒のアメリカへの手交が遅れたのは、ワシントンの日本大使館の怠慢のせいだった」「日本大使館が最後通牒の案文の修正に手間取ったからだ」などと証言し、それらが通説となってきました。

でも、そうした俗説は誤りだったのですね。

井口:完全な誤りです。

陸軍参謀本部が米国に開戦の意図を察知されることを恐れて、最後通牒をアメリカ側に通告するのを遅らせようとした。それに外務省本省が協力させられたのです。

ハル・ノートに絶望して対米開戦を決意した日本政府は、米国に企図を察知されないため、身内であるはずのワシントンの日本大使館にも、対米開戦について秘匿し続けました。

井口:開戦直前の11月28日付の「844号電報」では、ワシントンの野村吉三郎大使に、「実質的ニハ打切トスル他ナキ情勢ナルカ先方ニ対シテハ交渉決裂ノ印象ヲ与フルコトヲ避ケルコトトシ」と警告しています。

また、米国との交渉最終期限になっても交渉打ち切りをまったく通報せず、交渉打ち切りの結論部分の最終覚書を、開戦当日の12月7日朝(ワシントン時間)にようやくワシントンの日本大使館が受領し、その後、同日午後1時にアメリカ政府に手交すべき訓令が届いたのです。

真珠湾攻撃開始は、その約20分後の同日午後1時19分です。

すなわち、ハワイ奇襲攻撃機の空母発艦まで交渉を続けるような外交姿勢を保持しながら、外交関係の断絶通告も最後通牒も出さないまま、真珠湾を爆撃したというわけです。

大使が米国側に対米覚書を通告したのは、同日午後2時20分のことでした。真珠湾攻撃から1時間が経っていました。その後、ワシントンの日本大使館が通告遅延の全責任を負わされた。これが真相です。

近藤:通告遅延の経緯を、具体的に順を追って説明してください。

井口:通告文書は、いわゆる「902号電報」ですが、全文が長かったため、日本時間の12月6日午後8時30分から14部に分けて、通告全文を、外務省電信課から東京電報局を経由して、ワシントンの日本大使館宛てに発電開始しました。1部から順に始めて、13部を7日午前0時20分に送信しています。 

最後の14部は結論部分で、最重要の部分でした。14部は午前1時には打ち終えて、それから1時間以内に東京電報局から米国向けに中継される手筈でした。予定通りなら、ワシントンの日本大使館は、米国東部時間で12月6日のうちに、全14部と訂正電報を受領していたはずです。

つまり、ワシントンの日本大使館では、米国東部時間で6日深夜には全文を解読し、タイプ浄書できたのです。その時点で、真珠湾攻撃までまだ半日の余裕がありました。

近藤:ところが、そうはならなかったわけですね。

井口:なりませんでした。14部が東京から発電されたのは、日本時間の7日午後4時でした。軍部と外務省本省が、意図的に14部の発電を、15時間も遅らせたのです。

■軍部、恐るべし

近藤:前述のように、真珠湾の奇襲攻撃をアメリカ側に悟られることを恐れたわけですね。

井口:その通りです。さらに、ルーズベルト大統領の「親電」問題も加わりました。

日本時間12月7日正午、ルーズベルト米大統領からグルー駐日米国大使に宛てた、昭和天皇への親電が、東京電報局に届きました。

この親電を陸軍が差し押さえ、その解読が完了するまで14部を打電しないよう、外務省に圧力をかけたのだと思います。その間に、陸軍と外務省が親電を極秘に解読し、内容を検討した結果、14部に修正を加えたのでしょう。

グルー駐日大使にルーズベルト大統領の親電が届けられたのは、東京電報局への入電から10時間半後でした。

そしてグルー大使から親電を受け取った東郷外相が、天皇陛下にお見せする翻訳全文の決裁を終えたのは、それからわずか1時間15分後のことです。

陸軍などが事前に親電を解読し、要約文のようなものができていたからこそ、そのような神業に近い作業が可能となったのでしょう。

井口:また、14部が打電されたのが7日の午後5時であることとも、時間的に符合します。

14部は、原案では「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と、条件付きで交渉打ち切りを通告する内容でした。それを、「合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」と、手書きで改められました。

ルーズベルト大統領は親電の中で、友好と和平を訴えています。そのため原案のままでは、「米国が友好的態度を続ける限り交渉は妥結しない」と解釈されてしまうため、修正する必要があったのです。

近藤:わずか1日、2日のうちに、ずいぶんといろんなことが起こっていたんですね。

井口:軍部は、他にも細工をしていました。日米開戦の1ヵ月前にあたる1941年11月8日、ワシントンの野村大使から東郷茂徳外務大臣宛てに、重要訓電は時間的余裕をもって発信されるようにという要請をしています。

その中で、今後は重要電報には、冒頭に「very urgent」(大至急)と付けるようにと要請しています。なぜなら、「very urgent」とあれば、電報を受け取った米国の通信社が24時間対応して、深夜だろうが日本大使館に届けてくれるからです。それがただの「urgent」(至急)だと、他のものと一緒に翌日回しにされてしまうからです。

ところがなんと、大至急で処理すべき対米最終覚書の電報「902号電報」には、「urgent」(至急)の表示さえなかった。

そのため、ワシントンの日本大使館では、他の至急度指定の電報を優先的に解読するという混乱が生じたのです。

さらに、「902号電報」14部と訂正電報2通を米国政府に7日午後1時に手交せよという「907号電報」は、外務省本省での作成時には「大至急」となっていました。

ところが東京電報局で中継された際に、参謀本部通信課の干渉を受けて、「至急」に改竄されてしまいました。そのため、ワシントンの通信社が日本大使館に配達するのを、翌朝回しにしてしまったのです。

近藤:すべては東京の軍部によって仕組まれていたというわけですね。

井口:そうです。他にも、米国政府に手交した「対米最終覚書」が、ハーグ条約に従った国際法上の最後通牒ないしは開戦通告ではなかったという問題もあります。

開戦当時、東郷外相の下で戦争回避に尽力した山本熊一米国局長が、12月3日から5日にかけて、この原文を起案しました。その結論部分は、「将来発生する一切の事態に付ては合衆国政府に於てその責に任ずべきものなる旨合衆国政府に厳重に通告するものなり。」となっていました。

つまり、武力行使の可能性を警告する最後通牒の形式を取ったわけです。日本は、日露戦争でも第一次世界大戦でも最後通牒を出していますので、同様に国際法に従ったわけです。

ところが、12月6日の大本営・政府連絡会議で、軍部が、米国に開戦意図を秘匿するため削除を要求しました。結局、改まった結論部分は、「今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むる他なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」。すなわち、交渉打ち切りのみを伝える文書にすり替わってしまったのです。

近藤:本当に、軍部恐るべしですね。

井口:そうなのです。今回の安倍首相の真珠湾慰霊の旅を契機として、開戦の真実を多くの人々に知ってほしいと思います。

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>すべては東京の軍部によって仕組まれていたというわけですね。


軍人がそんな大それた事をやる訳がない
すべてアメリカのスパイだった昭和天皇と吉田茂が仕組んだんだよ


69. 中川隆[5825] koaQ7Jey 2017年1月02日 10:56:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6267]

真珠湾から繋がる売国の系譜
なぜ320万人犠牲になったか 米国に屈服し「国体護持」2016年12月28日付


 
 安倍首相が、日米戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、「和解に踏み出す」といってハワイを訪れている。アメリカは、「真珠湾への卑劣な騙し討ちを忘れるな」(ルーズベルト)と太平洋戦争に乗り出し、沖縄侵攻から都市空襲、さらには広島・長崎への原爆投下にいたる、なんの罪もない老幼男女の虐殺を正当化する常とう手段として、「リメンバー・パールハーバー」を持ち出してきた。それが、アメリカの単独占領から今日に至る日本社会の屈辱的な対米隷属、そのもとでの新たな戦争への道に連なっている。真珠湾攻撃はどのようにひき起こされたのか。日米戦争はどのような戦争で、なんのためにやられたのか。この機にふり返ってみる意義は大きい。


 
 国民の反乱恐れた為政者ども

 1941(昭和16)年12月8日朝(日本時間)、日本海軍の連合艦隊機動部隊が真珠湾に停泊していた米海軍太平洋艦隊と航空基地に対して、爆撃機や戦闘機、潜航艇などによる「奇襲攻撃」をおこなった。アメリカ側はこの攻撃を事前に察知していたが、無防備のまま開けて通した。そのため、戦艦アリゾナなど5隻が沈没、3隻が損傷を受けたのをはじめ、多数の艦艇や飛行機とともに、2200人をこす軍関係者が犠牲を強いられた。真珠湾を母港とするアメリカの空母2隻は、湾外に出ていたため無傷であり、その後の海戦や、沖縄戦、日本本土襲撃で大きな役割を果たした。

 ルーズベルト大統領が、日本への宣戦布告を議会に求めたのはその翌日であった。全米に向けた演説では、「日本は和平の継続を望むという姿勢を見せて、わが国を欺いた」というもので、日本からこれ以上の和平交渉ができないとの公式回答があったのは、真珠湾を攻撃した一時間後であり、「わが国に対しておこなわれた攻撃の卑怯な性格をけっして忘れることはない」と強調するものであった。

 アメリカ政府は以後、マスメディアを動員して「有色人種による卑劣な攻撃」を許すなと戦争熱を煽り、日本人は人間ではなく「イエローモンキー」であり、攻撃の対象を非戦斗の国民全体に向けて、虫けらのように焼き殺していった。

 一方、日本の天皇を頂点とする支配層は、真珠湾攻撃の大戦果を宣伝し「鬼畜米英」を煽ったが、実際にはアメリカに勝てるとは少しも思わず、日本の若者の命をみすみすアメリカに差し出した。そして、アメリカに制海権や制空権を完全に奪われたもとでも、「1億玉砕」を叫んで沖縄戦や空襲などアメリカの皆殺し作戦にさらしていった。そして、広島・長崎への原爆投下によるアメリカの単独占領によって、天皇を利用したアメリカの戦後支配を許すことになった。

 先に攻撃させ国民煽動 スチムソンの文書

 戦後、真珠湾攻撃の真相は長期にわたって覆い隠されてきた。しかし、今日までアメリカの政府高官の証言も含めて暴露されてきた多くの事実は、真珠湾攻撃がアメリカが日本に先に攻撃させるシナリオにそってひき起こされたものであり、中国における戦争の敗北の窮地に立っていた天皇制軍国主義が、みずからの支配的地位を守るためにアメリカに身を委ねる契機となった事件であったことが明白となっている。

 当時、駐日大使だったジョセフ・グルーは真珠湾攻撃の11カ月前、1941年1月の段階で「日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している」「航空機の編隊で、米艦隊に奇襲攻撃をしかける」という情報を国務省に送っていた。

 米海軍情報部が日米開戦までに、日本側の暗号電報を傍受、解読していたことはよく知られている。アメリカはそのため1941年11月下旬、千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に、ハワイ攻撃にそなえる日本艦隊が集結した時点から、その動向を的確に把握していた。また、アメリカ政府はハワイの日本領事館に海軍から送られた工作員がいることも知っており、その電報のやりとりから日本側の攻撃目標が真珠湾であることもつかんでいた。さらに、オーストラリア政府が、日本の機動部隊がハワイに向かっているとの情報を伝えていた。

 こうしたなか、ルーズベルトは11月25日の戦時内閣で「早ければ12月1日ごろに日本が攻撃してくるかもしれない」との見通しを語り、「どのようにして、わが国にさほど甚大な被害を招くことなく、日本に最初に発砲させるよういかにして導くか」について議論していた。

 米陸軍長官・スチムソンは後に原爆投下計画の中心を担ったことで知られる。

「真珠湾攻撃」の10日前には、ルーズベルトの指示に従って陸軍高級副官に当てた電報で「日本との外交交渉が中断することは明らかであって、日本の作戦行動が避けることができないのであれば、アメリカは最初に明白な行動をとるべきではない」と指示していたことも暴露されている。スチムソンは日記でも、「日本に最初の一発を発射させることにはリスクがあるが、アメリカ国民から全面的支援を得るには、日本にそれをやらせ、誰が見ても侵略者が誰なのか、少しも疑問を抱かないよう、はっきりさせることが望ましい」と書いていた。

 ルーズベルトら米政府中枢は真珠湾攻撃の14時間前には、日本の攻撃があることをはっきりとつかんでいた。しかし、そのような重大な事実に対して鉗口令を敷き、攻撃を受けるハワイの米太平洋艦隊に知らせなかったのは、日本に先に攻撃させるためであった。しかも、攻撃を受けた責任を、キンメル提督ら艦隊司令官に押しつけた。

 のちに、司令官らが前日の宴会で泥酔したり、ゴルフに興じていたという理由が事実でなかったことが暴露された。このことは日本政府が、アメリカへの開戦通告が遅れたことを駐米大使館員の責任にして、前日の宴会での泥酔や電文受けとり体制をとっていなかった怠慢にあったとこじつけてきたことと通じあうものである。最近、九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、本国からの通告の訂正電報を駐米大使館員が態勢をとって待っていたのに、外務省が攻撃後に届くよう遅らせて発信していた記録を、米国公文書館で発見したことも話題を呼んでいる。


 経済封鎖し戦争へ誘導 米国の周到な計画

 当時、ウォール街と軍需企業をはじめアメリカの財界は、ニューディール政策の失敗から戦争を求めていた。しかし、国民の反戦世論は圧倒的に強かった。

 したがってルーズベルトは「お父さん、お母さん、あなたたちの息子たちをヨーロッパ戦線に送ることは決してない。わが国が攻撃されないかぎり外国と戦闘することはない」と公約していた。

 アメリカ政府中枢がはりめぐらせていた謀略は、ドイツ潜水艦にアメリカの艦船を攻撃させて犠牲者を出すことと、ハワイに艦艇を停泊させ日本海軍に攻撃させることであった。日本については日本を政治的経済的に極限まで追いつめ、やむを得ぬ形で戦争に誘い込むことであった。それは、「裏口からヨーロッパに参戦する」というアメリカの目的の一環でもあった。

 実際にドイツとの関係では、1941年9月から10月にかけて米軍艦が大西洋でドイツの潜水艦と衝突したとき、ルーズベルトは「アメリカが攻撃された」といったが、実際に挑発の発砲を加えたのはアメリカの軍艦の方だった。また、イギリスへの武器貸与ではその護衛もしており、実質的に戦争に加担していた。

 日米開戦1年前に当時の米海軍情報部極東課長・マッカラム少佐が起草した対日戦略文書は、アメリカから宣戦布告するのではなく「日本に明白な戦争行為に訴えさせることができる手段」として、対日経済制裁を強め、日米交渉が決裂し、日本が戦争に出ざるをえない状況をつくるための具体項目を提起していた。

 アメリカは、マッカラムの文書をもとに日米通商航海条約を破棄し、在米日本資産の凍結から航空用ガソリン、くず鉄の対日輸出禁止などの経済制裁を加え、全面禁輸、さらには近衛文麿からの太平洋協議提案を拒否し、「最後通牒」となったハル・ノートの手交まで、そのシナリオ通りにことを進め、日本の真珠湾攻撃を引き寄せ太平洋戦争へと乗り出していった。

 この作戦は、アメリカがすでに日露戦争後から周到に練っていた「オレンジ計画」といわれる日本侵攻作戦を継承するものであった。

 アメリカは早くも日本との協調を唱えていた日露戦争の直後から中国市場の争奪をめぐって、いずれ日本との戦争は避けられないと見て、米海軍によって日本との戦争を想定した作戦を練りあげていた。それは、「日本が先制攻撃で攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する」という構想を基本とするものであった。

 そのもとで、1909年から大規模な海軍基地建設を進めたハワイを起点に、いったん日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼(しょ)を、艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、グアムとフィリピンを奪回するという作戦もシミュレーションしていた。

 マッカラムの文書は、日本軍の不利な点として「アジア大陸での消耗戦に150万人が投入されている」「中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている」と中国の抗日戦争によって敗北状態にあることをあげていた。その一方で、「(アメリカの)海軍及び海軍航空隊は現在、この地域で長距離侵攻作戦を実施する能力がある」など、アメリカが「きわめて有利な立場」にあると見ていた。

 アメリカのこうした情勢評価は、スチムソンが40年6月までに『ニューヨークタイムズ』に送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記し、そのために日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていたことにも示されていた。

 11月26日付の米政府の対日覚書(ハル・ノート)は、日本との協議の機会を閉ざす意図をもって高圧的な態度で日本に突きつけた「最後通牒」であった。その最大要件は、満州を含む中国全土から「すべての陸海軍、兵力と警察」を引き揚げることであった。アメリカは、日本の支配層がこれを受け入れることはできず、交渉を断念し、アメリカとの戦争に突入することを確実視していた。


 日本は中国で敗北必至 革命恐れた為政者

 当時、中国本土に投入された日本の陸軍兵力は138万人で、陸軍動員総兵力の65%に達していた。中国侵略を拡大していた日本の軍隊は、抗日勢力が強大化するなかで主要都市とそれを結ぶ鉄道、つまり点と線を維持するのに精一杯で、もはや侵攻作戦を続ける余力をなくすまでになっていた。41年の末時点で、戦死者はすでに18万5000人を数えていた。日本軍国主義の中国戦線における敗北は決定的となっていた。

 国内での過酷な抑圧と搾取によってみんなを貧乏に追いこみ、恐慌から中国侵略戦争と国民を動員してきた天皇制軍国主義にとって、ここで中国の権益を放棄し撤退することは絶対にできない相談であった。

 それはなによりも「国体」(天皇を頂点にした支配体制)を揺るがしかねなかった。為政者たちは中国で苦難を強いられている夫や兄弟を心配する家族に対して、「勝った」「勝った」の大本営発表とともに、「兵隊さんの苦労に報いる」ために痛みを分かちあうことを強要してきた。また農村の疲弊を打開するために、「王道楽土」の満州への開拓団の投入を国策として遂行してきた。そこに、中国から軍隊を全面撤退させて中国革命を促進し、大量の不満兵士を復員させ、開拓団を引き揚げさせれば、なによりも国内の治安を悪化させ、革命を引きよせることになることは容易に想定できた。

 すでに、1940(昭和15)年7月、枢密院議長の近衛文麿が組閣し、仏印(インドシナ)、蘭印(インドネシア)への武力進出「南進政策」をうち出し、9月には日独伊三国軍事同盟を締結していた。そして、アメリカの蒋介石への戦略物資の支援ルートを断つ方向へと進んだ。その行きつく先はアメリカとの戦争であることは明白であった。

 このことは、天皇をはじめとする支配中枢がアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。昭和天皇はこの時点で「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、すでにアメリカとの戦争での敗戦を想定していた。

 日本の戦争指導者で当時、アメリカと戦争して勝てると思うものは、だれ一人としていなかった。

 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官は、アメリカとの戦争を持ちかけられて、「それはぜひやれといわれれば、初め半年か1年ぐらいは暴れてみせる。しかしながら2年3年となればまったく確信はできぬ。三国条約ができてしまったのは致し方ないが、こうなった上は、日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と答える状況であった。

また、「アメリカと戦争するのは、ほとんど全世界と戦うことだ。ソ連などあてにならぬ。自分は最善を尽くして長門の艦上で討ち死にするが、その間に東京は3度丸焼けにされる。近衛なんか気の毒だが、国民から八つ裂きにされるようなことになりはせぬか」と吐露していた。

 海軍の永野修身軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至と見なしていた。

 このように天皇制軍国主義が初めから負けるとわかりきっているアメリカとの戦争に突入したのは、アメリカとの戦争を回避し中国からの撤退にともなう国内の反乱よりも、アメリカに日本民族の利益を売り渡して敗北する形を望んだことから来るものであった。そのことは、近衛文麿が日米開戦時の企画院総裁・鈴木貞一の「開戦は国内政治である」という言葉を引いて「なかなか含蓄あり」といっていたことにも示されている。

 その後の事態の進展は、昭和天皇が近衛文麿、吉田茂らの宮中グループを抱えて、日本の単独占領支配を狙うアメリカに敗北することを待ち望み、最終的に320万人もの国民を殺りくするにまかせ、塗炭の苦しみを強い続けたことを教えている。


 相通じて皆殺しを実行 民族的利益売り渡す

 アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、戦時情報局のライシャワー(戦後の駐日大使)が、「天皇を利用した間接支配」を提言したことを受けて、「天皇を象徴(シンボル)として利用」することを対日占領政策として公式に定めた。

そして空襲においては、皇居の攻撃を禁止することを厳命した。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈への工作や、ザカリアス大佐のサンフランシスコからの短波放送を通じてその方向を貫いた。また原爆投下や空襲では年寄り、女、子どもを無慈悲に焼き殺す一方で、三菱や軍事、金融関連などアメリカの戦後支配や財界の利権がからむ施設を露骨に保護していった。

 こうしたことは、戦前からアメリカ支配層と天皇や皇室、財閥との間に密接な人脈が築かれていたことによって可能であった。対日戦略文書を起草したマッカラムは、キリスト教宣教師の両親のあいだに長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごした「日本通」とされ、昭和天皇が皇太子のときに「駐日アメリカ大使館」でダンスを教えたことで知られる。グルーは天皇や秩父宮、ザカリアスは高松宮と昵懇の関係にあった。

 昭和天皇は戦後、原爆投下について聞かれたとき、「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ない」と公言した。

 そこには、側近の木戸幸一が「陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたというのであった」と語ったような原爆投下への本能的な感謝の気持ちが充満している。

 海軍大臣であった米内光政も広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、「原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」と言明していた。

 日米戦争の最後の9カ月の間に89万7000人、すなわち78人に1人に当たる日本国民が殺された。そのほとんどが非戦斗の市民であった。ちなみに、アメリカ人は3万2000人が死んだ。

 これは戦後対日占領支配をたくらむアメリカと、天皇を中心とした日本の支配層が主従の関係にありながら、日本国民が社会の主人公として新生日本を建設することを阻むために、へとへとに疲れさせるという点で互いに結託していたことを教えている。

 真珠湾攻撃と日米開戦は、そのような米日支配層の親分子分の関係を確立し、戦後の対米従属支配につなげていく起点でもあった。その内実は、安倍晋三が自慢する「日米同盟」にしっかりと受けつがれている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sinjuwankaratunagarubaikokunokeihu.html


70. 中川隆[6310] koaQ7Jey 2017年1月25日 18:00:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6762]
 日本は第2次世界大戦の前からウォール街やシティに従属していた。ウォール街の代理人、例えばハーバート・フーバーのような人物なら日米主従関係は安泰だったのだろうが、1932年11月の大統領選挙でウォール街と対立関係にあったニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選してしまった。

 投票から3カ月後、大統領就任式が17日後に迫った1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミの集会で銃撃事件に巻き込まれている。レンガ職人のジュゼッペ・ザンガラが撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡している。動機は何なのか、本当は誰を狙ったのか、背後関係はあるのかなど調べることはあったはずだが、銃撃犯から何も聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。

 1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とするウォール街の大物たちがルーズベルトの排除を狙ったクーデターを計画していたことはスメドリー・バトラー退役少将の議会証言で明らかにされている。バトラー少将の知り合いだったジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で語っている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201701250000/


71. 中川隆[6908] koaQ7Jey 2017年3月01日 16:35:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7370]

かつて、経済が破綻した日本は1931年9月に柳条湖事件(南満州鉄道の線路を日本軍が爆破した偽旗作戦)を引き起こして中国を本格的に侵略しはじめ、満州国なる傀儡国家を築いて略奪体制を整えた。資源は略奪対象の重要部分ではあるが、一部にすぎない。

 第2次世界大戦前、日本経済の苦境はウォール街の巨大金融資本にとっても深刻な問題だった。関東大震災以降、多額の資金を日本へ投入していたからだ。

 その金融資本の中心的な存在がJPモルガンだが、そのJPモルガンが担いでいたハーバート・フーバー第31代大統領は1932年の選挙で再選されず、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが選ばれてしまう。ルーズベルトは支配階級の出身だが、自身が病気で下半身不随になってから弱者に目を向けるようになり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという看板を掲げていた。

 一方、フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系鉱山で働いていた人物。利益のためなら安全を軽視するという姿勢を見込まれて出世したという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 1932年11月8日の投票で勝利したルーズベルトだが、翌年の2月15日にフロリダ州マイアミで演説中に銃撃される。その際、隣に立っていたシカゴ市長のアントン・セルマクが殺されているが、ルーズベルトが狙われていた可能性も小さくない。銃撃したジュゼッペ・ザンガラは3月6日、大統領就任式の2日後に処刑されてしまった。事件の背景などは詳しく調べられていない。

 大統領就任後、ルーズベルトを排除しようとする計画がウォール街で立てられている。スメドリー・バトラー退役少将の議会証言によると、1934年の夏に訪ねてきた「コミュニズムの脅威」を訴える人物は巨大金融資本が派遣した使者だった。

 彼らはルーズベルト政権を倒すためにドイツのナチス、イタリアのファシスト党、フランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にし、新聞を利用して大統領を攻撃してクロワ・ド・フのような50万名規模の組織を編成、大統領をすげ替える計画だった。

 しばらくの間、バトラーはクーデター派と接触し、その計画内容を聞き出した上で申し出を拒否する。その当時、アメリカ軍の内部で強い影響力をもっていたバトラー少将の説得にクーデター派は失敗したのだ。50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗するとバトラー少将は通告したという。

 バトラー少将の知り合いだったジャーナリストのポール・フレンチもクーデター計画について議会で証言している。彼によると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたしている。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)

 反ルーズベルトの動きは民主党の内部にもあった。デュポンや「右翼実業家」から資金の提供を受け、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。1972年のジョージ・マクガバン候補に対する民主党内の動き、あるいは現在のドナルド・トランプに対する共和党内の動きと似ている。

 1935年にバトラー少将はFBIのJ・エドガー・フーバー長官に接触してウォール街の計画を説明したが、起訴するために必要の証拠はなく、自分には捜査を命令する権限がないとして断っている。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)

 そのFBIは1940年にポール・ニッチェとナチスとの関係を調査、ニッチェはネルソン・ロックフェラーの米大陸問題調整官室へ逃げ込んだ。大戦後の1947年にニッチェはCIAの創設させた国家安全保障法を執筆、また1970年代、ジェラルド・フォード政権でデタント(緊張緩和)派が粛清された際の黒幕は彼だった。

 1945年4月、ドイツが降伏する前の月にルーズベルト大統領は急死、ウォール街がホワイトハウスを奪還した。ルーズベルトが死ぬ前からOSSのアレン・ダレス(ウォール街の弁護士)はナチスの幹部たちと接触、ルーズベルト大統領が死亡してからはナチスの幹部や科学者、協力者を逃亡させて保護、さらに雇用する。

 冷戦がアメリカの姿勢を変えさせたのではなく、こうしたアメリカ支配層の一貫した政策が冷戦を生み出したと言うべきだ。第2次世界大戦後、こうしたアメリカの支配層に立ち向かった大統領はジョン・F・ケネディくらいだろう。

 なお、1932年から真珠湾攻撃まで駐日大使を務めたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥(ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア)の義理の従兄弟で、戦後は日本を「右旋回」させるジャパン・ロビーの中心的な存在になっている。

 ニュルンベルクの「国際軍事裁判」にしろ、東京の「極東国際軍事裁判」にしろ、基本的にファシズムを支持していたアメリカの支配層が大戦前の権力秩序を維持するために実施したセレモニーにすぎない。その延長線上に現在のファシズム的な状況はあり、圧倒的多数を占める庶民の富が奪われるのは必然だと言える。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703010000/


72. 中川隆[7053] koaQ7Jey 2017年3月11日 06:40:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7518]

1941年6月にドイツ軍がソ連に向かって進撃を開始、7月にレニングラード(現在は帝政時代のサンクト・ペテルブルグに戻った)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にはスターリングラード市内へ突入、市街戦が始まっている。

 この間、フランクリン・ルーズベルト米大統領はソ連支援に前向きだったが、実際は傍観している。後にルーズベルト政権の副大統領になるハリー・トルーマンは「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と主張していたが、これはアメリカやイギリスの支配層で一般的な姿勢だった。

 状況が変わるのは1942年11月。ソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人は完全に包囲され、43年1月には生き残った9万1000名の将兵が降伏している。これを見たアメリカとイギリスの首脳は5月にワシントンDCで協議、7月にシチリア島へ上陸する。この島はコミュニストの影響力が強かったため、それに対抗する意味もあってアメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。戦後、シチリア島がマフィアに支配された原因はここにある。

 そして1944年6月、映画の宣伝で人びとの印象に強く残っているノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)が実行され、45年2月にヤルタ会談、4月にルーズベルト大統領が急死、そして5月にドイツが降伏する。ウィンストン・チャーチルが米英独の連合軍でソ連を奇襲攻撃するというアンシンカブル作戦を作成させたのはその直後だ。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703110000/


73. 中川隆[7092] koaQ7Jey 2017年3月13日 09:37:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7558]
第2次世界大戦の終盤、中国ではコミュニストの紅軍と国民党軍が日本軍と戦っていたが、1944年9月にソ連駐在のアメリカ大使だったアベレル・ハリマンはモスクワでソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相から中国共産党を援助しないと言われた。1945年4月にヨシフ・スターリンやモロトフと会談したパトリック・ハーレーによると、スターリンは蒋介石に好意をよせていたともいう。国際連合の創設に関する会議に中国共産党の代表を呼んだのはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領だった。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 ところが、そのルーズベルトは4月に急死している。アメリカの支配層は最新装備の国民党が日本軍の旧式兵器の紅軍に勝利すると確信していただろう。アメリカは国民党軍に対して20億ドルの援助をするだけでなく、軍事顧問団も派遣していたのだ。

 そうした予想に反し、1947年の夏になると人民解放軍(1947年3月に紅軍から改称)が勢力を拡大、48年後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月には解放軍が北京へ無血入城し、10月には中華人民共和国が成立する。

 この間、アメリカは破壊工作部隊のOPC(この組織については何度も書いているので、今回は割愛する)が上海などを拠点にして活動していたが、人民解放軍が北京入りする前に拠点を日本へ移動させている。その中心がアメリカ海軍の厚木基地だった。ちなみに、1949年7月5日に下山事件、7月15日に三鷹事件、そして8月17日に松川事件が引き起こされている。

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するが、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というもの。「開戦」の2日前から韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州を占領している。

 しかし、当時のアメリカ軍は山岳地帯での戦闘に不慣れで、釜山の近くまで追い詰められてしまう。そこで旧日本軍の参謀がアドバイスを始め、仁川上陸作戦などで反撃に転じたと旧日本軍の関係者は語っていた。

 その間、1951年4月にCIAの顧問団は約2000名の国民党軍を率いて中国領内への侵攻を試み、翌年8月にも再度、軍事侵攻したが、結局失敗に終わる。その後、アメリカはベトナム戦争を始めるわけだが、朝鮮戦争もベトナム戦争も本当の敵は中国だったと考えるべきだろう。

 朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定が成立するが、その2カ月前にベトナムではアメリカの支援を受けていたフランス軍がディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年の5月にフランス軍は降伏した。

 その前、1953年1月にドワイト・アイゼンハワー政権が成立し、ジョン・フォスター・ダレスが国務長官に就任するが、この新長官は翌年の1月にNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMMを編成して秘密工作が始まった。

 朝鮮戦争もベトナム戦争も最終的な目的は中国だったと考えるべきだろう。中国の完全制圧(略奪)はアヘン戦争からアングロ・サクソンが抱いている野望だ。それにロシア制圧も目指すハートランド理論が重なる。このプランは今でも生きているように見える。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703130000/


74. 中川隆[7161] koaQ7Jey 2017年3月18日 16:50:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7632]

Instagram photo March 16, 2017 at 0333PM Kuantanlog

via Instagram
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英語で書いて単位を dollars なんてしている時点で、「お前の負けだ」だろ。国士様や#ネトウヨ がいうように「#イギリス の手下だった#中国人 を懲らしめてマレー人を解放しようとした」のなら、なんでマレー語で書かないんだ?

宿の受付の机に飾ってあった#日本軍 の#軍票 。#大日本帝国 政府とある。
The Japanese government promises to pay the bearer on demand
TEN DOLLARS
とある。

宿の主人たちは#マレー人 。

若奥さんによればオリジナルだという。

ついでに「昔#マレーシア に日本軍が来て・・・」という話になったので、やんわりそらして逃げてきた。

マレーシアの御用英字紙New Straits Timesを毎日読んでいたことがあるが、定期的にマレー半島侵略時の日本軍の残虐行為が特集される。

マレーシア政府は基本的にマレー人支配。華人とは対立している。

その政府御用新聞が忘れまいとして特集するのだ。

「シナチョン」は無関係。

日本軍の残虐行為の証言者もマレー人やインド系が多い。

日本人は歴史を直視したほうが良い。

#日本 #太平洋戦争 #マレー半島 #侵略 #アロースター #AlorSetar #malay #malaysia #japan #japanese #army #millitary http://ift.tt/2nHqV3L
https://kuantan2007.wordpress.com/2017/03/16/instagram-photo-march-16-2017-at-0333pm/


75. 中川隆[7269] koaQ7Jey 2017年3月22日 12:18:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7741]
2017.03.22
共謀罪の導入は世界制覇戦争とファシズム化を推進しようとしている米国支配層の計画の反映


共謀罪は日米支配階級にとって目障りな人びとや団体を攻撃するために使うことが想定されているだろう。そうした弾圧の手段を導入しようという目論見は、東アジアにおける軍事的な緊張の高まりと無縁ではない。

日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した翌年、言論関係者を中心に60名以上が逮捕され、30名以上が有罪判決を受けるという「横浜事件」があった。外務省と密接な関係にある世界経済調査会で働いていた川田寿と妻の定子が9月に逮捕され、川田の交友関係から同調査会の益田直彦が翌年1943年1月に、また高橋善雄が同年5月に逮捕され、満鉄関係者へと捜査の手は伸びた。

その一方、川田夫妻が逮捕された1942年9月には雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」を書いた細川嘉六も検挙され、捜査の過程で発見された写真に写っていた細川の友人たちが逮捕されていく。

問題の写真は細川の著作『植民史』の刊行記念で催された会食の際に撮影されたもので、細川や満鉄関係で逮捕済みの平館利雄と西沢富夫のほか、中央公論の木村亨、元改造の相川博、改造の小野康人、東洋経済新報の加藤政治、そして満鉄の西尾忠四郎が写っていた。特高警察はこの会食を「共産党再建準備の謀議」だとするストーリーを描いたのだ。

裁判の結果、30名以上が有罪になり、そのうち浅石晴世、和田喜太郎、高橋義雄、田中正雄の4名が獄死、また相川博、西尾忠四郎、加藤政治、小野康人は釈放直後に獄中の心神衰弱が原因で死亡している。

この事件がでっち上げだったことは間違いない。「共謀」の疑いがあったから摘発したのではなく、一部の支配層が主導権を握るために反対勢力を潰しにかかったのだ。その「陰謀」の中心には思想検察出身の平沼騏一郎たちがいた、あるいは東条英機の懐刀と言われた唐沢俊樹がシナリオを書いたとも言われている。

この弾圧を実行したのは思想を取り締まった特別高等警察(特高)だが、その活動を統括していたのは内務省の警保局長。その警保局長を1932年から36年にかけて務めたのが唐沢だ。事件当時は内務次官で、警保局長は町村金五だった。ちなみに、平沼騏一郎の兄、叔郎のひ孫が衆議院議員になった平沼赳夫であり、町村金五の息子が町村信孝である。金五は1952年に衆議院議員、59年に北海道知事、71年には参議院議員、そして第2次田中角栄内閣では自治大臣に就任した。唐沢は1955年に衆議院議員になって岸信介内閣の法務大臣になる。

治安体制に注目すると、日本は戦前も戦後も基本的に変化していないことがわかる。天皇制官僚国家は護持されたのだ。本ブログでは何度も指摘しているが、その背後にはアメリカの巨大金融機関JPモルガンが存在していた。そのキーパーソンがジョセフ・グルー。いとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚している人物で、1932年に駐日大使として来日、42年まで日本に滞在した。離日の直前、グルーは岸信介とゴルフをしている。

日本が降伏した後に岸が関係した団体のひとつがMRA(道徳再武装運動)。CIAのフロント組織と言われる「疑似宗教団体」で、岸のほか三井本家の弟、三井高維も参加していた。このMRAに接近したひとりが中曽根康弘で、1950年にはスイスで開かれたMRA世界大会に出席している。(グレン・デイビス、ジョン・G・ロバーツ著、森山尚美訳『軍隊なき占領』新潮社、1996年)

MRAで中曽根はヘンリー・キッシンジャーと知り合いになるが、1953年に中曽根はキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加した。そのスポンサーはフォード財団、ロックフェラー財団、あるいはCIA系の「中東の友」などだ。その翌年、中曽根は国会に原子炉購入予算を上程している。

戦後、岸に近い政治家は「新日本政治経済調査会」を結成、そこに小泉純也なる人物も参加している。1953年に岸は40名の同志を虎ノ門の「晩翠軒」に集めたが、その中にも純也はいた。このグループが「岸派」の基礎になる。

小泉純也は1969年8月に死亡、息子の純一郎が留学先のロンドンから呼び戻されて同年12月の衆議院議員選挙に立候補したが、落選している。通常、こうしたケースでは「弔い合戦」ということになり、当選することが多い。父親の地盤を受け継ぎながら落選したわけで、よほど地元では個人的に人気がなかったということになるだろう。その翌年から福田赳夫の書生を務めることになった。小泉純一郎が初当選したのは1972年のことだ。

中曽根や小泉は「規制緩和」や「民営化」を叫び、新自由主義を日本へ導入、社会を破壊していった。その路線を岸の孫にあたる安倍晋三も推進している。新自由主義が最初に導入されたチリを見ても明らかなように、この「経済政策」は破壊と殺戮を伴う。

新自由主義は市場を絶対視するが、その市場は一部の巨大資本が支配する場にすぎない。つまり、強力な私的権力に対する規制を弱め、国家を上回る力を与えようとする政策だとも言える。そうした体制をフランクリン・ルーズベルトはファシズムと呼んだ。TPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TISA(新サービス貿易協定)は参加国全体をそうしたファシズム体制にすることが目的だ。ファシズムの創始者とも言えるベニト・ムッソリーニは巨大資本が支配するシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張していた。これがムッソリーニの考えたファシズムだ。

安倍政権が共謀罪とTPPを推進しようとしているのは必然である。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703220000/


76. 中川隆[-7955] koaQ7Jey 2017年4月29日 08:33:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/

[32初期非表示理由]:担当:アラシ

77. 中川隆[-7944] koaQ7Jey 2017年4月30日 13:44:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/


78. 中川隆[-7768] koaQ7Jey 2017年5月03日 09:11:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに
朝日新聞デジタル 5/3(水) 3:01配信

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昭和天皇と幣原喜重郎とのやりとりが書かれた宮沢俊義のノート=立教大学図書館所蔵


 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。


 ノートには、46年9月ごろ、宮沢氏ら貴族院特別委員会のメンバーが幣原氏から首相官邸に呼ばれ、「内話を聞かされた」なかでの、幣原氏と昭和天皇のやりとりが備忘録的に記されていた。高見勝利・上智大名誉教授(憲法)がメモの記述を見つけた。ノートの原本は立教大学図書館に所蔵されている。

 幣原氏と面談した際の昭和天皇の発言に関しては、GHQ作成の資料に、天皇自身が徹底的な改革を望み、草案を「全面的に支持する」と述べたとの記載があり、様々な文献にも引用されているが、「発言が積極的過ぎる」などと疑問視する声もあった。高見氏は、「メモからは、日本や天皇制を取り巻く厳しい国際情勢を考え、草案の受け入れしかないという現実的判断をしたことがうかがえる。GHQの資料よりもメモの方が実態に近いのではないか」と話す。

 調査委員会でまとめた憲法改正案が明治憲法の微修正にとどまったため、GHQの同意を得られなかった。46年2月13日、GHQ側から渡された草案では天皇の地位が「象徴」となるなど、政府内では受け入れをめぐり賛否が割れたが、22日午前の閣議で事実上の受け入れを決定。同日午後、首相だった幣原氏が天皇を訪ね、経緯を報告した――ここまではすでに明らかになっている。

 宮沢ノートのメモは、この時の様子をこう記す。

 「陛下に拝謁(はいえつ)して、憲法草案(先方から示されたもの)を御目(おめ)にかけた。すると陛下は『これでいいじゃないか』と仰せられた。自分はこの御一言で、安心して、これで行くことに腹をきめた」

 また、幣原氏は2月21日、マッカーサー司令官と面会。そこでのマッカーサー氏の発言について「元帥曰(いわ)く。『天皇の問題については、自分は諒承(りょうしょう)しているが、南と北とから、反対がある。天皇を象徴とする憲法を承認するということは、日本の為にのぞましいと思う』。〔南とは濠州、ニュージイランド、北とはソ聯(れん)だろう〕」。

 草案に沿って憲法改正案作りをすることを決定した日本政府は、3月4日から5日にかけてGHQ側との徹夜の協議で案を確定。6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。帝国議会の審議を経て、46年11月3日に日本国憲法を公布。47年5月3日に施行した。(編集委員・豊秀一)


79. 中川隆[-7756] koaQ7Jey 2017年5月06日 17:59:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

吉田茂側近(辰巳栄一元陸軍中将)がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/212.html
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2009100301000210.html


吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見

 吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。

 有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。

 CIAの辰巳氏に関するファイル(52〜57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。

 辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。
(共同)


80. 中川隆[-7754] koaQ7Jey 2017年5月06日 18:10:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

NHKドラマ「負けて勝つ~戦後を創った男・吉田茂」の欺瞞 2012/09/11

>「このドラマは歴史の事実に基づくフィクションです」
このような、出鱈目な日本語を使う放送局を信用するわけにはいかない。

(『NHKドラマ「対米隷属の戦後を創った男・吉田茂」』植草一秀の『知られざる真実』
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/nhk-ab9d.html
より)

『吉田茂は“マッカーサーのペット”だった』(マッド・アマノのパロディー・ブログ)
http://ameblo.jp/parody/entry-11349418084.html

より転載します。
----------------------------------------------------------------
ベストセラー「戦後史の正体」の著者・孫崎 亨氏がNHKドラマ「負けて勝つ~戦後を創った男・吉田茂」(9月7日よりスタート。午後9時~10時13分・連続5回)の正しい見方を伝授している。

(引用、ここから)
孫崎 享 2012年9月7日 - 15:05

吉田茂:NHKドラマ吉田茂の「負けて勝つ」。
本当か!
歴史を見れば、吉田茂、本質従米以外の何者でもない。
今日日本の政治の醜さの原型は吉田首相に。
占領下米国隷従の吉田首相が独立後も政権を担ったのが日本の悲劇。
かつ池田勇人等、吉田学校とか言ってその後の政治家も継承。
米国隷属の権化を英雄に仕立てようとするNHKドラマは何を意図?
番組偶然でない。
野田首相はTPPやオスプレイ等で全くの隷属。
その時期にこの番組。
という訳で、見る時の手引き書を作成

@占領軍の性格を正確に伝えているか。
降伏文書は「日本はポツダム宣言実施のため、連合国総司令官に要求された全命令を出し行動とる事を約束する」、

A吉田首相の基本姿勢は
『鯉はまな板の上にのせられてからは、
庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子』。
それを知らせているか。

Bマッカーサーは
「軍事占領は、一方はドレイになり、他方はその主人の役を演じ始める」と述べ、吉田を含め日本側をドレイに見てたことを知らせているか

C吉田茂はGHQの情報部門の代表者ウィロビーの宿舎に夜こそこそ出かけ指示を仰いでいたことを報じているか、

D占領直後、米国は日本の経済を徹底的に破壊する姿勢を示したが、その時吉田はどうしていたか、

E米国の対日政策が変更したのは冷戦が深刻化し、米国が日本利用決定し対日経済政策変更、これを単に吉田の業績としてないか、

F吉田首相の最大の問題は安全保障で日米安保条約に署名したこと。

ダレスは「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、
望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標」。
吉田首相はこれにどう抵抗したか、
またダレスは米紙に「米国は日本を守る義務をもっていない。」
と書いているが、これに吉田首相はどう対応したか」

皮肉なことにNHK放映、「戦後史の正体」ベストセラーになる真っ最中。

「戦後史の正体」の多くの読者は「この番組何」と厳しい評価を下すだろう。
(引用、ここまで)

(ここから、マッド・アマノ)

“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。

吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。

養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。

富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵の長女・雪子。

雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。アリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。

吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。

NHKドラマ「負けて勝つ」はまさか吉田茂が“売国奴”だったことなど触れるわけがないだろう。5回にわたるドラマは最も重要であり真実である部分を隠蔽するに違いない。この点を凝視する必要がある。

ところで、吉田茂の身長は155センチ。かなりの小柄だ。主演の渡辺謙は何と184センチという長身だから、このことをとっても“嘘”なのだ。今の若者にとっては吉田茂が小男だったことなどは知る由もないから、イメージのギャップもない。それを良いことにマッカーサーにひけをとらない長身の吉田茂を視聴者に印象づけようとしている。

解散総選挙が視野に入りつつある今、保守本流と言われてきた吉田茂を持ち上げるドラマが放送されることに違和感を感じなければならない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=268528


81. 中川隆[-7583] koaQ7Jey 2017年5月20日 07:01:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』

「昭和天皇とダレスと吉田茂」

戦後の「日米安保条約」は、どのような政治政策過程を経て決定したのか?昭和天皇と吉田茂は必ずしも同じではなかった。米軍基地の無条件延長を主張していたのは、米国側のダレスであり、日本側でそれを主張していたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であった。

吉田茂が、サンフランシスコ行きを逡巡していたのは、「安保条約調印式」に出たくなかったからだ。しかし、吉田茂の態度が一変する。昭和天皇との「謁見」である。昭和天皇は、吉田茂を呼びつけ、厳しく説教したと思われる。

「米軍基地無条件延長」と「沖縄切り捨て」を主張する昭和天皇の「リアリズム」を、今の時点でどう評価するか、なかなか、単純な問題ではない。大問題であろう。
http://yamazakikoutarou.hateblo.jp/


82. 中川隆[-7551] koaQ7Jey 2017年5月21日 22:39:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


(通称)沖縄メッセージ

(昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた「米軍による長期沖縄占領継続を依頼するメッセージ」)
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/law_war/okinawa_message.html


 ■ (参考) (通称)沖縄メッセージ(昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」)


 1947年9月に、昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え、ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したものである。  その文章の記録が残されている。


 しかし、1946年11月には日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのであるが、それにも拘わらず、政府を通さずに、個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していたことになる。


 ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。(注)  その内容は次のようなものである。

 筆者の意訳で概要説明する。
 1947年9月20付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を、シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して、1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送っている。

 尚、この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会った際に、シーボルトは、陸軍省の意見として、沖縄をアメリカが自由にするとし、国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。 (「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)文藝春秋 )


(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容)
                                              1947年9月22日

標題:将来の琉球列島に関する天皇の考え


  国務長官宛

  拝啓

   私は、1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は、
  天皇のアドバイザーである寺崎が、彼の要望で私のオフィスを訪れてきて、彼と話した内容の要旨を記録したものです。
   その内容は、日本の天皇は、沖縄や琉球列島のその他の島々へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを
  希望しており、その要望は、疑うべくもなく、天皇自身にとって大いに利することになることに基づくものであるという
  ことがわかるのである。天皇は、また、これらの島々の米軍による占領の継続が、長期間の賃借契約の方式によること
  を思い描いている。天皇の意見によると、それによって、日本国民は、きっと、アメリカ合衆国には下心がないと納得
  するようになり、アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるであろう。という
  ことである。
  
                                                     敬具


                                                W.J.シーボルト

(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容)
                                              1947年9月20日

  マッカーサー元帥宛のメモ

   天皇の顧問の寺崎英成が、将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。
   寺崎は、天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。 
   天皇の考えは、そのような占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろうというもの。 
   天皇は、そのような行動は、広く日本国民に受け入れられると感じている。国民の間では、ロシアの脅威があり、また、
  占領が終わった後に、左翼や右翼のグループの台頭もあり、かれらが事変を起こしかねないし、それをロシアが日本の
  内政干渉のために利用する可能性もある。 
   天皇が更に考えるには、沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が、日本の主権は残した状態で、25年や50年間、
  いや、更に長期間の賃借の形態に基づくものになるであろうということである。
   天皇は、このような占領政策によって、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いように思わせるので
  あり、他の国、例えば、特にソ連や中国が同様な権利を要求することをそれによって止めさせることになるという。
   手続きに関して寺崎が思うには、沖縄や琉球列島内の他の島における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国の
  講和条約の一部にする方法よりも、むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。
   寺崎が思うには、連合国との講和条約の一部にする場合は、かなり強制的な平和条約の様相になることが察しられ、将来、
  日本人のことを同情的に解するなど危機的になるだろうと。

                                                W.J.シーボルト



83. 中川隆[-7550] koaQ7Jey 2017年5月21日 22:42:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

《 昭和天皇とマッカーサーと日米安全保障条約 》

講和条約後の日米同盟という名の巧妙な占領政策の継続。日本全国基地化とアメリカの治外法権、米軍優先の軍事訓練と日本国民への人権侵害が現在も強硬に実施される日米の取極め。昭和天皇が天皇制の護持を目論んだ所産であると言えよう。アメリカの奴隷であり続ける日本の防衛・外務官僚、それを国民に押し付ける自民党政権。

原因となった日米戦争。連合国の勝利、敗戦後の日本における連合国による占領。アメリカを除く連合国は、日本の政治及び軍事の最高総覧者である昭和天皇を裁判において責任を問うべきであると主張。 その流れを、連合国占領軍の最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥及びワシントンは天皇制の存続を目論み、その絶対的な権力者である昭和天皇の戦争責任の訴追免除を取り計らい、日本の軍備の解体を行い、天皇制を維持するために象徴天皇を確定させる日本国憲法を早急に策定させた。

アメリカは、日本をソ連や中華の共産圏勢力の思想が太平洋の諸島への感化するのを防止するため、及び武力により太平洋の島々やアメリカへの攻撃を防御するための西太平洋の最前線の砦とし、極東からフィリピン、オーストラリアに至る軍事面の防衛ラインを構想していて、戦後の武器の機動性と破壊力を総合的に捉えて、日本全土にわたって機動的な米軍基地化が必要であるとした。

マッカーサーと連合国による占領体制から日米安全保障条約による米国単独の占領下へ移行させ、先に記述した日本全土の米軍基地化及び治外法権、自由な軍事活動と米軍の優先を確立させ、日本が米国に協力と服従することとの引き換えに、天皇の戦争責任の免責や講和条約締結後も内外からの天皇の排斥に繋がりかねない天皇が脅威と感じる勢力から昭和天皇及び天皇制を米軍が守ることを利用して、かけがえの無い日本を、日本が永続的に米国の奴隷となるように両者で協議し決定したものであることは疑いの無い事実であろう。 但し、日本国民には表面的には疑問を抱かせないように細心の注意を日米が策を講じることになる。

昭和天皇が己を守るために当時の天皇大権を行使して米国と協議するように吉田総理に命じたであろう。

昭和天皇と天皇制護持、戦争責任免除と引き換えに日本国の米軍基地化を日米安全保障条約本体とは別の取極めや覚書での調印であったのだろうと推測される。1951年9月及び1952年2月の調印など。

戦後すぐに、昭和天皇や側近とアメリカ側との間で、これらの対応や戦後の占領統治などに関して画策がなされたと推察される。

昭和天皇は、マッカーサー元帥に対し、日本の独立後に連合国が占領の駐留を解除して退去した後に、別途にアメリカとの二国間協定による米軍のほぼ無期限の日本駐留(日本占領の誤魔化し)を日本から申し出たことを米国が了承して日本全国に米軍基地を継続させて軍隊を駐留させる仕組みを構築し、外部からの共産勢力のみならず、周辺国に刺激された日本国民が目覚めて天皇制を排除する勢が勃興しないようにして昭和天皇を護持する保障を与えたのである。旧日米安保条約の内乱条項であることは想像に難くない。

旧日米安保条約や日米間の行政協定や種々の覚書、交換文章などによる取極めを初めとして、その後の新たな協定や条約への改定においても、米軍が必要な取極めは、表立って載せない事項としていつでも自由に定めて調印することができる。

この日米安保条約は、アメリカ政府が日本の内政に関与・影響を行使できる保障を与えたと言ってもよい。

戦後60年以上経過しており、東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは日本の巧妙に単独占領体制を継続させているのです。更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。

アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制について、既に法制化されている。 後は、憲法改正を行い、現日本国憲法の9条の戦争放棄を削除すること及び日本軍の保有を位置づければ、国連の集団的自衛権というものを行使することが実現可能となり、日米安保条約、周辺事態法、日米物品供与などの取極めによって、アメリカが周辺事態と判断すれば、日本は中南米や中東、アフリカなどの国々でのアメリカと共同で戦争を行うことを拒否できないことになる。日・米共同軍は、アメリカ合衆国の最高司令官の指揮統率下に入ることになる。

おめでとう日本国民の諸君。新日本国憲法がアメリカのために機能することになったから、これで、安全保障面、米軍に関わる周辺事態のときは、現在の米軍の基地以外に、日本のどこでも基地を設定できる根拠に基づき軍事活動の制限なき自由が保障されているのです。アメリカが非常事態だと宣言すれば、この場合には、民間の日本人でも、私有の物資や土地、建物、必要な機械・部品・装置などの軍による徴用や一般人の人的協力についても要求に絶対応じなければならないことが既に法的に定まっています。それに反対の人は、アラブの春の如く、実力で徹底抗戦するしかないでしょう。この場合には、日本軍が国民を弾圧する事態に発展することでしょう。独裁政治への変貌が完成した記念となる瞬間です。

日本は本当の民主主義の国家にはなっておらず、アメリカの圧力には逆らえないで逆に国民を無視し、且つ官僚利権を奪われることに対しては狡猾に術策を講じて利権を守り通し、国民はその官僚に支配される構造の社会から脱出できない。

そのうち日本は、一握りのアメリカに隷属し権力を行使できる立場の族が、軍事大国として積極的に平和目的と称して武力行使に及ぶ道に故意に日本を誘導し、天皇大権からアメリカ国大統領大権のもと、この国家の政策に逆らう国民思想はすべて取り締まれる法律を制定し、また憲法解釈とやらを悪用して、北朝鮮と同じ国民総動員をかけて強い日本を世界に訴える未来になるであろう。 国民が官僚・政府・日本軍の暴走を止めない限りは。

かつて、国連決議による承認を得ることが出来ずにアメリカがイラクを攻撃する戦争を、小泉元総理が日本国として根拠を調べずにアメリカの言いなりに応じて2003年3月20日に支持を表明した。また、その後イラクへの自衛隊派遣を断行しても誰も止めなかった事実からして、日本は第二次世界大戦の教訓を直ぐに忘れ去り、容易に過去の同じ過ちを繰り返し、集団的自衛権を行使した戦争に加担することがほぼ確実視される中で権力を有する政権・軍隊を誰が止めることができるであろうか?

日本国の天皇制や日米安全保障条約、政治制度などについて、日本国民は、それらを国民自身によって改革することが求められているのである。
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/emperor/japan_emperor.html


84. 中川隆[-7548] koaQ7Jey 2017年5月21日 23:05:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

■ 第二次世界大戦で敗戦の日本 昭和天皇の君臨 戦後のアメリカ従属への道
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/emperor/japan_emperor.html

■ 靖国神社の特殊性。国家を代表する立場を理解できていない閣僚の靖国神社への強硬な参拝。
  その果敢なる挑戦行為、それが、第二次世界大戦の天皇の戦争責任問題を再燃させる。

  


 日本国政府の大臣級の役職のものが毎年、憲法で禁止されている政教分離の基本理念に果敢に挑戦し靖国神社に参拝する状態が恒常化している。 靖国神社は、かつて、宗教性が国家・軍の政治に利用された歴史的に繊細な問題を抱える存在であって、現在の憲法における国家と政教分離の原則を厳しく律した正にその神社にあたる。 国を代表する大臣が職位にある場合は、公私の別に関わらず、発言や行動自体が一般の日本国民のみならず、メディアを通して諸外国に与える影響力が非常に大きく、また、職務の責任の重さや職務柄により、公私の区別を有した2重性の使い分けを容認されない案件が存在すると筆者は考える。 つまり、私的であっても現職の地位にある大臣であるから、一般国民から見ると、常に警護が居る特別な存在であること、更に、戦時中に天皇命で戦場に兵を送り出す際に、戦死して神になることは日本国民の誉れなりという思想のもと、天皇への絶対的な忠誠心を強要する存在そのものの象徴になっていたその神社に、この特別な存在の高官が参拝すること自体が、必然的に特別な暗示を国民に与える影響・効果を発揮するのです。

 国民にとっては国家の策謀を想起させ、国家への不信感を抱かせることになることになるのです。 彼らはこのことに何等特別な配慮を為さず、逆に国民に不信感情と不安感情を主体的に故意に煽っているとしか思えないのです。 そして、このような鈍い愚か者が政治家をやっていることに対して、国民は不満と不信を抱き、このような人間が政治家に選ばれる選挙制度を恨む。 その先にあるものは、彼らに日本の将来に繋がる日本の現状の改革は望めないことだ。
 このようなことが認識できない現職の政府高官は、その立場の適格性に欠ける。

 大日本帝国は、軍部が特別に管理する神社として位置づけ靖国神社と名を改め、国・天皇が認めたもののみを選定して、戦争で戦死した者を神として祀ることにした。 これは、国民を戦争に関して、戦死者の英霊を神とすることによって、戦死する兵士本人と共に遺族になるであろう家族や親族に対して、戦死することを国民の美徳と賞賛し靖国神社で神として奉られると意識に刷り込み、死への恐れを緩和して戦争で無駄死にさせる国家戦略であった。 更に、遺族が抱く絶望感による国への恨みに対しては、殺し合って戦死することを誉り・美意識にすり替えるように洗脳するための重要な役割を担うことになったのです。 戦後は、政教分離が憲法などで規制されたため、この施設は、政治と神道との分離が厳しく律しられ、民間神社となる。

 かつて、ナチズムが戦争への猛進を扇動させたドイツでは、現在、その反省から徹底して同じ轍を踏まないように高官及び一般国民が注意を払う意識が高い。 しかし、日本においては大違いで、政治家の自制の観念が低いようだ。 国家の代表である総理、その他高位の現職の大臣などが役職を辞さずに、洗脳的役割の象徴であった神社に強硬に参拝する態度を示し、まるで、日本国民への洗脳・先導的役割を強調して、強い自衛隊が海外で戦争することに繋がることに対する危機感を抱く日本人の精神を麻痺させ、また、戦死した兵は神になるとの神社の教えを一身にまとい、天皇陛下に万歳し、政府に逆らわずに従う風潮を現在に再燃させる思惑があると筆者は見るのである。 

それは、単なる愚かな政治家が行う些細な参拝行動としては済ますことができない事案になってきているのです。 なぜなら、それは、政治家が国政を預かり、政策を決定する特権を有しており、危険を含む政策をも現実化させることができるからです。 国政を預かるものは最大限の配慮が求められるのです。 → 国民が抱く、靖国神社を参拝する大臣に政治を委ねられない危機意識


 いつまで経っても改めないのであるから、第二次世界大戦の日本の戦争責任について、連合国では裁かれなかった昭和天皇の戦争責任を日本国民は明確にせざるを得ない。

 太平洋戦争における日本の敗戦で、戦後の日本の占領政策が占領国のアメリカによって定められた。 しかし、連合国は正式に占領政策の終わりを承認し、日本との講和条約を結び、日本の主権が条約上成立したのであり、占領政策終了後には日本国民が望む政治を築くことを占領軍の基本にしていたのであるから、日本国民自身で政治や安全保障を日本国民に適した形に修正しなければならないのです。

 よって、不条理なアメリカの条約は打破しなければなりません。 戦後の占領政策による現在の異常性を改革しなければなりません。 これは、そのための準備資料として、歴史の流れを筆者の視点でまとめたものです。

■ 1894年の日清戦争の頃からの歴史年表

  (日本が第二次世界大戦と進んでいく中での日本、中国、ドイツ、ソ連、アメリカなどの事柄)

 


 日本は太平洋戦争でアメリカによる2都市への原爆投下という国民が殺戮される惨劇を経験した。 また、終戦直前に領土拡張を狙ったソ連の参戦により、千島列島の日本の択捉島、国後島、色丹島、歯舞列島が奪い取られた状態だ。 また、竹島は韓国に奪い取られた状態だ。 日本は、神格化された天皇と軍部の暴走により、戦勝への策も無いまま中国、南インドシナやアメリカなどとの戦争を始め、当初から物資補給計画が困難になると見込まれていたが、戦没者310万人のうち100万人以上は飢餓や病気その他、直接的な戦闘以外で無駄死にさせられたと推算される現実の中で、結局無条件降伏することになる。 戦後は占領軍による占領統治下におかれて占領政策が実施されたのである。

 アメリカは、戦争中から戦後を通じて、日本の占領に関して厄介な問題は天皇及び周辺の共産国と捉えていて、戦後すぐに効率的に日本を統治でき、且つ、アメリカへの抵抗が起きない方策を実行したのである。 そこには、絶対的な権威と大権が保障されていた天皇の存在があり、戦争責任を裁く訴追を免除を与えることへの思惑が伺えるのです。 

その後日本は戦勝国との間で講和条約を結ぶが、講和後は日本に対するアメリカの基地政策が内密に施されることになったのです。 日本は民主主義国家と名を背負っているにも拘らず、安全保障であれば何でも国民に秘匿できると考える愚かな政府・官僚が、身勝手な独裁化的な手口で、アメリカとの同盟という名の下に自主的にアメリカに従属する日本の体制の構築に協力し、今日まで強化されてきている。  ここでは、そのすべてを明らかにするものではない。 また、明らかにしようとしても、秘匿されている資料は、裁判を行っても政府の方針で公表されるわけではないし、また、仮に検察が権限を行使して証拠調べを行うとして、すべての秘密資料を調査して目を通すことをすれば、何が正しいかが明白になるであろうが、検察は公表出来ないのであるから証拠にならないのであり、無理でしょう。

 このWEBサイトでは、日米安保に起因する現状の日本社会に横たわるわだかまりの原点、それは、第二次世界大戦の終盤から戦後にかけて、日本の軍部の問題もあるが、天皇が要であったことより、太平洋戦争にむかう歴史の流れの中でそれに関する事柄を時系列に整理することにし、それ以前の1894年頃からの歴史年表として主な項目を私的に表-1に作成した。

表-1  1894年の日清戦争の頃からの歴史年表  主な事柄の流れ 

             (【注】* 印について、表末に説明)


年 月日 天皇・マッカーサー/天皇・リッジウェイ会見 事項

1894〜'95年(明治27〜28年) '94/8月〜'95/2月 日清戦争

1900年(明治33年) 6月〜8月 義和団が北京に入城公使館地区封鎖、清朝が8カ国連合に宣戦布告、連合部隊が義和団を制圧する

1902年(明治35年) 1月 日英同盟締結

1904〜'05年(明治37〜38年) '04/2月〜'05/9月 日露戦争

1905年(明治38年) 9月?日 ポーツマス条約締結

1910年(明治43年) 8月29日 大日本帝国が韓国併合条約で朝鮮半島を領有する

1912年(大正 2年) 1月 1日 孫文 中華民国建国 臨時大総統就任

1912年(大正 2年) 2月12日 清帝溥儀退位

1912年(大正 2年) 2月15日 袁世凱 中華民国2代目臨時大総統就任

1912年(大正 2年) 8月25日 孫文 国民党を創立

1915年(大正 5年) 1月 袁世凱は日本が中国に21か条の要求を行ったことを公表。しかし、受け入れざるを得なかった。

1917年(大正 7年) 11月 ロシア革命

1921年(大正10年) 7月 陳独秀、毛沢東等中国共産党創立

1922年(大正11年) 2月 6日 1921/11/11からワシントンで第一次世界大戦の戦勝国5カ国による軍拡の負担をとめるためのワシントン軍縮会議開催。海軍については米・英・日・仏・伊国間の艦船の保有割合などが決められ、日本は米英国の60%の総排水量と決まった。

1928年(昭和 3年) 6月 4日 張作霖爆殺事件

1929年(昭和 4年) 10月24日 ニューヨーク株式市場の株価大暴落。世界大恐慌ニ発展する。

1930年(昭和 5年) 4月22日 ロンドン海軍軍縮条約締結 日本は補助艦船や大型巡洋艦が米国の70%の総トン数を受け入れ調印

1931年(昭和 6年) 9月18日 満州事変勃発。1931年9月18日夜、関東軍は参謀石原莞爾中佐らの謀略計画により柳条湖で満鉄線路を爆破し、中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始した柳条湖事件を契機とした日本の中国東北侵略戦争で、1932年には満州国を樹立。 清朝の退位した溥儀を日本の傀儡政権の満州国の皇帝に据える

1933年(昭和 8年) 3月27日 日本が国際連盟から脱退

1935年(昭和10年) 3月16日 ドイツがヴェルサイユ条約を破棄

1936年(昭和11年) 1月15日 ロンドン海軍軍縮会議から日本が脱退。1934年12月にワシントン海軍軍縮条約破棄を通告し、2年後1936年に失効。

1936年(昭和11年) 11月25日 日独防共協定締結

1936年(昭和11年) 12月 張学良による蒋介石を拉致した西安事件。 蒋介石は、内戦停止と国民党・共産党の共党体制で対日抗戦を行うことを受諾させられ、その後、両党とも抗日を表明

1937年(昭和12年) 7月 7日 盧溝橋事件起こる。日中の全面戦争に発展。

1937年(昭和12年) 8月21日 中ソ不可侵条約締結

1938年(昭和13年) 11月 3日 近衛が東亜新秩序建設の声明を出す

1939年(昭和14年) 5月12日 ノモンハン事件。日本が支配する満州国とモンゴル国の国境ノモンハンでの警備の武力衝突。これから、日本の関東軍がモンゴルを支援するソ連の領域に侵攻する戦争に発展する。日本は壊滅的被害を受け停戦。

1939年(昭和14年) 6月14日 日本軍が中国天津の英仏の租界を封鎖する

1939年(昭和14年) 7月26日 米国が日米通商条約破棄宣言、1940/1/26執行

1939年(昭和14年) 8月23日 独ソ不可侵条約締結

1939年(昭和14年) 9月 1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻

1940年(昭和15年) 9月23日 日本軍が北部仏印進駐

1940年(昭和15年) 9月27日 日独伊三国同盟条約調印

1940年(昭和15年) 3月11日 アメリカが武器貸与法を成立させる。蒋介石政府に軍需物資の提供など実施。

1941年(昭和16年) 1月 8日 東条英機陸相が戦陣訓を示達

1941年(昭和16年) 4月13日 日ソ中立条約調印(5年間有効)

1941年(昭和16年) 6月 ドイツが独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻する

1941年(昭和16年) 7月21日 日本が仏印支那に対して日本軍が仏印内での軍事任務を行う便宜供与を要求し、仏印が已む無く受諾

1941年(昭和16年) 7月25日 米国が在米内の日本資産の凍結令を公布

1941年(昭和16年) 7月28日 日本軍が南部仏印進駐

1941年(昭和16年) 8月 1日 米国が対日石油の輸出を禁止

1941年(昭和16年) 8月 1日 米ソ経済協定調印。ソ連に対しても軍需物資の提供など実施。

1941年(昭和16年) 10月18日 近衛内閣から東條内閣へ

1941年(昭和16年) 11月26日 ハルノートを提示

1941年(昭和16年) 12月 8日 日本海軍がハワイのオアフ島の真珠湾の米軍の軍艦などを攻撃(現地時間12/7)及び日本軍がマレー半島に上陸

1941年(昭和16年) 12月11日 日独伊三国不講和協定調印

1943年(昭和18年) 9月 8日 イタリア無条件降伏

1943年(昭和18年) 10月30日 汪兆銘の中華民国南京国民政府との日華同盟条約調印

1943年(昭和18年) 12月 1日 アメリカ、イギリス、中華民国の首脳によるカイロ宣言

1945年(昭和20年) 2月 4〜11日 ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンがヤルタで会談

1945年(昭和20年) 4月 アメリカのルーズベルト大統領が死亡。副大統領のトルーマンが大統領になる

1945年(昭和20年) 5月 7日 ドイツ無条件降伏

1945年(昭和20年) 6月 6日 御前会議で本土決戦方針採択

1945年(昭和20年) 6月23日 沖縄戦終結

1945年(昭和20年) 7月 6〜9日頃 サイパン島が全滅。

1945年(昭和20年) 7月12日 米・英・ソ連 ポツダムで首脳会談

1945年(昭和20年) 7月26日 連合国 ポツダム宣言発表

1945年(昭和20年) 7月29日 日本政府は、ポツダム宣言について価値あるものとは認めないとして、戦争の継続について言及。これをロイターは日本が拒否したとして報道した。

1945年(昭和20年) 8月 6日 広島に原爆が投下される

1945年(昭和20年) 8月 8日 ソ連が対日戦争布告

1945年(昭和20年) 8月 9日 長崎に原爆が投下される

1945年(昭和20年) 8月 9日 ソ連軍の対日戦闘開始

1945年(昭和20年) 8月10日 帝国政府はスウェーデン及びスイス経由の電報で連合国に天皇体制の不変の確認の申し入れを送る

1945年(昭和20年) 8月12日 皇族会議 皇族を参集して天皇のポツダム宣言受諾の聖断の意見を述べ大体賛成を得る。但し、朝香宮が国体護持が出来なければ戦争を継続するかを質問した。天皇は勿論だと答えたと記されている。

1945年(昭和20年) 8月14日 日本がポツダム宣言を受諾

1945年(昭和20年) 8月15日 終戦の詔勅ラジオ放送 マッカーサー元帥が連合国最高司令官に就任

1945年(昭和20年) 8月28日 連合国総司令部を横浜に設置。その後東京に移設。

1945年(昭和20年) 8月30日 the General Headquarters of the Allied Powers (GHQ) の最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着

1945年(昭和20年) 9月 2日 ミズリー号にて日本が降伏文章に調印

1945年(昭和20年) 9月25日 天皇がニューヨークタイムズ記者とUP通信社社長の記者会見を受ける。

【2002年7月26日朝日新聞の天皇会見の特集の記事によると、事前提出した質問とその回答。質問:「真珠湾攻撃にについて、宣戦の詔書は、東條大将が使ったように使う意図はあったのでしょうか。」 回答:「東條大将が使ったように使われることは意図していなかった。」

1945年(昭和20年) 9月27日 第1回天皇・マッカーサー
会見 奥村勝蔵通訳

1945年(昭和20年) 10月 3日 東久邇宮内閣が既に作成していた「戦争責任に関する応答問答」を11月5日に一部手直しして幣原内閣で閣議決定。

1945年(昭和20年) 10月 6日 合衆国の最高政策調整機関(SWNCC)は、天皇の処置について、戦犯として逮捕されるものとする。その時期は、その必要性を判断して行うとする。 天皇制について別案を起草することを提案。 その後、昭和天皇に関しての提案の種々の報告書が示されている

1945年(昭和20年) 10月19?日 SWNCC 天皇の戦犯検討を中止する方針を明らかにする。

1945年(昭和20年) 10月24日 国際連合発足

1945年(昭和20年) 12月15日 GHQが国家と神道の分離令

1945年(昭和20年) *12月22日 アチソン 天皇制と(寺崎)日記に記載。

1946年(昭和21年) 1月 1日 天皇の人間宣言

1946年(昭和21年) 1月19日 極東国際軍事裁判所条例制定 天皇も戦犯リスト入り
(このときマッカーサーは天皇を法廷に出さないことを決めていた;ウィロビー少将の回顧録)

1946年(昭和21年) 2月20日 (寺崎英成がこの日に宮内省の御用掛になると、半藤一利氏が注釈説明している。)

1946年(昭和21年) 2月26日 ワシントンに11カ国からなる極東委員会が設置される。

1946年(昭和21年) 3月 6日 GHQの憲法草案発表
この日付において、次の資料が存在する:

(注)『フェラーズ准将が米内大将に対する話(昭和21年3月6日)』

フェラーズが「自分は天皇崇拝者ではない。したがって、15年先、20年先、日本に天皇制があろうがあるまいが、又天皇個人としてどうなって居られようが、関心はもたない。しかし、連合軍の占領にについて、天皇が最善の協力者であることを認めておる。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。所が困ったことには、連合国側の或る国においては、天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く、特に「ソ」(ソ連)はその国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図しておる。

したがって、日本の天皇制と「MC」(マッカーサー)の存在とが大きな邪魔者になっている。 加えるに米においても、非アメリカ式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙げるべきだととの主張が相当強い。 右に対する対象としては、天皇が何らの罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。その為には近々開始される裁判において東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。すなわち東條につぎのことを言わせてもらいたい。 「開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争までもって行く腹を既に決めていた」と

1946年(昭和21年) 3月18日 昭和天皇の独白録のための聞き取り 1回目

1946年(昭和21年) 3月20日 昭和天皇の独白録のための聞き取り 2回目

1946年(昭和21年) 3月22日 昭和天皇の独白録のための聞き取り 3回目

1946年(昭和21年) 4月 8日 昭和天皇の独白録のための聞き取り 4回目、5回目

1946年(昭和21年) *4月19日 (寺崎)大臣と共に陛下の腹案を聞く 夜リスト作成

1946年(昭和21年) *4月20日 (寺崎)リストを外務省に提出 大臣の意向を伝える

1946年(昭和21年) 4月22日 ソ連が東京裁判の起訴状の変更を要求 フェラーズに3度会う。 23日に吉田わからずという フェラーズに話してよしという 夜フェラーズに会う

1946年(昭和21年) 5月 3日 フェラーズに話す 陛下の了解済み。(東京裁判開廷)

1946年(昭和21年) *5月31日 第2回天皇・マッカーサー
会見 寺崎英成通訳 (寺崎)記録を作る

1946年(昭和21年) 6月 4日 極東委員会 天皇制廃止の問題を討議に付することを発表(衆議院の日本国憲法制定経過年表の資料)

1946年(昭和21年) 6月 日 中国で、国民党軍と共産党軍との内戦が再開する

1946年(昭和21年) *6月 6日 (寺崎)会見録原稿を仕上げる

1946年(昭和21年) 6月18日 キーナン極東国際軍事裁判首席検事がワシントンで天皇の不訴追を言明(国立国会図書館資料 年表 詳細年表4)

1946年(昭和21年) 6月26日 吉田首相が戦争放棄について、自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明

1946年(昭和21年) *8月20日 (寺崎)侍従長と話す 三種の神器問題と記載あり

1946年(昭和21年) *9月 9日 降下問題 侍従長と話す バンカーに会う話と記載あり

1946年(昭和21年) *10月14日 (寺崎)お言葉案を書き上げる 御前会議

1946年(昭和21年) 10月16日 第3回天皇・マッカーサー
会見 寺崎通訳

1946年(昭和21年) *10月18日 (寺崎)会見録書く

1946年(昭和21年) *10月22日 (寺崎)会見録中野に渡す

1946年(昭和21年) *10月26日 (寺崎)会見録次官に渡す

1946年(昭和21年) 11月 3日 日本国憲法公布
1947年(昭和22年) *3月21日 (寺崎)バンカーと話しをする。1.元帥のプレインタビューの経緯。 2.元帥が早く日本を去っては朝鮮人にもやられる始末だが如何。 元帥は後々のことはよく考えている。 UNO国連に力が出来るか又は日本に再軍備をしてからかどちらか。〔責任ある人から再軍備云々は初めて聞く〕 3.元帥の大統領説について〔米大統領選に出馬の噂〕と記載あり

1947年(昭和22年) 5月 6日 第4回天皇・マッカーサー
会見 奥村通訳  

1947年(昭和22年) *9月19日 拝謁 沖縄の話 元帥に話すべしという  平和条約にいれず 日米間の条約にすべし

1947年(昭和22年) 9月20日 寺崎からマッカーサーへのメモ 寺崎→シーボルト、シーボルト→ワシントンの国務長官宛に同封してマッカーサーに送る(ワシントンの公文書公開)
 (所謂、沖縄メッセージを指す)

1947年(昭和22年) *10月3日 (寺崎)シーボルトに会う 陸軍省の意見:沖縄はアメリカが自由にする 信託かリースかは決まっていない 国務省の意見:定まっていない

1947年(昭和22年) 11月14日 第5回天皇・マッカーサー
会見 寺崎通訳

1947年(昭和22年) *12月31日 陛下マ元帥ご会見(注1) (注1)寺崎の日記には、陛下「マ」元帥と御会見と記載あり

1947年(昭和22年) 12月31日   東京裁判でローガン弁護人の「天皇が平和を希望していることに対し、木戸幸一が何か進言したり、行動したことがあるのか」という尋問に、被告東條が「そういうことはない。日本国の臣民が陛下のご意思に反してあれこれすることはない。いわんや、文官においてをや」と発言。審理を中止し翌年に持越しされる。

このとき検察官のキーナンは自宅に松平や高松宮を呼び、暗に説得を仄めかせた。結果的に天皇は無罪で東條が罪を被ったのである。

1948年(昭和23年) 5月 6日 第6回天皇・マッカーサー
会見 GHQの通訳か?

1948年(昭和23年) 11月12日 東京裁判で東条英機に死刑判決。12月23日に処刑。

1949年(昭和24年) 1月10日 第7回天皇・マッカーサー
会見 GHQの通訳か?

1949年(昭和24年) 7月8日 第8回天皇・マッカーサー
会見 松井通訳

1949年(昭和24年) 8月   ソ連が原爆実験

1949年(昭和24年) 10月 1日   中華人民共和国成立

1949年(昭和24年) 11月26日 第9回天皇・マッカーサー

会見 松井通訳 講和問題

1949年(昭和24年) 12月11日   蒋介石が台北で国民党の執務を始める

1950年(昭和25年) 4月18日 第10回天皇・マッカーサー
会見 松井通訳

1950年(昭和25年) 6月25日   日本の降伏後、ソ連の朝鮮半島の侵攻により米ソで朝鮮半島を分割統治し、それぞれの政権が樹立していた。北朝鮮軍が北緯38度線を越えて南下侵攻に対して、国連軍による北朝鮮攻撃。朝鮮戦争勃発

1951年(昭和26年) 4月15日 第11回天皇・マッカーサー
会見 松井通訳 マッカーサーが解任されアメリカに戻る前日

1951年(昭和26年) 4月18日   ダレスと吉田首相会談:英国の厳しい対日和平条約内容を知らされる

1951年(昭和26年) 5月 1日 第1回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳

1951年(昭和26年) 8月27日 第2回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳

1951年(昭和26年) 9月 8日   サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印

1951年(昭和26年) 9月18日 第3回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳

1952年(昭和27年) 2月28日 日米安全保障条約第3条に基づく行政協定を結ぶ

1952年(昭和27年) 3月27日 第4回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳

1952年(昭和27年) 4月26日 第5、6回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳 講和条約発効

1952年(昭和27年) 5月 2日

1952年(昭和27年) 5月10日 第7回天皇・リッジウェイ
会見 松井通訳

1953年(昭和28年) 7月27日 朝鮮休戦協定調印

1954年(昭和28年) 6月 9日 自衛隊法公布

1954年(昭和29年) 12月 2日 米華相互防衛条約締結、その後1972年に米中国国交樹立後、必然的に効力を有さないことになるが、アメリカは台湾への武器の輸出を可能になるようにしている

1956年(昭和31年) 12月18日 日本の国連加盟承認

1960年(昭和35年) 1月19日 岸首相が強硬に日米安全保障条約改定締結(10年間有効)及び日米地協定調印

1965年(昭和40年) 2月 7日 アメリカによる北ベトナムへの攻撃開始

1969年(昭和44年) 11月21日 ニクソン米合衆国大統領と佐藤日本国総理大臣との間の共同声明についての極秘の合意議事録(密約)が交わされる。概要内容:『極秘:米合衆国大統領 ・・・米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とするであろう。  かかる事前協議においては、米国政府は好意的回答を期待するものである。 

さらに、米国政府は、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち、嘉手納、那覇、辺野古並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、重大な緊急事態が生じた時には活用できることを必要とする。 日本国総理大臣 日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう。・・・』

(注意)【重要】しかし、筆者から見れば、日米安保条約に関わる安全保障の取極めで、独裁政治的に、核兵器の持込などの了解事項ほか何でも極秘に平然と決めることができ、法律でない非核三原則など意味無いことがわかった。極秘であれば公に出ることは無いから政府のやり放題である。

1970年(昭和45年) 6月23日 日米安全保障条約調印。以降自動継続(1年ごと)

1971年(昭和46年) 10月25日 国連 中国の正式な政府を中華人民共和国とすることが可決

1972年(昭和47年) 5月15日 沖縄の施政権日本に返還

1975年(昭和50年) 4月 3日 ベトナム戦争終結

1978年(昭和53年) 8月12日 日中平和友好条約締結

1978年(昭和53年) 11月27日 日米安全保障協議委員会で日米防衛協力のための指針を了承

2013年時点の日米防衛協力のための指針

1990年(平成 2年) 10月 3日 東西ドイツ統一

1991年(平成 3年) 4月24日 自衛隊の海外派遣が明確になっていないにも拘らず、自衛隊をペルシャ湾の機雷掃海作業のために派遣決定

1996年(平成 8年) 4月15日 日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互の提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定調印

1999年(平成11年) 8月18日 周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律制定

2001年(平成13年) 9月11日 アメリカが同時多発テロ攻撃を受ける

2003年(平成15年) 3月20日 米英などの有志連合国が、大量破壊兵器の所有その他を理由としてイラクへの攻撃を開始する

2003年(平成15年) 6月13日 武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律制定

2003年(平成15年) 7月25日 イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法制定。当時のイラクでの航空自衛隊の活動の中に、イラク特措法違反及び日本の刑法に抵触する命令を総理・防衛の閣僚が航空自衛隊に下した事実が存在する。 法治国家日本として、イラクに派遣された航空自衛隊及び小泉、安倍、麻生、福田元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣などの刑法に抵触する命令に対する処罰(殺人ほう助相当??の刑罰)が求められる

2009年(平成21年) 12月22日 元総理の佐藤栄作氏の親族が日米両首脳の署名入り核持ち込みに関する極秘合意書を新聞記者を通じて公表した。

2010年(平成22年) 3月 9日 外務省の密約に関する有識者委員会が調査報告書を提出し密約としての合意事実の存在を確認した。今回対象の密約4項目:

”日米安保条約改訂時の核持ち込みに関する項目”、”朝鮮半島有事の際の戦闘行動に関する項目”、”沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する項目”、”沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する項目”

2011年(平成23年) 3月11日 東日本大震災発生。東京電力福島第一原発事故発生。飛散した放射性物質を放置したままである。原子炉施設から放射性物質を含んだ汚染水が直接海洋へ流出していると共に、飛散した放射性物質が堆積したものが循環を通じて、降雨により流下し海に流出していると推測される。

2011年(平成23年) 12月14日 オバマ大統領がイラク戦争終結宣言

【注】 * 印は、「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)に記載の項目から示した日付と内容。寺崎の日記は1948年2月15日で終わっている。 マッカーサー及びリッジウェイと昭和天皇との会見の月日は、2002年8月5日の朝日新聞の記事による。


■ 日清戦争頃から連合国による日本の占領統治と連合国の占領統治終了後の米軍による狡猾な占領
  (同盟という名の占領体制)までの歴史の事柄

  


 中国の清朝末期にイギリスと清との間でイギリスによる清へのアヘンの密貿易を清が阻止することに起因したアヘン戦争が起こる(1840-1842年)。 敗戦した清は南京条約を結ぶ(1842/8/29)ことになって、イギリスに上海など5港を開港、九龍半島南部などを割譲した。 その後、(1860)に英仏軍が北京に進撃し、清は北京条約を結び、イギリスには九龍半島を割譲など行った。 また、ロシアはウイグル自治区のイリ地方に進撃し一部の領土を獲得した(イリ占領1871、イリ条約1881)。

 清と日本とは朝鮮問題で日清戦争(1894)となり、日本が勝利し、清は下関条約で遼東半島、台湾及び澎湖列島を割譲、賠償金を支払うことになった。 (1900)に義和団の乱が起こり、清がこの機を利用して義和団の排外運動を支持するが、北京の在中公館の要請を受けた8カ国連合が義和団を鎮圧し北京を占領。 戦後処理として北京議定書を結び(1901/9/7)、戦勝国は清朝に多額の賠償を請求するほか、清国内の駐兵や国土の分割的権益を獲得した。 しかし、日本は三国干渉を受け、遼東半島を清に返還。 ロシアがその後遼東半島を租借ロシア軍は中国東北部を占領、後に日本がロシアの勢力の南下を危ぶみ、日露の戦争へと向かうことになる。

 中国での権益を守り第三国の介入を牽制するために、(1902)に日本は日英同盟締結ぶ。 (1904)に日本はロシアと国交を断絶し、日露戦争開戦に至る。 日本は日露戦争の勝利でポーツマス条約締結(1905)。

 日露戦争に合わせて、朝鮮半島では日韓協約を結び朝鮮半島を日本の保護下におき、(1910)には大日本帝国が大韓帝国を併合した。 日露戦争後、日露間で4回の協約を結びつつ協調政策を進めたが、(1917)のロシア革命により協約関係は終焉する。 日本が支配する満州国とモンゴル国の国境ノモンハンでの警備の武力衝突から、日本の関東軍がソ連の領域に侵攻する戦争に発展し、日本が敗戦した(1939/5)。

 (1911/5)に四川暴動が起き、(1911/10)に武昌で革命派が挙兵し湖北省独立を宣言。 これを機に新軍が各地で独立、革命派は南京で孫文を臨時大統領に選出、(1912/1)に孫文が共和制を宣言、中華民国の臨時政府が誕生。 しかし革命勢力は弱く、間もなく北洋軍閥の袁世凱が北京で臨時大統領と成り、(1912/2)に清朝の皇帝溥儀を退位させ清朝は終焉し、王朝体制は滅びた。

 (1912/3)に袁世凱が臨時大統領に就任。 その後議院内閣制が採用されることになり、袁世凱は国民党の宋を暗殺、孫文らは亡命、袁世凱は帝政を復活させようとするが反対勢力の武装蜂起により断念を余儀なくされる。 (1916/6)に袁世凱が死亡後は軍閥間の争いに発展した。 この後、国民党勢力に対抗する勢力や共産党勢力との間の内乱が生じた。

 この頃、 第一次世界大戦でドイツの敗戦により、中国内のドイツ権益を日本が引き継ぐことを日本が中国に要求する問題など起きる。 (1931/9)に満州の柳条湖での満鉄線路爆破事件に端を発して、日本の関東軍が中央政府の制御を外れて行動し満州へ侵攻(満州事変)。 このとき、朝鮮へ派兵されていた日本兵の部隊も中央政府の統制外で満州に進軍した。 傀儡政権の満州国を樹立(1932)。

 中国国内では国民党勢力と共産勢力などとの内乱のため、日本の満州国を樹立することに対しては放任。 この満州事変に対しては、国際連盟がリットン調査団を派遣し日本軍の行動について調査をおこない、報告書を基に国連で日本がとった行動についての処理が討議され、その議決結果を不服として日本は(1933/3/27)に国際連盟を脱退した。

 張学良が内戦を中止して蒋介石に国共の共闘を求める西安事件を起こし、日本が満州から更に軍事侵攻することに対処するための国民党と共産党が抗日に共闘する国共合作が成立することになった。 その後、盧溝橋での軍事衝突(1937)から日本と中国との全面的な日中戦争に発展。 アメリカには当時、戦争や内乱状態の国には軍需物資の輸出を禁じている中立法が存在していたが、この日中戦争において、ルーズベルト大統領はこの適用を除外して中国の国民政府を支援する。

 日本軍は満州国から領土拡大を図ること及び日本軍に対抗する蒋介石の中華民国政府を諸外国が支援するルートを断つことを開始し、中国南部域の(1938)に広東を爆撃し、広東が陥落(1938/10)。 日本軍が海南島を占領(1939/2)。 (1939/6)に日本軍が中国天津の英仏の租界を封鎖する。 (1939/7)にアメリカは日米通商条約の破棄宣言を行った。  

蒋介石政府を支援する武器等の供与は、仏領印度支那(仏印)及びビルマ(現在のミャンマー連邦)からの輸送ルートなどでも行われており、日本軍はこれの阻止に躍起になっていた。 日本は仏印及びビルマに圧力を掛け、日本軍が活動できるように交渉するが、交渉は纏まらなかった。 日本軍は強硬に仏印ルートの中国領土内の雲南鉄道を爆撃(1939/12)。 日本が北部仏印に進駐(1940/9)。 仏印は本国フランスがドイツに占領されたことにより、仏印に対する日本軍の軍事面の任務の便宜供与の要請を受諾せざるを得なくなった。 日独伊三国同盟を結ぶ(1940/9)。

 中国では、国民党の蒋介石に対抗して国民党の汪精衛(汪兆銘)が(1940/3)に南京国民政府を樹立するが、蒋介石側からの脱落者が続かず支持が得られず日本に組し、日本は、日本の傀儡的な汪精衛政権を中国の正式な政権として認める(1940/11)。


 イギリスはビルマから輸送を再開することを日本に通告。 日本軍がビルマ上空からビルマルートの輸送路を爆撃(1940/10)。  日本は(1941/4)にソ連と日ソ中立条約を結び北方からのソ連の進攻を抑制を図りつつ、日本は南部仏印に進駐(1941/7)。 

アメリカは、日本が東亜の新秩序(大東亜共栄圏)建設と称して仏印侵攻や三国同盟締結したことを懸念して、日本に対して、中国における権益放棄、市場の機会均等や満州を日本が統括する以前の状態に戻すことなどを含め、領土保全、主権不可侵、インドシナからの撤兵、中国の政権はアメリカが認める蒋介石政権とし、日本に他の対立政権の支援を認めない、また、太平洋地域の平和の確立に関して一方的に第三国と協定することが平和維持に矛盾すると認めることなどを要求するが、日本は拒否した。 これを受けて日米間の関係が悪化してゆき、日本に対して制裁として米国内の日本の資産を凍結した(1941/7/25)。 (7/26)に英国が凍結。 (7/27)に蘭印が凍結。 アメリカは(1940/9)に既に鉄屑などについて対日輸出を禁止していたが、(1941/8/1)には対日石油の輸出を全面禁止した。 これらの経済制裁を受けて、日本は米国との外交交渉による解決の余地を残しつつ、南方方面への侵攻作戦(対米・英・蘭との戦争)の準備を始めた。

 (1929/10/24)のニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した世界恐慌による経済の混乱期に入る。 ヨーロッパにおいては、既に世界の各地に植民地を有している列国は、植民地間のグループの経済圏で排他的貿易により恐慌に対処する、いわゆるブロック経済政策により恐慌を乗り切るが、一方、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツなどの敗戦国は多額の賠償費などを課せられ、経済の行き詰まりに対する活路として、講和条約ヴェルサイユ条約を破棄して(1935/3/16)軍備拡大、領土獲得に進んだ。 当時のソ連は計画経済を行っており、世界恐慌の影響を受けなかった。 アメリカはニューディール政策を実施した。


 ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる(1939/9)。 ソ連のスターリンはドイツと不可侵条約を締結(1939/8)し、戦争回避をはかった。 アメリカは武器貸与法を成立させてイギリスなどへの必要な支援を可能とする(1941/3)。 ドイツは不可侵条約を2年足らずで破りソ連への攻撃を開始(1941/6)。


 日本では(1940/7/27)に宮中で大本営・政府連絡会議を開き、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。 これは大日本帝国の対外政策の方向を概定するもので、武力行使の方向性と準備の基本が示されている。 その主な内容は概ね次の通り。


■支那事変の解決を促進する。 

■第三国による蒋介石への援助を断つ様手段を尽くして、重慶政権を屈服させる。 
■独伊との結束を強化し、対ソ連とは国交調整を行う。 

■米国に対しては儼然たる態度で日本の主張を通して施策を実行する。 自然的悪化は止むなしとするが、求めて摩擦を増やすことを避ける。 

■仏印に対しては蒋介石支援行為を遮断する。 必要な資源を獲得する。 状況に拠り武力の行使。 

■香港に対しては強力に敵性を排除する工作を推進する。 

■租界に対して敵性を排除する。 

■蘭印にたいしては暫く外交的に重要資源の確保に努める。 

■対南方については好機を捕捉し武力を行使する。 

■戦争対手は極力英国のみとするが、対米開戦が避けざる事態に至ることがあるので、この準備に遺憾なきを期す。 

■国内について、総動員法の発動。 戦時経済態勢の確立。 戦争資材の集積、船腹の拡充。

 帝国日本は、ドイツがノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを相次いで征服する快進撃に目を見張り、ドイツとの同盟に慎重な日本内部の意見が同盟賛成派の主張に押されて日独伊の三国軍事同盟を結ぶ。 帝国日本は、アメリカに依存する鉄鋼・石油の供給が止まる中で、アメリカに最後の平和的な外交交渉を行う一方で戦争の準備を始めた。

 帝国日本は、独ソ戦を好機に捉え、ソ連には介入せず、中国の作戦強化、対仏印・タイへの施策事項を実施、対英米作戦の準備を始めた。


 近衛内閣時の御前会議で既にアメリカとの開戦を念頭に入れた方針を決定させていた。

《{(1941/7/2)の御前会議では、”南方要域に対する必要な外交交渉を続行しその他諸般の施策を促進する。 このため、対英米戦の準備を整え、「対仏印泰施策要綱」、「南方施策促進に関する件」に拠り、仏印及び泰に対する諸方策を完遂し南方進出の態勢を強化する。 本目的を達成するため、対英米戦を辞せず。” と決定。} 、{(1941/9/5)に天皇に議案を内奏し、翌日9月6日の御前会議では、”自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完整する。 外交交渉によって10月上旬頃に至るも尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意する。 特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。” と決定。}》


 対米交渉は進展せずに交渉期限の10月上旬を過ぎて、新秩序建設や御前会議での開戦が決定している状態で打開できずに近衛は辞職する。 その後に、この難局に軍部を抑えることが可能な人物であろうと総理に御下命されたのが戦争容認の主戦派である東條英機であった。 しかし、結局交渉は決裂し、東條なら一旦決定した御前会議の決議を翻してくれることを最高指導者会議のメンバーらは期待するが、東條は天皇の裁断を従順に実行したのである。

 日本は思慮された戦術も無く、日本の石油の備蓄が枯渇する前にアメリカとの開戦に及んだ。 1940年代、日本は米英圏からの輸入に多くを依存しており、軍需生産を拡大するためには米英圏からの原材料の輸入が必須であったが、それらの国との摩擦が生じたことで物資の確保が困難となり、日本軍は米国と半年か1年間しか戦えないことを想定しており、戦争会議では希望的条件における見込みの作文に基づく主張によるものであって、米国との持久戦をどう戦うかの戦術検討は無かったのである。

 ハワイ攻撃は日本の不手際からワシントンへの通告(実際は単なる交渉打ち切りの通告内容:”・・・帝国政府の希望は遂に失われたり。よって、・・・今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むる外なき旨を、合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。”)の前に日本海軍がハワイを奇襲した(1941/12/8 日本時間:午前3時20分)。{(参考)コタバルへの攻撃部隊は、12/8 日本時間:御前1時30分東岸へ上陸とマレー沖から軍機電報で報じた。}

 帝国日本の海軍力は太平洋方面ではアメリカと同等であったとしても、ワシントン海軍軍縮会議、ロンドン海軍軍縮会議で国力を基にして規定されているように、日本の海軍規模がアメリカより小さい。 ただ、この時は、大西洋に40%、太平洋に60%の割合の配分と見込んでいた。 しかし、当時、大国アメリカの農業・工業・産業、資源、経済力などは日本の数十倍以上も上回り、戦時中には軍備・武器装備の生産増大を図り (「細川日記」には1943年11月に中将が細川に対し、1943年の日・米英の戦力差約3倍以上では戦争継続がかなわない資料を示し、御上に状況を認識していただき国家の前途を誤らないように行動為されるように奉る旨を申し上げている。 

「太平洋戦争への道」記載の資料では航空機は10倍以上の建造規模を有す。 1944年時点では日本の船舶などの消失による戦力減とアメリカやオーストラリアでの戦力増より更に戦力差が明白であった)、アメリカが本格的に太平洋に戦力を投入すると、圧倒的な軍事力を有するアメリカに圧倒されて、日本軍は太平洋でアメリカの攻撃に撃破される一方であった。 南太平洋の占領諸島の日本軍は補給路を断たれ、食料の供給も無く、武器らしい武器を有さずに、日本兵は戦陣訓で敵に投降することは恥ずべきことで死を持って天皇に尽くせと命じられており、占領諸島で日本人の玉砕に発展した。


 日米開戦については、アメリカは太平洋の艦隊の一部を大西洋に回していたが、帝国日本がハワイを奇襲した(1941/12/7 ワシントン時間)までには太平洋に帰還させていなかった。 アメリカは日本の野村駐米大使と日本本国との電信の秘密暗号電の解読を行い前もって情報(マジック情報と呼ばれる)を探知し、日本が12月初旬の攻撃に向けて準備を行っていることなどを入手しており、この情報に基づいて(1941/11/27)にハワイなどに戦争警告の電報を送っていたが、マジック情報はハワイ方面の陸海軍には有効に活用されていなかったとされている。 この戦争警報の内容は(須藤眞志著「日米開戦と山本五十六」)によると、

「本電報をもって戦争警告とみなすべし。 太平洋における事態の安定を目ざした日米交渉は既に終わり、日本の侵略的行動がこの数日以内に予期される。 日本陸軍部隊の人員並びに装備と海軍機動部隊の編成から判断すれば、日本軍はフィリピン、タイ国、またはクラ地峡あるいはボルネオに対して水陸両用遠征作戦を行う意図を有するものの如し。 戦争計画第46号によって与えられたる任務を遂行するために、適切なる防衛展開行動を実施すべし。 地区当局並びに軍当局に右の情報を伝達すべし。 陸軍省も同様の警告を発令しつつあり。 海軍省は英国にも通報せり。 本土各地区、グアム、サモアは妨害行動に対する必要措置を取れり。」

と記述されている。

 この日本軍のハワイ奇襲攻撃への米政府やハワイの軍司令官の間の軍事に関わる対応問題については戦後アメリカで種々の調査が行われ、相対立する主張もあるが、アメリカは日本に対して何等挑発しておらず、日本が奇襲による侵略攻撃を行い、遠距離であるハワイまで強力な戦力で巧みに攻撃したものであるが、ハワイの軍の司令官は過失ではなく、判断の錯誤があったとされた。 又、政府首脳に責任は無く、ハワイに十分な警告を送らなかった陸海軍省担当部の責任とされた。

 このハワイ攻撃を受けてアメリカは、経済援助や武器供与の支援のみ戦争協力し、あくまで中立主義を通していた政策を世論の絶対的な開戦支持のもと覆し、軍備装備の大規模生産を押し進めて対日戦へ発進するのであった。 そして、予想以上に早く、帝国日本は対米開戦の失敗とアメリカの工業力の格段の生産能力を思い知らされることになる。


 イタリアが無条件降伏(1943/9)。 アメリカ、イギリス、中華民国の首脳がカイロで会談を行い、同盟国の目的は、日本の侵略を阻止するもので自国の利得を要求せず、領土を拡張する意図を持たないとする決意を示す ”カイロ宣言” を調印(1943/12)。 この後、連合国の四首脳は戦勝後のドイツの占領統治問題、解放された国の問題、賠償問題、国連問題、アメリカがソ連に対日戦への参戦の確約を得ること及び日本への無条件降伏の勧告案などについて協議する ”ヤルタ会談” を行った(1945/2)。 このヤルタ会談で、ソ連は参戦の条件に日本の領土である千島列島の戦勝利得を要求し、協定を結んだ。 この後、ドイツが無条件降伏(1945/5)。


 大日本帝国においては、アメリカとの太平洋戦争突入前(1941/9)に近衛首相から対米戦に対する海軍の見通しを聞かれ、日米戦争の回避を求めていた山本五十六連合艦隊司令長官が、「是非やれと言われれば、初め半年や1年は随分と暴れてご覧に入れる。 しかし、2年、3年となれば確信は持てません。・・・」と答えていたように、ミッドウェー海戦(1942年6月5〜7日)頃以降、日本はアメリカ軍に圧倒されて敗退し続ける。 日本軍はジリ貧で戦っていて、戦争が不利になると東條が失脚(1944/7)。 日本軍はフィリピン戦で破れる{(1944/10)レイテ沖海戦敗北。(1945/3)マニラ戦敗北}。 沖縄方面に向かう戦艦大和などの艦船が撃沈される(1945/4)。 (5/13)に近衛がソ連の軍事干渉と共産主義政府樹立の危険性を上奏したとされる。 

昭和天皇は日独伊三国不講和協定を破って日本が単独講和を行えぬとし、更に天皇は、アメリカ軍に総力を結集して最後の抵抗を行ってそれなりの打撃を与えてから、天皇にとってよい条件での停戦協定を結ばせたいと希望したと見られる。 その後アメリカ軍は沖縄に上陸し、住民を巻き込んでの戦闘となって沖縄戦でも日本は敗北(1945/6)。 長谷川海軍大将が、国内の兵器廠や部隊を視察(1945/6/12)して、武器の不足や兵員の訓練不足を天皇に報告した。 この後、天皇は一撃和平を断念したと見られる。 その後日本の終戦工作が開始された。 この時期に東大教授南原ほか5人の教授は、アメリカとの直接交渉で皇室の維持のみを条件に無条件降伏を受け終戦後天皇が退位することを提案。 木戸内大臣は本土決戦で三種の神器が奪われるならば国体護持は出来なくなるとして、本土決戦せずに9月末までに戦争を終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することを(1945/6/18)の最高戦争指導会議で決定。 サイパンが全滅(1945/7)。


 日本は日独伊の三国同盟を結んだが(1940/9)、アメリカや中国との関係でソ連の介入を抑制する目的で、日本はソ連と日ソ不可侵中立条約を締結した(1941/4)(条約は5年間有効、条約を継続しない場合は有効期間の終了する1年前に通告、通告が無い場合は自動継続)。 ドイツがソ連に侵攻したときには、日本はソ連への攻撃に対しては中立を維持させていた。 しかし、ソ連は(1945/4)に日本に中立条約を継続しないことを通告。 

このとき、日本は、日ソ中立条約の残存有効期間の1年間はソ連との中立関係は維持されると楽観的に捉えていた。 日本は米英とソ連とを引き離すことを考えるが、駐露佐藤日本大使は米英ソの三巨頭がヤルタ会談を開催しようとしている折、極東のソ連の兵力増強もみられる情勢であり、中立といっても日本のかつての敵国で日本への準敵視が見られるソ連に仲裁を依頼することはもはや問題外と反対したが、これを無視して日本政府はソ連頼みに固執した。 一方、ソ連は、攻撃準備を日本に悟られないように、中立はまだ有効として日本を欺くのであった。 日本はソ連の陰謀に疑いを持たずに、天皇の護持を確保した条件でのアメリカとの和平交渉の斡旋をソ連に依頼するのであった。 

 ソ連はアメリカに日本が戦争終結を模索している情報をポツダムでの会談で伝えていたが、米ソは今すぐ日本が降伏されると思惑通りにならないので、米ソは共同で日本の降伏時期を7月中に行われないように引き伸ばす作戦を取る。 アメリカはソ連に日本への回答については意図がわからない旨を回答して延ばす様に求めた。

 ソ連は、佐藤大使への回答書簡に、ソ連は日本からの仲介の斡旋依頼に対して、特命近衛特使を派遣する使命が不明であるから派遣を断り、ソ連政府は如何なる回答をなす事も不可能であると回答。 

佐藤大使は、ヤルタ会談後の回答であるから米英に伝わっている可能性を政府に伝えたが、廟議で決定しているとして日本政府はソ連に和平の斡旋を継続するのであった。 アメリカでは原子爆弾の作成と爆破実験を計画。 その実験の成功の報がポツダム会談直前のトルーマン大統領に伝えられた。 アメリカは原爆実験の成功後から原爆の製造に要する日数を考慮した8月初旬の完成を目指していたので、アメリカは日本が(1945/8)以前に降伏してしまわないようにする必要があった。 ソ連も当初ドイツ戦が終了してから準備が3ヶ月必要で、参戦が早くとも(1945/8/15)になると見込み、それまでに日本が降伏してしまうことを懸念していた。 アメリカは天候条件を考慮して(8/10)までに日本に投下することを目論んだ。 アメリカは、ソ連の参戦前に原爆を投下することが作戦上必定と捉えていたと推測される。(「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」長谷川毅著を参考とした)


 この頃日本では最高指導者会議を開催し、降伏の際の条件項目を議論していた。 連合国から日本の降伏を促し、日本向けに降伏条件を示すポツダム宣言を発表(1945/7/26)したことに対しては、日本はポツダム宣言を価値あるものと認めないとし、戦争の継続に言及。 これをロイター通信社が日本が拒否したと発表。 アメリカは日本に無条件降伏を要求。 日本は天皇護持を要求。 それに対し、アメリカは通告文章に天皇護持については含めずに、あくまでも無条件降伏を主張した。

 元駐日米国大使のグルーや当時陸軍長官のスティムソンが天皇制を残す余地が含まれている旨を降伏条件に入れるべきであると主張したが、強硬派の国務長官バーンズやトルーマン大統領は、アメリカの世論は天皇に対する処罰を求めていること、日本軍のハワイへの卑怯な攻撃などに対して抱く嫌悪などや個人的な感情、新たな原爆という兵器の威力を実証する機会と捉えていたことなどが原因していると筆者は想像するが、無条件降伏表現とし、天皇についてはいかなる約束をしないことを決定していた。

(参考): 長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」より引用)
7月24日付けのウォルターブラウン(1945年当時の国務長官 ジェームズ・F・バーンズのアシスタント)の日記に、
 「バーンズは、ジャップのソ連を介しての和平工作について更に語った。 日本の中ソ大使は本国の政府に、もし戦争を継続すればドイツに起こったことが日本にも起こると警告した。 しかし、天皇は無条件降伏に何らかの修正がなされなければ日本は最後の一人になるまで戦うといった」(7/21)の東郷発佐藤宛の電報の暗号解読(Walter Brown Diary, Tuesday 24 July 1945 Folder 54 (1) Folder 602, Byrnes Papers. Magic Intercepts in Folder 571, Byrnes Papers.) 

 そうすれば、日本は拒否するであろうと予見した。 その後、想定どおりにことが運び日本が拒絶した。 アメリカは、日本の拒絶を戦争貫徹の証であり、原爆投下を正当化する根拠が得られたとした。

 アメリカは、日本への原爆使用については、日本の本土での戦闘を回避し、戦争を早期に終結してアメリカ兵の犠牲を減らすためであったというのを公式表明としている。 この原爆使用に関して、後にウィロビー准将は、戦場にいる者からの視点として、更に戦闘の月日は要するが、原爆を使用しなくとも日本を降伏させることは出来たであろうと述べている。

 アメリカは、原爆投下の標的都市を京都、広島、小倉、長崎、新潟の順番とすることを採用した。 しかし、ヘンリー・スティムソンは、京都は歴史的な遺産のみであり、軍需的な要素がないことより、若し京都を破壊した場合には、世界からの非難は必定。 更に、占領後、日本国民が占領国としてアメリカよりソ連を希望することに繋がることへの危険性を懸念したのである。 結局、標的として京都は原爆投下の直前に外されることになった。

 アメリカは(1945/8/6)に広島に原爆を投下した。 ソ連はアメリカが原爆とは言及せずに新型爆弾の投入を予定していることなどを既に聞かされていたので、新型爆弾は原爆と推測される情報を探っていて、ソ連は参戦を当初の予定(1945/8/15)より急ぎ準備を早めた。 (8/8)にソ連は日本に宣戦布告した。 アメリカは(8/9)に小倉に原爆投下を予定していたが、天候の悪化により長崎に変更して投下した。 この凄まじい被害を受けても、まだ日本の最高指導者会議ではポツダム宣言を受諾せず、国民より天皇の護持に固執した。 (8/9)にソ連が満州国や樺太や北部千島列島から侵攻した。 日本は、(1945/8/9)のソ連参戦を受けて、(8/9)の夜から翌朝まで継続して最高指導者会議を開き、直ちにポツダム宣言を受諾するより道は無いとして受諾することを表明したが、条件として、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」という意味のものであった。 これをスイスやスウェーデンを通じて電報を米支、英ソに送った(「細川日記」より)。 

この最高指導者会議が開かれていた最中に長崎の原爆投下の報が入った。 この時でさえも皇室の安泰が議論の中心であった。 重光はソ連が樺太、千島、北海道に侵攻する可能性があるとし、ソ連が日本を占領した場合に皇室維持に対して否定的であることを木戸に話し、天皇に拝謁した。 (8/9)夜から翌(8/10)午前2時20分まで御前会議を開き、天皇の統治大権の確認のみを条件としてポツダム宣言受諾を決定した。 

この後閣議を経て、外相が、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含居らざることの了解の下に帝国政府は右宣言を受諾す。 帝国政府は右の了解に誤なく貴国政府がその旨明確なる意思を速やかに表明せられんことを切望す」と発電した。 (8/10)の朝に通信社が短波放送でポツダム宣言受諾を報じたとされる。 また、アメリカの通信社が日本からの降伏受諾の発信を傍受したことをアメリカ政府に確認したが、政府は正式な情報は届いていないと回答したとされる。 アメリカは日本からの降伏受諾の報を待っていたが回答が無いとして、(8/14)までアメリカは爆撃機による日本への集中爆撃を強めた。 結局(8/14)に再度15回目の御前会議が開催され、いわゆる”聖断”により、連合国が主張する天皇や政府の権力がアメリカに従属する条件を日本が受諾することを宣言した。 (8/15)に敗戦による天皇の終戦の詔勅の玉音放送を行った。 

日本の軍部は天皇護持を求めることに支障が出ることを恐れ、アメリカやソ連との交戦を行わないように国内外の各部隊に命令したが、ソ連軍が攻撃を止めないため、日本兵は戸惑うことになり更に殺されることになった。 ソ連は、満州北部から進撃し日本人の一般入植者も殺戮し、千島列島北部から進撃し千島列島の日本兵や日本人の住人をも殺戮した。 ソ連兵による暴行、強姦なども行われたことが伝えられており、ソ連兵に捕らえられた日本人の捕虜は、終戦後に長期間日本への帰還措置がとられずに極寒のシベリアに抑留されて強制労働につかされ、また多くの命が失われた。 ソ連は、マッカーサーの指揮下には入らず、その後、ソ連が占領した領土についてはソ連軍の総司令官が決定する事項であると主張してソ連単独の占領統治を実行した。

 ■ 終戦直後のアメリカと昭和天皇のしたたかさ。

 マッカーサー元帥が停戦後の日本の厚木に降り立った(1945/8/30)。 連合国は最高司令官総司令部を神奈川から東京の米国大使館に移し、その後、(1945/10/2)に第一生命相互ビルに移設した。 マッカーサーは、日本の天皇大権の廃止、軍隊の武装解除、軍事機構を解体して非軍事化、戦争犯罪人を裁判で処罰、政治犯の釈放、民主化、民主憲法制定、農地解放、財閥解体、軍国主義者の公職追放、国家が神道の支援などを行うことを禁止する神道指令を発令、天皇の神格性を否定、また、皇室資産の凍結などを実行した。

 ( (注意) 終戦直前に皇室の不明の金塊や海外に振り替えられた預金があったとされる。 その資産の目録情報は消失したとされ、海外へ移送された全容は英米によっては解明されなかったようだ。 (1945/8)に昭和天皇の皇后名義で国際赤十字(ICRC)に巨額の寄付を行った記録がある。 この口座を英米が凍結したが、イギリスはこの資金の元は、日本領のイギリスの捕虜の救援のためにイギリスが過去に日本に送金した金をスイス銀行で換金処理したものであると主張。 (ジャーナリスト徳本栄一郎「1945日本占領 フリーメイスン機密文章が明かす対日戦略」) この著書には、皇室の資産などについての項目の記述がある。 )


 また、極東国際軍事裁判での戦争犯罪人の裁判について、マッカーサーは、極東委員会の昭和天皇への訴追要求を拒絶し、訴追を行わないように工作を行ったと見られる。 天皇の戦争責任については、(1945/10/22)の海軍三省調整委員会(SWNCC)会議では、マッカーサーに対して天皇の戦争責任に関する証拠を収集するよう求めている。 それについてマッカーサーは、天皇が政治決断した明白な証拠は無かったと報告している。

 (1946/2)憲法改正のマッカーサー3原則を提示する。 マッカーサーは極東委員会が発足すれば憲法改正問題が取り上げられることは必至であると考え、極東委員会が機能する前に、天皇問題も含めて憲法改正による民主化を自らの権限で済ませてしまう思惑があったのであろう。 委員会の発足の日程は定まっていたため、憲法立案に掛けられる時間は限られていた。

 マッカーサー元帥は戦後の日本軍の解体を命じ、軍隊の保有を認めないとしていたが、日本が独立した後に中立国として軍隊を保有するのがよいであろうと考えていた節がある。 しかし、朝鮮戦争、共産主義の中国や社会主義のソ連などの影響への懸念、ワシントンの強力な反共思想の政策が影響した可能性があるのかわからないが、当初の考えを改めている。

 マッカーサー元帥は連合国の占領軍の最高司令官の立場であったが、その占領政策を策定する権力の範囲については明確に定まっていなかったようであり、しばらくしてから、ソ連の強い主張でソ連も含めた戦勝国が関与する極東委員会で定めることが後から確定した(12/27 英・米・ソの外相会議でのモスクワ協定)。 11カ国からなる極東委員会発足(1946/2/26)。 マッカーサーはそれまでの間、独自の政策を実現させてきていたのであろうと筆者は推測する。 憲法問題、天皇問題、反共主義の政策など。

 ルーズベルト大統領の死後(1945/4)にトルーマンが大統領に就任していたが、トルーマンとマッカーサーとは、考え方、占領政策などの姿勢が幾分相容れない様子が見られ、互いに競り合う関係であったようだ。 しかし、中国やソ連の共産・社会主義思想の勢力との対抗意識は両者同じであり、日本国民が影響されることを懸念していた。 この共産的思想を含む平等主義を追求する勢力及び日本の民主化により天皇を排除する勢力に対しては、昭和天皇が一番危惧していたことで、戦時中も、天皇の権威が失墜して皇室が解体されることになる、あるいは、万世一系の天皇、神の末裔の証である三種の神器が破壊されるようなことになる場合には、アメリカと徹底抗戦することもやむをえないと考えていたのである。 これに関しては次の内容でもわかる。

 ( (1945/8/12)の午後、天皇は皇族会議を開く。 天皇は決断の理解を皇族に要請する。 朝香宮が国体の護持が出来なければ戦争を継続するかと問うと、天皇はもちろんであると答えざるを得なかった。)(昭和天皇独白録) また、木戸は本土決戦で三種の神器が奪われるならば国体護持は出来なくなるとして、本土決戦せずに9月末までに戦争を終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することを(6/18)の最高戦争指導会議で決定。


 日本は連合国の占領統治下に置かれたが、連合国は日本の占領統治においては連合国最高司令官の命令を日本の代表者を通じて実行する間接統治方式をとった。 戦勝国は日本が戦争を起こさないことが見極められ、社会的な安定が築いていける土台が確定できたと判断できたときに、連合国は日本における占領統治を終了することになる。 いつになるかは確定していないが、日本の主権を回復して独立が認める時は、必然的に占領政策の解除と占領軍は漸次撤収されることになる。

 筆者は、このことを天皇の立場から捉えて考えると次のように推察する。  まず、連合国の占領が終了して連合国の占領軍が撤収すると、日本は軍隊を保有しない状況であるから、日本の国外のみならず国内の種々の勢力の動きが起きるであろう。 戦後の混乱状態はすぐに改善しない予想の中で、貧困層や戦争時に弾圧された者及び帰還兵、戦争で親族を無残に殺された遺族ら、更に新たな秩序を模索する勢力などは日本の特権階級や天皇への強い反発感情が、行動としてこれらに向けられる恐れがある。  日本社会の中で、戦前、戦後、すべての国民が天皇の無謀な判断を受け入れていたわけではない。 あるいは、世界情勢、諸外国のなかで共和制への移行などの影響を受けて同化され、今後皇室・天皇制を受け入れない観念を持つものの中から、日本にも民主化がもたらされ、皇室・天皇に対する排斥運動の大きな勢力が芽生えるであろうことが十分予見され得る。 このため天皇が恐怖を抱き、アメリカに敗戦した直後であるにも拘らず、アメリカが考える日本を太平洋諸島へ共産・社会主義的勢力の影響が波及しないようにするため防共の前線と捉え、且つ、アメリカ本土を守るための太平洋の西部の防衛前線拠点とするために日本を利用すること、その手立てを日本が、主体的に隷属して協力を申し出たことが伺える。 天皇はソ連が日本に駐留することになると、ソ連は天皇について何らかの悪影響を及ぼすと考えて、アングロサクソン族のアメリカが単独駐留を継続することを求めたのである(これについては、下記のマッカーサー元帥と昭和天皇の会見の項目に記載した)。 

 天皇は、講和条約とは別に二国間の協定とすることを提案し、アメリカ軍が日本に駐留して自由に活動が出来る便宜を図れるように、内容について両国からの専門家が協議して作成することになるとした。 これが、旧日米安全保障条約や日米行政協定に結実した。 その後、新日米安全保障条約や日米地位協定に移行したが、表に出ないところはすべて別の取極めなどとして秘密にされた可能性が伺われる。


 このような機密扱いについては、政府の勝手な判断で機密にできる。 まるで北朝鮮や中国並みである。 国家安全保障に関わる極秘事項と指定するだけですべて拒絶できるし、国民の人権など無いに等しくなる。 このような国家権力の行使が可能になってしまうと、国民の人権の扱いや憲法など政府解釈ひとつでどうにでも出来る国家日本となってしまい、民主主義といっても政府の思惑ひとつで戦争への加担も容易にできてしまう仕組みが生まれることになる。 例えば、自衛隊が海外でアメリカ軍と一緒に銃撃戦の実戦をやっていても事実は公表されないし、自衛隊が犯罪をやろうが公表されず隠蔽できてしまう。 本当に恐ろしいことだが大日本帝国時代に後退するかのような平和主義を唱える勢力が支配する国、日本が見えてくる。


 話を戦後の旧日米安全保障に戻そう。 吉田総理は当初、アメリカへの軍事基地の用地を貸すことをよしと思わなかったように筆者は見る。 この頃天皇は、アメリカに基地を提供して軍を駐留させることを画策していたようだ。 1947年9月13日に、帰国するアイケル・バーガー中将に、芦田外相が決裁した日本本土に米軍への基地の提供と日本が警察力を増強する案を手渡していた。(外務省では、鈴木九萬終戦連絡横浜事務局長を通じての事務局長の「極秘且つ個人的私見」との説明がなされている。)

 そのほか、天皇は吉田総理や白洲の態度を良いように思っていなかった断片が、寺崎日記でうかがうことが出来る(*1947年4月7日拝謁 吉田の悪口を仰せらる  *1947年4月9日侍従長 陛下は吉田と白洲のラインに疑念を持たるるなりという)。 又、天皇は所謂、「沖縄メッセージ」という米軍による無期限的な占領継続を希望する申し出を寺崎を通じ、シーボルトに託してメモをワシントンのマッカーサーに送っている。 その後、吉田総理は、講和条約時に関わる内容などについて資料を持って昭和天皇に上奏していると推測される。 この後、吉田総理は基地について天皇の考えを受け入れたように筆者には感じられる。


 1950年6月23日付けで、「日本の戦後の安全保障の概念に関する覚書」と題する極秘扱いされていたマッカーサーメモが存在する。(Top secret [TOKYO,] 23 June 1950. Memorandum on Concept Governing Security in POST-WAR JAPAN)(現在は極秘解除の公開ドキュメント) そこで彼は、次のような考え方を示している。 (筆者の意訳)


  マッカーサーメモ Memorandum on Concept Governing Security in POST-WAR JAPAN

(以下筆者の意訳による文章 的確な訳でない)
・国土防衛の概念として、地上、空域、海域に予め定められた地点のみに集中的に求める概念は、現代の戦争の加速した兵器の種類と威力によって時代遅れである。 よって、全土が潜在的用地として考えなければならない。 防衛の変化の要求にこたえられるように、戦略的、戦術的な配備計画の完全な自由が保証されねばならない。
・日本の問題に対しては特別な注釈が必要で、手法として:日本の全土は潜在的な基地とみなすべき。 防衛計画策定上、拘束されない自由が現地の指揮官を通じて米国に与えられねばならない。 そのような戦略的な配置が取れるために、外部の脅威に対して、及び戦闘時に軍隊が必要とされる情勢に適応できるように、軍のための基地として特別な地点の強調を避け、現代の防衛の要求に応える現実的な留保が為されなければならない。 そうすると、戦争による合法的獲得物の基地という嫌われる意味合いを避けることができうる。  日本人の国民感情への心理的逆効果を生じないようにする配慮が必要であり、戦闘や脅威が差し迫っている時以外は、治安部隊の配置の大きな変容は米国の軍司令官と日本の首相間での最初の協議なしには為されないとする。・・・(略)


(参考)現在も、日本全国に米軍基地が残された状態になっている。
  日米地位協定第2条に基づく 在日米軍施設、区域(平成22年1月1日時点 日本全国)

 J.F.ダレスは日本に再軍備、憲法改正などを要求する。 この後、朝鮮戦争が開始されたこともあり、アメリカの圧力に押されて吉田総理は警察予備隊令(1950/8)を発令し、その後部隊の組織化・訓練が進んでいく。 旧日米安全保障条約には、”講和条約は日本が集団的安全保障の取極めを結ぶ権利を有することを承認していること、また、国連憲章はすべての国が個別、集団的自衛の権利を有することを承認していること、この権利として、日本が暫定的 【(注意)沖縄メッセージでは、米軍基地と駐留は期間が限定されていない、無期限】 にアメリカが日本国内、周辺に軍隊を維持することを希望する”という趣旨の文章が明記されている。  更に、 ”これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望するとし、米軍は極東の有事に対応できること、米軍による日本の内乱及び騒乱を鎮圧を含めて日本国の安全に寄与するために使用することができること”などを表現し、仮に日本国内での米軍の軍事行動をとる場合でも内政干渉にあたらない正当性を主張しているのです。 尚、日本の再軍備と憲法改正、軍の総指揮は米国の最高指揮官に委ねることを謳うことなど要求するが、条約から除外することになった。

 1951年9月にサンフランシスコで講和会議が開かれ、同時に日米安全保障条約を締結したのであるが、その際に、マッカーサーと天皇の会談の覚書、その他取極めなども一緒に取り交わされていたであろうと筆者は憶測する。 例によって、表に出ない取極めというものである。


 日米安全保障条約は、戦勝国との講和条約締結後に日米の二国間で締約されたのであるが、この調印に際しては、アメリカは昭和天皇の全権委任状を日本国に求め、吉田総理が種々の取極めに調印する任を担ったが、吉田総理は自らが調印すること避けて代理人をサンフランシスコに送ることを望んだと伝えられている。 しかし、結局は自らが赴くことになったのであった。 この日米間の取極めは、アメリカ軍基地が固定化する日米安全保障の基礎を築いてしまったのである。

 吉田総理は、アメリカに基地を無償でリースする案を快く思っていなかったが、サンフランシスコに赴く前に書類を携えて天皇に数回上奏していたが、何が話されていたかについては不明である。


 吉田内閣後の鳩山内閣は、憲法改正を行って自衛力の増強を進めること及び周辺国との自主外交を進めようとしていて、在日米軍基地の撤去に向けて道筋をつけようとしていたようだ。 鳩山政権の重光葵外相は日米安保条約の改定を提案し、日本の軍備増強による在日米軍基地の撤廃あるいは条件付き目的による駐留のみ容認する試案について、また、アメリカ側と防衛分担金の削減交渉を行うことで調整していたのである。 しかし、重光外相が望んだ当初の試案は訪米交渉からは取り下げられたのであった。 これは恐らく、重光氏が望んだ試案はアメリカが考える日本や極東への政策が損なわれ、在日米軍の完全撤去に繋がると米国が危惧したのみならず、昭和天皇も在日米軍基地の撤廃を拒絶したであろうと筆者は憶測する。重光が渡米する前に天皇に内奏した際の昭和30年(1955年)8月20日の重光の日記に、「陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり、又、自分の知人に何れも懇篤な伝言を命ぜられる。」と記されている(続重光葵手記 中央公論社 日記)。しかし、分担金削減交渉は妥結したが、日本の防衛予算の増額を約束させられる結果となった。


 1977年(昭和52年)8月23日に那須御用邸に於いて昭和天皇と宮内記者との会見が行われた。 幾つか為された質問のひとつとして、戦後のマッカーサー司令官との会見についての質問に対して次のように述べられている。

「マッカーサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。 男子の一言でもあり、世界に信頼を失うことにもなるので言えません。」(朝日新聞 1977/8/24より) という趣旨の発言であった。

 しかし、昭和天皇ひとりの”男子の一言の約束”で済まされる問題ではないのです。 天皇の護身と引き換えに象徴天皇に納まった後も権力を行使して策謀した政策内容によって、その後の日本国民の利益を損ね、国民の人権を蹂躙する特権をアメリカに与えることになったのであるから責任を詫びることが必要であったと、筆者は人間天皇としての人柄に尊敬の念を抱くことは出来ない。


 旧日米安全保障条約は、その後改定されるが、基本は何も変わらず、新たな表現が表面に出るものがあっても、旧の安全保障条約に意図する要の内容は別途の交換文章として引き続き効力を有する形が推測できうる。


 この日米安全保障条約は1960年(岸内閣時)に更新の調印が必要となる条件であった。 岸総理は当時、自動更新となる改定新安保条約の調印に際し、国民が条約調印に反対するのをある種の族を動員して強硬に押し切ったようだ(1960/1)。 その後1970年に日米安保条約が更新年を迎えて調印され、これ以降1年ごとに自動更新されており、現在も条約は自動継続している。

 岸総理は猛烈なタカ派で改憲主張論者であり、自衛隊の戦備拡大を主張し、日米安保の改定及び積極的な米国協力の立場をとり、日本の核保有まで唱える政治家であった。 その点では、現在において、日本の核保有を唱える政治家や積極的に自衛隊をアメリカが関わる戦争に加担させる術策を企てる危険極まりない政治家の先人といえるかもしれない。

 ■ 戦前の天皇の絶対権力は剥奪されたが、現在は米国大統領大権に日本の官僚が支配され、
   その官僚に国民があしらわれるニッポン。
   米国隷属の愚かな政権が軍事力強化を謳い、積極的な平和、大東亜共栄圏の樹立・・・てなことになる。

 

 現在の日本の政治は、筆者から見ると、民主主義の観点からは、180度正反対の官僚政治の独裁化であることは間違いない。 官僚は国民の福祉向上のために働くのではなく、今も続く密約と米国支配の中で、官僚は自分たちの権益のために狡猾に働く官僚であり、政府を自由に操っているのである。

 終戦直後の占領期には天皇や政権は連合国に従属することを受け入れた。 しかし、講和条約で日本の主権が形式的にも回復されれば、政府間の密約などという国民への反逆は民主主義の政治にあってはならないのです。 政府が好き勝手に振舞うことは、政府の独裁政治化そのものであるのです。 昔はアメリカに完全に従属する日本であった。 しかし、主権が条約上で回復したなら、このような裏での工作・隠蔽は、国民への反逆と評価することができる。 現在なら、本当の民主主義の原理のもと、すべて国民的議論で決定されねばならないのです。 国の安全保障ついても例外ではありません。 法律・制度を巧妙に策定し、絶対的な国家権力を行使できる優位性を有する権限を用いて国民を抑圧することが、政府、官僚などに与えられた特権と履き違えている似非政府高官たちは、自責の念に駆られることは無いらしい。

 かつて、佐藤元総理の密使として沖縄返還時に核兵器の持込に関して、日本政府がアメリカの要請を受け入れることの内容を記した密約調印を画策した張本人である若泉氏は、自分の取った行動が国民を裏切るものであり、その事の重大さに自責の念に駆られ、事実を後世に残す必要性を覚えて記録を残した。 彼は、その責任を感じて最期は自害する覚悟までしたのです。 そこには人間性というものが存在するのです。 一方、無神経、人間性を欠く現在の政府・官僚たちとは大違いだ。


 今では現実問題として、アメリカ軍が日本国民の基本的人権を堂々と侵害でき、日本国民が人権侵害されても、主権在民の国家?? であるはずの日本は、日本国民の人権の擁護さえやらない。 日本政府はアメリカ従属の奴隷状態といっても過言ではない。 2013年現在も、実際的に主権がすべて回復していないことは明らかです。 この責任は、自己の保身のみを目論んで、新たな日本国憲法が制定された後においても吉田総理にアメリカとの取引と協定を命じた昭和天皇にあると見ることが出来るであろう。 筆者には昭和天皇は実にしたたかに現実世界を生き抜いたように受け取れる。

 その後生じる種々のこのアメリカの特権意識は、日本の防衛・外務官僚などに浸透し、その後の日本への関与が更に強化されていくのです。 日本はアメリカからの種々の圧力を受ける。 日本の軍事予算の増加、軍事装備の強化及びアメリカの軍事装備の購入要請、自衛隊の規模の拡大、アメリカの軍事活動への協力は、日本国内にとどまらずに、日本国外にまで範囲を広げることを要求する。 日本国憲法を改正して戦争放棄を撤去し、同盟国として軍事も共同で行うことまで要求する。

 日本は、アメリカの要求にこたえる根拠として、軍事協力のための種々の法律や自衛隊の法律を制定し体制を整える。 この法律の謳い文句には、日本の憲法の制限範囲においてとか、非核三原則を遵守してとかという文言が挿入されている。 しかし、この縛りは無残に既に破られてしまっているのです。(2010年3月の密約調査結果を受けて政府は密約の事実、核兵器の持込の事実を認めた。 しかし、同時に岡田外務大臣は、米軍が日本へ核兵器を持ち込むことに関連し、有事の際の核兵器持ち込みを容認する馬鹿げた発言を行った。 )

 そのうち、強い日本を取り戻す!!。 大東亜新秩序建設、そして世界の警察として”米国の子分だ”と称して、積極的平和論を掲げてその演出を実行に移すことになるのであろう・・・。

 国の憲法、法律、ルールが、それら本来の意図した規律の内容が、成文の語句が改められていないのに、かってに、時の政府によってなし崩し的に無力化されてしまうならば、最早民主的な政府でなくなった立派な証である。 国民が黙って従っていては、国民自身の人間としての人格を自らが葬り去ってしまっていることになるので、国民が民主的な国を希求するのであれば、必要なら、国民は政権の暴走行為を阻止しなければならないのです。 それが、民主主義の基本であると筆者は考える。

 ■ 日本の非核三原則は自民党政権のしたたかさ。
   アメリカ軍が日本に核兵器を持ち込んでいないことを国民に信じさせるための欺瞞の術策。

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 日本は非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を打ち出し、日本国はこの原則を守る国とした基本政策を公言してきた。 佐藤総理が国会で表明したものであるが、原爆被爆国日本はこれを基本原則として核兵器廃絶に向けてあらゆる機会で訴えていくことが国会で決議された。 当時の時代背景の中で核兵器に対する強いメッセージやアジアの平和に関する努力などに対して評価されたかどうかはわからないが、総理退任後に、その当時に他に受賞該当者が見つからなかったかどうかも筆者の知るところではないが、日本人の外交官や関係者によるロビー活動が功を奏したのか、ノーベル財団が彼を平和賞の受賞者として決定したのであった。 しかし、佐藤総理は、あらゆる国からの核兵器を廃絶する崇高な訴えとは裏腹に、日本国民に対する裏切り行為を働いていたのです。 そのとき既に、日本の非核三原則は有名無実となっていたのです。

 日本はNPT(核拡散防止条約)を批准し、日本はNPTで核兵器を保有できない非核兵器国である。 よって、核兵器を保有できない日本であるが、アメリカに基地を提供し、軍事同盟として共同的に行動することで日本に核兵器が存在する状態を可能とし、日本は核拡散防止条約に狡猾に挑戦しているのです。 日米の悪徳官僚達は如何に悪賢いかを、国民は感心させられます。

 その後、種々のアメリカ軍への協力を目的とした法案などが策定されたが、この類に非核三原則を基本理念に掲げているものはすべて、嘘八百と言ってもよく、すべて国民だましの条約・法律であるといっても過言ではない結論が導かれることになる。


 もちろん、筆者が占領側のアメリカ軍関係の高官であって、占領国のその後の管理について効率的な占領管理を画策する立場であると仮定すると、占領国のトップをアメリカの政策・軍事作戦に従順に協力する者を据え、間接統治とし、独立性を認め国民を安心させ、同盟国という名の下に主体的に能動的に協力させる方式をとり、軍隊を強化させ、アメリカのために協力して一緒に戦争も辞さない体制を確立させるであろう。 これが、狡猾な奴隷式管理である。 しかし、筆者は、残念ながら対極にある従属側の日本人であるので、絶対的に反対するのです。
 

 戦後60年以上経過しており、東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは強い圧力をかけて種々の分野で日本を単独支配する関係を巧妙に継続させているのです。 更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍(自衛隊)の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。 アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制については、既に法制化されている。 その日のために。 これこそ、真に日本の危機です。 日本人が無関心でいる間に、突然振って沸いたように日本が戦争の当事国になっていたということが起こってしまう、まさにその危機にあるのです。

 参考として、沖縄の施政権が日本に返還される前の時期に非核三原則に関する国会決議で政府が、核兵器の非核三原則の遵守とすべての核兵器国に核軍縮、非核化地帯構想のために努力する決議を採択している内容を次に示す。 今やこれは、役に立たない騙しの単なる気休めの暗示となっている。

 筆者は、2013年現在の日本政府の種々の政策に見る変貌振りには恐ろしさを感じるのである。

 (参考) 外務省の軍縮・不拡散のサイトより 非核三原則に関する国会決議(1971年(昭和46年)11月24日〜)

      (通称)周辺事態法、(通称)日米物品役務相互提供協定、(通称)武力攻撃事態対処法 、日米防衛協力のための指針

      日本が締約している外務省の「核兵器の不拡散条約」の説明サイトを参照


 日本は核不拡散条約を締約しているのに、アメリカの核兵器の傘で守られているという表現を好んで用いている。 それであれば、自ら核不拡散条約締約を解消すれば筋が通る。 インドやパキスタンが核兵器を保有している現実は許すことはできないが、少なくとも日本より筋は通っている。 日本は論理矛盾を来たしている。

 筆者は、アメリカの核兵器が日本の領土・領海内に貯蔵されていると疑う。 現在も日本全国、島々までアメリカ軍の基地が存在しているから場所には不自由しない。 これまでの、日本政府・官僚の嘘と秘匿及び条約や周辺情勢などを考慮すれば容易に推測できうることであるが、まぁ、有無を別にしても、核不拡散条約に加盟しているのであれば、核兵器による抑止力という観念を抱くのでなく、核兵器保有国に対して核兵器の廃絶に向けた真摯な協議を実施してもらうことを訴え、核兵器廃絶に向けた国際的な協調に主導的に取り組むことが明白に求められるのである。 21世紀はもう、核兵器による抑止力を妄信するだけで安心していられる時代ではないことを深く認識しなければなりません。 世界の国々は早く、バカから脱出しなくてはならない。 少なくとも、やり放題の独裁的な政権が牛耳る日本は、核兵器保有国と実質同じ精神異常の病んだ状態であるから危険なのだ。

 日本と同盟関係にある核保有国のアメリカが北朝鮮に圧力を掛ける中で、ロシア、中国も核兵器を保有しており、間に挟まれた小国の北朝鮮の方が周辺国に対して脅威を抱くであろうことは必至。 そして、北朝鮮が、どこの国とも組しないとするなら、そして、中国に協力を要請しても、北朝鮮のためにアメリカとの直接戦争を望まなくて拒絶されるであろう状況下、独裁国家で武器輸出国ということは別にして、自衛の安全保障の観点での北朝鮮の核兵器保有は、起こるべくして起きた状況と思えるのです。 核兵器国のむちゃくちゃな論理のみ承認される国連の秩序にも問題があることは明白である。

 単純に考えれば、北朝鮮は核兵器を所有し、日本は狡猾にアメリカの核兵器を利用し、アメリカと一緒に北朝鮮を脅している構図になっていると筆者は見る。 この現状の打開に向けて、日本自身の改革も必要であろう。

 原発事故とその後の日本政府や国民の考え方より判断すると、日本の将来を望める状況ではないが、・・・

 尚、日本は軍事面の安全保障ばかり強調するが、日本は2011年3月11日の福島第一原発事故以来、東電と政府の無責任さと怠慢のために、放射性物質の処理が全く為されていないと言っても過言でなく、被害地・被害者・避難者対策及び徹底的な放射性物質の放出・流出阻止などに全力で集中的に金を投じて当たっておらず、何等改善されずに放置されたままであり、このまま間違いなく日本は破滅に向かう道を辿っていると言えるでしょう。
 また、飛散・拡散して周辺区域に堆積している放射性物質や汚染物質による国民の被爆からの防護のために、除染により原発事故前の放射能計測値程度までの状況への原状回復作業がほとんど実施されず、原因者の責任として糾弾されないで放置されてしまっている現実が存在しており、東電と政府の許しがたい、この無責任さは犯罪に当たるといえるでしょう。

■ 連合国最高司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇との会見、
  及び連合国最高司令官(第2代最高司令官)リッジウェイと昭和天皇との会見

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 日本が第2次世界大戦で連合国に無条件降伏した後、昭和天皇は連合国の最高司令官と会見している。

 マッカーサー元帥とは11回、リッジウェイとは7回とされている。(児島襄氏「日本占領」、朝日新聞2002年8月5日など)
しかし、「寺崎御用掛日記」には更にもう1日陛下とマッカーサーとの会見という表記が見られるため、筆者から見れば、会見という表現は12回??となると思う。 内容が不明であるため、意味ある会見かどうかは不明。(表-1による)

 会見の通訳は、外交官の奥村勝蔵がマッカーサーとの第1回、第4回を担当。 外交官の松井明がマッカーサーとの第8回〜第11回及びリッジウエィとのすべてを担当。 昭和天皇の御用掛であり顧問でもあった寺崎英成が第3回、第4回を担当。 マッカーサーとの第6回、第7回は担当者不明。


 児島襄著「日本占領」によると、奥村氏の文章を閲読できた記録内容として、日本の安全保障について元帥は日本が完全に軍備を持たないことが最大の安全保障であり、日本が生きる唯一の道であるという持論を展開する。 だが、国連にはソ連とアングロサクソンの米英と相克があるという。 ここで、天皇は「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアチブを執ることを要する。」と元帥の支援に期待を表明した。 これに対し元帥は、「米国の根本概念は、日本の安全保障を確保することである。 この点については十分ご安心ありたい」と述べ、その少し先で記述は途切れていると書かれている。

 前記の新聞記事には、松井氏が奥村氏のメモを全部転記し、記録を残さないように指示されていたが、記録を残すことを決意して隠したと書かれている。 また、奥村氏は第4回の会見内容についてAP通信の記者に内容を漏らしたとしてマッカーサーに罷免させられた。

 前記の新聞記事には、第10回 元帥は、共産党が法律に違反したらどしどし取り締まり、宣伝に対して、保守的世論は宣伝を持って応える努力が必要だという見解を示したとある。


 これらの会見記録は、外務省も宮内庁も公開しない。 但し、マッカーサーとの第1回会見録については外務省が公開したとして、2002年10月17日の朝日新聞にそのことを載せていたが、天皇の戦争責任をめぐり発言は無かったとのこと。


 天皇との会見が幾度も継続されていたが、その途中で新たな日本国憲法が制定され、天皇は単なる象徴的存在になっていた。 この日本国憲法が制定される際に、日本国民が議論する前に、マッカーサーから憲法原案に天皇制を排除せずに象徴として残存させる内容の条件を規定されていたのであり、また、極東国際軍事裁判での天皇の戦争責任の訴追は行われないことが決定していた。 新たな民主政府が樹立していた段階で、連合国の最高司令官は総理とも会見するが、天皇大権が剥奪されたはずの天皇との会見によって、講和条約、旧日米安全保障条約、その他取極めなどの基本事項が話されたと筆者は憶測する。 この時点では天皇の政治上の権威は継続していたことになる。


 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発する。 1951年4月には大統領によってマッカーサーは解任され、アメリカに戻る。 その後の占領政策、条約などの交渉はダレス氏に委ねられることになる。 そして講和後も全基地方式で米軍が駐留する日米安保条約の交渉が進められたのである。


 リッジウェイとの会談内容について、豊下楢彦著「昭和天皇・マッカーサー会見」によると、第1回は朝鮮戦争問題に終始した。 第2回はリッジウェイが言及した第3次世界大戦の可能性に対する危惧を表明。 国が独立したからには防衛を考えることは当然の責務である。 問題はいつ、どのように実行するかということを表明されている。 第3回は講和条約締結を喜び、安保条約締約も日本の防衛上慶賀すべきことであると発言されている。 第4回は朝鮮戦争にソ連が介入する兆候や米軍が原爆兵器を使用する考えがあるのかについて問うておられる。 第5回は日米安保条約に基づき米軍が条約に規定された防護義務を担当される訳でありますと発言されている。

■ 大日本帝国憲法と昭和天皇

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 大日本帝国憲法(明治憲法)は1890年(明治22年)11月に施行された欽定憲法である。 第二次世界大戦直後まで効力を有した。 しかし、第二次世界大戦後、新たな民主的な日本国憲法に全面的に改定され、GHQの承認後、日本の国会において議論、承認の手続きを経て1946年5月3日に発布され、平成25年現在に至る。

 この大日本帝国憲法は天皇を次のように定めていた。


・第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス。 ・第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承。 ・第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。 ・第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ。 ・・・(中略)・・・  ・第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス。・・・(中略)・・・  ・第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。(以下略)


 昭和天皇の戦前における在位の時代には、日本の臣民は、神の末裔に崇められた万世一系の天皇の命に背くことが出来ない状況におかれていた。 現人神であって誰も裁けない絶対的な権威が存在したのです。 もし背くなら、不敬罪で処罰されたのです。 この件に関しては日本は北朝鮮などの独裁国家と同じであったと言ってもよいでしょう。

 政治面では、国務大臣が最高権力者の天皇を輔弼し、憲法の定めに基づきその責任を負うのであるが、軍事面では、国務大臣ではなく、軍の参謀総長や軍令部総長が天皇に代わって軍を統帥する。 しかし、軍の最高権力者は天皇であるが責任は無い。 それで、戦争の責任者は実際のところ曖昧になっているのである。

■ 極東国際軍事裁判に備えた昭和天皇の戦争責任訴追免除に向けた側近らの動き

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 日本の太平洋戦争の敗戦、その戦争責任を裁く極東国際軍事法廷が開かれ、天皇が訴追されることへの備えとして側近による種々の対策が画策されていた。 それらを列挙する。


 開戦の詔勅については、総理大臣の開戦の決定に対して天皇としての承認は、国家元首の立憲君主として政府で決定したものは覆さないとし、形式的な承認であるとする。 また、天皇は戦争には反対で、最後まで平和的な交渉による解決を望んでいたとする。 日本海軍が日本の軍部と外交部の手はずの悪さが原因して、日本から中米日本大使館への電信の暗号解読と通告内容のタイプ作成が予定より2時間も遅れて、アメリカのワシントンに宣戦布告(但し、実際は交渉打ち切りを意味する内容の文面)を伝える前にハワイを攻撃し、攻撃を開始して1時間後に既にワシントンは攻撃を受けたことを知りながら日本の宣戦布告通知書を受けとった。 このハワイ奇襲による卑怯ものの日本というレッテルを貼られ、中立であったアメリカの世論は一気に日本攻撃と日本が敗戦した後に天皇の厳罰を求める方向に傾くのであるが、この日本時間12月8日のハワイ攻撃の具体的な詳細については前もって昭和天皇に知らされておらず、攻撃の報告が攻撃完後更に時間が経過してから伝えられたという。


 ニューヨーク・タイムズのクルックホーンが昭和天皇に謁見したとき、昭和天皇は、「宣戦の詔勅を東條大将が使用した如くに使用する意図は無かった」と質問に対して答えている。 戦争犯罪に関して、裁判で天皇が訴追されないように宮内省の側近たちは戦争責任が無いことを示すように理由書を作成していた。 側近らによって纏められた天皇独白録は、事情聴取のために基礎資料として準備のために整理された意味合いのものである。

 1945年10月3日に東久邇宮内閣が既に作成していた「戦争責任に関する応答問答」を11月5日に一部手直しして幣原内閣で閣議決定。 昭和天皇はあくまで日米交渉円満妥結方を政府にご命令あらせられ、最後の段階に至るまでこれをご断念あらせられざりこと。 昭和天皇の開戦の裁断は憲法上棄却あそばされざりしもの。 真珠湾攻撃に関しては、初期作戦の大綱につきては聞き及ばれたるも、実施細目に関しては報告を受け居られざりしこと。・・・


 また、昭和天皇の出家引退による幕引きと筆者には思われるが、1945年1月 高松宮が内密に天皇が敗戦後に退位・出家し上皇となり、仁和寺あるいは大覚寺に入り英霊を供養なさるのも一法であり、あるいは近衛の別邸に移られるのも一法と考えておられ、密かに京都の近衛に会いに行き、近衛の別邸の様子を確認し、天皇や皇族の将来について懸念されていたことが知られている。


 また、1945年12月22日に天皇御用掛がアティソンに会って天皇制について話した模様。 次のような内容が書かれている。( アティソン 天皇制、食物、内閣・吉田・・・「寺崎御用掛日記」より)。 但し、詳細な記載なし。


 木戸は、A級戦犯に糾弾されることを危惧して、天皇に絶対に自ら退位しないように忠告している。

 極東軍事裁判が開始されている頃に天皇の退位についての東大総長南原繁の談話などもあり、報道で退位の話を取り上げるようになった。

 芦田と田島は天皇は退位しないことを1946年9月27日に話している。 GHQの政治顧問であるシーボルトと会い、この件を話し、シーボルトはマッカーサーと会って話している。 マッカーサーは天皇に退位の考えをおこさないようにしなければならない趣旨のことを発言しているようだ。 アメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(The State-War-Navy Coordinating Committee)では種々の検討がなされており、裕仁昭和天皇の処分に関する案のひとつとして、天皇が退位する場合の訴追案などの報告書もまとめられていたようだ。


 当時の宮内次官関屋貞三郎の日記によると、1946年2月3日フェラーズが米国大使館でアメリカでの知り合いである河井、一色と会って食事をする。 その際に一色が天皇が裁かれたり、天皇制が廃止された場合の大変さを話したとされる。


 フェラーズ准将が米内大将に話したとされる(1946年3月6日)その内容は、次のようなものである。 フェラーズが「自分は天皇崇拝者ではない。 したがって、15年先、20年先、日本に天皇制があろうがあるまいが、又天皇個人としてどうなって居られようが、関心はもたない。 しかし、連合軍の占領にについて、天皇が最善の協力者であることを認めておる。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。 所が困ったことには、連合国側の或る国においては、天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く、特にソ連はその国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図している。 したがって、日本の天皇制とマッカーサーの存在とが大きな邪魔ものになっている。 加えるに米においても、非アメリカ式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙げるべきだととの主張が相当強い。 右に対する対象としては、天皇が何らの罪のないことを日本人側から立証してくれることが、最も好都合である。 その為には近々開始される裁判において東條に全責任を負担せしめる様にすることだ。 すなわち東條につぎのことを言わせてもらいたい。 「開戦前の御前会議において、たとえ陛下が対米戦争に反対せられても、自分は強引に戦争までもって行く腹を既に決めていた」と 。


 戦犯を裁く極東軍事裁判が1946年5月3日から開廷したが、この時点でマッカーサーは天皇を訴追するつもりではなく、裁判での主席検事のキーナンはマッカーサーの指示の下、裁判前から天皇の訴追免除を決定していたのであるが、「天皇家の密使たち」高橋紘・鈴木邦彦著によると、被告の東条英機に対してローガン弁護人が、「天皇が平和を希望していることに対し、木戸幸一が何か進言したり、行動したことがあるのか」という尋問に、被告東条英機は、「そんなことは全くあり得ないことです。 日本国の臣民が、陛下の御意志に反してあれこれすることなどあり得ません。 まして高官においておや、であります。」と答えて、キーナン検事は裁判を休廷せざるを得なくなって、翌年の1月6日に再開させざるを余儀なくされた。 そして、このとき検察官のキーナンは自宅に松平や高松宮を呼び、暗に説得を仄めかせた。  東京裁判当時の宮内省内記部長であった松平康昌は東京裁判の真っ最中に東條の発言を改めるように説得する役割を担った。 その後の説得で、東條は渋々承諾し、その後再開された裁判で東條が罪を被る証言を行ったのであった。

 1946年6月4日に極東委員会が天皇制存続に関して討議する(国立国会図書館詳細年表より)。 1946年6月18日にキーナン主席検事がワシントンで天皇の戦争犯罪人として訴追しないと発言する(前記年表より)。

 マッカーサーの当時の見方についての発言:
 寺崎は日米開戦当時、在米日本大使館の一等書記官であった。 開戦直前まで対米交渉に当たっていて、夫人のグエンは「太陽にかける橋」の著者である。 フェラーズはグエンの遠縁にあたる。 寺崎御用掛日記によると、1946年3月20日寺崎とフェラーズの食事の席で寺崎の天皇への処遇について尋ねたことへの返答として、「マッカーサーは自分の友達であり、天皇を戦犯とする考えに対しては元帥は反対の意見を表明し、天皇をして戦犯と指名せられんか日本は混乱に陥り、占領軍の数は多量に増強せらるるを要すべしとワシントンに報告したることあるを自分は承知す」と伝えている。 尚、作家の半藤一利氏の注釈によると、マッカーサーが1946年(昭和21年)1月25日にワシントンに当てた電報をさすものであり、調査結果として、天皇の戦争犯罪の明白な証拠はないと報告し、もし仮に、天皇を裁いた場合の米軍の占領統治の人数が莫大になるであろうことを伝えたものである。 しかし、この時点でワシントンがどのように判断し、既に処遇を決定していたのかどうかは記されていない。

■ フランス、イタリア、ドイツの王制廃止、中国の皇帝廃止、
  戦後ドイツの連合国による領土分割統治、イタリアの占領方式


 イタリアは連合国に敗戦したが、連合国のうち、イギリスとアメリカが軍事作戦を担った。 戦時中の占領行政管理においてはイギリスとアメリカが排他的占領管理方式を獲得した。 イタリアは第二次世界大戦時には王制国家であったが、戦後に国民投票により国民は王制を廃止することを選択した。


 ドイツの場合は1918年の革命で王制から共和国になっていた。 ドイツは第二次大戦の敗戦で、ドイツが獲得した占領地を返還し、ドイツ領土とされた領土(第一次世界大戦後に締結されたヴェルサイユ条約で規定された領土区域か??筆者は理解できていない)は連合国のアメリカ、イギリス、フランス、ソ連により分割統治が実施され、ソ連管理領域に含まれる首都ベルリンの中もこの4カ国に分割統治されることになった(1949年5月)。 自由主義国の占領統治区域は西ドイツとなり、ソ連管理区域は、社会主義の東ドイツとなり、この分断状態は1990年10月3日のドイツ統一まで続く。


 ドイツと同盟を結んでいた東欧諸国については、ソ連の進駐後の政権は共産主義思想の勢力が中心となるように、他の勢力が徐々に中枢部から排除されていき、ソ連の政治・経済圏に組み込まれることになる。 それ以外の東欧国も共産党体制の社会主義に取り込まれ、チェコスロバキアのように”プラハの春”で自ら改革を模索することに対しては、ソ連は他国への影響を懸念して、国の主権に軍事介入して制圧し(1968)、ソ連の政治的影響力を持続させることになった。 その後ソ連の崩壊で解放されるが、更に(1993/1)に、チェコとスロバキアに平和的に分離独立する。
 

 中国については、清朝の最後の皇帝溥儀が中華民国を建国した孫文や袁世凱によって退位させられ、共和制になった。 この溥儀は、その後、日本が中国に侵攻して(満州事変)、満州国を建国して溥儀を皇帝に据え、日本の傀儡国家となったが、1945年の日本の降伏で退位し、拘束された。 日本の敗戦後、大陸では国民党と共産党の内戦が起こる。 共産党勢力が勝利し、1949年10月に中華人民共和国を樹立。 台湾は日本から開放され大陸に復帰するが、大陸出身の外省人と日本統治以前からの台湾の住人である本省人との間で抗争が起こる。 蒋介石は1949年に台湾に移り、その後台湾では大陸からの人間が政権の中枢を占めるようになる。 中華民国は、国連において中国を代表する政府としての議席をもっていたが、周恩来時に国連において「中華人民共和国を中国を代表とする案」が採択された。


 フランスの場合は、フランス王国は1789年のフランス革命で王制が倒れ、その後ナポレオンが帝政の皇帝となるが、失脚後に王政復古、その後共和制、帝政、共和制・・・と移行して現在は共和国である。


 戦後の日本については、ソ連がアメリカは日本の排他的管理を行っていると非難したが、戦時中に行われた ”カイロ宣言” では領土の戦勝取得を欲せずと決議したが、その後の ”ヤルタ会談” においてアメリカ、イギリスが、ソ連に対してドイツ戦が終了した後にソ連に日本との参戦を打診した際に、このときソ連が参戦の対価として掲げた戦勝獲得条件のひとつである内容項目として、過去にソ連が日本との戦闘で失った領土の返還の他に日本の千島列島が引き渡されることが決められたが、実際の戦争の進行時及び戦後、アメリカが千島列島の獲得を拒絶しなかったこと及びソ連は日本の抵抗をほとんど受けずに極めて最小の戦闘で戦勝の獲得物を得られたことなどから反抗せず、実質アメリカの排他的管理が実現した。 このときイギリスは、日本については連合国としての占領統治のみ関与するという態度を示していた。 また、アメリカは、他の戦勝国に戦後に太平洋戦争の数々の諸島を信託統治する権利及びアメリカの軍事活動の権利をも認めさせ、その後、ここがアメリカの水爆実験場に使われることになった。

 日本においては、大日本帝国が戦争を始めた張本人である天皇を占領時に象徴天皇としてアメリカによって強制的に憲法に規定され、この件は国民自身による取捨選択の自由度を与えられず、日本の国会は絶対的に承認させられたのであった。 連合国による日本の占領統治が長期間に及ぶ場合には、ソ連や中国などの主張が政策に影響を与えることに繋がるため、アメリカは比較的短期間で連合国による日本の占領統治を終了させ、戦勝国との講和条約の締結に拠り日本の独立を成し遂げることにした。 そして、アメリカは日米の2国間のみの安全保障条約を締結させ、講和条約後の日本における実質的な占領政策を継続させてきているといってもよい。

■ 大日本帝国憲法の意味の無い天皇大権。天皇は陸海軍を統帥するが、軍の暴走を止めない。
  天皇は侵すべからずとする憲法のもと天皇に逆らえない。誰が軍の暴走を止められるのか?
  昭和天皇は連合国による戦争犯罪の訴追免除を受けた。
  これは、昭和天皇に戦争責任が無いということではない。昭和天皇には戦争責任は存在する。
  現在でも継続する日本人の人権が侵害される半永久的な日本の隷属状態を定めた取極め等を画策した昭和天皇

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▼昭和天皇の責任について


 日本の第二次世界大戦は、攻撃をされていないにも拘わらず、自存自衛という標語を掲げた”侵略戦争”に過ぎなかった。 戦略は単なる急襲作戦であり、開戦当初の打撃を与えて決戦する能力しか有していなかった。 長期戦の可能性を想定すると、戦力負けすることが想定されているにも拘らず、その対策の手立てを講じることが不可能であることは明らかであったが、単に対処については作文で説明するのみであって解決策は有耶無耶にされた。 また、輸送船、油槽船の損耗情況の見通しを少なく見込み、新船建造規模に見合う程度に数値を見込むことによって、単に計画が成立するようなつじつま合わせであったと思える。 この物資補給計画の杜撰さから、戦地及び日本本土への輸送が滞ることは当初から明らかであったが、戦死することが一種の目的のように、戦死するまで戦えという戒めの精神力頼みの戦闘を兵士に迫ったのであった。 昭和天皇は、政府と軍部の統帥部や部下が一丸となることを望んでいたとしているが、政府や部下が、明確に3,4年先の戦闘は不可能であると認めていることに対して、重要となる天皇の最終的な聖断を下すに際して、徹底的に疑問を質すことを天皇は怠っているのであった。 また、日本の戦争は、ドイツが負けていないことを前提条件とした戦争であり、三国同盟はアメリカを牽制するために機能すると予測したが、日本はドイツとの同盟を受け入れてソ連への攻撃を行う訳でもなく、日本が中国や仏印に進駐することによって、中立主義のアメリカを戦争準備へと誘引したのである。

 国民は天皇に逆らえないのであるから、天皇が国民を守らないで誰が国民の無駄死にを止めることができるのか。 国家元首の立憲君主なら、憲法の規定は別として国家元首として正しい日本の舵取りが必要であったが、総合的に判断してその機能が働いておらず、諸事情を鑑みて不適切であったことは否めない。


 昭和天皇は戦後に、記者から広島や長崎への原爆投下についての感想を尋ねられて、戦争であるから仕方が無いという趣旨の返答をされている。

 天皇は側近の忠告に従い行動するのであるが、終戦間際には、政府、統帥部、天皇は、日本のためというのではなく、”三種の神器の安泰”や”天皇制の護持”について懸念してこれが聖断の判断であった。 広島に原爆が投下されて惨害が国民に及んだにも拘らず、統帥部や天皇は天皇の存続のために戦闘を継続させていたのであった。 アメリカは、日本が無条件降伏を受諾しないので更なる無差別爆撃を重ね、この結果更に多くの被害者が出ることになった。 統帥部、天皇は、ソ連が攻撃してこないことを一方的に楽観的な期待を抱いていたが、8月9日に長崎に原爆が投下された同日にソ連が対日攻撃を開始した事態に接して、楽観的な想定が覆されたことによって初めてポツダム宣言の無条件降伏を受諾したのであった。
 しかし、昭和天皇は、敗戦後は、アメリカ軍との交渉で天皇制を残存させることを巧妙に、したたかに成し遂げたのであった。 それは、無期限の日本の米軍従属体制の足がかりを築いたことになる。 これらの一連の経過こそが元首としての責任に当たると筆者は考える。


 愚かな指導者たちによって開始された無謀で戦略的勝算無き対米戦争であった。 資源が乏しく、産業力がまだ伴わなかった状態での日本の自存自衛ということに対して、戦わずともジリ貧になるのなら、戦って負けても同じだという論拠で戦争を開始して、結局敗戦に至り、日本国民を無駄死に追いやったのである。

 (1940/9/6)の御前会議の前日の5日に、天皇が陸海の両総長を呼び近衛陪席の下で天皇の疑問に答えることになった。 その席で天皇が、「日米で事起こらば陸軍はどれくらいの期間に片付ける確信があるか」と杉山に問うと、杉山が南洋方面だけは3ヶ月で片付けるつもりであると答え、それに対して天皇は、「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、当時「事変は1ヶ月位で片付く」と申したことを記憶している。然るに4ヵ年の永きに亘って未だに片付かぬではないか」 と質問し、支那は奥地が開けていて予定通り作戦で着ませんでしたと杉山が答えると、更に天皇は「支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか、如何なる確信があって3ヶ月と申すか」と声高に質問されたのに対して、杉山は低頭して奉答し得なかった((参考)「近衛手記」にもとづく。「杉山メモ」の記述内容は表現が異なり、また5ヶ月と書かれている) 。 このやりとりは有名であるが、天皇が不安・不信を感じられていたことを受けて統帥部が再考することは無く、一応は平和的な外交交渉の形は作るが、天皇の覇権は軍部には及ばなかった所に問題があったことも明らかである。

 大日本帝国では、天皇が国家の元首として統治するのであるが、一般政務は国務大臣が輔弼しその責を担い、天皇は政務に関わる責任がないとする。 また、軍事面では、総理に統帥権は無く、陸海軍の参謀総長、軍令部総長がそれぞれ権力を有し、天皇の軍の統帥を代理して輔弼し天皇に責務がないとする。 即ち、戦争の場合、国家の責任者が不在で曖昧であり、失策が生じた場合には、下士官のみが国民に対してではなく、天皇に対して責めを負わされることになる。 この悪しき戦争の最高指導体制による楽観的な無責任さが、日中戦争、インドシナ半島への南方攻略及び必然的に発生する対米戦争の開戦へと向かわせ、当初の攻撃計画しか持たない日本は結局撃破され続けるようになる。 補給船が断たれる様になって占領地の兵士は応援部隊が来ない中で、死ぬまで戦わされたのであった。 一方国内の最高戦争指導部は、日本の敗戦が確実視される状態に至っても、終戦の交渉は、最後は天皇護持が無ければ総国民玉砕してまでも戦うことを議論するなどの馬鹿げた発想をしだすのである。 結局は最悪の無条件降伏を受諾し敗戦を迎える。 敗戦後は連合国による占領統治が講和条約締約まで行われた。

 サンフランシスコでの戦勝国の大多数の国との講和条約締結後、日本の主権が認められたとされて表面的には主権国家となるが、連合国によって裁かれた裁判での戦争責任の訴追を免除された昭和天皇は、講和条約締結後のアメリカとの2国間の占領統治政策に全面的に自発的に協力し、日本全土に亘るアメリカの軍事政策を自由に行うことを承認したのであった。 その後の日本は、この政策が基本的に有効であり、そのため、日本国民の人権重視より対米従属を優先させ、アメリカの言いなりに動く政府・官僚に支配されるる国家・日本を形成させることになった。

 連合国として昭和天皇の戦争犯罪に関して訴追免除が与えられたが、日本人として、ここで、昭和天皇の敗戦に関わる責任について考えることにする。

 既述したが、昭和天皇は明治天皇以来の欽定憲法で定められた国家元首であって、帝国憲法では政治や軍事に関して責任を負わないとされているが、天皇は最終的な裁可を判断する立場にあって、立憲君主なら立憲君主として国政・軍事に真剣に正しい判断で裁可を与えることがなければ立憲君主として命名されている意味が無い。 かつて、絶対的な権力を有する軍部が天皇を神として有無を言わせずに崇めて従うことを国民に強制したことに対して、少なくとも国民は処罰を恐れて従わざるを得ず、そのような強制力を行使する立場の天皇が、国民各自の生命を粗末に扱うことに対して、戦時統制下にあっても立憲君主として冷静な総合的判断が必要であったのです。 これに関して、必要な総合的な判断が為されなかったことについて考えてみる。


 日清戦争及び日露戦争で日本は幸運にも勝利した。 これに気をよくして、ロシアに対峙しながら帝国日本の中央政府の統制や天皇の裁断を得ずに関東軍が満州を占領し、更に日本軍の朝鮮派遣軍も中央政府の統制外で満州に合流する。 これらは言ってみれば謀反以外の何物でもないが、帝国日本政府及び昭和天皇は、兎に角関東軍が勝利したために、統制の秩序についての面子を損なわないように、関東軍の行為を後追いで承認したのである。

 その後の日中戦争で帝国日本は更に占領地の拡大に軍を進める。 帝国日本は日中戦争に確たる目的も無く戦争を行っていたのである。 このとき、近衛内閣は東亜新秩序の建設を掲げるが、これは東南アジアに帝国日本の覇権を拡大させる以外の何ものでもない。 東南アジア諸国も日本の戦争で輸入に頼っている物資が得られなくなり困窮することが明らかであるが、何等対処せずに、帝国日本も物資がないので東南アジアの諸国から”略奪することが戦争の大儀”であったことは明白である。 帝国日本が中国に対して拡大させた戦争状況が、アメリカとの輸出・輸入に頼るアメリカの対日姿勢を悪化させ、アメリカは、日本がアメリカの提案を受け入れないことに対する更なる制裁として在米の日本資産凍結や屑鉄・石油の輸出禁止などの経済制裁を課した。 米国による鉄その他鉱物類、石油類、その他原材料などの禁輸及び米国以外の西洋列国が管理する領地からの資源の入手が困難になることで、日本の産業・経済が直ぐに困窮状態に陥ったのである。

 帝国日本は、インドシナに侵攻するとアメリカとの太平洋戦争が回避不可能になることを覚悟していた。 しかし、この南方域侵攻については、主役となる海軍が対米戦への勝算が見込めないと戦争の回避を希望する一方、中国から北方方面の対ソ連戦のみを守備範囲に捉えていた陸軍は中国からの撤兵を考えない。 そして、陸・海軍の統帥部が一致して戦争を回避する決断を行えば戦争は回避できたのであったが、陸軍の手前、海軍のみが自ら戦争回避を持ち出すことを憚り、結局戦争指導部は本意で無い戦争開始を決断し、それを昭和天皇が裁可してしまう愚かなことをやる。 帝国日本では、御前会議で決定されてしまうと自動的に天皇が裁可されたことになり、大権を有する天皇が異議を挟まない限り、抑制することができない体制であった。 そして、南方域侵攻の開戦は、単純に言ってしまえば、帝国日本の石油の備蓄量と蘭印占領による石油の獲得量によって戦争が継続できる間に、対米戦をやってしまうという決定を行ったに過ぎなかった。


 アメリカが帝国日本に対して外圧を掛ける要求内容を帝国日本は到底受諾できないとしているが、帝国日本の条件を容認願うように外交交渉は継続するとしていた。 (1941/9/6)の御前会議で近衛内閣が交渉期限までに打開できない場合には、対米(英、蘭)開戦を決するとされていたので、交渉期限までに打開できずに決定されてしまい、近衛内閣は総辞職した。 その後、この方針に沿って東條内閣が引き継いだ。 しかし、日米の外交交渉の期限について譲歩することになり、(1941/11/1)の連絡会議で結論を出すことになっていて日米交渉の期限を(12/1)午前零時までと決定し、(1941/11/5)の御前会議では(9/6)の御前会議の再検討との題目で為され、日米交渉その他経緯を説明するも軍備の準備や戦況見込みは何も変わらずに原案が可決され、(12/1)までに日米交渉が妥結しなければ米英蘭に対して開戦することが確定した。 尚、(11/3)に統帥部が天皇に作戦計画を上奏し、天皇の下問があり、海軍の日付けを尋ねられたことに対して、永野軍令部総長が8日を予定していることを答えている(杉山メモ)が、(11/26)の大本営会議において、外相が開戦日がわからないと外交交渉が出来ないとして永野に執拗に開戦の日を教えるように迫ったために永野が開戦日の情報が漏洩しないようにしていた予定日を已む無く教えることになったようだ。 杉山メモには情報が漏れないようにかどうか不明であるが、記録として「○日だ。」という表現の記述になっている。

 (1945/12/1)の御前会議で南方攻略作戦の開戦の聖断が下った。 その直後、杉山、永野両総長が参内、上奏して侵攻作戦開始日の日時については更に慎重を期し、翌(12/2)に再び上奏して8日と決定された。 この日大本営が連合艦隊、南方軍、南海支隊、支那派遣軍に対して侵攻開始命令を発令する。 開戦日を示達し8日午前零時をもって作戦発動が可能となった。(杉山メモ)

 日本が物理的に戦争を可能とするための以下に記す条件についても合わせて見てみる必要があろう。 それらを総合して最後に再度記すことにする。 

▼帝国日本の船舶や物資輸送に関して


 当初の帝国日本の石油量の見込みでは、戦争前に石油の備蓄を拡大させていたので、戦争を継続させても軍・民間の需要量をまかなえるとしたが、実際は、戦闘による軍・民間の船舶の消滅数が当初予測数と比較して1年目で1.5倍、2年目で4倍、3年目で5倍も大きくなり(「太平洋戦争への道開戦外交史7日米開戦」三 国策再検討の盲点 海軍の勝算の問題の項掲載数値をもとに算出)、あるいは(五味川著「御前会議」55 掲載数値では)、第一次世界大戦の実態より推測した1年で80〜100万トンの船舶損耗予測に対し、連絡会議での新造船可能予測は年間40〜80万トンとし((注)年間平均60万トンの建造補充については、過去の戦例での600万トンの船腹の10%の戦時損失率をもとに60万トンの補充(杉山メモより)を見込んでいたものである。 よって、80〜100万トンの損失を想定する場合には、60万トンでは不足していることになると筆者は考える。)、3年目生産実施は160万トンに急増できたが、同書には米国戦略爆撃調査団の資料による日本船舶の損失数をもとにして、3年間で約386万トンの損耗超過となる数値が示されているように、開戦後4年目には運搬船が無く、石油の確保や物資の補給はほとんどできていなかった。 更に、日米の産業力の差は著しく、日本が開戦と共に増産するが、例えばアメリカの航空機の増産量はその日本の10倍も大きかったのである(前掲書 海軍の勝算の問題の掲載数値をもとに算出)。 戦争指導部の会議では戦争の国策遂行に関して詳細な検討が為されておらず、作文のみによる説明に終始して開戦に及んだようであるが、失敗は明らかである。 総合力で捉えれば、戦前からアメリカとの取引を行って事情通であった商社や工場関係者などからすれば、鉱物資源量と工場規模・設備の当時の状況から、日本の戦況が不利に陥るであろうことは明らかであったろう。

 これとは別に、”現情勢下に於いて帝国海軍の執るべき態度”(1941/6/5)の”物資に関する情況判断(四)燃料”の項に、戦争中の油槽船の減耗に関して、1年目、2年目は外地よりの輸送量が少なく死活問題とはならないが、3年目は大量に輸送を要するを以って相当問題なりと言及している。 また、”重要戦用資材”の項目において、特殊戦用資材の国内産出及び貯蔵額は到底予定の生産拡充及び国防計画を充足し得ず。 帝国自存の見地に於いて武力的把握をも断行せざるべからず(杉山メモをもとにした内容)。

 つまり、戦争指導部と昭和天皇の先の見通しが甘いにも拘らず容易にことを進めようとした愚かさ、国民を扇動した責任は免れない。


 (11/26)に天皇が広く重臣を会して意見を聞くことは如何かと木戸に話し、木戸が東條に伝えると、東條は責任がない者が意見を言うのは意味を有さないと反対であったが考えますと返答し、結局は(11/29)に政府と重臣(かつての総理などのポスト経験者及び枢密議長)との懇談会が開催されることになり、天皇の同席を得て重臣が意見を述べた。 このとき岡田と若槻が、造船力に限りがあって物資輸送が窮屈になるため3年後の生産は考えられない意見を述べ、また、若槻が大東亜共栄圏の確立の理想にとらわれて国力を行使することは危険であるからお考え願わ無ければなりませんと・・と話を続けようとしている折、東條が、若槻に了解してもらうためには3,4時間は要ると口を挟み、このため若槻は陳述を断念したのであった。 昭和天皇はすべての出席者の意見を述べさせた後、懸念について何等発言せずに入御なされた。 そして、船舶や航空機の生産、損耗や物資の輸送実態が計画通り実現しない場合についての対策など一切検討為されずに、作文による希望論に終始した結論のまま戦争開始に向かうのであった。 昭和天皇は自らが政府・重臣などが一致して作戦を行う必要性を強く希望していたにも拘らず、全部無視してしまったのです。


▼天皇は果たして開戦の決議を決して拒否できない立場であったのだろうか


 昭和天皇は「独白録」(終戦直後昭和21年3月〜4月に極東国際軍事裁判に備えて側近5人が聴取して整理した内容の記録)の中で、天皇は立憲君主として政府と統帥部の一致して決定した意見は、天皇として拒否はできずに認めなければならないとのことを表明されている。 次の例である。

 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。 若し已が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専織君主と何等異る所はないとする趣旨を表明されていることになっている。 また、陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のもの {(注)終戦の玉音放送を阻止しようとした兵士の事件やその他兵士の事件など} が起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであらうか。・・・(中略)・・・私が若し開戦の決定に対して「ベト一」したとしよう。 国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとして結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思ふ。


 しかし、ここで仮定として、開戦の決定に天皇が裁可しなかったとしよう。 その場合、当初から開戦に消極的であった海軍は総合的に判断して天皇の戦争反対の決断に従うであろう。 当時の陸軍相兼総理であった東條英機は天皇に従順であった性格からして、当時の陸軍参謀総長を説得するであろうと推測できる。 仮に陸軍の一部の部隊が参謀総長に反するとしても、援軍の輸送が無くなれば、関東軍による占領地拡大はある程度収まることになったであろうと考える。

 昭和天皇が恐れたのは、もし陸軍が天皇の命に明らかに背くことに至れば、帝国日本を統帥する天皇大権の明らかな失墜を国民に暴露してしまうことになることではないだろうか、と筆者は考える。 その結果、昭和天皇は満州への軍の独断の侵略行為を後追いで承認し、インドシナへの軍の侵略行為の決定を裁可し、アメリカへの攻撃の決定を裁可した。


 日米戦以前における内閣の組閣に関しては次のような経緯があった。 昭和天皇は日独の同盟を敬遠していたので、当時、海軍の反対派であった米内を内閣総理大臣に任命したが、陸相には畑氏に待命を授け米内を援けることにした。 しかし、畑陸相は軍部の策謀に協力して辞任することとなり、皇族の閑院宮参謀総長が畑陸相辞職勧告に捺印したとされている。 陸軍が次の陸相を選任することを拒否することによって、結局内閣が組閣できなくなり内閣総辞職に追い込まれ、日独同盟推進派の近衛文麿が次の内閣総理大臣に就任することになって天皇の意図する方向から進路がそれることになった。

 先の戦争、中国・インドシナ・南方戦線においての戦没者は約310万人、そのうちの軍人軍属などの戦没者230万人で換算した餓死者(栄養失調による死)・病死者数は140万人以上推測され(「餓死の実態」よりの数値)、また、荷役のために1941年に動員された馬の頭数は約39万頭という数値があり、1945年までの補給頭数は不明であるがこれを考慮すると更に上回る馬の犠牲があった。


 昭和天皇は自らが開戦を拒否したと仮定したら、これよりも悲惨な内戦が生じていたであろうと回想しているが、このような無駄死に以上の悲惨さは回避できたであろうと筆者は思う。 筆者には到底信じられないことである。 ここでも単純には昭和天皇に従順でない勢力の実態が明らかになって、天皇の絶対的権威が失墜するだけであったと考える。

 そのときに必要なのは、天皇の拒否権云々ではなく、御前会議前の奏上及び御前会議において、上奏内容について、軍部の思慮不足に疑問に感じていたなら、再検討や研究の追加要求を徹底させることではなかっただろうか。 戦争という国民の命を考えるとき、最早、閣議による開戦の決定に対しては天皇の手続き上、天皇の裁決において拒否権が無いとする、手続き面のことを、無謀な戦争に突き進ませて無意味な人為的な惨害を蒙った言い逃れの理由にすることはできないと言及したい。


▼昭和天皇は天皇の護持に固執して頑なにポツダム宣言の受諾を拒否し続けた。
  これにより、更なる悲劇・日本人の無駄死にを生じさせることになった


 1945年8月9日に長崎への米軍による原爆投下が実行された数日後に連合国に降伏するのであるが、その際にも、日本は、「ポツダム宣言を受諾するも天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることを了解す・・・」と第三国を経由して連合国に電信文を送っているように、8月14日にそれを受諾するまで、あくまで国体護持を固執し、その受諾を拒否し続けたのであった。

 本来、天皇は国民の人命救済を考えなければならない立場であるが、国民の人命を重んじるのであれば、自らの護持に固執するのではなく、戦況その他諸状況から判断して日本が米国に対戦不可能な状況に陥っていた実態は明らかになっており、ほぼ確定的に敗戦の事実が拒否できないと理解できたこの時点で早急に連合国からの通告の受諾を表明し、連合国と停戦に向けた手続きを進めるべきであった。


 大日本帝国憲法施行の下、敗戦までの昭和天皇は絶対的な権威を有しており、国民は厳格に天皇に従順でなければならないと命令され、天皇を尊敬しない言動を発すること、あるいはそのように受け取られる等だけで、国民は有無を言わされずに処罰されたのであった。 誰も逆らえない、政府閣僚や軍部でさえも逆らえない地位にあったのである。 国民は強制的に天皇を神として崇めるように洗脳され、天皇から見れば、国民は天皇のために命を捧げるべき単なる ”物” のような存在と扱われていたのであろう。 即ち、歴史的な特権階級としての天皇に驕り以上の精神構造の何かが構築されていることは否定できないであろう。

 天皇が8月まで敗戦の受諾を拒み続けることをしなければ、米軍による日本への原爆の投下が可能でなく、原爆による惨害が回避されたのみならず、ソ連による極東地域での日本との対戦への参加ができずに、北方四島の択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島がソ連に占領されることが回避されたであろう。 この結果、大多数の日本兵士がソ連に捕虜にされてシベリアに抑留され、過酷な労役で死亡することが発生しないことになる。 また、8月の敗戦間際の無駄死になど回避できたのである。

 これらを回避できなかったのは、全て天皇の日本国民の命の救済に対する配慮が欠けた結果によるものであり、国民の人命救済の観点より見て天皇の責任が問われることになると筆者は考える。


▼憲法改正による天皇大権の剥奪後の昭和天皇の越権行為に関して

 現在でも継続する日本人の人権が侵害される半永久的な日本の隷属を定めた取極め等を画策した昭和天皇


 日本が敗戦を迎えるに及んで、昭和天皇を取り巻く人物たちは、国民よりも天皇護持を掲げた終戦工作を行ったのである。 広島に原爆が投下された報を受けても、昭和天皇は国民についての心配より、取り巻きが国体護持に固執してポツダム宣言を受諾しないとする決定に口出ししない。 ソ連が参戦した事実を知って、この時にやっと終戦のポツダム宣言を受諾することを決断し、終戦を迎えることになった。

 その後、日本は連合国の占領下に置かれ、マッカーサー元帥は真っ先に戦争犯罪者の選出と裁判を実施すること及び日本軍の解体と新たな憲法の制定を命じ、憲法での天皇の位置づけを”天皇大権を剥奪して象徴とする”指示を与えて極東委員会が機能する前に草案の骨格及び原案内容を策定させ、日本の国会で審議させ成立させた。 日本政府は、”象徴天皇制”及び”戦争放棄”・”国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”との内容の成分憲法を1946年11月3日に公布した。

 終戦直後においては、憲法改正前の元首の昭和天皇とアメリカが占領統治の政策などについて協議していたことは理解できる。 しかし、既に新たな日本国憲法が機能した時点からは、この時点で昭和天皇は国政に携わらないことになっているのであるから、連合国の占領国のひとつであるアメリカは、日本国政府と協議すべきである。 しかし、これを両者が無視をしているのである。 そして、昭和天皇は、もし連合国の占領統治が終焉するときが来れば、日本国の天皇に反対する勢力によって天皇制や皇族の存続が危ぶまれる事態が起きることを懸念していたと推測される中で、アメリカからイギリスやソ連が天皇について厳しい評価をしている情報が日本に与えられていたので、天皇自身を日本国民から守ってもらって天皇の存続を確立させるために昭和天皇が選択した方法は、アングロサクソン族のアメリカに無期限に日本全国に基地を設けて駐留を自主的に願い出ることであったという結論が導かれる。 そして、この巧妙なカラクリは講和条約とは別の日米2国間の協定とし、国連の集団的自衛権に基づくアメリカが日本が要請する駐留を受諾する形式をとった。 そして、この集団的自衛権の下、アメリカ軍が日本国内で軍事活動を行っても内政干渉には当たらないという根拠作りを行い正当化したのであった。 (旧日米安全保障条約 参照)

 天皇の全権の委任状を持って日米安全保障条約に調印したのは吉田総理であるが、この後、行政協定に詳細を定めたのは官僚である。 そして、日本の無期限のアメリカへの隷属化が開始されるようになったのです。 これらの大元の責任は昭和天皇であることはまず間違いないでしょう。


 吉田総理の後の総理として就任した鳩山総理は、”終戦直後のアメリカと昭和天皇のしたたかさ”の所で記したように、憲法改正を行って自衛力の増強を進めること及び周辺国との自主外交を進めようとしていて、在日米軍基地の撤去に向けて道筋をつけようとし、重光葵外相は日米安保条約の改定を提案し、日本の軍備増強による在日米軍基地の撤廃あるいは条件付き目的による駐留のみ容認する試案について調整していたのであるが、上奏の後に重光外相が望んだ当初の試案は訪米交渉からは取り下げられたのであった。 これは恐らく、重光氏が望んだ試案は、在日米軍の完全撤去に繋がるとの米国の危惧や昭和天皇による在日米軍基地の撤廃の拒絶という昭和天皇の剥奪された大権の越権行為が存在していたことはほぼ間違いないであろうと筆者は憶測する。

(2015年1月追記) 

 戦後70年が経過した2015年に於いても、アメリカ軍の日本における活動によって、日本人の基本的人権が侵害・無視され、日本の司法権がその人権侵害に対して何等関与できず、最高裁は既にアメリカ政府の意向によって左右される存在であり、日本政府は日本国民の民意に基づかず、アメリカ政府の意向に準じた政策を立案するのである。 ここには、国民主権の姿は見られない。

 2015年現在、日本の真の独立は未だに確立しておらず、民主主義政治は似非民主主義政治である。 日本国民全てが、実質的には巧妙に仕組まれたアメリカの占領政策下の隷属状態と言っても過言で無い。 これの元凶は、敗戦直後に昭和天皇が自らの護身と引き換えに互いの利益のために、昭和天皇とアメリカ軍の関係者が狡猾に画策した取引を行い、日本はアメリカが望む限り半永久的な隷属関係を守り、日本全域における占領者であるアメリカ軍による自由な基地の構築及び自由な軍事活動・訓練などが実施できる権利を定めた取極めを結んだと推測されるところにある。


 アメリカ軍は、占領政策が継続する限り、天皇制の継続を希望するのであるから、日本国民が天皇に対して万歳と言って天皇を認めている間は、アメリカ軍の日本における軍事活動が保証されていることを意味するのであると容易に推察されよう。

 2014、2015年の安倍総理は明らかに犯罪者であるが、日本の警察権をコントロール下に置き、昭和天皇が戦争責任の訴追を免れたと同じ構図が、アメリカに協力する安倍総理にも同様に働いているので訴追逃れが罷り通っているのである。

 日本の政財界の面々は、この国家権力による訴追免除などそっちのけで、経済界は金儲けに徹し、政界は政治献金を支援してくれる企業の利益のための政策を制定することに徹しているのである。 また、関係する外務・防衛官僚は、アメリカの支配体制を解消する努力をするわけでもなく、戦争と武器関連、その他これに携わることに拠り得られる恩恵に溺れて、犯罪者を擁護する方向に共謀するのである。

 彼らが日本を牛耳り、国民は愚か者であることを否定せずに、彼らが目論む金儲けの風潮に乗せられ、また、彼らは、政治家に都合よい政治がやり易くなるので、国民が政治から離れてアミューズメントなどに興じることを歓迎する。 これが日本の現状である。


 司法がアメリカに協力する自民党の政治家に対して機能していない現状、憲法無視を実行できる政治の現状から判断して、この事実は明らかに安倍独裁政治が実行されているのである。 日本は安倍総理によって種々の暴挙が実行されているが、意図的に現在の高尚な日本国憲法を無効にする暴挙であり、警察はこの件には関与できないようであるから、誰も止められない。 そして、日本国民の人格が否定された状態が正に進行中である。 

このまま放置すると、必然的に向かう未来は、アメリカの利益のために日本が貢献すること・・・アメリカの要求どおりにアメリカの戦争に協力してアメリカの戦争経費や兵士の戦死者を削減させる目的で、アメリカ兵の身代わりとなって戦場で貢献することである。 これが、今後の日本の合言葉となり、これに反対行動を起こす者は、自民党の憲法改正草案の内容に記述されている ”公益及び公の秩序”に反する者として政府からレッテルを貼られて圧力が加えられることになるであろう。


 今や独裁政治家そのものである安倍総理の姿は、かつてのナチスのヒトラー総統の独裁を想起させる。 政治家ヒトラーは民主主義政治で選出された首相であるが、その後独裁政権を掌握して対外的な強行策を実施、及びユダヤ人の大量虐殺を実行した。 一方安倍独裁総理は、アメリカ軍の飛行場建設のために、沖縄の住民の民意を無視し、住民への強圧的な”いじめ”を実行して ”嗜虐的”な快感を楽しんでいるようだ。


 この現在進行中の原因についても、昭和天皇が画策した日米安保条約及び取極めに原因があるのであり、これについても昭和天皇の責任に帰することが言及できるであろう。     (ここまで 2015年1月追記)

■ 日本軍の第二次世界大戦における戦争時の基本方針:

  陸軍兵が捕虜になる勿れ、死ぬまで戦うことを訓令し、
  中国・南方戦の戦地では兵士に物資の現地調達で極力自製自活を行うことを命じ、
  中国人捕虜の扱いについては、逃がしても、殺しても良いとの方針であった

  


▼日本兵は捕虜になることを戒め、南方作戦の兵站は現地にて調達を旨とする


 日本軍の第二次世界大戦における戦争時の基本方針のひとつに、陸軍の戦陣訓があり、捕虜になることは恥じであると戒めている。

陸軍の戦陣訓から ”第八 名を惜しむ ”
 「・・・恥(はじ)を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門(かもん)の面目(めんぼく)を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)して其の期待に答ふべし。生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名(おめい)を残すこと勿(なか)れ。」


 日本軍の補給計画は、中国やインドシナの陸上では、ほとんど馬によるものであった。 人間の食料計画がままならぬ状態であったときに、大量の馬への給餌及び馬の扱いに不慣れな兵士が戦闘に携わりながら馬の世話を行うことはぞんざいにならざるを得ず、馬の損失が必然的に増加する。 

 南方作戦のための兵站部隊の数は少なく、開戦時の南方参謀兵站主任は、南方作戦の兵站の基本方針を示し、”・・・現地ニ於イテ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ之ニ據ルヲ旨トセリ”と、戦争しながら、食料を現地で作るあるいは調達するなど、自活しろという戦争を強いているのであった。 すなわち、戦争を継続するためには、現地の住民の物資を奪っても止むを得なくなるのです。 外地での物資の調達は極力自製自活を基本方針として命じられていたので、食料入手が困難になると、兵士は栄養不足による栄養失調やこれに付随した病気に罹患、南洋特有のマラリヤなどに罹患して死に至り、戦闘行為で死ぬのではなく、国の安易で無謀な戦争計画によって兵士を飢餓での無駄死にさせたのである。

▼中国兵の捕虜の取り扱い


 日本は、西洋人に対する戦争では比較的ジュネーブ条約に拠り戦争捕虜の扱いについては表だっては厄介な問題に発展させることは少ないと思われる。 しかし、日本は、中国戦については、あくまでも事変の延長ということにして、戦争捕虜としての扱いをとる必要性を否定しているのである。 以下の尋問調書で明らかである。

 東京裁判に提出された武藤章(支那事変発生当時、参謀本部第1部第3課長) の尋問調書(1946 年4 月16 日付)「極東国際軍事裁判速記記録第1巻」より、ハイダー氏の尋問対して武藤章被告が答えている内容のポイントを次に示す。
→ 1938 年に中国の戦争は公に”事変”として知られていますので、”中国人の捕えられたる者は俘虜として取扱われないということが決定しました。”・・・捕虜収容所はありませんでした。彼らは捕虜とはみなされず、・・・一度彼らが武器を捨て降伏すれば普通の市民として扱われ、中国軍に引き渡されると感じました。・・・彼らを北中国仮政府に引き渡す・・・その政府は蒋介石に反対・・・日本政府に好意あるもの・・
 
 つまり、陸軍は、戦争という名称を使わない支那事変では捕虜としない方針を採用。

 しかし、中国でも捕虜収容施設や捕虜の取り扱いを取り決めていた例がある。北支那方面軍の「北支那方面軍俘虜取扱ニ關スル規程」〔1941/11/20〕の例はある。 しかし、筆者はこの実施状況について把握できていない。


 藤原彰著「餓死した英霊たち」に”氷見大佐「対支那軍戦闘法ノ研究」陸軍歩兵学校1933年”から引用して、中国戦の中国兵捕虜について、ジュネーブ協定の捕虜として取り扱うことを否定している内容を書いている。

 「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外之ヲ現地又ハ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ。 支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其ノ存在ヲ確認セラレアルモノ少ナキヲ以ッテ假ニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題ナシトナルコト無シ」

 つまり、中国において、捕虜を地方に移して自由に逃げて良いといって放つことができるとしている。 しかし、再度戦線に復帰できてしまうことを許すわけでもないのであるから、捕虜の取り扱いを現地の指揮官任せにすると、中国人捕虜を殺戮することを罪とは日本軍は認定しないのであるから、自ずと手っ取り早く殺戮してしまうことになるであろうと推測できる。

 日本兵には捕虜になるなと訓示していること、及び日本兵自身の食糧事情が悪いことより、仮に中国兵を捕虜としたと仮定して、仮に捕虜集所を設けて収容して捕虜に食事を与える場合でも、日本兵より良い食事や同じ程度の食事を与えることは無いと思われる現地の情況であったから、捕虜たちを殺戮したも同然になったであろう。

 日中戦争時に中国での中国兵の捕虜についての資料が整理されていない現状から想像できることは、日本軍は、本来捕虜として人道的に対応すべきことを行わず、中国捕虜を殺戮てきたのであろう。 日本軍は中国兵を捕虜にする必要を認めていなかった。 仮に存在していたとしても、中国での捕虜収容所は非公式であって、赤十字との関連かどうか不明だが、極わずかに収容された程度と見られる。 日本の赤十字関係については軍の関与が大きく支配し、中国兵の負傷者などの救済は見捨てられていたようだ。 また、戦いながら現地での物資調達を余儀なくされているために、一般住民からの略奪など横行したことが伺え、日本兵による暴行、強姦、殺戮などが常習的に行われていたことも伺える。

■ 第二次世界大戦での日本兵の無駄死に者数:
  総数および餓死者・病死者などの数


 日中戦争の大儀が明確でなく戦地に送られた兵士たちは、兵站の十分な策が為されておらず、当初から十分な物資の補給の実施が不可能な状態が続き、物資の略奪のための戦争以外の何物でもなかった。 陸軍は対ソ戦を想定して、そのための物資を満州に搬入していたが、南方戦は海軍が担うものであると対立意識をもち、戦後まで満州に軍需物資が残された状態となったのである。

 日本人の第二次世界大戦時の戦没者は、310万人、そのうち海外での戦没者240万人、軍人・軍属・準軍属合わせた戦没者は約230万人が公表されている。(厚生労働省遺骨収集事業の説明資料(H25/8/13)並びに藤原彰著「餓死した英霊たち」* の記載資料の引用「引き上げと援護30年の歩み1967」より)。 また、シベリア抑留死亡者数は53,000人(厚生労働省推計)(平成22年版厚生労働白書)。 (下記参考比較* 参照)

 この大戦時の餓死病死者を記録した資料はほとんどない。 「餓死した英霊たち」に太平洋諸島での値の比率より推測・換算した病死・栄養失調による死者の数値として140万人程度を見積もっている。 (参考比較 「餓死した英霊たち」* :この資料ではシベリア抑留での死者はすべて、栄養失調・極寒による衰弱死・病死などとして約21,000人が見積もられている。)


■ (参考)GHQ/SCAP(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers)
  連合国最高司令官総司令部 組織概要


極東委員会とGHQについて

 終戦直後は連合国最高司令官のマッカーサー元帥及び米国が日本を占領統治していた。 占領政策の取り扱い方が明確でなかったために、当初はマッカーサーが主体的に関与していたと推測される。 しかし、ソ連の強い主張により、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議で、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が設置され、また、東京には対日理事会が設置されることとなった。

 「・・・極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。 とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。 

翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。 同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。」

{国会図書館 日本国憲法の誕生 資料と解説 ”3-4 極東委員会の設置とGHQの会談” の中の Incoming Message to CINCAFPAC [MacArthur] from Washington (War), nr WCL 32355 [Communiqué of Moscow Conference, December 27, 1945 }より引用 


 (参考)連合国最高司令官総司令部の組織図(1946年及び1947年)を参照。

■ イラク戦争に関わる航空自衛隊のイラク派遣、日本の刑法に抵触する政府の命令の問題(再掲)

 


 イラク戦争に関わる航空自衛隊のイラク派遣、日本の刑法に抵触する政府の命令の問題


■ 法治国家日本として、イラクに派遣された航空自衛隊及び小泉、安倍、麻生、福田元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣などの刑法に抵触する命令に対する処罰(殺人ほう助相当??の刑罰)が求められる(再掲)

 


 法治国家日本として、イラクに派遣された航空自衛隊及び小泉、安倍、麻生、福田元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣などの刑法に抵触する命令に対する処罰(殺人ほう助相当??の刑罰)が求められる

 イラクに派遣された航空自衛隊員は殺人幇助の犯罪者、及び小泉、安倍、福田、麻生元総理、額賀元防衛庁長官、久間、石破、高村、浜田元防衛大臣、防衛省の担当官僚、外務その他関係者などすべて、その犯罪に関与した者は犯罪者である。 これは、名古屋高裁(民事訴訟時)における裁判において、航空自衛隊や政府が、法律違反、憲法違反の行為を行ったことを明言し、自衛隊員による有志連合国の戦闘員(当時、戦場で殺人行為を実施)を戦場に輸送しており、航空自衛隊員が有志連合国の戦闘員の行動と一体的に行動している旨を言及しており (自衛隊のイラク派兵差止等請求控訴事件:名古屋高裁(民事)判決 2008年4月17日、確定 2008年5月2日)、即ち、自衛隊員と関係者が直接的に殺人幇助の関与であることが既に証明されているのである。 政府がこのときの証拠資料を隠蔽しようが、あるいは特定秘密事項に指定して証拠の開示を拒否しようとも、裁判所によって既に証明された事実である。 よって、これに対しては日本の刑法に基づいて犯罪者として罰する手続きが開始されなければならない。 もし、これが損ねられた場合には、日本の法の支配は瓦解して存在していないことになる。 果たして状況はどうなっているのだろうか?
 
  彼ら犯罪者を罰する職務に携わる警察・検察は、政府のコントロール下に置かれて骨抜き状態であり、また、最高裁は戦後からアメリカとの隷属関係に縛られたアメリカ寄りの評定を下す旧態依然とした裁判所の体質が存続しており、三権分立の独立した権限の行使を行うことが出来る司法ではなく、機能不全を起こしており、アメリカが関わる日本国民への人権蹂躙の行政訴訟の事案に対しては、最高裁は日本国民の立場に立っていないから、日本人が提起する裁判など無意味である。

 更に、日本政府の犯罪者たちが独立国家日本、主権国家日本を放棄してアメリカ軍の占領政策を未だに継続させているように振る舞い、アメリカ従属主義に基づき、アメリカの占領政策によって日本国民の基本的人権を蹂躙している状態を継続させ、改善する努力さえ行わず、日本国民がこれに反対する行動を起こすと、弾圧してアメリカのご機嫌をとるバカを演じるのである。


  日本政府は国の安全保障に関しては、今度は、日本国民が反対行動を起こさないようにするため治安維持の関連法を強化したのである。 また、政府は、民主主義政治・法治国家の法の支配を完全に無視した態度をとり、国会の関与を経ずに、ちょうど北朝鮮や中国の採っているような独裁的な手法を用いて、まるで昭和天皇が護身と引き換えに日本がアメリカの自由になる奴隷へと変身させる約束をしたことを暴露していると言及できるとおりの行動をとって、アメリカへの隷属の忠誠心を示して機嫌をとっているのが2014年の安倍総理である。

 このことは、2014年の日米防衛協力の指針で決定しようとしている内容に明らかなとおり、将来、日本の自衛隊がアメリカ大統領の命令でアメリカの戦闘に参加する道を開くことを、2014年の安倍総理、防衛・外務省の官僚が策謀したのである。


 2014年の安倍総理を筆頭に犯罪者の集団で構成される政府が、民主的な議論と国民総体の民意を無視して独裁的に暴挙を働き、次々に発する憲法違反の軍事関連政策を決定し、その犯罪者たちを幇助する自民党議員らも共謀して、日本の民主主義政治を崩壊させた。 また、日本の正義の司法制度を失墜させてしまったのである。 日本国民は、このことを認識・理解し、対処しなければならないのです。
 


■ 2014年の一政権の政府の解釈によって、日本国憲法に書かれていない日本の限定的な集団的自衛権の行使を可能とすることを容認する閣議決定に向けて謀略を図る動き。つまり、作為的に現在の日本国憲法を無効化する謀略。 民主主義の法治国家を瓦解させず、憲法の改正という、法の支配のもと論理性と倫理性と国民の権利の尊重及び民主主義の精神の筋が通る厳正な手続きに基づかなければならない。


 「自衛隊不要」の内容に書かれた、日本国憲法の戦争放棄(戦力を保持せず・武力の行使は放棄する)と個別的自衛権及び(限定的を含む)集団的自衛権についての関連内容を参照。


日米安保条約 : 日本政府・官僚はアメリカの言いなり。日本国民の基本的人権は無視される。アメリカでは市民の権利によって阻止される飛行訓練やオスプレイの訓練なども、日本ではやり放題。日本はアメリカの奴隷。日本全国にある米軍基地、米空軍は日本の空域を最優先使用。オスプレイが日本全国を自由に飛び、又、米軍兵士の犯罪は現行犯でなければ治外法権。そのうち、日本国憲法を改悪して、戦争放棄を取り除き、日本はアメリカの戦争の子分として戦線に加わる日が来る。その結果、防衛費増大、経済悪化、国債の信用力低下、歳入の増加より国債の利払い費の増加が上回ることによる更なる負債の増加、国会議員の利権や官僚体制は温存され、そのため、国民の社会保障費の大幅削減、国民生活の荒廃、日本沈没への道筋は見えている。

日本が奴隷状態から解放されてはじめて主権国家になりえる : 日米安保条約を解約。日本の真の独立。世界の国々と独自な種々の安全保障条約の締約を目指す。
憲法で保障された日本国民の基本的人権が確実に保障されるためには、また、日本の主権国家を確立するためには、現在の日米安保条約の解約は絶対条件である。
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/emperor/japan_emperor.html


85. 中川隆[-7537] koaQ7Jey 2017年5月23日 10:33:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

赤軍が誕生したのはソ連が世界共産主義革命を始めたからで、ソ連成立からすぐ、日本にも共産党が誕生しました。

ソ連の活動は実を結び、中国では共産党軍が国民党軍を倒して共産国家になり、中国も世界共産化計画を始めました。

中国の毛沢東は特に敗戦国日本に狙いを定め、日本人は洗脳しやすいと見て「日本赤化計画」を開始しました。


というのは敗戦後に日本を占領したGHQのマッカーサーは、右翼や愛国者に打撃を与えるため、共産主義者を優遇する政策を取りました。

GHQはX日新聞とかX売新聞、世界有数の自動車メーカー、巨大広告会社、戦前から存在する有名報道機関などに、共産主義者を優遇するよう強制しました。

共産主義者はGHQ統治下で出世できる、逆の言い方をすれば共産主義者にならないと出世できないという時代が日本にはあった。


毛沢東はここに狙いをつけ、大学を利用して共産主義を吹き込み、社会に無知な大学生を兵士に養成して、日本政府と武力闘争をするよう煽動しました。

当時の赤軍や学生運動をしていた人達は必ず「毛沢東語録」を持っていて、勉強はしなくても毛沢東語録を暗記し、毛沢東を「主席」中国を「祖国」と呼んでいました。

こういう連中が徒党を組んで70年代に次々にテロ事件を起こし、1972年にあさま山荘事件を引き起こしました。


あさま山荘事件を契機に日本の赤軍活動は国民の支持を完全に失い、活動家は新聞社やテレビ局に就職して「言論闘争」に切り替えました。

現在のマスコミ人の大半が「変な人」なのはGHQの共産主義者優遇と、活動場所をなくした赤軍活動家がマスコミに就職したからです。
http://www.thutmosev.com/archives/71038217.html


86. 中川隆[-7641] koaQ7Jey 2017年5月25日 07:18:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

◼️「昭和天皇とダレスと吉田茂」

戦後の「日米安保条約」は、どのような政治政策過程を経て決定したのか?

昭和天皇と吉田茂は必ずしも同じではなかった。米軍基地の無条件延長を主張していたのは、米国側のダレスであり、日本側でそれを主張していたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であった。

吉田茂が、サンフランシスコ行きを逡巡していたのは、「安保条約調印式」に出たくなかったからだ。しかし、吉田茂の態度が一変する。昭和天皇との「謁見」である。昭和天皇は、吉田茂を呼びつけ、厳しく説教したと思われる。

「米軍基地無条件延長」と「沖縄切り捨て」を主張する昭和天皇の「リアリズム」を、今の時点でどう評価するか、なかなか、単純な問題ではない。大問題であろう。


◼️何故、吉田茂は「安保条何故約」に一人だけ署名したのだろうか?

米国側がダレスなど四名が署名しているのに、日本側の署名が、吉田茂だけなのは、何故か?吉田茂だけが、「安保条約」を積極的に支持しなければならないという意思を持っていたからだろ?それでは、それは、何故か?

おそらく、吉田茂だけが、何があっても「日米安保条約」という「日米軍事同盟」を結ばなければならないという昭和天皇の意思を知っていたからである。昭和天皇は、日本国憲法9条によって生じる「軍事空白」と、


それがもたらすかもしれない共産主義革命の可能性に強い危機感を抱いていたのだ。吉田茂は、天皇にしばしば「内奏」し、日米交渉の内容を報告している。しかし、その中でも、講和条約と安保条約の締結を前にした7月19日の「拝謁」は

重要な節目となった日であった。この日を境に吉田茂は、不平等で片務的な、明らかに屈辱的な「安保条約」の締結へと積極的に動き始めるからである。

江藤淳は、『吉田茂と養子政治』の中で、高坂正堯に代表される「吉田ドクトリン」=吉田政治を神話化=絶対化し、賛美する風潮に対して、「マッカーサーの『養子』としての吉田政治」を指摘し、異議申し立てをおこなっている。

問題は、吉田茂ではなく昭和天皇だった。吉田茂の「変節=転向」は、サンフランシスコ行きを逡巡する吉田茂に対して、昭和天皇からの「御下命」と「御叱責」があったからだろうと、豊下楢彦は、『昭和天皇・マッカーサー会見』で分析


している。吉田茂は、昭和天皇の意思を体現すべく、ただ一人、サンフランシスコ郊外の基地内で署名したのであろう。むろん、私は「米軍基地無条件延長」を認める「安保条約」を推し進めた昭和天皇の「国際情勢認識」が間違っていたとは


思はない。この時点での「日米安保条約」の締結は最善の道だったと思う。日本の戦後の政治的安定と発展は、この「軍事同盟」によってもたらされたからである。昭和天皇に、この危機感と政治的リアリズムを教えたのは、誰か?


おそらく、「週刊朝日」が明らかにした、戦前は武装共産党のリーダーであり、逮捕されたのち転向し、戦後は熱烈な天皇擁護論者になっていた「田中清玄」であったかもしれない。
http://yamazakikoutarou.hateblo.jp/


87. 中川隆[-7332] koaQ7Jey 2017年6月26日 06:54:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

共産革命を恐れた昭和天皇がアメリカと八百長戦争した理由

アメリカ空軍に日本の民間人だけを徹底空爆して貰ったのは李氏朝鮮の統治政策を真似たもの


2017年06月25日
北朝鮮軍のリアルな実態 食糧確保に窮するも、ミサイルと特殊部隊に特化


普段の任務の9割くらいは食糧確保
引用:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c-sakuranbou/20160818/20160818082505.jpg


北朝鮮軍の最大の敵は食糧不足

北朝鮮軍は秘密主義のため実態は知られていないが、非常に弱いとも、ミサイルやロケット部隊は強いとも言われている。

ソウルを射程圏内に入れているロケット砲だけで1万発を数え、1回撃って場所を移動して10分から30分で再発射できる。

通常の火砲や自走砲もソウル近くに集中配備されているので、同時に発射されればソウル壊滅は避けられない。


人口約2500万人のうち朝鮮人民軍兵士は200万人弱で、予備兵も90万人ほどなので最大300万人程度動員できる。

北朝鮮軍の最大の敵は韓国やアメリカではなく、食糧不足による飢えであると言われている。

90年代からずっとそうなのだが、北朝鮮は常に食糧不足であり、軍といえども末端の兵士に食料は届かない。


そこで北朝鮮軍の各部隊は軍事行動として、畑に芋を植えたり、漁船で魚を捕ったり自給自足している。

時々日本海側の海岸に北朝鮮軍の兵士が乗っていたと思われる漁船が漂流するが、軍が魚とりをしていて漂流するのです。

軍にとって食糧確保は最重要課題で、旧日本軍は食料が底をついてインパールやガダルカナルで酷い目に遭った。


もし再び朝鮮戦争が発生して数ヶ月続いたら、北朝鮮軍は食糧が底をついて飢えてしまうでしょう。

200万人の軍人の多くは食糧生産やインフラ整備修理などを行っていて、軍事活動に専従しているのは少数だとされている。

例えば最高指導者の命令でビルを建てたりスキー場を作ったり、思いつきでやらされるのは軍の兵士達でした。


軍隊は食料を自給している

建築専門家でも何でもない兵士が高層ビルを建てるので、傾いていたり最初からヒビ割れていたりします。

韓国人を見るとわかるように半島人種の平均身長は日本人より遺伝的に高いが、北朝鮮兵士の身長は逆に日本人より低い。

慢性的な栄養失調のためだといわれていて、金正恩を除いて肥満者は見かけない。


軍に配給される食料は最初から少ないのだが、貴重であるが故に上官が独占し、さらに闇市場に横流ししてしまう。

金正日がはじめた中途半場な市場制度によって、北朝鮮の各地に闇市ができ、そこで貴重や衣料品や食料を売買している。

兵士は支給される食料では足りず、親から仕送りしてもらって足りない分を自腹で購入している。


当然ながら末端部隊の最重要任務は米韓軍を警戒する事ではなく、「副業地」でジャガイモやトウモロコシを生産する事になる。

兵士は僅かな現金をもって外出しては、周辺の町で売っている食料を購入する。

北朝鮮にもファーストフード的なものがあるが、大豆や食用油を加工して肉っぽい食感にした人工肉が主流になっている。


北朝鮮の闇市
引用:東洋経済オンラインhttp://tk.ismcdn.jp/mwimgs/4/3/1140/img_43a2aed07165d6cb9b359940ecdc838a53028.jpg


ミサイル部隊と特殊部隊は強い

燃料の油も足りないので薪を拾い集めて薪ストーブで煮炊きをしているが、時間がかかり効率は良くない。

通常冷蔵庫がないか、あっても電気が止まるので、夏場はほとんど信用できず、食料は腐りやすい。

北朝鮮空軍には常時飛行可能な戦闘機はなく、たまにデモンストレーションでソ連製ミグなどを飛ばすのみです。


海軍にもまともな軍艦はないが、韓国の警備艇に対抗させるため、高速ボートのようなものを多数配備している。

陸軍はロケット砲や火砲が充実しているが、兵士は空腹なので歩けず、後ろから押すと倒れてしまうでしょう。

こんな北朝鮮軍で強いといわれているのがミサイル部隊と特殊部隊で、特殊部隊は長い間(今でも?)日本に潜入しては拉致や工作活動をしていた。


ミサイル部隊はICBMで直接米本土を狙えるものや、潜水艦発射タイプ、車両に搭載して東京を狙えるタイプなどを揃えている。

ミサイル技術は旧ソ連時代に伝わったが、最近でもロシア軍がミサイル技術を援助しているとの見方が強い。

そしてどうやらロシア軍のミサイル部隊が、北朝鮮国内に展開して支援しているようだと噂されている。


こんなに食料が足りないのでは軍が反乱を起こすというのはブルジョワ日本人の考えで、李氏朝鮮の時代から朝鮮王は反乱を抑えるためにわざと国民を飢えさせていた。

体力が余っているから反乱を起こすので、飢えてフラフラしていれば反乱を起こせないという考え方です。

この考えの正しさは李氏朝鮮が1000年続いた事で証明され、北朝鮮では今も続けられています。
http://www.thutmosev.com/archives/71504556.html


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。

それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。

かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


88. 中川隆[-7117] koaQ7Jey 2017年7月29日 13:44:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more

マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png

マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。

GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig

日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。

マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


89. 中川隆[-6980] koaQ7Jey 2017年8月02日 19:06:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg

アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。

経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg

美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html


90. 中川隆[-6674] koaQ7Jey 2017年8月15日 12:12:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html


DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。  


91. 中川隆[-6644] koaQ7Jey 2017年8月16日 12:09:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年08月14日 第二次大戦の歴史観を見直す
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2017/08/7056.html

終戦記念日である8月15日。日本人ならあの悲劇を思い出し、二度とあのような戦争が起こらぬよう願うもの。アメリカの圧倒的物量を目の前に、開戦の前から「負ける」と分かっていた戦争に、なぜ日本は突き進んだのか。それは、天皇や財閥が金儲けのために仕掛けた戦争だからだ。

今、私達日本人は、第二次世界大戦の歴史観を見直す時期に来ている。

昭和天皇をはじめA級戦犯が死刑を免れたのも、財閥解体といいつつ、今なお諸財閥が存続し続けていることなどを考えても、戦争の立役者であった者達の戦後の動向は不整合が大きい。今回は、その一端を紹介したい。

以下は、こちらからの引用です。(赤字は引用者による)

天皇家の秘密―再掲 日本人は知ってはいけない。
http://cosmo-world.seesaa.net/article/118366403.html


天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?ん???

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行くことになります。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンで、そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」であります。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めますが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行でした。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していました。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であったわけです。(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ 及び、濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立さましたが、日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった事は知られていません。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉があります。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言です。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのです。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団でしかありません。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。


以下は、こちらからの引用です。(赤字は引用者による)


原因を理解していない人間が、結果を変えられるわけがないのである - 戦争
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html


・東京大空襲で皇居や財閥系企業の施設は被害を受けなかった。

・三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなかった。

・東京裁判では米国にとって最大の「敵」であったはずの人物は無罪とされた。

・天皇の戦争責任を追及したアメリカ人ジャーナリストのバーガミニは、日本ではなく米国から妨害工作を受け、ジャーナリスト生命を断ち切られた。

・戦時中、財閥系企業は「天皇の軍隊」を利用して莫大な利益を上げた。

・財閥解体なんて嘘八百であり、戦後も存続・拡大し続けている。

・昭和天皇はガーター騎士団の一員(エリザベスの臣下)であった。日本がイギリス相手に戦争を起こすということは、君主への反逆を表すことになる。

・石油も鉄くずも所有していない日本が、何故に4年も戦争を続けることが出来たのか。敵国であるはずの米国から、裏ルートで輸入されていたからだ。

・白洲次郎やヨハンセン・グループは、空襲や原爆の情報を事前に教えられていた。

・満州国で実権を握っていたのは、岸信介をはじめとした田布施グループである。

・満州国で岸信介は麻薬を取り仕切っていた。麻薬の製造方法や販売手段を日本は知らなかったはずである。それらの情報を教えたのは誰か。

・田布施グループの一人である松岡洋右が国際連盟脱退のお膳立てをすることによって、日米開戦の原因を作った。

・ロンドン海軍軍縮条約を締結させて日本海軍の弱体化を謀った幣原 喜重郎は、フリーメーソンだった。

・幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女である。ここでフリーメーソンと三菱が繋がってくる。

・太平洋戦争開戦以前に、「日支闘争計画」が存在していた。これは、日本と中国を戦争させる計画である。

・開戦前の二.二六事件も、終戦の際の八.一五宮城事件も、ヤラセであった。ともに「あの戦争は軍部が独走して起こしたものであり、天皇は戦争に反対していた」という嘘を広めることが目的だった。


そして天皇が国際金融資本家らの思惑に沿って太平洋戦争へ邁進していった。こちらからの引用です。(赤字は引用者による)


山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件 ♪ペリマリ♪
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html


天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。

さらには、原爆の広島投下を決定したのは、天皇だった。こちらからの引用です。(赤字は引用者による)

米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !? 今この時&あの日あの時
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ba5e.html


終戦直後の昭和天皇とマッカーサーとの会見は単なるセレモニーで、実は終戦の前に連合国側は天皇家の存続と昭和天皇の生命、財産の保全を決めていたのです。天皇制をうまく利用する方が日本統治上好都合と判断したからです。

それを事前に知らされていた昭和天皇は、だからこそポツダム宣言も安心して受諾したのです。

それはともかく。米国側からヨハンセングループを通して原爆投下地を決定するよう要請された昭和天皇は、「広島」と返答しました。

なぜ広島だったのか?それには理由があったのです。

その時点で終戦決定していた天皇にとって、一番の障害となることが予想されたのが陸軍の存在です。終戦と聞いてクーデターを起こしかねなかったからです

そして、無条件降伏と言いつつも、國体護持を唯一の条件として天皇はポツダム宣言を受託する。


・國体護持のための終戦(1)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2015/08/5126.html

・國体護持のための終戦(2)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2015/08/5132.html

戦後以降のアメリカ支配は、天皇家や田布施一族との深い繋がりのなかで継続されたきた。奴隷密売で外国へ売り飛ばされた者達、無益な戦争で亡くなった多くの兵士達の命は、一握りの者達の私益のために消えて行ったという事実を、受け止めなければならない。

我々日本人が本当に闘わなければいけない相手は誰なのか。それを見失ってはいけない。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2017/08/7056.html


92. 中川隆[-6602] koaQ7Jey 2017年8月26日 10:20:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした


8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


93. 中川隆[-6538] koaQ7Jey 2017年9月02日 00:21:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。

(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


94. 中川隆[-6537] koaQ7Jey 2017年9月02日 00:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


95. 中川隆[-6336] koaQ7Jey 2017年9月25日 09:23:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

サラフィー主義者が支配していた地域を現在、クルドが制圧しようとしているが、そのクルドにはアメリカのほかイスラエルとサウジアラビアが存在していることも公然の秘密。クルドの「独立国」が誕生したなら、そこは3国同盟の「満州国」になるだろう。そのためにもデリゾールでの戦闘は重要だった。

その戦闘を優位にするため、アメリカを後ろ盾とする武装勢力がハマの北東部でシリア政府軍を攻撃して包囲、ロシアの空軍と特殊部隊の反撃で多くの死傷者を出したわけだが、この戦闘はロシア軍とアメリカ軍が直接、衝突する可能性が高まったことを示している。そこで、​両軍の幹部が中東で差しの話し合い​をしたのだろう。

これまでロシア軍はイスラエル軍との交戦を避けてきたが、そうした状態が今後も続く保障はない。中東では圧倒的な軍事力を持つイスラエルだが、ロシアが相手ではひとたまりもないだろう。そこで​イスラエルにアメリカは恒久的な軍事基地を建設​、ロシアはシリアに基地を作るようだ。ネオコンをはじめとするアメリカの好戦派は1992年にたてた世界制覇計画を強引に進めようとしている。

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


96. 中川隆[-6068] koaQ7Jey 2017年10月21日 11:59:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


97. 中川隆[-6004] koaQ7Jey 2017年11月08日 05:19:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派


安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/


98. 中川隆[-5763] koaQ7Jey 2017年12月09日 16:02:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712090000/


99. 中川隆[-5706] koaQ7Jey 2017年12月13日 08:13:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.12.13
中国とロシアが軍事的にも強く結びつく中、米国が日本と韓国を従えて軍事演習を実施した背景

アメリカ、日本、韓国は12月11日から合同軍事演習を実施した。アメリカから参加した2隻のイージス駆逐艦、「ステセム」と「ディケーター」を中心に、日本のイージス駆逐艦「ちょうかい」、韓国のイージス駆逐艦が演習を実施した。東シナ海ではアメリカのB-B爆撃機やF-35戦闘機、F-18戦闘機、また日本から4機のF-15戦闘機が飛行したという。

この演習は朝鮮を想定しているとされているが、実際の相手は中国とロシアのはずである。アメリカと緊密な関係にあるイギリスでは1945年5月にドイツが降伏した直後にソ連を奇襲攻撃する計画を立て、アメリカは1949年に中華人民共和国が建国されてから中国への軍事侵攻を目論んできた。今もその延長線上にある。

イギリスの奇襲計画はウィンストン・チャーチル英首相がJPS(合同作戦本部)に命じて作成させたもので、「アンシンカブル作戦」と名づけられた。それによると、1945年7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、参謀本部に拒否されて実行されていない。日本が降伏する前にソ連を攻撃した場合、日本とソ連が手を組む可能性があると懸念する人もいたようだ。

この計画が流れた後、7月26日にチャーチルは退陣するのだが、日本が降伏して第2次世界大戦が終わった翌年、1946年の3月に彼はアメリカのミズーリ州で「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至まで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説して「冷戦」の開幕を宣言している。

それだけでなく、1947年にチャーチルはスタイルス・ブリッジス米上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたと報道されている。チャーチルは執拗にソ連の破壊を目論んでいた。ドイツ軍の主力がソ連に攻め込んでいたとき、西側が手薄になっていたにもかかわらずチャーチルはドイツを攻撃させていない。

フランクリン・ルーズベルトが1945年4月に急死した後、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は1947年3月、世界的な規模でコミュニストを封じ込める政策、いわゆるトルーマン・ドクトリンを打ち出した。

ジョージ・ケナンがXという署名でソ連封じ込め政策に関する論文を発表したことも有名な話だが、これらは1904年にハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が発表した理論と合致する。イギリスは一貫してロシア制圧を目論んできた。

マッキンダーは世界を3つに分けて考えている。第1がヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、第2がイギリスや日本のような沖合諸島、そして第3が南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島だ。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指し、そのロシアを支配するものが世界を支配するとしていた。そのロシアを締め上げるため、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に外部三日月地帯をマッキンダーは想定している。日本は内部三日月帯の東端にあり、侵略の重要拠点であるのみならず、傭兵の調達地と認識されていた。

第2次世界大戦後、アメリカでは外交官や軍人の好戦的な勢力がソ連の打倒を目指す。例えば、トルーマン・ドクトリンが発表された2年後、アメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容の研究報告を作成、1954年にアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)はソ連を攻撃するための作戦を作り上げた。SACの作戦は600から750発の核爆弾をソ連に投下、約6000万人を殺すという内容で、この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うという「ドロップショット作戦」が作成されたのは1957年初頭だ。

こうした動きの中、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、アメリカ軍は暴力的な土地接収を進める。1955年には本島面積の約13%が軍用地になったという。沖縄の軍事基地化はアメリカの世界戦略と結びついていると言えるだろう。

こうした軍事基地化が推進されていた当時、1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めていたのがライマン・レムニッツァー。第2次世界大戦でイギリス軍のハロルド・アレグザンダー元帥に取り入り、アレン・ダレスを紹介されている。ダレスとレムニッツァーは大戦の終盤、ナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」をルーズベルト大統領に無断で実施している。

レムニッツァーは琉球民政長官の後、ドワイト・アイゼンハワー政権時代の1960年から統合参謀本部議長に就任するが、次のケネディ大統領とは衝突、議長の再任が拒否されている。衝突の主な原因はソ連に対する先制核攻撃をめぐるものだった。

本ブログでは何度も書いてきたが、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。

これも繰り返し書いてきたが、「核の傘」とはアメリカの先制核攻撃の拠点になることを意味する。1991年12月にソ連が消滅した直後、ネオコンをはじめとする好戦派が作成した国防総省のDPG草稿、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンはソ連がアメリカの属国になったという前提で立てられた世界制覇プラン。21世紀に入るとロシアがウラジミル・プーチンの元で再独立に成功、国力を回復させたのだが、それでもアメリカ支配層の内部にはボリス・エリツィン時代のイメージが残っていたようで、例えば、キール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文の中でロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるようになると主張している。

その論文が出た2年後の2008年にアメリカ支配層の幻想を打ち破る出来事があった。その年の7月10日にアメリカのコンドリーサ・ライス国務長官はジョージア(グルジア)を訪問、8月7日にミヘイル・サーカシビリ大統領は分離独立派に対して対話を訴えてから8時間後の深夜に南オセチアを奇襲攻撃したのだ。

ジョージアは2001年以降、イスラエルの軍事会社から無人飛行機、暗視装置、対航空機装置、砲弾、ロケット、電子システムなどを含む武器/兵器の提供を受け、軍事訓練も受けていた。2008年1月から4月にかけてはアメリカの傭兵会社MPRIとアメリカン・システムズが元特殊部隊員を派遣している。つまり、アメリカやイスラエルは周到に準備した上でジョージアに南オセチアを奇襲攻撃させたのだ。圧勝する予定だったのだろうが、ロシア軍に粉砕されてしまった。この時点でアメリカ軍やイスラエル軍はロシア軍に通常戦で勝てないことが明らかになったと言える。その後、力の差が開いたことはシリアでの戦闘が示唆している。

それでもアメリカ支配層の一部はロシアと中国を制圧しようとしている。アメリカ経済は半世紀近く前に破綻、その後は資金のコロガシ、投機市場の肥大化で誤魔化してきたのだが、その仕組みが揺らいでいることが大きい。ドルが基軸通貨の地位から陥落しそうだなのだ。投機市場が縮小しはじめたなら大変な勢いで西側支配層の富は消えていく。ロシアと中国が健在である限り、そうした展開になってしまうだろう。来年、アングロ・シオニストの支配者たちはギャンブルに出る可能性がある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712120000/


100. 中川隆[-5783] koaQ7Jey 2017年12月30日 08:25:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も
どうしん電子版(北海道新聞)12/30 05:00

 【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。

 振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。

 米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4〜8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。


101. 中川隆[-5731] koaQ7Jey 2018年1月01日 15:27:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2018年01月01日
日本の陸上イージス導入に反発するロシア


自分は極東軍備を大増強しておいて、日本の迎撃ミサイルは許せないと言うロシア
20170817120848106
引用:https://pbs.twimg.com/media/DSNGq83U8AE9amj.jpg

ロシアが陸上イージスに反発

日本が配備を決めた陸上イージスに対し、ロシアが嫌悪感を露にし、強い言葉で日本を批判している。

「INF=中距離核戦力廃棄条約にも反する」として軍事対抗措置を取ると示唆している。

一方でロシアは数年前から北方領土や千島列島・極東に、多数の対空対艦ミサイルや、巡航ミサイル、日本を標的とする弾道ミサイルを配備してきた。



空軍基地も増強し、ソ連時代に恒例としていた日本列島への爆撃機接近も復活させ、軍事的恫喝を強めている。

こうした行為を見ると、ロシアは陸上イージスと無関係に対日軍備を増強しているので、何ら影響を与えないでしょう。

仮に日本が陸上イージス配備を撤回するとしても、ロシアは北方領土や極東の軍備を削減しないし、日本に向けられている核ミサイルを撤去したりはしない。


つまりロシアの言い分というのは、自分が最初から日本刀を持っているのに、相手が果物ナイフを持つと「それは凶器だ、お前は挑発している」という論法です。

ロシアは最近北方領土問題で日本に接近し、日ロ友好を表明していたが、この友好関係は非常に奇妙なものだった。

日本はロシアが北方領土を開発するためにお金を払い、建設した資産は全てロシアの所有物になる。


日本は旧島民の墓参りをさせてもらったり観光旅行ができるようになるだけで、何も得られない。

替わりに日本は「北方領土がロシア固有の領土」だと認め、2度と領土問題を持ち出さない。

これが安倍首相とプーチンが今までに話し合った内容で、安倍首相はロシアのスパイではないかと思えます。

『他国からは奪い取れ』がロシアの国是

ロシアはウクライナ問題を巡って欧米や日本から経済制裁されていて、国内経済は非常に困窮しています。

制裁を打破するのにプーチンが目を付けたのが日本で、北方領土というエサをぶら下げたら、安倍首相は飛びつきました。

ロシアは領土を返す気などさらさらないのに、期待を持たせるようにして、日本から金を引き出そうとしました。


ロシアにとって金以上に重要だったのは、日本に「制裁破り」をさせることで、対ロ制裁を崩壊させることでした。

今から25年前に日本は同じようなケースで制裁破りを行い、中国を助けた事がありました。

1989年6月4日の天安門事件後、西側諸国は中国を経済制裁したが、いち早く抜けたのが日本で、それも天皇が率先して中国に出かけました。


1992年の中国訪問は天安門事件の制裁の最中に行われ、断るのが筋だったが、天皇は自ら進んで訪中し過去の戦争の謝罪まで行った。

これで西側陣営の結束は崩壊してしまい、制裁後に中国は共産主義独裁国家のまま、経済成長を始めました。

天皇は中国共産党による民主化弾圧に加担し、ウイグル人やチベット人らを地獄に叩き落した。


ロシアもこうして欲しい筈であり、日本が制裁離脱することで、西側陣営を切り崩したいのです。

ロシア人にとっては日本に利用価値を見出したから接近しているので、利用価値がなくなったら、出がらしのお茶と同じです。

ロシア人の有史以来の国是は『バカからは奪い取れ』というもので、外交上の友好関係という概念はありません。

盟友であるはずの中国や北朝鮮、東欧諸国に何をしてきたかを見れば、日露友好は有りえないのが分かります。
http://www.thutmosev.com/archives/74307501.html


102. 中川隆[-5730] koaQ7Jey 2018年1月01日 15:30:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年12月16日
謝罪天皇の害 謝罪に明け暮れた平成30年間の悪夢

天皇の「おことば」は日本の戦争犯罪を認め、外国の日本批判の根拠にされてしまっている。
引用:http://blog-imgs-79.fc2.com/2/0/0/2002mar/888dd1f4121eaa4ec16c3ea27b40ef7e.jpg

平成の悪夢

平成は31年3月末日で終わり、現天皇は退位するのが決まったが、紆余曲折やさまざまな経緯があった。

退位を望んだのは天皇自身で、政府は最初「生前の退位など認めない」という立場だったが、最後は天皇の希望が通った。

議論の中で「天皇の公務を減らして高齢でも務まるようにしよう」という意見があったが、これに天皇自身が猛反対したと言われている。



有識者として選ばれたある保守系有名言論人は「天皇は祈るだけで、何もしなくて良い」と発言し、天皇は激怒したとも言われている。

「自分の生き方を全否定する内容」に強い不満を感じたと、宮内庁関係者を通じて表明している。

現天皇は昭和天皇の後を受け継ぎ、象徴天皇として公務に全身全霊を捧げてきたという自負を持っている。


だが時として天皇自身の強い思いが空回りしたり、国の利害と食い違う事もあり、「平成」の約30年間を通じて矛盾が拡大した。

天皇が終戦の日や新年や、折に触れて表明する「おことば」は、度々日本政府の立場を潰してきた。

最近の例では平成27年8月14日の戦後70年談話、いわゆる『安倍談話』と翌日に天皇が表明した「おことば」の矛盾が挙げられる。

謝罪は公務ではない

平成27年8月14日の安倍談話では「村山談話」「河野談話」のような中国や韓国への直接の謝罪や、侵略戦争で日本批判の文言を盛り込まなかった。

「植民地支配から永遠に決別」「すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」「繰り返し痛切な反省と心からのおわび」などの言葉はあった。


戦後60年の「村山談話」は文章の大半が日本の侵略非難と、中国韓国への謝罪だったので、大きく転換したと言える。

もっとも村山談話より前の時代は、「戦後XX年」は戦争で被害に遭った「日本人を追悼する」日だったので、元に戻ってはいない。

村山総理は戦争被害に遭った日本人には一言も触れずに、ひたすら日本人を罵倒し、批判する談話を読み上げていました。


こういう経緯があって安倍談話が発表された翌日、平成27年8月15日に日本武道館における全国戦没者追悼式で、天皇の「おことば」が発表された。

「さきの大戦に対する深い反省と共に,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心からなる追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」という一節が含まれていました。

言葉は丁寧だが「日本が戦争を起こしたのを反省しなさい」「日本さえ存在しなければ戦争は起きなかった」という村山首相談話と同じような事です。


いつもこうであり日本の政治家や首相、要人が過去を反省する必要はないと言った後で、天皇が「いや日本人は永遠に謝罪しなさい」と否定してしまう。

終戦の日のたびにこうしたパターンが繰り返され、日本人は天皇によって恥をかかされるのが、毎年恒例になっている。

いくら真実を明らかにしても、翌日には天皇が「日本人は反省しなさい」などと言うので全てが水泡に帰してしまう。


昭和天皇は慎重に言葉を選んだが、現天皇は口が軽い
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引用:http://gazou.gundari.info/images-2ch-201401/20140702003201.jpg

日本国民を踏みつける天皇の「おことば」

「南京事件」は中華民国軍(台湾軍)が起こした事件であり、日本軍は南京市民を救済したのだが、「天皇は罪を認めて謝罪しているじゃないか」と反論されてしまう。

従軍慰安婦も親が金目当てで売り飛ばしたのだが、これも「天皇が戦争犯罪を認めて毎年謝罪している」のが動かぬ証拠にされてしまう。

現天皇の「おことば」は日本国民に迷惑でしょうがないので、少し黙っていて欲しい。


先代の昭和天皇はこうした言葉を決して使わず、慎重に言葉を選び、利用されないようにしていました。

平成になってから天皇が謝罪や反省を連発し始めたのを見れば、天皇自身の希望によって、こうした文言を加えていると推測できる。

現天皇の「謝罪好き」がはっきりと現れたのは平成4年つまり1992年10月の訪中で、日本中がどうして中国なんかに行くのかと驚いた。


中国は天安門事件で数千人の学生を装甲車で踏みつけて経済制裁されていて、しかも有りもしない南京事件を創作して対日批判を繰り返していた。

当時は官僚や河野洋平ら親中派の仕業と推測されていたが、今考えれば天皇は訪中を断る事もできた。

実際何度要請されても韓国訪問は断っているし、ロシアなど「行きたくない国」には頑として行かない。


また1998年(平成10年)には中国の江沢民主席を晩餐会に招き、軍服を着ていたので大騒動に発展した。

江沢民は晩餐会で日本の軍国主義を批判していたが、これも晩餐会など理由をつけて断っても良かった。

実際フィリピンのドゥテルテ大統領が来日したときは、理由をつけて(三笠宮殿下逝去)回避していて、別に強制ではない。


現天皇は実は中国好きで、習近平がお気に入りで2009年に皇居で謁見した時は話が弾んだという。

現天皇は昭和天皇に比べると、口が軽く責任感も希薄だと言わざるを得ない。

そして毎年毎年天皇が日本批判の「おことば」を言うために、国民は毎年恥をかかされている。
http://www.thutmosev.com/archives/74047805.html


103. 中川隆[-5736] koaQ7Jey 2018年1月07日 09:22:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

イギリスは19世紀に経済の破綻を略奪で埋め合わせようとして中国(清)へアヘンを密輸出、中国側が取り締まりを強化すると1840年に戦争を仕掛け、植民地化の第一歩を印した。その際、アメリカ人の中にも麻薬取引で大儲けした人たちがいる。アメリカは19世紀の終わりにフィリピンを植民地化して以来、中国での利権獲得を目指してきた。その長期戦略は今も生きているように見える。

アヘンの取り引きで大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン商会。その会社は1859年にふたりの人物を日本へ派遣している。ひとりは長崎に来たトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜にオフィスを開いたウィリアム・ケズウィック。

日本ではグラバーが有名だが、どちらが大物かというと後者。1862年に香港へ戻り、86年にはロンドンで会社の幹部になっている。彼の父親もジャーディン・マセソン商会の人間で、母方の祖母は同商会の共同創立者であるウィリアム・ジャーディンの姉にあたり、ケズウィック家は香港上海銀行と深くつながる。この銀行は麻薬取引の資金を扱っていたが、そうしたことからウィリアム・ケズウィックは青幇の杜月笙と親しくしていた。その縁で蒋介石とも関係がある。

1863年6月に長州は5名の若者、つまり井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)を横浜からロンドンへ送り出すが、渡航の手配をしたのはグラバーで、その際にジャーディン・マセソン商会の船が利用されている。

一方、アメリカがアジア侵略を本格化させるのは1898年。キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈した責任をスペインに押しつけて戦争を始め、勝利する。アメリカは「独立」という名目でスペインからキューバを奪い、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収、ハワイも支配下においた。フィリピンは中国を侵略する橋頭堡として位置づけられる。

その当時からアメリカを支配していたのは巨大資本。1923年に日本で関東大震災が起こると、復興資金の調達を頼ったアメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本の支配者になる。このJPモルガンの総帥だったジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日大使として1932年に来日した。戦後日本の進む方向を定めたジャパン・ロビーの中心人物もこのグルーだ。

この1932年に行われた大統領選挙でウォール街が担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北、ウォール街の大物たちは33年にクーデターを計画している。

しかし、この計画は海兵隊のスメドレー・バトラー少将が1934年にアメリカ下院の委員会で告発して発覚、少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチによると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と主張していたという。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801070000/



104. 中川隆[-5735] koaQ7Jey 2018年1月09日 10:11:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日米が東アジアでの軍事的な緊張を高めようとしているのに対し、韓国は破壊と殺戮の回避へ動く


東アジアで軍事的な緊張が高まることを望み、そうした状況を作り出しているのはアメリカであり、日本はその戦略に従っている。それに対し、韓国は戦争による破壊と殺戮を避けようとしているのだ。

アメリカの好戦派を代表するネオコンはソ連が1991年12月に消滅した直後、92年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成した。作業で中心的な役割を果たした人物が国防次官だったポール・ウォルフォウィッツだったことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。冷戦の終結は戦乱の幕開けを意味していた。

世界を冷戦へと導いたのはイギリスの首相だったウィンストン・チャーチルだ。ドイツが降伏した直後、チャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦は参謀本部が拒否したため、実行されていない。

チャーチルは7月26日に退陣、翌1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、冷戦の幕開けを告げた。​1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいた​という。

1947年にはアメリカの外交官、ジョージ・ケナンがフォーリン・アフェアーズ誌の7月号に匿名で論文「ソ連の行動の源泉」を発表し、ソ連は基本的に西側との共存を望んでいないと主張、警戒を呼びかけている。その年の5月にアメリカ議会はギリシャやトルコへ合計4億ドルの援助を与えることを決め、封じ込め政策が始まった。

ケナンが書いた草案に基づいてNSC(国家安全保障会議)は1948年にNSC10/2を作成し、それにベースにして心理戦や破壊活動を目的とする秘密機関OPC(政策調整局、当初の名称は特別プロジェクト局)を設置した。

1950年10月にOPCはCIAに吸収され、翌年1月にはアレン・ダレスがCIAの計画担当副長官に就任、同年8月には全体を統括する副長官になる。計画担当副長官の後任はOPC局長だったフランク・ウィズナー。

1952年8月にはOPCが中核になり、CIAの内部に計画局が設置された。1953年1月にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任すると2月にダレスはCIA長官に納まる。この政権で兄のジョン・フォスター・ダレスはすでに1月から国務長官に就任していた。1970年代に入ると秘密工作の一端が知られるようになり、1973年3月に計画局は名称を作戦局へ変更、2005年10月にはNCS(国家秘密局)に衣替えした。

封じ込め政策はハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が1904年に発表した理論に似ている。彼は世界を3つに分けて考えた。第1がヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、第2がイギリスや日本のような沖合諸島、そして第3が南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島。世界島の中心がハートランドで、ロシアを指している。

広大な領土、豊富な天然資源、そして多くの人口を抱えるロシアを制圧できれば世界の覇者になれると考え、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯と、その外側に想定する外部三日月地帯で締め上げようとしたのだ。日本は外部三日月地帯の一部と見なされた。

イギリスにとって日本は東アジア侵略の拠点であり、日本軍は彼らの手先ということ。だからこそイギリスは長州の後ろ盾になって明治維新を成功させ、日本の軍事力や生産力の向上に協力したと考えられる。この維新が民主主義を目指していなかったことは自由民権運動の弾圧を見ても明らか。

明治政府は1872年に琉球を併合、74年には台湾派兵、75年には江華島へ軍艦を派遣して朝鮮を挑発した。そこから日清戦争、日露戦争、そして中国侵略へと続く。本ブログでは何度も書いてきたが、日本がウォール街の影響下に入るのは関東大震災以降。戦前も戦後も日本はウォール街の属国だ。そのウォール街と対立関係にあったニューディール派がホワイトハウスの主になったのが1933年。それから1945年4月までそうした状況が続く。その期間を含め、日本とアメリカとの関係を考える上でのキーパーソンが駐日大使だったジョセフ・グルーだ。

植民地主義に反対したニューディール派のフランクリン・ルーズベルト、ソ連との平和共存を打ち出してベトナムからのアメリカ軍撤退を決めていたジョン・F・ケネディ、デタントへ舵を切ったリチャード・ニクソンといった大統領はいたが、全体の流れは侵略へ向かっている。ちなみにルーズベルトはドイツが降伏する前の月に急死、ケネディは暗殺され、ニクソンはスキャンダルで失脚した。

第2次大戦後、日本は軍事力を放棄したことになっているが、旧日本軍の軍人は朝鮮半島や台湾で活動していた。中でも1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した白団は有名。

多くの将校、下士官、兵士が蒋介石軍によって処刑される中、岡村寧次大将など一部の軍人は帰国してGHQ/SCAPに保護される。その岡村の下へ蒋介石は曹士徴を密使として派遣、岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して「台湾義勇軍」を編成することで合意している。富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになったことから義勇軍は白団と呼ばれるようになった。1951年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡る。

白団へ軍事情報を渡していたのは富士倶楽部、つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たち。服部はノモンハン事件で作戦指導を行った軍人で、アメリカとソ連との戦争は不可避だと考えていた。占領軍のG2(情報担当)部長だったチャールズ・ウィロビー少将から信頼されるようになる。

1949年に服部大佐は市ヶ谷駅の近くに史実研究所をつくり、その後、約20年間に白団へ6000点ほどの資料(森詠の『黒の機関』によると、軍事図書7000冊、資料5000点余り)を渡しているが、その中には自衛隊の教科書も含まれていた。なお、白団メンバーのうち23名が自衛隊へ入っている。この当時からアメリカ軍と旧日本軍/自衛隊は連携して動いているわけで、アメリカが東アジアで戦争を始めたならば、つまり中国を侵略したならば、自衛隊も参加することになるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801090001/

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105. 中川隆[-5850] koaQ7Jey 2018年1月25日 09:43:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
イギリスやアメリカで作成された世界制覇プランはウォルフォウィッツ・ドクトリンの前にも存在する。中でも重要なものが1904年に発表されたハルフォード・マッキンダーのハートランド理論。彼は世界を3つに分け、ひとつはヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、ふたつめはイギリスや日本のような沖合諸島、そして最後に南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島と名付けた。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。

また、ユーラシア大陸を囲むように、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯が、またその外側に外部三日月帯が想定されている。イギリスと日本は内部三日月帯の両端にある外部三日月帯とされている。イギリスが明治維新を支援した理由を考える場合、この戦略を無視することはできない。時期的にマッキンダーの理論は後から発表されているが、考え方としては存在していた可能性がある。イギリスにとって日本はアジア侵略の拠点であり、日本人は侵略の手先ということ。現在の中東に当てはめるならば、日本はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュに近い。

アメリカがアジア侵略の拠点にしたのはフィリピン。1898年にキューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈、アメリカはスペインが爆破したと主張して宣戦布告、スペインと戦争を始めた。

この戦争で勝利したアメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、プエルトリコ、グアム、フィリピンを買収することになる。つまりこうした国々を植民地化した。ハワイも支配下におく。

1901年に出版された『廿世紀之怪物 帝国主義』の中で幸徳秋水はアメリカの行為を帝国主義だと批判している。「米国にして真にキュバ叛徒の自由のために戦えるか、何ぞ比律賓人民の自由を束縛するの甚だしきや。」「それ他の人民の意思に反して、武力暴力をもって強圧し、その地を奪い富を掠めんとす。」

この記述は基本的に今でも通用する。アメリカは帝国主義の国であり、フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディは例外的な人物だった。現在のアメリカにこうした例外的人物が登場することは不可能に近いだろう。アメリカは「自由と民主主義の旗手」でなく、「民主主義の伝道師」でもない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801240002/


106. 中川隆[-5685] koaQ7Jey 2018年2月06日 21:19:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/


107. 中川隆[-5669] koaQ7Jey 2018年2月10日 10:44:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
朝鮮を利用して米国の世界制覇プランを隠蔽、侵略戦争も見て見ぬ振りの人々


朝鮮半島周辺の軍事的な緊張を高めている原因は朝鮮にあり、日本やアメリカはそうした行動に対応しているだけだと信じている人がいるようだ。朝鮮が原因ならば、軍事的な緊張にアメリカの戦略、例えばウォルフォウィッツ・ドクトリンは関係なく、中東やヨーロッパにおけるアメリカの行動と関連づけて考える必要もない。朝鮮は経済的にも軍事的にも強力とは言えず、戦争が勃発しても高みの見物、と思っている人も少なくないようだ。アメリカと中国が共同で朝鮮を「征伐する」というシナリオを描くことも可能だ。朝鮮に責任を押しつけておけば「お上」に睨まれないと思っている人もいるだろう。

しかし、東アジアの軍事的な緊張を高めているのはアメリカとその属国である日本。この両国にとって朝鮮はありがたい存在だ。

アメリカの東アジア侵略は1898年にスペインと行った戦争でフィリピンを手に入れたことから始まり、日本の場合は1872年の琉球併合。当時、明治政府、つまり薩長体制はイギリスを後ろ盾にしていた。

19世紀のイギリスは中国(清)との貿易赤字に悩み、アヘンの密輸出で問題を解決しようと目論み、その密輸を取り締まろうとする中国と戦争になる。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争だ。こうした戦争でイギリスは利権を手に入れる。明治維新以降、日本が東アジアを侵略することになった。

1904年にイギリスではハルフォード・マッキンダーがハートランド理論を発表する。彼は世界を3つに分け、ひとつはヨーロッパ、アジア、アフリカの「世界島」、ふたつめはイギリスや日本のような「沖合諸島」、そして最後に南北アメリカやオーストラリアのような「遠方諸島」と名付けた。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指している。

また、ユーラシア大陸を囲むように、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ「内部三日月帯」が、またその外側に「外部三日月帯」が想定されている。イギリスと日本は内部三日月帯の両端にある外部三日月帯とされている。この三日月帯でハートランド、つまりロシアを締め上げていこうというわけだ。日本が日清戦争に続いて日露戦争を引き起こすが、これはイギリスの戦略に合致している。ロシアは1917年11月の十月革命で社会主義を掲げるソ連になる。

日露戦争以降、日本は満州(中国東北部)支配に乗り出し、1931年9月には関東軍が奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破、これを張学良軍の犯行だと主張して満州制圧作戦を展開、32年に満州国をでっち上げた。アメリカもしばしば侵略に使う偽旗作戦だ。

この1932年にアメリカでは大統領選挙があり、日本に大きな影響力を持っていたウォール街が押すハーバート・フーバー大統領がニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れている。新大統領は植民地やファシズムに反対、日本との摩擦が激しくなる。

フーバーはホワイトハウスを去る直前、1932年にジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日した。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人々以上にグルーが親しくしていたと言われているのが松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

この岸は安倍晋三首相の祖父にあたる人物で、1930年代後半に中国東北部(満州)へ渡って満州国国務院実業部総務司長に就任した経験がある。その当時、関東軍参謀長の東条英機、満州国総務長官の星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右、日産コンツェルンの鮎川義介、そして岸は「2キ3スケ」と呼ばれていた。

1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こし、39年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。その後、日本は南進して米英の利権と衝突することになる。この時に使われた口実が大東亜共栄圏。現在、アメリカや日本は侵略の口実として民主化、人道、テロとの戦いなどが使われているが、手口は同じだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802100000/


108. 中川隆[-5643] koaQ7Jey 2018年2月12日 13:56:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2018.02.11
日本による朝鮮半島の植民地支配が持つ意味を軽く扱ったNBCコメンテイターの無神経な発言に批判


アメリカのネットワーク局​NBCのコメンテイター、ジョシュア・クーパー・ラモが平昌オリンピックの開幕セレモニーで行った日本と韓国/朝鮮との関係についてのコメント​へ批判が浴びせられている。日本について、1910年から45年にかけて朝鮮半島を支配したとした上で、文化的、技術的、経済的に自分たちが変化していく上で重要な見本だと全ての韓国/朝鮮人は考えているとコメントしたという。

日本の朝鮮支配がイギリスの世界戦略と深く結びついていることは本ブログでも再三再四書いてきた。明治維新で登場した薩長政府は1872年に琉球国を併合、74年に台湾へ派兵し、75年には軍艦「雲揚丸」を江華島へ派遣して李氏朝鮮を挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、94年から95年にかけて日清戦争、95年には王妃の閔妃を惨殺、そして大韓帝国(1897年に改称)を併合、朝鮮半島を植民地にしたわけだ。植民地時代に日本が行ったことを韓国/朝鮮人は忘れていないが、日本の政治家やマスコミからは無反省な主張が絶え間なく発信されてきた。それを少数意見だということはできず、韓国/朝鮮が日本を見本にしていると言える状況ではない。

アメリカの国外における侵略政策や国内の収容所化を進めるために偽報道を続けるアメリカの有力メディアのひとつであるNBCのコメンテイターならこうした無神経なことを口にしても不思議ではない気もするが、ラモはキッシンジャー・アソシエイツの共同CEO。中国に関する本を著している人物でもある。スターバックスやフェデラル・エクスプレスの重役でもあるらしい。善悪はともかく、国際情勢に関してそれなりの知識と判断力を持っているはずの立場にある。

アメリカと韓国との関係を悪化させる目的で確信犯的に行ったのではないとするなら、アメリカ支配層の知的レベルがかなり低下していることを示し、アメリカの落日を象徴するような発言だとも言えるだろう。安倍晋三が首相でいられる理由も理解できる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802110002/


109. 中川隆[-5649] koaQ7Jey 2018年2月15日 07:53:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮に対し、アメリカは「鼻血を流す」程度の先制攻撃を計画しているという話が流れている。核兵器を開発していることが攻撃を目論む理由だということになっているが、アメリカは核兵器を保有しているからといって攻撃することはない。そのうえ、アメリカにとって朝鮮は東アジアを不安定化する上で重要な国だ。ジャーナリストのF・ウィリアム・イングダールによると、CIAの幹部でエール大学時代からジョージ・H・W・ブッシュと親しかったジェームズ・R・リリーは、​もし朝鮮が存在しなかったなら、東アジアに第7艦隊を置いておくためにそうした国を作る必要があった​と彼に語ったという。


ところで、現在、核兵器を保有していると言われている国は9カ国ある。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、そして朝鮮。アメリカの情報機関で分析を担当していた人物によると、日本が核兵器を開発中だとCIAは確信している。核弾頭を保有している可能性も否定はできない。


第2次世界大戦、日本でも核兵器の開発が進められていたことが知られている。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究だ。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの2酸化ウランを手に入れて1944年には濃縮実験を始めたという。


1945年に入るとドイツは約540キログラムの2酸化ウランを潜水艦(U234)で運ぼうとしたが、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はアメリカのオーク・リッジ国立研究所へ運ばれたとされている。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)


戦後、1964年に中国が初めて核実験を実施すると、佐藤栄作政権は核武装への道を模索(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)、65年に佐藤首相がアメリカを訪問してリンドン・ジョンソン大統領と会談した際、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。(NHK「“核”を求めた日本」2010年10月3日)


CIAなどが核兵器開発の中心になっていると疑っていた「動力炉・核燃料開発事業団(現在は日本原子力研究開発機構)」が設立されたのは1967年のこと。1969年に日本政府は西ドイツ政府と核兵器に関して秘密裏に協議、この年に成立したリチャード・ニクソン政権で大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)


ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、東電福島第一原発で炉心がメルトダウンするという過酷事故を引き起こした2011年3月当時、日本には約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。そうした状況を生み出す大きな節目になったのが1987年のアメリカにおける予算。


1972年からアメリカではCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が進められていたのだが、77年に大統領となったジミー・カーターの政策で計画は中止になる。1981年から大統領を務めたロナルド・レーガンはこの計画を復活させるが、87年に議会は予算を打ち切ってしまう。


そこで登場してくるのが日本の電力会社。その際、日本側から核兵器に関する技術を要求、それは受け入れられた。中でも日本人が最も欲しがっていたサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関する技術も入手する。小型遠心抽出機など関連する機器は東海再処理工場のRETF(リサイクル機器試験施設)へ送られている。この施設では高速増殖炉の使用済み核燃料を再処理し、兵器級プルトニウムを取り出すことが可能。また日本から毎年何十人もの科学者たちがクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入っている。


ところで、1945年4月に急死したフランクリン・ルーズベルト大統領の後任として副大統領から昇格したハリー・トルーマンは中国に国民党政権を樹立するつもりだったが、大方の予想を裏切る形でコミュニストが勝利してしまう。1949年1月に解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京に入りし、5月には上海を支配下においた。


中華人民共和国が成立するのはその年の10月だが、そのときに天安門広場でコミュニストの幹部を一気に暗殺し、偽装帰順という形で各地に配置した軍隊に蜂起させて中国を制圧しようという計画があった。


この計画は失敗に終わるが、翌年の1950年3月にアメリカの破壊工作(テロ)部隊のOPCと国民党軍がビルマ(現在のミャンマー)の一部を占領、その年の6月に朝鮮戦争が勃発した。


実は、戦争勃発の3日前、アレン・ダレスの兄であるジョン・フォスター・ダレスが朝鮮半島から日本へわたり、吉田茂と会談した後にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの家で夕食会に参加している。日本側から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。


そして1950年10月にOPCはCIAに吸収され、51年1月にはアレン・ダレスが破壊活動担当の副長官としてCIAへ入る。1952年8月にOPCを中心に計画局が設置され、53年2月にダレスはCIA長官に就任した。その間、1951年4月にCIAの顧問団に率いられた国民党軍約2000名が中国へ軍事侵攻、一時は片馬(ケンマ)を占領した。翌年の8月にも国民党軍は中国に侵攻して国境から約100キロメートルほど進んだが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わった。その後もアメリカは中国支配を目論んでいる。


中国との関係修復に乗り出したリチャード・ニクソン大統領はスキャンダルで失脚、1980年代に中国は新自由主義を導入してアメリカ支配層の影響下に入ったと見られていたが、ネオコンの世界制覇プランを見てロシアへ接近、今では戦略的パートナーになった。アメリカは基軸通貨を発行する特権で支配システムを維持している国だが、その特権が中国とロシアによって揺さぶられている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802150000/


110. 中川隆[-5616] koaQ7Jey 2018年2月20日 15:41:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
太平洋戦争(大東亜戦争)と天皇、財閥、官僚
 

○統一司令部の喪失と天皇の統帥権 

大日本帝国憲法には天皇の統帥権が定められている。しかしそれが決定的になったのは日露戦争の頃である。それまでは陸軍参謀本部が海軍軍令部を統括する形だった(当時の世界ではそれが一般的)。ところが当時の海軍大臣の山本権兵衛は陸海対等を理由に戦時大本営条例の改定を要求し、統一指揮者を廃せよと主張した。その結果1903年には統一司令部が廃止される。

これにより政府が軍事に口を出すことはもとより、陸海軍の統一司令部による作戦立案もなくなる。これが軍部の独走を許したとの見方もあるが、逆に言えば陸海軍両司令部の報告(提言)を受けるのは天皇だけになり、専ら天皇(とその黒子たち)に権限が集中することになる。大本営は戦時にのみ設けられるが、1937年の日中戦争から設けられた大本営に軍側の統一司令部は存在しない。

開戦時の首相兼陸軍大臣であった東条英機が、海軍の真珠湾攻撃やミッドウェイ敗戦を知らなかった(少なくとも正式な報告は受けていなかった)のはその象徴である。

○財閥も戦争を望んでいた、

戦争は軍部による独走であるとの見方は誤っている。当時の三菱・三井・住友・安田の4大財閥は軍部に強力な影響力を有しており、かつ官僚にも強い影響力を持っていた。

太平洋戦争中の4年間に重工業において4大財閥は全国投資額に占める割合を18.0%から32.4%にふやし、金融では25.2%から49.7%へと急膨張を遂げている。
最近の資料によれば「日本の軍需工場を攻撃するな」がウォール街の共通認識だったという。彼等は日本の資本主義を段階を画して発達させ、収奪していくという狙いを持って戦争に臨んでいた。、

1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。

 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。これは、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」の日本の国策だった。これを主導した後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。

旧財閥だけではない。日産自動車、日本窒素、日本曹達などの戦後の有力企業は満州の利権を巡って急成長した企業群である。

戦後、財閥関係、財界人ではA級戦犯として12人が逮捕されたが、結局、全員免責された。

当時皇室は横浜正銀、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争が長引き、財界が植民地から搾り取るほどに皇室も豊かになるということになる。

○日中戦争の泥沼化と国家総動員体制の確立

1937年廬溝橋事件が勃発化し、日中戦争が本格化する。当時は国民党政府は時間を掛けずに降伏する、と見られていた。しかし、思いの外苦戦が続いた原因は、蒋介石とドイツの協定(ハプロ秘密協定)によりドイツが軍事顧問団を派遣し、武器供与と生産支援を行ったこと、及びコミンテルンの指令により国民党と統一戦線を組んだ中国共産党のゲリラ戦であった。ただし当時軍部は陸海軍とも対中国戦の拡大には否定的であり、一撃を加えて和平をという意見が支配的であった。しかし火を消すことに同意しなかったのが、当時の近衛首相(とマスコミ)である。

日中戦争の泥沼化に伴い、日本では「国家総動員体制」が構築される。内務省企画院を頂点に軍需産業、重工業、資源産業に予算等を重点配備し、物資を円滑に調達し戦争を遂行する体制を築き上げるというものである。これは石原莞爾らが、「軍事衝突回避」を前提にした「国力増強計画」である「重要産業五年計画」を、日中全面戦争の長期持久戦の泥沼化により、「抜本的な変更」を加えたものである。また総動員体制には株主(旧地主や貴族)の権利を制限し、労働者を保護する要素もあった。この計画の実施により1937年〜1940年にかけて、革新官僚始め満州国から優秀な人材が、「企画院」に次々に引き抜かれていった。また転向した共産主義者も企画院(調査室)に引き抜かれた。

1940年日銀法が改正され、総戦力遂行のための金融体制が完成した。

総動員体制においては、株主の権利は制限されたため、株式市場は低迷し、銀行による間接金融が重要となった。各都銀はオーバーローンとなって日銀に依存する体質となり、企業は銀行借り入れに依存する体質となった。資金配分面での統制とともに、金融機関の整理統合も進められた。1935年に466行あった普通銀行は、1945年には61行に整理された。

○総動員体制と近衛

当時の首相であった近衛家(近衛文麿)は藤原家の流れで五摂家の筆頭でもあり、当時天皇の前で唯一、足を組むことを許されたと言われている。

彼は東大哲学科を卒業し、後に京都大学でマルクス主義者の河上肇に薫陶を受け、長男をスターリンの元に留学させている。彼の諮問機関が「昭和研究会」であり、そこには三木清やスパイであった朝日の尾碕秀美なども名を連ねている。

ここで近衛が共産主義者であったかどうかが問題なのではない。当時のインテリの多くがマルクス主義に傾倒する中では、国家総動員態勢は社会主義者と右の国家社会主義者を糾合する国論統一の手段となった。また大恐慌で殆どその影響を受けなかったソ連の計画経済は、革新官僚にとっても、最も研究すべき対象であった。同時に自らの権限を拡大するものであった。

さらに財閥にとっても国家と一体化することは自らの立場を更に強化することになる(国家独占資本主義)。

戦後財閥は名目上は解体されたが、グループとして実質上温存され大蔵(旧内務省)と銀行・商社を頂点とする「護送船団体制」はほぼ維持された。戦後の高度成長期の(唯一成功した共産主義とも呼ばれた)この体制が、戦時に起点を持つことは興味深い。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=333590


111. 中川隆[-5465] koaQ7Jey 2018年3月15日 08:20:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

論評:無分別な属国の妄動(朝鮮中央通信−ネナラ)[2018-03-13]
http://www.naenara.com.kp/ja/news/?0+101140


日本が宗主である米国を後ろ盾にして対朝鮮圧殺騒動に無分別にのさばっている。

去る2月、米国が対朝鮮「単独制裁」を発表するやいなや、日本の反動層が支持だの、船舶監視だの、何のと言いながら無謀に振る舞っているのがその端的な実例である。

島国一族の狂気は、わが船舶を監視するために米国もそこまでは思えなかった関連国際会議の招集まで唱えていることによって極に達している。

政治・経済・軍事分野における深刻な対米依存性、隷属性によって世界の嘲笑を買っている日本が、差し出がましくわれわれをどうにかしてみようと先頭に立ってのさばることこそ、へそで茶を沸かすということわざ同様だと言わざるを得ない。

一言で言って、属国の運命をもって生まれた卑陋(ひろう)な者らの笑止千万な妄動以外の何物でもない。

日本の過去は、列強に寄生してその中で自分の利益をむさぼろうとしたが、かえって完全に滅びた日々であったと言っても過言ではない。

19世紀の中葉、米国に運命を委託することにして不平等条約の締結もいとわなかったし、続けて他の西側列強にもこびへつらって国全体を西側商品の販売市場に、安価原料の供給地に転落させることによって国の経済を塗炭に陥れた日本である。

自分らを政治的、経済的に隷属させた帝国の黙認の下に海外膨張の道に乗り出して世界の反撃にぶつかって戦敗国、戦犯国の帽子だけをかぶった。

そのような日本が恥ずべき歴史から教訓をくみ取る代わりに、またもや宗主国の奴僕になって犬のように振る舞っているのだから、生まれつきの属国の運命はどうしようもない。

日本が羞恥を冒してのさばっている目的は、「大東亜共栄圏」の昔の夢をなんとしても実現してみようとするところにある。

日本は、妄想している。

わが朝鮮は、日帝の軍靴の下に踏みにじられていた過去の弱小国ではない。

その反面、サムライの後えいは自分らが崇める米国から政治的排斥とのけ者扱い、経済的収奪を受けるなど、その蔑視と虐待は数え切れないほどである。

このような状況の下で、われわれをどうにかしてみようとすることこそ、腐り縄に馬をつなぐということわざ同様の愚行だと言わざるを得ない。

2013年に日本のある政治学者は自分の「永続敗戦論」で、日本が「敗戦の否認」と「対米従属」という二つの要素から脱することができなければ永遠に敗戦状態にあるようになるだろうと主張したことがある。

日本が恥ずべき歴史を忘却し、特には世界政治構図の変化さえ感得できないまま無謀に軽挙妄動していれば、払うべき罪の代価ばかりさらに大きくなるだろう。


112. 中川隆[-5466] koaQ7Jey 2018年3月15日 15:56:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017年11月16日
斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文) 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」。二・二六事件日米開戦と天皇とイルミナティの戦争責任。
http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0


昭和天皇に戦争責任はありますよね

2.26事件の時、天皇陛下が激怒して軍に鎮圧命令を出した事は
ただのお飾りではなく統帥権があったということではないか

それならば日米開戦の責任もある
し、敗戦の責任もあるな

来日中のトランプ米大統領が日本に向かう途中のハワイで3日、大統領のツイッターのアカウントで「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と投稿した。1941年に旧日本軍の奇襲で始まった太平洋戦争で、米国が唱えた合言葉だ。

北朝鮮のミサイルがハワイに向くことを踏まえて76年前の「奇襲」を北朝鮮情勢に読み替え、注意喚起する意図があったとの見方もあるという。

特別編 『昭和天皇独白録』 にみる 日米開戦の責任者たち
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS05c.html

講義のポイント

アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了

昭和天皇裕仁は、明確に戦争責任があるのに、その責任を逃れて平然としていた愚劣な「人間のクズ」です
戦前の礼装をまとった昭和天皇裕仁(ひろひと)。 彼は一旦戦争が始まると、結構好戦的で、かつ優柔不断だったようです。それも一因となり、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)は早期終結の機会を逸しました。
結果、日本人で310万人、海外も含めれば、1000万人以上の兵士と一般市民が死に追いやられました。
彼が平和主義者であったというのは、後年の巧みな演出、作り話です。
敗戦直後、日本各地を視察する昭和天皇裕仁。決して謝罪して回ったわけではありません。
晩年の昭和天皇裕仁。 意図してか、「あっそう」としか発声しない、脳天気なボケ爺さんぶりを発揮。
八月はどうしても、戦争と昭和天皇裕仁(ひろひと)について考えさせられます。

先の大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)について、憲法上(形式的面はあったにせよ)最高責任者の地位にあったにもかかわらず、同氏は何の痛痒も感じていなかったようです(例えば: http://ameblo.jp/hirai-h/entry-11323724860.html )。 大正天皇のように知的障害があったのならともかく、彼にそうした病歴はありません。

終戦後、占領政策上 天皇を生かして利用する方が得策との米国政府の判断をいいことに、裕仁は政治的責任はおろか道義的責任すらとらず、さらに説明責任さえ果たさず、平然とのうのうと生き延びました。唾棄すべき無責任男、「人間のクズ」です。       
極東国際軍事裁判(東京裁判)の結果、東條英機はじめ政治家・軍人7名が絞首刑となりましたが、最も処刑されるべきは裕仁であるはずでした。ところが実際は上述のように米国の都合で不起訴となり命拾いしたのです。
(こうした一連のことが、日本社会の無責任体質を助長する一因になったと言えます。)

実は、この男の評価をめぐっては、小学5年生の時、クラス担任の中年男性教師と大論争しました。 その教師が天皇を敬愛していたからなのか、世間の菊タブーを恐れての忠告だったのか、いずれにせよ天皇や皇室についての批評はやめろという指導でした。
     
しかしその指導にだけは、今も決して従うつもりはありません。
※ なお。昭和天皇裕仁については、月刊誌「文藝春秋」に、評論家で慶應大学教授の福田和也が連載記事を書いています(これまで85回)。 私とは全く主張が異なりますが、そちらもぜひ参照されるとことをお薦めします。(10月号からは「文藝春秋」のWeb版での連載になるようです。
             
コピーライトマーク 2012 HIRAI HIROAKI
二・二六事件
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。
この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校・旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉・中尉・少尉達)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」[3]とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件[4]とも書かれる。
森友問題の原点 安倍・松井・籠池を結びつけた団体の正体
森友学園事件と二・二六事件

 報道によれば、今月一〇日、学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長が、豊中市内の塚本幼稚園で記者会見をおこない、大阪府に対して「瑞穂の国記念小学院」の認可申請を取り下げたことなどを明らかにしたという。
 ほぼ、「完全撤退」と言える。これを聞いた関係の役人は、さぞかし、安堵の胸をなでおろしたことであろう。
 ところで、インターネット上の「The Huffington Post」(三月一〇日二〇時四七分更新、吉野太一郎さん執筆)によれば、この会見の中で、籠池泰典理事長は、次のような歴史観を示したという。

○先の大戦前の二・二六事件の将校のことを思いました。ああ、国家のために殉ずる気持ちで頑張ってきた人たちが、指導部に抹殺された。
○勝者にはいい印象、敗者には悪い印象が与えられます。ただ一〇〇年たてばひっくり返ることがあろうかと思います。

 ここで、籠池理事長は、みずからを「二・二六事件の将校」に擬している。すなわち、国家のためを思ってとった行動が、はからずも国家の「指導部」によってとがめられ、ついに抹殺されることになった存在として、みずからを捉えたのである。
 では、籠池理事長は、みずからの抹殺を指示した「指導部」として、いったい、「誰」を想定していたのだろうか。
 二・二六事件の際、叛乱軍の討伐を命じたのは昭和天皇であり、その決意を支えたのは、木戸幸一内大臣秘書官長、湯浅倉平〈クラヘイ〉宮内大臣、広幡忠隆侍従次長という三人による協議だったという(斎藤実内大臣は死亡)。端的に言えば、昭和天皇と、木戸内大臣秘書官長、湯浅宮内大臣、広幡侍従次長、このメンバーが、叛乱軍の討伐を決定した「指導部」であった。
 このとき、天皇の周辺にいた、本庄繁侍従官長、伏見宮博恭〈ヒロヤス〉軍令部総長、香椎浩平戒厳司令官は、いずれも皇道派の軍人であったが、天皇の決意を変えることはできなかった。
 さて、今回、籠池理事長の抹殺を決意し、実行した「指導部」は、誰だったのだろうか。常識的に考えれば、安倍晋三首相ということになるだろう。
 しかし、安倍首相は、もともとは籠池理事長のシンパだったとされる。その夫人は、一時、「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長の地位にあった。安倍首相の役回りは、二・二六事件でいえば、「黒幕」と目されながらも、最後は、青年将校らを見捨てた真崎甚三郎大将に近い。籠池理事長抹殺の司令塔は、やはり、安倍首相とは別のところに存在したと見るべきだろう。
 もちろん、「真相」はわからない。だからこそ、会見の場にいた記者には、聞いてほしかったと思う。「あなたを抹殺した指導部として、あなたは、いったい、誰を想定していますか」と。
「二・二六事件」 日本を震撼させた日を写真で振り返る
1936年2月26日早朝、陸軍の青年将校に率いられた約1500人の反乱部隊が決起して首相官邸などを襲撃した。日本列島を震撼させたクーデター未遂事件の模様を写真で振り返った。
第二次世界大戦資料館
「ソ連との問題は極力重大化させないように努めたいと考えます。かかる難題は、様々に形を変えて連日引き起こされているようですが、多くは丸く収まるでしょう。我々の明日の事業達成を阻むただ一つの障害、それは今日の我々の疑心暗鬼です。」=フランクリン・ルーズヴェルト(「チャーチル宛の手紙」より、ポーランド問題について=
オラドゥールの虐殺(1944年6月10日)

破壊された村
写真はwikipediaより転載。
 1944年6月10日に、ドイツ占領下のフランス・リムーザン地方リモージュ市の北西約20kmにあるオラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-grane)村で、ナチス武装親衛隊によって起こされた村民虐殺事件。 1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦の進行に連動する形で、フランス・レジスタンスのドイツ軍に対する妨害活動が盛んになっていた。その中で、参謀本部からノルマンディーへの移動を命じられた武装親衛隊第2装甲師団「ダス・ライヒ」は、この妨害活動に悩まされていた。
 6月10日早朝に、ドイツ人高級将校がオラドゥール村のレジスタンス組織(マキ)にとらえられたようであり、またオラドゥール村の住民のほぼ全てがマキに関係しているというフランス人の密告を受けた。
 SS少佐オットー・ディークマンに率いられた第1連隊「デア・フューラー(総統)」第1大隊120名は、同日オラドゥール村を包囲し、身分証の確認という口実で村民を村中心部の広場に集めた。例外を除いて全ての村人642人は数カ所に分けられ、無惨にも殺害された。虐殺の生存者は、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団を除き、6名のみであった。殺害の後は、徹底的に村の建物を破壊した。
 戦後、シャルル・ド・ゴールフランス大統領は、ナチス占領の残虐さを後世に残すため、オラドゥール村を再建せず、廃墟のまま保存することを決めた。
 ちなみに、オラドゥールの虐殺には第二次世界大戦にドイツに併合されていたフランスのアルザス地方出身の兵(アレマン人)も含まれていた。この兵士たちは1953年に軍事裁判にかけられたが、紆余曲折をへて2月19日、フランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされ、即座に釈放された。

第二次世界大戦とは?
(2002.10.29作成)
(2003.07.06手直)
(2006.05.06手直)
(2008.03.01追加)
〜とりあえず、思いついたことを書きます、随時必要に応じて手直していく予定です〜
 第二次世界大戦とは、文字通り全世界を巻き込んだ大戦争で、期間的に言えば、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に対し、同年9月3日に英仏が対独宣戦布告をした日から、ヨーロッパでは、1945年5月8日のドイツ降伏文書発効、アジアでは1945年9月2日の降伏文書調印(即日発効)(戦闘については、1945年8月15日のポツダム宣言を受諾する旨の昭和天皇の国民向けラジオ放送(いわゆる玉音放送)でほぼ終了(ちなみに連合国への受諾回答は前日8月14日)。)までを指します。
 この大戦では世界の49カ国が戦闘に参加、合わせて動員兵力 1億1000万人という未曾有の規模でありました。
 いままでの戦争とはいろいろな点で大きく違い、大きく分けて、

1.戦闘員より、非戦闘員(民間人)の死者が同等または多かったこと。(ある推計では軍人戦死者2700万人、民間人死者2500万人)
2.原子爆弾という究極の大量破壊兵器を生み出したこと。
3.総力戦であり、一方の国が徹底的に破壊されない限り戦争が終結しなかったこと。
4.第一次世界大戦のような経済的利害の衝突だけではなく、第二次世界大戦は、民族、イデオロギーの衝突でもあり、これが民族迫害という悲劇をもたらしたこと。

などが上げられます。
特に、1.について詳細に言えば、死者数だけを見れば、総数は5000万人から6000万人にのぼり、主なものだけをピックアップして見ても、目を覆うばかりです。

ソ連人 1000万人〜2000万人
中国人 注) 1000万人以上
ユダヤ人 600万人
ポーランド人 500〜600万人
ドイツ人 450万人
日本人
(1937年7月からの数) 310万人
アメリカ人 30万人
イギリス連邦 60万人
フィリピン 110万人
インドシナ 200万人
インドネシア 200万人
注)この戦死者は、政治的な思惑から毎年ごとに大幅な上方修正がなされ、また中共内戦の被害者も含まれる可能性が高いので、実際の正確な数字は不明である。

 また、重要なことはこの第二次世界大戦は、ヒトラーという誇大妄想にとりつかれた野心家が一人で引き起こしたまさしく「我が闘争」であったことです。
(文責 館長)

(参考)日米開戦時の日米国力比較

●新庄大佐による1941(昭和16)年の日米国力分析結果
物  品 アメリカ 日米比率
鉄鋼生産量 9,500万トン 1:24
石油精製量 1億1,000万バレル 1:80
石炭生産量 5億トン 1:12
電力 1,800万キロワット 1:4.5
アルミ生産量 85万トン 1:8
航空機生産機数 12万機 1:8
自動車生産台数 620万台 1:50
船舶保有数 1,000万トン 1:1.5
工場労働者数 3,400万人 1:5 出典:開戦通告はなぜ遅れたか:斉藤充功、新潮新書

●石油関連数値日米比較(1941(昭和16)年)
日本 米国 日米比率
原油生産量(万バレル/日) 0.52 383.6 1:738
人造石油生産量(万バレル/日) 0.33 - -
石油精製能力(万バレル/日) 9.04 465.8 1:52
原油処理量(万バレル/日) 4.93 389 1:79
液体燃料在庫量(万バレル/年) 4,300 3億3,500 1:7.8
精油所1日1人当精製量(バレル) 4 53 1:13 出典:米国戦略爆撃調査団石油報告
さいとう‐たかお〔‐たかを〕【斎藤隆夫】

[1870〜1949]政治家。兵庫の生まれ。憲政会・民政党に所属。二・二六事件直後の粛軍演説などで軍を批判、昭和15年(1940)議会から除名された。第二次大戦後は進歩党の結成に参加、第一次吉田・片山両内閣で国務相。
斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文)
斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/hangun_2.html

いわゆる「斎藤隆夫の反軍演説」


※斎藤隆夫の「反軍演説」を下記のサイトより、再録させて頂いた。これは、私のための検索の便である。
http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s01/
※引用元は上記である。
※このサイトは、貴重な一次資料を丹念に収集・整理した、きわめて優れたサイトである。
※以下、サイト本文である。


はじめに

国会図書館のウェブサイトで、1940-02-02(昭和15年)に行われた、「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)が、公開されています。

4-10 反軍演説 | 史料にみる日本の近代
インターネット上には、いわゆる「反軍演説」のテキストがいくつかアップロードされていますが、ここでは独自に上のページの画像から文字起こしをしてみました。ですので、他のウェブサイトと記述が異なる箇所があります。「云ふ」を「云う」に書き換える、段落を独自に増やしたり箇条書きを導入するなどして文を読みやすくする、などなど手を加えた箇所があります。

なお、『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』では、「支那事変処理を中心とした質問演説」とのタイトルが付けられていますが、衆議院議事速記録の表記の方を採用しました。また、同書掲載文では強調線と強調点が記されていますが、同様に採用していません。

1940年(昭和15年)2月2日

国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑

第01段落
支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢は益々重大を加えて居るのであります、此の秋に当りまして一月十四日、而も議会開会後に於きまして阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めて此の議会に臨まるることに相成ったのであります、総理大臣を首めとして、閣僚諸君の御苦心を十分に御察しすると共に、国家の為に切に御健在を祈る者であります。

第02段落

米内首相は組閣匆々天下に向って、現内閣の政策を発表せられたのでありまして、吾々は新聞紙を通じて、之を承知致して居るのであります、併し其の政策と称するものは、唯僅に題目を並べたに過ぎないのでありまして、諸般の政策は此の帝国議会に於て陳述すると附加えてあります、それ故に昨日の御演説を拝聴致したのでありまするが、相変らず抽象的の大要に過ぎないのでありまして、之に依って、国政に対する現内閣の抱負経綸を知ることは勿論出来ない、併しながら私は今日此の場合に於て、是等の問題、即ち

第一は支那事変の処理、
第二は国際問題、
第三は国内問題、

是等の三問題全部を通じて質問を致す時間の持合せもありませぬから、此の中の中心問題でありまする所の支那事変の処理、之に付て私の卑見を述べつつ、主として総理大臣の御意見を求めて見たいのであります。

支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります、今日我国の政治問題として是以上重大なる所の問題はない、のみならず今日の内外政治は何れも支那事変を中心として、此の周囲に動いて居るのである、それ故に吾々は申すに及ばず、全国民の聴かんとする所も固より茲にあるのであります、

一体支那事変はどうなるものであるか、
何時済むのであるか、
何時まで続くものであるか、
政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、

国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らくー人もないであろうと思う、曩に近衛内閣は事変を起しながら其の結末を見ずして退却をした、平沼内閣は御承知の通りである、阿部内閣に至って初めて事変処理の為に邁進するとは声明したものの、国民の前には事変処理の片鱗をも示さずして総辞職してしまった、現内閣に至って初めて此の問題をこの議会を通して国民の前に曝け出す所の機会に到来したのであります、

是に於て私は総理大臣に向って極めて率直に御尋をするのである、支那事変を処理すると言わるるのであるが、

其の処理せらるる範囲は如何なるものであるか、
其の内容は如何なるものであるか、
私が聴かんとする所は茲に在るのであります、

私の見る所を直言致しまするならば、元来今回の事変に付きましては、当初支那側は申すに及ばず、我が日本に於きましても確に見込違いがあったに相違ないのであります、即ち我国より見まするならば、其の初めは所謂現地解決、事変不拡大の方針を立てられたのでありまするが、其の方針は支那側の挑戦行為に依って立どころに裏切られ、其後事変は日に月に拡大し、躍進に躍進を重ねて遂に今日の現状を見るに至ったのであります、支那側の見込違い、是は言うを要しないのであります、

此処にご参考の為に引用すべき文書があります、是は昨年十二月十三日、内閣情報部より発行せられたる所の週報でありまするが、此の中に「支那事変を解決するもの」と題して支那派遣軍総司令部報道部長の名を以て一の論文が掲載せられて居るのである、此の中に如何なることが現われて居るかと見ると、

「 抑々此の戦争は、支那人、殊に蒋介石の日本に対する認識不足と、其の日本の実力誤算から出発し、又日本の支那に対する研究不足と認識不足とに依って始められ、又深められて来た」
云々と記載されてある、即ち此の度の事変は支那が日本に対する所の認識不足、又日本が支那に対する所の認識不足、此の二つの原因に依って始められ、又是が深められたものに相違ない、

併しながら翻って考えて見ますると、仮令此の認識不足なしと雖も、日支両国の間に於きましては早晩一大事変か起こらざるを得ない其の禍根が、何れの所にか隠れて居った、其の機運が熟して居った、それが彼の北支の一角蘆溝橋に於ける支那側の不法射撃、此の事実に触れて外部に爆発したに過ぎないのでありまして、是は仕方がない、所謂運命であります、両国間に蟠る所の運命でありますから、是は仕方がない、

併しながらその後事変は益々進展して、彼我の勢力並に勝敗の決も明になりました以上は、成べく速に此の事変を収拾する、そうして出来るならば再び斯の如き事変が起らないように、日支両国の間に横わる一切の禍根を斐除して、以て和平克復を促進することは独り日本の政治家の責任であるのみならず、実に支那の政治家の責任であると私は思うのであります、

唯問題はどうして是等の禍根を取除くことが出来るか、どうしたならば将来の安全を保障することが出来るか、吾々は支那の立場を考うるとともに、主として日本の立場を考えねばならぬのである、

そこで先づ第一に吾々が支那事変の処理を考うるに当りましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります、それは何であるか、外の事ではない、此の事変を遂行するに当りまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたる所の絶大なる犠牲であるのてあります、即ち此の間に於きまして我が国民が払いたる所の犠牲、即ち遠くは海を越えて彼の地に転戦する所の百万二百万の将兵諸士を初めとして、近くは之を後援する所の国民が払いたる生命、自由、財産其の他一切の犠牲は、此の壇上におきまして如何なる人の口舌を以てするも、其の万分の一をも尽すことは出来ないのであります。

(拍手)

而も是等の犠牲は今日を以て終りを告げるのではない、将来久しきに亘る、今後幾年に亘るかということは、今日何人と雖も予言することが出来ない状態にあるのであります、実に此の度の事変は、名は事変と称するけれども、其の実は戦争である、而も建国以来未だ曾て経験せざる所の大戦争であります、随て其の犠牲の大なると共に、其の戦果に至っても亦実に驚くべきものがある、昨日も此の議場に於て陸軍大臣の御話がありました通り、今日の現状を以て見まするならば、我軍の占領地域は実に日本全土の二倍以上に跨って居るのであります、而して是等の占領は如何にして為されたものであるか、何れも忠勇義烈なる我が皇軍死闘の結果である、即ち是が為には、十万の将兵は戦場に屍を埋めて居るでありましょう、之に幾倍する数十万の将兵は、悼ましく戦傷に苦しんで居るでありましょう、百万の皇軍は今なお戦場に留まって、有ゆる苦難と闘って居るに相違ない、斯くして得られたる所の此の戦果、斯くして現われたる所の此の事実、之を眼中に置かずしては、何人と雖も事変処理を論ずる資格はない。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

諸君も御承知の如く、我国は曾て四十余年前に支那と戦った、三十余年前に露西亜と戦った、是等の戦は何れも国運を賭したる戦いであったに相違はございませぬが、今回の戦と比べまするならば、其の規模の大なること、其の犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない、然るに是等の戦は、如何なる条件を以て、和平克復を見るに至ったかと云うことは、歴史が之を明記して居りまするから、茲に述べる必要はない、

それ故に之を過去の歴史に鑑み、又之を東亜における大日本帝国の将来に鑑み、之を基礎として、以て事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及ばず、日本全国民は断じて之を承知するものではない。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

政府に於て其の用意があるかないか、私が問わんとする所は茲にあるのであります、米内首相は事変処理に付ては、既に確乎不動の方針が定められて居る、斯く声明せられて居るのでありまするが、其の方針とは何であるか、所謂近衛声明なるものであるに相違ない、即ち一昨年十二月二十二日に発表せられた所の近衛声明、是が事変処理に関する不動の方針であることは、申すまでもないことであります、

所が私は元来此の近衛声明なるものに向っては、聊か疑いを抱いて居るのであります、此の際誤解を防ぐが為に御断りをしておきます、きっぱりと御断りをして置きまするが、私は今俄に近衛声明に反対をする者ではない、さりとて賛成をする者でもない、賛成をするか反対をするかは、政府の説明を聴いて、然る後に於て考える積りであります。

(拍手)

今日は質問であります、質問は読んで字のごとく疑いを質すのである、それ故に此の考えをもってご聴取を願いたいのであります、近衛声明の中にはどう云うことが含まれて居るかと言いますると、大体五つの事柄が示されて居るのであります、

其の一つは支那の独立主権を尊重すると云うことである、
第二は領土を要求しない、償金を要求しないということである、
第三は経済関係に付ては、日本は経済上の独占をやらないと云うことである、
第四は支那に於ける第三国の権益に付ては、之を制限せよと云う如きことを支那政府には要求しない、
第五は防共地域である所の内蒙附近を取除く其の他の地域より、日本軍を撤兵すると云うことであります、

此の五つが近衛声明に含まれて居る所の要項である、而して此の声明はただ日本のみに対する声明でなければ、又支那のみに対する声明でもない、実に全世界に対する所の声明でありまするから、如何なることがあっても之を変更することが出来るものではない、絶対に是は変更を許さないのである、

若し苟且にも之を変更するが如きことがありますならば、我国の国際的信用は全く地に墜ちてしまうのであります、唯そればかりではない、ご承知の如く彼の汪兆銘氏、同氏は此の近衛声明に呼応して立ち上ったのである、即ち此の近衛声明を本として、和平救国の旗を押し立てて、新政権の樹立に向って進んで来て居るのである、其の後同氏は屡々声明書を発表して居りまするが、此の声明書を見ますると、徹頭徹尾近衛声明を文字通り、額面通りに解釈をして居るのである、即ち同氏が屡々発表しました所の声明書、此の声明書に現われて居る所の文句を、其の儘取って来て総合しますると、こういうことになるのであります、

近衛声明の如くであったならば支那に取っては別に不利益はない、日本は此の声明によって全く侵略主義を放棄したのである、日本は是まで侵略主義を執って居ったが、近衛声明に依って侵略主義を放棄したのであると言うて居る、日本が侵略主義を放棄したと云うことは、即ち軍事上に於ては征服を図らず、経済に於ては独占を考えないと云うことである、

斯くの如く日本が戦争中に於て反省したる以上は、中国も亦深く自ら反省する所があって、一日も速に和平を実現せねばならぬ、

而して斯くの如き和平は絶対に平等の立場に於て結ばねばならぬ、戦勝者が戦敗者に対する態度はー切放棄すべきである、随って和平条件は決して支那国家の独立自由を害するものではないから、何人と雖も和平の実現を拒むことは出来ない、

声明書に現われて居りまする所の文句を其の儘取って来て総合すると、斯くの如きものになるのである、そうして此の声明を発表して爾来一年有余の間、和平運動の為に進んで来て居るのであります、それですから御承知の通り支那民衆、蒋介石一派よりは実に言うに堪えざる所の攻撃を受け迫害せられ、身を挺して和平運動の為に進軍して来て居るのであります、

それ故に同氏の立場から見れば、徹頭徹尾此の声明をば裏切ることは出来ない、若しこれを裏切るか如きことかありましたならば、和平運動、延いては新政権の樹立は根本から崩壊せられてしまうのである、

是に於て私は政府に向って御尋ねをするのである、支那事変処理の範囲と内容は如何なるものであるか、重ねて申しまするが、

支那の独立主権は完全に尊重する、
支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向っては苟且にも干渉がましきことは出来ない、若し干渉がましきことを為したならば、支那の独立主権は立ちどころに侵害せられるのである、

領土は取らない、償金はとらない、
支那事変の為にどれだけ日本の国費を費やしたかと云うことは私は能く分りませぬ、併しながら唯軍費として吾々が此の議会において協賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍費を合算致しますると約百七十億円、是から先どれだけの額に上るかは分らない、二百億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分らない、それ等の軍費に付ては一厘一毛と雖も支那から取ることは出来ない、悉く日本国民の負担となる、日本国民の将来を苦しめるに相違ない、

また経済開発に付ては、決して日本のみが独占をしない、
支那の経済開発と云うことが叫ばれて居りまするが、是も日本だけが独占をすべきものではない、

第三国権益を制限するが如きことは支那政府に向っては要求しない、
是まで我国の政治家は国民の前に何と叫んで居ったか、此の度の支那事変は、支那より欧米列国の勢力を駆逐する、欧米列国の植民地状態、第三国から搾取せられて居る所の支那を解放して、之を支那人の手に戻すのであると叫んで居ったのでありますが、是は近衛声明とは全然矛盾する所の一場の空言であったと云うことに相成るのであります、

其の他占領地域より日本軍全部を撤兵すると云うのである、
残る所に何があるか、それが私には分らないのであります、殊に日本軍の撤兵に付いては、汪兆銘氏が如何なることを言うて居るかと云うと、第一次声明の中に斯う云うことが現われている、

近衛声明において特別重要なる点は日本軍の支那からの撤兵である、そうして其の撤兵は全部が急速に且つ有ゆる方面に於て一斉に行われねばならぬということである。即ち撤兵は、全部が急速にあらゆる方面に於て一斉に行われねばならぬと云うことである、唯提案せられたる所の日支防共協定の存続期間に限って、日本軍の駐屯すべき所謂特定地区は唯内蒙の付近のみに制限せられなければならない、

斯様に汪兆銘氏は声明して居りまするが、之を近衛声明と対照しますると、少しも間違いはないのであります、然る以上は是より新政権を対手に和平工作を為すに当りましては、

支那の占領区域から日本軍を撤退する、
北支の一角、内蒙附近を取除きたる其の他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、

過去二年有半の長きに亘って、内には全国民の後援の下に、外に於ては我が皇軍が悪戦苦闘して進軍しました所の此の占領地域より日本軍全部を撤退すると云うことである、是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此の趣旨を其の儘実行する積りでありますか、是が私は聴きたいのであります、総理大臣は言うに及ばず、軍部大臣に於ても此の点に付て御説明を煩わして置きたい。
第03段落

次に事変処理に付ては東亜の新秩序建設と云うことが繰り返されて居ります、此の言葉は昨日以来此の議場においてもどれだけ繰り返されているか分らない、

元来此の言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明によって初めて現われた所の言葉であるのであります、東亜の新秩序建設と云うことはどういうことであるか、昨日外務大臣の御言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設と云うことはこの東洋に於てばかりではない、欧羅巴に於ても数年来此の言葉が現われて居るのであります、

併しながら欧羅巴に於ける新秩序の建設と云うものは、詰り持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義の如きものでありますが、其の後の実情を見ますると全然反対である、随分持てる所の大国が持たざる所の小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である、茲に至って欧羅巴に於ける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります、

併し欧羅巴のことはどうでも宜い、欧羅巴に於ける新秩序の建設などは、吾々に於て顧る必要はない、此の東亜に於ける新秩序建設の内容は如何なるものがあるか、是も近衛声明及び之に呼応したる所の汪兆銘氏の声明を対照してみますると、新秩序建設には確かに三つの事柄が含んで居る、それは何であるか、

第一は善隣友好と云うことである、
第二は共同防共である、
第三は経済提携であります、

是が是までの公文書に現われて居る所の新秩序建設の内容でありまするが、政府の見る所も之に相違ないのであるか、新秩序建設と云うことが朝野の間において屡々謳われて居るのでありまするが、其の新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるか、尚お此の外に何ものがあるのであるか、なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい、あっても言えないと言わるるならばそれでも宜しい、兎に角是ほど広く、是ほど強く高調せられている所の戦争の目的であり犠牲の目的である所の東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか、これを承って置けば宜しいのであります。
第04段落

之に関連して御尋ねをしておきたいことがある、此処に昨年十二月十一日附を以て発表せられたる東亜新秩序答申案要旨というものがある、是は興亜院に於て委員会を設けて審議せられたる所の其の答申案であります、之を見ますると云うと、吾々には中々難しくて分らない文句が大分並べてある、即ち

皇道的至上命令、
「うしはく」に非ずして「しらす」ことを以て本義とすることは我が皇道の根本原則、
支那王道の理想、
八紘一宇の皇謨、

中々是は難かしくして精神講話のように聞えるのでありまして、私共実際政治に頭を突込んで居る者には中々理解し難いのであります。

(拍手)

併しそれは別と致しまして、近頃になって東亜新秩序建設の原理原則とか、精神的基礎とか称するものを、特に委員会までも設けて研究しなくてはならぬと云うことは一体どう云うことであるか、東亜新秩序建設は此の大戦争、此の大犠牲の目的であるのでございます、然るに此の犠牲、戦争の目的である所の東亜新秩序建設が、事変以来約一年半の後に於て初めて現われ、更に一年の後に於て特に委員会までも設けて、其の原理、原則、精神的基礎を研究しなくてはならぬと云うことは、私共においてはどうも受取れないのであります、

(拍手)

此の点は総理大臣に限らず、興亜院の総裁で宜しいのでありますからして、何故興亜院に於ては特に委員会までも設けて、斯う云うことの研究に着手せられたのであるか、之を聴いて置きたいのであります、

昭和十五年二月三日付官報号外衆議院議事速記録第五号第四十三頁
 第二段第十九行第五字目以下削除の部分左の如し

第05段落

私は是より一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみたい、政府に於ては斯ういうことを云われるに相違ない、又歴代の政府も言うて居る、何であるか、

此の度の戦争は是までの戦争と全く性質が違うのである、此の度の戦争に当っては、政府は飽くまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所より此の東亜の形勢を達観して居る、そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂八紘一宇の精神を以て東洋永遠の平和、延いて世界の平和を確立するがために戦って居るのである、故に眼前の利益などは少しも顧る所ではない、是が即ち聖戦である、神聖なる所の戦いであるという所以である、

斯様な考えを持つて居らるるか分らない、現に近衛声明の中には確に此の意味が現われ居るのであります、其の言は洵に壮大である、その理想は高遠であります、併しながら斯くの如き高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やと云うことに付ては、延いて考えねばならぬのであります。

(拍手)

苟も国家の運命を担うて立つ所の実際政治家たる者は、唯徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。

(拍手)

現実に即せざる所の国策は真の国策にあらずして一種の空想であります、先ず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、是は望ましきことではありまするが、実際是が実現するものであるか否やと云うことに付ては、お互に考えねばならぬことである、古来何れの時代に於きましても平和論や平和運動の止むことはない、宗教家は申すに及ばず、各国の政治家等も口を開けば世界の平和を唱える、又平和論の前には何人と雖も真正面からして反対は出来ないのであります、併しながら世界の平和などが実際得られるものであるか、是は中々難しいことであります、

私共は断じて得られないと思って居る、十年や二十年の平和は得られるか知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない、歴史家の記述する所に依りますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間に於て、世界平和の時代は僅に二百幾十年、残りの三千二百幾十年は戦争の時代であると言うて居る、斯くの如く過去の歴史は戦争を以て覆われて居る、将来の歴史は平和を以て満たさるべしと何人が断言することが出来るか

(拍手)

のみならず御承知の通りに近世文明科学の発達に依りまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである、之を千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても、実に別世界の感が起こらざるを得ないのである、此の縮小せられたる世界に於て、数多の民族、数多の国家が対立して居る、其の上人口は増加する、生存競争は愈々激しくなって来る、民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起らざるを得ない、而して国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、此の世界に於て国家が対立して居りまする以上は、戦争の絶ゆる時はない、平和論や平和運動が何時しか雲散霧消するのは是は已むを得ない次第であります、

若し之を疑われるのでありますならば、最近五十年間に於ける東洋の歴史を見ましょう、先程申上げました通りに、我国は曾て支那と戦った、其の時於ても東洋永遠の平和が唱えられたのである、次に露西亜と戦った、其の時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである、又平和を目的として戦後の条約も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか、得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである、

又眼を転じて欧羅巴の近状を見ようではありませぬか、御承知の通りに二十幾年前に欧羅巴はあの通りの大戦争をやった、五箇年の間国を挙げて戦った、戦争の結果はどうなったか、敗けた国は言うに及ばず、勝った国と雖も徹頭徹尾得失相償わない、其の苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない、凡そ世の中に於て戦争ほど馬鹿らしいものはない、それ故に未来永久、此の地球上からして戦争を絶滅する、其の目的、其の理想をもって国際連盟を作った、我が日本も五大強国のーとして之に調印して居るのであります、平和は得られましたか、国際連盟の殿堂はどうなって居るか、民族の発展欲、国家の発展欲は、紙上の条約などで以て抑制することが出来るものでない、十年経ち、二十年経つ間に於て又もや戦争熱が勃興して来る、欧羅巴の現状は活きた教訓を吾々の前に示して居るのであります、

或者は言うて居る、此の度の戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベルサイユ」条約に於て独逸に向って苛酷なる所の条件を課したから、其の反動として今回の戦争が起こったのであると斯う言うて居る、一応の理窟であるに相違ない、併しなから「ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらなかったと誰が断言することか出来るか、第一次欧羅巴戦争の前に於きましては「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである、

即ち人間の欲望には限りがない、民族の欲望にも限りがない、国家の欲望にも限りがない、屈したるものは伸びんとする、伸びたものは更に伸びんとする、茲に国家競争が激化するのであります、尚お之を疑う者があるならば、更に遡って過去数千年の歴史を見ましょう、世界の歴史は全く戦争の歴史である、現在世界の歴史から…

(発言する者多し)

(議長 「静粛に」)

戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。

(「君のような自由主義者が多いからだ」と呼ぶ者あり)

そうしてーたび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない、是非善悪の争いではない、徹頭徹尾力の争いであります、強弱の争いである、強者が弱者を征服する、これが戦争である、正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味ではない、先程申しました第一次欧羅巴戦争に当りましても、随分正義争いが起こったのであります、独逸を中心とする所の同盟側、英吉利を中心とする所の連合側、何れも正義は我に在りと叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか、正義が勝って不正義が敗けたのでありますか、そうではないのでありましょう、正義や不正義は何処かへ飛んで行って、詰まり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります、今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わして居りますが、此の正義論の価値は知るべきのみであります、詰まり力の伴わざる所の正義は弾なき大砲と同じことである。

(拍手)

羊の正義論は狼の前には三文の値打もない、欧羅巴の現状は幾多の実例を吾々の前に示して居るのであります、

斯くの如き事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない徹頭徹尾力の競争である。

(拍手)

世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります、吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります、強者が興って弱者が亡びる、過去数千年の歴史はそれである、未来永遠の歴史も亦それでなくてはならないのであります。

(拍手)

此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向うに当りましては、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、自国の力を養成し、自国の力を強化する、是より外に国家の向うべき途はないのであります。

(拍手)
第06段落

彼の欧米の基督教国、之を見ようではありませぬか、彼等は……

(「もう宜い」「要点要点」と呼び、其の他発言する者多し)

(議長「静粛に願います」)

彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一たび国際問題に直面致しますと、基督の慈善博愛は蹴散らかされてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります、

此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば

(小田栄君「要点を言え、要点を」と呼び、其の他発言する者多し)

(議長「静粛に願います、小田君に注意致します」)

現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。私は此の考えを以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照して…

(発言する者多し)

(議長「静粛に願います」)

彼の近衛声明なるものが、果して事変を処理するに付て最善を尽したるものであるかないか、振古未曽有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない。

(拍手)

苟も国家の将来を憂うる者は、必ずや私と感を同じくして居るであろうと思う、それ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向わんとする現在の政府は、私が以上述べたる論旨に対し逐一説明を加えて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります。

(拍手)

第07段落

私は更に進んで重慶政府と、近く現われんとする所の新政府との関係に付て御尋を致したいのであります、昨年八月阿部内閣が成立致しました当時に於ては、汪兆銘氏を首班とする所の新政府は、今にも現われんとするが如き噂が立てられたのてありますが、それが段々と延引して今日に至って居るのである、併し聞く所に依れば、愈々近く其の成立を見んとするのでありますから、是は日支両国の為に洵に慶賀に堪えないことであります、我国は曩に蒋政権を撃滅するまでは断じて戈を収めない、国民政府を対手にしては一切の和平工作をやらないと宣言して居る、然る以上は新に生るる所の新政府、之を援けて以て和平調整を為さねばならぬ、之に付ては誰一人として反対する者はないのであります、

併しながら退いて考えて見ますると、一体此の新政府はどれだけの力を持って現われるのであるか、是が私共には分らないのであります、申すまでもなく苟も国際間に於て、又国際法上に於て、政府として立ちまする以上は、内に向っては国内を統治する所の実力を備え、外に向っては国際義務を履行する所の能力を有する、此の内外両方面の条件を兼備するものにあらざれば、政府として立つことも出来ねば、政府として之を承認することも出来ない筈であります、其の実力とは何であるか、即ち兵力であります、軍隊の力であります、如何に法制を整えても、如何に政治機構を打建てても、又如何に文章口舌に巧みでありましても、兵力を有せざる政府の威令が行わるる訳がない、殊に之を支那歴朝創業の跡に顧みましても、旧王朝を滅して新王朝を創業する、旧政権を倒して新政権を建設する者は、悉く武人であります、即ち兵馬の間に天下の権を握らざる者はないのである、

彼の孫逸仙が革命事案に向って精力を傾倒したに拘らず、其の業が成らず志を得ずして終に最期を遂げたのは何が故であるか、詰り彼が武人にあらず、武力を有しなかったからであります、之に反して彼の後輩でありまする所の蒋介石が、一時なりとも支那を統一したのは何が故であるか、彼は武人であって武力を有しておったからであります、殊に近頃支那の形勢を見渡しますると云うと、我軍の占領地域であり、同時に新政権の統轄地域である所に於てすら、匪賊は横行する、敗残兵は出没する、国内の治安すら完全に維持することが出来ない、加うるに新政府と絶対相容れざる所の彼の重慶政府を撃滅するにあらざれば、新政府の基礎は決して確立するものではない、それ故に新しき政府を打建てる第一の条件は、何といっても兵力でありまするが、将に現われんとする所の新政府には其の力があるのであるのであるか、ないのであるか、之に付て御説明を煩わしたいと思うのであります。
第08段落

次に新政府が現われましたならば、我国は何としても之を承認せざるを得ないのであります、之を承認すると同時に此の新政府の発展に向っては、極力之を支持せねばならぬのである、支持すべきことを既に声明せられて居る以上は、此の声明を何処までも履行しなければならない、即ち是が為には政治上に於ても、軍事上に於ても、又経済上に於ても、其の他有ゆる犠牲を払って此の新政府を援けねばならぬのである、そうして新政府を援けて将来名実共に完全なる独立政府とした其の後に於て、我国との関係が極めて円満に持続せらるるものであるかないか、是も大切なる問題であるのであります、私共は決して新政府を疑う者ではない、殊に汪兆銘氏を首めとして、身を挺して和平救国の為に奮闘して居る所のあの支那の政治家諸氏に対しては、衷心より敬意を払う者であります。

併しながら、国の異なるに従って国民性にも違いがある、是は仕方がない、現に汪兆銘氏は一昨年の暮に重慶脱出以来、屡々声明書を発表して、蒋介石に向って和平勧告をしたのであります、併しながら蒋介石は之を一蹴して顧みない、そこで昨年の七月には断然として蒋介石に向って絶縁状を送って居る、然るにも拘らずつい最近一月の十六日でありまするか、それこそ辞を卑くし、言葉を厚くして蒋介石に向って停戦講和の通電をやって居る、是は支那の政治家に於て初めて出来ることでありまして、吾々日本の政治家に於ては想像も及ばないことである、それ故に新政府を援助することは宜しいが、新政府の将来に向って決して盲目であってはならない、之に付て総理大臣はどう云う考えを持って居られるのであるか、之を一つ承って置きたいのであります。
第09段落


次に新政府が出来た後に於て重慶政府との関係はどうなるものであるか、之に付きましては前内閣の阿部首相は新聞を通じて、斯う云う意見を述べて居らるるのであります、即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働き掛けるであろう、新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって和平救国の途に就くであろう、斯う云う意見を述べて居られるのであります、是は決して前阿部首相一人の意見ではない、今日政府の要人の中には、確に此の意見を持って居る人があるのであります、是が私には分り兼ねるのである、新政権と重慶政府、どう考えても是が将来一致するものであるとは思えないのであります、なぜに一致しないか、御承知の通りに重慶政府は徹頭徹尾容共抗日を以て其の指導精神と為し、之を基として長期抗戦を企てて居るのである、然るに之に反して新政府は反共親日をもって指導精神と為し、之を以て新政府の樹立に向って進んでいるのである、

此の氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか、私共に於てはどうも是は想像が付かない、是は唯理窟ばかりの問題ではなくして、支那の現状を見ましても斯様なことは到底想像することが出来ないのである、殊に先程申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあらざれば断じて戈を収めない、此の鉄の如き方針が確立して、之を以て有ゆる作戦計画が立てられて居るべき筈であるのであります、先程引用致しました所の此の文書の中に於きましても、確に其の意味は現われて居るのである、即ち

重慶政府が出来た所が蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服しない限りは日本軍は飽くまでも重慶討伐に向って進軍するのである、汪兆銘は日本の重慶討伐に便乗して戦うのである、

是が軍部の方針であるに相違ないのであります、然るに前内閣の首相及び政府の要人は彼の如き気楽なる考を持って居る、支那事変処理の根本方針に付て政府と軍部との間に於て何か意見の相違があるらしくも思えるのであります、是は前内閣のやったことでありまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、併し支那事変の処理に付ては前内閣の方針を踏襲すると言われた所の現内閣の総理大臣は、之に付ても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、此の点も併せて伺って置きたいのであります。

第10段落

次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて戈は収めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、其の後蒋介石は敗戦に次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃込んで、一地方政権と堕して居るとはいうものの、今尚お大軍を擁して長期抗戦を豪語し、有ゆる作戦計画をして居るように見受けられるのであります、固より之に付ては我方に於きましても確乎不抜の方針が立てられて居るに相違ありませぬが、併し前途のことは是は測り知ることが出来ない、然るに一方に於ては何処までも新政権を支持せねばならぬ、有ゆる犠牲を払って之を支持せねばならぬ、即ち一方に於ては蒋介石討伐、他の一方に於ては新政権の援助、我国は是より此の二つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますが、是が我が国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか、私共決して悲観するものではない、悲観するものではないが、是が人的関係の上に於て、物的関係の上に於て、又財政経済の関係に於て如何なるものてあるかと云うことは、全国民が聴かんとする所であると思うのであります。

(拍手)

それ故に此の点に付きましては総理大臣は申すに及ばず、関係大臣に於て出来得る限りの説明を与えられたい、吾々は固より言えないことを聴こうとするのではない、外交上、軍事上、其の他経済財政の関係に於きましても、言えないことがあることは能く承知して居るのでありますから、言えないことを聴かんとするのではない、此の議場に於て言えるだけの程度に於て、成べく詳しく御説明を願いたいと思うのであります。

最後に支那全体を対象として、今後の形勢に付て政府の意見を聴いて置きたいことがある、申すまでもなく支那は非常な大国であります、其の面積に於きましても日本全土の十五倍に上って居る、五億に近い人口を有して居る、我国の占領地域が日本全土の二倍半であると致しますならば、まだ十二倍半の領土が支那に残されて居るのであります、此の広大なる所の領土に加うるに、之に相当する所の人口を以てして、之を統轄する所の力を有する者でなければ、支那の将来を担って立つことは出来ない、近く現われんとする所の新政府は是だけの力があるのであるか、私共如何に贔屓目に見ましても、此新政府に是だけの力があるとはどうも思えないのであります、

そうするとどうなるのでありますか、若し蒋介石を撃滅することが出来ないとするならば、是は最早問題でない、縦し之を撃滅することが出来たとしても、其の後はどうなる、新政府に於て支那を統一する所の力があるのでありますか、あると言わるるならば其の理由を私は承って置きたい、若し其の確信がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか、各所に於て政権が分立して、互に軋轢して摩擦を起す、新秩序の建設も何もあったものではないのであります。

(拍手)

そうして斯くの如き状態が支那に起るのは何が基であるかと云うと、詰まり蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、近衛内閣に依って声明せられました所の爾来国民政府を対手にせず、之に原因して居るものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか。

而して若し今後此の方針を固く守って進みますならば、表面に於ても裏面に於ても、公式非公式を問わず、一切重慶政府を対手としてはならないのである、又我国が之を対手とすることが出来ないのみならず、近く現われんとする所の新政権も、断じて重慶政府を対手にすることは出来ない筈なのであります、我が日本は対手にしはしないが、新政府は之を対手にしても宜いと云うことは、是は言われない、なぜならば新政府に対しては日本は干渉はしないが指導するのである、即ち新政府に対して日本は指導的立場に立って居るのでありまするから、若し新政府が重慶政府に向って何か交渉の途を開くと仮定致しまするならば、是は誰が見た所が日本の指導に基づくものに相違ないと思う、又思われても仕方がないのであります、そうすると支那の将来はどうなるものでありますか、何時まで経っても此の現状をば精算することは出来ないと思われるのでありまするが、政府は此の点に付てどう云う御考えを持って居られるのでありますか、是も併せて伺いたいのであります。

(拍手)
第11段落

私の質問は大体以上を以て終りを告げるのでありまするが、最後に於て一言を残して、併せて政府の所信を質しておきたいことかある、改めて申すまでもござりませぬが、支那事変は実に建国以来の大事件であります、建国以来二千六百年、此の間に於て我国は幾度か外国と事を構えたことはありまするけれども、今回の事変の如く其の規模の広大なるもの、其の犠牲の大なるものはないのであります、随て此の事変が如何に処理せられ、如何に解決せらるるかと云うことは、実に我が日本帝国の興廃の岐るる所であります、事変以来今日に至るまで吾々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことは沢山あるのでありまするが、是は言わない、是は論じないのであります、吾々は今日に及んで一切の過去を語らない、又過去を語る余裕もないのであります、一切の過去を葬り去って、成べく速に、成べく有利有効に事変を処理し、解決したい、是が全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬ所の重大なる責任であるのであります。

(拍手)

歴代の政府は国民に向って頻りに精神運動を始めて居る、精神運動は極めて大切でありまするが、精神運動だけで事変の解決は出来ないのである、況や此の精神運動が国民の間にどれだけ徹底して居るかと云うことに付ては、此の際政府としても考え直さねばならぬことがあるのではないか。

(拍手)

例えば国民精神総動員なるものがあります、この国費多端の際に当って、随分巨額の費用を投じて居るのでありまするが、一体是は何を為して居るのであるかは私共には分らない。

(拍手)

此の大事変を前に控えて居りながら、此の事変の目的は何処にあるかと云うことすらまだ普く国民の間には徹底して居らないようである。

([ヒヤヒヤ』拍手)

聞く所に依れば、何時ぞや或る有名な老政治家が、演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何の為に戦争をして居るのであるか自分には分らない、諸君は分って居るのであるか、分って居るならば聴かして呉れと言うた所が、満場の聴衆一人として答える者がなかったと云うのである。

(笑声)

此処が即ち政府として最も注意をせねばならぬ点であるのである、殊に…

(「注意しろ」「議長」と呼ぶ者あり)

(議長「静粛に願います」)

国民精神に極めて重大なる関係を持って居るものであって、歴代の政府が忘れて居る所の幾多の事柄があるのであります、例えば戦争に対する所の国民の犠牲であります、何時れの時に方りましても戦時に当って国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります、即ち一方に於ては戦場に於て生命を犠牲に供する、或は戦傷を負う、然らざるまでも悪戦苦闘して有ゆる苦艱に耐える百万二百万の軍隊がある、又仮令戦場の外に居りましても、戦時経済の打撃を受けて、是までの職業を失って社会の裏面に蹴落される者もどれだけあるか分らない、然るに一方を見ますると云うと、此の戦時経済の波に乗って所謂殷賑産業なるものが勃興する、或は「インフレーション」の影響を受けて一攫千金は愚か、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余る所の生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分らない。

(拍手)

戦時に当っては已むを得ないことではありますけれども、政府の局に在る者は出来得る限り此の不公平を調節せねばならぬのであります、

然るに此の不公平なる所の事実を前に置きながら、国民に向って精神運動をやる、国民に向って緊張せよ忍耐せよと迫る、国民は緊張するに相違ない、忍耐するに相違ない、併しながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。

(拍手)

是と同時に政府自身に於ても真剣になり、真面目になって、以て国事に当らねばならぬのではありませぬか。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

然るに歴代の政府は何を為したか、事変以来歴代の政府は何をなしたか。

(「政党は何をした」[黙って聞け」と呼ぶ者あり)

二年有半の間において三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、斯う云うことでどうして此の国難に当ることが出来るのであるか、畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。

(拍手)

身を以て国に尽す所の熱力が足らないからであります、畏多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない、而も其の器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する、国民的支持を欠いて居るから、何事に付ても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息倫安一日を弥縫する所の政治をやる、失敗するのは当り前であります。

(拍手)

斯う云うことを繰返して居る間に於て事変は益々進んで来る、内外の情勢は愈々逼迫して来る、是が現時の状態であるのではありませぬか、之をどうするか、如何に始末をするか、朝野の政治家が考えねばならぬ所は茲に在るのであります、

吾々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある、日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣に於て始められて伊藤内閣に於て解決した、日露戦争は桂内閣に於て始められて桂内閣が解決した、当時日比谷の焼打事件まで起りましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、此の事変を解決して然る後に身を退かれたのであります、伊藤公と云い、桂公と云い、国に尽す所の先輩政治家は斯くの如きものである、然るに事変以来の内閣は何であるか、外に於ては十万の将兵が殖れて居るに拘わらず、内に於て此の事変の始末を付けなければならぬ所の内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変は解決はしない、護国の英霊は蘇らないのであります。

(拍手)

私は現内閣が歴代内閣の失政を繰返すこと勿かれと要求をしたいのであります、

事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に弥漫して居ります所の彼の官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々として政府の命令に服従する、政府の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります、又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであろう、之を期待して居るが為である、

然るに若し一朝此の期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。

(拍手)

而も此の事が、国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚お忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります、国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ、

繰り返して申しまするが、事変処理は有ゆる政治問題を超越する所の極めて重大なる所の問題であるのであります、内外の政治は悉く支那事変を中心として動いて居る、現に此の議会に現われて来まする所の予算でも増税でも、其他有ゆる法律案は何れも直接間接に事変と関係を持たないものはないでありましょう、それ故に其の中心でありまする所の支那事変は如何に処理せらるるものであるか、其の処理せらるる内容は如何なるものであるか、是が相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ない筈なのである、私が政府に向って質問する趣旨は茲にあるのでありまするから、総理大臣は唯私の質問に答えるばかりではなく、尚お進んで積極的に支那事変処理に関する所の一切の抱負経綸を披瀝して、此の議会を通して全国民の理解を求められることを要求するのである。

(拍手)

私の質問はこれをもって終りと致します。

(拍手)

(発言する者あり)

(議長「野溝君に御注意致します」)

12(国務大臣米内光政君登壇)
国務大臣(米内光政君)お答致します

支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向って邁進せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました。以下具体的問題についてお答を致します。

支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を極力援助せんとするものであります。

(拍手)

その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります。

次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがために、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であります。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理のために総合集中することが肝要でありまして、これがために真に挙国一致、不抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずるのであります

(拍手)
http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0


113. 中川隆[-11067] koaQ7Jey 2018年4月23日 07:53:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11947]

日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html


覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html


114. 中川隆[-12089] koaQ7Jey 2018年5月06日 16:58:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13378]

2018.05.03
米国政府が反ファシスト派から反コミュニスト派へ切り替わった直後にできた日本国憲法(その1)



 現行の「日本国憲法」が施行された1947年5月3日当時、アメリカ政府内では反ファシストを掲げ、労働者の権利を認めようとしていたニューディール派の影響力が低下、反コミュニストで巨大企業の利益を優先しようというウォール街派が主導権を握っていた。ニューディール派の中心的な存在だったフランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死したことが大きい。

 本ブログでも何度か指摘したように、1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後からウォール街派はニューディール派と対立、33年から34年にかけてのころにはファシズム体制の構築を目指したクーデターを計画していた。この計画はウォール街の巨大金融機関が中心になったものだが、話を持ちかけられた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将が反発、カウンタークーデターを宣言し、議会で告発したことで発覚している。クーデター計画は失敗に終わった。

 1941年6月にドイツ軍は90万人を西部戦線に残して310万人をソ連に向かって進軍させて42年8月にスターリングラード市内へ突入したのだが、その年の11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲してしまう。この段階でソ連に攻め込んだドイツ軍だけでなく、ドイツ自体の敗北が決定的だった。1943年1月には生き残ったドイツの将兵9万1000名が降伏する。

 こうした状況を見て慌てた米英の支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月に両国軍はシチリア島に上陸した。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この作戦でドイツ軍が負けたわけではない。米英支配層の目はソ連に向けられていたはずだ。

 ドイツ軍の敗北が明らかになった1942年冬、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、44年になるとアメリカの戦時情報機関であるOSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループが情報将校のラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)と接触している。ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織、後にヒトラーの第一後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングも含まれる。

 1945年初頭になるとダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だったSS高官のカール・ウルフに接触して隠れ家を提供し、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。この件についてダレスと話し合うためにイギリス軍のハロルド・アレグザンダー(イギリス第8軍とアメリカ第7軍を指揮していた)は1945年3月にライマン・レムニッツァーをスイスへ派遣している。レムニッツァーはアレグザンダーに取り入ることでその後出世、ドワイト・アイゼンハワー政権で統合参謀本部議長になっている。

 こうしたイタリアにおける単独降伏の秘密交渉を察知したソ連のヨシフ・スターリンはアメリカがドイツにソ連を再攻撃させようとしていると非難、それに対してルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論している。そうした最中、4月12日にルーズベルトは執務室で急死した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201805030000/


米国政府が反ファシスト派から反コミュニスト派へ切り替わった直後にできた日本国憲法(その2)


 大戦後、1948年6月にNSC(国家安全保障会議)が出したNSC10/2に基づいて破壊活動(テロ)を目的とする極秘機関のOSP(すぐOPCへ名称変更)が創設され、52年8月にはOPCが中核になって計画局が設置された。1953年1月にアイゼンハワーが大統領に就任、2月にはアレン・ダレスがCIA長官に就任した。その後、計画局は1973年3月に名称を作戦局へ変更、2005年10月にはNCS(国家秘密局)になった。

 こうした流れの中、日本国憲法は作られたわけだ。大戦前に思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈が戦後も生き残ったのは必然だった。そうした状況を象徴する人物が1932年から41年にかけて駐日アメリカ大使を務めたジョセフ・グルー。

 彼のいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚、また妻は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)で九条節子(後の貞明皇后)と親しくなっている。大戦後の日本を築き上げたのジャパンロビーでグルーは中心的な役割を果たしている。つまり、「戦前レジーム」も「戦後レジーム」も本質は同じなのだ。

 1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)が設立され、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎなかった。アメリカのウォール街派はドイツでも日本でも戦前の体制を継続させようとしていた。「国体」は維持されたのだ。その象徴が天皇にほかならない。

 日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々には少なくない。新憲法でも東京裁判でも、最大の問題は天皇だった。

 大戦後、まず日本を占領したのはアメリカ軍。その中枢はGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)だが、その中でも多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)ビッターはCIAとの関係が強く疑われている人物で、闇ドル事件にも登場している。

 降伏した直後の日本を占領したのはアメリカ軍だが、時間が経過すればそれ以外の国からも関係者がやって来る。そうした人々の多くはハリー・トルーマン政権より天皇には批判的だったはず。のんびりしていると、天皇の戦争責任が問われることは避けられなかっただろう。その前に天皇制を盛り込んだ憲法を作り、「戦争責任」を問うセレモニーを行って天皇を免責する必要もあった。東京裁判で天皇は起訴されず、新憲法の第1条では天皇制の継続が謳われている。

 そうした憲法だが、民主的な条項が含まれていることも事実。当時の状況からして、そうしなければ天皇制を維持することが難しかったのだ。天皇制官僚国家は明治維新で長州と薩摩がイギリスを後ろ盾として築いた天皇制カルトという側面がある。そのシステムを使ってイギリスやアメリカは日本に影響力を行使してきた。そうした実態に不満を持つ人たちの中には血盟団のメンバーや二・二六事件の将校も含まれるだろう。日本が迷走した1930年代から敗戦近くまでアメリカ政府で主導権を握っていたのはウォール街と対立していたニューディール派だ。そのニューディール派的な条項が日本国憲法に存在していることを許せないと感じている人たちがいる。そうした人たちがアメリカ従属派なのは当然だ。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201805030000/


115. 中川隆[-12520] koaQ7Jey 2018年5月26日 13:46:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14314]

3S 政策より:
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96

「・・・戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」と述べた。


1. アメリカを無条件に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2. この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3. マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4. 学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5. 教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6. 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7. 他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る・・・」

関連情報:

一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

愚民政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96

反知性主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

パンとサーカス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

ディストピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2

etc.


116. 中川隆[-12945] koaQ7Jey 2018年6月06日 08:21:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15019]
2018.06.06
朝鮮情勢に関係なく、米海軍は太平洋からインド洋を支配するため、韓国に居座る


 アメリカ海軍の第7艦隊は横須賀を拠点とし、太平洋からインド洋にかけての海域を担当している。​アメリカは属国を率い、この海域を自分たちの最重要地域で、自分たちの利権だと認識、統合支配しようとしている​ことを隠していない。こう考えている以上、ここからアメリカが自分の意思で去ることはないわけだ。

 つまり、アメリカが言う「自由で開かれた」とは、アメリカが好き勝手にできるということを意味している。そのベースにはユーラシア大陸の沿岸部分を支配し、内陸の中国やロシアを締め上げて制圧、略奪するという長期戦略がある。

 イギリスは明治維新というレジーム・チェンジを後押し、日本の海軍力を増強する手助けをした。日露戦争の際にはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シフが戦費を用立てている。この交渉以降、シフは高橋是清と親しくなった。イギリスにとって日本は大陸侵略の拠点であり、日本軍は傭兵部隊なのだ。朝鮮半島は橋頭堡と言える。​ジム・マティス国防長官は朝鮮半島からアメリカ軍が去ることはないと発言​したが、橋頭堡を放棄することはないという意味だ。


 アメリカは朝鮮を利用して東アジアの軍事的な緊張を高めてきた。その状況はロシアや中国と連携した韓国政府によって大きく変化、対話の雰囲気が強まっている。この雰囲気を潰そうとする動きがあったものの、今は収まっている。

 しかし、これで平和が実現するとは言えない。アメリカが何を考えているかを示唆する出来事があった。1990年のドイツ統一だ。この際、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官はソ連のエドゥアルド・シュワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるが、東へ拡大させることはないと約束したことが記録に残っている。この約束をソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領は信じ、ドイツ統一で譲歩したのだが、約束は守られなかった。

 アメリカのウォール街につながる情報機関の幹部たちは大統領には無断でナチスの幹部たちを逃がし、匿い、雇った。多くのファシストを移民として受け入れ、訓練してきた。勿論世代は交代しているが、新しい世代のファシストをアメリカは東ヨーロッパへ帰国させ、レジーム・チェンジの手先として利用している。そしてNATOはロシアとの国境に到達、軍隊を入れ、核攻撃できるミサイルを配置している。アメリカにとっての朝鮮半島統一とは、そういうことだ。アメリカが絡んでいる以上、真の意味で平和が実現されることは極めて難しい。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201806060000/


117. 中川隆[-13238] koaQ7Jey 2018年6月13日 18:47:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15574]
これまでアメリカは東アジアにおける軍事的な緊張を高めるため、朝鮮を利用してきた。核兵器やミサイルの開発の裏でアメリカが暗躍している疑いもある。朝鮮とアメリカとの問題を考える場合、少なくとも朝鮮戦争まで遡らなければならないが、アメリカが求め、日本が同調している「非核化」は朝鮮の無条件降伏に等しく、これはアメリカによる朝鮮半島全域の制圧を意味している。その先には中国の制圧、ロシアの再属国化、そしてパックス・アメリカーナがある。

 ところで、朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日だが、その前から小規模の軍事衝突はあった。その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。日本では北からの攻撃で戦争が始まったことになっているが、世界的に見ると決して常識ではない。

 戦争勃発の3日前、ジョン・フォスター・ダレスは朝鮮半島から日本へわたり、吉田茂と会談した後にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの家で夕食会に参加している。日本側から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。

 渡辺武は元子爵で後の駐米公使、松平康昌は元侯爵で三井本家家長の義兄、沢田廉三の結婚した相手は三菱合資の社長だった岩崎久弥の娘。海原治は国家警察予備隊、後の自衛隊を創設する際に中心的な役割を果たすことになる。

 夕食会の4日後、つまり朝鮮戦争が勃発した翌日の26日には帰国直前のダレスに対し、天皇から軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージが伝えられている。メッセンジャーはパケナムだった。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)

 朝鮮戦争の直前、1949年1月に人民解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りしている。1945年4月にフランクリン・ルーズベルトが急死して誕生したハリー・トルーマン政権は第2次世界大戦後、蒋介石に中国を支配させる予定で、20億ドルを提供しただけでなく軍事顧問団も派遣している。

 その当時は国民党軍が紅軍(コミュニスト)を圧倒していたが、1947年の夏になると人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始、48年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになっていた。朝鮮戦争はアメリカ政府の中国奪還作戦だと見ることができる。

 朝鮮戦争の最中、1951年4月にCIAは約2000名の国民党軍を引き連れて中国領内に侵入したが失敗、翌年8月にも中国へ侵攻したが、この時も人民解放軍の反撃で追い出されている。朝鮮戦争は1953年7月に休戦、アメリカ軍は目的を達成することができなかった。

 その当時、インドシナではフランスが植民地奪還を目指して戦っていたが、この戦争でアメリカ政府はフランスを支援している。そのフランス軍が1954年5月にディエンビエンフーで降伏するが、その4カ月前、国務長官のジョン・フォスター・ダレスがベトナムでのゲリラ戦を準備するように提案している。それを受け、その年の夏にダレス国務長官の弟であるアレン・ダレスが長官だったCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、破壊活動を開始、リンドン・ジョンソン政権で本格的な軍事介入を始めた。

 リチャード・ニクソン大統領はベトナム戦争を終結させ、中国との国交回復を実現するが、その中国では1970年代の終盤から新自由主義に向かって歩き始め、80年には新自由主義の教祖的な存在であるミルトン・フリードマンが中国を訪問、レッセフェール流の資本主義路線へと導いていった。フリードマンは1988年に妻のローザとともに再び中国を訪れ、趙紫陽や江沢民と会談している。趙紫陽は1989年に失脚するが、江沢民はその後もアメリカとの関係を推進した。この流れが大きく変化したのはウクライナでアメリカがネオ・ナチを使ったクーデターを実行した2014年である。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201806130000/


118. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2018年6月25日 08:28:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16153]

旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html


119. 中川隆[-13500] koaQ7Jey 2018年7月02日 08:57:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16300]

基地の根拠「極東条項」廃止を提起 沖縄返還直後に政府
7/2(月) 5:22配信 朝日新聞デジタル


1972年6月の日米政策企画協議に関する双方の議事録で、極東条項を廃止する日米安保条約改定をめぐる議論が記された部分


 米国が日本国内に基地を置く根拠の柱である日米安全保障条約の「極東条項」について、1972年5月の沖縄返還直後に日本側が廃止の議論を米側に提起していたことがわかった。東西冷戦緩和を機に米国の戦略と一定の距離を置こうという動きだったが、米国側から強く拒まれた。

【写真】1972年6月の日米政策企画協議の日本側議事録。極東条項を廃止する日米安保条約改定を日本側がただし、米側が否定的に反応したやり取りが記される

 廃止論を提起したのは日米の大使や外交当局高官らが出席する日米政策企画協議。両政府が秘密指定解除した72年6月と12月の議事録から判明した。中国の核開発などを踏まえて米側の提案で64年に始まった非公式対話で、日米間で国際情勢認識をすりあわせる場として今も枠組みは残る。

 米国は当時、沖縄も出撃拠点となったベトナム戦争で疲弊し、中国に近づく一方でソ連と軍備管理を推進。その機を捉え、日本側が米軍基地の役割を縮小しようとした異例の提起だ。

 日本側は6月の協議で「ニクソン政権が対話へ転換し、軍事同盟の意義に国内で大きな疑問が生じた」と主張。日中国交正常化に向け極東条項が問題だとし、「廃止を提案したら米国の反応は」とただした。

 米側は「米国をアジアから押し出す動き」と反発。返還した沖縄に集中する基地への制約を懸念し、「日本の安全は韓国や台湾と密接なのに、極東条項廃止とは島国的」と批判した。

 日中国交正常化後の12月の協議でも、日本側はなおも「安保条約の重要性は減少しつつある」とし、米軍基地を減らして管轄権を日本に移すことを提案。だが、米側は「もし在日米軍を全部引き揚げると申し入れたら、日本はどういう態度を取るか」と牽制(けんせい)した。

 極東条項の廃止論は当時の外務省で大平正芳外相も交えて議論したという証言もある。だが、その後は機運がしぼみ、日本は今なお、米軍が「極東」で中朝を牽制するだけでなく中東まで展開できる拠点を提供し続けている。(藤田直央)


120. 中川隆[-13663] koaQ7Jey 2018年7月19日 17:55:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16927]

2018/07/13 に公開

宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%80%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F


121. 中川隆[-13811] koaQ7Jey 2018年8月14日 08:13:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17869] 報告

東条首相開戦前夜発言のメモ発見 2018.8.14 7:49 共同通信
天皇に動揺なく「すでに勝った」


日米開戦前夜の1941年12月7日、東条英機首相が語った心境を記した、湯沢三千男のメモ。「既ニ勝ツタ」との東条首相の発言を記している


太平洋戦争の開戦前夜、昭和天皇への報告を終えた東条英機首相の発言や様子を記したメモが14日までに見つかった。開戦の手順を報告する東条に、昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は

「全く安心している。このような状態であるから、すでに勝ったと言うことができる」

と述べたという内容。東条の発言を書き留めた湯沢三千男・内務次官=1963年に死去=のメモを遺族が保管していた。

 開戦前日の41年12月7日、昭和天皇が東条から報告を受けたと「昭和天皇実録」に記載されるが、その様子が明らかになるのは初めて。昭和天皇との関係を探る手掛かりとなる。

122. 中川隆[-13780] koaQ7Jey 2018年8月15日 09:05:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17878] 報告
2018.08.15
アメリカとイギリスは1945年8月より前からソ連との戦争を始めていた



 第2次世界大戦で日本が降伏したのは1945年9月2日のことだった。その日、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が降伏文書に調印したのである。8月15日には天皇の声明が日本人に対して発表された。玉音放送、あるいは終戦勅語と呼ばれているものだ。

 その詔勅には「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨、通告セシメタリ。」(句読点は引用者)とある。

 ポツダム宣言の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表したのである。宣言の受諾は8月9日の「御前会議」で決まり、翌日には連合国側へ打電している。

 アメリカ、イギリス、中国、ソ連は連合国を構成しているメンバーだが、連携していたとは言いがたい。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はソ連と手を組んでいるつもりだったかもしれないが、アメリカを支配する巨大資本はファシストと近かった。

 本ブログでは繰り返し書いているが、1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選すると、ウォール街の巨大金融機関はクーデターを企てている。在郷軍人会を動員し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にして政権を乗っ取ろうとしたのだ。こうした動きを知ったジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という証言を得ている。

 ウォール街の手下は議会にも存在、民主党の内部にもルーズベルト大統領のニューディール政策に反対する議員は少なくなかった。そうした議員たちは「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所は巨大企業や富豪だったという。

 このクーデター計画を成功させるため、アメリカ軍の内部に大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将に接近する。計画の内容を聞き出した上でバトラーはカウンター・クーデターを宣言する。50万人規模の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると少将は告げたという。

 この計画をバトラーは1934年に議会で明らかにし、ウォール街はクーデターを断念するが、その翌年、ひとりの上院議員が暗殺されている。富裕なエリートや銀行を批判、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、純資産税を主張していたヒューイ・ロングだ。

 1941年6月にドイツ軍は主力310万人をソ連に向かって進軍させる。バルバロッサ作戦だ。この時、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎない。ドイツ軍の首脳は西部防衛のために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 西側から攻められたなら、ドイツはひとたまりもない。が、攻撃されなかった。当時、ルーズベルト大統領はソ連の支援に前向きだったが、反対は強かった。ミズーリ州選出の上院議員だったハリー・トルーマンは、「ドイツが勝ちそうに見えたならロシアを助け、ロシアが勝ちそうならドイツを助け、そうやって可能な限り彼らに殺させよう」と主張していた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 ソ連へ攻め込んだドイツ軍はスターリングラードでの戦いに敗れて1943年1月に降伏、ドイツの敗北は決定的になる。それを見て慌てた米英両国は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。

 1945年4月にルーズベルトは急死、5月に入るとドイツが降伏する。ウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)がソ連に対する奇襲攻撃計画を作成したのは5月22日。アンシンカブル作戦だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第三次世界大戦」を始める想定になっていた。

 ドイツの敗北が決定的になったころ、ウォール街の代理人でOSS(アメリカの戦時情報機関)の幹部だったアレン・ダレスたちはルーズベルト大統領に無断でナチスの幹部と新たな同盟についての話し合いを始めていた。

 降伏後の日本でも、源田実など無謀な戦いを推進した軍の幹部、戦前から戦中にかけて思想弾圧を行った検察や特高警察の幹部、裁判官たち、そしてプロパガンダで国民を操ったマスコミの人間は責任を問われないまま要職についている。日本国憲法は「象徴」という形で天皇制を維持した。国体は護持されたのである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808150000/

123. 中川隆[-13752] koaQ7Jey 2018年8月16日 20:09:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17887] 報告

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962
2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス

ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。

124. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年9月02日 07:55:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18157] 報告


関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)


 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。


 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。

 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。

 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。

 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。

 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。

 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/

125. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2018年9月02日 14:23:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18160] 報告

関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。

 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。

 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。

 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。

 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。

 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。

 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/

126. 中川隆[-13658] koaQ7Jey 2018年9月14日 07:55:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18535] 報告

2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809120000/

米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。

 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/

127. 中川隆[-13550] koaQ7Jey 2018年9月21日 07:27:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18667] 報告
2018.09.21 自民党総裁選という茶番


 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。

 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。

 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。

 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。

 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)

 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。

 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。

 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。

 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。

 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。

 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。

 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。

 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

128. 中川隆[-13532] koaQ7Jey 2018年9月29日 07:17:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18898] 報告

イギリスの戦略を知る上で重要な人物がいる。地理学者で地政学の父とも言われているハルフォード・マッキンダーだ。この学者は1904年、ロシアを支配するものが世界を支配するというハートランド理論を発表した。海洋国家であるイギリスは世界の覇者となるためにユーラシア大陸を支配する必要があり、その要はロシアだと分析、そのロシア周辺をハートランドと呼んだ。

 そのハートランドを大陸周辺から締め上げるという戦略を彼は考え、西ヨーロッパ、パレスチナ、アラビア半島、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に日本を含む外部三日月地帯を想定した。その後、内部三日月帯の上にイギリスはイスラエルとサウジアラビアを作り上げている。日本は内部三日月帯の東端にあるが、マッキンダーは外部三日月地帯の一部と見なしている。

 そのイギリスは中国(清)を侵略し、その富を奪うため、1840年に戦争を始める。1842年まで続いたアヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、アロー戦争(第2次アヘン戦争)を引き起こしている。

 こうした戦争でイギリスは勝利、最初の戦争で広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国は認めさせられ、次の戦争でイギリスは賠償金を払わせたほか、天津の開港や九龍半島の割譲を認めさせた。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。

 しかし、イギリス軍に中国を支配する力はなかった。アヘン戦争やアロー戦争は基本的に海戦で、イギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。主要な港を押さえられたことから中国が交易の面で大きなダメージを受けたことは事実だが、中国を制圧できていない。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。

 そこで目をつけられたのが日本。イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続く。

そうした侵略を始めた明治政府を支えていたのがイギリスにほかならない。いわば、日本はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)とうタグをつけられたジハード傭兵と似たような役割をさせられたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809290000/

129. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2018年11月05日 10:16:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19999] 報告

元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル


 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。

130. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2018年11月05日 10:21:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19999] 報告

日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html

要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

131. 中川隆[-13519] koaQ7Jey 2018年11月06日 23:05:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20215] 報告

なぜ日本は、アメリカによる「核ミサイル配備」を拒否できないのか 理由は岸が結んだ「密約」にあった(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/356.html

2018.11.02 矢部 宏治 現代ビジネス


「終戦宣言」へと向かう朝鮮半島。一方、中距離核ミサイル(INF)の全廃条約破棄を宣言したアメリカ。一見、矛盾するように見えるこの動きは、実は同じコインのウラとオモテなのだと、ノンフィクション作家の矢部宏治氏は指摘する。このままでは、朝鮮半島から米軍が撤退する代わりに、日本に米軍の核ミサイルが配備されてしまう可能性が非常に高いというのだ。

10万部を突破したベストセラー『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』で、アメリカとの異常な従属関係の本質を解き明かした矢部氏が、最新作『知ってはいけない2——日本の主権はこうして失われた』(11月14日発売予定)で新たに描き出したのは、世界中の国のなかでなぜ日本だけが、そうした異常なアメリカの軍事支配から抜け出せないのかという戦後日本最後の謎≠セった――。

主権の回復へ向かう韓国と、状況が悪化する日本

1年前には誰も予想できなかったことだが、今年の3月、突然朝鮮半島で劇的な南北の緊張緩和が始まり、6月には歴史的な米朝首脳会談も行われた。平和条約締結へのタイムテーブルはまだわからないが、「終戦宣言」そのものは、いつ出されてもおかしくない状況となっている。

一方、先月〔10月〕の20日、アメリカのトランプ大統領は、約30年間続いたロシアとの中距離核ミサイル(INF)全廃条約の破棄を表明した。

私のような日米の軍事上のウラの取り決めばかりを見ている人間からすれば、一見、矛盾するように見える、この2つの動きの意味するところは明らかだ。

つまり、スピードはどうあれ、すでに制空権を失い、反米軍基地運動も強力な韓国から、やがて米軍は撤退していく。その過程で、日本にとって「対米従属の最後のお友達」だった韓国の国家主権も、しだいに回復していくことになるだろう。

しかしその一方、日本の状況は悪化する。同じく制空権を失った、すべての自衛隊基地と米軍基地のあいだで共同使用が進み、そこにやがて対中国・ロシア用の中距離核ミサイルが配備されることになる。そして米軍の主要部隊はグアムその他へ撤退するが、「共同基地」に配備された核ミサイルの発射ボタンは米軍が握り続けるのだ……。

たんなる悪夢だと思われるだろうか。そうではない。すでに何十年も前から、「全自衛隊基地の米軍共同使用」と「日本の陸上基地への核ミサイルの配備」は、アメリカの軍産複合体が具体的な目標としてきた現実なのだ。日本国民の抵抗が弱ければ、必ず実現するだろう。

なぜ韓国にできる国家主権の回復が、日本にだけはできないのか。最新刊『知ってはいけない2——日本の主権はこうして失われた』を書く過程でわかったことだが、その最大の原因は、現在の安倍首相の祖父である岸首相が「安保改定」で結んだ「3つの密約」にあったのである。

岸が結んだ密約中の密約「討議の記録」

みなさんは「討議の記録」という密約文書について、聞いたことがあるだろうか。


安保改定で藤山外務大臣が1960年1月6日にサインした、密約中の密約「討議の記録」

これは安保改定時に岸政権がアメリカ政府と結んだ、「密約中の密約」といっていいほど重要な超極秘文書(藤山外務大臣がサインした)なのだが、おそらく普通の人はほとんどその名前さえ知らないだろう。

戦後日本における圧倒的な米軍従属体制(いわゆる「安保村」)のなかで、この密約文書は50年ものあいだその存在を隠蔽され続け、いまからわずか8年前(2010年)になってようやく「文書の存在」そのものは公認されたものの、その後も外務省から「こんな文書に効力はない」と、その法的有効性を否定され続けているからだ。

現在も、日本のほとんどの有識者たち(大学教授、官僚、メディア関係者)が、この外務省の説明を疑わずに信じている。その意味で、やはり「戦後日本(=安保村)」における社会科学の知的レベルは、世界一低いと言っていいだろう。

いかなる形態の文書であれ、外務大臣がサインした文書に法的拘束力があることなど、日本以外の国では高校生でも知っている事実だからである(「条約法に関するウィーン条約」第2条・7条・11条他を参照)。

「討議の記録」に書かれた驚くべき内容

ここでその「討議の記録」という密約文書の驚くべき内容を、ごく簡潔に紹介しておこう。

1960年1月6日、安保改定の調印(同19日)から約2週間前、岸政権の藤山外務大臣とアメリカのマッカーサー駐日大使(有名なマッカーサー元帥の甥)によってサインされたその文書には、次の4つの密約条項が明記されていた(以下、著者による要約。〔 〕内は補足説明部分)。

A〔日本の国土の軍事利用について@〕:「核兵器の地上配備」以外の、兵器に関する米軍の軍事行動については、日本政府との事前協議は不要とする
B〔他国への軍事攻撃について@〕:日本国内から直接開始されるケース以外の、米軍による他国への軍事攻撃については、日本政府との事前協議は不要とする〔=沖縄(当時)や韓国の米軍基地を経由してから攻撃すれば、問題はない〕
C〔日本の国土の軍事利用についてA〕:Aの「核兵器の地上配備」以外で、旧安保条約時代に日本国内で認められていた米軍の軍事行動については、基本的に以前と変わらず認められるものとする
D〔他国への軍事攻撃についてA〕:米軍の日本国外への移動については、日本政府との事前協議は不要とする〔=一度国外に出たあと、米軍がどんな軍事行動をとろうと日本政府は関知しない〕

いかがだろうか。この4つの密約条項を読んで、「ふざけるな!」と腹の底から強い怒りがわいてくると同時に、「ああ、そうだったのか」と、これまで不思議に思っていたさまざまな出来事の意味が、すっきり腑に落ちた人も多いのではないだろうか。

つまりこれらの密約をまとめると、米軍は日本国内において「事前協議なしでの核兵器の地上配備」以外は、ほぼ何をやってもいいし(上記AとCによる)、事実上、日本の基地から自由に他国を攻撃してもいい(上記BとDによる)ということになるからだ。

さらに、岸首相自身が晩年の回顧録(*)で明らかにしているように、たとえ将来、これまで一度も行われたことのない日米間の「事前協議」が形式上行われたとしても、そこでアメリカ側が日本の陸上基地への核ミサイルの配備を提案したら、日本政府がそれを拒否するケースは最初から想定されていないのである。


四コマまんがは特設サイトでも無料で読めます

(詳しくはあとで述べる『知ってはいけない2――日本の主権はこうして失われた』の第3章・p.137本文と注を読んでいただきたいが、ほぼ間違いなく「緊急時には事前通告により核ミサイルの地上配備を認める」という「沖縄核密約」と同じ密約が、本土についても口頭で結ばれているものと思われる)

(*)「条文でどうなっていようと、本当に危急存亡の際、事前に協議して熟慮の結果、拒否権を発動するに決めてノーと言ったからといって、それが日本の安全に効果があるかどうかは議論するまでもないだろう」(『岸信介回顧録―保守合同と安保改定』広済堂出版 )

岸が犯した最大の罪

なぜそのような馬鹿げた状態が、これまで半世紀近くも続いてきてしまったのか。

それには理由がある。安保改定で岸が犯した最大の罪は、この軍事主権を放棄したとんでもない内容の取り決めを、「国民に知らせず結んだ」ことだけでなく、それを結んだあと、破って捨てた」ということなのだ。

つまり、この「討議の記録」については、すべて民間から登用した「親友」の藤山にだけ責任を負わせ、自分は知らぬ存ぜぬを決め込んで、次の政権(池田政権)にも引き継がなかったのである。

岸が満州時代に述べた有名な「政治哲学」として、

「政治資金は、濾過器(ろかき)を通ったきれいなものを受け取らなければいけない」

「問題が起きたときには、その濾過器が事件となるので、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから、掛かり合いにならない」

という言葉があるが、要するに安保改定において岸は、親友だった「藤山という政治的濾過器」を使って密約の問題を処理したわけだ。


四コマまんがは特設サイトでも無料で読めます

改ざんされていた外務省の最重要文書

この岸の信じられない行動が原因で、その後、日本の外務省は大混乱に陥り、対米交渉能力を完全に喪失していくことになる。その過程で起こった象徴的な出来事が、今回私が本を書く過程で発見した「外務省における公文書改ざん」事件である。

上の図版を見てほしい。これは外務省が問題の「討議の記録」について、「こんな密約に法的根拠はない」と主張する最大の根拠としてきた極秘文書(「核兵器の持ち込みに関する事前協議の件」)である(*)。

ところがこの「安全保障課y(のちに北米局安全保障課長となる山下新太郎氏)」という記述者名が書かれた4枚の「極秘報告書」の後半(「1」「2」と各パートの冒頭に番号が打たれた「2」の部分)が、突然まったく別人の筆跡になっているのだ。

すでに正式な筆跡鑑定もしたが、「前半(1・2枚め)」と「後半(3・4枚め)」の文字を実際に比べてみれば、それが別人の手によるものであることは、どなたにでもすぐにおわかりいただけるだろう。

なぜ外務省がこんなことをしたかというと、日本国民に対して絶対に明らかにできない「米軍艦船による核兵器の持ち込み」を、「そんなことは絶対に行われていない」と強弁するための隠蔽工作だった。

そしてそうした外務省の論理的な矛盾は、1974年に頂点に達する。というのもこの年、佐藤首相が「非核三原則」でノーベル平和賞を受賞する一方、なんとその前年には、核攻撃用の爆撃機を多数搭載した航空母艦ミッドウェイの「横須賀・母港化」(=これは小規模の核攻撃基地を国内に設置したに等しい行為だ)が実現していたからである。

以後、このあまりに巨大な矛盾をアメリカ側から絶対に公表されたくない外務省が、対米交渉能力を完全に喪失していったのは、極めて当然だったと言えるだろう。

そのため外務省は、2ページめのマンガの3コマめにあるように、「討議の記録」を約半世紀に渡って金庫にしまいこみ、その存在を否定しつづけるしかなかった。

しかしその一方でアメリカは、もともと同じマンガの4コマめにあるように、「討議の記録」の内容を2つに分割した「基地権密約文書」〔=日本の国土の軍事利用についての密約〕と「朝鮮戦争・自由出撃密約文書」〔=他国への軍事攻撃についての密約〕という、2つの密約文書を、「討議の記録」と同じ日に藤山にサインさせ、前者は日米合同委員会、後者は日米安保協議委員会という、安保条約にもとづく密室の協議機関の議事録にそれぞれ編入していた。

その結果、日本人は誰一人その正確な意味を知らない、とんでもない内容の取り決めであるにもかかわらず、「討議の記録」のほとんどすべての内容が、新安保条約・第6条にもとづく正式な日米合意として日米の協議機関に受け継がれ、安保改定で回復したはずの日本の国家主権は、再び激しく奪いとられていくことになったのである。

(*)外務省「いわゆる「密約」問題に関する調査結果報告対象文書(35点)の「1.1960年1月の安保条約改定時の核持込みに関する「密約」問題関連」P.84-87参照/ https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/mitsuyaku/pdfs/t_1960kaku.pdf

親米路線がもたらす大きな危険

みなさんもよくご存じのとおり、岸は獄中のA級戦犯容疑者の身から、わずか8年で日本の首相となる過程で、早くからCIAの協力を得ていた政治家だった。そうした異常な環境が、彼の密約についての同じくあまりに異常な行動に関し、どのような影響を及ぼしていたのか。それを短く説明することは、とてもできない。

そこで版元の講談社の許可を得て、その背景を説明した『知ってはいけない2』の第3章を、特設サイトで全文公開することにする(「ウェブ立ち読み」のPDFをご覧ください)。

その本当の経緯を多くの人が正確に理解することが、今後の日本社会の進路と選択を考える上で、非常に重要な意味を持つと思うからだ。

岸を過剰に評価したり、逆にたんなる売国奴として切り捨てることは、おそらくどちらも間違いである。彼が確立した親米路線のなかで、その後日本は大きな経済的繁栄を遂げることになった。

しかしその過程で岸がアメリカ政府やCIAとのあいだで結んだ、国民の知らないあまりに異常な合意が、いま「戦後日本」という国に大きな危険をもたらしている。

なぜなら自国の軍事主権を、完全に他国の手に委ねることは、ほとんど自殺行為に近い暴挙だからだ。少し想像してほしい。

今年の2月までの米朝の軍事的対立期に、もし米軍が日本の基地から北朝鮮を攻撃したら、私たちの未来にどんな悲劇が待ち受けていただろう。もしも、米軍が核兵器の地上配備を行っていたら、私たちはどれほど深刻な危険にさらされていただろう。

軍事主権の放棄とは、戦争を「始める権利」の放棄であると同時に、戦争を「しない権利」の放棄でもある。国家にとってそれほど危険な状態はないのだ。

「朝鮮戦争の終戦」という世界史レベルの変化が起こりつつあるいま、私たち日本人には、かつて自国の首相が結んだ「誤った密約」の存在に真正面から向き合い、「ポスト戦後日本」の行方を正しく選択する大きな歴史的使命が与えられているのである。

132. 中川隆[-13631] koaQ7Jey 2018年11月16日 07:28:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20773] 報告
2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(1/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/


 シンガポールで11月14日から15日にかけてロシア-ASEAN首脳会議が開かれ、ASEAN各国の首脳はウラジミル・プーチン露大統領と相次いで会談している。そのひとりが日本の安倍晋三首相だ。その際、安倍は「1956年(日ソ)共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることでプーチン大統領と合意した」のだという。

 安倍政権は今後、ロシアと平和条約の交渉をするだろうが、条約の調印に到達する可能性は小さい。日本とロシアが真の意味で友好的な関係築くことをアメリカ支配層は許さないだろう。そうしたことを安倍自身だけでなく、アメリカもロシアもわかっているはず。この交渉自体、アメリカの命令かもしれない。ロシアや中国と日本が真に友好的な関係を築けるのはアメリカを支えるドル体制が崩れてからだろう。

 この共同宣言は1956年10月、内閣総理大臣だった鳩山一郎がソ連を訪れ、ソ連閣僚会議議長のニコライ・ブルガーニン首相と日ソ共同宣言に署名したもので、同年12月に発効している。この宣言は当時のアメリカ支配層を激怒させたが、発効した事実は消せない。プーチン大統領もこの宣言からスタートせざるをえない。

 鳩山一郎を首班とする内閣がスタートしたのは1954年12月。鳩山首相だけでなく、重光葵外務大臣、河野一郎農林大臣、石橋湛山通産大臣たちもソ連や中国と友好関係を結ぼうと考えていた。1955年6月にはロンドンのソ連大使館で米ソ両国は国交正常化の交渉を始めている。

 重光は8月末にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、その際に重要な提案をしている。「相互防衛条約」の試案を提示、その第5条で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。

 1945年4月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死した後、ホワイトハウスではニューディール派の影響力が急速に低下、ウォール街が実権を握る。新しく大統領になったハリー・トルーマンのスポンサーだった富豪のアブラハム・フェインバーグは裏でシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えた人物だ。

 トルーマン政権は国民党に中国を支配させようとしたが、1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月に解放軍は北京に無血入城した。5月にはアメリカの破壊工作組織OPCが拠点にしていた上海がコミュニストに制圧される。中華人民共和国が成立するのはその年の10月のことだ。そうした流れの中、OPCは拠点を日本へ移動させている。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)

 1949年には国鉄を舞台とした「怪事件」が相次ぎ、それを口実として労働組合など左翼と見なされる人びとが弾圧された。その事件とは7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。

 1950年10月にOPCはCIAに吸収されたが、その4カ月前、6月25日に朝鮮半島で戦争が勃発している。その直前にジョン・フォスター・ダレスは東アジアを歴訪、日本では6月22日にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの自宅で開かれた夕食会に参加した。日本側からは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康正、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三が出席している。そのダレスに対し、天皇から軍国主義的な経歴を持つ「多くの見識ある日本人」に会い、「そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべき」だとする口頭のメッセージが伝えられたという。メッセンジャーはパケナムだ。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811140000/

2018.11.15
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/


 1951年1月にジョン・フォスター・ダレスが率いる講和使節団が来日、占領後の日本をめぐる交渉が始まる。ダレスは日本に対し、自分たちが「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を求めようとしていた。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)

 少なくともウォール街にとって朝鮮戦争が対中国戦争の一環だと言うことを示唆する出来事が1951年4月に引き起こされている。ウォール街が作り出したCIAの軍事顧問団が約2000名の国民党軍を率いて中国領内に侵入、一時は片馬を占領したのだ。翌年の8月にも国民党軍は中国侵攻を試みたが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わる。

 この当時、CIAやアメリカ軍の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を計画していた。例えば、1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれ、この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)

 好戦派の中心メンバーのひとり、カーティス・ルメイは日本や朝鮮半島で非武装の住民を大量虐殺した作戦の責任者で、1948年から57年にかけてSAC(戦略空軍総司令部)、空軍副参謀長を経て61年から65年にかけて空軍参謀総長を務めている。

 SACは1954年、ソ連に600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書によると、ソ連、中国、そして東ヨーロッパの最重要目標に対しては水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。

 攻撃目標とされた大都市にはソ連の都市だけでなく、中国の北京も含まれている。沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められ、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーはルメイと同じ好戦派で、1960年から62年にかけてのJCS議長。キューバへアメリカ軍を侵攻させる口実として偽旗作戦が計画されたが、その中心メンバーでもあった。レムニッツァーの議長再任はジョン・F・ケネディ大統領が拒否した。

 ルメイやレムニッツァーを含む好戦派は1957年初頭、ソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 鳩山政権はこうした中、ソ連との友好関係樹立を目指していた。重光外相は1956年8月上旬の頃に歯舞島と色丹島の返還というソ連案を受け入れ、平和条約を締結しようと言い始めたが、同月下旬に態度を一変させ、国後と択捉も要求するようにという訓令を出す。2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝されたとアメリカの国務長官だったジョン・フォスター・ダレスからその間に言われたのだという。そうした脅しにもかかわらず、鳩山首相は共同宣言に署名したわけだ。

 共同声明が発効した1956年12月に鳩山は辞任、CIAとの関係が指摘されている岸信介、つまり安倍晋三の祖父が後継総理になると見られていたが、鳩山と政策が近かった石橋湛山が勝ってしまう。

 ところが、アメリカにとって好都合なことに石橋が自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったと言われているが、石橋は退陣せざるをえなくなり、岸が総理臨時代理として政府を動かすことになる。正式に岸が首相となるのは1957年2月のことだ。

 アメリカの支配層は日本が中国やソ連/ロシアに接近することを嫌ってきた。彼らの長期目標は中国やソ連/ロシアの制圧であり、日本は侵略の拠点だからだ。日本のそうした立場は明治維新の当時から変化していない。安倍は岸と同じように、アメリカ支配層の手先だ。

 その安倍は今年(2018)年9月、ウラジオストックで開催されたEEF(東方経済フォーラム)でロシアに対して平和条約の締結を呼びかけたのだが、プーチンから「いま思いついた。平和条約を前提条件なしで結ぼう。今ここでとはいわない。今年末までに結ぼうではないか」と逆に提案され、安倍は返答できなかったという。安倍の発言はアメリカ支配層が書いたシナリオに沿うものだったはずだが、プーチンの逆提案はそこに書かれていなかったのだろう。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811130000/

2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(3/4)​
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811150001/


 現在、東アジアではロシアと中国を中心に状況が大きく変化しつつある。その中心にはロシアの鉄道とパイプラインの建設、中国の一帯一路プロジェクトがある。そうした状況の変化を象徴する出来事が朝鮮半島で展開されている。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、イギリスやアメリカはユーラシア大陸の沿岸部を支配し、海運を押さえて内陸の中国やロシア/ソ連を締め上げようとしてきた。それに対抗してロシアは鉄道を建設したのである。

 帝政時代、ロシアはモスクワとウラジオストクを結ぶシベリア横断鉄道の建設を計画、1891年に着工して1916年に完成させた。その鉄道を朝鮮半島へ延ばそうという計画もある。それと並行して天然ガスや石油のパイプライも建設、東アジアをビジネスで結びつけ、経済的な発展を目指そうというわけだ。

 その計画のネックになっていたのが朝鮮。1991年12月にソ連が消滅、後ろ盾を失った朝鮮はイスラルや統一教会との関係を強めたとも言われている。その朝鮮に対し、​ロシアのドミトリ・メドベージェフ首相は2011年夏、110億ドル近くあったソ連時代の負債の90%を棒引きにし、鉱物資源の開発などに10億ドルを投資すると金正日に提案している​。2011年12月に金正日が急死するが、翌年の4月にはロシア議会がこれを承認している。(金正日の急死に暗殺説があることは本ブログでも紹介したが、今回はこの話を割愛する。)

 今年のEEFで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。こうしたプロジェクトの実現はアメリカの世界制覇プロジェクトを揺るがす。そこで使われているのが「制裁」。この「制裁」はロシア、中国、韓国で進めているプロジェクトの阻止が目的だろう。

 韓国の動きを牽制するため、バラク・オバマ大統領は自分たちの忠実な下僕である日本を使おうとした。韓国を自分の支配下から離れないように日本との関係を強化させようとしたのだ。

 日本と韓国が対立している原因のひとつが慰安婦の問題。オバマ大統領は日韓両国の首脳との会う際、数年にわたり、毎回のように慰安婦の問題を採りあげて両国の対立を解消させようとしていたという。これは同政権でNSC(国家安全保障会議)の安保副補佐官だったベン・ローズの話だ。

 朴槿恵が韓国の大統領だった2015年12月に日本と韓国の外務大臣は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と発表したが、文在寅政権になって状況が変わる。外務大臣直属の検証チームは2017年12月、その合意は朴槿恵と安倍晋三の側近ふたりによる秘密交渉で進められた結果であり、慰安婦だった女性の意見が十分反映されなかったと指摘したのだ。

 そして今年、つまり2018年の3月26日に金正恩朝鮮労働党委員長は特別列車で北京へ入って釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会談、4月27日に朝鮮の金正恩労働党委員長と文在寅大統領が板門店で会談、緊張緩和の方向へ動き始める。

 文大統領と金委員長が会談する前日、アメリカ政府はCIA長官だったマイク・ポンペオが朝鮮で金委員長と握手する様子を撮影した写真を公表した。4月1日頃、つまり中朝首脳会談の直後に撮影されたようだ。アメリカの存在をアピールしたかったのだろう。

 紆余曲折はあったが、今年6月12日のシンガポールでドナルド・トランプ大統領は朝鮮の金委員長と会談、朝鮮半島の完全な非核化が確認された。その日、トランプは2017年4月6日のシリアに対するミサイル攻撃は中国への威嚇だったと語っている。

 おそらくトランプの発言は事実だが、この攻撃によって判明したのはロシアの防空システムが優秀だということ。この出来事に限らないが、2015年9月30日に始まったシリア政府の要請に基づくロシア軍の軍事介入はロシア軍の強さを証明することになった。アメリカ軍を恐れる必要はないと朝鮮も判断しただろう。

 2017年4月6日の攻撃では59機のトマホーク(巡航ミサイル)が発射され、そのうち目標へ到達したんは23発。6割強が撃墜されたことになる。アメリカにとっては嫌な結果。その1年後にもアメリカ軍はシリアをミサイルで攻撃するが、ロシア側は前年の反省から短距離用の防空システム、パーンツィリ-S1を配備していた。それが友好で、約7割のミサイルが撃墜されたと言われている。アメリカ軍の攻撃は威嚇になっていないだろう。

 シンガポールでの米朝会談から間もない6月22日、トランプ大統領は朝鮮を「尋常でない脅威」だとし、制裁を続ける方針を示した。その日、韓国の文大統領はロシアでウラジミル・プーチン大統領と会談、平和的な朝鮮半島の非核化を目指すことで一致、国境を越えたエネルギー・プロジェクトを推進し、FTA(自由貿易協定)に関する話し合いを始めることで合意したという。ロシア、中国、韓国、そして朝鮮は手を組み、アメリカは孤立した形だ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811150001/


2018.11.16
日本とロシアが真に接近することをアメリカ支配層は許さない(4/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811160000/


 アメリカのバラク・オバマ政権が仕掛けたウクライナのクーデターは中国とロシアを戦略的な同盟国にした。この関係は崩れそうもない。アメリカの影響下にあるものの、韓国はロシアや中国に接近、ビジネス上の関係は深まっている。日本の大企業もロシアや中国との取り引きなしに生き残ることは困難で、中ロとの接触は強まっていた。

 しかし、ロシアと中国が主導する形で和平が進み、経済が発展することをアメリカ支配層は認められない。ドルを使った金融マジックで世界を支配しているアメリカに生産能力はなく、ドルが基軸通貨の地位から陥落すればアメリカの支配システムは崩壊する。各国がドル決済をやめたなら、アメリカの金融マジックは破綻する。そうした流れを止めるため、アメリカはロシアと中国を軍事的に脅しているが、効果はない。

 朝鮮半島の問題でアメリカが受け入れそうな条件は、核兵器開発を放棄させた上で軍事侵略するリビア・モデル、体制の違う国を統一させて全体をアメリカが制圧して支配地域を拡大させるドイツ・モデル、疲弊した状況を利用して庶民を低賃金労働者として西側巨大資本のカネ儲けに奉仕させるというベトナム・モデル。アメリカの支配地域を拡大させるものでなければ、アメリカは受け入れない。

 日本とロシアとの関係でも同じことが言える。日本がロシアや中国と友好的な関係を結ぶことをアメリカ支配層は望まない。アメリカ支配層に従属することで自分の地位と収入を約束されている政治家や官僚、その周辺の学者やマスコミ関係者なども同じだ。

 日本の検察やマスコミは東シナ海を「友愛の海」にしようと提案していた鳩山由紀夫を2010年に首相の座から引きずり下ろした。次に菅直人が首相に就任するが、この内閣ができて間もなく、石垣海上保安部は「日中漁業協定」を無視して中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まり、日本と中国との関係を壊しにかかる。当時の国土交通大臣は前原誠司だ。2011年9月に首相は菅直人から野田佳彦へ交代、野田は「自爆解散」して2012年12月からは安倍晋三が首相に就任した。

 経済的にはロシアや中国との関係を強める方が日本にとって有利。業種にもよるが、日本の大企業が中国との取り引きなしに維持できなくなって久しい。前にも本ブログで書いたように、日本の大企業もアメリカ支配層の戦略に耐えられなくなり、日本の経済界は水面下でアメリカ離れを画策している。政治家や官僚のようなアメリカ支配層の代理人と違い、大企業の忍耐が限界に達することも否定できない。そうした中、日本では大企業のスキャンダルが相次いで発覚したのは興味深い「偶然」だ。

 日本で推進されてきたTPP(環太平洋連携協定)は巨大資本のような私的権力が国を支配する体制を築くことが目的で、トランプのFTAはアメリカがターゲット国を支配する仕組みだ。こうした仕組みができてしまえば、日本は主権を完全になくし、ロシアや中国とまともな取り引きができなくなる。別個の戦略が交錯しているが、日本を支配し、食い物にしようとしている点で大差はない。

 アメリカの支配層は単にカネ儲けしよとしているだけでなく、世界制覇を目指している。これは1992年2月に国防総省のDPG草案という形で作成された。草案作成の最高責任者は国防長官だったリチャード・チェイニーで、作業の中心はポール・ウォルフォウィッツ国防次官だった。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。

 その翌年の12月にソ連が消滅したことでアメリカは唯一の超大国になったと彼らは認識、他国に配慮することなく、つまり国連を無視して単独で世界制覇に乗り出すという宣言だ。そのドクトリンに日本を組み込むという宣言が1995年2月に発表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」だ。そのレポートに基づいて安倍首相も日本をアメリカの戦争マシーンに組み込みつつある。

 ちなみにその前年、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月20日には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、同じく3月30日に警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負う。そして8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙は日本航空123便に関する記事を掲載した。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811160000/

133. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2018年11月23日 18:10:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21043] 報告


終戦後 満州・朝鮮での「接待」とは

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg


日本人を捨てて逃げた皇軍

最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。



8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。

極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。


満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。

騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。

ソ連兵に日本人の女を差し出した

ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。

関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。


38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。

やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。

また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。


そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。

命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。


このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html

134. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2018年12月03日 12:09:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21604] 報告

2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/

2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)

 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。

 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。

 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。

 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。

 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。

 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。

 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)

 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)

 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。

 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。

 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。

 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。

 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

135. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2018年12月05日 11:50:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21685] 報告

東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?
天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。

天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね。


▲△▽▼

「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味
http://kenpo9.com/archives/4519
2018-12-05 天木直人のブログ ※文中、「省っ長天皇」を「象徴天皇」に修正


 きょうの各紙が一斉に報じた。

 皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位し、最初に迎える国賓がトランプ米大統領になる方向になったと。

 これはもちろん安倍政権が意図的に流した情報だ。

 そしてトランプ大統領を最初の国賓として招待する事は安倍首相が自ら決めた事だ。

 この事は何を意味するのか。

 その答えは、紹介した「日米安保体制史」(吉次公介著 岩波新書)の中にある。

 「日米安保体制史」の本の中に繰り返し出てくる驚きの史実は昭和天皇こそ日米安保体制を最も強く望んだ人だったということだ。

 私は、昭和天皇が吉田茂に対し、早く日米安保条約を締結せよと急がしたことを豊下楢彦氏の著書を通して知っていた。

 また、沖縄処分の事や、在日米軍の必要性をマッカーサーに訴え、逆にマッカーサーから憲法9条の重要を指摘されたという事も公開情報で知っていた。

 しかし、そのような昭和天皇の日米安保重視の発言は、他にもここまで多く存在していたのだ。

 その事を私は「日米安保体制史」で知って驚いた。

 平和憲法が出来た直後ならいざ知らず、それから何十年たっても、日米安保重視の政治的発言を昭和天皇は繰り返していたのだ。

 その天皇陛下を反面教師として今上天皇は憲法9条遵守の立場を貫かれた。

 そして来年の5月1日からは、文字どおり戦後世代の皇太子が即位される。

 その皇太子が真っ先に迎える国賓が米国の大統領なのである。

 賢明な読者ならもうお分かりだろう。

 文字通り戦後世代の新しい天皇を象徴天皇として戴く新しい時代の日本もまた、日米関係を最重要視する日本になるということだ。

 その事を、米国に伝え、みずからの国民に対してはそういう事だと思わせる。

 まさしくこれが安倍首相の、新天皇が迎える最初の国賓はトランプ米大統領でなくてはならないという、意思だ。

 それを知ってメディアが流したとすれば、メディアもまた日米安保最優先ということだ。

 それに気づかずに流したとすればメディア失格だ。

 どちらにしても、「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味は深刻である(了)


トランプ氏、新天皇と来年5〜6月会見へ 外国首脳で初
https://digital.asahi.com/articles/ASLD37RPGLD3UTFK01Y.html
2018年12月4日03時00分 朝日新聞


 日米両政府は、来年6月末に大阪での開催を予定する主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の前に、米国のトランプ大統領を国賓待遇として日本に招く方向で調整に入った。皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位するため、トランプ氏が最初に会見する外国首脳になる見通しだ。

 政権幹部が明らかにした。ブエノスアイレスでのG20サミットにあわせた先月30日の日米首脳会談で、トランプ氏は新しい天皇陛下との会見について「大変光栄に思う」と述べたという。会談冒頭でもトランプ氏は「日本に招待され天皇の素晴らしい行事を心待ちにしている」と語った。

 来日の時期は、皇太子さまが即位する5月1日から大阪でのG20がある6月28、29日までの間で調整。トランプ氏は新天皇と会見し、安倍晋三首相とも会談する方向だ。G20でも改めて来日することになり、米国大統領が短期間に連続して来日するのは極めて異例という。

136. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2018年12月10日 07:08:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21889] 報告

太平洋戦争だけでなく朝鮮戦争もヤラセだった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ

ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


==========================

ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!

137. 中川隆[-13761] koaQ7Jey 2018年12月10日 07:14:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21889] 報告

馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、中国共産党、マスコミ
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の官僚・皇族、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、サダム・フセイン、カダフィ、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです :


【秋の特別対談】馬渕睦夫氏と語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BU4nkKMmVfo&app=desktop

ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼


馬渕睦夫×水島総 「世界を統治する者との最終戦争が始まる!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=L06Zs03T2D0

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


138. 中川隆[-13322] koaQ7Jey 2018年12月30日 09:41:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

>>113 日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

に追記


2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。

しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。

大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。


脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告


昭和十八年 雑誌広告

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。


‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。

坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)


 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥

坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」


昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが

(略)

或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。

(略)

その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)

医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。

(略)

そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)

○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)

○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。

(略)

このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。

(略)

このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)

○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。

○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。

(略)

ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、

(略)

一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。

興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。

○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。

○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。

旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、

(略)

この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)

最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない

(略)

従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。

(略)

この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)

医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。

(略)

例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。

(略)

そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。


<以上引用>

◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
 同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
 (密造というのもあったようですが)

 上記議事録に名前が挙がった会社の沿革 
 昭和20年代はスルーです。

 旧大日本製薬の沿革
 昭和3年から昭和24年の間はスルー。

上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。

「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。

▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。

参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。

(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。

田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。

<以上引用>

▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果

ヒロポン関連の画像

20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代

中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)


前掲議事録のほぼ1年前のもの

第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日

○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。

そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。

併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>

 ※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
  当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。

類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年) 
photoplay-6

メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

139. 中川隆[-13309] koaQ7Jey 2018年12月30日 13:35:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

昭和天皇が GPモルガンの手先のスパイでなかったら太平洋戦争は勝っていた


大東亜戦争で真に反省すべき事『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』2018/12/22
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html


「勝てる戦争をなぜ負けたのか」という反省をしていないので、我々は当時の弱点を今もひきずっている。

■1.開戦直前に正式に採択された「勝てる戦略」があった。

 大東亜戦争に関する自虐史観には、次の二つの側面がある。

 1)「世界を侵略した悪い戦争」
 2) 何十倍もの国力を持つアメリカと戦って「勝てるはずのない愚かな戦争」

 このうち、1)の「悪い戦争」のウソはアメリカの共和党系の歴史学者や政治家により明らかにされつつあり、特にスターリンが日米を戦わせて漁夫の利をさらった史実が近年の秘密文書の公開などでも裏付けられてきた。[a]

 もう一つ、2)の「勝てるはずのない愚かな戦争」という見方に関しても、歴史文書の解明が進み、それが捏造された自虐史観であることが分かってきた。最近、出版された茂木弘道(もてき・ひろみち)氏の『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』[1]は、この点を史実で明らかにした労作である。

 それも歴史の後智恵から「こうすれば勝てた」という「タラ・レバ」論ではなく、開戦直前に大本営政府連絡会議で正式に採択された国家戦略があった、というのである。

 茂木氏は、日本がこの戦略をそのまま実行していたら、十二分に勝てた(といっても、アメリカを征服するのではなく、日本の自存自衛とアジア諸国の独立を勝ち得て、有利な停戦に持ち込む)戦略であることを史実をもとに論証している。

 しかも、なぜ、この戦略が実行されなかったのかも、史実を通じて分析している。そこから出てくるのは、なぜ勝てる戦いをみすみす負けてしまったのか、という真の反省である。その真の反省が行われていない事から、当時の弱点を現代日本も引き摺っている。


■2.開戦前は日本の戦力が優勢だった

 まず戦略の前提として、開戦前の日米の戦力を比較しておこう。[1, p89、一部弊誌にて簡略化] 日本に比べて、米国太平洋側、および米国全体の優劣を○×で表しておく。

        日本    米国    米国
           (太平洋側) (大西洋側を含む合計)
  戦艦    10    11○   17○
  空母    10     3×    7×
  巡洋艦   38    32×   37×
  駆逐艦  112    84×  172○
  潜水艦   65    30×  111○
  航空機 4800     ?  5500○

 戦艦数では若干負けていたが、翌年完成する大和、武蔵を含めれば米国の太平洋側戦力は上回っていた。空母、巡洋艦では日本は米国全体に対しても優勢だった。駆逐艦、潜水艦でも米国の太平洋側戦力は凌駕していた。

 航空機数では日本は米国全体の87%。数は多少劣勢だが、零戦の性能ははるかに米軍機を上回っていた。開戦劈頭のフィリピン攻撃では、台湾から渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲して大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜されたのに対し、零戦の損害は1機のみであった。

 米国が工業力をフル回転させて大艦隊、大航空戦力を投入できたのは開戦2年目以降であるから、当初2年ほどは、日本が質だけでなく、量的にも米軍を凌駕していたのである。

 このデータから見れば、日本が米国相手に「勝てるはずのない愚かな戦い」をした、という見方は事実に悖(もと)る事が分かる。開戦2年以内に勝負をつければ、日本が日露戦争のように優勢のまま停戦に持ち込む、という可能性は十二分にあった。そして、実際にそれを目指した戦略が立てられていたのである。


■3.「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

 開戦直前の昭和16(1941)年11月15日、大本営政府連絡会議は「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を採択した。アメリカ、イギリス、オランダ、蒋介石政権に対する戦争の「終末を促進」するための戦略案である。当時気鋭の経済学者たちを動員して各国の抗戦力調査を行い、それに基づいて立案された戦略であった。

 その冒頭の方針が、すべてを語っている。()の数字は説明のために弊誌で挿入したものである。また、かな、漢字などは読みやすく変えている。正確な原文は[1]を見ていただきたい。

__________
方針1 (1)速やかに極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立するとともに、(2)更に積極措置により蒋政権の屈服を促進し、(3)独伊と提携してまず英の屈服を図り、(4)米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。[1, p47]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 (1)の「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」とは、当時のわが国はABCD(米英中蘭)包囲網で資源輸入を絶たれ、国家の生存を脅かされていたからである。そこで日本は、開戦劈頭、電撃的な攻勢によりマレーシア、インドネシアなど南方資源地帯を確保した。

 特に石油に関しては、昭和17年2月、陸軍空挺部隊の活躍でインドネシアのパレンバン石油基地を無傷で確保できた。当時の日本の年間石油必要量およそ4百万トンに対して、年産約3百万トンの石油が確保でき、さらに技術者の努力により、これを6百万トンにまで拡大できた。こうして、(1)「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」する戦略は、見事に達成されたのである。


■4.「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない」

 (2)の「蒋政権の屈服」と(3)の「英の屈服」の鍵がインド洋にあった。まず、米英から蒋介石政権への軍事援助物資は、大西洋からアフリカ喜望峰を回ってインド洋を北上し、インドのカルカッタ港などから中国大陸の奥地に逃げ込んだ蒋介石政権に送られていた。

 インド洋の制海権はどうだったのか。開戦直後のシンガポールを拠点とするイギリスの不沈艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本の航空戦隊の爆撃と魚雷攻撃により沈められていた[b]。

 イギリスのチャーチル首相はこの報告にショックを受けて、「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない。・・・このひろびろとした海域のいたるところで、日本は主導権を握ったのだ」と書いている。

 チャーチルの言うように、インド洋で日本は「主導権」を握る事ができた。112隻の駆逐艦や65隻の潜水艦の相当部分をインド洋に投入すれば、蒋介石政権への軍事物資を積んだ輸送船を次々と沈めて、その「屈服」を実現することは容易だったろう。

 そうすれば、蒋介石は日本との講和に応じたはずだ。もともと日本は中国大陸に領土的野心があったわけではない。蒋介石が英米の支援をあてにして、和平交渉に応じないからこそ、孫文の門下で蒋介石の先輩格にあたる汪兆銘に政権を樹立させていた[c]。英米からの支援が途絶えれば、蒋介石も膝を屈して汪兆銘との連立政権に参加し、中国戦線も終結していたろう。


■5.ドイツの懇請

 (3)の「英の屈服」もインド洋が鍵だった。というのは、英国はインドやオーストラリア、ニュージーランドからの食料や資源の輸入に頼っており、インド洋を抑えれば、イギリス経済の息の根を止めることができるからである。

 さらに、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍はアフリカ北岸をスエズ運河に向かって進撃していた。スエズ運河を抑えればイギリスへの中東の石油供給をストップできる。さらに東進すれば、中東の油田そのものが手に入る。

 スエズ運河を守っているイギリス軍を支援していたのはアメリカで、その援助物資はアフリカ東岸を伝ってインド洋を北上していた。これも日本軍がインド洋を抑えていれば、止めることができる。実際に昭和17(1942)年3月27日の日独伊混合専門委員会でドイツは日本に次の懇請をしている。

__________
 日本海軍がこの際、独伊のエジプト侵攻に策応し、アフリカ東岸を北上する敵側の補給動脈を撃滅する作戦を実施するよう、特別の配慮を望む。[1, p121]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 実際には、日本海軍はこの懇請を無視したので、アメリカは「アフリカ東岸を北上する補給動脈」を通じて最新鋭のM4戦車300両と自走砲100門を送る事ができ、これが決め手となってロンメル将軍は退却を余儀なくされたのである。ドイツからみれは、日本はなんと頼りにならない同盟国かと地団駄を踏んだ事だろう。


■6.米英の悲鳴

 インド洋の制海権の戦略的重要性は、ドイツのみならず、米英もも気づいていた。アメリカのマーシャル参謀長もこう悲鳴を上げている。

__________
 ドイツのロンメル将軍やクライスト(JOG注:ドイツの名将)が中東からやってくる。中東の全域がドイツとイタリアに制圧される。東から日本軍がやってきてインド洋が制圧されそうだ。アメリカとしては打つ手がないではないか。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 チャーチルもルーズベルト大統領あての書簡で、こう書いている。

__________
 今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油ルートやソ連支援ルートが遮断される。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「ソ連支援ルート」とは、アメリカの軍事物資がこれまたインド洋を通り、インドやイランを経由してソ連に送られていたのである。その量たるや、航空機1万4700機と、日本の零戦の全生産量に匹敵した。それ以外に戦車7千両、トラック37万台、食料448万トンなどのおよそ半分がインド洋経由だった。これらを止めれば、ソ連はドイツの攻勢に屈服していただろう。

 そうすれば、ドイツ軍は全勢力を対英戦線に投入できることになり、英国の運命は風前の灯(ともしび)だった。実にドイツの勝利の足を引っ張ったのは日本軍がインド洋を無視したことであった。


■7.「インドの独立を刺激す」

 チャーチルが恐れた「日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば」という作戦は、ごく一部だが実施された。昭和17(1942)年4月、南雲機動部隊がセイロンのコロンボを空襲して基地施設に損害を与え、付近の洋上で重巡2隻を撃沈、さらに西岸のツリンコマリ基地を空襲して大打撃を与え、小型空母ハーミスを撃沈した。

 この頃にはマレーシア、シンガポールの英軍から離脱したインド兵たちを日本軍が組織化して、シンガポールで4万5千人からなるインド国民軍が発足していた[d]。5月にはインド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースが東京で東條英機首相と会見し、インドに向けて独立を呼びかけるラジオ放送を行っていた。[e]

 ボース率いるインド国民軍をセイロンからインドに上陸させていれば、全インドが立ち上がって即座に英軍を追い出したろう。実際に「腹案」では、「英の屈服」のための「要領」の一つに「インドの独立を刺激す」を含めている。

 東南アジアとインドの植民地を失い、オーストラリア、ニュージーランドからの資源食料輸入が途絶え、中東の油田も失ったら、イギリスも屈服せざるを得ないだろう。日本はイギリスの命綱を断ち切る力を持っていた。チャーチルの悲鳴も当然であった。


■8.なぜこの「腹案」が実行できなかったのか

 中国もイギリスも「屈服」したら、自ずから「(4)米の継戦意志を喪失せしむる」が実現したろう。もともとルーズベルト大統領は「海外のいかなる戦争に巻き込まれることもない」事を選挙公約として当選したのである。それほど、米国民は遠くはなれたアジアやヨーロッパでの戦争に巻き込まれることを嫌っていた。

 そのためにルーズベルトは苦心して、日本を経済的に追いつめ、真珠湾攻撃という最初の一発を撃たせて、米国を「裏口からドイツとの戦争に巻き込んだ」(共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員)のである[e]。

 日本がこの「腹案」をきちんと実行していれば、蒋介石政権とイギリスが「屈服」し、そうなればアメリカも継戦意志を失って、適当なところで日本の優勢のうちに「戦争終末」を迎える事ができた可能性が高い。

 しかし、現実の大東亜戦争は、この「腹案」から大きく逸脱して、真珠湾攻撃で米国民を激昂させ、さらにミッドウェーやガダルカナルなど、戦略的にほとんど価値のない戦線で日本軍は消耗していったのである。

 なぜ、大本営で正式採択され、しかもドイツが懇請し、英米指導者が恐れたこの「腹案」を実行できなかったのか。茂木氏は著書の後半で、この分析を行っている。読者には、ぜひ直接、氏の著書にあたって、この問題を考えていただきたいと思う。

 一つだけ種明かしをすると、真珠湾攻撃であまりにも鮮やかな戦果を上げたので、さらに米国を痛めつけて米国民の志気を喪失させよう、という方向に走ってしまった事が挙げられる。やられたらかえってファイトを燃やすという米国民の気質も、また米国の工業力も無視した空想的戦略だった。

 経済学者たちの冷静な分析の結果から引き出された現実的な戦略を無視して、何の裏付けもない空想的な戦略に走る。これは現在の9条教と同じ非合理な精神構造ではないか。「勝てるはずのない愚かな戦争」という自虐史観に目くらましされて、真の反省をしていないので、我々はこの非合理的精神構造から抜け出せないのである。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(951) ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 〜 日米戦争、冷戦、そして共産中国
 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_4.html

b. JOG(270 もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog270.html

c. JOG(140) 汪兆銘〜革命未だ成功せず
 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の幸せのために。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog140.html

d. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)〜 シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog508.html

e. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)〜 デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog509.html

f. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 茂木弘道『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた! ―実際的シミュレーションで証明する日本の必勝戦略』★★★、ハート出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4802400713/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html

140. 中川隆[-13306] koaQ7Jey 2018年12月30日 13:47:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

昭和天皇が JPモルガンの手先のスパイでなかったら太平洋戦争は勝っていた _ 2


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

____


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

___


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。


ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/

141. 中川隆[-13288] koaQ7Jey 2018年12月31日 11:16:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

そして日本はこういう国に成り下がった

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第2回「日本解体!
ディープステートによる日本のグローバル化、その尖兵としての霞ヶ関官僚」[桜H30-12-27] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=tOqOn3ttvPg

2018/12/27 に公開

既成概念にとらわれない大きな視座で国際情勢を俯瞰し、ぶれることのない日本の軸を示し続けている馬渕睦夫氏。
閉ざす門を一度解き放つことによって見えてくるものがあるように、物事の本質を見極める言葉と思考を、対談を通じて伺います。

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)

142. 中川隆[-13274] koaQ7Jey 2019年1月01日 08:27:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

 【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

 従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

 でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。

 韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。

 でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

 まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

 引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

 これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

 どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。

 一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

 閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。

 そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

 従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

 それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。

 そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

 戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

 そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

 終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

 他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

 そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

 だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

 だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。

143. 中川隆[-13230] koaQ7Jey 2019年1月03日 17:51:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22216] 報告

いわんかな#18【日米開戦の真実・後編 米共産主義スパイと山本五十六】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qK-aTkDVrzg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=RnHViHclRlg&app=desktop

収録日:2018年12月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
渡辺惣樹
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

144. 中川隆[-13217] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:46:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告

マッカーサーはアメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

145. 中川隆[-13011] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:01:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
天皇の金塊、金の百合とは?

【天皇の金塊とは】
天皇の金塊とは、「金の百合」といわれているものである。
「金の百合」とは、金塊と財宝は天皇家所有の財産である、として1937年に名づけられた。
宮中の歌会始めのお題をあてた名前だった。

1945年(昭和20年)6月1日深夜、日本陸軍がアジア12カ国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヶ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
最後に爆破した、地下倉庫8号サイト一ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦時に世界一の金塊保有量(公称3千数百トン)を誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定(数万トン?)であった。
つまり残る174箇所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。
175箇所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は未確認だが、現地の信頼できる筋からの情報では、アメリカのCIAとイギリスの情報機関MI-6が15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。その内訳は、バチカンの名義分が1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン、残りの10万トン余りは名義が特定出来ない(強奪先が不明)とのこと。

財宝を隠すのを現地で指揮していたのは、キムスと呼ばれた竹田宮恒徳(つねのり)(皇族)であった。


【天皇の金塊がどうやって集めら(強奪さ)れたか】
日本陸軍の高級官僚たちは、天皇の名のもとに、日本将兵と日本から呼び寄せた愛国者団体の黒龍会や玄洋社のリーダーや手下の荒くれ者たち、中国の地下組織の構成員たちを使って、アジア12カ国から金銀財宝を強奪した。
 12カ国とは、
 朝鮮半島、満州、中国、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンなど。

 各国の政府の金庫や民族の祖先を祭る場所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所にある金銀財宝(「金の百合」)を漁って強奪した。

強奪した金塊財宝類は、朝鮮半島から船と飛行機で日本に運ばれた。
これを軍人や政府官僚たちは「戦利接収品」と呼んだ。
これらの金塊財宝は、日本銀行の本支店、横浜正金銀行や第一銀行、三和銀行、それに何箇所かの博物館などに保管された。
金塊の一部は金貨やインゴッドに鋳造して流通された。
その他の金塊財宝は陸海両軍の倉庫に保管された。
戦後、隅田川の運河に面した東京月島の倉庫からは数十億円規模の金塊を詰めた木箱が、日銀の地下室からは数百億円を優に超えるダイヤモンドがアメリカ兵に押収されている。
占領軍の将校が、「これほど豊富な資金を持ちながら、なぜ日本が戦争に敗れたのか。。。」とつぶやいた、というエピソードが残っている。


【フィリピンの地下に隠された天皇の金塊(の一部)】
アジア諸国から強奪してきた金塊財宝はフィリピンにも集められた。
しかし1943年ごろからフィリピンと日本を結ぶ洋上航路は連合軍の潜水艦に封鎖され、日本に送れなくなった。
そこでやむなくフィリピン各地の地下(175ヶ所のトンネルサイト)に分散退蔵することとなった。

分散退蔵に従事した人々の様子をベン・バルモス・ハーミン(将校の世話係 兼 現地案内)は語っている。
 サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵より多い数の民間の専門家たちがいた。
 ・天然洞穴の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人。
 ・鉱山技師、地質学者、建築家など。
 ・セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の科学者など。
 ・作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。
 ・金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。
 ・青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する大学教授や博物館の学芸員。
 ・仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧。
 ・アジア全域の地形や地理に通じた専門家。
 ・日銀、三井、三菱、住友、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債権類や紙貨幣、それに財務資料や帳簿類を調べる行員たち。
 彼らは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするために働いていた。
 奴隷として作業させられていたのは、朝鮮人・中国人・フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜たち。
 管理していたのは”日本人ヤクザ”たちであった。

 各サイトは地中で繋がっており、メインとなる8号サイトの出入り口を爆破してしまえば、他の空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。

 1945年6月1日、その8号サイトを爆発処理したのは、昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐 竹田宮恒徳(つねのり)と、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将 山下奉文(ともゆき)とベン・バルモス・ハーミン。

地下で繋がったトンネルサイトの所在を示す精密な地図(暗号で示された)は、キムスこと竹田が潜水艦で日本に持ち帰った。


【そして、中盤へ。】
そんな風にして集めた金塊だが、そもそも戦争事業者である世界金融資本家たちの、さらに上位にあるロイヤル・ファミリーの私有物である、と言う。
そして、この構造が明らかにされたのは、「金の百合」資金で大統領の座を買い取った、フェルディナンド・マルコス、の裁判が行われたためである、と言う。

少しだけ書く。
マルコスは地下から天皇の金塊の一部を、地下から掘り出し(これも巨大な量)、換金していた。
そしてマルコス裁判では、その換金の過程が解る、金融世界の大物たちの関わった証拠となる資料が公表された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=237926

146. 中川隆[-13010] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:02:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901130000/
2019.01.14 櫻井ジャーナル

 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を訴追するための予審手続をフランスの司法当局は始めたと伝えられている。2020年に開催が予定されている東京オリンピックの招致に絡む贈賄容疑だという。

 昨年(2018年)11月19日に東京地検特捜部は日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンと代表取締役のグレッグ・ケリーを逮捕したが、これと竹田の予審手続を関連付ける見方もあるようだが、フランス当局が捜査を開始したのは2016年だ。

 国際陸上競技連盟(IAAF)の会長だったラミン・ディアクの息子に関係するシンガポールの銀行口座に約2億2300万円の送金があり、IOC委員の買収が目的だったのではないかという疑惑が持たれたとされている。この支払いを認めたのが招致委員会の理事長だった竹田だった。

 竹田恒和の父、竹田恒徳もJOCの委員長だった。任期は1962年から69年、つまり1964年の東京オリンピックを挟んだ時期にあたる。

 竹田恒徳は昭和天皇のいとこにあたり、ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、1937年から敗戦まで秩父宮雍仁の下で組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を指揮していた。この秩父宮と竹田恒徳はジョセフ・グルーと近い関係にある。

 グルーはいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 こうした背景があるため、グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。特に親しかったとされている松岡洋右の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。

 第2次世界大戦で敗北した日本の進む方向を決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心的存在もグルー。日本の戦前レジームと戦後レジームはつながっているのだ。

 金の百合で略奪された財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手順になっていたが、途中で日本への輸送が不可能になり、相当量がフィリピンに隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将校を尋問したのがエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際は戦時情報機関OSSのオフィサーだった。

 竹田は戦後、邸宅を堤義明の西武グループに売却、そこに建てられたのが高輪プリンスホテルだ。敗戦で資産を失ったという演出だったが、実際は資産を隠していたと言われている。堤義明は1989年から90年にかけてJOCの会長を務めた。

 竹田恒和は日本とアメリカの深層海流とつながっている。フランス支配層はそこを意識しているのだろうか?

147. 中川隆[-12949] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:28:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています。
以下、真偽不明ですが一応転記しておきます:

【知恵遅れ】 明仁天皇糾弾スレ 【貧乏神】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc


2幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 16:59:56.39ID:uOKkYfq4

歴史のおさらい


・明治天皇は無類の女好きで、妾の一人の柳原愛子が田中光顕の子を産んで、それが大正天皇になる。

・大正天皇と貞明皇太后は偽装結婚で、裕仁天皇の実の父は樺山愛輔。他の兄妹も全員父親が違うという。

・近親婚を重ねた島津の血が皇室に入るのを嫌った連中が「宮中某重大事件」を起こす。実際に香淳皇后は知能が低かった。

・明仁誕生の際には「このままでは日本は滅亡だ」と病院で大騒ぎになったという。

・三笠宮には双子の妹がおり、これを巡る裕仁天皇と秩父宮の骨肉の争いで2.26事件勃発。

・2.26事件の首謀者の一人であり、ナチスのスパイだったゾルゲは処刑される。

・昭和20年の正月の皇族会議の際に裕仁天皇は

「このままでは負けるので、早く白旗を上げよう」

と提案するも、 貞明皇太后が

「私が祈祷すれば日本は決して負けない。神国不滅だ」

として家族全員が呆れる。


・アメリカは戦犯として昭和26年のサンフランシスコ講和会議前に貞明皇太后を暗殺する。

・明仁と美智子の結婚もアメリカの差し金で決定。柳原白蓮などが強行に反対。

3幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:32.42ID:uOKkYfq4


大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。

この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、 緊縮財政で松方デフレになってしまった。

没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、 宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付きだった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。

しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。


4幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:45.51ID:uOKkYfq4

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない人間の屑であると認識した。

明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。

だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが食卓を囲んで

「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」

という意見で一致していたのに、貞明皇太后は

「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」


などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。

裕仁天皇は母親に逆らえなかったので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。

貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死しているが、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。

明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行ってみて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。


5幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:15.11ID:uOKkYfq4>>378>>392

キーセンの貞明皇太后は勝手に宮中祭祀を変えたから関東大震災が起こったのだ。
当時の大正天皇は重篤な病気だったので、これも貞明皇后の所業だ。降伏を長引かせて被害を拡大させたのも貞明皇太后だ。おまけに裕仁の父親は樺山愛輔だし。

樺山愛輔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Aisuke_Kabayama.jpg


裕仁天皇
http://ameblo.jp/hirai-h/image-11656042516-12726176349.html

明仁
http://media.liveauctiongroup.net/i/8165/9616691_1.jpg?v=8CCE2C66D0651D0


6幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:39.56ID:uOKkYfq4

血を引いているので顔がそっくり

田中光顕
http://sakawa-kankou.jp/images/tanaka_main.jpg


http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/349-434/s0095l.jpg


大正天皇
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Emperor_Taish%C5%8D.jpg


92右や左の名無し様2016/02/18(木) 02:15:14.46ID:kuZDvTaD
>>2
大正天皇の皇后であった朱貞明は朝鮮人キーセンではない

* 「朱貞明」は→中国の明王朝をおこした「朱家の末裔」だよ
* 中国の明を興した朱元章(日本では光武帝)の子孫が
→大正天皇の皇后で昭和天皇の生母である朱貞明(家系ロンダリングして九条節子)だよ

もともと天皇家は渡来人だから
中国の明王朝の血が日本の皇室に入ったわけだ

因みに明王明の朱家は中国人ではなく客家人だ
朱家→朱貞明は中国人ではなく客家人

客家人は中国人のユダヤと云われる民族で
客家の出自はシルクロードの民と云われるペリシテ人
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc

148. 中川隆[-12948] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:33:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 2


御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

おまけにこの連中 命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。
この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う


ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実

戦前は天皇が認めないと法律も通せなかった

南京大虐殺も広田弘毅が中止を具申したが、昭和天皇が頑としてつっぱねたからああなった。


149. 中川隆[-12947] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:35:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 3


吉田茂は昭和天皇の指示で御前会議の内容を毎回、細大漏らさず すべてアメリカに伝えていた


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html

150. 中川隆[-12944] koaQ7Jey 2019年1月17日 07:14:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

昭和天皇も蒋介石もフランクリン・ルーズベルト大統領が世界を共産化しようとしていたのに気付かなかった


中共はアメリカが毛沢東を支援して作らせた国だし、朝鮮戦争は八百長戦争で
韓国と北朝鮮の対立はヤラセだというのが定説になりつつありますね。

というより、大東亜戦争はスターリンとルーズベルトが組んで世界を共産化する為に行ったというのが有力な説で、天皇一族や蒋介石は反共だったのでアメリカに潰されたのです。

北朝鮮は八百長戦争の朝鮮戦争をやって、アメリカと中共が協力して作った国です。

北朝鮮がミサイル打ったり、核開発するから、日本が高価な防衛ミサイルを買ってくれたり、思いやり予算を沢山出してくれるのですね。

北朝鮮の拉致も、北朝鮮政府が単独でそんな自国に損な事をやる筈がないので
アメリカが指示してやらせたんですね

慰安婦問題や南京大虐殺で中国・朝鮮が騒いでいるのもアメリカの指示だとわかっています。

所謂、分割統治という植民地支配の方法ですね。
中国・朝鮮・日本が仲良くなってアメリカに対抗してくると困るのです。

アメリカは最初から中共と同盟国で、アメリカの製造業の工場をすべて中国に移転した後に為替操作して超円高にし、意図的に日本の輸出産業を壊滅させています。

周恩来とキッシンジャーは日本をアメリカと中国の共通の仮想敵国として
日本には絶対に再軍備させない、核武装させないという密約をしています。

1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976



▲△▽▼


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/04/15 に公開
馬渕睦夫さん 元特命全権大使 駐キューバ 駐ウクライナ兼モルドバ

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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。


進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学(英語版)で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ(英語版)の協力なしには得られなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)


世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[3]。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88


 
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アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


「東京裁判史観」を正面から打ち破る一冊! !
「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」……、
近現代史の裏には必ず彼らがいる!

ウィルソン大統領やルーズベルト大統領を操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。


日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

151. 中川隆[-12273] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:07:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告


松井石根は花山信勝に何を語ったか Jodorowsky 2008-07-26
http://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/touch/20080726


巣鴨拘置所の教誨師として、処刑直前までA級戦犯らと過ごした花山信勝さん。

そんな花山さんがその体験をまとめ、処刑直後に出版された

『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』。*1
https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B%E2%80%95%E5%B7%A3%E9%B4%A8%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E8%8A%B1%E5%B1%B1-%E4%BF%A1%E5%8B%9D/dp/4894800551

この本は、A級戦犯最後の24時間を再現したというブル聯隊長水島総監督が製作した映画『南京の真実』のほぼ唯一のネタ本です。

その中から松井石根大将に関わる部分を書き出してみました。通読したのはかなり前なので、モレがあるかも知れない点はご容赦を。

映画は1/3くらいは寝ちゃったような気がするんで、正直どの程度(正確に)引用されてるかは覚えてません。因みに厳格に最後の24時間に限定するとP349〜352以降ということになります。

 

因みに映画『南京の真実』は8/1〜8/31の間、遊就館で上映予定です。まだの方はどうぞ♪

http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/news/whatsnew.php

 

参照:映画『南京の真実』が語らせた松井大将の科白

 

当然かなり長いです。

P277〜288


・・・・・・

松井石根


七十一歳。愛知県出身。元陸軍大将。陸士九期(安部信行、真崎甚三郎、荒木貞夫、本庄繁と同期)を主席で卒業、恩賜の銀時計をうけた。陸大卒業の時は二番の軍刀組。参謀本部部員、歩兵第三十九体長、ウラヂオ派遣軍参謀、関東軍司令部附、歩兵三十五旅団長、参謀本部ニ部長、十一師団長、軍事参謀官、台湾軍司令官を歴補し、この間昭和六年ジュネーヴで開かれた軍縮会議には陸軍代表として松平恒雄、永野修身両全権と共に出席、昭和十二年九月日華事変に際し、上海方面派遣軍最高指揮官として、呉淞上陸依頼南京攻略まで半ヵ年出征、同十三年二月帰国後は大日本興亜会総裁、興亜総本部統理、内閣参謀などを歴任した。現在静岡県熱海市伊豆山八ニ九に妻文子(五十六)が住み、実子でないが養女久江がいる。家の上の山の中腹に興亜観音を建てた。これは南京、上海等の土を持って来て焼き、その下に両国戦死者の遺骨を埋めた。高木陸郎氏が世話をしておられる。その観音さんの開眼には、増上寺の大島僧正をたのみ、その後今の増上寺の椎尾弁匡博士がニ、三回来て供養をした。また中山理々氏がいろいろ世話をしている。家は父の時代から神道、明治以前は禅宗である。

 第一回の面会は十一月十七日(水)午前十時から十一時まで。この日は、尾家元大佐の遺言を中心にお話をした。

 第二回は同二十三日、午前九時五十五分から十時三十五分まで。前には眼鏡をしておられなかったが、この日は眼鏡を許されてかけて来られた。

「この前差し入れておいた書物で、どういうものをお読みになっておられますか」

とたずねたところ、金子大栄の『月愛三昧』沼波政憲の『帰依道』の二冊を読んでいる、ということであった。

「あなたのお寺は・・・・・・」と、私の住所と名前をたずねられたので、私の寺は金沢にあること、現在は久留米村で、寺ではないことをいった。また、私は大谷光瑞師から、三年間六甲山の上で特別教育を受けたことなど、をお話した。ところが、松井さんは光瑞師が中央アジア探検旅行の際に北平に滞在しておられたとき、常に一しょであったと、又その後の関係についても申された。そこで、大谷光瑞師の入寂されたことを、お互いに話し合って、ともに感慨にふけった。

「何か、お書きになりましたか」

「今日、手紙を家内あてに、花山先生に連絡をするように、頭髪や爪なども取ってもらうから・・・・・と書いた」

「奥さんの御宗旨は」

「家内の里は浄土宗です。その父などは、増上寺さんのお世話になった。私は、すでに覚悟はしておるが、家内は気の立った女だから、自分の死後に、自決でもしないかと心配をしておる。子供がないから、三十年来使って来た女中を、私がここへ来る時、養女として世話をするようにはして来たけれども」

「そのことは、ぜひ御心配ないよう、微力をいたします。今朝も、実は、奥様の方へハガキを差し上げて、来週の日曜日には在宅しますから、おいで下さいますように、と書きました」

「どうか、お願いいたします。それだけが気にかかる。自分のことはもう何でもないので、あなたからそういうふうにしていただければ、まことに結構です」

といわれた。そして、私の久留米村の家への道のりや行き方などについてたずねられたが、そのことはすでにハガキの中にも帰しておいたことをつげた。後で、夫人にお会いしたとき、松井さんから聞かれた道筋の筆記が、私のいったこととすこしもまちがっていなかったのを見て、その記憶が確かであったことに驚いた。

 二十三日午後だったと思うが、松井文子、松井とり、信雄(甥)、久江(養女)、岡田尚の五人が面会に来られたことを知り、私は終連の事務室で帰りを待った。そこで松井夫人に初めてお会いしたのである。そして二十八日の日曜日に松井夫人は私の家においでになった。すでに午前中から土肥原実、武藤初子、広田正雄さんの三人がみえていたので、みなさん尾家さんの遺書や、土肥原さんとの問答、福原勲(元大尉死刑囚)の父に当てた手紙などを読んだ。

 やがて三人の方は帰られたが、特に松井夫人に残っていただき、大将の御心配になっている点について、念を入れてお話をしたところ、夫人は「決して早まったことはしない」といわれ、歌ニ首を示して帰られた。この時、夫人から依頼を受けたことはこういうことであった。

 一つは、観音さまをお守りして、そして自分が死んだら、今の屋敷を観音さまに寄付をするということ。第二には、現在の生活は少しも心配がない。自給自足の道を講じている。野菜を作ったり、鶏を養ったり、裁縫などをしたりしているから、決して心配をしてくれないように。第三には、主人の亡くなった後で、時を見て、これまで講演されたもの、あるいは東京裁判の記録なりを印刷して知人に分けたいということ。第四には思召に従って神道から仏教に帰るということ。第五には、どうか早くお浄土へ行けるように迎えに来てくれるように。第六には、これまでは神道であったために、十日目十日目のお祭りをして来たのであるが、これからは仏教の方式に従って七日目毎の法会を営みますということ。第七には、皆さんが亡くなられた後では、熱海の無畏庵に御家族の方に集ってもらい、私(花山)から直接いろいろの模様を聞くということ。第八には、現在耕している畑は、取られないで作ることになったから御心配されませんようにということであった。

 第三回の面会、十一月二十九日(月)午後一時から二時まで。

 この日は、松井さんは、広田さんとつれ立って仏間に出られた。

「広田君とは、明治四十年から中国公使館で一しょだったので、それ以来の因縁があるのです」

といわれた。私は夫人から受取った和歌を読んで上げた。

  はりつめし心も今はくづ折れてあやめわからぬ心地こそする

  色あせて梢に残る花よりは散りても香る蘭の花から

 この二首の歌は、夫人が私の家においでになる電車の途中で考えついたといわれたもので、私のところへ来るなりお書きになったものである。

「この蘭の花というのは、あなたのお気持ちを申されたのでしょうな」と私がたずねたところ「ああ、そうでしょう」と松井さんはいわれた。

「何か、後に遺される辞世か遺言のようなものを、どうか今晩までにお願いします」

というと、松井さんも、これが最後と思ってか、仏前でていねいに礼拝をし、あいさつをして出て行かれた。

 第四回、十二月九日(木)午後一時二十分から二時二十分まで。

 松井さんは、この日もいつものように、米兵が着る作業衣の上に、紫のガウンを着て、下駄ばきで飄々と入って来られた。いくらか中風気があると見えて、いつでも、少しふるえていられるようだ。私は礼拝を終って、向き直ってから、ふと気がついたことだったが、松井さんはガウンを脱いで坐っていられた。この寒いのにと、そのお気持ちを尊く感じた。

「御機嫌よろしゅう。新聞はいかがですが、ごらんになっていますか」

「昨日は新聞が入りました。アメリカの大審院でとりあげたというのですね。結局、同じことですよ。いっそ早ければ、よいと思いますがね」

「そうでしょうね」

「折角覚悟をしたところを・・・・・・」

「あなたへのお手紙が一通来ておりますが、長州の善光寺の光永諦雄という方からです。御記憶がおありでしょうか」

「はい、それは、私の方の観音様の分身をまつっておられる人ですが・・・・・・」

「そうです、では読んで差上げましょう」

 その手紙は次のようなものだった。


 別紙松井氏へと認めたる要点を、御本人在命中に御伝言下さるをえば、有難き至極の因縁と存じ上げます。かつて上海方面から帰還された松井氏が、興亜観音を、発願建立し、彼我の英霊を永久に供養せんとする悲願に感激し、その分身を勧請して、拙寺供養塔の本尊といたして居るものでございます。松井氏には、唯一度御面会申上げたのみ、真に一期一会とはこの事でございました。弥陀の誓願に乗托して、私共は此度浄土の彼我にて倶会一処の果報に住せんのみ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

別紙には、親鸞御作の三首の和讃をかかげ、


 松井様、愚僧の生命のある限りあの観音様を礼拝し、あなたの悲願を憶念し、世界の平和を祈ります。観音音即阿弥陀仏、阿弥陀仏即観世音、さらば事実報土にて御再開申上げましょう

「まことに、坊さんのお気持ちの通りでおるから、安心して下さいといってやって下さい」

「承知しました。なお、先日、あなたには特に関係の深い中山理々さんが、三七日間も断食して、斎戒沐浴をして三誓偈を極めて丹念に、大きな唐紙に立派な楷書で書き、それに長い手紙を添えて、七人の方に下さったが、渡されないとのことで、そのまま持ち帰り、御家族の方々へ差上げておきました」

「それはまた・・・・・・。どうぞよろしく」

「全国から、いろいろの方々のお手紙も来ています」

「未知の方の手紙も、三通みました」

「はあ?手紙を入れてくれますか」

「はい。最近は差入れてくれてます。・・・・・・処刑にあうのは、観音さまの御慈悲だと心得てるから。大審院で終身刑にでもなったら、まことに困る」

「そうでしょうね。一度覚悟なさった以上は・・・・・・」

「ここの将校さんも大分同情的で、やさしく感ずるようになりました」

「そうでしょう」

「書いたものを、あなたに差上げることは、できないですかね。部屋の中に置いてあるが・・・・・・」

 オニロ大尉に頼むと、一枚の紙に、歌ニ首と詩を書いたのを持って来てくれた。

 ここで松井さんは、めずらしく長く、中国を中心とするアジア諸国の性格、について論じられた。*2それから、

「日本人の反省はむろんのことだが、こちらが少しやさしくいうと、媚びるというふうにとる向うの国民感情もよくない。お互いに反省しなければならぬ。張群という人は、旧友で、困っている時分ずい分世話をしたことがあり、家内も、向うの夫人をよく知っているので、家内からこの間ぜひ興亜観音に詣ってくれといったが、なかなか明答はしなかった。しまいには行きますといい、私のことについて「御同情にたえない」とも・・・・・・」

などと語られた。

 宗教を通じての精神的つながりによらねば、十年、二十年の間には、ほんとうの親善はむずかしいともいわれた。

 なお、法廷でものべておられたように、「こうなってみると、日本は大きな犠牲を払ったことになる」といい、また「私に生命があれば、仏印の安南へいってみたい」ともいわれた。

 それから、あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

「南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入場の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」

「まことに、尊いお言葉ですね・・・・・・」

「家内にもこの間、こうして往生できるのは、ほんとに観音さまのお慈悲だ、感謝せねばならんといっときました」

「あなたのお気持は、インド判事の気持と一しょですね」

「ああ、あのインド判事の書いたものを見せてくれたが、大へんよくいっておる。われわれのいわんとするところを、すっかりいっておる。さすがにインド人だけあって、哲学的見地から見ている。あの人たちは多年・・・・・・経験しているので・・・・・・」

「では、また来週・・・・・・。風邪などめさぬようにお気をつけ下さい」

 松井さんは、ガウンを将校から着せてもらい、仏に向って礼をして、下駄をカラカラ曳きずって、いつもの通りそろそろと去られた。戸口に出られる時「ご機嫌よう」と声をかけると、振り向いてあいさつされた。

 

P336*3


・・・・・・

 次に松井さんと武藤さんが出て見えた。松井さんは手紙三通ほどを持って、手には念珠をかけていられた。私は、明日お部屋の方へたずねるから、手紙は部屋に持ち帰られるようにといった。武藤さんは紫と少し赤味がかった例のガウン、それにはU・Sの印が小さく胸についていた。これはいつものように寒い時に着るガウンである。少し風邪を引いているのを用心されたらしい。下駄をはいて、手にはやはり念珠をかけていられた。

・・・・・・

 

P349〜352*4


・・・・・・

 松井石根。午前十一時から十一時五十分まで。

 大審院のことをたずねられ、それを説明すると。

「まあそうだろうと思います。この間の腰折の歌を受取られましたか」

「いただきました。あれは奥様にもお見せしました。写して帰られました」

「あなたも、大勢のお世話で、なかなかたいへんですね」

「いいえ、できるだけのことは・・・・・・」

 それから夫人と久江さんの手紙を読むと、しっかりと落着いて、いちいち聞いておられた。

「私の郷里のもので荒尾精という人がいた。中尉の時に陸軍をやめ貿易のことについたが、それが東亜同文会を興した。川上さんあたりの感化を受け、中国の同士と一苦労したのです。日清戦争の時には通訳として働き、日本人を養成していた。三十二、三歳の時台湾で殺された。この人が私の郷里の先輩である。それで私もその方に志すようになった。陸軍に入ると同時に、中国のことに注意するようになった。大陸問題を研究した川上、福島、青木、宇都宮等の先輩についてやった。軍国主義となった最近の陸軍のように、斬取強盗式のことは先輩にはなかったですよ。さすがに陸軍の先輩は、明治天皇の精神を体してやっておったから。国が変って、若い者が血気にはやって、とうとうこうなったと思うのです。中国では副総統の李宗仁という人が、蒋介石氏がやめたらなってもよいと言ったと新聞で見た。この人を私は知っているが、道徳的の人で衆望も高い。蒋氏が下野するなら、李氏が出て、共産党と一時的に妥協するのではないかと思っておったが、共産党には全く反対の人だ。むしろ日本的の人だ。中国国民の信望はあるし、この際国民党を代表して、共産党と提携するには、一番理想的な人と思う。全く中国のことは困ったことですが、今の中国の共産主義なら、ロシヤのものとはよほど違う。中国の道徳などに加えて、政治形式を整えればやってゆけると思うが、それだけの人がいないですね」

「そうですか。中国の共産党とロシヤの共産主義とは、よほど違いますかね」

「違います。実行したことは、土地を全部取上げて民衆に分配したということですが、やり方はロシヤよりもむしろ穏やかなやり方をしております。中国人の個人的な精神というものは根強いのですが、国民党といっても、共産党といっても、結局は個人のためにやっているから、心配がある。蒋介石氏は、南京を取って最初の一年くらいはよくやったけれども・・・・・・。どうしても思想、精神が指導しなければならん。これと相まって、仏教と提携して宗教家が助けてやらなければやって行けないですね。中国どころでない。日本がいま問題になっているのですからね」

 それから伊豆山の合掌観音の由来について語られ、それが終ってから、ガウンに手を通して出て行かれた。松井さんは、仏間に入るときは必ずガウンのソデを脱いで話をされ、終った時にガウンを着て帰られるのが習慣だった。洒脱だが、謹直な観音信者だった。観音の慈悲を、ひとしくアジヤの民衆に及ぼすことを信念とされていた。

・・・・・・

 

P367〜370*5


・・・・・・

 松井石根。午後七時半から八時まで。

 持って来られた手紙の内容、それも夫人宛のものであるが、それを読まれた。


 「昨二十一日夜、マッカーサー元帥の命令により、明二十三日午前零時当監獄内において絞首刑執行の旨、宣告せらる。かねて期せしところなれば、何ら驚くところなく、謹聴せり。余は武家に生れ、家職をついで陸軍武官となり、累進、大将に進み、正三位に叙せらる。更に勲一等功一級の栄勲を辱うし、一身の光栄にして、切に皇恩の無窮に感激しあり。今南京虐殺事件の犠牲となり、この責任を負つて連合軍の処刑に付せらる。いわんや余は先に上海、南京の戦いに多数の日華両国軍民を失いしものあなれば、その責任上、あま多の英霊のあとを追つて殉ずることは当然なり。

 太平洋戦争は直接余の責任の外にあれども、これまた日華事変の延長と見るべく、余の地位、経歴上責任を免れるべきに非ず。今や敗戦日本の醜態を暴露せることに関し、責任を自覚し、一死、謝することは、又自然なりというべし。顧みて思えば、余はこの度の死に関し、毫も未練あることなく、これ天地神仏に対しても罪を恥じることなし。ただ多年心と身を賭して志したる日華の提携とアジアの復興をとげず、却ってわが国家百年の基を動揺せしめたることは遺憾の極みにして、余の心霊は永く伊豆山の興亜観音山にとどまり、一心観音経に精進し、興亜の大業を奮守すべし。

 文子、久江はじめ、余と志を同じくするものはよくこの意を体し、相共に平等無畏の真理を信じ、安心立命、おもむろに後途をはからむことを希う。余の一家は現在の文子、久江の後断絶せしむべし。よって余及び余の家の後事については、かねて申し聞かせある通り、今において何らいうべきもなし。余の葬祭、遺品の処分、すべて文子の裁量に委ぬ。松井家の祖廟に関しても、既に申述べたるが如く処置すべく、名古屋の墓所は永代供養の方法を講ずることを望む。伊豆山の興亜観音堂は現在の奉讃会の外に、内外有志にはかりて一講社を設立して、永久に供養に弁ぜむことを希望す。なしうれば、一切を熱海市に寄付し、将来の保持を安全ならしむることを望む。但しその名は、あくまでも興亜観音と呼びたく、将来やむなき故障ありて改名することを要する時は、東亜観音と呼称すべし。右観音堂将来の方途については、高木陸郎、岡田尚、花山両師とはかり、何分の善処法を祈念す。

 天地も人もうらみず一すじに無畏を念じて安らけく逝く

 いきにえに尽くる命は惜しかれど国に捧げて残りし身なれば

 世の人に残さばやと思ふ言の葉は自他平等の誠の心

 衆生皆姑息 正気払神州

 無畏観音力 普明照亜洲 

遺品としては、五枚の手紙と入れ歯、眼鏡、爪、判決文、マッカーサー元帥の声明がある。子供もなく、財産もなし、今更ら何も・・・・・・」

といっておられた。

 このあとで、私は、この手紙以外は、全部受取って来たために夫人にお渡しした。

・・・・・・

 

P382〜385


・・・・・・

 三 往相から還相へ

 かくてもう十一時半にもなったので、私は大急ぎで一回にかけ降りて、再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして七人の到来を待った。まもなく三回から処刑第一組として土肥原、松井、東条、武藤の四人の順で、列をつくって降りて来られた。それぞれ二人の看視につきそわれていた。両手には手錠がかけられ、さらにその手錠は褌バンドで股に引っかけられていた。極めて不自由な姿である。着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。しかしシャツは見えた。クツは編み上げの日本クツであた。係官から時間が七分しかないということをいわれたので、取敢えず仏前のローソクの火に線香をつけて、一本ずつ手渡し、私が香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏前に重ねておいた奉書に署名してもらった。それからコップいっぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。さらに水のコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。東条さんの「一ぱいやりたい」も、どうやらこれで果され、大変な御機嫌であった。

 その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌と、最後の一頌を声高らかに私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終った時、

「非常に有難うございました」

とお礼をいわれた。それから誰というとなく「万歳」という声が出て、たぶん東条さんと思うが

「松井さんに」

というので、松井さんが音頭をとって「天皇陛下万歳」を三唱、さらに「大日本帝国万歳」三唱を共に叫ばれた。

 ブドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、もぐもぐとたべられた。

 以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下で立ったまま行われた。この時、東条さんから、約束通り念珠を受取った。松井さんも、手にかけておられたので、

「これを、奥さんに差上げましょうか」

といったら、

「そうして下さい」

といわれ、受取った。他の二人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。やがてチャプレン・ウォルシュ師及びニ、三の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。私も、いちいちみなの手を握って、最後のあいさつをかわした。いずれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、

「あとの家族のこともよろしく」

と頼まれた。時間は、刻々と迫ってきた。

 出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしとに土肥原、松井、東条、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校がニ、三名つづいて、静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。とくに東条さんの声が・・・・・・。

 刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人とまた一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」といったところ、

「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族によろしく願います」と、みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。

・・・・・・

 

 


*1:本エントリーで使用したのは中央公論社から出された文庫版『巣鴨の生と死―ある教誨師の記録』

*2:参照用

*3:12月21日午後

*4:12月22日午前

*5:12月22日午後
http://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/touch/20080726

152. 中川隆[-11757] koaQ7Jey 2019年3月01日 20:35:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[224] 報告
天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

153. 中川隆[-11721] koaQ7Jey 2019年3月04日 10:19:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[265] 報告
2019.03.04
非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/


 朝鮮側から流れている情報によると、金正恩労働党委員長はドナルド・トランプ米大統領との朝鮮半島の非核化を目的とした交渉に興味を失った可能性があるという。

 アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。朝鮮が交渉を続けるとしたなら、それは交渉自体に意味がある場合だけだろう。

 本ブログでは繰り返し書いているように、アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。

 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。

 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。

 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。

 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。

 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。

 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。

 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。

 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。

 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。

 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/



非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 アングロ・サクソンの長期戦略は1991年12月にソ連が消滅したことで目的をほぼ達成したように見えた。アメリカの支配層だけでなく、少なからぬ人がアメリカは唯一の超大国になったと信じる。そして1992年2月に作成されたのが潜在的なライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー源を支配する戦略。国防総省のDPG草案という形で1992年2月に作成された。

 その当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官がディック・チェイニー、国防次官がポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。

 当然のことながら、アメリカの支配層は属国である日本もこのドクトリンにしたがって政策を変更するように求めてくるが、反応は鈍かった。

 怒ったネオコンは自分たちでプランを作成する。それが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書き上げたことからナイ・レポートとも呼ばれている。

 この文書は日本に対して国連中心主義を放棄し、アメリカの単独行動を容認するように求めている。この年に日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたのだ。1995年は日本にとって節目となる年だ。

 その直前、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、ナイ・レポートが発表された翌月の95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その月の30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負っている。

 8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載されたことも無視できない。墜落当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。

 アンドヌッチらは上官から口外しないように命令され、10年の間沈黙を守っていたのだが、このタイミングで公表した。この新聞はアメリカ軍の準機関紙であり、アメリカ軍上層部が証言とその証言の掲載を許可、あるいは命令したのだろう。

 1995年に日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。沖縄県の普天間基地の返還合意が発表されたのはその翌年の4月。1995年に引き起こされたアメリカ兵による少女暴行事件が理由だとされているが、似たような事件は繰り返されてきたわけで、これは表面的な理由だろう。

 21世紀に入ってロシアはウラジミル・プーチンらによって再独立に成功、ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提は崩れたのだが、このドクトリンも放棄されていない。ドクトリンを軌道に戻すため、アメリカの支配層はロシアや中国に対する攻撃を強めるつもりだろう。

 昨年(2018年)5月に米太平洋軍は米インド・太平洋軍へ名称が変更になった。担当海域が大幅に拡大したわけだ。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。

 中国は一帯一路と呼ばれる政策を推進、ユーラシア大陸の東と西を結びつけようとしているが、これを寸断するためにアメリカはジハード傭兵などを投入して戦争の種を要所要所にまいている。

 南シナ海や東シナ海を中国の船が自由に航行することをアメリカは阻止するつもりだろう。朝鮮半島が鉄道、道路、パイプラインが結びつけられることもアメリカ支配層は受け入れられない。彼らが認める朝鮮半島の統一とは、そこが自分たちの支配地域になる場合だけだろう。朝鮮側がアメリカへ全面降伏する意思がない以上、トランプ大統領と金正恩委員長の交渉が行き詰まるのは必然だったと言える。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

154. 中川隆[-11451] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:19:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[544] 報告

ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇
3/13(水) 19:40配信 AbemaTIMES
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00010024-abema-soci


 ソ連軍が侵攻した旧満州国で男性兵士に性接待をさせられたという体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


日本と満州国の歴史


■子どもたちに語ることができなかった過去

 1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。

 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪や強姦の被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江菊美さん


 元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、“小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい“と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。

 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが“接待所“についてだ。

 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


黒川開拓団とは


 満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「性接待という言葉自体が適切かどうか考えないといけないと思う。性暴力だと言えると思う。他の開拓団も含め、当時、“根こそぎ動員“といって、18〜45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。

そして17歳以下の少年少女たちは、案内係や洗浄係を任されていた。当時小学生だった菊美さんも、性接待に向かう女性たちのために風呂を沸かし、性器を洗浄する係に就いた。「“ソ連兵のところに行くから風呂炊きなさい“と。そして、行ってきたらすぐ医務室に入って洗浄する。兵隊さんの“うがい薬“を薄めてビンに入れて、ホースで洗浄させていた。発疹チフスが流行っても、自分に熱が出ても出ていかれた。助けてくださるという気持ちしか分からなかった」。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江善子さん


■2013年、生存者が声を上げる

 2013年になり、そんな辛い体験を打ち明けたのが安江善子さん(当時89歳)だ。

 「本当に悲しかったけれども、泣きながらそういう将校のお相手をしなければいけない。ボロボロになって自分の心の中に寝ても覚めても忘れられない。ときどき夢にうなされて」。講演でそう語った2年後に、善子さんは亡くなった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


善子さんの遺した手記


 生前の善子さんに事実を語り継ぐよう頼まれ、手記を託された菊美さんだったが、「今までずっと見せなかった」と話す。

 善子さんの手記には「べにや板でかこまれた元本部の一部屋は、悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。おかあちゃん、おかあちゃん、の声聞こえる」と綴られていた。銃を持ったままのソ連兵に怯える女性たちの泣き叫ぶ声が響いた接待所は、400人が避難する旧国民学校の校舎のすぐ裏にあったという。

 「ダーっと部屋が並んでて、みんな雑魚寝みたいな格好で。(ソ連将校は)何人もいるから、1回に4人くらいいくよ。大人はみんなわかってるから近づかない。大人がやらせてるんだから」(菊美さん)。

 黒川開拓団の曽我久夫さんによる手記には「接待するこの乙女たちの泣き声がもれてきた。我々団員は心の中で泣いた」と綴られている。また、別の接待役の女性は「汚いものを触るみたいに、銃の先で私たちを動かして、銃を背負ったまま私はやられた。抵抗して暴発したら死んでしまう。友達と手を繋いで“頑張りなね“しか言えない状況だった」と証言。「ベルトが外れる音がずっとトラウマになってこの70年頭から離れることがなかった」と語る女性もいた。

岐阜県・ひるがの高原に住む佐藤ハルエさん(94)も、そんな悲惨な体験をした黒川開拓団の一人だ。「“団を守るために、どうか頼む““あんたら娘だけでどうか頼む“って。それは忘れない。頑張ってどうにかして日本に帰りたい。それだけが念願で、犠牲になった。当番が決めてあった。今夜はこの人、明日はこの人って回ってきて。みなさん病気になられて、順々に亡くなっていった」。

 総勢約600人で満州に入植した黒川開拓団は約400人が生還した。しかし犠牲になった女性たちを待っていたのは、身内からの中傷だった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤ハルエさん


 菊美さんは「接待に出てくれと頼んだ人が、帰ってきてから“いいことした“でいいじゃないか、って中傷した。酷いと思うよ。そんな無責任なことはないってみんな泣いて怒ってたけどね」。

 故郷を離れ、独身のまま亡くなった人もいる。ハルエさんも、弟から“黒川では嫁のもらい手がない“と言われて故郷を離れた。そして他の村の出身だった健一さんと結婚し、荒野だったひるがの高原の土地を開墾し、酪農を始めた。「ここで乳絞りましたけどね。大きな借金をして。主人だって義勇隊で満州体験して南方から帰ってきたんで、何もかもわかってくれて、本当に良い主人だった」と厩舎で語るハルエさん。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤茂樹さん


■当事者たちの親族の苦悩

 戦後を生き抜き、子どもも孫もできた女性たちが、近年になって事実を明かした理由は何だったのだろうか。

 ハルエさんは「もうそういうことを公表しようと思う犠牲者もいないでしょう。亡くなっちゃって。みな揃って帰ってこれた。その元になれたと思えば、今生きているうちに喋るのは恥ずかしいこととも何とも思わない」と振り返る。

 しかし、周囲の人たちにとっても、この事実は重いものだった。ハルエさんの息子・茂樹さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは子どもとしては嫌だった部分があった」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江泉さん


 また、善子さんの長男・泉さん(65)は「我々には一言も言わなかったことを表で発表したところに重要度を感じる。“性暴力は発表するものじゃない、隠すものだ”っていう思いが、帰ってきてからの彼女たちを何十年も苦しめた」と話す。


ハルエさんが「お父さんが来られると“嫌だ“と思った」と振り返るのが、8年前に黒川開拓団遺族会の会長になった藤井宏之さん(67)の父親だ。当時、女性たちをソ連兵に差し出す“案内係“をしていた開拓団員だった。

 遺族会会長になって初めてその事実を知った藤井さんは、犠牲になった女性やその遺族を訪ねて回り、タブー視されてきた史実を碑文として残すことを呼びかけた。「碑文は役員会を何回も開いて当時の人たちの気持ちになって作ったものですから」と藤井さん。菊美さんは「藤井さんは責任を感じている。(碑文を)書き直しては、これでいいか、これでいいかと何枚紙をもらったやら」、元団員の新田貞夫さん(83)は「何回も手を入れた。反対意見もあったようだし、いろいろあったが、私はよかったと思っている」と明かした。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


“乙女の碑文“


 そして去年11月、女性たちの勇気ある告白と、それを受け止めた家族。そして開拓団遺族の贖罪の気持ちが結実した“乙女の碑文“が完成した。

 碑文には「生きるか死ぬかを選択させられた黒川開拓団の幹部は、生き抜くことを選んだ。(中略)。数えで十八歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する『接待役』を強いた。女性たちは逃げたかったが団全体の生死が関わる事態に嫌だとは言えず交代で相手をさせられた。日本への引き揚げ後も恐怖は脳裡に焼きつき、その上中傷もされた」と、性接待の事実が刻まれている。ハルエさんは「書いてもらった方がいい。そういう歴史があったことを伝えていかなきゃならん。そういうことを伝えていくのが生きとる者の大きな使命じゃないか。本当にはっきりした。あれができて、私は死んでも後悔はない」と清々しい表情で笑顔を見せた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


藤井さんと佐藤さん


 しかし藤井さんは「これを掲げたから終わりじゃない。生存している方に寄り添っていかなきゃいけない」と話し、今もハルエさんや遺族たちの所に足を運ぶ。「ハルエさんたちのおかげで、今の僕らがここに生きてる。もっと早くああいったことをしなくちゃいけなかったと思ったし、申し訳なかったと思ってる」とハルエさんに語りかけていた。

 善子さんの長男・泉さんは「戦争という異常状態になってしまうと何が起きるか分からないわけでしょ。性接待の問題も行けといったのは同じ団の人たちなんだから。皆おかしくなっちゃう。そういう状態に陥らないように努力するのが我々の大事なことだろうと思う」と語っていた。

■“第二の加害者“が生まれた理由に向き合うべき

 性接待をした15人の女性たちのうち、4人は現地で亡くなり、祖国の土を踏むことはなく無かった。健在なのはハルエさんを含む4人だけになった。

 寺沢さんは「黒川開拓団の問題を含め、満蒙開拓、あるいは満州開拓というのは戦後あまり語られてこない、送り出した側としては国民を危険な場所に追い込んだ、いわば不都合な歴史だからだ。しかし、不都合なことに目を瞑る社会はまた同じ過ちを繰り返す。悲しい経験をした人々の言葉に向き合って、二度と同じような悲しい犠牲者を出さないような国や時代にするにはどうすればいいか、学んでいかなければいけないと日々思っている」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


小川アナ


 ライターの速水健朗氏は「この問題には、“第二の加害者“がいると思う。それが日本帰ってきた後、犠牲にした未婚の女性たちを共同体に受け入れなかった人たちだ。なぜそういう排除が起きたのか知りたいし、そこに向き合わないと、この問題を受け止めたことにはならないと思う」と指摘。小川彩佳アナは「私たちは、戦争の中に生きた人たちの生の声を聞ける最後の世代ともいえる。この女性たちにとって、戦争はずっと続いていたんだなと感じた。何度も言葉で蹂躙され、トラウマに苦しめられ、どれだけのことに耐えてこられたのか。敬意を表する。最近のMeTooの流れとシンプルに一緒にしてしまうのは良くないが、共感してもらえるかもしれない、という望みも生まれているのだと思う。そういう女性たちの癒やしていくことができるのであれば、共有し、共感して、戦争の地続きの今を感じることが必要だ」とコメントしていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)

155. 中川隆[-11020] koaQ7Jey 2019年4月02日 08:21:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1003] 報告
2019.04.02
天皇制官僚国家の象徴としての「元号」
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/

 安倍晋三政権は4月1日、新しい「元号」を「令和」にすると発表した。元号の法的な根拠は1979年に成立した「元号法」だが、その前提として天皇制がある。その天皇制については日本国憲法の第1条から第8条で定められ、いわゆる「戦争の放棄」を定めた第9条はその後だ。この順番から考えて、日本国憲法の主眼は天皇制の維持にあると言えるだろう。

 この憲法は「日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこ」んだ天皇が「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し」て、1946年11月3日に公布したものである。

 第2次世界大戦でアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は反ファシストの立場から戦っていたが、1933年から34年にかけての時期にルーズベルトを中心とするニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立させようとした勢力がアメリカ支配層には存在した。その中心だったのは巨大金融資本だ。

 本ブログでは何度も書いてきたが、1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。

 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。

 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーがJPモルガンと極めて緊密な関係にあることも本ブログで繰り返し書いてきた。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。

 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる。

 日本の侵略を受けていた国々の人びとは、そうした軍人以上に厳しい目を向けていた。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)

 天皇制官僚システムを維持するためには、アメリカが日本で主導権を握っているうちに天皇制の存続を定めた憲法を制定し、天皇を被告席に立たせずに戦争責任を問う裁判を終わらせてしまう必要があった。それをアメリカは実行した。

 第2次世界大戦の帰趨が決したのは1944年6月にアメリカ軍を中心として実行されたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)だと考えてる人が高名な学者の中にもいるが、実際はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで壊滅、1943年1月に降伏した時に勝負はついていた。ノルマンディー上陸作戦で決着がついたという話はハリウッドが作り上げた幻影だ。

 アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランドへ渡ったのが1941年5月。そこでイギリス政府の要人と何かを話し合ったはずだが、その内容は未だに秘密。そして6月に310万人のドイツ軍が西側に90万人を残してソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。

 当然のことながら、このときにドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)ヒトラーは西側から攻めてこないことを「予知」していたのだろう。

 ドイツ軍の主力が壊滅したことに驚いたアメリカとイギリスは急遽会談し、1943年7月に米英軍はシチリア島へ上陸、そしてノルマンディー上陸作戦だ。それと同時に西部戦線で戦っていたレジスタンスに対抗するため、OSSはゲリラ戦部隊ジェドバラを組織、それが大戦後、CIAの秘密工作部門になる。

 それまで傍観していた米英軍が慌てて動き始めたのだが、それと並行してドイツ側はOSS(CIAの前身)と盛んに接触するようになる。こうした接触はルーズベルト大統領には秘密にされていた。

 OSSのアレン・ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織したヘルマン・ゲーリングも含まれ、ダレスたちは彼を戦犯リストから外そうとしたのだが、失敗した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、ナチスの大物たちをアメリカ支配層は保護、逃亡させ、後に雇っている。その逃走にローマ教皇庁の一部勢力が参加していたことも広く知られている。

 日本では天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。

 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。

(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B6%99%E2%80%95%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E7%A5%9E%E7%88%B6%E3%81%AB%E3%81%8D%E3%81%8F-1973%E5%B9%B4-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%BD%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/B000J9DIP6


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/

156. 中川隆[-10662] koaQ7Jey 2019年4月23日 22:01:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1405] 報告
1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を 真実追求の動き(日本人は虐殺などしない??)
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html

 



 南京など虐殺事件は中国人などの捏造で、日本人は虐殺などしない誇り高い軍人だった、と言い張る層があるが。大戦中の大日本帝国軍の蛮行とされているはそれだけではない。真実を明らかにするには、当時の全ての証言と資料の発掘が必要だが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ここから)
2019年4月22日 15時59分 BBC News
1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を 真実追求の動き

*写真拡大
(画像)https://lpt.c.yimg.jp/amd/20190422-47986990-bbc-000-view.jpg
ギャリー・ナン、シドニー

第2次世界大戦中の1942年、オーストラリアの女性看護師の一団が、日本軍兵士たちによって殺害された「バンカ島虐殺事件」。いま、一人の歴史研究者が入手した証拠から、ある事象が浮かび上がりつつある。看護師たちは殺害前、日本兵たちに性的暴行を受け、オーストラリア当局がそれをひた隠しにしてきたというのだ。

「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」

軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。看護師たちは1人を除いて全員殺された。

「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。

「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。恥ずべきことだと思われていたので。レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」

●唯一の生存者
看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクルさんは、虐殺事件で体に銃弾を受けたが、死んだふりをして生き延びた。ジャングルに身を隠し、やがて戦争捕虜となり、のちにオーストラリアへ帰国した。

第2次世界大戦後に開かれた東京裁判では、ブルウィンクルさんは強姦について「話すのを禁じられた」と、シルヴァーさんは言う。ブルウィンクルさんは2000年に死去したが、何があったのか、テレビキャスターに伝え残していた。シルヴァーさんが今回調べたのは、その内容だ。

「ヴィヴィアンは命令に従っていた」とシルヴァーさんは言う。「(強姦被害について黙ったのは)タブーというのもあったし、オーストラリア政府には多少の罪悪感があったのだろう。政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」

オーストラリア政府によれば、虐殺の実行者は今も特定されず、「罪について何も処罰されていない」。

オーストラリア国防軍の報道官は、この性的暴行の訴えについて新調査に着手するかは、政府の判断次第だが、関係者の家族が、こうした犯罪調査の担当部署に「歴史的な新証言を提供することはできる」と説明する。

●何が起きたのか調査
シルヴァーさんのほかにも複数の女性が、看護師たちへの性的暴行の証拠を発掘した。テレビキャスターのテス・ローレンスさんと、伝記作家のバーバラ・エンジェルさんだ。

エンジェルさんは、ブルウィンクルさんが着ていた看護師の制服に残された、色違いの糸と銃弾の穴について調べた。

その結果、上半身のボタンがいったん引きちぎられ、後に(ブルウィンクルさんの死後、制服が展示された際に)、そこだけ違う色の糸で縫いつけられた様子がうかがわれた。

さらに、制服の2カ所に残る銃弾の痕(銃弾が入った時の穴と出た時の穴)がぴったりそろうには、ブルウィンクルさんの制服は腰のあたりで開かれ、前の部分が下がっていたはずだということも浮かび上がった。

ローレンスさんは2017年、ブルウィンクルさんから生前に打ち明けられたという話を報じた。それは、「ほとんどの」看護師が銃殺される前に「暴行された」という内容で、ブルウィンクルさんは、そのことを公表したかったができず、秘密はブルウィンクルさんを「苦しめた」と言っていたという。

シルヴァーさんはこのほか、バンカ島でマラリアの手当てを受けていた日本兵の証言にも言及している。その兵士はオーストラリアの調査官に、当時、悲鳴を聞いたと話した。また、兵士たちが「海岸で楽しんでいるところで、次は隣の小隊の番だ」と聞かされたと証言していた。

シルヴァーさんはさらに、看護師たちに起きたことの詳細を記録した文書から、重要な証言部分が抜き取られていたことも発見した。検閲があったとシルヴァーさんはみている。

その証言はジーン・ウイリアムズさんによるもので、東京裁判の豪州戦争犯罪局のために夫のハロルド・ウイリアムズ少佐がどのような調査を実施したかという内容だった。

豪ニュー・サウス・ウェールズ大学のピーター・スタンリー教授(軍事史)は、シルヴァーさんの主張は決して意外ではないと話す。

「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、ヴィヴィアンさんを知る元女性兵ちが私に話してくれたこともあった。第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」

●軍の「人気者」
シルヴァーさんによると、オーストラリア人看護師たちは、虐殺される前の1941年までシンガポールで「何の悩みもない、幸せな人生」を送っていた。

「看護師たちは軍の人気者で、食事や酒をごちそうしてもらっていた」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、平時の軍隊にありがちな、訓練中の事故や、自動車事故、マラリアといった問題に対応していた」

1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前にシンガポールに侵攻した。それを機に、看護師たちの人生は一転したとシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、戦闘による負傷者の多さに圧倒された。シンガポールでは民家も病院として使われた」。

ブルウィンクルさんが1945年と1946年に話したいと思っていた「ありのままの真実」を伝えるのは、重要なことだとシルヴァーさんは言う。

「もし私がこの秘密を語らなければ、私自身も、沈黙の風潮と政府の圧力に加担して、加害者を守ることになってしまう」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちの話を語る必要がある。それでやっと、彼女たちの正義が実現する」。

シルヴァーさんのもとには最近、看護師たちを個人的に知っているという人たちからメールが届くという。「寝た子を起こすなと言われるのではないかと少し心配していたが、私をけなすような内容のメールは1通も受け取っていない」。

オーストラリア戦争記念館(AWM)には、すでに看護師たちの虐殺についての展示はある。しかしシルヴァーさんは、性的暴行の訴えがあることも展示に反映してもらうよう希望している。

AWM館長のブレンダン・ネルソン博士はBBCの取材にこう述べた。「私たちは訴えを否定も軽視もしない。実際、戦争ではレイプや性的暴行が武器として使われることは知られている。しかしながら、事件の唯一の生存者であるブルウィンクルさんは約20年前に亡くなっていて、何が起きたのかわからないし、今後も確実に知ることはできない」。

●#MeTooと比べて

シルバー氏は性暴力被害への連帯を示す世界的な「#MeToo」の運動を意識しながら、次のように言う。「問われている社会的道徳観は同じだ。女性は何か発言したくても、待つよう強いられていると感じてきたし、犠牲者として責任があると思わされてきた。#MeTooはヴィヴィアンに、ついに告発する自信を与えただろう」。

「女性の歴史作家は一般的に、どれだけ銃が使われたかよりも、人間的な要素に興味を引かれる。女性は共感力がある」

今回の証拠を発掘した3人の歴史研究者が3人とも女性だったことが、そのことをよく示しているとシルヴァーさんは言う。「歴史(history)が『彼の話(his-story)』として語られるのをずっと聞いてきた。今回はその反対だ」。

(英語記事 A WW2 massacre and revealing 'an awful secret')
BBC News
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ここまで)
 残念ながら行われてるのは事実の隠ぺいの方が多い。

■南京虐殺世界遺産に抗議の自民党・原田委員長が荻上チキのラジオで「虐殺は捏造」と断言! ネトウヨのデマ信じる浅薄ぶり晒す
http://www.asyura2.com/15/senkyo195/msg/418.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 10 月 24 日 21:00:05: igsppGRN/E9PQ

157. 中川隆[-10662] koaQ7Jey 2019年4月24日 04:00:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1405] 報告

2019.04.24
米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。

 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。

 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。

 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)

 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を●姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)

 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)

 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)

 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)

 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。

 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。

 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。

 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。

 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。

 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。

 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。

 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。

 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。

 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。

 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる

 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。

 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。

 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。

 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。

 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。

(注)●は楽天による検閲
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

158. 中川隆[-10652] koaQ7Jey 2019年4月24日 09:30:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1418] 報告
7. 知的上級者さん[159] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年4月24日 03:17:43: VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[79]

日本軍に限らず、どこの戦争でも強姦したくて進軍するというのがあるからな
上海でもやったし、ロシアでもやった
美人のロシア娘を見つけたら、みんなで回すもんだから
誰かが性病になっていると、部隊全員穴兄弟になって性病が蔓延する
それで731部隊に性病をなんとかしてくれという依頼があった
逆に日本でも、終戦で横浜に上陸した米兵が片っ端から強姦しまくっていた
トラックに乗り、どこに女がいるんだと、学校や病院へと強姦ツアーに出かける
品川の病院では24才の看護婦1人に27人の米兵が群がったという

そしてこれは戦争に負けたから仕方がないでは済まない話なのだ
日本はアジアで略奪した金品をフィリピンに集めていたが
そこでインゴットにしていたのはマッカーサーの父親なのだ
戦っているはずの日米は、上の方では繋がっていた
日米の国民を犠牲にして、日米の軍産が金儲けのために戦争をしていた
だからロックフェラーに資本注入された三菱の主要工場は空襲を受けていないし
東京大空襲のときは上級国民が避難してから空襲が行われている

つまり、このイカサマ戦争では天皇とマッカーサーは対等な関係だったのだ
だから天皇はマッカーサーに米兵の強姦をやめさせろと言える立場だった
天皇が朝鮮人でなかったら言ったはずだ
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html#c7

159. 中川隆[-10458] koaQ7Jey 2019年4月30日 18:59:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1629] 報告
昭和天皇とダブルファンタジー  昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/276.html

   
菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師
論座 2019年04月30日 より無料公開部分を以下転載。 

1https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_1.jpeg
1988年4月、87歳の誕生日に=提供・宮内庁
 

連載 昭和天皇とダブルファンタジー

■天皇のリアリズム
 
 昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_2.JPEG
1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班
 
 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。
 
 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。

160. 中川隆[-10417] koaQ7Jey 2019年5月02日 09:37:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1673] 報告

2019.05.02
日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗


 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。

 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。

 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。

 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。

 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。

 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。

 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。

 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。

 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。

 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。

 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。

 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。

 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。

 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。

 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ

 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。

 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。

 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。

 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/

161. 中川隆[-10391] koaQ7Jey 2019年5月03日 08:45:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1699] 報告
東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。

天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね:


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昭和天皇とダブルファンタジー  昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/276.html
   
菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師 2019年04月30日 

 
 昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_2.JPEG
1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班
 
 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。
 
 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。


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21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


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April 29, 2017
天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


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革命に恐れおののいていた天皇家の人々


梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html


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脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。
当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。

そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。


1937年12月に日本軍は南京を攻略している。

中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。

そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)


日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。

 つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。

 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。

 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。

 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/


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昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、

このまま行くと日本はソ連に占領される
ソ連よりアメリカに占領された方がいい

という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。

ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね:


ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


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『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


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カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html


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昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、
このまま行くと日本はソ連に占領される
ソ連よりアメリカに占領された方がいい

という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。

ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね:


の続き


天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは


ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。

ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。

彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。

スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。


1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった[19]。

ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した[20]。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。

ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において共産党中央委員書記のニコライ・シャターリンによって告発された。シャターリンはベリヤが多くの女性と性的交渉を持ち、娼婦との関係の結果梅毒にかかったと述べ、ベリヤと交渉をもった25人の女性のリストについて言及した。やがてこの非難はより劇的な展開を迎える。フルシチョフは彼の死後に出版された回想録において「我々は100人以上の女性の名前を記したリストを見せられた。彼女たちはベリヤの部下によって、ベリヤの元へ連れて行かれたのだ。彼はいつも同じ手口を使った。女性が彼の家に到着すると、ベリヤは彼女をディナーに招待する。そしてスターリンの健康を祈って乾杯しようと持ち掛ける。その乾杯のワインには睡眠薬が混入されていたのだ」と述べている。

1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。ベリヤの伝記を著したアントン・アントノフ=オフセーエンコ(Anton Antonov-Ovseenko)はあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。このときに行ったとされる行為は、「ベリヤのフラワーゲーム」と名づけられている。それは、部下に5人ないし7人ほどの少女を連れてこさせ、靴だけ履かせたまま彼女たちに服を脱がせた上で、頭を中心に向けた四つんばいの姿勢で円陣を作らせるというものだった。ベリヤは歩き回りながら彼女たちを品定めして、そのうち1人の脚をつかんで引っ張り出して連れ去り、レイプしたという[21]。ここ数年の間にベリヤが私的に犠牲者を殴り、拷問し、殺害したという数多くの物語が流布している。

1970年代以降モスクワの子供たちは、ベリヤの以前の住居(現在はトルコ大使館)の裏庭、地下室、あるいは壁の中から骨が発見されたと言う話を繰り返し噂し合っている。2003年12月、ロンドンの日刊紙 デイリー・テレグラフは「(トルコ大使館で)キッチンのタイルが改装された際、大きな大腿骨と小さな足の骨が発見されたのは、ほんの2年前のことだった。この大使館で17年働いているインド人のアニルは、地下室で彼が発見した人間の骨が入ったプラスチックのバッグを見せてくれた」と報じた[21]。政治的に動機付けされた非難として、性的虐待とベリヤに対する強姦告訴については、妻のニーナ、息子のセルゴといった近親者と、元ソビエト情報部長官パヴェル・スドプラトフによる議論がある。

歴史学者のサイモン・セバーグ・モンテフィオーリによると、ベリヤは個人的知り合いであるアブハジアの指導者ネストル・ラコバが1936年末に粛清された後、その家族を拷問にかけた。彼の未亡人サリヤは独房で毎日拷問にかけられ、衰弱死。息子ラウフは死ぬほど叩かれ、その後強制収容所送りになったという[22]。後に生還している。モンテフィオーリは、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と暴露している[23]。

ベリヤは小さな子供を拷問・強姦するために、自分の事務室に隣接した特別室を独占したという[24]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4


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天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは _ 3


ベリヤが支配した国はこうなる:

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。


筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405


ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。



ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。



大粛清ー犠牲者70万人以上

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。


1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


抵抗の果てに

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。


戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。


同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。


激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

162. 中川隆[-10357] koaQ7Jey 2019年5月03日 19:58:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1733] 報告

憲法の日に寄せて - 内田樹の研究室 2019-05-03
http://blog.tatsuru.com/2019/05/03_1323.html


2019年5月3日 1947年5月3日に憲法が施行されてから、72年目になる。

今年は先日読み終えて、たいへんに衝撃を受けた加藤典洋さんの『九条入門』(創元社)の所論の一部を紹介して、私見をいささか付け加えたい。(以下敬称略にします。すみません、加藤さん)

先日の神戸新聞のインタビューでも、「憲法一条と九条はワンセット」という加藤の知見に基づいて天皇制について話したのだけれど、その部分はカットされてしまったので、それも含めて。

天皇制の存続は戦争末期においてアメリカではほとんど論外の事案だった。

1945年6月29日(終戦の6週間前)のギャラップによる世論調査では、天皇の処遇をめぐって、アメリカ市民の33%が処刑、37%が「裁判にかける・終身刑・追放」に賛成で、「不問に付す・傀儡として利用する」と回答したものは7%に過ぎなかった。

そのような世論の中でGHQによる日本占領は始まった。

法理的には、日本国憲法を制定する権限はGHQではなく、それより上位にある極東諮問委員会(のちの極東委員会)に属した。

委員国は英・米・仏・ソ・中華民国・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フィリピン・インドの11カ国。極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事の選任についてもこの11か国が権利を持っていた。

メンバーの中では、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンが天皇制の存続につよい警戒心を示していた。

ということは、極東委員会主導で日本国憲法が制定された場合には天皇制の廃絶が明文化され、東京裁判が開かれた場合には天皇が被告席に立たされる可能性があったということである。

ドイツやイタリアでは、憲法がゆっくり時間をかけて検討され、起草されたが、日本では極東委員会もアメリカ国務省も知らないうちに(憲法制定権限をもつ極東委員会が発足する寸前に)1946年3月6日に天皇制の存続と戦争放棄という驚嘆すべき条項をもつ「日本政府案」(起草したのはGHQ、日本政府に開示されたのは2月13日)が発表された。

極東委員会のメンバーが日本視察を終えて2月1日に横浜を離れると同時に草案の検討が始まり、彼らが太平洋を横断して、サンフランシスコに到着した2月13日に憲法は書き上げられていた。そして、「もう誰にも手出しできない状況」(72頁)が生まれていた。

GHQには憲法制定権はないから、建前上これは「日本国民の自由に表明せる意思に従い」起草されたものである。

それにしても、なぜマッカーサーは憲法起草をこれほど急いだのか?極東委員会や国務省の裏をかくような真似をしたのか?

加藤典洋によると理由はきわめて実利的なものである。
天皇制を利用すると占領コストが劇的に軽減することが確かだったから。

天皇制を廃したり、天皇の戦争責任を裁判で追及した場合には、絶望した一部の日本軍兵士が占領軍に敵対し、多数米軍兵士の長期駐留が必要になる可能性があった。

マッカーサーの知恵袋だったフェラーズ准将は知日派の情報将校だったが、つよく天皇の免罪を求めた覚書をマッカーサーに提出している。

「無血侵攻を果たすに際して、われわれは天皇の尽力を要求した。その命令によって700万の兵士の武装解除が可能になった。したがって、その彼を戦争犯罪のかどで裁けば、日本国民の目には、背信に等しいものと映るであろう。統治機構は崩壊し、たとえ武装解除されているにせよ、全国的反乱は避けられない。何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍が必要となり、占領期間は延長されざるを得ないであろう」(83頁)

マッカーサーはそのような事態を全く望んでいなかった。

彼には短期間のうちに日本軍国主義の一掃と、社会の民主化をなしとげ、米軍兵士たちを無傷で帰郷させ、日本占領に奇跡的成功を収めた「卓越した行政官」という声望を求める個人的理由があった。

彼は1948年の大統領選挙に共和党の大統領候補に指名されることを狙っていたからである。

そのためにはどうしても「昭和天皇の免罪と助命をかちえて、天皇の信頼を獲得して、その力を利用して占領統治を成功させる」(73頁)必要があった。
マッカーサーにはタイムリミットがあった。

48年には彼は68歳になる。現役大統領のトルーマンは4歳年下、48年にトルーマンが後継指名し、52年に共和党の大統領候補指名を得たドワイト・アイゼンハウアーはかつてマッカーサーの副官だった軍人で、10歳年下である。
現役軍人は大統領になれない。

48年の大統領選の準備のためには本国に帰国しなければならない(マッカーサーは太平洋戦争の前からほとんど帰国したことがなかった)。華々しい凱旋帰国のためには早期の占領成功が必須だった。

そのために、1947年からマッカーサーはアメリカ国内向けに繰り返し「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」という声明を出し、本国へ対して「日本の占領をすみやかに終わらせることを望む」メッセージを送り続けた。

しかし、「大勝」という大方の予想を裏切って、48年3月のウィスコンシン州での予備選挙でマッカーサーは惨敗を喫し、いきなり指名レースから脱落してしまう。

それはまだ先の話で、1946年2月時点でのマッカーサーは天皇制を梃子に国内秩序を完全にコントロールすることと、アメリカ国内向けには「天皇制があっても、日本の軍国主義は決して復活しない」と保証することという二つの要請を同時的に応えるというアクロバシーを演じる必要があった。

そのためには、極東委員会が憲法制定権を行使して、ゆっくり時間をかけて憲法草案(これは天皇制を廃絶するものである可能性があった)を検討する作業を始める前に、すべてを片付けねばならない。

そのときにマッカーサーに「天啓」のように訪れたのが「戦争放棄」というアイディアであった。

天皇を免罪するけれども、天皇の存在が世界の平和を脅かすリスクになる可能性はゼロである。なぜなら、日本は戦争を放棄するからである。
天皇の免罪という「非常識な」政策を正当化するためには、それに釣り合うほどに「非常識」な政策によって、均衡をとる必要があった。

「それは、現人神である天皇から大権を剥奪する、そして戦争犯罪人である天皇から大罪を免じる、という国内社会と国際社会の双方で、二様に『神をも恐れぬ』行動に出ることと釣り合い、相殺し合う、もう一つの『神をも恐れぬ』、『極端な』条項でなければならない」(104頁)

天皇制の存続につよい懐疑のまなざしを向ける極東委員会の国々(ソ連は天皇制そのものの廃絶を求め、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンは天皇制による軍国主義の復活を恐れ、中華民国は天皇が裁判で訴追されないことに不服を申し立ていた)に「天皇制は残す」という決定を呑み込ませるためには、「極端な戦争放棄条項」、すなわち個別的自衛権すら放棄するという条項を憲法に書き入れるしか手立てがなかったのである。

ここまでの加藤の行論には反論の余地がないと思う。

憲法九条二項は憲法一条と「バーター」で制定されたという加藤の論には説得力がある。

とくに私が興味を持ったのは、この「極端な戦争放棄」に当時の政治家や憲法学者たちが熱狂したという点である(その多くは後になって「九条二項には個別的自衛権を放棄したものではない」と掌を返したように解釈を覆したが)。

加藤はこれを日本人が病んだ「道義心の空白」(193頁)によって説明する。

敗戦によって日本がそれまで道義的価値の源泉として見上げてきた(少なくとも制度的にはそう強制されてきた)天皇がその地位を失った。
天皇制は戦争責任を免れるかたちで存命することになった。

それを喜んだ日本人もたくさんいただろう。けれども、天皇がもはや国家の道義的な中心ではなくなったという事実に日本人は深い空虚感を感じたはずである。
いったいこれから先、日本人は何を道義とし、モラルとして生きていったらよいのか?

その「藁をもつかむ」状態にあった日本人に提示されたのが、戦力を持たず、交戦権を否定し、全面的な戦争放棄を実行して世界に類のない平和国家をめざすのだという憲法九条の「物語」である。

「世界に類のない」というところが肝心なのである。

世界に冠絶する大日本帝国が瓦解した後に、それでも日本人はなんらかのかたちで「世界に類をみない国」でありたいと切望した。

加藤はこのときに日本人を巻き込んだ熱狂についてこう書いている。

「自分たちの空っぽの道義の『空白』には、いま、そのようなものこそが、必要なのだ、自分たちはそれをこそ求めていたのだ、と考え、その条項を全面的な賛同の気持ちで受けいれることにした。このとき起こったことが、そうした側面をもっていたとしたら、それは、戦争放棄の『光輝』によって行う、天皇の民主化の『空白』の"埋め合わせ"(代償行為)だったのだろうと私は思うのです。」(195頁)

ここまでの論を見ただけで、なぜ先帝が「鎮魂と慰藉」という「象徴的行為」を「象徴天皇」の本務であるとして、あれほど強調されてきたのか、その理路が逆方向からわかってくる。

天皇陛下の象徴的行為による国民の道義性の「底上げ」の努力は、改憲の運動が進み、憲法九条の「道義性」が減殺されてゆくプロセスとほぼ並行している。

かつては「憲法一条の没道犠牲」を「憲法九条の道義性」が補償していた。

いまは「憲法九条の道義性の空洞化」を「憲法一条の道義性の充実」が補填しているのである。

日本国が国際社会に示し得る「道義性の総量」は昔も今も変わらない。
変わったのは「何がわが国の国民的道義性を担っているのか」である。

という話を神戸新聞にしたのだけれど、変な話過ぎたので、記事にはならなかったので、ここに採録するのである。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/03_1323.html

163. 中川隆[-10374] koaQ7Jey 2019年5月08日 04:16:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1723] 報告
15. 2019年5月07日 22:02:33 : UYIprhDEWE : aFZZSGFVTW1ZVTY=[1] 報

天皇裕仁が、金の百合で実行した、内情を知る者や自分たちに不都合な者たちを、その忠誠心や功績に関係なく、口封じのために、すべて情け容赦なく殺した伝統は、天皇明仁の代まで、続いていたことは、衝撃的である。
戦後に、自死したとされる近衛文麿が、殺されたと証言したのは、裕仁の側近でもあった、木戸幸一が、最初である。
多分、奥参事官と小和田雅子さんは、恋人同士であったのだろう。

当時、奥参事官の銃撃事件は、米軍によるものと確信していたけれど、その動機までは分からなかった。

> 「銃撃直後に米軍車列」の重大証言 ◆

 しかも、この店主の証言として共同通信が驚愕すべき内容を送っているのだ。

 「畑に突っ込んだ車のすぐ後ろから米軍の車列が通り過ぎていった」
 この証言は重要だ。

 だだっ広い4車線の道路で銃撃があったのに米軍車両はそのまま通過したことになる。
しかも、現地警察によれば、畑に突っ込んだ車や遺留品はすべて米軍が回収してしまったという。

 また、外務省によれば紛失した奥参事官らのパスポートは後になって米軍が「地元有力者から取り返した」と言って返却したという。

http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col31.html


暗殺が真相であったならば、相当な人数と手間、それに費用がかかっているはずだ。

米軍と言っても、関わっているのは、この暗殺だけの特殊任務を行うコマンドであろう。

日本人も、関わっていたのは、確実だ。

天皇の深い闇は、アングロサクソンの深い闇とつながっている。

近衛が失敗したのは、その闇の深さを読み違えたことにある。

奥参事官の暗殺を計画し実行した張本人は、だれであろう?

考えただけで、身震いがして、嫌悪感が止まらない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/479.html#c15

164. 中川隆[-10362] koaQ7Jey 2019年5月10日 10:24:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1740] 報告

従軍慰安婦・南京大虐殺等の戦争犯罪の証拠になる公文書を米軍の占領前にすべて焼却させた元法相 奥野誠亮


敗戦時の公文書大量焼却事件の主犯は奥野誠亮である。

2016-11-27
史上最悪の証拠隠滅犯の死
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/27/141537


16日、奥野誠亮(元内務官僚・衆院議員・文相・法相)が死んだ。103歳だという。よくもしぶとく生き延びたものである。


朝日新聞(11/18):

奥野誠亮さん死去 文相・法相を歴任

(略)1963年、自治事務次官を経て、旧奈良全県区から衆院議員に初当選した。衆院議員を13期務めた後、2003年に90歳で引退した。国土庁長官だった88年、日中戦争について「日本に中国侵略の意図はなかった」と発言し、国内外で批判を浴び、同長官を辞任した。

毎日新聞(11/17):

奥野誠亮さん死去 筋金入りの保守派、ミスター内務省

(略)1938(昭和13)年入省。地方局事務官として戦争終結方針策定に当たり、内務省解体も体験し、自治事務次官から政界入り。連続当選13回で文相、法相、国土庁長官を歴任し、卒寿(90歳)で引退した。

 閣僚としての歴史認識をめぐる発言で時に物議をかもしたこともあったが、真骨頂は「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長としての活動と、自主憲法制定を求める運動。自著の回顧録のタイトル「派に頼らず、義を忘れず」をそのままモットーに万事に生涯無派閥を貫き「保守のバックボーン」ともいわれた。

 大いに存在感を発揮し筋金入りの右派だったが、決して硬直した右派ではなく、リベラルにも寛容な議論好きだった。(略)

 
朝日も毎日も、訃報でこの男の最も重大な「業績」を伝えていない。こちらは歴史を作ってきたどころか、貴重な歴史史料を抹殺し、正しい歴史認識の構築を妨害し続けてきた証拠隠滅犯なのだ。

読売新聞(2015/8/11):

占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102

(略)

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

(略)

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

(略)

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

(略)

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

この国では、国家的重大犯罪の証拠を大量に抹殺した隠滅犯がそれをまるで手柄のように自慢げに語るばかりか、御用マスコミが当たり前のようにそれを紙面に載せて疑問も示さない。

奥野はさらに具体的な内容を1960年の座談会で語っている。


高文研 @koubunken
奥野誠亮死去。奥野ら旧内務官僚が1960年、総務省の自治大学校史料編集室で行った、8月15日・16日前後の公文書焼却をはじめとする敗戦処理について語り合った座談会の一部抜粋。(『ドキュメント 横浜事件』高文研刊から転載) pic.twitter.com/37kkqb2ddC
14:22 - 2016年11月18日

奥野 僕が思い出すのは、十五日の何日か前に、終戦処理の方針をきめなければいけないので……これは入江さんから伺ったのです、終戦になるのだと。(略)

 そのほか公文書は焼却するとかといった事柄が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する。海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する。内政関係は地方総監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまずいから、一部は文書に記載しておくが、その他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。それが何日に出発したかは覚えていないのですが……。

入江 十六日だと思います。

奥野 そのときわざわざ運輸省からパスまでもらって、上陸してきたのとぶつかったらこうこうしろということまで話し合いをして、各人が地域を分担して出かけていった。その結果軍の持っている物資が流され、文書は焼いてしまうということになった。(略)

奥野が主導したこの焼却決定の結果、ありとあらゆる犯罪の証拠が闇に葬られた。


能川元一 @nogawam
奥野誠亮が「焼いたw」と(いまだに)自慢話として証言している敗戦時の公文書隠滅だが、隠滅された文書の中には、日本軍「慰安婦」の総数や南京事件での捕虜殺害規模をいまよりは正確に推定する材料となったはずの文書が含まれていた可能性が極めて高い。
17:15 - 2015年10月19日


昼寝猫 @tcv2catnap
霞ヶ関のみならず中国、満州でも書類焼きまくった。特に東條内閣機密費や関東軍謀略の原資となった、アヘンな。大日本帝国最大級の外道官業の実態が闇に。
2:11 - 2016年11月19日

堀家康弘 @kounodanwawoma1
朝鮮総督府では敗戦直後に一週間もかけて、念入りに証拠文書が燃やされている。奥野元法相によれば「犯罪者を出さないため」
つまり、犯罪行為の隠滅がなされたのである。
14:36 - 2016年1月5日

ワイド師匠 @feedback515
朝鮮でも焼いた。僕の曽祖父が当時、朝鮮で手広く商売をしており、その中に大きなケシ畑もあった。今考えるとそれはアヘンの原料。大伯母(祖母の妹)の話では8/15の午後に大量の書類を焼却したという。ただその書類が何であったのか詳細は不明。https://twitter.com/tcv2catnap/status/799661247448784896


昼寝猫‏ @tcv2catnap
霞ヶ関のみならず中国、満州でも書類焼きまくった。特に東條内閣機密費や関東軍謀略の原資となった、アヘンな。大日本帝国最大級の外道官業の実態が闇に。
9:11 - 2016年11月18日

 
戦争犯罪を隠蔽し、戦争責任を否定することで日本を再び「戦争ができる国」にしようと画策し続けてきた奥野が「平和の尊さを訴えている」とはいったい何の冗談か。こんな男が何十年も国会議員をやり、文相や法相を歴任するのだから、国策企業も政治家も、何をやらかしても責任を取ろうとしないのは当たり前である。


名前は秘密 @assami7154
こういう歴史のうやむやが、結局、誰も責任を取らない体質となり、ひいては東電を生み、フクシマを招き、同じ構図で東京オリンピックや豊洲市場があるのです。結局は奥野がやった事は小さな縄張りの保守で国益の多大な損出、歴史的汚点
20:33 - 2016年11月17日

奥野は結局何ひとつ反省せず、どのような犯罪の証拠を焼かせたのかも白状しないまま死んだ。こういう者たちがのさばるのを許し続けてきた結果が今なのだ。
 
【2016/11/28追記】99さんからコメント経由で頂いたTV番組の画像の一部を貼っておきます。

奥野誠亮

70年経ってこの言い草。この無反省、傲岸不遜は、怪物的とでも形容するしかないですね。【追記終り】
 
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/27/141537


▲△▽▼

2018-05-04
日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん(要するに嘘つき)体質はあまりに根が深い
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222

■ 安倍政権だけの問題ではない日本政府の嘘つき体質

森友・加計学園問題や自衛隊のイラク・南スーダン日報問題が示すように、日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん体質は、安倍政権の下で極まっているように見える。

確かに、国会答弁で平然と見えすいた嘘をつき、嘘だという証拠を突きつけられてもまた別の嘘をついて誤魔化そうとする安倍政権の虚言癖体質は異常としか言いようがない。しかし、日本政府(単に自民党政権というだけでなく、中央官庁の高給官僚たちをも含めた行政府全体)の嘘つき体質は、安倍政権などよりはるかに以前からのものではないのか。

2001年に情報公開法が制定されて以来、開示請求した文書がことごとく全面黒塗りの「海苔弁」状態で出されてうんざりさせられた例は枚挙にいとまがない。

民主党・鳩山政権時には、沖縄の普天間基地問題をめぐって、外務省が県外移設は不可能とする「極秘文書」を捏造し、鳩山首相を騙して移設を諦めさせるという事件が発生している[1]。(結局この方針転換が原因となって鳩山内閣は総辞職に追い込まれた。)


 民主党政権時の2010年4月19日、防衛、外務の官僚たちが、官邸に鳩山首相を訪ねた。
 前年夏の総選挙で鳩山が唱えていた「米軍基地の沖縄県外への移設」についてレクチャーするためだ。

 官僚の一人は「アメリカ大使館と交渉した結果こうなった」と言って、3枚つづりの文書を鳩山に差し出した。

 文書のタイトルは「普天間移設問題に関する米側からの説明」。右肩には『極秘』の判が麗々しく押されている。

 “極秘文書”には米軍のマニュアルとして次のように書かれていた ―

 「航空部隊と陸上部隊の訓練の一体性を考えると、移転先は普天間から65マイル(105km)以内に限る」。

 沖縄全島は70マイル。沖縄以外はダメということだ。(移転先の候補にあがっていた)徳之島はあきらめろという内容である。

 「アメリカがそういう条件であれば、沖縄以外に持って行くことは不可能」。鳩山は県外移設を断念した。

(略)

 鳩山は決定打となった米軍マニュアルについて琉球新報に調べてもらったが、そんなマニュアルはどこにもなかった。

 極秘の指定期間は2015年4月18日。極秘が解除されたため、鳩山側近の川内博元衆院議員が外務省に問い合わせた。

 文書を扱う大臣官房総務課は「公文書ではない。外務省が作成したものかどうか分からない」と回答した。“極秘文書”はガセだったのである。

中曽根政権時代の1987年には、核兵器持ち込みに関する密約文書を公開しないよう、外務省が米側に要請するという事件も起っている[2]。


 【ワシントン山崎健】日本の外務省が1987年、米政府に対し、核兵器の持ち込みに関する密約を含む50年代後半の日米安全保障条約改定交渉など、広範囲にわたる日米関係の米公文書の非公開を要請していたことが、西日本新聞が米情報自由法に基づき入手した米公文書で明らかになった。密約などについて米側は要請通り非公開としていた。米公文書公開への外務省の介入実態が判明したのは初めて。

(略)

 文書によると、日本側が非公開を求めたテーマは(1)「核兵器の持ち込み、貯蔵、配置ならびに在日米軍の配置と使用に関する事前協議についての秘密了解」(2)「刑事裁判権」(3)「ジラード事件」(57年、群馬県で在日米軍兵士が日本人主婦を射殺した事件)(4)「北方領土問題」(5)「安保改定を巡る全般的な討議」。(1)(2)については「引き続き(公開)禁止を行使する」との結論が明記されていた。

 日米外交史に詳しい菅英輝・京都外国語大教授は(1)について安保改定時の「米核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象外とした核持ち込み容認の密約」だと指摘。今も関連文書の一部は非公開だ。(2)は53年の日米行政協定(現在の日米地位協定)の改定時に、米兵らの公務外犯罪のうち重要事件以外は日本政府が裁判権を放棄したとされる問題とみられるという。

この密約について、当然歴代首相や外相は承知しており、事実を知りながら嘘の答弁を繰り返してきた[3]。


岡田克也外相は9日、日米の密約に関する外務省調査結果と有識者委員会の検証報告書を公表した。併せて公開された機密文書から、政府が1968年に核兵器搭載の疑いのある米艦船の寄港・通過を黙認する立場を固め、その後の歴代首相や外相らも了承していたことが判明。寄港の可能性を知りながら、「事前協議がないので核搭載艦船の寄港はない」と虚偽の政府答弁を繰り返していた。非核三原則は佐藤栄作首相の67年の表明直後から空洞化していたことになる。見つからなかった重要文書も多く、有識者委は破棄の可能性など経緯調査の必要を指摘した。

(略)

 この文書は歴代首相や外相への説明に用いられており、余白には当時の佐藤首相が読んだことや、田中角栄、中曽根康弘、竹下登の各氏らが首相在任時に説明を受けたことを示す記載がある。また、添付された89年のメモには、首相就任直後の海部俊樹氏に説明したと記されている。

(略)

 朝鮮半島有事の際に、在日米軍が事前協議なしに出撃できるとの密約についても、根拠とされてきた非公開の議事録の写しが見つかり、有識者委は「密約」と位置づけた。

■ 敗戦時の文書大量焼却以来の「伝統」か?

このような隠蔽・嘘つき体質の元をたどっていくと、まずは敗戦時の公文書大量焼却事件に行き当たる。主犯は奥野誠亮である。


能川元一 @nogawam
奥野誠亮が「焼いたw」と(いまだに)自慢話として証言している敗戦時の公文書隠滅だが、隠滅された文書の中には、日本軍「慰安婦」の総数や南京事件での捕虜殺害規模をいまよりは正確に推定する材料となったはずの文書が含まれていた可能性が極めて高い。17:15 - 2015年10月19日


堀家康弘 @kounodanwawoma1
朝鮮総督府では敗戦直後に一週間もかけて、念入りに証拠文書が燃やされている。
奥野元法相によれば「犯罪者を出さないため」
つまり、犯罪行為の隠滅がなされたのである。
14:36 - 2016年1月5日


この奥野誠亮は鈴木善幸内閣で法相を勤めている。
重大犯罪の証拠隠滅犯が司法行政のトップとなったわけだ。


■ 実は明治維新までさかのぼる?

とはいえ、日本政府のこうした嘘つき体質は敗戦前後から始まったものではない。戦前戦中はもっとひどく、政府はすべてを知りながら「臣民」には嘘ばかり吹き込んでいた。歴史の転機をなした重大事件について、たとえば1928年の張作霖爆殺事件が関東軍の河本大佐らによる犯行だったことも、1932年の柳条湖での満鉄線爆破が関東軍による自作自演の謀略だったことも、一般人民がその真相を知り得たのは敗戦後である。

南京大虐殺についても、政府首脳部は当然その事実を知っていた。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎は次のように書いている[4]。


 南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追って、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。

 ◯上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

(略)
 私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容捨されなかったという記述は、殆ど読むに堪えないものであった。(略)
 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直に千里を走って海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。

そもそも、この国を不正義かつ無謀な戦争に引きずり込んだ政治家や官僚連中がまともな処罰もされずに復活を遂げたことが戦後の嘘つき政府の始まりなのだ。周知のとおり、東条内閣の商工大臣だった岸信介は敗戦からわずか12年で首相となった。その孫が安倍晋三である。

で、この戦前の嘘も、昭和になって急に始まったというわけではない。明治維新以来、政府の体質などずっと変わらなかったのだから、当然最初から嘘だらけだったのだ。

明治維新は、幕府を支持していた孝明天皇の不可解な「病死」(毒殺の疑いが濃厚)の後、15歳の若さで即位した明治天皇による「討幕の密勅」によって本格的に始動する。しかし、この密勅は偽造されたものだった[5]。


 これが慶応三(一八六七)年十月十三日のこと。十四日には前さきの権ごんの大納言正親町おおぎまち三条実愛さねなるが右の二人を召し、薩長両藩への「討幕の密勅」を下した(薩摩島津家宛ては十三日付)。これは慶喜が大政奉還の上表を提出した日でもあるから、奉還の動きと密勅降下の請願は舞台の表と裏で同時に進行し、ゴールに同着した形となった。
 これによって薩長は挙兵の大義名分を得た、と思う向きもあろうが、幕末史最大の問題点がここにある。討幕の密勅二通は同文で「詔みことのりす」と始まり、「賊臣慶喜を殄戮てんりく(誅殺)し速かに回天の偉勲を奏し」とつづいてゆく(原文は和風漢文)。「詔す」とあるからには天皇の発した詔書らしいが、辰筆しんぴつの日付もないし辰裁した印の「可」の字もない。摂政・大臣以下の連署もなければ「天皇御璽」も捺されていない、ないない尽くしの代物で、その写真版を見ると本文の次行最下部に「奉」とあり、三人の署名が並んでいる。
 正二位藤原(中山)忠能、正二位藤原(正親町三条)実愛、権中納言藤原(中御門)経之。「奉」とあれば天皇の意志を奉じた綸旨りんじのようだが、ならば文は三人称になるべきなのに「朕」という一人称が使われているので綸旨でもない(石井孝『維新の内乱』参照)。しかも三人の署名は同じ筆であり、今日、これらは岩倉が国学者玉松操に書かせたものと知れている。要するに岩倉と右の三人は大久保らから「相当の宣旨」がほしいとせっつかれ、偽文書を捏造して不敵にも密勅と騙ったのだ。

天皇の命令を記した詔書といえば、まさに公文書中の公文書である。明治政府の成立を可能にしたその公文書第一号がそもそも偽造だったのだ。そんなやり方で権力を握った連中やその後継者たちが隠蔽捏造にまったく躊躇しなかったのは当然と言えるだろう。

■ 明治維新どころではない。日本の歴史はその始まりから嘘だらけ

では、幕末維新期の「志士」たちが嘘つき日本政府の元祖・元凶なのか。

確かに、直接的にはそう言っていいだろう。しかし、公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。


 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。
 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。
 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。
 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。
 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。
 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。
 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。

[1] 『外務省と防衛省が首相をハメ、辺野古に戻させた』 田中龍作ジャーナル 2016/2/4
[2] 『外務省 核密約 米に非公開要請 「際限ない」米側不快感』 西日本新聞 2017/1/3
[3] 『核密約 歴代首相ら黙認 外務省極秘メモ公開』 朝日新聞 2010/3/10
[4] 石射猪太郎 『外交官の一生』 読売新聞社 1950年 P.305-306
[5] 中村彰彦 『幕末・明治の残照 86』 東京新聞 2017/10/1
[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222  

165. 中川隆[-10361] koaQ7Jey 2019年5月10日 18:24:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1743] 報告

オーストラリアが日本の戦争責任に厳しかった理由
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/04/28/101747

■ オーストラリア人看護婦たちを殺す前に強姦していた日本軍

1942年2月、インドネシア西部のバンカ島で、数十名のイギリス人およびオーストラリア人の捕虜と民間人、さらに21名のオーストラリア人看護婦が日本軍に虐殺された。

このとき、看護婦たちは単に殺害されただけでなく、その前に日本兵により強姦されていたことが明らかになった。BBCが次のように報道している。


www.bbc.com


「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」

軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。看護師たちは1人を除いて全員殺された。

「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。

「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。恥ずべきことだと思われていたので。レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」


唯一の生存者

看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクルさんは、虐殺事件で体に銃弾を受けたが、死んだふりをして生き延びた。ジャングルに身を隠し、やがて戦争捕虜となり、のちにオーストラリアへ帰国した。


第2次世界大戦後に開かれた東京裁判では、ブルウィンクルさんは強姦について「話すのを禁じられた」と、シルヴァーさんは言う。ブルウィンクルさんは2000年に死去したが、何があったのか、テレビキャスターに伝え残していた。シルヴァーさんが今回調べたのは、その内容だ。

「ヴィヴィアンは命令に従っていた」とシルヴァーさんは言う。「(強姦被害について黙ったのは)タブーというのもあったし、オーストラリア政府には多少の罪悪感があったのだろう。政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」

オーストラリア政府によれば、虐殺の実行者は今も特定されず、「罪について何も処罰されていない」。

(略)


シルヴァーさんのほかにも複数の女性が、看護師たちへの性的暴行の証拠を発掘した。テレビキャスターのテス・ローレンスさんと、伝記作家のバーバラ・エンジェルさんだ。

(略)

ローレンスさんは2017年、ブルウィンクルさんから生前に打ち明けられたという話を報じた。それは、「ほとんどの」看護師が銃殺される前に「暴行された」という内容で、ブルウィンクルさんは、そのことを公表したかったができず、秘密はブルウィンクルさんを「苦しめた」と言っていたという。


シルヴァーさんはこのほか、バンカ島でマラリアの手当てを受けていた日本兵の証言にも言及している。その兵士はオーストラリアの調査官に、当時、悲鳴を聞いたと話した。また、兵士たちが「海岸で楽しんでいるところで、次は隣の小隊の番だ」と聞かされたと証言していた。

■ 生存率 0.24%!! 地獄の捕虜収容所

もちろん、オーストラリア人が被害者となった虐殺・虐待はこれだけではない。

たとえば、日本軍の捕虜となった連合軍兵士の死亡率が、ナチスドイツに捕らえられた場合より遥かに高かったことは、よく知られている。[1]


ナチスより残虐な日本軍


 アジア太平洋戦争では、約三五万の連合軍将兵が日本軍の捕虜となった。そのうち、本国軍の将兵は約一五万、その国籍はイギリス、オランダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの六カ国であった。


(略)

 この間、連合国捕虜が、当時存在していた戦時国際法にのっとった人道的待遇を受けることはまれであった。連合国捕虜は常に精神的屈辱、肉体的暴力、奴隷労働、過酷な移動、飢餓、医薬品の不足、傷病、衣類の剥奪、友軍による攻撃に悩まされた。彼らを取り巻く状況がいかに過酷であったかは、日本軍の捕虜となった連合国将兵の死亡率に歴然とあらわれている(次頁表)。


 極東国際軍事裁判(東京裁判)の速記録によればナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率は七%であるのに対して、日本の捕虜となった二国の将兵の平均死亡率は二七%と非常に高い。国と収容地域によって若干の差異はあるものの、ドイツ軍もまた、必ずしも常にこれらの捕窪虜を国際法にのっとって取り扱ったわけではないので日本軍の捕虜がいかに過酷な状況下にあったかが推察できよう。


 後にくわしく述べる「泰緬たいめん鉄道」の建設にあたって、日本軍から奴隷労働を強制させられたオーストラリア人元捕虜トマス・ユーレン(元副首相)は、当時を次のように回想している。


 日本の兵隊や技師たちの残虐さとサディズムに満ちた捕虜時代の体験は、私の魂に深く刻みこまれた。私はもともと人を憎悪するような人間ではない。しかし、当時は、地球上の全ての日本人をみな殺しにしたいと思った……(杉本良夫『オーストラリア六〇〇〇日』)

平均死亡率27%はそれだけでも異常な高さだが、これはあくまで平均値であって、アンボン収容所では生存率(死亡率ではない)23%、サンダカン収容所では、なんと生存率0.24%だった。もともと頑健な若い兵士たちが、わずか三年半ほどの間にほぼ根絶されてしまったのだから、その間に行われた虐待や強制労働、飢餓がどれほどのものだったか、およそ想像できる限界を超えている。[2]


 オーストラリアの人たちにとっても、「サンダカン」という地名にはあまりなじみがない。ここの捕虜収容所に抑留された数多くの豪州軍捕虜が、どれほど苦しい経験をしたのかを知るオーストラリア人はさらに少ない。実はこの捕虜収容所には、一九四三年九月時点では約一八〇〇名のオーストラリア軍捕虜と七〇〇名のイギリス軍捕虜が収容されていたが、戦後まで生き延びたのはこのうちわずか六名であった。生存率はなんと〇・二四パーセント、この六人はほとんど奇跡的に生き延びたと言っても過言ではない。数年前日本でも上映されたオーストラリアの映画『アンボンで何が裁かれたのか』で日本人にも少し知られるようになった悪名高いアンボン収容所でさえ、五二八名のオーストラリア軍捕虜のうち終戦まで生き延びたのは三三名、生存率二三パーセントであった。また、過酷な強制労働に従事させられた連合軍捕虜六万五〇〇名のうち一万二〇〇〇という大量の死亡者をだした泰緬鉄道建設は、絶対数のえではサンダカン収容所の捕虜の死亡数と比較にならないが、捕虜の生存率から見れば八〇パーセントという高い数字を残している。この泰緬鉄道建設に送り込まれたオーストラリア軍捕虜の場合は、総数九五〇〇名のうち死亡者は二六四六名、生存率七二パーセントであった。

 サンダカンの場合、それほど徹底的に捕虜が虐待、虐殺された収容所であったにもかかわらず、オーストラリアにおいてすらも「サンダカン」の地名すらよく知られていないのはなぜであろうか。「捕虜虐待」という言葉を耳にするとき、オーストラリア人はほとんど反射的に「泰緬鉄道建設」を想起し、「サンダカン」という地名を頭に浮かべる人はほとんどいない。これはおそらく、泰緬鉄道建設の場合は生存者が多く、戦後帰還した捕虜たちによって過酷な強制労働の実態が語られ、また彼らの多くが自叙伝を書くことによって国民に広く知られるようになったのに対し、サンダカンの場合はほとんど生存者がおらず、なんとか生き延びた六人にとっては、最後まで生き抜くために言葉ではとても表現できないような凄まじい経験をさせられたため、その精神的傷痕があまりにも深くて、他人に語ったり文章にしたりすることがきわめて困難であったからだと思われる。この六人のうち三人が今も健在であるが、彼らが自分たちの経験を公けの場で語り始めたのは一九八〇年代に入ってからのことである。


■ 日本の戦争責任追求において最強硬派だったオーストラリア

戦後の日本統治に天皇を利用しようという思惑から、早い段階で裕仁の免責を決めていたアメリカなどとは異なり、オーストラリアは連合国の中でも日本の戦争責任追求に関して強硬だった。東京裁判に向けての国際検察局による戦犯容疑者の選定作業において、オーストラリアは最も多くのA級戦犯容疑者をリストアップし、天皇の訴追をも正式に提議している。[3]


アメリカの検察陣が作成したA級戦犯容疑者リストには30人の名前が記されていたが、イギリスのリストには11人しか記載されていない。いずれのリストにも天皇の名前はなかった。しかし、オーストラリアが示した起訴可能な「100人の暫定リスト」には、「平和に対する罪と人道に対する罪」の容疑で天皇が含まれていた。さらにオーストラリアは、天皇に対する容疑を裏づける詳細な覚書を提出した。覚書はこう強調している。「いかなる時点においても」裕仁が侵略的な軍事行動について「強要によって承認の文書を書かされた」ことはない。そして覚書は修辞的に問いかけている。「彼の犯罪は、彼が是としなかったことを承認したがゆえに、いっそう重大なのではなかろうか」と。


オーストラリアがこのように戦争責任の追求に関して強硬(言い方を変えればまとも)だった背景には、アメリカなどとは異なり東西冷戦の主役ではなかったこと、地理的にも相対的な軍事力から言っても南方に侵攻してきた日本の脅威が死活的に深刻だったことに加え、同胞が犠牲となったこうした残虐行為に対する憤りもあったのではないだろうか。


[1] 油井大三郎・小菅信子 『連合軍捕虜虐待と戦後責任』 岩波ブックレット 1993年 P.8
[2] 田中利幸 『知られざる戦争犯罪 ― 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』 大月書店 1993年 P.18
[3] ハーバート・ビックス 『昭和天皇(下)』 講談社学術文庫 2005年 P.290
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/04/28/101747

166. 中川隆[-10332] koaQ7Jey 2019年5月11日 22:59:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1778] 報告
3. 新共産主義クラブ[-10849] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年5月11日 16:10:47: 1LP5PtPQlM : WFJWTkxBWm1xRVk=[6]

戦後の1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。


◆ 野村吉三郎

(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)

CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)

(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf


◆ 緒方竹虎

(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)

朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。

CIAとの協力関係

緒方はCIAの協力者であり、CIAが緒方政権擁立のために積極的な工作を行っていたとする説がある。

有馬哲夫は、CIA初代局長だとされるポール・ブルームが、高校・大学・朝日新聞時代の後輩だった笠信太郎との関係を通して緒方を協力者に引き込んだとしている[18][19]。また、1952年10月の衆院選で当選し吉田内閣の官房長官に就任した緒方はただちにCIA局員と接触を開始し、 日本政界の情報提供及び、辰巳栄一元陸軍中将の情報活動報告を条件として、 その見返りに日本版CIA設立を目的とした3万9458ドル(現在価値で約6000万円)の資金援助をCIAから受け取っており、CIAから資金提供を受けて活動した日本で初の政府高官が緒方であったと述べている[20]。

2017年に公開されたCIA機密文書(1952年6月18日機密指定)によれば、講和条約発足後に昭和天皇が退位して、緒方がかつて教師役をつとめたことがあり友好関係を持つ明仁皇太子に譲位し、それに伴い吉田茂首相も辞任、後継に緒方が首相に就任する(1953年の下旬から1954年の上旬)との見通しをCIAが持っていたことが明らかになった[22]。 しかしその情報源が、緒方に近いグループに属する日本人から聞いたという中国国籍の人物だったため、政局を有利に展開させるための緒方派による情報工作の可能性があるとして、この譲位問題に関する情報価値は未確定であるとCIAに分析されている[23]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/607.html#c3

167. 中川隆[-10363] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:35:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1956] 報告
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

https://www.chosyu-journal.jp/review/11737  

168. 中川隆[-10309] koaQ7Jey 2019年5月20日 06:09:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2020] 報告

沖縄から米国へ ジャーナリスト大矢英代のこと 初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」で受賞 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/894.html
 



〈シリーズ:フェイクニュースに抗う〉
沖縄から米国へ ジャーナリスト大矢英代のこと 
初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」で受賞
 
松本一弥 朝日新聞東京本社編集局夕刊企画編集長、Journalist
論座 2019年05月18日 より無料公開部分を転載。
  
■共同監督作品で数々の賞に輝く
 
 米国カリフォルニア在住のフリージャーナリストでドキュメンタリー映画監督、大矢英代(はなよ、32)は2018年、一躍脚光を浴びた。初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」が第92回キネマ旬報文化映画第1位や平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞、浦安ドキュメンタリー映画大賞2018映画大賞、全国映連賞監督賞、第36回日本映画平和賞を受賞するなど数々の賞に輝いたからだ。

 琉球朝日放送(QAB)の元同僚でジャーナリスト三上智恵との共同監督作品で、二人で「戦争マラリア」や「少年ゲリラ兵」、そして陸軍中野学校が沖縄で行ったことなど「沖縄戦の闇」に鋭く迫った。

 大矢は沖縄問題を始め、経済的理由からやむを得ず入隊する米軍の「経済的徴兵」、軍隊内部の性暴力をテーマに取材に取り組むなど「国家と暴力」という重いテーマに正面から向き合う気鋭のジャーナリストだ。大矢はまたカリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院調査報道プログラムのフルブライトフェローという肩書も持つ。

 大学では、同大教授でアメリカのジャーナリズム界では「伝説の人物」でもあるローウェル・バーグマンの教え子の一人。そんな大矢に今日に至るまでの道のりと、フェイクニュースが吹き荒れる米国で「ジャーナリストであること」への思いと覚悟を聞いた。

■「戦争マラリア」の惨劇をテーマに
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_8.jpg
2005年5月に琉球新報が出した沖縄戦新聞の1面
 
 2005年、明治学院大学文学部英文学科に入学した大矢は、米国の大学に交換留学したことをきっかけに米軍が抱える問題に関心を持ち、ジャーナリストを志すようになった。2009年には早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースへ進学。その過程で「ドキュメンタリーを作ろう」と2010年から1年間大学院を休学し、沖縄の最南端、波照間島に向かった。

 選んだテーマは「戦争マラリア」。太平洋戦争末期、波照間島など八重山諸島の住民が、当時マラリアにかかる恐れのある西表(いりおもて)島などに日本軍の命令で強制移住させられ、多くの人が命を落とした惨劇として知られる。このうち波照間島では約1600人の住民が移住を強いられた。西表島でマラリアが猛威をふるっていることをすでに知っていた島の古老らは「島に残って戦争で死んだ方がまし」として移住を断ろうとしたが、逆らうことは許されなかった。その結果、移住した島民の約3分の1にあたる約500人が死亡したとされる。

 なぜ、こんなことが起きたのか。当時の状況について、朝日新聞はこう報じている。

「ろくな受け入れ準備もなしに、軍はなぜ、強引に住民疎開を
迫ったのか。表向きの理由は『戦火からの保護』とされるが、
実際は連合軍の上陸を想定し、住民がその支配下に入った場合
の情報漏れを警戒した、というのが沖縄戦研究者の定説だ」
「地元には、軍のための食肉確保も、強制疎開の一因だった、
とする見方も根強い」(1989年12月7日付朝日新聞)
 
 「何とか真相に迫りたい」。大矢は「戦争マラリア」を体験した島のおじいやおばあと一緒に一つ屋根の下で暮らしながら、時間をかけて取材を重ねた。この時の取材では十分に謎を解き明かせなかったと感じた大矢だが、歴史的な「闇」についてはその後、ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」作りを通して再トライすることになる。

 大学院生の大矢は波照間島で撮影した取材結果をドキュメンタリー作品「ぱいぱてぃぬうるま?南の果ての珊瑚の島?」にまとめ、修士論文プロジェクトとして大学院に提出した(修士論文のタイトルは「沖縄県八重山諸島の戦争マラリアにおける歴史の継承?ドキュメンタリー映画制作を本論として?」)。作品の編集に追われる間は「卒業後の進路はどうしよう」と不安にかられることもあったが、「今しかできないことを優先する」との意思は固く、就職活動はしなかった。「私は複数のことを同時並行でこなせるほど器用な性格じゃないので、一つずつしか集中できないんです」と大矢は笑う。

■沖縄が再軍備化されていくことへの恐怖
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_5.jpeg
戦闘機や哨戒機が次々と離着陸する米軍嘉手納基地=2018年9月、沖縄県嘉手納町
 
 大学院は卒業したものの、さてこの先の人生をどうしよう? そのころの大矢は「フリーランスのドキュメンタリストとして生きていけたら」と思っていたと振り返る。「一生、映像を撮り続けていたい。でも同時にひたすら沖縄にいたかった。波照間のおじいやおばあたちと少しでも長く一緒に過ごしたかったんです」。それとともに、「戦争マラリア」を調べる中で現在の沖縄が再軍備化されていくことへの恐怖があったという。
 
 「歴史を調べれば調べるほど、現在の沖縄と沖縄戦が『一本の線』でつながっていくような危機感を覚えました。それは理由のないばくぜんとした不安などではなく、戦争体験者への取材や沖縄戦の歴史的事実を検証することによって得た具体的な危機感でした。事実を知った者、学んだ者として、それをしっかり社会に伝えなければいけない。そんな責任を感じていましたから、この気持ちを抱えたまま沖縄を離れて別のテーマの取材を始めることはできませんでした」

■波照間島から応募した「報道記者募集」
 
 そんなころ、たまたま琉球朝日放送(QAB)のウェブサイトで「報道記者募集」の案内を見つけ、波照間島から応募書類を送った結果、「契約記者」として合格した。契約記者は3年の期限付きで1年ごとの更新。「当時は報道記者になりたい、テレビ局に就職したいと思っていたわけではありませんでした。雇用期限の3年後にはフリーランスになろう、だからQABに入ったらそこで学べることやできることを精いっぱいやって旅立つんだと思っていました」。その後、大矢の仕事ぶりが評価され、沖縄のマスコミ労組の応援もあって2014年に正社員になった。

 当時のQABの態勢は、記者は大矢を含め7〜8人。「アナウンサーもディレクターも(時にはデスクも)現場取材に行く」というスタイルだった。担当などあってなきがごとしで、1年目はフリー、2〜3年目は事件事故に司法担当、4年目は県政担当だったが、その間にも米軍基地や教育福祉、行政、経済など様々な取材案件が降ってきて対応、番組ディレクターとしても3本の番組を作るなど多忙な日々を送った。
 
■最も思い出に残った米軍示談書問題
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_6.jpg
沖縄県知事選告示日の朝、米軍キャンプ・シュワブのゲート前では強い日差しの下、基地移設反対の座り込みが続いていた=2018年9月、沖縄県名護市
 
 報道記者として最も思い出に残ったのは、入社2カ月後に担当した米軍示談書問題だ。

 沖縄県国頭郡金武町の専門学校駐車場で、泥酔した米兵が学生の車約10台を壊した器物損壊事件だ。だが、被害者である学生たちを地元の交番に呼び出した米軍の弁護士は、警察に届け出た被害額が書かれた示談書を学生に提示し「これ以上損害賠償を請求しません」などという文言にサインをさせていた。損害賠償(民事)を解決しておくことで、刑事裁判の判決を軽くする手段として当時ひそかに行われていたことだった。「示談書」の存在とそれについての米軍の処理方法については、米軍絡みの事件事故が多発する沖縄でもほとんど知られていなかったという。

 この事件の数日後、加害者である米兵が専門学校に謝罪に来るという情報があり、大矢は取材に出かけた。当初、米軍はメディアが取材に来ることを嫌がり「今日は謝罪に行かない」などと言い出したため、学校側が「メディアは冒頭のアタマ撮りのみ」という妥協案を提示して米軍側を説得。米軍はその条件をのみ、学校側との会話が終わると報道陣に対し「では退席をして下さい」といってきた。

 「いや、出ません」。その時、大矢はきっぱりと拒否した。「示談書を持っているのであれば、また自分たちに問題がないというのであれば、メディアの前で書面を見せて説明して下さい」。退席する代わりに米軍にそう要求した。これに対し米軍側は「アタマ撮りだけのはずだ」と怒ったが、琉球新報や沖縄タイムスの記者たちも「示談書を見せろ」「ちゃんと説明せよ」といって大矢に加勢してくれ、その結果として大矢らは示談書の現物を撮影でき、また米軍がどのようなやり方でこれまで事件を「処理」してきたかを県民に伝えることができた。
 
■日米地位協定の問題に直面
 
 大矢にとってはこの問題を取材したことが米軍絡みの事件事故を取材する第一歩となったが、その後米軍関係の事件事故を取材するたびに日米地位協定の問題が立ちはだかった。様々な事件処理とそれに伴う損害賠償請求についても、日米地位協定があるために被害者が苦しむという構造が続き、現在に至る。「今、私が米国で米軍の事件や事故の問題を追いかけるのも、やはり沖縄の現場で『日米地位協定に支えられた日米の負の関係性』を学んだからです」と大矢は語る。

 番組作りで思い出に残っているのは、2016年に放送した「テロリストは僕だった〜沖縄基地建設反対に立ち上がった元米兵たち〜」というドキュメンタリー。沖縄の米軍基地に駐留し、イラク戦争に参戦した元海兵隊員を主人公にした番組で、「日本人に対し、元海兵隊員のストーリーを通じて、米軍基地を抱えることで『他ならぬ自分たちが戦争に加担している』ということへの責任を問いたかった」。

 当時を振り返って大矢は語る。

 「徹底的な現場主義と、県民のための報道機関であること。それはQABで学び、骨身にしみついた姿勢です。そして取材を通じて、沖縄がこれまで歩んできた米軍基地との生活やその背後にある沖縄戦、社会の貧困と格差、本土と沖縄の間に横たわる大きな壁を知るほどに、現場に立つことの重要性と『報道を守る』ということがどれほど大事なのかを学びました」
 
■鏡のように見えてきた「日本という国」
 
 沖縄で取材経験を重ねた大矢はこう話す。

 「沖縄を見つめるほどに、日本という国の姿が鏡のように見えてきました。残念ながらそれは、主権なき国、米国の属国としての日本の姿でした。おそらくこれは本土からは見えにくいでしょう。でも、沖縄県民も、沖縄県民ではない日本国民も、本来であれば問うべき問題は同じであるはずです」

 「つまり、私たちの頭上高く、安全な場所から日本を見下ろしている、米国という国家の問題です。ところが、現実には沖縄にある米軍基地問題がいつも『本土VS沖縄』という構造で物事が語られてしまう。そしてそのことで問題の本質を見誤ってきたように思うのです」

 そんな問題意識を持つ大矢が目指してきたものとは何か。

 「その意味では、私が自分の報道を通じて目指していたのは、そうした『常識』の壁に、たとえどんなに小さくてもいいから『針の穴』を開けることだったのだろうと思います。沖縄から離れ、米国で暮らす今、そう感じるのです。思考停止に陥った人たちの思考スイッチを『オン』にするにはどうしたらいいのか、私はいつもそういうことを考えて報道してきました。『本土VS沖縄』の対立構造ではなく、『とにかくすべて日本政府が悪い』でもなく、この社会構造を生み出している根底にあるものを、現場取材を通じてとらえようとしてきたのです」

■「沖縄からでは伝えられないことの大きさ」に気づく
 
 沖縄の取材現場に立つたびに、大矢は沖縄で伝え続けることがどれほど大事なのかを感じると同時に、「沖縄からでは伝えられないことの大きさ」にも気づかされ、自分の中で矛盾する思いが大きくなっていった。

 それは主に米軍基地問題についてだった。取材を重ねるたびに、問題の根源は沖縄にはないということ、米国のホワイトハウスや日本の霞が関のように、沖縄からはどこか遠い「安全な場所」で生み出される決定によって沖縄県民が翻弄され続けてきたという構造に気づかされたと大矢はいう。「沖縄で起きている現実を知るべきなのは、沖縄から離れて暮らす人たちなのに、沖縄の現場にいると、伝える対象は沖縄県民で、本当に知らなければいけないはずの人たちに届かない」。そんな壁にぶち当たる日々だった。

 「もちろん、沖縄の放送局から全国へ発信し続けることが一番大事ですし、これまでも先輩の三上さんを始めQAB報道部はそれを実践し続けてきました。でも、沖縄の声を番組として伝えるためには、系列のキー局のドキュメンタリー番組枠を確保する必要があるのですが、放送されたとしても早朝の時間帯です。現場の実態がなかなか全国に届かない現状の中で、沖縄の報道現場に立たせてもらった記者として、『沖縄のためにも沖縄から出なければいけないのではないか』と思うようになりました」

 「テロリストは僕だった」の放送が終わった2016年12月、大矢は上司に退職の意思を伝えた。「沖縄のためには『次のステージに行かないといけない』。大矢はそんな思いに突き動かされていた。
 
■「次のステージ」としての米国
 
 「次のステージ」として米国を選んだのは、「テロリストは僕だった」の取材で約3週間、米国取材をしたことがきっかけだった。

 この取材の過程で、日本からは見えない米軍の姿を見ることが出来たと大矢は感じた。「米軍に入隊した人間はなぜ、どのようにして他者に危害を加えることができるようになるか」をめぐって心理学者や元兵士たちに話を聞いたり、若い兵士たちにインタビューを行ったりして、暴力を生み出す軍隊の思考やシステム、そして入隊する若者たちの背景に貧困と経済的困窮があることがわかってきた。

 そして何よりも衝撃だったのが、米軍の内部で起きている性犯罪の問題だったと大矢はいう。「テロリストは僕だった」の中でも米兵による性暴力の被害にあった元女性兵士がインタビューに答えてくれたが、元女性兵士に出会った時、大矢は沖縄で出会った性暴力の被害者のことを思い出したという。

 「それまで沖縄で取材をしていた時は、『米軍絡みの性犯罪は沖縄だから起きている』『基地の外だから起きている』と考えていました。つまり、米軍問題の背景には沖縄に対する差別や植民地支配の意識があると思っていたのですが、元女性兵士と知り合ったことで『米軍の性暴力の問題はフェンスの内外を問わない』と気づかされたのです。だからこの問題を深く考察するためには、米国に行って、米軍内部で何が起きているか、そこに切り込まなければならないと考えました」

 同時に大矢は「沖縄の問題を解決するためには、米国市民に訴えないとだめだと思った」という。

 「沖縄県民、日本国民に訴える報道は、沖縄と日本の記者たちに任せられますが、米国市民に沖縄のことを伝える報道は、沖縄の現場取材を重ね、英語ができる私がすすんでやるべきことじゃないかと考えたんです。おこがましいですが、微力でも、自分にできることをしたい」。また、大学生時代に米国への短期留学をした経験から「もう一度この国で学びたい」という気持ちも持ち続けていたと大矢。そうした理由からフルブライト奨学金制度に応募した。

■カリフォルニア大学バークレー校へ
 
 QABを退職する前、大矢は友人に会うためサンフランシスコに行った。その際、「せっかくだからカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院に行ってみようと思いウェブサイトを調べたところ、調査報道プログラムの存在を知った。

 たまたま調査報道の授業があったので「聴講したい」とメールを出したところ、認められて受講できた。その時の授業の担当者が今の指導教授のローウェル・バーグマンだった。

 「二つ返事で快諾してくれたので、とてもきさくで良い方なんだと感じました。でもその方が実はワシントン・ポストやフロントラインなどの調査報道の第一線で活躍してきた方で、たばこ産業の不正を告発したテレビプロデューサーとして映画「インサイダー」のモデルになったことでも知られる伝説のジャーナリスト、ローウェル・バーグマンだとは知らなかったため、後から知ってものすごく驚きました」

 それがバーグマン(73)と調査報道プログラムとの最初の出会いとなった。

 2018年、フルブライト奨学金の候補生になった時点で大矢は「所属先はバークレーの調査報道プログラムしかない」と決めていた。「やりたいテーマがテーマだけに、米国で信頼できるジャーナリストの元でないとこの取材はできない」と考えていたからだ。「信頼できる人と一緒に、安全な環境で取材できること」、それが第一条件だったという。
 
■大学で今取り組んでいること
 
 大学では今、次作のドキュメンタリー映画の制作に取り組む日々だ。テーマはやはり米軍と経済的徴兵、そして米軍の性暴力の問題だ。ただ今回はインタビュー主体の作品ではなく調査報道が柱となるため、ドキュメンタリーの撮影に実際に入る前に英文の膨大な資料や映像と向き合っている。その過程で同じテーマに関心を持つジャーナリストにも出会ったため、「彼らとの共同作業で取材を進めている」という。

 「沖縄で取材をしてきた私にとって『あたりまえ』のことが、米国人ジャーナリストたちにとっては『驚き』であり、その逆もそうなんです。そのように互いに新鮮なまなざしをもって国を超えてジャーナリスト同士がつながることで、これまでになかった視点で米軍問題を浮き彫りにするのが狙い」と大矢は話す。

 「火事の時には消防士が必要。病人がいたら医者が必要。それと同じように、ジャーナリストも社会にとって不可欠だ」。バーグマンはそんな言葉をよく使う。「これは私にとってもとても大事な言葉です。日本のメディアの中にいると、ジャーナリストは何のために存在しているのかを忘れがちだからです」。

 そう考える大矢はいう。

 「ジャーナリストは何のためにペンを持つのか。その力を誰のために、何のために使うのか。その『基本のき』をバーグマンから改めて学んでいると思っています。そして『何があってもブレない強さ』をもらってもいる。これからの私の人生のためにも、一人のジャーナリストとして自分を鍛え上げることが今は一番大事だと思っています」

 またこうも話す。

 「バーグマンやこの調査報道プログラムに集まっている人たちからは『英代は何歳なの?』と年齢を聞かれたこともありません。そうでなく、世界をどう読み解くのか、何をどう取材するのかをたずねられる。そういう『個』としての行動がここでの判断基準になっているのだと感じます。その意味で、一人のジャーナリストとして互いを尊重しあうここの環境は私にはとても居心地がいい」
 
■名コンビのバーグマンとテンプル
 
 そんなバーグマンはジャーナリストとしての仕事を1960年代の終わりにスタートさせた。今はカリフォルニア大学バークレー校でジャーナリズム大学院調査報道プログラムを主導しているバーグマンに、授業に臨む姿勢を聞くと、こんな答えが返ってきた。

 「学生たちには本当のナマの報道というものを勉強してほしいと思っています。スマートフォンと対話するのではなく、本当の生身の人間の話を聞いて、そして学んでほしい。だから授業ではいろいろな人をゲストスピーカーとしてお呼びします。例えば無実の罪で長年牢屋につながれていた人とか、トランプのビジネスパートナーとか、ジャーナリストが『あの人にインタビューしたいな』と思うような人を招き、ここに連れて来て学生の前で話をしていただくんです」

 ジャーナリストとして豊富な経験を積んできたバーグマンは根っからの「現場主義」だ。
 
 「ちょっと古くさいやり方かもしれませんが、スマートフォンやデジタルの機器はみんな捨てて、『現場へ行け』と教えています。現場にまずは行って、きちんとその現場を見よ。あるいは裁判所に足を運んで、裁判所の記録を読みなさいということです。百聞は一見にしかず。ネット上に書かれていることと現実が違うということはけっこう多いのですから。十分に時間をかけて現場を見よということです」

 バーグマンの良き同僚で、マルチメディアを使ったプログラムを指導している元ジャーナリスト、ジョン・テンプル(66)の考え方は少し違う。

 「もちろん、バーグマンのいうようにまずは現場に行って、いろいろなものをしっかり直接自分の目で見ろということ自体は大賛成です。ただ自分たちが作ったニュースをどのように発信するかという段になると、デジタルテクノロジーは欠かせないものですし、それをうまく使いこなせるかどうかが大きなカギとなってきます」

 そんなテンプルは同大学で大学院の2年生を対象に教えているという。「グループごとにそれぞれお題を与えるのですが、そのテーマについての発表をするにあたっては、様々な異なるメディアを駆使することを求めます。オーディオもビジュアルもビデオも、もちろん記事も書かなければなりません。様々なメディア媒体を使いこなした報道を身につけてもらうためのワークショップをしているのです」

■自分の弱点や限界もさらけ出すジャーナリスト像
 
 ジャーナリストのあり方も昔とは変わってきたとテンプルは指摘する。

 「ジャーナリストになろうと私が勉強していた時にいわれたのは、『自分の考えや自分の意見ではなく、事実を報道しなさい』ということでした。ところが、その後テクノロジーが発達してポッドキャスティングのようなものが出てきて、ニュースを伝える人のパーソナリティーやものの話し方とか、言い間違いやミスも全部含めて、視聴者が『ああ、この人のいうことなら信用する』といった方向に今はなってきています。その意味で、読み手や聞き手とのコミュニケーションの仕方というものが、私が学生だったころと今とはずいぶん変わってきている」

 目指すべき「ジャーナリスト像」も時代によって変化してきているのかもしれない。

 「これまでのジャーナリストというものは、それこそ神様じゃないけれど『すべてを私は知っています』というスタンスでやってきました。でも、それが逆に読者や視聴者のメディア不信を募らせているのだとしたら、『自分はこのことについてはよく知りません』とか『この点については私は間違っているかもしれません』というところまで出してしまった上で『そんな自分はこう考えるのです』といったやり方のほうが透明性があると受け取られるのかもしれません。自分の限界をさらけ出した上で、オーディエンスをもっと自分のほうに来てもらい、お互いに築いていくといったようなあり方ですね」
 
■「市民のためのジャーナリズム」が確立されていない?日本
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_10.jpeg
報道の自由を訴え、トランプ米政権に抗議する人たち=2017年2月、ニューヨーク
 
 話を大矢に戻そう。

 ジャーナリズムをめぐる日米の違いにも思うところがあると大矢はいう。「私の少ない経験から、あくまで私の主観で感じたことですが」。そう前置きした上で大矢はこう話す。

 「まず米国のジャーナリズムは日本のそれとはまったく違うのではないかと思うのです。一番の違いはジャーナリストたちの意識です。米国のジャーナリストたちにとって、彼らの存在理由は明確で、それを民衆が支えていることが日本との最も大きな違いだと思っています。会社のためではなく、言論の自由、人権、市民の命を守るためにペンやカメラを持つ。Public interest≠ニいう英語は、日本語に訳された「公益」よりも、もっと尊大[投稿者注:ママ]なものであり、絶対的な価値観のあるものとして認識されているように感じます。そのPublic interest≠守るためのジャーナリストたちの存在意義、彼らの意識と使命感は、日本のメディアとは天と地の差があるように感じます」

 なぜそこまで違うと大矢は思うのか。

 大矢は「この根底には『ファーストアメンドメント』と呼ばれる米国合衆国憲法修正第1条の存在が大きいのではないか」と考えている。

 「これは、宗教の自由、言論・報道の自由などを政府が市民から剥奪することを禁止するものです。これを基盤とした「報道は権力を監視するのが使命だ」という理念をジャーナリストたちが認識し、共有しているのだと思いますし、その背景には、権利と自由を勝ち取ってきた長く、苦しい、市民の闘いがあり、今現在もそれは続いています」

 「そういう意味では、日本にはまだ『市民のためのジャーナリズム』は確立されていないのではないでしょうか。戦後、言論の自由を勝ち取った、民主主義を勝ち取った経験を、国民がもっていないからです。唯一、国内で、その経験をもっているのは、地上戦と米国施政権下を経験した沖縄だと思います。沖縄の報道に、市民のためのジャーナリズムが存在するのは、やはり長きにわたる苦難の歴史と『勝ち取った経験』に基づくものであり、簡単に壊れるようなものではないと私は思っています」

■「Equality」と「Equity」
 
 大矢はさらに続けていう。

 「日本と米国のジャーナリズムの違いとしてもう一つ象徴的なものがあるとすれば、米国のジャーナリズムの柱には『平等』があると思う。日本では平等=イクオリティー(Equality)≠ニ訳される場合が多いですが、同じ『平等』でも米国のジャーナリズムにあるのはイクイティー(Equity)≠セと思います。どちらも『平等』という意味ですが、同意語ではありません」

 大矢の説明によると、両者の違いはこうだ。

 「Equality」 は、異なる特性の人たちが、同じ条件に置かれること。一方、「Equity」 は、その人の特性に合わせて、公平な条件を作ること。

 例えば、身長180センチの人と、身長100センチの人が、高さ2メートルのところにあるボールを取ろうとする時、同じ高さの踏台(10センチ)を与えられること、これは「Equality」。でも、前者はボールを取れるけど、後者は取れない。他方、「Equity」の場合は、身長180センチの人には10センチの踏台を、身長100センチの人には90センチの踏台を、どちらも190センチという同じ条件にした上で、ボールを取る。同じ条件のもとで、ボールを取れるか、取れないか、はその人の能力次第。これが「Equity」だという。

 「貧富の差、人種差別が根深いアメリカだからこそ、『Equity』の精神を持った報道が重視されているように感じます。一方で、日本にはこの考えは一般的ではありません。私は、沖縄の基地問題、辺野古の問題は、沖縄が歩んできた歴史を鑑みると、まさに『Equity』の問題だと思うのですが、それが日本人に共有されないのは、日本人にとって『平等』という考えは、やはり国民が自ら権力側から勝ち取ったものではなく、1945年の敗戦とともに突然空から降ってきたような、まだまだ教科書の中の理想でしかないからかもしれません」
 
■米国のジャーナリズムがすべて正しいわけではない
 
 ただ、だからといって「米国のジャーナリズムが100%正しく、日本人が全部見習うべきだ」とは思わないと大矢は考えている。それはなぜか。

 「そもそも、米国の『市民』と日本の『市民』を形成する社会背景が根底から異なるのだと思います。米国は自由と民主主義という理念の元に国家が形成されていることもあって、よくも悪くも『自由』『民主主義』と聞くと、米国人たちの中の得体のしれない愛国心のスイッチがオンになってしまうようで、国民がそろってあっという間に戦争に転がり落ちてしまう危険性を常にはらんでいる。まさに9.11後のアメリカが顕著な例です。そしてそれにはメディアが加担をした。でも、その反省は今日に至るまでまだ十分にはなされていないと思うのです」

 大矢は強調する。

 「米国という国家の根底にある、自由と民主主義の皮の下に潜む暴力のメカニズムや、差別や貧困を生み出す根底にあるもの、そういう米国社会の出しきれぬ「膿」を、どこまで米国人ジャーナリストたちが見ようとしているのか、理解しているのか、私にはまだわかりません。それはジャーナリズムの世界を担っている大半が、白人男性だからかもしれません」

 「彼らにとって『戦うべき敵』は国家や政府、政治家、企業など、権力を持つ者です。もちろん、それは正しい考えです。しかし、トランプのような人間を大統領に選んだ背景には、米国社会の病みがあります。差別され、貧困に苦しむ米国市民の存在、特に白人男性たちの貧困、それを生み出す米国の『負の構造』そのものに斬り込む報道、それこそ平等や自由などという米国人が大好きな美しい言葉でデコレーションしない、『病んだ米国』を直視する報道がいよいよ必要なのだと思います」

■米国の調査報道について思うこと
 
 「『ファクト』の重要性、徹底したファクトを追求する米国のジャーナリストたちには、大変刺激を受けています。何よりも、それを支える市民の存在には希望を抱きます」と大矢は話す。

 例えば、東京の街頭で「調査報道についてどう思うか」などとインタビューをすれば、きっと多くの人たちは「調査報道」という言葉すら知らないだろうと大矢は考える。「調査報道」の存在とその重要性が認知されているということは日本との大きな違いだという。

 そんな米国社会と米国の調査報道にも「盲点」があると大矢は考える。 ・・・ログインして読む
(残り:約4883文字/本文:約17102文字)

https://webronza.asahi.com/business/articles/2019041500007.html  

169. 中川隆[-9873] koaQ7Jey 2019年6月01日 15:55:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2483] 報告


2018-11-08
死刑の代わりに現場射殺している国は本当にあった!
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/08/230042


日本で死刑が執行され、これをEUなどから非人道的だと批判されると、お前たちは犯人を死刑にする代わりに現場で射殺しているではないか、殺しているのは同じなのに偉そうに説教するな、と「反論」する人たちが必ず湧いてくる。

武装した凶悪犯を正当防衛や緊急避難の目的でやむなく射殺するのと、既に捕えられ、抵抗する手段を一切持たない囚人を刑罰として処刑するのとではまったく意味が違うのだが、この二つの区別がつかない困った人たちが、どうやらこの国には大量にいるらしい。


殺したいが、捕まえて裁判にかけても死刑にはできないからここで射殺(簡易処刑)してしまえ、なんて、そんな野蛮な国などあるはずがない・・・と思っていたのだが、いろいろ調べているうちに、そんな国が本当にあったことが分かってしまった。

この点については、自説を撤回しなければならない。

といっても、それは死刑制度を廃止してしまったヨーロッパの先進国などではない。73年前まで東アジアに実在した、「大日本帝国」という国である。

1910年、大日本帝国は、それまでもさんざん内政干渉や武力介入を続けてきた隣国朝鮮をついに「併合」し、植民地化した。当然ながら、国を奪われた朝鮮の人々は激しく反発し、民族の独立を回復しようとした。

1919年3月、宗教指導者らによる独立宣言を契機に、独立を求める大規模な示威運動が始まった。「3・1運動」である。[1]


(略)一月二二日徳寿宮に幽閉されていた高宗(李朝第二六代の王)が急死したことも、朝鮮人の民族的感情をたかめていた。葬儀の日は三月三日と定められ、参列のため全国から多数の人びとがソウル(京城)に集まってきた。
 この機会をとらえ、天道教の第三代教主孫秉熙らは、キリスト教徒・仏教徒と協議したうえ、三月一日ソウルで独立宣言を発した。各教団の組織などをつうじて計画がつたえられていたため、ソウルのパゴダ(塔洞)公園には数万の民衆があつまり、大極旗をかかげ、「独立万歳」を叫びながら、市街をデモ行進した。運動はたちまち全土に波及し、五月末までに示威回数一五四二回、延べ参加人員二◯五万人にたっし、鴨緑江をこえて間島や沿海州にもおよんだ。


 日本側は憲兵警察・軍隊を出動させ、在郷軍人や消防隊なども動員して、運動をきびしく弾圧した。このため、最初は平和的示威であった運動も三月中旬から激烈な闘争や蜂起へと転化し、かま・くわ・棍棒で武装した朝鮮人が、官公署を襲撃する事態となり、その数は合計二七八か所にたっした。
 原内閣は四月四日、内地から歩兵六大隊および憲兵・補助憲兵約四一五名を朝鮮に派兵することを決定して、武力弾圧を強化した。

闘争とか蜂起と言っても、一方は鎌や鍬程度しか持たない民衆、他方は近代兵器を装備した軍隊なのだからおよそ勝負にならない。実際に行われたのは、日本の官憲・軍隊によるほぼ一方的な殺戮である。この武力弾圧による朝鮮人側の被害は、殺された者7,509名、逮捕された者46,306名、焼かれた民家715戸、教会47と伝えられている。[2]

まだ中学生のときにこの三・一運動に参加して自らも逮捕・勾留された経験を持つ、ある朝鮮人革命家は、後に次のように語っている。[3]


(略)死刑になったものはなかった――死刑にするような合法的な口実がなかったのだ。「われわれはただ朝鮮独立のため闘うのであり、反日本の立場ではない」とデモ参加者たちが公然と強く唱えている限り、朝鮮の法律では死刑にできない。死刑は殺人の場合以外適用できないから、日本人は逮捕する代わり民衆を街頭で殺した――うまい手だ。

典型的な簡易処刑ではないか。しかも、死刑制度を廃止したために凶悪犯を逮捕・起訴しても死刑にはできないから殺しているのではなく、死刑制度はあるのに微罪すぎて死刑になどできないから殺しているというのだから、なお悪い。

「裁判抜きの簡易処刑」を非難する皆さんは、なぜこの卑劣な国を非難しないのだろうか。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.81-82
[2] 同 P.82
[3] ニム・ウェールズ 『アリランの歌 ―ある朝鮮人革命家の生涯―』 岩波書店 1987年 P.79
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/08/230042

170. 中川隆[-9857] koaQ7Jey 2019年6月02日 07:26:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2501] 報告

日米戦争も国際金融資本が策謀した


日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か?


【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)


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「陸軍の勝算」秋丸機関の真実 林千勝 偕行社 平成27年11月29日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=om_F35kgO3w
https://www.youtube.com/watch?v=ddMi4D8N8-w
https://www.youtube.com/watch?v=eMrNOsVgtLc

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林千勝氏(戦史研究家・つくる会東京支部幹事)
『 国を護るにはリーダーが大事!−近衛文麿にみる大日本帝国敗北(崩壊)の教訓−』
2017.6.25〈歴史・公民〉新東京塾・第3回講演会 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cjBdtLIX-O0

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林 千勝・講演会【日米開戦・陸軍の勝算!日本の勝算と敗北ー現代への教訓】
広島原爆の日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fVUFNGm_Qv0


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林千勝先生講演「日本の勝算と敗北 - 現代への教訓 – 近衛文麿の野望と挫折 」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yQKdjoLZxQ0
https://www.youtube.com/watch?v=-DXJpXr-T38
https://www.youtube.com/watch?v=gwc-DEka1N4


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近衛は自殺したのではない!近衛の野望と挫折 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5f17npsMuG0

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鬼塚英昭 昭和天皇と国際金融資本による日米戦争策謀論


日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wlfyvOL-OVg&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=6

日本の真相7 超天才の悪魔 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1ToSe8A7_wE&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=7

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=8

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=9

偽天皇と田布施システム【The False Emperor】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSuU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=10


171. 中川隆[-9799] koaQ7Jey 2019年6月07日 09:02:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2642] 報告

【林 千勝】日米戦争を策謀したのは誰だ!【WiLL増刊号 #016】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BooWecBvfjY

2019/02/22 に公開


【WiLL増刊号 #016】

新刊『日米戦争を策謀したのは誰だ!』を上梓された近現代史研究家の林千勝さんが登場!

平和を企んだ「好戦家・ルーズベルト」と「国際金融資本家・ロックフェラー」、さらに国際共産主義の策動…

そして、彼らと対峙した「非戦派・フーバー」、「ピエロ・近衛文麿」はなぜ破れたのか。

前作『近衛文麿 野望と挫折』に続く渾身のノンフィクション作品です。





▲△▽▼

日米戦争を策謀したのは誰だ!
ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは── – 2019/2/20
林 千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E7%AD%96%E8%AC%80%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0-%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%80%81%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%81%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF-%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AF%E2%94%80%E2%94%80-%E6%9E%97-%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/4898314813/ref=sr_1_2?qid=1559859790&s=books&sr=1-2&text=%E6%9E%97+%E5%8D%83%E5%8B%9D

内容紹介

なぜ、「平和」は「戦争」に負け、第二次世界大戦が勃発したのか。
なぜ、避けることが可能だった日米戦争が起こったのか。
その不条理を追究し、偽りの歴史を暴く!


戦争を企んだ「国際金融資本家・ロックフェラー」と「好戦家・ルーズベルト」。そこにつけこむスターリン・コミンテルンなどの国際共産主義運動の策謀。
その危険性を見抜き、彼らと対峙したフーバー。

そういった、アメリカが攻め込まれない限り、戦争はしないという「不干渉主義者」だったフーバーたちは「孤立主義者」と貶められた。

日本では、フーバーとも会ったことのある近衛文麿は、尾崎秀実、風見章、牛場友彦、松本重治、白洲次郎らを初めとする「問題人物」を手玉にとったつもりで、実は「ピエロ」としての役割しか果たせず、自滅し敗れ去って行った‥‥。


前作『近衛文麿 野望と挫折』に続く、渾身のノンフィクション大作

(著者の言葉) →
世界は今も戦争の危険と恐怖が絶えません。
「なぜ、人類は戦争をしなければならないのか?」。

私は、現実的な観点から平和な世界をつくる手がかりを探る試みとして、本書を世に問います。

ルーズベルト、フーバー、近衛の動き、ロックフェラーの関与を並列的に叙述しました。
日米共通の歴史認識が必要との問題意識がそうさせたのです。


プロローグ──なぜ、人類は戦争をするのか

第一章 ロックフェラーの世紀
「世界大戦」の惨禍
ロックフェラーの世紀
油売りから帝王へ
巨大財団 光と影
太平洋問題調査会という魔宮

第二章 悪魔の使い ルーズベルト
悪魔の使い
アメリカ共産党
社会主義的な経済運営
干渉主義
武器貸与法という策謀
ドイツを挑発
日本を追いつめた共産主義者たち

第三章 平和の天使 フーバー
平和の天使
共産主義への警戒
不干渉主義
欧州戦争の始まり
「悪魔の使い」との闘い

第四章 「平和」が「戦争」に負けた日
チェックメイト
天使の日本理解
極東部長の対日政策
日本圧迫!
騙された天使たち
「腹切り」への「生贄」

第五章 「平和」が「戦争」に負けた訳
藤原(近衛)文麿というピエロ
蠟山政道の昭和研究会
太平洋問題調査会が演出した訪米
大抜擢、謀略
風見章の日本革命
尾崎の足音
松本と白洲の影
牛場友彦の牙城
「英米本位の平和主義を排す」!
「平和への努力」のふり
ソビエトは討つな!
陛下の避戦を覆せ!
裏切りの真珠湾攻撃
第六章 顚末と苦難
ピエロの執念
ピエロの死
再始動
悪魔の使いの死
第二次世界大戦の惨禍
世界の苦悩

エピローグ──「平和」が「戦争」に負ける訳


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カスタマーレビュー


澤間譲治
コミンテルンと国際金融の動きを知らずして大東亜戦争の実相は把握出来ない 2019年3月12日

F.Dルーズベルト政権がコミンテルンに汚染され、国際共産主義と言うグローバリズムに動かされて戦争に向かって其の政策が収斂されて行くプロセスを、フーバー前大統領著『裏切られた自由』を丹念に追いかけながら実証しています。

一方、日本側の近衛内閣に於いても全く同様に主要ポストがコミンテルンに占領され、日華事変を限りなき拡大に巻き込んで行く実態が見事に描かれています。

そして両国のコミンテルンの背後で、彼等を操る存在として、ロックフェラーを始めとした国際金融の存在があった事を其の人的ネットワークを実証的に引用しながら分かりやすく説明されています。

特に日本に於けるコミンテルンの活動については、ゾルゲ事件の主人公である尾崎秀実を筆頭に、風見章、有沢広巳、西園寺公一、蝋山政道らを実名で挙げて、其の所業が述べられおり、国際金融に繋がる者として松本重治、牛場友彦、白洲次郎等との人間関係が近衛文麿を要とした位置付けで展開された様子が明らかにされています。

日本側の登場人物の中では近衛文麿、風見章の動きが『敗戦革命』『敗戦利得者』と言う言葉と結びついて特に印象に残ります。

近衛は敗戦革命によって平安時代の摂政の地位を得んとし、夢破れて死去(自殺か他殺か?)。

風見章は戦争開始前に疎開し、戦後は公職追放の処分を受けるも1955年に社会党に入党、日中国交回復国民会議理事長、世界平和評議会評議委員等を務めて、其の健在振りを示した。

此の本では真珠湾攻撃が日本の運命にもたらした負の側面を明確に述べられているが、其の決定プロセスに登場する永野修身、米内光政、山本五十六についての筆者の視点も大変参考になる。

従来に無かった視点からと、既にヴェノナ文書等で明らかになった視点を合わせて、実証的に描かれた画期的な著作だと思います。戦後レジームと言われるものの実態と、平和を成立させる世界構造を考える上での必須の歴史に残る書籍になるのではないでしょうか?

著者が冒頭に述べられている本書の目的を引用して、私の当該書籍への感想文と致します。

『世界は今も戦争の危険と恐怖が絶えません。「なぜ、人類は戦争をしなければならないのか?」私は、現実的な観点から平和な世界をつくる手がかりを探る試みとして、本書を世に問います。』


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bilderberg54 5つ星のうち3.0
最大の謎:国際資本主義者がなぜ国際共産主義者とタッグを組んだか? 2019年3月31日

ロックフェラー財閥が、資金援助したIPR(太平洋問題調査会)と日本に巣食った近衛内閣の内閣書記官長だった風見章など国際共産主義者との交わりを研究した本。

風見らの国際共産主義者は、近衛内閣のなかで日本の反共勢力を牽制するために、日本が北進せず南進するようにけしかけたり、中国国民党の蒋介石との和平を阻害しようとする。

IPRは、国際資本主義者と国際共産主義者が交わる場でもあり、日本の大陸進出政策には反対的だった。

戦後、戦前のIPRの中心人物で、国際資本主義のグループに属する人々がロックフェラー家の支援を受けて、戦後日本の親米勢力としての立て直しを行う。

IPRは、マッカーシーの赤狩りの際に、国際共産主義者の巣窟だったとして閉鎖に追い込まれている。

林千勝はこの本を書く上で、「国際共産主義者」(ルーズヴェルト、ノーマン、風見)らと「国際資本主義者」(ロックフェラー)そしてその間で権力を維持した近衛文麿一派(松本、牛場など)の3つの勢力に便宜上区分し、両者を天秤にかけたはずの権力志向の近衛がピエロだったとしている。

この本でも明らかにされなかったのが、国際資本主義者があまりにも安易に国際共産主義者を受け入れたことに対する謎解きだ。国際共産主義者が浸透するのが上手かったのか、国際資本主義者もまた国際共産主義者を利用していたつもりになっていたのか、そのへんの謎解きがないのが残念だ。

この辺の話は、いわゆる陰謀論者は「ロックフェラー万能説」に、右派の歴史修正主義者は「コミンテルン万能説」に傾いていると思うが、実際はどうなのか、この辺の絡み合いを解き明かさないと、第二次世界大戦のなぞは解けないと思う。

国際共産主義の恐ろしさをいち早く気づいた、ハーバート・フーバーの慧眼は称賛すべきだが、なぜロックフェラーが終戦時まで容共だったのか、がわからない。だからこの本は星3つ。

赤狩りを経て、アメリカの資本家たちも、表向きは反共になっていく。その中でロックフェラーはソビエトとしっかりビジネスをしていたわけで、資本家の方が一枚上手だったと私は思うのだが。


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オージッタ
昭和10年代の日米関係史は本書を基に書き変へられなければならない 2019年5月23日

いはゆるグローバリズム(国際金融資本主義)とコミンテルンに代表される共産主義が同根であつたことは、昨年自裁した西部邁氏が生前、チャンネル桜の討論会などで指摘してゐたし、また近年では馬渕睦夫氏が''ディープ・ステート''といふキーワードでいくつかの著作の中で同様の指摘をしてゐる。しかし、日米関係史の具体的な史実としてこれを明らかにしたのは本書が初めてではないか。

本書の前半ではフーバー米元大統領の「裏切られた自由」を丁寧に引用しながら、ルーズベルト政権が如何に「帝国主義戦争を内乱へ!」といふレーニンの敗戦革命テーゼを地でいく共産主義勢力に影響され、戦争への道に突き進んだか、またフーバーがこれを阻止しようしながら惜しくも挫折した経緯が描かれてゐる。

後半では著者の前著「近衛文麿 野望と挫折」に引き続き近衛内閣のブレーン達の暗躍を暴いてゐるのであるが、前著が近衛と一心同体であつた確信的共産主義者の風見章を中心に展開されてゐたのに対し、本書では同じ近衛の側近のなかでも英米派とでも呼ぶべき牛場友彦、松本重治、白洲次郎らの動向が詳細に記述されてゐる。

キーワードはIPR(太平洋問題調査会)である。この戦前・戦中・戦後を通して一貫して反日イデオロギーの砦であつた民間シンクタンクに牛場、松本、白洲らが深く関はつてゐたのである。

IPRについては昨年刊行された江崎道朗氏の「日本占領と敗戦革命の危機」の中でもアメリカ側IPRにいかに多くの共産主義者が浸透してゐたかが触れられてゐる(同書p.70「コミンテルンはいかにしてIPRを乗っ取ったか」を参照のこと)が、本書では日本側IPRには上記英米派とともにゾルゲ事件関係者の尾崎秀実や西園寺公一ら共産主義者も関はつてゐたことが明らかにされてゐる。

本書の第一章ではこのIPRにロックフェラー財団がいかに多額の援助をしてゐたかが述べられてゐる。そして松本、牛場、白洲らはそれぞれ親の世代から国際金融資本と深い繋がりを持つてゐたのである。

ずばり本書の肝はp.204に掲載されてゐる近衛内閣のブレーン達の人物相関図である。実は評者は昨年8月末、千葉県佐倉市で行はれた著者の講演会で示されたこの図を見て急ぎメモをとつたが、翌日FBにアップしたレポートではこの図の詳細は伏せてゐた。本書が今春刊行されることが予告されてゐたからである。

https://www.facebook.com/100004141752702/posts/1115001441981237?s=100004141752702&sfns=mo

この図を傍らにハーバート・ノーマンやトーマス・ビッソンらGHQに巣食う共産主義者の動向を重ねて近衛上奏文を読めば、準備万端整へて極東軍事裁判に臨まうとした近衛が何故出頭当日、昭和20年12月16日の早朝に怪死しなければならなかつたのかといふ実相が見えてくる。

かくして昭和十年代の歴史はこの図を基に書き変へられなければならない。




▲△▽▼

近衛文麿 野望と挫折 – 2017/11/24
林千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF-%E9%87%8E%E6%9C%9B%E3%81%A8%E6%8C%AB%E6%8A%98-%E6%9E%97%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/4898314651/ref=sr_1_2?qid=1559855342&s=books&sr=1-2&text=%E6%9E%97+%E5%8D%83%E5%8B%9D

内容(「BOOK」データベースより)

昭和天皇、陸軍、尾崎秀実、東条英機らを操り、敗戦革命を計画。
戦後、一転してマッカーサーに取り入り、天皇退位を画策。
復権を試みた近衛だが、彼のシナリオは思わぬところで破綻した。


内容紹介

現代史を覆す、決定的真実に迫る!
渾身のノンフィクション大作 一挙書き下ろし770枚!!

近衛は自殺したのではない! 実は謀殺だった!?
近衛は、単なるポピュリストに非ず!
用意周到に己の野望を実現するための布石を着々と打っていた──


近衛は、首相時代は赤色分子(風見章・尾崎秀実ほか)を重用し、「敗戦革命」を夢見つつ、戦争末期には近衛上奏文(反共宣言)でアリバイ工作。

そして戦後はいち早くマッカーサー詣でをして、自ら改憲の音頭をとり、あわよくば昭和天皇を退位させて親米政権を樹立しようとしました。

勢力均衡の中で生き抜いてきた公家の名家としてのDNAをフル回転しての巧みな遊泳術ともいえます。
あと一歩で、その目論見が成就する寸前、それに危機感を抱き、挫折させようとした勢力がありました。
彼らは、近衛を東京裁判の被告人の席に追いやり、そして永遠に葬ろうとし、実現するのです。

近衛を葬ったのは誰だったのか?
そうした知られざる近衛の全生涯を、「自殺」とされる謎にまで踏み込みつつ、描ききったのが本作品です。


──彼は、極めて自己本位的に利用できるものは、昭和天皇でもコミュニストでも自分の子供(文隆)でも見境なく利用しました。

青酸カリを使っての「自殺」とされている彼の荻外荘での最期の日々の数々の矛盾や不可解な行動も本書で解き明かしていきます。
こういう叙述で、近衛の生涯を追求したノンフィクション作品は、初めての試みといっていいかもしれません……(「はじめに」より)。


カスタマーレビュー


オージッタ
近衛文麿の死によつて東京裁判は成立した 2018年1月10日

この正月に昨秋より保留してゐた江崎道朗「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書)と林千勝「近衛文麿 野望と挫折」(ワック)の2冊の書籍をほぼ同時に併読・読了した。

昨年8月刊の江崎氏の本については、すでに高い評価がなされてゐるので、ここでは詳しくはふれない。ただ11月末刊の林氏の著作との関連で云へば、江崎氏の本の最後は「おわりにー近衛文麿という謎」となつてゐるが、まさにちやうどその謎を解いたのが林氏の本だといふことができる。

これまでにも近衛内閣の戦争責任にふれた書籍はいくつか読んではゐたが、いづれも隔靴掻痒の感があつた。それらのなかでは中川八洋「近衛文麿の戦争責任」(PHP)が一番はつきり近衛の戦争責任を指摘してゐたが、あまりにも衝撃的なその内容は俄かには信じ難いものがあつて、とりあへずはひとつの仮説として受け止めてゐた。

ところが平成28年5月号の正論に掲載された林氏の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」といふ論文を読んで驚いた。

近衛内閣で内閣書記官長(現在の内閣官房長官)を務めた風見章といふ人物が一貫して確信的な共産主義者で、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実らとともに、陸軍参謀本部の事変不拡大・和平の方針に反して、朝日新聞などのメディアを使つて戦意を煽り、泥沼の日中戦争に導いたといふではないか。

その背景には「帝国主義戦争を内乱へ」といふレーニン以来のコミンテルンの方針があつたといふ。

いはば中川氏の仮説に風見章といふ補助線が引かれ近衛内閣の戦争責任が実証されるに至つたのである。そして、今度の林氏の書籍では、近衛内閣をめぐる様々な人士一人一人に吟味を加へ、結局近衛と風見は一身同体であつたと結論づける。かくして仮説は完全に証明されたのである。

江崎氏は先の本の末尾で晩年の近衛に親しく接した井上日召の言を引いて近衛の性格の弱さを指摘し、その弱い近衛が勇気を振り絞つて告白したのがあの有名な近衛上奏文であるといふ。

しかしこれは林氏の今回の証明からすれば、噴飯物で、近衛は初めから一貫してナチスのヒトラーに憧れたファシストで、全体主義のためには偽装した共産主義者の風見らをも利用したのである。

しかしながら敗戦が色濃くなるに至つて、ほんたうに敗戦革命が起きてしまふかもしれないとおそれ、自らの戦争責任を陸軍と共産主義者に転嫁するために近衛上奏文を書いたのである。

そして終戦後はマッカーサーに取り入つて、実は自分は平和主義者であると装はうとした。

ところがGHQ内の路線争いから突如戦犯として扱はれることとなり、さうなると、裁判で近衛上奏文の内容が公けにされてしまふ。

かくして近衛の出頭直前突然の死は GHQ内とかつて近衛内閣に協力した共産主義者にとつて都合のよいものであつた。東京裁判(史観)は近衛の死によつて成り立つたといふのが、林氏の書の意味するところだらう。

これこそがあるべき歴史研究のあり方! 2017年12月1日

戦前戦後の日本外交・政治の中枢である近衛文麿は、いままで「優柔不断」、「弱い人間」などの言葉で取り繕われてきた。

それは彼の真相を知る手掛かりが、GHQや国際共産主義者に徹底的に抹殺されたことや、真相を知る人物らがそうゆうプロバガンダを流してきたことが原因と思われるが、著者は長年、決して本質を見せてはくれない資料を丹念に読み込んで、わかりうるわずかな輪郭を元に、真の近衛文麿像を抽出することに成功した。

戦前日本の外圧の真相が明らかになる反面、内部から呼応した人々の研究は進んでいない。この著書は内部から鍵を開けた最重要人物の真実を暴き出した瞬間であり、戦後レジーム脱却の大きな一歩となると思う。このような研究をただひたすら真摯に取り組んでこられた氏に敬意を表します。

kei-toshie
ルーズベルトに日米戦争を引き起こさせる要因を作ったのは近衛文麿だったのか! 2019年2月23日

最近の殆どの著書は「日米戦争はルーズベルトによって引き起こされたのであり、日本人が仕掛けたのではない。」とするものが殆どである。では「何故ルーズベルトをその気にさせたのか?」が良く分からなかった。

但し、ルーズベルトが日本の行動に対して不満な要因が少なくとも二つあった。

一つは昭和12年に支那事変から始まった日中戦争の長期化(太平洋戦争終戦までの8年間)であり、もう一つは昭和15年に締結した日独伊三国同盟であった。

支那事変に関しては、当初支那(国民党)側から停戦の申し入れがあったが、近衛は「国民党は相手にせず」と言って拒否したことにより戦争は長期化していく。

三国同盟に関しては松岡洋右の考えを支持し、積極的に支持した。

私は支那事変が長期化したのは、近衛の責任だと思っていたが、今回この著書を読み、その背景には近衛内閣を支える共産分子である尾崎秀実や岡見章がいて、彼らが支那事変の長期化を熱望していたことがわかった。

第一次近衛内閣の閣僚の中に尾崎秀実や岡見章がいる。
又第二次近衛内閣の中には松岡洋右がいるのである。

したがって、尾崎秀実、岡見章、松岡洋右、等々がルーズベルトに日米戦争を引き起こさせたと言っても過言ではない。
(但し彼らの上司は近衛文麿であった。)

過去に読んだ本の中で{昭和20年2月に近衛文麿は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。}とあり、良い提言をすることもあったなと思っていました。ところが、今回「近衛上奏文」(263頁)を読み、戦争終結提案は、自分の保身のための様々な提案の中の一環であることが分かり私としては怒り心頭に達しました。

終戦を迎えるに当たっても、マッカーサーやGHQに昭和天皇の配置転換や憲法改正等々、自分に都合よい事ばかり提案しています。これを読んでいて近衛文麿と言う人物に嫌気がさしました。本人は自殺したのか他殺だったのか知りませんが、このような卑怯な人間は死んで当然だと思いました。近衛文麿についてこれだけ詳細に書いて下さった著者に感謝を申し上げます。

プライベートもパスワード
「ノンフィクション」と捉えても過言ではない。「テロルの決算」以来の読み応え有り。 2017年12月20日

近衛文麿の「ノンフィクション」と捉えても過言ではないこと。ここまで調べあげた筆者の執念に完敗(乾杯)。
沢木耕太郎の「テロルの決算」以来の読み応えが有りました。

登場人物が沢山出てきて、人物相関で混乱した人もいるかと思います。
戦国時代に例えるなら、まだ登場人物は少ない方。
筆者は、キーマンとなる人物を登場させては、すぐに「近衛文麿」に話を戻す点は実に巧妙である。

「近衛文麿」は“いったい”何がしたかったのか?
そもそも戦争をしたがる人間がこの世にいるのか?

近衛文麿は若き頃、「英米本位の平和主義を排す」という論文を著し、国際関係の革新を唱える一方で、陸軍と共産主義者に戦争責任の全てを押し付ける。そして天皇退位までもくろむ。

近衛にとっての共産主義者とは誰なのか?

尾崎秀美?
風見章?
風見鶏?(ダジャレ)

この書物はそれらを少しずつ明らかにしていく。
読者は常に“どうしてそうなったか”の理由(根拠)が知りたい。その点では、この本は充分に期待にそえる。

「近衛文麿」は自殺では無く、暗殺されたのか?誰の手によるものか?
「大東亜戦争」とは何だったのか。「第二次世界大戦」とは何だったのか。

筆者は「第二次世界大戦」という言葉を使用していないが、「第二次世界大戦」で連想する世界共通の答えは、老若男女問わず「パールハーバー」、「ヒトラー」、「アンネの日記」、「アウシュビッツ」、「ノルマンディー」、「ヒロシマ・ナガサキ」です。

残念ながら、「近衛文麿」の名は出てきません。

日本でも同じ。中学生に聞いたら「アンネの日記」、「ヒロシマ・ナガサキ」です。
やはり「近衛文麿」の名は出てきません。

本書では、「近衛は内外の諸勢力から、国民から、天皇から、歴史から世絶されたのです。」と言及しています。


話は第一章に戻します。

いきなり「近衛文麿」の祖先である「藤原鎌足」の話から始まります。実に面白い。

私が知り得た「藤原鎌足」は、百済最後の王の「扶余豊璋(ふよ ほうしょう)」であったという説があります。日本の統治は天皇血族であり続けるべきであるという「厩戸王(うまやとおう)」(聖徳太子)を押しのけ藤原氏だけの世を作り出したが、「近衛文麿」は、まるで同じ行動ですね。

真偽は歴史研究家にゆだねるとして、筆者は読者をグイグイと導いてくれます。
本書では、「近衛文麿」は戦争責任を逃れるため「大化の改新のごとくと称して東条英機の暗殺を説いた」としています。

然しながら、わからないことが多いのがこの「近衛文麿」。


第二章では、なぜスパイであるゾルゲと親交深かった共産主義者の尾崎秀美を重用したのか、にメスが入ります。それを少しずつ解き明かしてくれます。
諜報者としてではなく扇動者として利用していく過程を、です。尾崎の志と才能を利用していく過程は実に判り易い。

「近衛文麿」は自分をヒトラーに重ね合わせ、何をしたかったのか。

悪い見方をすれば、目的を達成させるには、共産主義者であろうが、利用する。
一方で、「秋丸機関」に治安維持法で検挙されていた者が参加していたことを考えると、政治や宗教感に左右されることなく多くの人材を集めた、とも考えられます。

「秋丸機関」については、筆者の「日米開戦 陸軍の勝算」に詳細が書かれておりますが、本書でも第三章で少しふれています。

「秋丸機関」には他国の調査をすべく、国ごとの研究班が存在したことは「日米開戦 陸軍の勝算」で明らかにされていますのでご一読意をお勧め致します。

ベトナム戦争で例えるなら、

@北ベトナム政府の思惑
Aソビエトの思惑
B南ベトナム政府の思惑
Cアメリカの思惑、

といった四通りの考え方が存在したハズです。この四通りの考え方を把握してこそ、戦争の原因が見えてくると考えます。

無学な私の個人的感想ですが、「大東亜戦争」の始まりは、「満州事変」なのか、「日中戦争」なのか、「パールハーバー」なのか、それすら判りません。
いずれにせよ、日本が参戦する過程で「近衛文麿」を抜きに考えられないことを本書で知りました。


第四章では、いよいよ「真珠湾攻撃(パールハーバー)」に触れます。

最終章では、「近衛文麿」が、利用した共産主義者や昭和天皇に戦争責任の全てを押し付け、自身には責任が無いこと、終戦に努力したこと、に奔走します。
ポツダム宣言の履行後に天皇の退位を画策したり、利用してきた共産主義者の企図を告発したりで、多くの協力者の信頼を失ったのではなかろうか。殺されても仕方がない。

現代社会に照らし合わせると、このような人物は「やはり」います。会社でウロウロしています。いつの時代も変わらない。
上長に良い顔して自分には非常に甘い人。すごく社内で嫌われています。

現代のテクノロジー社会では電子データのファイルを“クリック”ひとつで消すことができます。一方、関係者の回顧(録)を消す削除キーがないところが人間たるゆえんである。筆者は、様々な事実や証言を少しずつ積み上げて、真実を明らかにした点で功績は大きい。


織田多宇人
中臣鎌足を祖とする名家藤原北家の藤原道長の末裔、貴族社会の頂点に位置していた近衛家の御曹司近衛文麿の意外な人生のノンフィクションの作品に圧倒された 2018年2月1日

中臣鎌足を祖とする名家藤原北家の藤原道長の末裔、貴族社会の頂点に位置していた近衛家の御曹司近衛文麿の意外な人生のノンフィクションの作品に圧倒された。

以前著者の講演会で近衛文麿の周りに巣食う共産主義者の話を聞いた時に意外な事実にびっくりしたことがあるが、この本を読み、近衛が己の名誉と栄光を手にするために、天皇陛下でも共産主義者でも自分の子供でも見境なく利用したと言うことが分かり、衝撃を受けた。

昭和12年6月に大命降下を受けて総理大臣になる三箇月前に近衛は仮装パーティーでヒットラーに扮した。このことを政治評論家の阿部真之助は『文藝春秋』昭和12年7月号で

「十年前、左翼華やなりし頃は彼の姿が自由主義より、もっと左に寄った位に映ったのであるが、今では時代と共に、漸次右へ移動して、自ら国家社会主義者と公然と名乗るのを辞さないまでになった。

彼が仮装会で、ナチス独逸のヒットラーに扮したのも、仮装の裏に、彼の本心が潜んでいたのだった。林大将の後に、ヒットラーを気取る近衛が出て来て、どうして世の中が、後戻りしたと言うことが出来るのだ」

と辛口に評している。

近衛は第一次近衛内閣の要である書記官長に抜擢した共産主義者風見章や後にゾルゲ事件で逮捕されるソ連のスパイ尾崎秀美、その他の革命児たちを周りに置き、支那事変を解決不能にこじらし大東亜戦争へのレールを敷いて行ったと言っても過言ではない。

それでいて、戦争責任は被らないように用意周到の準備をし、戦後の覇権を掴もうとした。

結果的には思っていたようなシナリオ通りにはならずに戦犯容疑者としてGHQから逮捕命令が出され、巣鴨拘置所への出頭日の前に青酸カリ自殺を遂げた。著者は青酸カリ自殺には疑問を抱き近衛は薬殺されたのではないかと推理している。


近衛のシナリオ通り行かなかったのは、GHQ対敵諜報局調査分析課長ハーバート・ノーマンの、義理の伯父に木戸幸一内大臣を持つ都留重人や、(すでに近衛から心が離れていた)家族ぐるみの付き合いのあった風見章からの詳細な情報の提供による近衛への心証が大きく影響していたようである。

風見章は近衛の側近として共に戦犯となってもおかしくないが、戦後は中国共産党との交流の日本側窓口のトップとして歓迎され、「日ソ協会」副会長、「日中国交回復国民会議」理事長に就任し政界の親中親ソ派を率いている。

自虐史観と謝罪外交の元祖たる風見の戦後の事績は、そもそも近衛が風見を内閣書記官長に抜擢したことの置き土産である。このような近現代史を見つめ直し、背筋が寒くなる思いと我々自身の迂闊さへの気付きを共有することが必要だ。

himawari
闇 2018年11月20日

ch桜討論で林千勝さんの意見を聞き興味が沸きました。

なぜ真珠湾へ行ったのかはアメリカルーズベルト批判から始まった開戦への疑問。
これまで日本側からこれを分析する本は出ませんでした。

 林千勝先生「日米開戦陸軍の勝算」は決定版と言えるような内容。

本当の闇の部分山本五十六周辺の情報は無いのですが、公開情報を元に陸軍側から見た理詰めの勝算分析を示しています。

もちろん本当の闇は公開情報からは出てきません。
我々ができることは公開情報を元にした分析。秘密情報なしでも十分に当時を知ることができます。

本の評価から言うと「日米開戦陸軍の勝算」が10に対して「近衛文麿野望と挫折」は5くらい。
両方とも所謂陰謀論ではなく、文献を元に分析を加えています。


最初に読んだのは「近衛文麿野望と挫折」、これを読めば両方の内容が読めるという討論上での林先生の説明があったのでこれにしましたが、不足を感じたので「日米開戦陸軍の勝算」も読みました。

「近衛文麿野望と挫折」は近衛文麿という淡い個性が扇の要となり日米開戦まで引っ張って行ったという意見。
自分はこれはカモフラージュではないかと思っています。

中心議題は日米開戦に至る人物の行動分析。
主要人物の行動分析を行うことでこれからの研究の土台作りになっています。


  一番心に残ったのは敗戦後の秋丸次朗、有沢広巳の行動。
秋丸機関を反戦平和のための機関だったとして、その業績自体を全否定しています。
定期的に会合を開いて口裏合わせをするという念のいりよう。

有沢広巳は共産党シンパになり「日本はアメリカには感謝し続けよう中国には謝罪し続けよう」と言い続けます。
そして研究成果、蔵書のすべてを中国共産党に寄付します。

なぜ秋丸機関の提言は実行されなかったのか(大東亜戦争という名称をはじめとした一部は実行されたのですが)。

鍵は欧米植民地支配、人間支配の手法にあります。
彼らは家畜を支配するがごとく巧みに人間を支配します。
日本の中枢、東京に彼らの代理人工作の実行者が隠れていたのではないでしょうか。

どんなに巧みな計画を立てても中枢にいる人間に逆方向へ走らせます。
ルーズベルトにとってジャストタイミングの真珠湾、ミッドウェーは指令が正確に伝わっていたことを示しています。

代理人の正体は不明ですがキリスト教徒国際人であることは間違いないと思います。
そして東京にいる人。

 ガダルカナルでの役割を終った山本五十六はアメリカ軍機に追い回されて殺されます。
口をふさぐ必要があると判断されたのでしょう。

戦後日本は敗戦へ導いた黒幕たちの支配が強まります。
秋丸次朗も有沢広巳も変節を余儀なくされました。
秋丸次朗、有沢広巳にとって秋丸機関こそが一生に一度の大仕事。
それが終わった後はどうでもよかったのだと思います。

もちろん作戦が実行されて日本軍が勝利したなら活動は継続したはずです。
端から作戦を壊してしまう人物がいる日本軍。
二人とも絶望したでしょう。

北京に送った蔵書などは有沢広巳にとってはゴミだったのではないでしょうか?
すべては秋丸機関に掛けたのだと思います。

 わずかな資料から林千勝がよみがえらせた昭和史。
日本人はここから出発する必要がある。

 戦後日本は東条英機を大悪人に仕立て、「ニイタカヤマノボレ」山本五十六の神格化が図られます。


国士応援
本書の評価自体は難しいが、アメリカの対日観が滲んでいる・・・(ネタバレあり) 2018年3月3日

前作「日米開戦 陸軍の勝算」(祥伝社新書)で紫電一閃、卑屈なアメリカ追従史観を斬り捨てた英才、林千勝氏の最新作ですが
存外、評価が難しいです。

近衛文麿が天皇陛下にも、ご皇室にも大した敬意を払っていなかっただろうことは良くわかりましたが
「そもそもソ連の「黒幕」と通謀していたのか?」という事は証拠隠滅(林千勝氏によれば)もあって状況証拠のみです。

概略は

@ 近衛文麿は公卿政治家として、日本を支配しようとしてきた。

A 日本支配の布石のために国内の動乱を必要とした近衛は、国外のシナ事変、国内では共産主義を利用し、後には対米戦争を画策する。

B 近衛はソ連をかばうためにソ連への侵攻を企図した「北進論」ではなく、列強のアジア植民地へ侵攻し、列強と対立せざるを得ない「南進論」へと舵を切らせた。

C 近衛文麿が共産主義の傀儡だったことは、「アジア解放のための資本主義の打破」
という公約演説に集約されている。

D 近衛は個人的な野望でアメリカとの戦争を画策した、本来、日本はアメリカと対立する要素はなかった


大体、まとめるとこんな感じですが
この@とAは状況証拠のみでよくわかりません。

Bはいささか無理があり、ABCD包囲網で資源獲得に苦しんでいた日本が重要資源の生産地である南方進出を企図するのは国防上の必然であり、
逆に北に侵攻してソ連と対峙した場合、資源を手にできる可能性はほぼなく、加えて冬の満州の−20℃よりもはるかに低気温の−40℃地帯のロシアで、貧弱な対寒冷装備しか持たない帝國陸軍が有効な組織戦闘を展開できるとも思えず、何より南方地域を攻略しないでソ連を攻めるとすれば、満州から内蒙古、外蒙古とほぼ単線の補給線しか確保できないので北進は地獄になるでしょう。

Cの資本主義の打破という言葉も、冷戦が顕在化した後の「資本主義陣営」という言葉とはかなり様相を異にし、「植民地の収奪と囲い込みによる、持てる国の経済」という意味合いが強い言葉でした。

それに対して、挙国一致して資源を計画的に戦力増強に振り分け、国内の完全雇用体制から強国として列強のブロック経済を破壊して自給自足の経済、アウタルキーを目指すというのが、植民地支配国から締め出された日本やドイツなどの生き残りをかけた戦略でした。

ヒットラーでさえ、「ドイツ社会主義労働党」から出てきた事を考えれば、
当時の資本主義の打破=共産主義勢力というのは無理があるでしょう。

このあたりの事情は前作の「日米開戦の真実 陸軍の勝算」に詳しいので林千勝氏の方が私より良くご存じだと思います。 


D のアメリカと対立する要素は無かったは、全くの暴論で
アメリカの外交官ジョージ・ケナンはその著作「アメリカ外交50年」で誠実に述べているように「十年一日のごとく日本に嫌がらせをした」のであり、
シナ事変において蒋介石に指示して日本を泥沼のゲリラ戦に引き込み、さらに莫大な援助によってそれを助けていました。

シナの戦争の仕方がどのようなものであったのかと言えば
東中野 修道氏の著作「南京虐殺の徹底検証」によれば、

シナに常時いくらでも存在している流民を駆り集めてきて、塹壕を掘らせて銃器を持たせ、その脚を鎖でつないで動けなくして、帝國陸軍を足止めさせる。
足止めした所を、戦を監督する「督戦隊」が機関銃で味方ごと撃ち殺す。

という酷薄な使い捨ての奴隷制軍隊を用いていました。

目的は帝國陸軍に勝つことではなく、日本の国力を削ぐために日本男児をけずる事であり、アメリカは奴隷戦術をシナ人に仕込みながら、日本には常に「公正で人道的な対応」を求めて、あらゆる宣伝、空言を用いて効果的な戦術を封じました。

対米戦争の印象が強いせいで、シナ事変の困難は忘れられがちですがアメリカ自身がこれより後に、ベトナム戦争のゲリラ戦で七転八倒した後に、あらゆる価値観がひっくり返され、分断された不安定な国家に堕していった事を考えれば、大日本帝國の損傷は決して小さくは無かったでしょう。

日本男児の強さと、責任感、人々を守らんとする優しさ、に頭が下がります。

倉山満氏も最近、似たような近衛文麿が諸悪の根源、といった本を出していましたから、おそらくアメリカあたりのはやりの学説なのだと思いますが、
根本的に「ヴェノナ文書」によってルーズベルト・ホワイトハウスがソ連共産党の意のままに操られていたという事を認められない連中がこじつけた感が拭えません。

アメリカの本音とすれば

「日本が無傷のまま北進を決めて、我々がそれに乗っかっていれば日本に多大な苦痛だけを押し付けつつ、アジアに進出し莫大な権益をただ取りできたのに・・」

という所でしょう。それに対して

「日本が滅びるならば、犠牲となるのは女子供だ。日本男児ならば誰でもそれを座視するよりは、己の身を擦り潰す事になっても刃を抜かずにはおかぬ。武士の時代から今に至るまで何も変わらない」

と笑って言い返すべきでしょう。

特に不利な立場に立たされているなら、尚の事、気概をもって現実を乗り越える強さを希求する必要があるのですから。


▲△▽▼



日米開戦 陸軍の勝算 (祥伝社新書) – 2015/8/1
林 千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%96%8B%E6%88%A6-%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%8B%9D%E7%AE%97-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9E%97-%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/439611429X/ref=sr_1_3?keywords=%E6%9E%97%E5%8D%83%E5%8B%9D&qid=1559859231&s=gateway&sr=8-3

内容紹介

■負けはしない戦争だった!  

七十年前のあの戦争は、本当に無計画で非合理なものだったのか。
開戦を決意した陸軍は無謀にも、勝算のない戦いに、やみくもに突入したのか。
 
そんなはずはない。

近代史を研究する著者は「陸軍戦争経済研究班」の報告書を詳細に調査し、少なくとも陸軍は、科学性と合理性に基づいて開戦に踏み切ったことを知る。  

秋丸機関と呼ばれた研究班は、第一級の英才を動員し、英米の経済力を徹底研究。
報告書に基づいて策定された戦争戦略は、大本営政府連絡会議に上げられたのだった。  

報告書の真相は戦後、意図的に歪曲化(わいきょくか)され、闇に葬られた。

そこには何が書かれていたのか。報告書の真の意図を探り、戦後の常識に一石を投じる驚愕(きょうがく)の研究書!


出版社からのコメント

戦後70年。 あの戦争はどうやって始まったのか。勝算は本当になかったのか。
なぜ、負けたのか。 改めて検証する動きが各所で行なわれています。

著者はある重要な研究報告に着目し、それを徹底研究することによって、開戦の謎を解き明かしていきます。

陸軍の科学性と合理性が開戦の決断を促した! 
事実をもってそう結論つける過程がスリリング!
現代史の常識に一石を投じる、知的興奮の書!


____


カスタマーレビュー


うさぎ1919
山本五十六はハニートラップに掛かったのか。 2018年1月12日

本書には日米英開戦に先立ち、国家総力戦で勝利するため陸軍が立案した大戦略の作成経緯が詳述されている。

この折角の大東亜戦争開戦の大戦略「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」を破壊したのは、山本五十六連合艦隊司令長官ですね。

開戦劈頭の真珠湾攻撃は、そもそも「腹案(行動計画)」には無かったし、この愚策により米国世論は「リメンバー・パールハーバー」の大合唱となり米国を参戦に導いた。

その後の「ミッドウェー海戦」や「ガダルカナル攻防戦とソロモン海戦」も「腹案(行動計画)」には無く、あまりの錯誤と稚拙ゆえに大敗北となった。

まるで意図して帝国海軍を破滅させようとしているようではないか。
山本五十六は工作員か、あるいはフリーメーソンかと囁かれるのも無理はなかろう。

山本の愛人は、16歳年下の芸者鶴島正子と、20歳年下の新橋芸者河合千代子の二人が良く知られている。これら愛人を囲う費用の出所はどこかの疑問はあるが、両名とも日本人芸者であり外国のハニートラップとは断定出来ないだろう。

しかし「見えざる日本の支配者フリーメーソン」という著書には、山本にはフランス女との間に男児の隠し子があったとの記述がある。証言者は「ダフニス・スワンソン」という戦前から日本在住のスウェーデン人で、元香港ロッジのパスト・グランド・マスターのメーソンだという。

ジャーナリストの問いに、スワンソンが答えた肝心な部分を以下に抜き出します。


スワンソン;私、山本五十六長官に会っているんですよ。


ーーー山本長官に会っているんですか。

スワンソン;終戦前ですよ。どうしてかというと、山本長官の息子が私と同じ学校で、私、彼の家に何回も行ったことがあるんです。山本さんはこれがね (小指を示して) いたのですよ。正式の奥さんでは無かったが、私は、その息子と同級生だった。


ーーー長官のお子さんだったのですか。


スワンソン;フランス人の女性との間に出来た子供、ビリー・ヤマモトという名前でした。私はアメリカンスクールに通っていて、これは1933年の卒業のときの写真です。これがビリー・ヤマモトです。この人は公認の戸籍には入っていないでしょう。(これが卒業アルバムです。と言って見せてくれた)


ーーー確かにヤマモトと書いてありますね。アジア人系の顔でハーフのような端正な顔のビリー・ヤマモト。


スワンソン;ビリー・ヤマモトは田園調布に住んでいたんですよ。お父さんの家です。私は、このビリーと大変仲が良くて、よく家に遊びに行っていたのですよ。そしたらお父さんが帰ってきて「おい」って「誰だ」っていう。山本五十六だった。他にも同級生でハル・ライシャワー夫人がいます。(ほら、ここですとアルバムを示す) ここにいますよ、 ハル・マツカタ 松方ハルさん。


松方ハル(後のライシャワー駐日米国大使夫人)は1933年に「アメリカンスクール・イン・ジャパン」を卒業している。この年に18歳の同級生ビリー・ヤマモトがいたとすれば、1915年山本五十六31歳の隠し子であろう。

山本の年譜を見ると、1909年にアメリカに駐在、1911年に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になるとある。(米内光政は無類の女好きでロシア女との間に隠し子がいたはずだ) 

山本が1909年からの滞米時期か帰国後にハニートラップに掛かったのか、若干30歳程の海軍士官にフランス女を囲う費用の出所はどこか。山本五十六には、もっと明らかにされるべき下半身の秘密があるようだ。

読書家
『勝算が実際に正しかったか』が重要なのではない 2016年12月11日

本書はよくある、後知恵で『こうしてれば勝てた』的な他人事批評本ではありません。

『陸軍の勝算』とタイトルにあるので、軍部賞賛家が書いた敗けた戦争の言い訳本か、という先入観を持ってしまいそうですが、そんな本でもありません。

実際、敗けたので『勝算』は立てていたが見通しが甘かった、というのが厳然たる事実です。

ただ、本書で重要なのは『見通しが正しかったか』、ではなく『日本は合理的に、開戦した場合としない場合の分析を行い、具体的で勝算の十分にある戦争遂行プランと終戦に至るまでの戦略を持って、開戦の判断を行なっていた事実があった』ことで、

それは、一般に周知されている『日本は陸軍を中心とした軍部が暴走して何の勝算も無く無謀な戦争に国民を追いやった』という通説とは全く異なっている、ということで、それが戦勝国アメリカによって意図的に改竄されたものであった、ということです。それも戦略を立てた当事者達に隠蔽、改竄工作を主導させるという徹底ぶりで。

それが終戦直後にGHQによるWGIPの中で行われていただけでなく、2011年になっても日経新聞のような権威のある新聞の一面で、秋丸機関の報告に関する嘘のプロパガンダ記事が掲載された、ことに代表されるように、今もマスメディアが自分達の信念である陸軍、軍部悪玉論を覆す史実の証拠を必死に隠蔽、改竄していることが、本書の扱う内容が今私達が当事者として直面している『自分達やその子供達が誇りを持って生きていけるか』という問題であることを示しています。

GHQによる焚書も驚愕の事実でしたが、本書の内容は思想戦が今も続く我が国の厳しい現状を改めて痛感させられます。

ただ、合理的な戦略が立てられていても、それが実行されなければ絵に描いた餅なので、海軍、山本五十六長官によって開戦時に政府決定していたプランが滅茶苦茶にされてしまったのが事実であっても、それを許した日本の組織運営の非合理性や統制力の弱さは、正に国の存亡をかけた総力戦を戦うにあたっては致命的であったということだと思います。

それは、現在日本においても厳然として存在する問題ですが、和や義理人情を尊ぶ日本人の良い点と裏腹な面もあるので、一概に悪い点としてあげつらうような単純な話ではないですが、今後も弱肉強食の国際社会を日本が生き抜いていくためには目を背けずにしっかり研究していくべきことだと思います。本書ではその点は踏み込まれていないので、今後の著者の研究に期待したいです。

本書は、これまで流布されてきた通説を覆す史実を世に知らしめる、ということだけでなく、それを証拠となる一次資料を掲載することで説得力を持たせていること、論旨も悪戯に情緒的にならずに事実を冷静に分析してわかり易いことが、素晴らしいと思います。

職業としての研究者ではない中で、これだけの研究をされて書籍化された著者には敬服します。
西尾幹二さんのGHQ焚書図書開封シリーズと合わせて読むと本書では簡単にしか触れられていない点もその根拠や真意がより理解できてよいと思います。

本書を多くの人が読まれることを願い、その際に当レビューの冒頭に書いたような誤解を受けないよう、当レビューが役に立てば何よりです。


にゃんこもち
陸軍悪玉論を問い直す 2018年2月2日

70年前のあの戦争は、本当に無謀な戦争だったのか? 無計画な一部の指導者が、アメリカを相手に、勝算のない戦争をはじめてしまったのか? 

当時の陸軍には、優秀な経済学者を集めたシンクタンク「陸軍省戦争経済研究班」(通称、秋丸機関)があった。その報告書によると、日本は科学的な調査・研究に基づき、開戦に踏み切ったことが明らかになった。

秋丸機関では、米英との戦争に備え、日本が「総力戦」をいかに戦い抜くかが研究されていた。国家の経済力の観点から、日米英の国力を比較し、戦争の期間や規模、戦費や動員兵力、資源調達能力、輸送能力などを子細に分析、何度もシミュレーションを行っていた。

その結果、同機関は、以下のような負けない戦略を考え出したという。

・米国との戦争は極力避ける
・統制経済により、資源を軍備に集中させる
・主戦場を太平洋ではなく、インド洋に設定する
・インド洋に展開する英国軍を屈服させる
・英国の敗北により、戦意を喪失した米国と早期に講和する
・講和後、日本は大東亜共栄圏の維持・発展を図り、自国の資源不足を補う

そして、日本が持久戦に耐えられるのは、長くて1年半から2年と試算。その後の長期戦を有利に戦えるかどうかは、広域経済圏、すなわち大東亜共栄圏の運営にかかっているとした。

ではなぜ、太平洋ではなく、インド洋なのか? 当時のインド洋は、米英にとって軍事と経済の大動脈であり、通商・資源の輸送ルートになっていたからだ。敵の部隊をたたくより、輸送路を遮断することで継戦能力をくじく作戦である。極めて合理的な判断だったといえよう。

ここで注意すべきなのは、あくまで主戦場は東アジアだった、ということだ。戦後、GHQの洗脳教育により、先の戦争は「太平洋戦争」と呼ばれた。いかにも太平洋で戦っていたような印象があるが、本来の呼称は「大東亜(東アジア)戦争」であり、それが当時の閣議決定でもあった。

しかし、事態は思わぬ方向へ進んでいった。こうした陸軍の戦略をぶち壊したのが海軍であり、なかでも連合艦隊司令長官の山本五十六だったと著者はいう。

1941年12月8日、海軍がハワイの真珠湾を奇襲したことで、米国との戦端が開かれたわけだが、前述したように、秋丸機関の報告書に「真珠湾」の文字はない。山本は当初、真珠湾攻撃により、米国の士気をくじき、講和に持ち込もうと考えていた。

だが、結果は裏目に出た。米国民の戦意は猛烈に高揚し、日本は貴重な戦力を東の太平洋に割く羽目になったのである。これを著者は山本の「暴走」と見る。

その後のミッドウェー海戦での大敗北を見ても、日本軍は米国の挑発にまんまと乗ってしまったような感すらある。日本は、陸軍が想定していた東アジアへの西進戦略もままならないうちに、対米戦へと舵を切った。戦線は大幅に拡大し、少しずつ敗戦への道を歩み始めたのである。

世間には「陸軍は無謀で不合理、海軍は先進的で合理的」と、頑なに信じている人もいるかもしれない。本書に書かれていることがすべて正しいとは思わないが、歴史をより多面的に理解する意味でも一読をおすすめしたい。

himawari
具体案は描けたが人間支配で負けた日本 2018年11月19日

粛々とこの作戦を遂行すれば勝てた戦いでした。
何故に勝てなかったか?

アメリカによって中枢部が支配されていた結果です。
裏切るトップがいる国が日本。

日露戦争の大借金でアメリカの影響力、金融支配が強まります。
日露戦争自体が日本ロシア双方に送り込まれた工作員によって引き起こされた可能性が高い。

徐々にですが中枢部まで支配されてしまった日本。
関東大震災時には工作がなされた可能性が高い。
官僚軍人の無謬性を謳うことで日本は工作を防げない国になってしまいました。

戦後日本は東条英機を大悪人に仕立て、インパール作戦の無謀。「ニイタカヤマノボレ」山本五十六の神格化が図られます。

それらがすべて嘘だとわかるのがこの本。
戦前の工作はひどいのですが、アメリカによって書かれた戦争史は日本人の誇りを奪いました。
正義感を持って戦った歴史が忘れ去られてしまった。



面白い視点、ただし歴史はご都合では動かない 2018年8月13日

陸軍の世界戦略の勝算と真珠湾奇襲による破滅に関する視点については政治・軍事系まとめサイトなどで時折見かける書き込みの中にあり、信頼に堪えない書き込みが多い中では自分が納得できるものだと思っていました。

これは良くある山本元帥スパイ説や無能説を裏付ける説得力を持つ内容だと思っています。

ただ面白い説だと認めた上で私は全面的には賛同はできません。むしろ否定的です。
仮説を立てることは自由でありそれを表現することは素晴らしいことです。しかしそのためにありがちなことが自説に都合の悪い事実に蓋をしてしまうという危険性です。
現に自然科学の分野でもデータの改ざんが頻繁に行われているという報道がなされている現状があります。
この本に関してもその匂いがすることを感じざるを得ません。

私は軍事関係者ではありませんが、割合本格的なシミュレーションゲームを長期間行ってきています。そのために一応戦略的な思考を持っているという自覚があります。
その点から言わせて頂ければ、この論を疑心なく支持できるためにはいくつかの前提条件が必要となると思います。


一、真珠湾奇襲を行わない場合、絶対にアメリカが大戦に参加しないこと。
一、ドイツが優勢を維持していること。
一、時代の変化と戦略、戦術の変化に適合すること。


アメリカの参戦については真珠湾奇襲の実施如何に関わらず、恐らくかなりの確率で、あっただろうと推察します。

当時アメリカの参戦が無く、もし英国がドイツに屈し、ドイツの傘下に下った場合、アメリカは第三帝国と正面で対峙しなければなりません。
この事態を看過できるかということになります。

アメリカにモンロー主義があったとしても南北アメリカ大陸に外部の勢力の手が及ぶ場合、それ(モンロー主義)を維持できたかどうかいささか疑問が生じます。実際南米諸国にはナチスの政治的謀略工作が活発に起こされています。

モンロー主義とはアメリカ南北大陸のブロック経済圏を意味します。ここが浸食されるされるわけですよ。
日本が真珠湾を攻撃しなくても、アメリカはいずれ何らかの形で参戦する口実を作り上げるとみた方が合理的ではないでしょうか。

アメリカが対独戦に参戦したいという意向があるとすれば、ドイツと同盟関係にある日本が南・東南アジアへの進出を行っているという名目で、同盟国英国を支援する目的をもって十中八九参戦してきただろうと私は考えています。

次に当時のドイツの情勢ですが、1941年末には攻勢において陰りが見られるようになります。実際日本が参戦した後モスクワ攻略に失敗しています。

したがって中東での合流は難しかったのではないかと判断せざるを得ません。
攻勢限界点の知識がおありならこの事態の意味を理解すべきだと思います。

本書が批判する海軍の真珠湾攻撃の意図も私には意味があるように思えます。

史実を見れば山本元帥の真珠湾攻撃の博打は成功しました。その結果半年程度の時間を稼ぐことができ、その間日本軍は後背の危険を心配することなく初期の戦略目標を達成できています。

もし真珠湾攻撃を実施せず、マリアナで米艦隊を待ち受けていたら確かに勝てたかもしれませんが、損失もかなり被っていた可能性が高いと思います。第一、機動艦隊がマリアナに貼り付けになり他方面の作戦に使えません。アメリカの機動艦隊が健全ということになれば初期の南方作戦において連合国は簡単に降伏しなかった可能性があります。

加えて、当時の南洋群島の陸上攻撃機の数は数十機にすぎず、陸海共同での航空作戦は不可能。

ミッドウエイ海戦では、米軍は100機以上の陸上機と200機以上の空母艦載機(これだけで日本海軍とほぼ同戦力)で待ち受けていたわけです。アリアナで待ち構える想定においては機動部隊ワンセットしかなく、こういう状況にならないのです。

結論として、ハワイを攻略せずして日本の勝機(敗北しないということも含め)はない。これが私の見解です。

ハワイを占領しなければ、ハワイを基地とした米潜水艦による通商破壊戦や、空母によるヒットエンドラン攻撃に常にさらされます。実際史実ではこの通りになりました。

日本軍は海戦劈頭ハワイの敵艦隊をたたき一時足止めをし、アジア各方面での作戦を完遂したのち可能ならばハワイを占領するという作戦大綱に切り替えたとみるのが正しいのではないでしょうか。

誤算はミッドウエイの賭けに負けたことです。

ミッドウエイに完勝する必要があり、敵空母を殲滅する必要がありますが、ハワイを占領できた場合、ハワイに基地航空隊を重点的に配備し、空母艦隊とで待ち伏せすれば2セットの戦力配置が可能となります。

これにより逆ミッドウエイの防御態勢が敷けることになりハワイが奪還されることはなかったかもしれません。

そうなればここで初めて講和を俎上にあげることが可能となるからです。

ハワイを攻略できていたらアメリカによる潜水艦攻撃の損害は激減し、日本軍の兵站線は切られることがなく、補給も維持されます。兵站兵站としか言わない戦略家気取りの無能人間さんにも少しは納得できるような結果は上げられたと思います。
(この人達は旧日本軍が無能とするなら、それより遙かに無能で国にとっての害悪だと思いますが・・・)

もう一点。よく批判されることですが、日本がなぜ戦線を拡大したのかということ。

これは航空機の性能(航続距離とペイロードの拡大)によるものです。本土で米軍を待ち伏せるということは当時の日本には難しかったでしょう。イギリスは本土決戦においてドイツ空軍に勝利しますが、それでも大損害を受けます。

重要なことは英軍には後方支援があり、物資には困らなかったということです。
レーダーに劣っていた日本はそういう作戦は立てられませんし補給もありません。

前進し、そこから相手に打撃を与えるという前進戦略は全く間違っていませんし、漸減作戦の本質を変えたものでもありません。時代を超えた同義の作戦行動なのです。

日本には勝機があった。作者とは全く違う意味でですが。そういう感想です。
一応戦略ゲームぐらい遊んで、効率的に勝利できる結果をもって世界情勢を眺めてみたらとお勧めしたいと思います。

ただ、本書の意図は日本に合理的な判断があり、決して無謀な戦争に国民を追いやったものではないということを述べることであると思います。戦後レジーム・戦勝国史観に対する反証の一石としては支持したいと思っています。


ビールもう一本
歴史修正主義の面目躍如かね 2015年8月17日

歴史修正主義者というのは陰謀大好き、特務機関大好き、という人間が多く、山本五十六スパイ説まで紹介している。

武藤軍務局長、その下の岩畔軍事課長というラインは、中期的には開戦不可避と考えていただろうが、1941年のこの当時では陸軍省内部では避戦派だった。ハルノートを巡っては、岩畔は武藤の意を受けて訪米し、外交的に戦争回避に向けて交渉した人物である。

ハルは後に、岩畔をして「岩畔大佐は日本陸軍の美徳と欠点を併せ持っていた」と評したという。
(イワクロ.comを参照)

避戦派であるかれらの要請に基づいて設置された秋丸機関がどのような性格を帯びたものであったかは、明らかであろう。秋丸自身が戦後、

「対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後二年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は耐えがたいと言った結論であった。

すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知るものにとっては薄氷を踏む思いであった。」

と回想しているのである。ところが、歴史修正主義者である筆者によれば、これは秋丸の「嘘」になってしまうのである。

回想録には、時間の経過とともに合理化や美化が入り込むことは考えられるが、
回想録を第三者から正反対の「嘘」と断定されてはかなわない。

41年の10月には、海軍も1から2年は何とかしてもその先はわからないといい、企画院も燃料は1942年の半ばで枯渇する、徴用船も2年で不足することになると主張しており、秋丸機関の報告の趣旨とほぼ一致している。

それを荒唐無稽に捻じ曲げて、日本は「負けはしない戦争だった!」とは呆れる。

この筆者は、どんな人間かと思って調べてみたら、

12年の衆議院選挙に維新の党から出馬して、落選。
遡ると、他にも県議選や市長選に出て、見事に落選。

有権者はどんな人物かよく見ているなぁ。

読むべき本に非ず。

誰かが出版助成金でも出しているのではなかろうか。
出版社には、横浜事件などに思いを至らせてほしい。

シャルツ1993 5つ星のうち1.0
印刷していなければ、他に使い道があるのに。☆ゼロかマイナス星がほしい。 2015年8月29日

1円の価値もない文。

このような人は、敗戦後のアメリカ支配、それが70年続いている。そのきっかけが「日米開戦」なんだと言う思考が抜ける。
また、どのような作戦をたてようが、負ければどうなるのかが見えていないようだ。

まず、1941年8月、英米で調印された「太西洋憲章」を見過ごしては行けないと思う。

「太西洋憲章」をまじめに理解すれば、日本の帝国主義は受け入れられない。
戦争になることははっきりしている。

また、対独戦を戦っていた英国は、米国に参戦してほしかったし、米国政府もそうしたかった。米国国民を戦争に誘導するかだった。

また、このとき対独戦終了後のヨーロッパ支配に付いて話し合っていた。
2国で世界を支配する事を目指した。それが戦後、国際連合(連合国)になった。

それが戦略。


また、なんで、WWII開戦前、アメリカの財閥が、ヒットラーに金を渡していたのか。(フォード、など)
それはヨーロッパのユダヤ資本の一層を狙ったから。
最初英国(チャーチルなど)もヒットラーを支持していた。

戦後、ドイツ、イタリアのロスチャイルド家は消え。経済は行きずまった。
マーシャルプランによって、西欧は復活するが、米英の経済支配は如実になった。

-----1946年には、統一ヨーロパの考えが思考され、それが現代のユーロ圏誕生につながった。それは米英の経済支配からの独立に他ならない。

ドイツは、中国との和平を仲介しようと提案し、その後、米開戦をするなと警告していた。ことごとく日本は、ドイツの提案を蹴った。

日本軍官僚は、戦争を拡大したかった。それだけが思考の中心だったように思う。後戻り、停止できないのが、官僚の性(さが)だが、止めるべき青磁は機能しなくなっていた。

リヒャルト・ゾルゲは、日本がソ連に侵攻しないと情報を送り、ソ連はシベリアに展開していた部隊を西部戦線に投入できた。
それは稚拙な作戦で完敗した「ノモンハン事件」が伏線にある。

著者は、「西進」が本来すべきだったと述べたが、それは、インパール作戦の思考と同一。結局滅んだ。

そして、今日本は、アメリカの属国として、70年存在する。これからもそうかもしれない。

どこの国で、他国の軍隊に特権的権利を与えているか。アメリカ軍には、日本は一切手がつけられない現状をどう思うのか。

この現状のきっかけになったのが、日米開戦。
紙の上でどのような作戦をたてようが、戦略がなければ、結果は見えている。


千保川隼人 5つ星のうち1.0
作戦部と前線が乖離していては戦争に勝てない 2018年8月27日

司馬遼太郎、城山三郎、大岡昇平、会田雄次、山本七平などの作家や評論家は日本軍の内実を本にしている。

司馬氏はタンクの装甲の劣悪さに生き残ったのは奇跡であると述べ、

ノモンハン戦争の敗北を秘匿し、北支・満州での戦闘を教材に南進政策を進め、暑さに弱い馬は役に立たず、人力で輸送したなどの時代遅れの戦術に悲嘆の声を出した。

城山氏はビンタ攻撃で保持された日本軍の規律を悲憤に堪えないとした。

大岡昇平はフィリピンのジャングルをさ迷ったが、食料不足で苦しめられ、戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」の縛りを受けた。

世界戦史史上で70%に及ぶ病死者・餓死者を出した日本軍の非道を訴えている。

日本の捕虜は自殺することが多くアメリカ軍を困らせたが、一方軍の機密を洗いざらい喋ることはアメリカ情報将校を驚かせた。捕虜になった時のの教育がなされていなかった。
 
大本営の作戦部が現場を知らないで、真珠湾攻撃をしたためアメリカの反撃を強めたのは山本五十六の間違いといっているが山本五十六は宣戦布告の遅延を心配しており、外務省が宣戦布告のアメリカへの通告を遅らせたのが原因である、

海戦、ガダルカナル争奪戦に敗れたのちも和戦を考えずずるずると相も変わらぬ戦いを続けたことを海軍の山本五十六に責を負わせる著者の考えに違和感を覚えざるを得ないし、インド洋戦略が実現していれば日独同盟が勝ちを得たのではないかという「たられば」物語を語るにいたっては嗟嘆の限りであった。

 両面作戦が無理であったことは否定できず、北支・満州に9割の兵士が張り付けられたままで世界最強の米軍を迎え撃ち、アメリカ軍には飛び石作戦を敢行され、多くの戦士を戦闘に参加させられず、ラバウル基地、グアム基地は放置されたままになったのは、かえって兵士の生き残りを喜んであげるべきと考えた。

172. 中川隆[-9681] koaQ7Jey 2019年6月11日 02:23:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2778] 報告

東海アマブログ 満州国 2019年06月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html


 1987年に公開された映画「ラストエンペラー」は、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀の生涯をモチーフにしたもので、当時としては斬新で綿密な作りによって大ヒットした映画の一つだ。

ラストエンペラー The Last Emperor

監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 ベルナルド・ベルトルッチ マーク・ペプロー
音楽 坂本龍一 デイヴィッド・バーン 蘇聡
撮影 ヴィットリオ・ストラーロ
配給 コロンビア映画
公開 1987年11月20日


動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3849043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850827
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850900
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851111
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851222
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851394

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851544
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851686
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887


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『ラストエンペラー』(英: The Last Emperor、中: 末代皇帝、伊: L'ultimo imperatore)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。

 しかし、キャストは中国系アメリカ人ばかりで、英語が使われていたので中国人には不評であった。

 愛新覚羅溥儀は、1932年に日本軍によって建国された傀儡国家である「満州帝国皇帝」であるが、本来は、1616年にヌルハチによって建国され、1912年まで中国全土を支配した統一王朝「清」の血統を受け継ぐラストエンペラーであった。

 1616年に、女真族のヌルハチによって建国された当初は「後金」という国名を使ったが、1639年、息子のホンタイジらは、漢族からの反発を恐れて「清」を用いたようだ。
 このとき「女真」という民族名を「満州族」に改めた。

 女真族は、ツングース系(言語の系統)民族であり、モンゴル族に近く、漢族とはまったく民族が異なっていた。習俗・民俗としては騎馬民族文化であり、弁髪を中国全土に強要したことから、清朝末期の中国カンフー映画でも、ジェットリーらが扮する主人公が弁髪を結っていることが多い。
 ちなみに、この弁髪が、日本に入って武家の「月代」になったとする説がある。

 960〜1279年の宋王朝は、首都は臨安(杭州市)、純粋な漢族国家であった。
 次に中国全土の覇権を得た元帝国は1271〜1368年、首都は北京、完全なる騎馬民族であったが、女真族とは少し異なるモンゴル族である。
 次に、1368年、白蓮教徒の乱を契機に明が建国され、1644年に滅亡した。これも純粋な漢族であったようだ。
 つまり、中国王朝は、最初の統一王朝である秦以来、漢族と騎馬民族が交互に支配権を得ていて、これらは民族がまったく異なり、国家としての系譜は、完全に断絶してから再生しているので、継続的王朝とは認めがたい。

 1912年の清朝滅亡後は、孫文・袁世凱・蒋介石率いる中華民国が清朝領土の継承を主張したが、国際的に認められず、日本による支配地となった。
 これは1894年、日清戦争による戦勝によって立場が強まっていたからである。
 1931年、満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領され、その後、中華民国からの独立を宣言し、1932年の満洲国建国に至った。

 満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
 実は、初代皇帝、愛新覚羅溥儀が東京に呼ばれ天皇に会ったとき、裕仁天皇は溥儀を「兄弟」と呼んだ。

 それは単純に「五族協和」の意味ではなく、彼ら満州族(女真族)こそ、天皇家(秦氏末裔)の先祖であり同族であることを、裕仁は知りすぎるほど知っていたことを意味している。
 それは明仁天皇による桓武天皇ゆかり発言にも含まれている。
 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1276334343?v=pc
 
 この発言で、韓国内では「天皇は韓国人だった」との日本民族見下し論が盛り上がったが、残念ながら、李王朝が成立する前に、韓国に沿海州の渤海オロチョンや穢からエベンキ族が大量に移住することで現代韓国民族を形成していて、現在の韓国人と高句麗・百済の女真族は、まったく異なる民族である。
 むしろ北朝鮮側(高句麗)に、女真族が純粋な形で残ったともいわれる。

 日本敗戦後、皇帝の弟、溥傑や李朝の李垠・李玖兄弟たちは、日本に避難してきたが、李玖は、韓国暗殺者によって赤坂で殺害されたといわれる。
 溥傑の娘、愛新覚羅慧生は、日本で心中強要によって殺されている。
 傀儡権力の主役たちも、幸福とは言いがたい運命に翻弄されたのである。

 満州国が成立したことで、当時の日本政府は、満州地区への大規模な移民政策を始めた。昭和恐慌によって疲弊した農村部の再生を求めた国策であった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E8%92%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E7%A7%BB%E6%B0%91

満蒙開拓団は1932年から14年間で27万人が移住した。その多くが、気象的制約から豊かでなかった東北や内陸部の寒村から集められた。
 私の住む中津川市でも、読書村(旧木曽郡坂下)開拓団が有名で、全員が、敗戦に伴って想像を絶する地獄のような苦難を経験させられた。
 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-manmou-a057.htm

 http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 満州開拓民の苦難は、主に、日本陸軍、関東軍が日本人を守ろうとせず、真っ先に逃げ出したことで、開拓民が取り残され、侵攻してきたソ連軍に蹂躙され、健康な男子は殺害され、残された婦女子も筆舌に尽くしがたい暴行迫害を受けた。
 このとき、ソ連軍は、「日露戦争の敗戦を報復する」というスローガンを与えられていたといわれる。

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0607HisannaSaigo.html

 開拓団は、ちりじりに分散し、食料もないため、泣く泣く子供たちを先住の中国農民に預けるしかなく、「残留孤児」が大量に発生した。
 https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_57_interview.html

http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/history/Asia_is_Japanese/children_left_behind_in_China.htm

 二反長音蔵のこと

 満州国を語る上で、重要な核心人物が数名いる。
 まずは、満州国建国に奔走した石原莞爾。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 そして里見甫・岸信介・二反長音蔵という阿片王トリオである。

 台湾総督府の児玉源太郎と後藤新平は、表向き、台湾から阿片を撲滅するという「阿片暫禁政策」を公布したが、その本当の狙いは、台湾の富裕層に独占的に阿片を供給して利益を吸い上げるというもので、それが第二次世界大戦終結まで、日本陸軍による資金獲得の一つの柱となっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 満州国が成立して、茨木市の二反長音蔵(川端音二郎)が台湾で阿片栽培を指導し、大規模なケシ畑を作って、工業的に阿片生成を始めたのは、1800年代末で、やがてモルヒネ含有量が、ついに35%という驚くべき優秀品を作りだ出していた。
 当時の阿片は、インド阿片でモルヒネ含有量6%、イランものが9〜11%、トルコものが10%から14.5%だったから、超優秀な麻薬生産に成功していた。
 この阿片は、星製薬(星新一の実家)が一手に精製利権を得た。
  https://tanken.com/hoshi.html

 やがて二反長は、成立したばかりの満州国に派遣され、ここにも巨大なケシ畑を作り、世界最高のモルヒネを精製した。
 このケシ畑は、北朝鮮奥地にも作られ、日本敗戦後に、北朝鮮政権に引き継がれたといわれる。

 麻薬販売の目的は、後藤新平が画策した、台湾・満州・朝鮮の植民地住民に高価な麻薬を耽溺させることで現地の富を吸い上げて、日本帝国主義拡大の資金源とするというものであった。

 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 このとき、阿片の栽培、精製、販売の総元締となっていたのが、「麻薬王・里見甫」であり、彼は上海に居住して、中国民衆に麻薬を売りつけてぼろ儲けする中心人物であった。
 朝鮮では、この仕事を、安倍晋三の祖父である岸信介が行った。

 里見甫は、阿片精製を北京の通州で工業的に行おうとし、主に、日本人婦女を使って阿片やヘロインの精製を行っていたが、ここは、中国の古い麻薬シンジケートであった青幇・紅幇の縄張りであり、自分たちの利権を侵されることに憤った中国麻薬シンジケートの大規模な襲撃を受けて日本人大虐殺が起きた。これを通州事件と呼んでいる。
 虐殺の主役だった、冀東防共自治政府 保安隊を偽情報で焚きつけたのは、蒋介石らの南京政府だったともいわれる。当時、蒋介石は青幇の頭目でもあった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

  https://togetter.com/li/806302

 通州事件における日本人婦女の虐殺に怒った日本軍は、その後、中国における軍事侵攻が凶暴化し、南京に侵攻してからは、報復的に現地住民の大虐殺を行ったといわれている。
 https://ameblo.jp/2530beautymedalist/entry-12244703722.html

 敗戦後、満州国に残された巨大な二反長ケシ畑は、おそらく満州と北朝鮮に跨がったものだったと思われるが、北朝鮮側は金日成政権が管理して資金源に充てた。
 満州側は、中国共産党に引き継がれ、つい数年前にも、東北省の辺境で世界最大級のケシ畑が、グーグルアースによって発見されたとの報道があったが、その後、中国政府はグーグルに圧力をかけ、徹底的に隠蔽している。
 おそらく旧満州阿片も中国共産党の資金源にされているとみて間違いないだろう。

 朝鮮総督府では、岸信介赴任後に「昭和通商」という武器麻薬密売企業が作られ、岸信介が、里見甫の指導を受けて活動した。
 これも、もちろん朝鮮民衆を麻薬漬けにして、資金を吸い上げ大日本帝国の拡大資金に充てるものだった。当時の、日本には麻薬販売以外、主立った金になる産業を持っていなかったのである。
 もう一度書くが、後藤新平・二反長音蔵・里見甫・岸信介が、戦前の大日本帝国の最大級の資金源となった麻薬販売の仕掛け人である。

 本当にひどい目に遭って馬鹿を見たのは、満蒙開拓のバラ色の未来を聞かされて、貧しい内陸部の寒村から満州に移民して、命からがら逃げ帰った人々で、27万人中、戦争に巻き込まれて死んだ人々が三万人、病気と飢えで死んだ人が21万人と、生き残って日本に帰還できたのは数万人しかいなかった。
 読書開拓団の人々は、帰還してみたら、自分の故郷がダム湖の下に沈んでいるという残酷な現実をも味わうことになった。
 それは、全国で起きていた。

https://www.sankei.com/life/news/170815/lif1708150012-n1.html

  http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 戦前、「昭和恐慌」というニューデール大恐慌による派生恐慌が起きていて、世界はブロック経済に進み、有効な経済ブロックを持たない日本は、東アジア全土を支配下に置いて、日本ブロックを作る目的で、帝国主義侵略を開始したのだが、その最大の失敗例が満州国だったといってもよい。
 そもそも、健全な生産手段を放棄して、麻薬による権益を確立しようとした日本政府が、まともな農業国を生み出せるはずがなかったのだ。

 満州国は、日本人のうちでも、秦氏末裔、天皇家や武家子孫など騎馬民族の末裔たちの先祖地であり、女真族(満州族)は、日本人と同族といってもよいほどだ。
 あまりにも日本人と同じなので、満蒙開拓団が子供たちを現地に置き去りにせざるを得ないよう追い込まれても、現地の満州族は、まったく同じ形質を持った日本人の子供たちを違和感なく育てることができたのである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html

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歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「清朝の最盛期第六代乾隆帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=av0eVeXxSsA

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「第七代嘉慶帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6Gkih3r_LFg


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Pn6mzjLpiLA


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cBqwC5moJS0


皇帝たちの中国「清朝最後の皇帝溥儀」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qn5Z3Bs_xD8


特別番組「満洲国から見た近現代史の真実」
宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら・4月13日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=90Py-KyxCXg


歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90++%E6%BA%80%E5%B7%9E  

173. 中川隆[-9587] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:06:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2887] 報告

「天皇主義者」宣言について聞く――統治のための擬制と犠牲 - 内田樹の研究室 2018-07-22


『福音と世界』8月号に天皇制についてのインタビューが掲載された。

キリスト教系の月刊誌なので、当然天皇制については批判的である。そこにレヴィナスの時間論を連載しているわけなので、「天皇主義者」を名乗った真意はいずくにありやということでロングインタビューを受けることになった。かなり手厳しく問われたけれど、これくらい攻めてもらった方が僕の真意は伝わりやすいかもしれないと思う。


以下本文

2016年8月、平成天皇はいわゆる「おことば」を発表し、高齢のため「象徴天皇」としての務めを担うことが難しくなっている旨を述べた。これを受けて本誌で「レヴィナスの時間論」を連載中の内田樹氏(武道家、哲学者)は、この「おことば」が「象徴天皇」の役割をはっきりと述べた画期的なものであると高く評価し、現在の日本で象徴天皇制は「統治システム」として非常によく機能していると考えるに至った、と表明した(「私が天皇主義者になったわけ」『月刊日本』2017年5月号。同誌公式ブログ、内田氏の公式HPにも掲載)。本誌ではこの「天皇主義者」宣言についてさらに深く聞くべく、内田氏にインタビューをした。

1.フィクションとしての国家と天皇制

――「天皇主義者」宣言における内田さんの要点のひとつは、かつては両立し得ないと思っていた立憲民主制と天皇制が両立すると考えるに至った、という点にあると思います。すなわち「祭祀にかかわる天皇」と「軍事にかかわる世俗権力者」という「二つの焦点」をもった楕円形の統治システムが望ましいとして、天皇制を肯定・評価した点にあると思うのですが。

内田 最初に確認しておきたいのは「国民国家も天皇制も政治的なフィクションだ」ということです。国家とか民族とか人種とか、そういうものはすべて擬制であり幻想であると僕は考えています。それが前提です。でも、それらの幻想は厳然と存在しており、現実に活発に機能している。そうである以上、それらの政治的幻想の働きを勘定に入れて現実を分析し、できること、なすべきことについて実践的に考えるほかない。僕はそういうプラグマティックな立場です。

あるべき国の形とか、あるべき天皇制といった理念が事前にあって、それに向けて現実を解釈したり、現実を修正するということを僕はしません。逆です。所与の現実から出発する。どのような歴史的経緯でこのような現実が出来したのか、この現実のどこが修正可能・加工可能なのか、どこは手を着けられないのか、どこをどう補正すればこの社会が少しでも暮らしやすいものになるのか、そういうことを考える。

今回「天皇主義者」という名乗りをしたのは(実際に「天皇主義者」と言葉を使ったのはインタビュアーの方なんですけれど)、僕が「天皇主義者」だと名乗ることがきっかけになって天皇制という難問について日本国民が考え始めてくれることを期待したからです。

天皇制が日本国憲法内部のシステムである限り、僕たちは主権者として、それがどのようなものであるべきかについて発言する権利があり、義務がある。誰かが僕たちに代わって考えてくれたり、決定してくれたりするものではないというのが僕の考えです。

――つまり天皇が祖霊の祭祀と国民の安寧を祈る「霊的行為」を担っていて、そのもとに集う国民が「霊的な共同体」であるというのも、内田さんが提案するフィクションだということですね?

内田 そうです。

――なるほど。ただそういうフィクションが本当にうまくいくのかという懸念は出てきます。たとえばキリスト教では、霊的な共同体としての教会と世俗の統治機構である国家との関係は常に問題になってきました。そしてひと言でいえば、国家は教会になってはいけないし、教会は国家になってはいけないという原則に至っています。しかし内田さんのように象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見出し、天皇を「霊的な存在」であり、国や国民はそのもとに「統合」される「霊的な共同体」であると考えると、国家と「天皇教」のようなものがぴったり重なってしまわないでしょうか。

内田「天皇教」という宗教体系は存在しないと思います。天皇制それ自体にははっきりした宗教性がないですから。現に、古来、天皇や皇族が出家して、さまざまな宗派の門跡となっていますし、天皇家の墓陵のいくつかは今も寺院の中にあります。美智子妃はミッションスクールのご出身ですから、陛下もキリスト教的なものの考え方に親しんでおられる。日本国民がこれだけ多様な宗教的立場にばらけている以上、陛下ご自身が特定の宗教の信者であるということはできないでしょう。ご自身もさまざまな宗教立場を広く受け容れられるように努められていると思います。陛下はとりわけキリスト教に親近感を覚えていると僕は考えています。

皇室の方たちは選挙権や被選挙権を持たず、言論の自由や移動の自由、職業選択の自由など基本的人権を制約された例外的な存在です。でも、おそらく陛下はそのような「犠牲者」がいてはじめて共同体が存立するというふうに考えておられる。一人が自己利益を断念して、犠牲になることによって共同体が成立するという発想はすぐれてキリスト教的な発想です。今の陛下が戦後七十数年考えて作り上げた「祈る人」という象徴天皇像にはいくぶんかキリスト教的なアイディアが入っていると思います。だから、日本のキリスト教徒は陛下に対してもっと親近感を感じてもいいんじゃないかと思いますけど。

――ただ、内田さんが今上天皇に見出している象徴天皇像はあくまでも彼個人のものではないのですか。天皇が変わればその天皇理解も変わるはずです。内田さんが「自分は天皇主義者だ」と表明されるとき、それは今上天皇個人を支持するという意味なのか、それとも天皇がどのような人物であろうとも天皇制という制度自体を支持するという意味なのか、どちらなのでしょうか。

内田 厳しい質問ですね。今の天皇制はうまく働いていると僕は思いますけれど、たしかにご指摘の通り、それが今上天皇の属人的な資質によるのか、制度そのものの手柄なのかはにわかには断定しがたい。でも、天皇制を天皇の属人的資質を捨象して、純粋な制度として抜き出して論じるということはできないと思うんです。

近代天皇制はそれ以前の天皇制とまったく別物です。まして日本国憲法下の天皇制になると昭和と今上の二代の事例しかない。それだけのサンプル数で「天皇制とは何か」を人的要素抜きの制度として論じることは不可能だと思います。

確かに天皇陛下と皇太子殿下のお二人は、天皇制と立憲デモクラシーをどう共生させるかについて熟慮されていると思います。でも、その先はどうなのか。その次の天皇たちもこのお二人と同じように立憲デモクラシーと天皇制の共生に配慮するか問われたら、「わからない」と答えるしかない。ほんとうにわからないんですから。
でも、現実に憲法下のシステムとして天皇制がある以上、それをどういうかたちのものとして機能させるかは、皇室の方々を含めて、国民全員で考えるしかない。とりあえず当代と次代については、幸いにも天皇制と立憲デモクラシーの共生を配慮する「明君」に僕たちは恵まれた。ですから、あと何十年かは天皇制が「暴走」するリスクは考えなくてもよい。その間に象徴天皇制と立憲デモクラシーをどう整合させるか、この二つの相容れざる政治原理をどう共生させるか、その仕組みを考える時間は十分にあると思います。

――そうやって日本の統治システムを考えていく際に、天皇制なしの共和国というあり方は選択肢にならないでしょうか。

内田 天皇制を排除した統治システムを構想することは現実的には不可能だと思います。改憲して、天皇に関する条項をすべて削除しようと提案をする政党が出て来たとして、その提案が国民の過半数の賛成を得ることはないと僕は思います。

そもそもモデルとすべき「成功した共和制政体」を僕たちは知りません。アメリカをモデルにしたらいいのか、フランスやドイツをモデルにしたらいいのか。それらの国の統治形態が「理想的」だと言い切ることができるのか。僕にはできません。
僕自身は欧米における共和制の登場には歴史的必然性があると思っています。でも、日本には天皇制がある以上、日本の場合は、それを所与の条件として勘定に入れなければならない。

となると、どうすれば共和政と天皇制という二つの異なる統治原理が併存できるのかを考える、二つの異なる統治原理が併存していることから引き出せるメリットを最大化するためにはどうすればいいのかを考える。その方が時間の使い方としては合理的だと思います。

僕は異なる統治原理が併存しているシステムは、焦点が二つある楕円のようなもので、単一原理で統合された同心円的な統治形態よりも自由度が高く、共同体が生き延びる上では有効ではないかと思っています。


2.象徴としての天皇はどうあるべきか

――次に内田さんが象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見ていることについて、もう少し伺いたいと思います。昭和天皇の戦争責任を考えれば、同じ「天皇」である平成天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか。

内田 そうですね、そういう感じ方をする人も当然いると思います。どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ませんから。一〇〇パーセントの国民的合意は求めるべきではありません。すべての統治システムはどこかに欠点を抱えている。だから、そこそこ機能すれば合格点だと思っています。
天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる。いて当然です。全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない。そもそも、全国民が賛同しなければ機能しないような統治システムなら、それは制度設計そのものが間違っているということです。大方の人が「同じくらいに不満足」であるシステムが実現できたら、それで上出来だと思います。

――現時点ではそのツールとして天皇制が一番ふさわしいということですか。

内田 一番ふさわしいも何も、「手持ち」のリソースしか僕たちは使えない。天皇制以外の仕組みをどこかから取り寄せて、アッセンブリーごと取り替えることが可能なら、「どういうシステムがいいだろう」という議論もありうるでしょうけれど、天皇制は日本の統治機構にすでにビルトインされていて、取り外し不可能なわけです。取り外し不可能である以上、どうすればそれが最高のパフォーマンスを発揮するのかを考えるしかない。

――天皇の「鎮魂」に関しては、もうひとつ懸念があります。「鎮魂」をするということは一人一人の死の意味付けをしていくことだと思いますが、それは国家の一部としての天皇がすべきことではないと思うんです。鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないかと。

内田 陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います。2年前にフィリピン訪問の時の「おことば」では、「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」とまずフィリピンの犠牲者たちへの弔意を示された。陛下は日本国民だけでなく、戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈るということを意識的にされていると思います。

だから、今の安倍政権は本音では、陛下が東アジアのかつての戦地を訪れて、現地の被害者にお詫びをするようなことはしてもらいたくないんじゃないですか。彼らがしようとしているのは実質的には象徴天皇制の空洞化です。天皇を単なる記号にしたいと思っている。日本会議や神道政治連盟がめざしているのは天皇制の空洞化です。「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。

――そこに危機感を覚えておられるわけですね。ただ、原則的に象徴天皇は単なる記号であるべきという考え方もありますね。

内田 いや、もし天皇が単なる記号であったら、むしろ政治家たちはあらゆる手立てを駆使して「天皇という記号」を私的な目的達成のために利用しようとするはずです。それは維新のときに天皇を「玉」と呼んだ官軍や、二・二六事件の青年将校たちの天皇批判や、終戦時の宮城事件の「國體護持派」の思想からも知られます。あのような「暴走」事例を知っている以上、天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだと僕は思います。天皇が生身の人間であり、傷つく心と身体を持っているという事実がむしろ政治的暴走を抑制できる。僕はそう思います。

――しかしそうすると、天皇制がどう機能するかがその時々の天皇の人間性に左右されてしまいませんか。

内田 そうです。でも、天皇の属人的な要素が強く働く方が、天皇が内閣が振り付けたこと以外何もしない、何もできない記号的な存在であるより、政治的混乱を招くリスクが少ないと僕は考えています。

繰り返し言うように、天皇制は一つのリアルな政治的装置です。うまくゆかない点が出てきたら、どうすればいいか国民的に議論して、そのつど適切な対応を取ればいい。完全なものを作って、後は手を触れないということではなくて、そのつどの現実的問題に合わせて調整してゆけばいい。どんな政治的制度ももとは人間が考え出したものです。それをどう工夫して、良い結果を出すか、それだけが重要なのです。どれほど見事な制度を設計してみても、実際に使うのは人間です。制度を働かせるためには人間の弱さや愚かさや頑なさを勘定に入れなければならない。どんな合理的な制度でも、人間がそれを受け入れてくれないと機能しないからです。その意味では、すべての制度は半分生き物、半分機械の「バイオメカノイド」のようなものです。どれほど合理的なアイディアでも「受肉」しなければ空論に終わる。逆に、どれほど非合理的、空想的な理念でも、人間がそこに生気を吹き込めば働く。


3.対抗言説としての「天皇主義者」宣言?

――今も述べられたように、内田さんは安倍政権や日本会議への危機感を強く感じておられて、彼らがツールとして天皇制を用いることを危惧している。そして、同じ天皇制というツールを用いて彼らに対抗しようとしているように見えるのですが。

内田 厳しいご指摘ですね。でも、その通りです。もともと、僕は天皇制のことを主題的に考えたことなんかなかった。でも、安倍政権になって、これはまずいと思い出した。極右の人たちが天皇制を党派的に利用するのを手をつかねて見ているわけにはゆかない。天皇制を左翼・リベラルの側にとっても緊急な政治的論件として「とりもどす」必要があると思った。そういう現実的な文脈の中の発言ですから、「あなたも天皇制をツールとして利用しているのではないか」と言われたら、反論できません。

ただ、僕にはその「犯意」と「病識」がある。正義や真理を語っているわけではなく、「日本社会はどうすればもう少し暮らしやすいところになるか」という具体的で限定的な目標を実現するためにやっているという自覚がある。それでご勘弁頂きたいです。

例えば、今改憲の動きがありますけれど、最終的に改憲を防ぐのは国内における護憲運動ではなくて、ホワイトハウスと天皇ではないのかという気が僕にはするんです。まことに皮肉なことですけれど、日本の立憲デモクラシーはそれほどに脆弱な制度だということです。護憲の最後の砦が、憲法尊重擁護義務を粛々と果たしている天皇陛下であるという事実一つをとっても、天皇制の問題は左翼・リベラルにとって他人事では済まされないはずなんです。でも、日本の左翼は天皇制をどう「よきもの」として活用するかという問いについてはかつて一度も真剣に考えたことがなかった。旧弊な因習なんだから廃止すればいいという原則的なことを言ってきただけです。天皇制を功利的に活用する手立てについて経験知を積んでいるのはもっぱら政権サイドの方です。

僕自身は天皇制を「ツール」だとは思っていない。「リソース」だと考えています。国民を統合し、国力を賦活させるための効果的なリソースだと思っています。ですから、僕の「天皇主義者宣言」というのはあくまで政治的なふるまいであって、信仰告白ではないんです。

――では、内田さん自身は天皇に対する敬虔な気持ちや忠誠心のようなものは実際にはないということですか?

内田 個人的には崇敬の気持はありますよ。陛下の近くにいた人たちにうかがうと、みなさん「陛下はよい方で・・・」としみじみ言われますから。そういう人たちが口にする「へいか」という音はとても柔らかいんです。政治家たちが「陛下」という言葉を使う時はあきらかに天皇の権威を利用して人を威圧しようする意図が見透かせるんですけど。

前に皇居のお掃除に行った青年から聞いたんですけれど、清掃奉仕をしていると両陛下がいらして「ご苦労さまです」と深々と頭を下げるそうなんです。その若者はその時「首相のために死ぬ気にはなれないけれど、陛下のためなら死ねる」と思ったそうです。若い人でもそういう感慨を抱くことがある。でも、それは必ずしも政権主導のイデオロギー教育のせいじゃないと思います。もっと素朴で、自然な感情だろうと思います。そういう感情を「政治的リアリティー」として勘定に入れる必要があるということを僕は申し上げているのです。

「陛下のためなら死んでもいい」と感じた彼にとって、天皇陛下という存在は、具体的に目に見える、手に触れられるたぶん唯一の公共的なものなんです。国家にも政府にも、さしあたりリアルな公共性を感じられない。でも、彼にとって、天皇は生身の、目に見える公共性だったわけです。

公共的なものとつながりを持ちたい、自分の個人の努力と国運をリンクさせたいという願いを抱いている今も若者はたくさんいると思います。そういう人たちがネトウヨに走ったりする。でも、公共的なものは他にもあると僕は言いたいわけです。

――なるほど。ただ、たとえばネトウヨの悪質さのひとつはその強いレイシズムです。そして天皇制というシステムこそが民族主義的な発想を強めて、「純粋な日本民族」といった幻想を作り出している面もあるのではないでしょうか。

内田 そういう危険性はあるでしょう。現にかつて天皇制の名において人種差別的・排外主義的な政治が行われてきたという歴史的事実があるわけですから。でも、今のネトウヨの人たちは自分たちのレイシスト的言動の保証人に天皇を呼び出したりはしませんよ。彼らの政治的正しさの保証人は安倍首相ですから。

――ネット上では日本の皇族(天皇家)が世界の皇族の中で一番歴史が古くて純粋な血を守ってきた、だから高貴なのだという言説を見かけることもありますが。

内田 それは言ってる人間が自分の政治的立場を強化するために思いついた確信犯的な嘘です。そんなプロパガンダの製造責任を天皇におしつけては陛下がお気の毒ですよ。

――けれど世襲制度を取る限り、そういう「純血」の発想を支えてしまう危険はあると思うんですが。そもそも特定の血筋の人を「高貴」として民衆の上に置く天皇制は「人は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利について平等である」という世界人権憲章の原則に反していませんか。

内田 平等を目指すのは正しいことだと思います。けれども、僕は「高貴さ」(ノブレス)というものもまたなくては済まされないと思っています。マルクスは、すべての人間が自由に自己利益を追求できる社会をめざす戦いを先導したのは「自己利益の追求を断念して、大義のために死ぬ」ことを決断した非利己的な人たちだったという逆説について書いています。人は誰も平等であるべきです。けれども、その理想を実現するためには「自分には他の人よりも多くの責務がある」という自覚を持つ人間が要る。貴賤の差のない世界を実現するためには「ノブレス・オブリージュ(高貴であることの責務)」を感じる人が要る。自分には他の人より多くの責務があると感じる人がいなければ、この社会を住みやすいものにすることはできません。

――最後にもうひとつ。今までお話を伺って、内田さんが完成された完璧な統治システムなど存在しないという前提のもと、より「ベター」な統治の方法を継続的に探していこうという姿勢を保っておられることがわかりましたが、「統治」や「統合」はやはりどうしても必要なのでしょうか? 本誌では次号でアナキズム特集をする予定なので、お聞きしたいと思います。

内田 僕の抱く「統合」のイメージは中枢的・同心円的なものではありません。サイズも機能も異なる無数の共同体がネットワークでつながっていて、相互扶助・相互支援する仕組みを僕はイメージしています。でも、地球に住む七〇億人をカバーする相互扶助ネットワークというのは、さすがには設計不能なんです。どこかで境界線を引いて、「こっちは身内。あっちは他人」という切ない区切りをしなければならない。それが相互扶助ネットワーク理論のはらむ根本的な背理なんです。どこかで「ここまで」という区切りをしないと、限りあるリソースを有効に分配してゆくことができない。でも、そのことについて一抹の「疚しさ」を覚える。そういうことしかできないんじゃないかと思います。

北欧国々は、どこも社会福祉が行き届いて、相互支援の仕組みがしっかりしています。でも、それはどこも小国ですよね。日本の県ほどの人口数です。それくらいのサイズだと、自分たちがどれほどの可処分リソースを持っているのか、それがどう配分されて、どういう成果をもたらしたかを可視化できる。

「身内」の範囲が狭いほど相互支援はこまやかで密になる。それは当たり前のことなんです。住みやすい社会は「身内」の数を限定することで実現されている。でも、そのことについて、受益者はいくばくかの「疚しさ」を感じることが必要だ、と。そう申し上げているのです。

僕はアナキズムも大好きです。クロポトキンの『相互扶助論』なんか読んでると「いい人だな、身近にいたら友達になって、一緒に革命やりたいなあ」と思います。でも、アナキストたちは、人間は本質的に善であり合理的に思考するという「性善説」に立ちます。だから、ことごとく失敗した。国家サイズの統治システムの管理運営のためにはどこかで「非人情」に切り替える必要がある。クロポトキンやロバート・オーウェンが目指したような手触りの優しい相互扶助的な共同体を作りたいと思ったら、せいぜい数千人規模の共同体で満足するしかない。国家的規模で「よいこと」を達成しようとしたら、マキャヴェリのような「性悪説」に基づく、政治的狡猾さを駆使するしかない。

真率な惻隠の情に基づいて制度を考案し、人間の醜さ、愚かさ、邪悪さを勘定に入れてその制度を冷徹に運営する。その葛藤につねに引き裂かれているもの、それが政治的人間だと僕は思っています。

――その戦略のひとつとして今回の「天皇主義者」宣言があるわけですね。お聞きしたいことは尽きませんが、内田さんのひとつの提起を受けて私たちそれぞれが天皇制について、国家について、さらにそれを超える枠組みについて考え、応答していくことができればと思います。今日はありがとうございました。
(2018-07-22 15:45)
http://blog.tatsuru.com/2018/07/22_1545.html


▲△▽▼


2018-08-07
内田樹氏が「天皇主義者」となった理由を聞いて、天皇制を許してはならないという確信がさらに強くなった。


自ら「天皇主義者」であると宣言した思想家・内田樹氏が、キリスト教系の月刊誌『福音と世界』で、そのように宣言した意図についてインタビューを受けている。(以下、内田氏のブログに転載されたもの[1]から引用する。)

「天皇主義者」と自称してはいても、氏はもちろん戦前のような天皇絶対の国家体制を支持しているわけではない。そうではなくて、氏は、所詮天皇制は政治的フィクションであることを認めた上で、戦後日本の象徴天皇制は「統治システム」として非常によく機能しており、これを現代日本社会を「より暮らしやすいものにしていく」ためのリソースとして活用していくべきだと提言しているのだ。

■ 「焦点が二つある」統治システムが「土建国家」ニッポンを作った

まず、内田氏は、象徴天皇制を持つ現代日本の国家体制を、「天皇」と「世俗権力者」という「二つの焦点」を持った体制だと捉え、それがこの国の「統治システム」として望ましい形なのだと言う。


1.フィクションとしての国家と天皇制

――「天皇主義者」宣言における内田さんの要点のひとつは、かつては両立し得ないと思っていた立憲民主制と天皇制が両立すると考えるに至った、という点にあると思います。すなわち「祭祀にかかわる天皇」と「軍事にかかわる世俗権力者」という「二つの焦点」をもった楕円形の統治システムが望ましいとして、天皇制を肯定・評価した点にあると思うのですが。

内田 最初に確認しておきたいのは「国民国家も天皇制も政治的なフィクションだ」ということです。国家とか民族とか人種とか、そういうものはすべて擬制であり幻想であると僕は考えています。それが前提です。でも、それらの幻想は厳然と存在しており、現実に活発に機能している。そうである以上、それらの政治的幻想の働きを勘定に入れて現実を分析し、できること、なすべきことについて実践的に考えるほかない。僕はそういうプラグマティックな立場です。
あるべき国の形とか、あるべき天皇制といった理念が事前にあって、それに向けて現実を解釈したり、現実を修正するということを僕はしません。逆です。所与の現実から出発する。どのような歴史的経緯でこのような現実が出来したのか、この現実のどこが修正可能・加工可能なのか、どこは手を着けられないのか、どこをどう補正すればこの社会が少しでも暮らしやすいものになるのか、そういうことを考える。
(略)
――なるほど。ただそういうフィクションが本当にうまくいくのかという懸念は出てきます。たとえばキリスト教では、霊的な共同体としての教会と世俗の統治機構である国家との関係は常に問題になってきました。(略)しかし内田さんのように象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見出し、天皇を「霊的な存在」であり、国や国民はそのもとに「統合」される「霊的な共同体」であると考えると、国家と「天皇教」のようなものがぴったり重なってしまわないでしょうか。

内田 (略) 皇室の方たちは選挙権や被選挙権を持たず、言論の自由や移動の自由、職業選択の自由など基本的人権を制約された例外的な存在です。でも、おそらく陛下はそのような「犠牲者」がいてはじめて共同体が存立するというふうに考えておられる。一人が自己利益を断念して、犠牲になることによって共同体が成立するという発想はすぐれてキリスト教的な発想です。今の陛下が戦後七十数年考えて作り上げた「祈る人」という象徴天皇像にはいくぶんかキリスト教的なアイディアが入っていると思います。だから、日本のキリスト教徒は陛下に対してもっと親近感を感じてもいいんじゃないかと思いますけど。
(略)
――そうやって日本の統治システムを考えていく際に、天皇制なしの共和国というあり方は選択肢にならないでしょうか。

内田 天皇制を排除した統治システムを構想することは現実的には不可能だと思います。改憲して、天皇に関する条項をすべて削除しようと提案をする政党が出て来たとして、その提案が国民の過半数の賛成を得ることはないと僕は思います。
(略)
僕自身は欧米における共和制の登場には歴史的必然性があると思っています。でも、日本には天皇制がある以上、日本の場合は、それを所与の条件として勘定に入れなければならない。
となると、どうすれば共和政と天皇制という二つの異なる統治原理が併存できるのかを考える、二つの異なる統治原理が併存していることから引き出せるメリットを最大化するためにはどうすればいいのかを考える。その方が時間の使い方としては合理的だと思います。
僕は異なる統治原理が併存しているシステムは、焦点が二つある楕円のようなもので、単一原理で統合された同心円的な統治形態よりも自由度が高く、共同体が生き延びる上では有効ではないかと思っています。

内田氏はこう言うが、戦後日本がほぼ一貫して「土建国家」と呼ばれるような露骨な利益誘導型政治に支配されてきたのは、この国が、世俗権力者と天皇という「焦点が二つある」政治体制をとってきたからだ。

これは以前から辛淑玉さんが指摘している[2]ことなのだが、日本では、政治指導者に求められる「父親」のイメージが、天皇と世俗の政治家の二つに分裂してしまっている。

清く正しく慈愛あふれる父親役は「国民統合の象徴」たる天皇が一手に引き受ける。そしてその分だけ、現実に権力を握る政治家たちは建前や綺麗事など気にしなくてもよくなっていく。要するに、天皇がいるおかげで、日本の政治家には清廉さや公正さは要求されない。汚いことでも何でもして、とにかく金を取ってくる「オヤジ」であればいいのだ。

もちろん、天皇がいくら気高く公正に振る舞っても、「国政に関する権能を有しない(憲法第4条)」以上、それが現実の政策に反映されることはない。むしろ、天皇が「立派」であればあるほど、現実政治はその逆を行くことが容易になる。この点、自分の名のもとに始めた戦争で「臣民」を三百万人も殺した先代と違って、脛に傷がなく、しかもリベラルで開明的と見られている現天皇がいる今は、先代の時代以上に倫理もへったくれもない政治屋連中がはびこる条件が整っていると言えるだろう。もちろんその代表格が安倍や麻生である。

■ 天皇による「鎮魂」と「慰藉」は政治責任逃れのトリック

ついで内田氏は、戦争による死者の「鎮魂」と「慰藉」こそが、象徴天皇が果たすべき役割なのだと言う。


2.象徴としての天皇はどうあるべきか

――次に内田さんが象徴天皇の役割を死者の「鎮魂」と「慰藉」に見ていることについて、もう少し伺いたいと思います。昭和天皇の戦争責任を考えれば、同じ「天皇」である平成天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか。

内田 そうですね、そういう感じ方をする人も当然いると思います。どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ませんから。一〇〇パーセントの国民的合意は求めるべきではありません。すべての統治システムはどこかに欠点を抱えている。だから、そこそこ機能すれば合格点だと思っています。
天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる。いて当然です。全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない。そもそも、全国民が賛同しなければ機能しないような統治システムなら、それは制度設計そのものが間違っているということです。大方の人が「同じくらいに不満足」であるシステムが実現できたら、それで上出来だと思います。
(略)

――天皇の「鎮魂」に関しては、もうひとつ懸念があります。「鎮魂」をするということは一人一人の死の意味付けをしていくことだと思いますが、それは国家の一部としての天皇がすべきことではないと思うんです。鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないかと。

内田 陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います。2年前にフィリピン訪問の時の「おことば」では、「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」とまずフィリピンの犠牲者たちへの弔意を示された。陛下は日本国民だけでなく、戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈るということを意識的にされていると思います。

だが、ここにはいくつもの論理のすり替えがある。

まず、「天皇に戦争で犠牲となった人々の「鎮魂」や「慰藉」などしてもらいたくない、と感じる人もいるのではないか」(もちろんそう感じる人はたくさんいる)という個別具体的な問いに対して、内田氏は「どんなシステムも政策も国民全員が賛同するということはあり得ません」と、一般論に逃げている。そして、「天皇制についても、立憲デモクラシーについても「そういうのはいやだ」という考え方をする人たちがいる」「全国民が同じ政治的意識を持ち、同じ統治形態を支持するようなことはもとより期待できないし、期待すべきでもない」と、まるで体制選択の問題を議論しているかのように話をすり替えている。要するに、氏はこの問いには答えられないのだ。

また内田氏は、天皇は「鎮魂というより、戦争で命を奪われた人々に対する謝罪をすべきなのではないか」という問いに、「陛下は戦争で死んだすべての人の鎮魂をされていると思います」と答えているのだが、言うまでもなく、「鎮魂ではなく謝罪すべきだ」という問いかけに「いや、鎮魂していますよ」では答えになっていない。ここで内田氏が例に出しているフィリピン訪問時の天皇の「おことば」も謝罪ではない。「先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」というこの発言では、誰が、なぜ「膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲に」なるような悲惨事を引き起こしたのか、まったく触れられていない。罪の存在自体を認めていない発言は謝罪ではありえない。ここで天皇はただ、まるで他人事のように「戦争によって傷ついたすべての人の魂の平安を祈」ってみせているだけである。

天皇による死者の「鎮魂」や「慰藉」は、その死者に対して負うべき国家責任をうやむやにするトリックでしかない。

■ 天皇は徹底的に「記号化」されるべき

さらに内田氏は、天皇制の空洞化、記号化こそが危険であり、暴走を防ぐためには「天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだ」と主張する。


だから、今の安倍政権は本音では、陛下が東アジアのかつての戦地を訪れて、現地の被害者にお詫びをするようなことはしてもらいたくないんじゃないですか。彼らがしようとしているのは実質的には象徴天皇制の空洞化です。天皇を単なる記号にしたいと思っている。日本会議や神道政治連盟がめざしているのは天皇制の空洞化です。「恐れ多くも畏きあたりにおかれては」という文句を恫喝の道具として使って、反対者を黙らせようとしている。

――そこに危機感を覚えておられるわけですね。ただ、原則的に象徴天皇は単なる記号であるべきという考え方もありますね。

内田 いや、もし天皇が単なる記号であったら、むしろ政治家たちはあらゆる手立てを駆使して「天皇という記号」を私的な目的達成のために利用しようとするはずです。それは維新のときに天皇を「玉」と呼んだ官軍や、二・二六事件の青年将校たちの天皇批判や、終戦時の宮城事件の「國體護持派」の思想からも知られます。あのような「暴走」事例を知っている以上、天皇が自分の個人的な所感を発言する機会は絶対に担保されるべきだと僕は思います。天皇が生身の人間であり、傷つく心と身体を持っているという事実がむしろ政治的暴走を抑制できる。僕はそう思います。

――しかしそうすると、天皇制がどう機能するかがその時々の天皇の人間性に左右されてしまいませんか。

内田 そうです。でも、天皇の属人的な要素が強く働く方が、天皇が内閣が振り付けたこと以外何もしない、何もできない記号的な存在であるより、政治的混乱を招くリスクが少ないと僕は考えています。
繰り返し言うように、天皇制は一つのリアルな政治的装置です。うまくゆかない点が出てきたら、どうすればいいか国民的に議論して、そのつど適切な対応を取ればいい。完全なものを作って、後は手を触れないということではなくて、そのつどの現実的問題に合わせて調整してゆけばいい。どんな政治的制度ももとは人間が考え出したものです。それをどう工夫して、良い結果を出すか、それだけが重要なのです。(略)どれほど合理的なアイディアでも「受肉」しなければ空論に終わる。逆に、どれほど非合理的、空想的な理念でも、人間がそこに生気を吹き込めば働く。

だが、天皇制が最悪の形で暴走したあの時代、天皇裕仁は単なる記号だったのか? むしろ能動的に政治状況に関わり、何度となく「思し召し」を表明し、しばしば事態の推移に決定的な影響を与えていたではないか。裕仁という存在自体が内田氏の主張への巨大な反証と言えるだろう。

現実は逆なのだ。天皇が内閣の振り付けで踊らされ、暴走の道具とされるのを防ぐには、憲法第4条の規定を厳密に守り、天皇には憲法が規定する国事行為以外一切何もさせなければよい。天皇の徹底的な記号化こそが暴発を防ぐ(現憲法を前提とした制約下での)最良の安全弁なのだ。

■ 逆立ちした議論になるのは統治者目線に立っているから

ところで、私がこのインタビューを読んで一番呆れてしまったのは次の一節だ。


――では、内田さん自身は天皇に対する敬虔な気持ちや忠誠心のようなものは実際にはないということですか?

内田 個人的には崇敬の気持はありますよ。陛下の近くにいた人たちにうかがうと、みなさん「陛下はよい方で・・・」としみじみ言われますから。そういう人たちが口にする「へいか」という音はとても柔らかいんです。政治家たちが「陛下」という言葉を使う時はあきらかに天皇の権威を利用して人を威圧しようする意図が見透かせるんですけど。
前に皇居のお掃除に行った青年から聞いたんですけれど、清掃奉仕をしていると両陛下がいらして「ご苦労さまです」と深々と頭を下げるそうなんです。その若者はその時「首相のために死ぬ気にはなれないけれど、陛下のためなら死ねる」と思ったそうです。若い人でもそういう感慨を抱くことがある。でも、それは必ずしも政権主導のイデオロギー教育のせいじゃないと思います。もっと素朴で、自然な感情だろうと思います。そういう感情を「政治的リアリティー」として勘定に入れる必要があるということを僕は申し上げているのです。

「陛下のためなら死んでもいい」と感じた彼にとって、天皇陛下という存在は、具体的に目に見える、手に触れられるたぶん唯一の公共的なものなんです。国家にも政府にも、さしあたりリアルな公共性を感じられない。でも、彼にとって、天皇は生身の、目に見える公共性だったわけです。

公共的なものとつながりを持ちたい、自分の個人の努力と国運をリンクさせたいという願いを抱いている今も若者はたくさんいると思います。そういう人たちがネトウヨに走ったりする。でも、公共的なものは他にもあると僕は言いたいわけです。

冗談ではない。一人の青年を自発的に「清掃奉仕」などに向かわせ、そこで「ご苦労さまです」と頭を下げられたくらいで「陛下のためなら死ねる」などと思わせてしまう。これこそが天皇制の最も恐ろしい効果ではないか。先の戦争のときだって、東條英機や小磯国昭のために死ねるなどという青年がどれほどいたか。「天皇陛下の御為」だからこそ彼らは特攻機にも搭乗したのだ。

そんな天皇を、内田氏は「目に見える公共性」だと言ってしまうのだ。

どうしてこれほど転倒した議論になってしまうのか。それは多分、天皇制を「統治システム」として評価するという態度に現れているように、氏が結局のところ、この国を統治する側の立ち位置からものを見ているからだろう。

「天皇主義者」を自称する内田氏のインタビューを読んで、私には、天皇制を決して許してはならないという確信がますます強くなった。

[1] 『「天皇主義者」宣言について聞く――統治のための擬制と犠牲』 内田樹の研究室 2018/7/22
[2] 辛淑玉 『グー・チョキ・パーのてんのう制』 週刊金曜日 2010/4/30,5/7合併号

174. 中川隆[-9586] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:09:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2888] 報告

天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/16/165326


昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。

1.特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大

海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言われている。

しかし、フィリピン戦線における初期の特攻作戦の戦果を聞いた裕仁の反応は「よくやった」という「お褒めの言葉」だった。天皇に褒められた以上、止めるわけにはいかない。結果、特攻作戦は際限なく拡大していくことになる[1]。


 大西は、特攻でもフィリピンは防衛できないとわかっており、「戦争を止めるために特攻を進めた」という意味の証言も残っている。

 「万世一系仁慈を以て統治され給う天皇陛下は、この事を聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろう」と言い、さらに天皇のその意志表示で戦争が終わった場合「いかなる形の講和になろう共、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」(『修羅の翼』)と言っている。

 『修羅の翼』は、フィリピン戦線で特攻に出撃しながら生還した角田和男が小田原俊彦から大西の話を聞き回顧したものだ。

 伝聞証言である。いまとなっては、真偽を確かめるのは不可能だろう。しかしながら、前述の多田や新名の記録、大西自身の遺書などを照らし合わせると、大西が特攻による超物理的効果、「民族的な記憶」に貢献する効果をみていたことは、間違いないだろう。

 では、「特攻によって天皇は終戦に向かって動く」という期待はどうだったか。特攻の犠牲者が増えれば、天皇は終戦に向かって動く。大西は本当に、そんな期待をしていたのだろうか。だとすれば、その期待は叶わなかった。
(略)

 上聞とは、天皇に伝えるということだ。

 実際、天皇はフィリピン戦線での特攻をその直後から知っていた。「昭和天皇実録」によれば、天皇は前述の「敷島隊」の特攻について、その翌日、10月26日に報告を受けている。

(略)

 その点、『神風特別攻撃隊の記録』には、興味深い記述がある。敷島隊が戦果を挙げたあとの10月末、同隊の戦闘経過を聞いた天皇の「お言葉」が届いた。同書によれば、昭和天皇は及川軍令部総長にこう言った。「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」。天皇の「よくやった」という「お褒めの言葉」が、その後の特攻遂行のエネルギーとなったことは想像に難くない。

(略)

 「昭和天皇実録」には、天皇が特攻をどうみていたかをうかがわせる記述がある。

 1944年11月13日、梅津美治郎・参謀総長から戦況についての報告を受けた昭和天皇は「昨日のレイテ湾における陸軍特別攻撃隊万朶隊による戦果等を御嘉賞になる」と述べた。天皇はやはり特攻を「御嘉賞」、ほめ讃えていたのだ。

 『修羅の翼』が伝える大西の期待、特攻によって天皇が停戦に動くという期待は叶わなかった。

 それどころか天皇は喜んだ。となれば一度始まった特攻を中止することは大西といえども不可能であった。「特別攻撃」は通常の作戦となった。特別=異常が常態化したのである。

2.戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦

戦局が既に絶望的となっていた1945年2月、近衛文麿元首相が天皇に対し、ただちに終戦に踏み切るよう進言した。しかし、負けっぱなしのままで講和しては自分の立場が危うくなると恐れた裕仁はこれを拒否した[2]。


 45年に入って、戦局がますます絶望的な段階をむかえると、近衛は本格的な戦争終結工作に着手する。(略)

 ちょうどこの頃、天皇の周辺でも、なんらかのかたちで局面の転換をはかろうとする動きが具体化し、行きづまった戦局を打開するための方策について、天皇が重臣層から意見を聴取することが決まった。45年2月には、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東条英機、以上七人の重臣がおのおの天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏する。だが、このなかで明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは、やはり近衛だけだった。

 この上奏に際して近衛は、吉田茂と殖田俊吉の協力をえて長文の上奏文をあらかじめ作成し、それを天皇の前で読みあげている。よく知られているように、この上奏文のなかで近衛は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである。

この拒否の結果は、10万人以上の死者を出した3月10日の東京大空襲をはじめとする、戦略爆撃による全国焦土化であり、また日米軍民合わせて20万人以上、沖縄県民だけでも15万人が犠牲となった沖縄戦である。いつだって、権力者の保身のツケは人民が払わされる。

3.「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死

沖縄戦が始まり、日本本土への米軍上陸も間近という状況になると、海軍中枢部では、既に無用の長物と化していた大和に華々しい「死に場所」を与えるべきだ(オレは行かないけど)という意見と、そのような無意味かつ不合理な作戦を行うべきではないという意見が対立していた。

この対立状況に対して、軍のメンツを守るためだけの愚策を選ばせる強力な一押しとなったのが、「もう艦はないのか?」という天皇裕仁の「御下問」だった。

その結果、大和をはじめ10隻からなる艦隊が沖縄への「海上特攻」に出撃し、目的地にたどり着くこともできずに、実質わずか2時間程度の戦闘で約4千人が無意味に死んだ[3]。


 敗色濃厚となった1945年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸した。そこで大本営は、現地守備部隊である第32軍に、それまでの持久戦戦略から、積極的攻勢を強く命令した。その中には奪取された飛行場を取り返すことも含まれていた。よって、第32軍は7日に大規模な攻勢に出ることを決定する。

 大本営は、第32軍の攻勢を軸に「特攻」をメインとする、大規模な航空機による支援を決定する。そこで微妙な立場におかれたのが海軍である。神重徳大佐のような参謀たちが中心となり、部内を説得し、海軍も「海上特攻」部隊を派遣することが5日に慌しく決定された。

 このような海軍の動向には、昭和天皇の意向が反映されたといえる。昭和天皇は及川古志郎軍令部総長に対して「海軍にはもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と「御下問」があった。それを重く受け止めた軍令部総長が、指揮下にある聯合艦隊に対して部隊の派遣を求めた。豊田副武聯合艦隊司令長官は、大いに発奮し、その結果、5日に戦艦大和を旗艦として、軽巡洋艦矢矧ほか駆逐艦8隻を合流させて、第2艦隊として出撃させることになる。(略)結果として駆逐艦2隻のみが損害を受けつつ生き残る。

4.沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月)

戦後の日本支配に天皇制を利用できると踏んだアメリカのおかげで戦犯訴追を免れた裕仁は、戦後一貫して「恩人」アメリカに尻尾を振り続けた。中でもその卑劣さで抜きん出ているのが、国体(天皇制)を守るためにあれほどの犠牲を払った沖縄を自分からアメリカに売った「天皇メッセージ」だろう[4]。


 すでにその年(注:1947年)5月6日、天皇はマッカーサーに三度目の訪問をし、対日講和成立後「アメリカが撤退した場合誰が日本を守ることになるのか」と直接元帥に問い、自ら講和後の日本防衛問題への関心を見せていた。それに関連して9月19日、寺崎は、「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」としてシーボルトを訪ね、次のようなメッセージを与えた。

 「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭しロシアが“事件”を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているがゆえに、国民の広範な承認をかちうることができるだろう。

 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存リテインドさせた形で、長期ロング・タームの――25年から50年ないしそれ以上の――貸与リースをするという擬制フィクションの上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう」。

「日本国民統合の象徴」である天皇が、自国領土の一部を、その上に住んでいる「国民」も込みで、ずっと軍事占領し続けてくださいと自分からお願いしてきたのである。しかも、どうすれば軍事占領という実態を自国民および国際社会から隠せるかというアイデアまで付けて。

アメリカから見れば、これほど都合のいい提案はないだろう。その結果が30年近くにわたる軍政と、一歩間違えば沖縄を地球上から消し去っていたかもしれない核戦力の集中配備、そして「返還」後も広大な土地を占拠し続け、被害を与え続けている米軍基地である。

5.戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月)

1975年、裕仁は国賓として初めてアメリカを訪問し、ディズニーランドでミッキーマウスと一緒に歩き回ったり、動物園でコアラを眺めたりして、「平和主義者で無害な老君主」という(虚偽の)イメージを振りまいた。この旅の疲れで気がゆるんでいたのか、帰国後の記者会見で思わず本音が出てしまったのがこれである[5]。


 帰国後、天皇はテレビカメラも入った記者会見を受けた(10月31日)。そのとき一記者がすかさず、外国記者団やフォードに語ったことを踏まえた「適切でない」、わずらわしい質問をした。「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。

 天皇は顔をこわばらせて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。(略)

要するに、あの戦争に関して自分に責任があるなどとはつゆほども考えていないのだ。トップがこれでは下も責任など感じるはずがない。戦犯裁判で裁かれた者たちも「運が悪かっただけ」ということになる。裕仁こそがまさに無責任国家日本の生みの親と言えるだろう。

以上、時系列にそって並べてきたのだが、悪い順に並べようにも、いずれもクソすぎて順位がつけがたいというのが正直なところだ。

[1] 栗原俊雄 『特攻――戦争と日本人』 中公新書 2015年 P.84-87
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 P.21-22
[3] 佐藤宏治 『「男たちの大和」をめぐって――歴史学の視座から』 戦争責任研究 2007年夏号 P.76
[4] 進藤栄一 『分割された領土』 岩波書店 2002年 P.65-66
[5] ハーバート・ビックス 『昭和天皇(下)』 講談社学術文庫 2005年 P.388-389

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/16/165326

175. 中川隆[-9585] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2889] 報告

朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。

画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

176. 中川隆[-9584] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:22:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2890] 報告

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

177. 中川隆[-9583] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:29:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2891] 報告

戦争責任は他人から「言われるから」辛いという天皇裕仁の無責任 2018-08-29
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/29/225234


先日も昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」特集記事を書いたばかりだが、またこの人物の無自覚・無責任ぶりを示す新たな史料が出てきてしまった。

これは1974年から晩年まで侍従を勤めた故小林忍氏の日記で、共同通信が氏の遺族から日記を預かり、各紙でその内容が紹介されている。特に東京新聞は二日間に渡って特集を組み、半藤一利氏と保阪正康氏の対談まで載せている。

■ 他人から「言われるから」辛い戦争責任

この日記によると、裕仁は1987年4月、小林氏に次のように語ったという[1]。死去の2年前、85歳のときである。


「長く生きても戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩

 昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。 

 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。

 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。

東京新聞はまるで裕仁が晩年まで自己の戦争責任について苦悩していたかのように書いているが、冗談ではない。裕仁が「辛い」のは他人から「戦争責任のことを言われる」からであって、自己の負うべき重大な責任を自覚し、内発的に反省したからではない。

もちろん天皇裕仁には戦争責任がある。帝国陸海軍を統帥する大元帥として戦争を始めた当人にさえ戦争責任がないとしたらいったい誰にあるというのか。

敗戦後の裕仁は、その長い後半生を、いかにして戦犯訴追を回避し、自分の身の安全と地位の安泰を確保するかに費やしてきた。退位さえせずに済ませた裕仁はうまく逃げ切ったつもりだっただろうが、そうやって何十年も当然負うべき責任から逃げ続けたあげく、誰かから「天皇には戦争責任がある」と指摘される程度のことが辛いとは、どこまで甘えているのか。

■ 「国民はもう忘れたから気にするな」と天皇を「励ます」侍従

そしてある意味、この無反省な裕仁の泣き言以上にひどいのが、これを受けて小林侍従が天皇を励ましたという言葉だ。


 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。

この「励まし」ではまず、裕仁の命令で自国に押し入ってきた「皇軍」によって理不尽に殺され、強姦され、家族や財産を奪われた何千万というアジアの被害者の嘆きと恨みを「国民」の一言で切り捨てている。「日本国民統合の象徴」として安全な国内に収まっている天皇にとって、「国民ではない」被害者のことなどおよそ考える必要さえないということなのだろう。

もちろん、たとえ「国民」だけに限っても、南方のジャングルで補給もないまま見捨てられ餓死していった兵たちや、「天皇陛下の御為」と信じて敵艦に突っ込んでいった特攻隊員、「国体」を守るための沖縄戦で日本軍にガマ(洞窟)から追い出されて死んだ沖縄の人々、逃げずに火を消せと強いられて焼き殺された空襲被害者、さっさと逃げ出した「皇軍」に取り残されて地獄の逃避行を強いられた旧「満州」への入植者たちなど、天皇がその被害に責任を負うべき人々は何百万人もいる。

しかし、戦後政府とマスコミが総力をあげて続けてきた天皇免罪キャンペーンのおかげで、旧軍部はともかく天皇に戦争責任があると主張する真っ当な日本人は確かに限られていた。それをいいことに、戦争責任のことを言う者など少数だから気にするな、というのだ。

どこまでもトップの責任者に甘く、被害を末端に押し付けて恥じないこの国の支配層にふさわしい侍従発言である。

■ いまだに「大元帥」裕仁の責任を総括できないマスコミ

こんな無責任者とその追従者のやりとりを、「心奥触れる「昭和後半史」」だの、「晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている」だのと解説してみせるマスコミには、情けないとしか言いようがない。

リベラルとされる東京新聞ですらこうなのだ。あの破滅的敗戦から70年以上が経ってもその明白な最高責任者の責任さえ総括できないのでは、ありとあらゆる責任がなし崩しにうやむやにされ、何の反省もないままずるずる戦前へと回帰していくのは当然だろう。その行き着く先は、また同じ過ちの繰り返しである。

[1] 『昭和天皇85歳 大戦苦悩』 東京新聞 2018/8/23
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/29/225234

178. 中川隆[-9582] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2892] 報告

立憲君主制がファシズムの台頭を防ぐ?
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/16/134548

■ ドイツを立憲君主制にしておけばナチス台頭を防げたという説には根拠がない

東京新聞の「私説 論説室から」(5/27)にこんな話が載っていたのには驚いた。


プロイセンの君主制

 連載社説「天皇と憲法」で取材した君塚直隆・関東学院大教授は、立憲君主制が独裁者の出現を妨げる、と指摘する。プロイセン帝国崩壊後、ナチスが台頭した経緯は連載で紹介した通りだ。
(略)

 専制のイメージが強いプロイセンだが、治下ではベルリン大学が創設され、哲学者ヘーゲルの講義が評判を呼び欧州思想界に影響を広げた。新王宮内に設ける文化施設には、当時、海外に目を向けた言語学者、地理学者のフンボルト兄弟の名を冠するという。プロイセンの記憶は暗黒ではない。

 これに対し、プロイセン崩壊後もたらされたナチス、共産主義の独裁時代は忌み嫌われている。共通するのが不寛容なイデオロギーの押しつけ。民主主義と共存し得る君主制と決定的に違う点だ。(熊倉逸男)

立憲君主制がファシズムなど独裁的政治体制の台頭を防ぐ、というのが、君塚教授の持論のようだ。その著書『立憲君主制の現在』では次のように書いている。[1]


 (略)ならば共和制を採る国はすべて民主主義的なのか。第二次世界大戦後にアメリカと並ぶ超大国となり仰せたのは、ソヴィエト社会主義「共和国」連邦であった。しかしそれはすべての市民が平等な国どころか、共産党一党独裁の下で言論の自由は奪われ、党幹部たちが利権を独占する体制であった。ソ連は1989〜91年の一連の市民運動で動揺をきたし、その衛星国として同じく共産党独裁体制下に置かれていた東ヨーロッパの「共和制」諸国とともに、倒壊の道をたどったのである。
(略)

 国際通貨基金(IMF)が発表する2015年度の「国民一人あたりの国内総生産(GDP)」のランキングで上位30位に入る国のうち、第1位のルクセンブルク大公国を筆頭に実に13ヵ国が君主制を採り、英連邦王国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、バハマ)も含めれば、その数は17ヵ国にも及んでいる。さらに、第二次大戦後に世界的に注目されるようになった、「社会福祉の充実」という点から考えてみても、その先進国はスウェーデン、ノルウェー、デンマークといった、いずれも北ヨーロッパの君主国なのである。

 国民統治の面でも、君主制が共和制に劣っているとはあながち言えないのかもしれない。第二次世界大戦の末期。ドイツはすでに降伏し、残す敵国は日本のみとなった1945年7月、ドイツの戦後処理問題などを話し合うために、連合国の首脳たちはベルリン郊外のポツダムに集まっていた。その席でアメリカの海軍長官ジェームズ・フォレスタル(1892〜1949)は、イギリス外相アーネスト・べヴィン(1881〜1951)から驚愕するような発言を聴いた。フォレスタルは、いまや風前の灯火となった日本の「天皇制」を廃止すべきか否かについてべヴィンに尋ねた。慎重なべヴィンは、この問題は十分に検討する時間が必要であると答えながらも、断固たる口調で次のように語ったとされる。「先の世界大戦[第一次大戦]後に、ドイツ皇帝の体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから」

 ベヴィンは「労働党」の政治家であり、極貧生活の中からはい上がり、労働組合の指導者にもなった社会主義者である。ある意味では、H・G・ウェルズ以上に「反君主制」を唱えていてもおかしくない彼がこのように断言したことに、フォレスタルは驚嘆したのだった。このベヴィンの発言どおり、戦後の日本には、天皇を象徴とする新たな国家が形成され、今日に至っている。20世紀を代表するイギリスの政治家ベヴィンをして、戦後日本の安全弁のように言わしめた、「立憲君主制」とは果たしてどのようなものなのであろうか。

君塚教授はこう言うが、そもそも各国がそれぞれ独自の歴史的経緯を経てたどり着いた固有の政治体制を「共和制」「君主制」に二分して、どちらが民主的であるとかないとか言うこと自体が乱暴に過ぎる。また、第一次大戦後のドイツでナチスが台頭したのは、ベルサイユ条約で多くの領土を奪われ莫大な賠償金を課された屈辱への国民の復讐心と、それを煽り立てるヒトラーのような男を「コントロールできる」と考えた当時の権力者たち(ヒンデンブルク大統領ほか)の愚かさのせいだろう。ドイツ皇帝を象徴的君主として残しておけばこれが防げたとする主張には根拠がない。それに、ドイツの帝制は大戦末期のドイツ革命によりドイツ人自身の手で廃絶されたのであって、戦勝国が廃止させたのではない。

だいたい、ヒトラーと並ぶ独裁者で「ファシズム」の語源であるファシスト党を率いたムッソリーニが台頭した当時のイタリアは、代表民主制、権力の分立、国民の権利保障等を定めたアルベルト憲法[2]を持つ立憲君主国(イタリア王国)だったではないか。


このようにアルベルト憲法は,規定上は君主制を基本としたが,しかし実際には,議会による政府が国政の中心的役割を担った。すなわち政治的決定権限は,国王から政府に移り,政府は支持政党の多数党との協力により営まれていた。アルベルト憲法は,君主制を基礎に置き,当初は寡頭政治の一面を有したが,後には選挙制度を拡充するなど,自由主義的・民主主義的側面をも有していた。

■ 北欧諸国が今でも王国なのは国王自身がファシズムと闘ったから

社会民主主義的福祉国家として知られる北欧諸国の多くが現在も王制を残している(フィンランドは共和国)のは事実だが、例えばデンマークやノルウェーでそうなっている理由は、君塚氏自身が書いているように、ナチスドイツによる侵略・占領に国王自身が断固として抵抗し、ファシズムに反対する国民の象徴となったからだ。[3]


 デンマーク国民にとって「ナチスへの抵抗」の象徴となっていたのが、ほかならぬ老国王クリスチャン10世であった。国王は占領の翌日からコペンハーゲンの町を毎朝馬で散策した。乗馬はそれまでの日課でもあったが、ドイツ軍の兵士たちが見守るなか、護衛もつけずに一人で愛馬と散策する国王の姿は、ドイツに対する無言の抵抗と国民の目には映っていた。事実、ドイツ兵が彼に敬礼しても国王はいっさい無視し、普通に挨拶してくる一般市民にはいつものとおり優しく言葉をかけるのであった。
(略)

(略)それでも国王の気骨はへこまなかった。デンマーク在住のユダヤ人に「ダビデの星」をつけるようにとの要求にも断固反対した。国王は「デンマーク国民であるユダヤ人」にはナチスに指一本触れさせなかった。こうした国王の態度と自由評議会などの支援もあって、ドイツ占領下にあった諸国のなかでデンマークのユダヤ人たちは98%がホロコーストを逃れることができたとされる。(略)
(略)

 1940年4月9日の早朝、ドイツ軍はノルウェーの首都オスロや西海岸六カ所を同時に急襲した。(略)ノルウェー軍による徹底抗戦は各地で続いた。しかしドイツ軍による猛攻に耐えられず、2ヶ月後の6月7日に国王は皇太子、政府閣僚らとともに国外への脱出を決定した。

 6月10日にホーコン(注:国王)とオーラヴ(注:皇太子)はロンドンのユーストン駅に降り立った。(略)それからの5年間にわたりホーコンはイギリスでの亡命生活に入る。ロンドンに借りた事務所では、毎日のように皇太子や閣僚たちと協議を行い、連合軍から得た情報をもとに祖国の解放に尽力した。

 また国王は、BBC(英国放送協会)のラジオを通じて、ノルウェーの国民に希望を捨てないように訴え続けた。ロンドンでは「自由ノルウェー」という抵抗組織を立ち上げ、「すべてをノルウェーのために(All for Norway)」を標語に、国王は寝る間も惜しんで活動を続けた。そしてついに待望の時が訪れた。1945年5月8日にドイツが降伏した。(略)亡命からちょうど5周年にあたる6月7日に、72歳の老国王ホーコンが祖国の土を踏んだ。(略)宮殿へと向かう国王の乗る馬車を、歓喜する大勢の国民が取り囲んだ。宮殿前には13万人以上の市民が集まり、ここにノルウェーは解放されたのである。

 ナチスによる占領後も祖国デンマークにとどまって抵抗の意志を貫いた兄クリスチャンと同様に、亡命後もラジオを通じて国民に語り続けたホーコンは、ノルウェー国民にとって「ナチへの抵抗と祖国解放の希望」の象徴となり続けていた。


これらの国王がナチスドイツに迎合するような態度を取っていたら、戦後、王制はもちろん廃止されていただろう。問題は君主制か共和制か、などではないのだ。

■ 天皇制擁護論に賛成の余地はない

君塚教授はこうした立憲君主制の「効能」を並べることで象徴天皇制をも民主主義の維持発展に必要な制度として位置づけたいのだろうが、身を挺してファシズムに抵抗した王たちの君主制と、それ自体が天皇制ファシズムという怪物を生み出した絶対主義的天皇制の残滓と言える日本の象徴天皇制を同列に並べることはできない。

こうした一見マイルドな天皇制擁護論にも、断じて反対だ。

[1] 君塚直隆 『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 新潮選書 2018年 P.6-8
[2] 椎名規子 『イタリア憲法の家族条項および国家と家族の関係についての家族法的考察(2)』 専修大学法学論集 第96号(2006年3月)P.146
[3] 君塚 P.150-161

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/16/134548

179. 中川隆[-9328] koaQ7Jey 2019年6月23日 14:45:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3159] 報告

補給無視が略奪を生み、略奪が強姦・虐殺を生んだ
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639


前回記事
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

でも書いたように、旧日本軍は大戦末期どころか日中戦争初期の段階でもまともな補給を行わず、飢えた兵たちが住民の食糧を盗んで腹を満たすしかない状態を放置していた。三好氏の部隊は10月中旬には予備隊となって後方に下げられたので厳しい飢えはおよそ一ヵ月半程度で終わったが、前線部隊では上海戦に続く南京攻略戦の過程でも大差のない状態が続いていただろう。

補給がなければ食糧は「徴発」と称する略奪に頼るしかない。そして兵たちが略奪に慣れ、それが当たり前の日常になれば、奪った者勝ちで必要以上に奪いつくすようになっていく。中国で日本軍は「蝗軍」とも呼ばれた。何年かに一度大発生して作物を食い尽くす蝗いなごの大群のように、日本軍の通った後には何も残らなかったからである。以下、南京攻略戦に従軍した兵士たちの陣中日記から、「徴発」関連部分を紹介する[1]。(注:日記の執筆者名はすべて仮名。カタカナ書きは平仮名に直した。)
 
近藤栄四郎(伍長)日記:


[11月16日] 途中敗残兵の屍体等参[散]見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。(P.320)

[11月21日] 今日も行軍、でも割合に昨日より道がよくてよかった、顧山鎮を通過して先きの部落へ宿営する、途中の町々の徴発には実際目を覆はしむるものあり、各部落の火災も其通り、人を殺傷するも其通り、敗残兵及其他の死体も相当見ゆ、精米所の建物の中へ宿り米には不自由なし、餅米もある粳うるち米もある。(P.321)

[11月22日] 今日は一日滞在である。午前中徴発の為町へ各分隊より出て行く、塩、醤油、甘藷等町の一軒へ徴発品を集積する。

 午后洗濯したり休養する、徴発品の分配もする。

 久しぶりに風呂入る、徴発のシャツで寒さも苦にならずよかった、(略)(P.322)

黒須忠信(上等兵)日記:


[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日](略)午后四時南国に着す時に雪は少し降って来た、始めての雪である、暴飯[飲?]から腹をこわしたらしい、今后充分体の保養に務[努]めなければならない。

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

[11月28日] 支那の学生軍らしきもの五名我が宿舎の前にて突殺す、自分も此の際と思ひ二回ばかり銃剣にて突き刺す、三十〆[貫]もある豚二匹並に雞にわとり三拾以上を我が×隊にて徴発おかずにして御馳走此の上もなし。(P.347)

宮本省吾(少尉)日記:


[12月7日] 午後五時、常州東方二粁の村落に露営す。

 給養は徴発に依る。

 豚、鳥、チャンチーの御馳走にて満腹となす。(P.132)

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)

高橋光夫(上等兵)日記:


[12月15日] 四時に竜潭に着す、この途中にて支那人二人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方わ[は]水郷口月一方わ[は]川にて、ニーヤにちようはつ[徴発]品をおわせて、銃を片[肩]に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜わ[は]なにかの工場に宿舎をとる。(P.289)

柳沼和也(上等兵)日記:


[12月15日] 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、(略)(P.166)

近藤栄四郎(伍長)日記:


[12月16日] 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。(P.326)

柳沼和也日記:


[12月21日] 小隊は中隊の先[尖]兵として進んだが本道上の大きな橋が三つもこわれて居たので進軍に大きな支障を来たした、◯◯部落に入る、此の部落に入ると支那酒がうまかった。

[12月22日] 第七中隊は先[尖]兵中隊として一路全椒に向って行った、后[午]後二時に全椒に着いたが本隊の来るまで侍って居た、そして設営により好い家に入ったが六中隊と交代して別な家に入る、二階でかへって好い家だ、品物を徴発して又うまい御馳走もある。(P.167)

宮本省吾日記:


[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)

[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

遠藤高明(少尉)日記:


[12月27日](略)第一分隊に於て支那糯もち米を徴発、杵をつくり石臼にて餅を搗つきたり、志るこ雑煮を馳走になる。(P.221)

大した戦闘もなくほとんど行軍ばかりの追撃戦で、食い物でも酒でも奪い放題となれば、貧しい出身の兵たちにとってはそれこそ「実二戦争ナンテ面白イ」ということになるだろう。そして、徴発するには民家に踏み込むわけで、そこで略奪に抵抗などされれば殺し、若い女など見つければ強姦する、という結果になる。

南京占領から10日ほども経ってから、ようやく略奪や強姦、発砲(=殺人)を禁止する命令が出された。軍がわざわざこんな命令を出すということは、こうした非行がよほど目に余る状態になっていたということだ。
 
斎藤次郎(輜重特務兵)日記:


[12月22日](略)今日の目的地は滁より南方七、八里の全椒県、午后三時到着、住民は日章旗を振りかざし爆竹をあげて我が部隊を歓迎した、聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、我が部隊も此の処に守備に就くらしい(略)(P.40)

宮本省吾日記:


[12月27日] 風寒し、午前八時半出発、江浦県に向ふ、(略)当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行って居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、(略)(P.136)

そして、自軍の食糧さえ略奪に頼っている状態で捕虜に食わせる米などない、面倒だから始末してしまえ、ということになる。

遠藤高明日記:


[12月16日] 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分のーを江岸に引出しIに於て射殺す。

 一日二合宛あて給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。(P.219)

補給を無視した無茶な作戦が略奪を生み、略奪が南京大虐殺にまで至る強姦・大量殺戮を生んだのである。

【2016/12/23追記】
この記事だけ読んで、引用中に出てこないから「強姦」は憶測だとか言い出す人がいるので、加害証言を一例だけあげておく。(南京戦当時第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊の兵士の証言[2])


 (強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじや。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじや。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじや。

[2] 松岡環編 『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.275-276
【追記終り】

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
 
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639

180. 中川隆[-9274] koaQ7Jey 2019年6月26日 15:50:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3229] 報告
並行世界について - 内田樹の研究室 2019-06-25
http://blog.tatsuru.com/2019/06/25_0614.html


 夜間飛行から今度出る平川君との対談本「話半分」の単行本のゲラを読んでいたら、並行世界について熱く語っていた箇所があった。
面白かったので、私の発言部分を再録。

 変な話だけど、現代日本というのは、なんだか「あるべき世界」じゃないんじゃないかって気がするんだよね。パラレルワールドの「そっちに行っちゃいけない方」に行った結果が現代日本で、「ほんとうの日本」は今あるような社会とは違うものであるような気がするんだ。歴史的な惨敗の結果できた今のこの日本の方が仮想現実で、「あれほどひどく戦争に敗けなかった日本」の方が現実であるような気がするんだ。

 例えば、1942年のミッドウェー海戦で大負けしたところで、帝国海軍は主力艦を失っていて、もう戦争に勝つ可能性はなくなっていた。だから、あそこで講和条約締結に持ち込めば日本はそれほどひどいことにはならなかったはずなんだ。本土空襲で何十万人もの一般市民が被災することもなかったし、広島長崎に原爆が落ちることもなかった。もちろん満州も朝鮮半島も台湾も樺太も南洋諸島も海外領土は全部手放さなければならなかっただろうけれど、大日本帝国の政体は戦後もしばらくは続いたはずだ。

 実際に、木戸内相や吉田茂は42年のミッドウェー敗戦時点ですでに講和交渉を始めようとしていたんだ。その工作が奏功した「42年に講和した日本」というパラレルワールドでは、江戸時代以来の街並みや景観が日本中に残っている。戦死者数だって、たぶんに何万人という程度で済んだ。最終的に、日本の戦死者は民間人含めて310万人に達したけれど、ほとんど最後の1年間に集中している。真珠湾攻撃の日本側の戦死者なんか64人だよ。歴史的敗北を喫したミッドウェーでさえ戦死者3000人なんだから。戦死者や空襲による死傷者は44年に絶対国防圏が破られたあとに集中した。

 だから、せめて44年になってからでもいいから、「もう勝てない」とわかったところで、戦争指導部が「被害を最小限度に食い止めるためには何をすればいいのか? 最終的に守るべきものは何か?」という後退戦の問いに頭を切り替えていれば、日本は今も主権国家であり、国土も、国民の生命や財産も保全されていたんだ。北方四島も沖縄も日本の固有の領土で、米軍基地が日本中にあるというようなこともなかった。

 僕はその「戦争にあんなひどい負け方をしなかったおかげで大日本帝国が続いていて立憲帝政政体であるところの仮想的な日本」のほうが「本当の日本」じゃないかという気がするんだよ。戦争指導部がふつうに合理的、理性的に政策決定していれば、「そうなった」わけだから。僕はそっちに自分の「本籍地」があるような気がするんだ。

 それで最近、その「ほんとうの日本」の戦後がどうなったか考えてみたんだ。憲法は何回か改正されていただろうけれど、結果的には天皇制と立憲デモクラシーが共生する、今の日本のような政体に落ち着いていたと思う。もしかしたら、日本の正式名称はいまも「大日本帝国」で、我々は「帝国臣民」だったかも知れないけれどね。

「敗戦国」ではあっても、一応国民的矜持は維持できていて、自分たちの力で戦争責任を追及することができて、戦勝国に関与されず、日本人の手で、自力で戦後社会システムを制度設計できた。

 東京の風景なんかまったく違っていたと思うよ。空襲がなかったんだから。戦前の帝都って、けっこう美しかったんだよ。江戸時代の街並みと明治以降のモダニズムの街並みが混在していてね。もし、大日本帝国のままであれば、その景観は継続されていた。パリやローマのようにとまでは言わないけれど、ヨーロッパのあちこちの都市のように、それなりに深みのある佇まいが残っていて、住んでいる市民たちももう少し落ち着いた感じになっていたと思うんだ。僕は、そっちのほうが「本当の日本」で、今の日本のほうが「嘘の日本」のように感じる。多分そういうことを何となく感じている人は他にもいると思う。

「あり得た世界」を想像する力というのは、知性の重要な活動の一つじゃないかと思う。だから、戦後日本について考えるときに、「あの戦争にあんなふうに負けなかった場合の、並行世界の日本」を参照項にすることは、今起きていることの適否を判定するたいせつな手がかりになると思うんだ。

 だいたい日本は戦争を始めたときに「アメリカに勝ったらアメリカをどういうふうに占領するか」についてまったく考えていなかったでしょ。SF的想像でもいいから、そういうことを細部に至るまで想像しようとしたら話は多少は変わっていたと思うんだよ。

 だって、日本がアメリカを実効的に支配することなんか絶対できやしないということは科学的なシミュレーションすればすぐにわかったはずなんだから。どうやって米本土でのレジスタンスやパルチザンを制圧するつもりだったのか? 

 アメリカ人は建国の時以来建前としては武装市民である「ミリシア(民兵)」を編成して陸軍としていた。だから、今でも憲法修正第二条は市民には武装権を認めている。アメリカには銃器の使い方に習熟した市民が何千万人といる。そういう土地をどうやって支配するつもりだったのか? 中国大陸でさえ点でしか抑えられなかった日本陸軍が、革命権・反抗権を独立宣言に掲げている国の市民が武装して立ち上がった場合にどうやって制圧するつもりだったのか? どうやってアメリカ人を分断して、「親日派」勢力を形成するつもりだったのか? 州制度や連邦制度のどこを変えてどこを維持するつもりだったのか? 

 大本営はそういう細部についてたぶん何一つ考えてなかったと思う。

 アメリカ人の国民的メンタリティについてだって何も知らなかった。アメリカ人は個人主義的で物質主義的だから、大和魂で一喝すれば縮み上がって逃げ出すに違いないというようなことを言って戦争を始めたんだから。「戦争に勝った場合に、どうふるまうことでアメリカ国民と適切な関係を構築できるか」について組織的・長期的な計画を持たない国が戦争を始めて勝てるはずがない。

 ナチス・ドイツはひどい国だったけれど、戦争に勝ったら「劣等民族は奴隷化するか殲滅する」という「明確なプログラム」があった。日本にはそんなプログラムはなかった。実際に現場の軍人の中には「敗戦国民は奴隷だし、殺しても構わない」と思ってひどいことをした人間はいっぱいいたけれど、それは戦争指導部が立案した「プログラム」に基づいてやったわけじゃない。戦争指導部は全アジア人が兄弟愛で結ばれる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という夢想的なプログラムを描いてはいたけれど、そんなの空疎なスローガンでしかなかった。

 でも、アメリカには日本占領政策がちゃんとあった。ルース・ベネディクトの『菊と刀』はアメリカ国務省の依頼で書かれた占領政策起案のための基礎研究だから。ベネディクトは書物的な知識と投降した日本兵からのヒアリングに基づいて、日本人の生活感覚から国家戦略までをみごとに描き出してみせた。その研究に基づいてGHQは日本占領政策を起案した。

『菊と刀』に類するものを大日本帝国戦争指導部は持っていなかったし、そもそもそんなものが必要だとさえ思っていなかった。自分が戦っている当の敵国について「勝ったらどうするか」を考えていない国が戦争に勝てるはずない。

 僕は現代日本人が抱えている本質的な問題はここにある気がするんだよ。それは「あり得たかもしれない世界」について考えないこと。僕らがこれから先の日本社会をどのようなものにしたいかを考えるときに絶対に外せないのは「あのときに、あっちへ行かずにこっちへ行っていれば、出現したかもしれない世界」、言い換えれば「さまざまな並行世界」をリアルに想像することだと思うんだ。

 過去において「ありえた未来」を想像する思考訓練はそのまま現在において「ありうる未来」を想像する思考に適用できる。でも、そういうふうに頭を使う人間って、当今の「自称リアリスト」の中に一人もいない。見事に一人もいない。「今ここにある現実」だって、わずかな入力の違いでこれとは全く違ったものになったかも知れない。それが理解できない人間を「リアリスト」と呼ぶことに僕は同意できない。だって、「リアル」って、そういうものでしょ。ここにある現実だけが「リアル」で、それ以外は全部等しく「アンリアル」であるわけがないじゃない。今ここにはないけれど、「わずかの入力の違いでありえたこと」と「天地がひっくり返っても絶対に起こり得ないこと」を同じように「アンリアル」だとひとくくりにして、「現実じゃないんだから、それについて考える必要がない」と思っているような人間は「リアル」ということについての理解がいくら何でも浅すぎる。そんな人間がしたり顔で自分を「リアリスト」だとうぬぼれて、「あり得た世界」について考えている人間を妄想的だと思い込んでいるのを見るとほんとに腹が立つんだよね。

 だって、僕らの現実は「今ここには現勢化しなかった」複数の並行世界的リアリティによって取り囲まれているわけでしょ。その複数のリアリティを、おのれの想像力と知力を駆使して自在に行き来することができる人が本当の「リアリスト」だと僕は思うよ。

 僕が、村上春樹を高く評価する理由はまさにそこなんだ。彼が小説の中で並行世界を描き続けているからなんだ。彼がエッセイに書いていたんだけど、何かの作品で「フォルクスワーゲンのラジエーター」について書いたら、読者から「フォルクスワーゲンは空冷式なのでラジエーターはありません」という指摘があったんだって。それに対して村上春樹が「これはフォルクスワーゲンにラジエーターが付いている世界の話として読んでください」って回答していた。それで正しいと僕は思う。

 そういう風に、少しずつ「ずれた」さまざまな世界がある。想像力のある人間は、その複数の世界を自在に行き来することができる。その能力はきわめて重要なものだ。そういうメッセージのように僕には読めるんだ。
http://blog.tatsuru.com/2019/06/25_0614.html

181. 中川隆[-9274] koaQ7Jey 2019年6月27日 09:27:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3231] 報告

櫻井ジャーナル 2019.06.27
19世紀から中国を手に入れようとしているアングロ・サクソンにとって日本は重要
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906250000/


 アメリカの支配層は自分たちの意に沿わない国、組織、人物をさまざまな手段を使い、攻撃してきた。1991年12月にソ連が消滅するまでは一応、国連を尊重していたが、それ以降は単独行動主義を打ち出している。日本では国連中心主義を主張していた細川護煕政権が潰されてしまった。1994年4月のことである。


 勿論、細川政権が成立するはるか前から日本とアメリカは軍事同盟を結んでいた。日米安保条約だ。この条約によってアメリカ軍は日本占領が認められている。アメリカが日本を占領し続けたい理由は、日本が侵略のための重要な拠点だからだ。その日本がより積極的にアメリカの戦争に加担することを求められたのである。


 細川政権が設置した諮問機関の防衛問題懇談会はその年の8月に「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書発表したが、ネオコンはこの報告書を問題視する。国連中心主義に基づいて書かれていたからだ。


 このレポートを最初に問題だと主張したのはマイケル・グリーンとパトリック・クローニン。ふたりはカート・キャンベル国防次官補(当時)を説得してジョセイフ・ナイ国防次官補(同)らに自分たちの考えを売り込む。そしてナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。ナイ・レポートを境にして日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。


 そうした動きを後押しする出来事も引き起こされた。例えば1994年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件、その直後には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。國松は1994年7月に城内康光から引き継いでいた。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われるスターズ・アンド・ストライプ紙が日本航空123便に関する記事を掲載、その中で自衛隊の責任を示唆している。


 その一方、日本の支配システムを揺るがす出来事も相次ぐ。株式相場の暴落直後の証券スキャンダルでは興銀と東洋信金が関係した不正取引も明らかになった。この取り引きはマネーロンダリングだったという疑いも持たれている。1995年の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失発覚、98年には長銀事件だ。銀行の業務には大蔵省(現在の財務省)が深く関与、不正行為に官僚が無関係だとは言えないだろう。この推測が正しいなら、アメリカの支配層は日本の金融システムの弱みを握り、自由に操る体制ができたと言える。


 第2次世界大戦の終盤、1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権はウォール街が奪還して大統領はハリー・トルーマンになる。


 トルーマン政権は中国に国民党政権を樹立しようとするが、失敗。破壊工作機関のOPCも1949年には拠点を上海などから日本へ移動させている。その年に国鉄を舞台とした怪事件、つまり下山事件、三鷹事件、松川事件が引き起こされたのは興味深い。


 中国は19世紀にイギリスから侵略されている。1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。香港はその時にイギリスが中国から奪った場所。その後、略奪の拠点として機能する。イギリスやアメリカが香港を手放そうとしないのはそのためだ。アメリカが麻薬取引と深く関係していた蒋介石の国民党に肩入れしたのもそうした背景が影響しているのだろう。


 アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したが、それは海戦。運輸の中心である海をイギリスに押さえられた中国は苦境に陥るが、イギリスには内陸部を支配する戦力はない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だ。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。


 圧倒的にイギリスは戦力が不足している。そこで目をつけられたのが日本。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面がある。


 この構図が揺らいだのはフランクリン・ルーズベルトが大統領だった1933年3月から45年4月。当時、日本を支配していたウォール街がホワイトハウスの主導権を奪われていたのだ。ただ、それでも1932年にJPモルガンの中枢にいたジェセフ・グルーが駐日大使になっている意味は小さくない。なお、大戦後に日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。GHQや吉田茂は日米主従構造において脇役にすぎない。主役はウォール街と昭和天皇だ。戦争が終わった直後、ウォール街の代理人を務めていた人物がジョン・フォスター・ダレスにほかならない。


 アヘン戦争以降、アングロ・サクソンにとって東アジアで最も重要な侵略ターゲットは中国。現在、中国と同盟関係にあるロシアも重要な獲物だ。1991年12月にソ連が消滅した直後に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリン、アメリカが唯一の超大国になったと認識したネオコンが描いた世界制覇プランを実現するためにもアメリカは中国とロシアを屈服させる必要がある。そのプランを放棄しない限り、ドナルド・トランプがどのようなことを書き込もうと、彼らが日米安保条約を放棄することはありえない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906260000/


▲△▽▼


因みに、ソ連も中共もアメリカの経済援助で成長した国なので、櫻井ジャーナルの米ソ対立、米中対立の話は間違いですね:


櫻井ジャーナルに騙されるな

櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が本当だったとしても意味は無いのです。


櫻井春彦の無責任なデタラメぶりはこのデマ記事を見れば良くわかります:


櫻井春彦「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html


因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった


ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし

アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人

ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし

ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた


アメリカが本気になれば1年でソ連を潰せたけど、それでは軍需産業が儲からなくなるから、意図的にソ連を超大国に見せ掛けた。


ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


見せ掛けだけだった東西冷戦や八百長戦争だった太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争の背景は、以下の講演を聞けば誰でも納得できます:


伊藤貫 「アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1a7z5Xvo1aQ

馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc

馬渕睦夫 deep state の世界を語る _ 朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/105.html

林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  
 


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櫻井春彦の詐欺の手口教えてあげる


1.天安門事件で虐殺はなかった

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」

一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

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2.アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。


先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。


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櫻井春彦みたいなのを世間では詐欺師と言うんだろ

櫻井春彦は改竄・捏造の常習犯だから
誰々がこう言ったと書いていても、その内容自体が元の言葉と180度違う事が多いんだ

182. 中川隆[-9246] koaQ7Jey 2019年6月30日 10:17:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3304] 報告

【沖縄戦】島民の命の恩人を一家皆殺しにした日本軍【住民虐殺】 2019-06-30
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/30/093025


■ 最後まで降伏しなかった軍司令官がもたらした悲劇

前回記事で、沖縄の慰霊の日である23日、自衛官約30名が第32軍司令官牛島満中将らを祀った「黎明の塔」に「自主参拝」した問題を取り上げた。

しかし、この牛島司令官は、決して沖縄戦を最後まで戦った「悲劇の司令官」などと評して良い人物ではない。

第一に、米軍が首里城の守備軍司令部の目前まで迫って来たとき、牛島はここで最後の決戦を挑むのではなく、南部に撤退してなおも抗戦を続ける道を選んだ。これは、「軍は残存兵力をもって(略)の線以南喜屋武きやん半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする」という、沖縄を捨て石として本土決戦準備の時間を稼ぐ作戦だった[1]。この結果、本来なら戦場とはならないはずだった本島南部が軍民混在の地獄の戦場と化し、住民に膨大な犠牲者を生んだ。

第二に、守備軍が本島南端の摩文仁の丘にまで追い詰められ、軍司令部自体が陥落寸前となっても牛島は降伏を拒否し、「(略)爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之これを指揮し最後迄まで敢闘し悠久の大義に生くべし」という最後の軍命令を発して自決した[2]。

本来、軍司令官には、組織的戦闘の手段が尽きれば降伏して生き残った将兵と住民の命を守る責任があるのだが、牛島はこの責任を果たさず、全員死ぬまで戦えと命じたのだ。この結果、敗残兵の集団に等しい日本軍残存部隊が各地で住民に危害を加えるという悲劇が生じた。

■ 久米島住民の命の恩人を日本軍が虐殺

そうした悲劇の典型例を、那覇から西へおよそ90Kmの離島、久米島に見ることができる。

琉球新報(6/22):


ryukyushimpo.jp


 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。(略)本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

(略)

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

仲村渠なかんだかりさんは久米島出身の現地招集兵で、南部戦線で捕虜となっていた。米軍が久米島上陸作戦にあたって住民に投降を呼びかける協力者を募ったとき、20名ほどいた島出身捕虜がみな日本兵にスパイとして殺されるのを恐れて尻込みする中、仲村渠さん一人だけが応じたという。以下、大城将保『沖縄の真実と歪曲』から適宜引用・要約する。[3]


 (略)協力者がいなければ米軍は巡洋艦三隻で艦砲射撃をしてから上陸する計画だと聞いて、仲村渠明勇という具志川村西銘にしめの捕虜が名乗り出た。

 (略)彼は、米軍に協力することがどんなに危険なことか知らないわけではなかったが、生まれ島が猛烈な艦砲射撃の標的にされることを座視することはできなかった。「島にはわずかばかりの海軍部隊しかいない、あとは一万余の住民だけだ、自分が同行して道案内するから艦砲射撃をやめてもらいたい」と懇願した。米軍将校は「あなたが案内して上陸させるなら艦砲射撃は中止してもよい」と約束した。
 六月二六日、米軍は銭田海岸に無血上陸した。生まれ島に上陸した仲村渠さんは、住民の避難壕をまわって、米軍は抵抗しない民間人は殺さないから安心して下山するように説得した。

仲村渠さんが米軍に協力しなければ久米島は艦砲射撃により粉砕されていたわけで、彼は、渡嘉敷少年のような個別の例だけでなく、久米島住民全員の命の恩人と言える。(実際、久米島の隣にある小島の粟国あぐに島では、米軍上陸前の砲爆撃で住民56名が死亡している。)

しかし、久米島に駐屯していた海軍見張隊(指揮官:鹿山正兵曹長)は、この仲村渠さんを妻子もろとも虐殺してしまった。


 仲村渠さんは久米島上陸以来、昼間は米軍に協力して避難民の救出活動を続ける一方、夜は米軍の許可のもとで人里離れたスイカ畑の番小屋に、妻と男の子といっしょに隠れるようにして住んでいた。(略)自分もスパイ容疑で狙われているらしいことは知っていたので、外歩きのときは蓑笠で顔をかくして見張隊の目につかないように用心はしていたが、八月一五日、日本の無条件降伏の情報が伝わってきてからは緊張がゆるんだのか、同月一八日の夜間、近くの浜で夜釣りをして隠れ家に帰ってきたところを友軍兵に取り囲まれてしまった。兵隊たちは仲村渠さんの左脇腹を銃剣で刺して殺し、近くのアダン林に逃げ込もうとした妻と幼児の後を追って刺殺、三人の死体を屋内に引きずりこんでから小屋を焼き払った。

海軍見張隊はわずか35名。武器は軽機関銃と小銃程度で、敵である米軍には何もできない一方、丸腰の住民に対しては生殺与奪の権を握っていた。この鹿山隊に虐殺された住民は、仲村渠さん一家だけではない。

安里正次郎さん(久米島郵便局電話保守係):米軍に捕まって鹿山隊への降伏勧告状を届けるように命ぜられ、これを見張隊陣地に届けたところ、鹿山隊長に射殺された。


 (略)鹿山隊長は「敵の手先になってこんなものを持ってくるからには覚悟はできているだろうな」と怒鳴って、その場で自分からピストルで安里さんを撃ち、一発では即死しないので部下に命じて両側から銃剣でとどめを刺した。
 安里さんには島出身の内縁の妻がいたが、夫がスパイ容疑で射殺されたと知らされて恐怖のあまり家をとびだして山田川に身を投げて自殺した。彼女の母親もショックを起こして寝込んでしまい、間もなく亡くなった。二人とも鹿山隊長が殺したようなものだと近親者は嘆いた。

北原区民9人の集団虐殺:米軍に捕まったのち島に帰された区民2人と、この2人を鹿山隊に引き渡さなかった関係者7名を虐殺。


 (略)二人が帰島したのは米軍上陸の混乱のさなかであり、二人を部隊陣地まで連れて行くのは不可能な状況であった。だが鹿山隊長は、拉致されて帰島した二人は敵側スパイと断定し、二人を部隊に引致せずに放置した北原区警防班長ほかの関係者を、軍命に違反した者として処刑すべく部下の軍曹に命じた。六月二九日夜半、軍曹は一〇名ほどの部下を率いて北原区に降りていき、拉致被害者二人と区長、警防団班長、被害者の近親者など九人を一軒の民家に集め、針金で手足をしばり目隠ししておいて、一人ずつ銃剣で刺し殺したあげく、民家に火をつけて引き揚げていった。この光景を目撃した一区民は沖教組の調査チームに次のように証言している。
 「私たちは、敵の米軍より、味方であるべき日本軍が怖く、焼死体を埋葬することもできず、一カ月近くもそのまま放置していました。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れていましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。全く悪夢のようなホラ穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つような思いです」

朝鮮人行商人一家を衆人環視の中で虐殺。


 最後に、谷川昇(注:通名)という朝鮮釜山プサン出身の行商人の一家八人が衆人環視の中で虐殺された。
 谷川さん一家がなぜ虐殺されたのか理由は明らかでない。行商で各民家や避難所を訪ね歩くのでスパイの濡れ衣を着せられたのか、あるいは朝鮮人というだけで日本への忠誠心を疑われたのか、あるいはただ島人たちへの見せしめのために最も弱い立場の一家を血祭りにあげたのか。ともかく、正当な理由もなく、罪もない女性や子どもたちまでが斬殺、刺殺という残酷な手段で集団的に殺されたということが、「虐殺」といわれるゆえんである。
 当時の警防団員で現場を目撃した人が次のように証言している。
 「八月二〇日、こうこうと明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇名位で護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、その後一人の兵隊が小さな子どもを抱えて来て父親の死体のそばに投げ落としました。子どもは父の死体にしがみついてワーワー泣きくずれていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私は怖くて足もぶるぶるふるえました。日本軍から「見せしめだ、ほっておけ」とも言われるし、「あとで死体を片づけよ」とも命じられたので、私たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あの時の子どもの断末魔の泣き声は、今も耳に残っているようです」

■ 反省のかけらもない旧軍人たち

多数の久米島住民を、米軍に接触したというだけの理由でスパイと決め付けて殺した鹿山隊は、仲村渠さんや谷川さんらの虐殺から三週間も経たない9月7日、米軍に降伏した。

それから四半世紀後の1972年、鹿山元隊長自身が当時の心境を次のように語っている。


 それから四半世紀が過ぎた。一九七二(昭和四七)年三月から四月にかけて、日本復帰を目前にひかえた沖縄では、久米島住民虐殺事件の記憶が生なましくよみがえり、沖縄返還協定の内容に怒りをつのらせていたが、思いがけず、県民の怒りにますます油を注ぐような出来事が表面化した。
 本土の新聞やテレビが鹿山元隊長の居所を探しあて、久米島虐殺事件の責任者にじかに責任追及を行ったのである。鹿山元隊長は健在だった。新聞やテレビの追及にも悪びれる風もなく、むしろ軍人の矜持を態度に表して、過去の事実関係や現在の心境を語った。
 「島は小さかったが食糧はあった。言葉は琉球語であるが、日本教育を受けているので不自由はしなかった。那覇は知らんが、久米島は離島で一植民地である」
 「一万の島民が米側についたらわれわれはひとたまりもないから、島民の忠誠心をゆるぎないものにし、島民を掌握するために、わしは断固たる措置をとったのだ」
 「これまで報道された事件のあらましはほとんど間違いないが、私は日本軍人として戦争に参加し、米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念、国の方針で戦争をやってきた。だから敵に好意を寄せるものには断固たる措置をとるという信念でやった」
 鹿山元隊長の弁明は全国ネットのニュース特集番組「久米島大量処刑事件・二七年目の対決」というタイトルで全国に放映された。鹿山正元海軍兵曹長は「わしは悪いことをしたとは考えてないから、良心の呵責もないよ」「日本軍人として当然のことをやったのであり、軍人としての誇りを持っていますよ」と軍隊口調で平然と語っていた。
(略)
 二七年後に鹿山元隊長の弁明を聞いた久米島の関係者は、腹わたの煮えくり返る思いでいく晩も眠れぬ夜を過ごしたという。関係者に限らず、多くの県民が久米島事件のマスコミ報道に触発されて、目前に迫った自衛隊の沖縄配備と重ねあわせて、反軍・反自衛隊感情をつのらせたであろうことはいうまでもない。
 七二年二月の那覇港への自衛隊上陸の場面で、抗議団の人々が「自衛隊は帰れ!日本軍は帰れ!」と叫んだ背景には、久米島住民虐殺事件と類似した数百件もの戦場の惨劇を体験した人たちの、心の深層に今なお疼く戦場の記憶がマグマのように煮えたぎっていたのである。

「米軍が進駐した場合、軍人も国民も、たとえ竹槍であっても、うって一丸となって国を守るのだという信念」で島民の虐殺を命じていたという鹿山隊長自身は、ではなぜその米軍に最後の突撃を行うこともなく、降伏して命を長らえたのか。

敗戦後、旧軍人の大半は、この鹿山元隊長同様、何ら反省することもなく自らの行為を正当化した。そして日本社会は、彼らを自分たちの手で裁くどころか、こうした旧軍人を中枢に据えて自衛隊が組織されるのを許してきた。

いま、旧軍を否定しない、反省なきその自衛隊が、宮古・八重山に続々と新基地を建設し、ふたたび沖縄を「本土」防衛の盾として要塞化しつつある。


[1] 大城将保 『改訂版 沖縄戦 ― 民衆の眼でとらえる「戦争」』 高文研 1988年 P.134
[2] 同 P.142
[3] 大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』 高文研 2007年 P.127-137
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/30/093025

183. 中川隆[-9245] koaQ7Jey 2019年6月30日 10:18:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3305] 報告

【慰霊の日】被害者と米軍の目から見た集団自決(強制集団死)
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/06/23/215357


■ 今日は日本が沖縄を最終的に見捨てた日

今日、6月23日は、73年前、牛島第32軍司令官が自決して沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日であり、そのため沖縄県は、この日をすべての沖縄戦戦没者の霊を慰める「慰霊の日」と定めている。

しかし、この日で沖縄戦が終結したわけではない。牛島司令官は軍としての戦闘が継続不可能となっても降伏せず、最後の軍命令で「死ぬまで戦え」と命じた[1]。


全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕たんせきに迫る。既に部隊間の通信途絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今じこん各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし。

このためその後も残存部隊と米軍との戦闘が住民を巻き込みつつ続いていった。沖縄戦の正式な降伏調印が行われたのは9月7日だし、喜屋武半島の洞窟地帯では12月ごろまで敗残兵が出没して住民の恐怖のまとになっていたという[2]。

だからこの日を「慰霊の日」とすることには異論も多いが、牛島司令官の自決は戦場に取り残された沖縄住民に対する責任放棄であり、その意味で6月23日は日本が沖縄を最終的に見捨てた日だったと言える。

■ 究極の戦争被害と言える集団自決(強制集団死)

日本軍将兵の死者数(約9万人)を大きく上回る約15万人(四人に一人)の住民が死に追いやられた沖縄戦の悲惨さは言うまでもないが、沖縄住民にとって、日本軍による住民虐殺と並んで究極の戦争被害と言えるのが集団自決(強制集団死)だろう。

捕虜になることを恐れて親子兄弟が殺し合う、などという悲惨な事件はなぜ起きたのか。

1988年2月、沖縄戦に関する検定の適否が争点の一つとなった家永教科書裁判の出張尋問が那覇地裁で行われ、ここで集団自決を生き延びた被害者である金城重明氏が次のように体験を証言している[3]。


「私は実の母をこの手にかけて殺した……四三年間、背負い続けた重荷を、これからも背負い続けていく。それ以外に私の生きる道はない」
「集団自決事件」の生き証人、金城重明さんがとつとつとこう述べたとき、法廷内は一瞬、粛然と静まりかえった。(略)
 この人の身の上にあの日、いったい何が起こったのか。公判に先だってご本人から聞いた言葉の数々と金城さん自身が綴った「証言意見書」をもとに、「あの日」を再現してみる。
 那覇の西三◯キロの東シナ海に浮かぶ慶良間諸島。点在する二◯ほどの島々のうち最も大きいのが渡嘉敷島である。金城さんは、いまは沖縄でも有数の海のリゾート地となっているこの島で一九二九(昭和四)年に生まれた。(略)
 まぎれもない軍国少年として育った金城さんは、一九四五年三月、米軍による沖縄攻撃開始により「惨劇の日」に向かって運命的に引き寄せられていく。
 米軍が渡嘉敷島に上陸したのは三月二七日のことである。島の住民はその夜、日本軍の指示で軍の陣地近くに移動を命じられた。激しい豪雨と激しい弾雨だった。集結した島民は一千人にのぼったという。
(略)
「自決命令」が軍から出された、と情報が流れた。手榴弾が配られる。家族親戚が輪を作る。手榴弾をたたきつける。しかし、発火しない。従って死傷者は必ずしも多くはなかった。不幸中の幸いと呼んでもいいこの出来事はしかし、実はさらなる惨劇に結びついていった。
 至近弾の爆風でしばらく意識もうろう状態になっていた金城少年は、徐々に覚醒しながら異様な光景に目を奪われた。
 中年の男が木を折っている。全力できわめて熱心に折っている。そして次の瞬間、折り取った木を振りあげ、傍らにうずくまっていた妻や子を無茶苦茶に殴り始めた。
 これが導火線になった。夫が妻を、親が子を、兄が妹を、鎌を振るい、棍棒を振るい、石を振るって撲殺する。文字通りの地獄だったと金城さんは言う。
「私も幼い弟や妹の最期を見届けてやらなければなりませんでした。愛する故にそうしなければと思い込んでしまっていたのです。あのとき一六歳と一ヶ月でした。私と兄はついに自分を産み育ててくれた母親に手をかけることになりました」
 石を使ったか木を使ったか記憶は曖昧である。しかし、母を殺してしまったのはまぎれもない事実だった。兄弟は号泣した。しかし、あのとき他にどのような方法があったのか。
「鬼畜米英と教えられ、女たちはその鬼畜によって八つ裂きにされると教えられておりました。そんなことになるよりはいっそ自分の手で。それが愛情なのだと、これも長い間の教育のおかげでそう信じ込んでおりましたのです」
 奇妙なルールが出来あがっていた。愛情の深い者ほど、弱い者ほど先に殺すというルールである。大事な者ほど先に、しかも確実に消す。
「これが唯一残された愛情の表現でした」

一人でも息を吹き返してくれ

 この人はどうしてこのように静かな雰囲気で、このような告白が出来るのか。金城さんの話を聞きながら何度もそう思う。が、そう思いながらのぞき込むこの人の視線の暗さに改めて胸を突かれる。
 金城さんばかりでなく、そこで生き残った誰もが日本軍の玉砕を信じて疑わなかった。住民に自決を命じておいて自分たちが生き永らえるなど、到底、皇軍のよくなし得るところとは思えなかったのである。
 しかし、日本の軍人たちは生きていた。それどころか食事をとりながら談笑している。金城少年は目のくらむような怒りに我を忘れていた。だが、いくら悔やもうと、いくら嘆こうと、死者たちはもはやどうやっても生き返ってはくれない。
「一人でもいいから息を吹き返してくれないかと願いました。でも、それは、はかない望みだったのでありますねえ。愛情が深かったから、徹底的に殺害してしまったのです」

この渡嘉敷島で集団自決の現場に遭遇した米軍部隊が、その状況を次のように報告している[4]。


 三月二十九日、昨夜、われわれ第77師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、呻き声が聞こえてきた。手榴弾が六発から八発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何と言うことだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。
 そこには二百人ほど(注・G2リポートには二百五十人とある)の人がいた。そのうちおよそ百五十人が死亡、死亡者の中に六人の日本兵がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ四十人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾をかかえ死んでいる者もいた。木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握りしめ、前かがみになって死んでいた。自分で自分を絞め殺すなどとは全く信じられない。死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。
 小さな少年が後頭部をX字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいて、みんな負傷していた。(略)
 生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねはならぬほどだった。何とも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣きくずれた。自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽び泣いた。また、別の島々でも同様な自殺、あるいは自殺未遂例があった。慶留間島の洞窟では、十二人が絞殺されていた。
 第77師団の歴戦の猛者たちも、このありさまをわが目で確かめるまで信じられなかった。日本兵だけでなく、日本の住民まで“アメリカの野蛮人に捕まるぐらいなら死ぬ方がましだ”という信念で自殺する狂気の沙汰が実際に起ころうとは……。
 集団自殺の現場を目撃し、日本兵の浴びせる機関銃の中をくぐり抜け、子供たちを助けたのが、ジョン・S・エバンス軍曹である。
 (一九四五年三月二十九日 アレクサンダー・ロバーツ伍長の談話より)

この集団自決(強制集団死)について、日本では、日本軍部隊による直接の自決命令はあったのか(命令がなければ軍に責任はない)などと問題を矮小化しようとする主張がなされている。だが、金城氏が次のように語っている[5]とおり、沖縄の人々は長年の皇民化教育と軍からの圧力により死ぬしかない状況に追いやられていったのであり、そのような責任逃れは許されるものではない。


 渡嘉敷島の「集団自決」についてひとつの論争がある。「日本軍は自決を命じたのか」。これが争点である。金城さんはきっぱりと言う。
「手榴弾は住民や村の指導者が自決のために軍に要請して貰い受けたわけではない。皇軍の武器は民間人の希望や意志で操作出来るものではなかった。村の担当者の話では、青年団員と役場の職員二〇名から三〇名ほどが役場に集められ、軍が手榴弾を各自二個ずつ配った。捕虜になる恐れがあるときには、一個を敵に投げ、他の一個で自決するように言われた。つまり、手榴弾は、自決のため、あらかじめ軍から渡されたのだ」

■ 戦後も沖縄を踏みにじり続ける日本政府

第32軍海軍部隊司令官の大田実少将は、6月13日、豊見城の司令部壕で自決する前、大本営に向けて「沖縄県民カク戦ヘリ。県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との電文を発している。

しかし、戦後の日本政府は沖縄に対してどのような「配慮」をしてきたというのか。配慮どころか、狭い沖縄に大半の米軍基地を押し付け、危険な核を押し付け、沖縄にだけは事実上日本国憲法を適用せずに踏みにじり続けているではないか。

あたかも今日、安倍晋三は慰霊の日の式典に出席するため(どの面下げて?)やってきて、普天間基地の「移設」を名目とする辺野古への新基地建設について、「最高裁の判決に従って進めていく」と言い放った。沖縄の民意など歯牙にもかけず、これまで以上に沖縄の軍事要塞化を推し進めるぞ、という意思表示である。

沖縄の未来のためにも、アジアの平和のためにも、何としてもこんな愚かな政権は倒さなければならない。

[1] 大城将保『改訂版 沖縄戦』 1988年 高文研 P.142
[2] 同 P.143-144
[3] 村上義雄『教科書裁判沖縄出張法廷』 朝日ジャーナル 1988年2月26日号 P.82-83
[4] 上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』 三一書房 1986年 P.20-22
[5] 村上 P.83-84
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/06/23/215357

184. 中川隆[-9244] koaQ7Jey 2019年6月30日 10:20:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3306] 報告

「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺 2019年6月22日
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-941125.html


沖縄戦での久米島で、米軍から逃れて自死しようとして住民の呼び掛けで一命を取り留めた渡嘉敷一郎さん=19日、東京都練馬区の自宅

 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

 沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

 渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50〜60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

 当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。



久米島であった日本兵の虐殺事件や、集団投身自殺寸前で思いとどまった体験などを話す渡嘉敷一郎さん(右)と妻の政子さん=19日、東京都練馬区の自宅

■ほかにも住民虐殺が…

 久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

 日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

 戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

 小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されていた中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

 住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

 今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区立男女共同参画センター「えーる」で、久米島の沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。


(滝本匠)

久米島における沖縄戦での住民虐殺

 久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員が具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-941125.html

185. 中川隆[-9238] koaQ7Jey 2019年7月03日 15:05:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3376] 報告
2019.07.03
独立記念日を祝うアメリカ国民だが、独立宣言を忘れているようだ 《櫻井ジャーナル》


 7月4日はアメリカの独立記念日である。1776年7月4日に独立宣言が採択されたことを記念して定められたのだ。

 ヨーロッパからの植民者がイギリスからの独立を宣言したのだが、その執筆者はトマス・ジェファソン。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。

 宣言に署名した人びとが何を考えていたかはともかく、宣言にある「人間」に制限はついていない。すべての人間は人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などに関係なく平等であり、人間としての権利を持っているということだ。

 当然、生まれながらに持っている能力を発揮するために必要な環境がすべての人間に保証されなければならない。人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などによって、そうした環境に差があってはならない。安心して生活でき、教育を受けることができ、働くことができなければならない。

 こうした権利を保障しない政府を人びとは「改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する」と独立宣言は主張している。

 さらに、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが人民の権利であり義務である」ともしている。

 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。

 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。

 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。

 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。

 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。

 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。

 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。

 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。

 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。

 すでにアメリカでは強大な私的権力が国を上回る力を持っている。その結果、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らか」になっていると言える。

 2011年9月11日以降、アメリカでは国外での侵略戦争、国内での刑務所化が急速に進んでいる。アメリカの属国である日本もその後を追っている。そうした現状を見ながら、「それでもアメリカは民主主義国だ」とか「それでもアメリカの方がましだ」という「左翼」、「リベラル派」、「革新勢力」が日本にはいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/

186. 中川隆[-9233] koaQ7Jey 2019年7月07日 04:55:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3447] 報告
2019.07.07
自由な海上輸送を許さないアングロ・サクソンの長期戦略
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907070000/


 イランが運行するタンカー「グレイス 1」をイギリスの海兵隊がジブラルタル沖で拿捕した。シリア向けの石油を運んでいる疑いが拿捕の理由だというのだが、それはイギリスやアメリカの勝手な言い草であり、海賊行為以外の何物でもない。

 ちなみに、ジブラルタルはイベリア半島の南端近くにあり、地中海と大西洋を結ぶ狭い通路。そこをイギリスが占領、領土としている。海運を支配する一環だ。

 かつて、中国から西アジアを経由して地中海へ至るシルク・ロードという交易ルートがあったが、物流の中心はやはり海運だった。その海路を支配することで勢力を伸ばした国のひとつがイギリスである。海路を支配するということは、自由な航行を許さないということでもある。

 その戦略を体系化したのがハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者。1904年に世界制覇のため、ユーラシア大陸の沿岸地域を制圧して内陸部を締め上げていくという戦略を発表している。

 マッキンダーは世界を制覇するためにロシアを支配する必要があると考えた。ロシアには耕作地が広がり、19世紀には領内で油田が発見された資源国であり、国民の教育水準も高い。ロシアの南にある中国も古くから栄え、莫大な資産が蓄えられている。

 ロシアや中国を締め上げるため、マッキンダーは西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に外部三日月地帯を想定した。

 内部三日月帯を海路でつなぐためにスエズ運河がイギリスにとっていかに重要かということは言うまでもないだろう。地中海からスエズ運河を通って紅海へ入り、そこからインド洋へ抜ける際に通過するアデン湾はアラビア半島の南端(イエメン)とアフリカの角(ソマリア)に挟まれている。

 マッキンダーが想定する内部三日月帯はアラビア半島を通過しているが、かつて、そこにイギリスの拠点はなかった。そしてイギリスはイスラエル(1948年)とサウジアラビア(1932年)を作る。その三日月帯の東端に日本はある。大陸を侵略する拠点として格好の場所だ。

 イギリスは19世紀から中国(清)を食い物にしようとしてきた。そして実行されたのが1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。

 前にも書いたことだが、アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したものの、内陸部を支配する戦力がない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だった。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。

 要するに、イギリスは戦力が圧倒的に不足している。そこで目をつけられたのが日本だ。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面があるのだ。明治維新によって安藤昌益を生んだ徳川時代は終わり、大陸を侵略する天皇制の明治時代が始まる。

 イギリスがアヘン戦争を仕掛けたのは資本主義が破綻したからにほかならない。資本主義は富を循環させるのではなく集中させる。必然的に貧富の差が拡大し、経済は持続できない。そこで国外で略奪するしかないのだ。世界市場の形成、原料の入手と言えば聞こえは良いが、押し売りと略奪だ。押し売りの商品の中には麻薬も含まれている。

 今回のタンカー拿捕はアメリカが東シナ海や南シナ海で展開している軍事行動の性格も示している。中国などアメリカに楯突く国の海上輸送をいつでも断ち切れる体制を確立したいということだ。日本はその手先にされている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907070000/

187. 中川隆[-9198] koaQ7Jey 2019年7月08日 08:05:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3482] 報告

2019/07/05 藤井聡 京都大学大学院工学部研究科教授
不条理な大和特攻という大本営決定
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/257604


 この週末、ある雑誌の企画で吉田満氏の「戦艦大和の最期」という文学作品についての座談会を行った。

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) – 1994/8/3
吉田 満 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E8%89%A6%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%83%8E%E6%9C%80%E6%9C%9F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%BA%80/dp/4061962876

この作品は、先の大戦末期、沖縄戦に特攻出撃した戦艦大和の、出撃命令が出てから撃沈されるまでの数週間を描いた物語だ。吉田氏はこの大和の乗船員で、上官の脱出命令を受ける形で九死に一生を得て奇跡的に生き残り、無事生還した後に、たった一日でその初稿全文を書き上げたという。

 この作品には、この大和の出撃に対して「現場」が猛反発していた様子が克明に描かれている。大和には一機の戦闘機の護衛もなく、ほぼ丸裸の状態で何百何千というアメリカの雷撃機・攻撃機の猛攻を受けることが必定であり、一切何の戦果を上げること無く轟沈することは、誰の目にも明らかだったからだ。

 しかし、そんな現場の大反対を完全に無視する形で、大本営からの大和出撃令は覆らなかった。そして案の定、誰もが予期した通り大和は徳之島沖で米軍機の猛攻を受け、攻撃開始からたった数時間であえなく撃沈した。

 一気に3000人を超える特攻死をもたらした、この史上最大の「特効作戦」の全容を記した『戦艦大和の最期』からは、現場が如何に必死に闘ったかが克明に浮かび上がってくる。そしてわれわれ読者はその戦いに対して、その初稿の最後に書かれていたという『天下に恥じざる最期なり』との結語を繰り返す他にない。


 ただし、そうした現場の兵士達の勇猛果敢な戦いぶりは、その大本営の判断を正当化する論拠にはなり得ない。そもそもわれわれは、「軍事作戦の成果」の視点から現場の幹部全員が猛反対していたという事実、そして、現実は彼らが主張した通りの顛末に終わったという事実をけっして忘れてはならない。

188. 中川隆[-9009] koaQ7Jey 2019年7月18日 09:26:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3690] 報告
2019.07.17
日本の韓国に対する輸出規制で米国は「白馬の騎士」になれるのか?

 安倍晋三政権が韓国に対する半導体の製造に必要な材料の輸出規制を強化、日本と韓国との関係がこれまで以上に悪化する様相を見せている。韓国政府はアメリカと話し合いを始めたようだが、元徴用工の問題と同じように、今回の問題も震源地はアメリカだろう。日本政府が独断でできるようには思えない。

 フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の輸出許可手続きを厳密化、輸出先として信頼できる国のリストから韓国を外す手続きを安倍政権は進めているのだが、その結果、韓国のサムスン(三星)電子、SKハイニックス、LGディスプレイといったメーカーはダメージを受けているのだろうが、同時にそうした企業と取り引きしてきた日本企業にとっても痛手になる。

 元徴用工の問題と半導体の問題はつながっていると韓国では見ているようだが、そう思われても仕方はない。その元徴用工の問題が注目されるようになったのは昨年(2018年)10月のこと。韓国の大法院(最高裁)が新日鉄住金に対して元徴用工へ損害賠償合計4億ウォンを支払うように命じる判決を出したのである。

 この問題に関係している日本企業はこうした展開になることは予想していたはずで、訴えられた企業は和解の道を探っていた。今後のビジネスを考えても、それが得策だ。その動きを安倍政権は潰したと言われている。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、明治維新から現在に至るまで日本の支配構造は基本的に変化していない。その連続性を象徴する人物がウォール街の中枢から大使として日本へ派遣されていたジョセフ・グルーだ。第2次世界大戦の前、グルーが所属するウォール街は親ファシストで、ニューディール派を敵視していた。そのため、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選すると、クーデターを計画したわけだ。

 関東大震災以降、グルーと緊密な関係にあるJPモルガンが日本に大きな影響力を及ぼしていた。この巨大金融資本は親ファシズムだ。この問題と向き合わないようにするため、「軍国主義」というタグが使われているのではないだろうか。

 このJPモルガンはロスチャイルドから派生した。明治維新はそのロスチャイルドを含むイギリスの支配層から強い影響を受けていた。清(中国)を侵略するためにイギリスはアヘン戦争を仕掛けたのだが、本ブログでも指摘したように、大陸を支配するための戦力がなかった。イギリスが日本の軍備増強を支援した理由はそこにある。傭兵にしようとしたのだ。そして作り出されたのが天皇制官僚国家。これが日本の国体だ。

 イギリスの手先として日本は琉球を併合、台湾へ派兵、江華島で軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と大陸侵略を進めていく。モスクワが革命で揺れていたとはいえ、戦争が長引けば日露戦争で日本が勝つことは難しかった。そこで、棍棒外交で有名なシオドア・ルーズベルト米大統領が仲裁のために登場してくるわけである。

 日清戦争で日本が勝利した1895年、日本の三浦梧楼公使たちは朝鮮の閔妃(明成皇后)を含む3名の女性を惨殺した。その際、性的な陵辱を加えているのだが、筆者個人の経験では、そうした日本側の行為に憤っている韓国のエリートは今でもいる。なお、暗殺に加わった三浦公使たちを日本の裁判官は「証拠不十分」で無罪にしている。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 日本でどのような教育や宣伝がなされても、少なからぬ韓国人は日本に支配されていた時代を忘れてはいない。何かの切っ掛けで、そうした感情は噴出する。今回、韓国で日本製品の不買運動が始まっているようだが、当然の結果だ。

 元徴用工の問題も日本による支配の中で生じたのであり、安倍政権の言動はそうした感情を噴出させることが目的だったとしか思えない。安倍政権には中国との関係を破壊しようとした菅直人政権と同じものを感じる。

 ロシアや中国との関係を強める韓国を引き戻すために脅しているのかもしれない。日本に脅させ、アメリカが「白馬の騎士」として登場するつもりかもしれないが、安倍政権の行動は韓国の自立を促進、ロシアや中国へ追いやる可能性がある。そうしたことがロシアや中国でも起こった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907170000/

189. 中川隆[-8987] koaQ7Jey 2019年7月19日 18:02:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3708] 報告

昭和天皇が戦後 日本軍を作らせなかった理由


東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?
天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。


天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね:

革命とは市民のデモ行進が始まりかも知れないが、軍が革命側に寝返って初めて起きる。

2019年07月19日
香港革命がおそらく起きない理由 鍵を握る香港警察


革命には香港警察の中国裏切りが必要だが、中国人にそういうセンスがあるだろうか

画像引用:Hong Kong protesters weigh Bank of China 'stress test' after latest clashes | The Japan Times https://cdn.japantimes.2xx.jp/wp-content/uploads/2019/07/f-hkprotest-a-20190709-870x580.jpg

香港革命は起きるか

容疑者の本土引き渡し方案への反発から、香港で民主化デモが盛り上がっています。

市民数十万人が抗議デモを行ったほか、香港議会庁舎にデモ隊が突入したりしました。

香港警察は庁舎に突入した数十人を逮捕するなど、徐々に圧力を強めている。




デモ隊が庁舎に突入する前に警官隊が撤退しており、突入を誘って逮捕する口実を作ったとも言われている。

これは毛沢東の共産軍や蒋介石の国民党軍が日本軍に繰り返した戦術とうりふたつでした。

国民党軍は日本軍が近づくと市街地に火をつけて引き上げ「日本軍の犯行」と宣伝しました。


2014年の香港雨傘運動の時も同様に盛り上がったが、首謀者が拘束されるとあっけなく鎮静化しました。

1989年天安門事件の時もそうだったが、学生運動はリーダー格の学生が逮捕されるとひとたまりもない。

2019年の香港民主化運動はリーダーが存在せず、ネット上で運動を呼びかけて自主的に集まった。


中国政府としてはリーダーを逮捕して終わりという訳にはいかず、鎮圧に手こずっている。

ではこうした民主化運動で中国政府が民主化を認めたり、香港革命が起きるかというと望み薄です。


中国政府は一時的に妥協して容疑者引き渡し方案を撤回する事はあるでしょうが、後で名前を変えてこっそり成立させます。

フランス革命の有名なバスティーユ襲撃、本当の主役はデモ隊を見逃した警官隊と、国王を裏切ったフランス軍だった


Prise_de_la_Bastille-20.24.04


画像引用:https://sistemaspoliticos.org/wp-content/uploads/2016/05/Prise_de_la_Bastille-20.24.04.jpg


革命は軍隊が寝返って起きる

世界中のあらゆる革命は市民のデモ行進などで起きた事になっているが、真実ではありません。

フランス革命の原因はルイ14世が革命を認めてしまった事と、フランス軍が裏切って革命派についたからでした。

ロシア革命もまったく同じで、ニコライ2世が革命派に譲歩を繰り返し、最後に軍が寝返った。


明治維新も同じで徳川慶喜は長州征伐以降譲歩を繰り返し、旗本百万騎が徳川を裏切った。

薩長軍が江戸を包囲した時、江戸城に集まった武士は500人だけで、全員が同心など下級武士だった。

清国が滅んで中華民国が成立した辛亥革命は、地方軍が反乱軍となり、孫文のもとに革命軍となって清国を倒した。


アメリカがイギリスの植民地から脱した独立戦争は、植民地軍がイギリス軍を倒したから実現した。

もしイギリス軍が植民地軍に勝っていたら、その後のアメリカ合衆国は誕生せず、今日のアメリカもなかった。

同様にロシア軍やフランス軍が裏切らず、革命軍を倒していたら今もロマノフ王朝やフランス王家は続いていたかも知れない。


つまり革命とは市民のデモ行進が始まりだったかも知れないが、軍が革命側に寝返って初めて起きる。

軍が王や国家に忠実なら革命は絶対に起きないので、いくらオウムや赤軍があばれても日本で革命は起きない。

香港には香港軍が存在せず、守備隊すらないのでこれだと革命が起きる可能性は小さい。

香港警察は民主主義に目覚めるか

もし香港で革命が起きるとしたら、東ドイツ崩壊の時のように警察が国家を裏切って市民側に味方した時です。

香港警察の指導部や警官たちが、急に民主主義に目覚めて市民を守るなどありえるのでしょうか?

中国人の役人にそうしたメンタリティがあるとは聞いたことがないし、強きを助けて弱きを叩くのが中国の伝統です。


例えばソ連邦が崩壊した時、共産軍の戦車部隊が市民のデモ隊と遭遇し、市民らは戦車の前に立ちふさがったり寝転んだりして戦車隊は停止しました。

90年の天安門事件でも同じことがあったが、中国共産軍の装甲車は天安門広場の学生約3000人の前で止まる事は無かった。

同じ事は2008年チベット騒乱でも2009年ウイグル騒乱でも起きていて、装甲車に立ちふさがる僧侶を共産軍と治安部隊は蹴散らした。


中国4000年の歴史で軍や警察が「市民のために国家と戦った」など一人も聞いたことがない。

もし香港警察が中国を裏切って市民側につき、香港革命が起きたら、日本人は中国人への認識を変えなくてはならない。

だがその可能性は宝くじで一等が当選するよりも低いでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80437741.html#more.

190. 中川隆[-8921] koaQ7Jey 2019年8月04日 06:52:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3809] 報告
2019.08.04
広島と長崎に原爆が投下されたとき、すでに米英はソ連との戦争を始めていた

 1945年8月6日にアメリカ軍は広島へウラニウム235を使った原爆「リトルボーイ」を落とし、8月9日に長崎へプルトニウム239を使った原爆「ファット・マン」を落とした。その年の末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われているが、晩発性の放射線障害による犠牲者を含めれば、数字はさらに膨らむ。

 その年の3月9日から10日にかけて東京の下町は大規模な空襲で火の海になり、10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が焼き殺され、そのほかの都市も空爆で多くの人が犠牲になった。3月23日には沖縄本島へアメリカ艦隊が攻撃を開始、26日には慶良間諸島へ上陸した。沖縄の第32軍を指揮していた牛島満司令官が長勇少将と自殺したのが6月23日。アメリカ軍は7月2日に沖縄戦の終了を宣言した。

 その間、4月12日にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月上旬にドイツが降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を奇襲攻撃する作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)に命令、5月22日に「アンシンカブル作戦」が提出される。

 その作戦によると、攻撃開始は7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 ソ連へ攻め込んで壊滅したドイツ軍に替わり、アングロ・サクソン軍がドイツ軍とポーランド軍を引き連れて攻め込もうというわけだが、この作戦は実行されていない。参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは7月26日に下野するが、その10日前にアメリカは原爆の爆発実験(トリニティ)を成功させた。これを受けてハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可し、26日にアメリカ、イギリス、中国がポツダム宣言を発表したわけである。

 首相の座を降りた後もチャーチルはソ連との戦いを諦めない。そして1946年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切っている」と演説し、冷戦の開幕を告げたのである。

 デイリー・メール紙によると、​1947年にチャーチルはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ​とするFBIの文書が存在する。

 1932年の大統領選挙でニューディール派のルーズベルトが当選したことを受け、ウォール街、つまりアメリカの巨大金融機関は1933年から34年にかけてニューディール派を倒してファシズム政権を樹立するクーデター計画を立てていた。

 この計画はスメドレー・バトラー少将が阻止、議会でも詳細に証言している。その後の研究でウォール街がナチス時代のドイツを支えていたことも判明しているが、ウォール街はシティ、つまりイギリスの巨大金融機関と深く結びついている。

 ドイツが降伏したのは1945年5月だが、実際は軍の主力は1943年2月にスターリングラードで壊滅している。つまり、その時点でドイツの敗北は決定的だった。それを見てアメリカとイギリスは慌てて動き始め、1943年7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸、1944年6月にノルマンディー上陸作戦を実行した。

 これはソ連軍より先に西ヨーロッパを制圧することが目的で、ドイツ側とも話はついていたはず。スターリングラードでドイツ軍が壊滅してからドイツ軍の幹部たちはアレン・ダレスたちと盛んに接触。その結果、アメリカ政府はナチス幹部などの逃亡を助け、保護し、後に雇用することになる。

 1945年4月に急死したルーズベルトや45年1月まで副大統領だったヘンリー・ウォーレスはウォール街とファシストとの関係を熟知していたはず。ルーズベルトは1938年にファシズムを私的権力が政府を所有している状態だと定義、ウォーレスは44年にファシズムの脅威がアメリカを襲うピークは第2次世界大戦の後だと主張、米英は帝国主義化し、アメリカをロシアとの戦争へ向かわせると警告していた。

 ウォーレスはスキャンダルで副大統領から商務長官へ降格になり、シオニストをスポンサーにするハリー・トルーマンが新たな副大統領になる。ルーズベルトの急死で大統領になるのはこのトルーマンだ。そのトルーマンはウォーレスを嫌い、1946年9月に務長官を辞めるように通告してホワイトハウスから追い出している。その時、すでにチャーチルはソ連との戦争を始めていた。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908040000/

191. 中川隆[-8857] koaQ7Jey 2019年8月10日 06:26:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3876] 報告
米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !? 2013年8月 6日
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ba5e.html


−現人神と神格化され、国民は直接会う事が出来ずご真影を拝まされていた昭和天皇の、これが実像だったのか。戦前昭和、先の戦争、戦後日本に幻滅を覚える−

 本日8月6日は「広島原爆の日」です。昭和20年(1945年)のこの日人類初となる原子爆弾が投下されてから、今年で満68年となります。

 今回はこの広島原爆投下に関して、大変語りづらい「昭和史の真実」を見ていこうと思います。

 こと「日本史」に限ってみても、さまざまな新資料の発見などにより近年各時代に新たな光が当てられ、従前の定説を覆す学説や見方が現われてきています。

 その一つが上古に起きた有名な大化の改新です。従前はこれによって我が国は、より文明的な律令国家へと向かうことになったなど肯定的な捉え方が主流でしたが、それとは異なる負の側面が最近クローズアップされてきているのです(これについてはいずれ記事にするつもりなので、今回種明かしはしません)。

 また一昨年の『真実の近現代概略史(4)』で既に見たとおり、坂本龍馬をはじめとする薩長土肥の下級武士たちが原動力と教えられた明治維新は、実はユダ金ロスチャイルド(&フリーメイソン)が裏で糸を引いていたのでした。

 その構図は日清戦争、日露戦争、日米戦争まで変わることなく続いたのでした(ただし日米戦争頃から米国ロックフェラーが新たに加わった)。

 お断りしておきますが、私が今回のようなことを述べるのは、虚飾に覆われた偽りの歴史ではなく、あくまで「真実の歴史」を知りたいからなのです。
                       
 タイトルとした『米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?』は、実は2011年8月『昭和天皇の戦争責任(1)』記事の中で既に述べられていたことです。「述べられていた」と他人事なのは、この記事は私自身が書いたものではなく、あるサイト記事の転載であるからです。

 この記事には「昭和天皇の戦争責任は明白だ」としか思えないエピソードがふんだんに盛られていますが、今回はそのうち「広島原爆投下」に特化して見ていこうということです。 
                       
 その前に、昭和天皇は先の戦争に本当に関与していたのかどうかだけは簡単に見ておかなければなりません。

 これについては、極東軍事裁判における、日米開戦時の首相だった東條英機の「我々は、陛下のご意志に逆らうことは有り得ないのであります。」という証言がすべてを物語っています。

 なおこの証言を知った昭和天皇は、超A級の戦争犯罪人として処刑されるのではないか、と焦ったそうです。それから天皇は、キーナン主席検事に上流階級の女性を提供するなどの裏工作を必死で行ったというのです。

 終戦までの昭和天皇は宮中の書斎にナポレオン像を置いていたほどの大のナポレオン狂で、太平洋戦争はナポレオンの戦略・戦術をなぞったものだった、という指摘もあります。

 緒戦となる真珠湾攻撃「成功」の報に接した時は、欣喜雀躍したそうです。

 戦時中の天皇は十分聡明で、一つ一つの作戦に御前会議などで直接指令を発していた、というのです。
                    
 このような「戦争好きの馬鹿ロマンチスト」(戦後のある華族の昭和天皇評)という戦時中の天皇の実像の延長線上に、今回問題となる「原爆投下地広島」決定問題があるのです。

 広島に原爆が投下された8月6日の2ヶ月前となる6月、この時点で昭和天皇は原爆投下の情報を当時の実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていたのです。

 もちろんスティムソン陸軍長官から直々にということではありません。同長官はまずグルー駐日大使に伝えました。それから日本側の「ヨハンセングループ」に伝えられ、それを経由して宮中の天皇に届いたのです。

 ヨハンセングループとは何でしょう?これは当時の日本最大の米国スパイグループを意味しています。驚くべきことに「鬼畜米英」が叫ばれていた戦時中に、米国のスパイたちが暗躍していたのです。

 ヨハンセンとはある特定の個人を指す米国のスパイコードネームです。誰かといえば当時外交官だった吉田茂です。戦後名宰相とうたわれ最長政権を築いた吉田の戦前・戦時中の姿はスパイだったのです。

 中心人物の吉田茂のほかに、牧野伸顕、樺山愛輔、岡田啓介、米内光政ら外交官や海軍首脳がいました。当然のことながら彼らは戦後A級戦犯指定を免れています。

 余談ながらー。ヨハンセン吉田の孫が、今「ナチス容認」発言で国際的物議をかもしている麻生太郎副総理です。なお戦後A級戦犯指定を解かれ、首相となり60年日米安保条約を締結した岸信介は、戦後米国CIAのスパイでした。その“偉大な祖父”を尊敬しているのが安倍晋三首相なのです。

 今この国を牛耳る極右政治家二人の祖父が、共に米国の売国スパイだった。何ともグロテスクな構図ではありませんか。

 終戦直後の昭和天皇とマッカーサーとの会見は単なるセレモニーで、実は終戦の前に連合国側は天皇家の存続と昭和天皇の生命、財産の保全を決めていたのです。天皇制をうまく利用する方が日本統治上好都合と判断したからです。

 それを事前に知らされていた昭和天皇は、だからこそポツダム宣言も安心して受諾したのです。

 それはともかく。米国側からヨハンセングループを通して原爆投下地を決定するよう要請された昭和天皇は、「広島」と返答しました。

 なぜ広島だったのか?それには理由があったのです。

 その時点で終戦決定していた天皇にとって、一番の障害となることが予想されたのが陸軍の存在です。終戦と聞いてクーデターを起こしかねなかったからです。

 ついでに言えば昭和天皇は大の陸軍嫌い、裏を返せば「大の海軍びいき」でした。緒戦の真珠湾攻撃からミッドウェーなど各海戦がまず行われたように、日米戦争は海軍主導の戦争だったのです。

 しかし海軍の責任を追及することは天皇の戦争責任に直結するため、戦後その事実は隠蔽され、陸軍にすべての責任を押しつける「陸軍悪玉説」「海軍善玉説」が広く流布することになったのです。

 さて広島には陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部がありました。ここが壊滅すればクーデターが防止できる。そう読みきった天皇は、「広島」と米国側に伝えたのです。

 マンハッタン計画により史上初の原子爆弾を完成させることに成功した米国は、第2次世界大戦のどこかでその威力を確かめたくてうずうずしていました。しかし同じ白人種であるドイツ国民に対して使用するつもりはまったくなく、当初からターゲットは黄色人種の日本国民だったのです。

 歴史の皮肉として昭和天皇が介在し、人類初の原爆が「広島」に投下されました。しかし広島ならずとも、日本の主要都市のどこかに原爆が落とされるのは確定的だったと言えます。

 だから以上述べたことが史実だったとしても、今さらあの世の昭和天皇を責めても詮無いところがあります。しかしこれ一つ取っても、「昭和天皇の戦争責任」は大有り、言い逃れ出来ないはずです。

 それにしても米国の手口は巧妙かつ狡猾です。日本の天皇を人類初の原爆投下の共犯者にしてしまったのですから。以来68年経っても米国政府が日本国民に謝罪しないのは、それが大きな理由なのかもしれません。 

 (大場光太郎・記)

関連記事
『昭和天皇の戦争責任(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-6425.html

『真実の近現代概略史(4)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-ecc7.html

http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ba5e.html

192. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月10日 06:34:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877] 報告

2013年 08月 16日
太平洋戦争は帝国陸軍vs天皇・海軍の戦争だった!
https://nueq.exblog.jp/20859870/


     
     
     
わざと負けた帝国海軍

                           
太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ

日本敗戦の日:1945年8月15日から昨日で68年!


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                     左)8月15日 玉音放送後の皇居前
              右)ポケットに手を突っ込んだマッカーサーと昭和天皇
                         9月27日 米大使館公邸

b0221143_1294967.jpg


                    左)広島原爆投下1時間後の原子雲
                      投下機B29エノラ・ゲイより撮影
                  中)広島原爆CG再現 byクローズアップ現代
                         画像出典 : 浜野巌治
                    右)311:3月15日の3号機の原子雲
                http://stumsky.tumblr.com/post/5390163606/3
           ( ネバダ砂漠での核実験と3号機原子雲の類似写真はこちらをどうぞ )

表題にあるように、「 太平洋戦争 」は、日本 vs アメリカ の戦争ではなく、
帝国陸軍 vs 昭和天皇+帝国海軍+アメリカ の戦争だったのです。

にわかには信じがたいこの構造。
しかし、これは事実です。

一体、なぜ、第2次世界大戦:アジア戦線は起きたのか?
それは偶然か? 必然か?

と、問うならもちろん、「 必然 」 であり、そのように仕組んだ勢力があります。
その辺りの詳細は、若狭和朋さんと鬼塚英昭さんの著書に譲るとして、


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                左) 若狭和朋 「 日本人に知られては困る歴史 」 上下巻
                中) 鬼塚英昭 「 20世紀のファウスト 」 上下巻
                右) 鬼塚英昭 「 原爆の秘密 」 国内編・国外編

若狭和朋さんの著書の内容に関しては

                日本人に知られては困る歴史

で、紹介しています。
日本人必読の書です。

その複雑怪奇な内容と推移を、僕の情報筋からの内容をまとめて、あえて簡略化して云うなら、226事件( 1936:昭和11年2月26日 )によって昭和天皇は極度のトラウマ状態となり、これが原因で上記のような構造へと導かれます。

226事件は、公表的には帝国陸軍:皇道派の青年将校たちが「 昭和維新・尊皇討奸 」「 天皇親政 」をスローガンに企てたクーデター未遂とされていますが、これは事実のホンの一部分を取り上げたものにしか過ぎません。
実際には、昭和天皇を捕獲:廃帝にし、一応公表上、昭和天皇の弟とされている秩父宮を新しい天皇に据えるべく起こした帝国陸軍最強の第2師団( 仙台師団 )に依るクーデターで、青年将校たちの決起はその先遣隊だったのです。
先遣隊の暗殺&天皇捕獲に続いて、仙台から上野に秩父宮と共に向かっていた仙台師団は、帝国海軍陸戦隊が戦車隊まで繰り出して青年将校の先遣隊をが完全制圧したため、プランを断念せざるを得なくなってしまいます。


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                      左) 警視庁を占拠した反乱軍
                         中) 当時の新聞記事
                    右) 上陸した海軍陸戦隊の装甲車

                             画像出典
               中)89歳ブログ:紫蘭の部屋 「 (53)二、二六事件 」
               左右)探検コム 「 写真と証言で綴る『二・二六事件』」

ここに昭和天皇の帝国陸軍トラウマが始まり、これに若狭さんや鬼塚さんが描くところのユダヤと日本に依る満州共同経営を日本側が一方的に反故にしたことが重なって、ゾルゲ事件や帝国海軍:特に山本五十六と米内光政に依る対米開戦と云う日本( = 帝国陸軍 )敗戦へのプランが策定・実行に移されることになります。

つまり、

  1) 帝国陸軍の独走とそれを阻止したい天皇の戦い
  2) 満蒙支配権を巡る
       扶餘チュルク五族協和 vs 満州ユダヤ経営+世界鉄道( 帝国 )
  3) 支那利権を巡る列強の対立
  4) ユダヤ( コミンテルン )撲滅勢力 vs ユダヤコミンテルン世界帝国
  5) コーカソイド( 白人種 )による有色人種奴隷支配のステルス化
       vs 白人支配からの解放を目指す「 大東亜共栄 」

といった、国際的・国内的様々な要因を背景として、1)2)5)を日本の国内条件として「 日本の第2次世界大戦 」が策定されていきます。
また、コーカソイド( 白人種 )ユダヤ・サイドからは、日露戦争の戦後処理(1905)の怨念を契機に、第1次世界大戦(1914) 〜 満州事変 〜 日支戦争 〜 日米開戦 へと連なる一連の流れを作り、世界で唯一コーカソイドに対抗しうる勢力へとその力を回復( 織田信長時代以来 )した日本を完膚なきまでに叩き潰して完全奴隷化・日本解体を目指した30年計画でもあったのです。

予定通りに行けば、日本はドイツのようにアメリカとソ連で分け合う完全植民地となったことでしょう。

ところが、ここで異変が起こります。
アメリカの非ユダヤ勢力が、ルーズベルトのコミンテルン( マルクス共産主義 = インターナショナリズム )路線と、同じく隠れコミンテルンのチャーチル、それに共産主義のスターリンの密約よる世界乗っ取りにどうやら気づいたようで、これがルーズベルトの暗殺に動きます。 クリント・イーストウッド監督 : デカプリオ主演:FBIを造ったフーバー長官の映画 「 J・エドガー 」 は、この辺りの真相をほのめかしています。 そしてこの映画の封切り直前にはルーズベルト直前の大統領:フーバー大統領を描いた「 Freedom Betrayed 自由は裏切られた 」がアメリカで出版されています。 そう、「 自由は裏切られた 」 のです。


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                             J・エドガー
                    左上)執務室に入るフーバー長官
                         左中)機密ファイル
          真ん中の囲みに100%ユダヤ人:エレノア・ルーズベルト夫人の名前
             ルーズベルトはルーツ:スペインではローゼンブルグだった
                   左下) フーバー長官の秘書との問答

異変 : ルーズベルト大統領の暗殺とトルーマン大統領の就任によって、対日戦略は大転換されます。 すでに共産主義国となったソ連、支那の赤化( 共産主義化 )への防波堤とするために日本列島の活用が新戦略として浮上します。

  広島・長崎への原爆投下は対日本戦には不要ながら、
  マンハッタン計画の生みの親:バーナード・バルーク子飼いの
  ジェームス・バーンズ国務長官によってソ連への警告と
  イエローモンキーをモルモットにした動物実験として行われます。
  本当は多くの広島・長崎人が被曝による癌などで大量に死亡してますが、
  そのデータはAABCがすべて持ち帰り、
  被曝による癌などの後遺症や死亡者数は極めて軽重である
  とのマヤカシが日本国内では蔓延しています。

  広島・長崎に原爆を落した本当の訳
  

  ユスタース・マリンズによる内容で、ここでは、
  1945年5月のサンフランシスコの会議を主題としてますが、
  日本との停戦を引き伸ばして原爆を落とすプランは1月には決定されていたし、
  前年の10月頃から計画されていたフシがある。
  5月は原爆完成日程の確定と決定事項の伝達の場だったのだろう。

こうして対共産主義防波堤として、日本に資金と技術を投下して日本の高度成長が始まりますが、旧帝国陸軍勢力と田中角栄+ケ小平による中国の原爆開発が推進されるに至って、アメリカは大方針を再度転換します。
その象徴的事件となったのが、1976年のロッキード事件による田中角栄の失脚、及び1985年の「 御巣鷹山事変 」と、その直後のプラザ合意です。

詳しくは

    フクシマは核兵器製造工場?

をご覧ください。


さて、話題を、帝国海軍の裏切り行為へと戻します。

日本はアメリカとの戦争を絶対避けなければならない。
と云う大前提の下にありました。

ご存知のように、アメリカはヨーロッパ戦線に参入するために、そして絶対にアメリカ人を戦場に送らないと約束して3選したルーズベルト大統領にとって、アメリカ国民が怒り心頭になって逆にルーズベルト大統領に参戦を要求するシチュエーションを必要としていました。

そこに、アメリカの歴代の戦争手口が参考になりました。
古くは、インディアンがやったことにされている頭の皮のまる剥ぎや、アラモ峠の戦いなどで培った偽装先制攻撃を日本に適用することとなり、日本側協力者と共謀して、ハワイ真珠湾への奇襲攻撃と宣戦布告文章の遅刻偽装を行い、これによりだまし討ちの既成事実を作り上げ、狙い通りに「 卑怯なイエローモンキー 」への報復にアメリカ社会が沸騰するように仕向けました。
もちろん、ルーズベルトにはフィリピンのマッカーサーから、日本海軍が真珠湾攻撃を目指して千島列島に集結中との報告は出ていましたが、一切手出しないように指示の電文を飛ばしています。 そしてアメリカ時間12月7日(日)、911の時と同じく、レーダーのスウィッチを落としていたのです。


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                         真珠湾攻撃 と 911
                   どちらもレーダーがOFFになっていた。
                   911直後、子ブッシュが口にしたのが
                     「 リメンバー・パールハーバー! 」
                  ご丁寧にも2001年5月に江沢民出資の
       映画「 パールハーバー 」が封切られ、前宣伝は行き届いていたのでした。


山本五十六による真珠湾攻撃の計画は半ば唐突に登場し、連合艦隊司令長官辞任をちらつかせながら海軍首脳部に迫り、わずか50日前に認められたものです。 これによって南方作戦で対フランス・対オランダを制し、インド洋に進出してイギリスの補給線を断ってエジプトのナチスを側面支援。 同時にインドの独立を達成するというシナリオが根底から覆されてしまいます。
しかも当の山本五十六連合艦隊司令官は真珠湾攻撃時、日本国内から司令を出していたのです。

そして、真珠湾攻撃やその後の展開のポイントを列挙するなら、

 ・ 9年前に米軍は真珠湾攻撃と全く同じシミューレーション演習。
   ※ まるで911の数年前の、WTCに突っ込む3流ハリウッド映画みたいだ。
 ・ ルーズベルトは日本が行動を起こすように仕向けるプランを1年前から用意。
 ・ ルーズベルト大統領は日本海軍の動きと目的をすべて知っていた。
 ・ 対米宣戦布告が真珠湾攻撃に遅れるよう工作した。工作現場担当者は、
   野村吉三郎駐米大使・井口貞夫参事官と奥村勝蔵一等書記官。
   ※ 戦後、井口は米大使に、奥村は事務次官・スイス大使へと大出世。
 ・ 山本五十六は対アメリカ不戦を反故にして強引に対米戦線を開いた。
 ・ 真珠湾で沈めたのは老朽艦ばかり。 空母は無傷。
 ・ かけがいのないハワイの海軍大工場と巨大燃料タンクは無傷。
 ・「 リメンバー・パールハーバー! 」の合言葉となって
   アメリカが第2次世界大戦に参戦するきっかけを作った。


   これによって絶対優勢だった欧州のドイツと東洋の日本が惨敗することになる。

真珠湾攻撃に関して、海軍少将だっだハーバードのモリソン教授は米海軍の依頼で編纂した公刊戦史の中で

  真珠湾に対する攻撃は、日本海軍自らが戦後表明したように、
  まったく戦力的必要からはるかにかけ離れたものであって、
  これは戦略的には愚の骨頂であった。

  何人(なんびと)も戦史上で、侵略者に対し
  これ以上致命的であった作戦の事例を探し求めることは出来ない。
  すなわち、戦術面では恒久的施設( ドッグヤード等 )と
  燃料タンクを攻撃せず、艦船のみに攻撃を集中する錯誤を犯した。
  戦略的に見ればこれは馬鹿げている。
  さらに政略的に見れば、それは取り返しのつかない失敗だった。

  この背信的攻撃が、アメリカ国民をして全力をあげて対日戦争に突入させ、
  また、真珠湾の「 不名誉な日 」を償うには、全面的勝利を得る以外、
  彼らを満足させることがないよう結集させたことから、
  この真珠湾攻撃は最低の戦略だった。

と、酷評しています。

つまり、米内海軍大臣と山本五十六聯合艦隊長官、南雲機動部隊司令官は、アメリカ側が望むすべてを提供し、日本が敗戦に至るすべての条件を設定したわけです。
https://nueq.exblog.jp/20859870/


わざと負けた帝国海軍
https://nueq.exblog.jp/20859900/

太平洋戦争は

             帝国陸軍 vs 昭和天皇+海軍+アメリカの戦争

            GHQが使用を禁止した「 大東亜戦争 」と云う言葉

         ユダヤ:コミンテルン vs 反コミンテルンの第2次世界大戦
            コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義

                         講演会のお知らせ


更に、海軍は

 ・ 長期持久戦の戦略方針を捨てて、いきなり無謀ともいえる
   積極的な太平洋前面攻略に着手する。
   つまり、アリューシャン列島・ミッドウェー経由でハワイ攻略、
   オーストラリア北部〜フィジー・サモア攻略を計画。


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                        画像出典 : 戦跡の歩き方


軍事のいろはの「 い 」は、補給 = ロジスティック。
補給線が長く伸びきってしまえば、時間がかかる。 補給線を分断されやすい。
「 無謀な太平洋攻略 」 とは、このことで、ワザと負けるために方針転換したと
云っても過言ではないお粗末さです。


そして起きたのが、ミッドウェー海戦での大惨敗。
山本五十六の指示で南雲機動部隊がミッドウェー攻略に出撃するが、圧倒的に優勢だった日本海軍が、まさかの空母4隻の沈没:機動部隊の壊滅と云う前代未聞の惨劇となる。
アメリカ側の空母は沈没は3隻中の1隻。
ここから日米の形成は逆転してしまい、以降は連戦連敗の敗走を続けることとなります。


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                     左)大爆発を起こす空母「 加賀 」
        右)311の放射線線量と何も変わらない戦中の隠蔽・改竄の大本営発表
                               ↑
                      時系列が逆ですが。。。(^o^)ゞ

しかも時の総理大臣:東条英機には知らせることなく、東条は一ヶ月以上遅れてミッドウェーの真実を知ることになる。 自軍の壊滅を知らずして一体どのような戦略が組み立てられるのだろうか?

 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃をゴリ押しした。
 ・ 出撃の目的は敵機動部隊の殲滅にありながら、
   南雲司令官はミッドウェー島攻略を主眼とした。
 ・ 当初空母艦載機は艦船攻撃用の魚雷を装着していた。
 ・ 偵察機出動30分前、突然ベテラン偵察員がはずされ、
   初出動の新米偵察員に交代させられる。
 ・ 偵察機があろうことか、雲の上を飛んだ。
   雲の上から偵察など出きっこない! ( 日本はレーダーを持ってない )
 ・ 敵空母艦隊がいないので魚雷を地上攻撃用の爆弾に装着換え。
 ・ 偵察機は帰りに雲の下を飛んでやっと敵空母艦隊を発見。
 ・ 敵空母艦隊近接情報で爆弾を魚雷に再度装着換え。
 ・ 装着換え中に敵航空部隊が襲来し、空母4隻他機動部隊壊滅。
 ・ ベテランパイロットほぼ全滅。
 ・ 山本五十六はミッドウェー攻撃直前、呉で愛人と同宿。
   まるで311当日の盗電:清水社長の赤坂:韓国キャバレーみたいだ。


そして1943年4月18日、山本五十六はラバウル近傍で米軍機の攻撃で墜落。
死亡と伝えられていますが、果たして、、、、、、
ノリエガ、フセイン、ビン・ラディンなどの例もあるように
本人の希望通り戦後は南洋の島かハワイで優雅な一生を送ったとも考えられます。

帝国海軍はその後も更に、

 ・ トラック諸島、ガダルカナル、ニューギニアにおける戦略上の大錯誤。
 ・ マリアナ沖海戦( 日空母7隻 vs 米空母15隻 )での七面鳥撃ちで
   日本海軍ほぼ全滅状態に。
 ・ フィリピン:レイテ沖海戦での「 栗田艦隊謎の反転 」
   防備丸空きのマッカーサー本隊を目前になぜか突然の反転・戦線離脱。
   栗田は戦後、栗田工業を起こし、東証一部企業に。
 ・ 90万人の帝国陸軍を南洋に無理やり送り込みながら
   海軍は補給を行わず、陸軍兵士の9割は飢餓や
   栄養失調・免疫低下に伴うマラリアで死亡。
   戦闘で死亡したのはたったの1割と云われている。


と、日本敗戦に向けて忠実に布石を打っていったように見受けられます。


縷々検証してきたように、海軍の行状は、アメリカに参戦の口実を与え、帝国陸軍の戦力を削ぎ、ワザと日本が負けるように振る舞った。としか言い様がありませんし、事実そのような意図を持っていた。とある筋より聞かされています。
また、当時海軍内では、「 主敵は陸軍だ! 」とも叫ばれてたのです。

こうした海軍の行状や戦場での状況は海上自衛隊作戦幕僚などを歴任した是本信義さんの著書の中で詳しく論じられています。

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              是本信義 「 誰も言わなかった海軍の失敗 」 2008/07

                 是本信義
                 1936年 福岡県生まれ
                 1959年 防衛大学校卒業
                 1959年 海上自衛隊入隊
                        護衛艦艦長、護衛隊司令、
                        艦隊司令部幕僚、総監部防衛部長、
                 1991年 海上自衛隊退官
                 2006年 民間企業の経営職を経て執筆活動に専念

           是本氏は、枝葉末節から枝ぶり・幹・樹、そして森に至るまで
           見事に描ききっていますが、
           残念なことになぜ、そこに森があるのか?
           森を育んだ環境・地勢(地政)学的視野がありません。
           つまり、なぜ失敗したのか?
           について、最初から画策されていたと云う 「 政略的・地政学的 」 視座がない為、
           帝国海軍の不甲斐なさが強調される結果となっています。

そして、御前会議の内容は翌日にはアメリカ側に伝わっていました。
その連絡ラインが、鬼塚英昭さんによると、吉田茂 〜 樺山愛資( 貴族 )〜 駐日アメリカ大使:グルーのラインでリークされていたとのことです。 そしてグルー大使離日後は、吉田茂が直接ヨーロッパ経由で伝えていたものと推測されます。
日本軍の暗号も、その暗号表が事前にアメリカ側にもたらされていたとしても別に驚くにはあたりません。


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ゾルゲグループに依る日独伊3国同盟への誘導と、ソ連をドイツと挟撃する戦略への誘導、それにヨハンセングループによる日本国内のトップシークレットの連合国側へのリークなど、昭和天皇を中心とする日本敗戦への綿密な深層潮流の準備がなされていたことが窺えます。

ところが、太平洋戦争緒戦段階での日本軍の快進撃が、昭和天皇に色気を出させた様だ。 とある情報筋は伝えています。 もちろんその内容はアメリカ側に筒抜けです。
これが、アメリカ側による停戦回避 = 過酷な日本攻撃と、2発の原爆を誘い込んだ可能性も指摘されています。

また、黒田善治と云う重慶から司令を出す天才的魔物は、一体どこからの司令を受けて日本を支那大陸の底なし沼に誘い込んだのでしょうか?

その中枢には上で触れたように「 コミンテルン = インターナショナリズム = 共産主義 」と云うドス黒い世界的な闇が広がっていますし、その対抗軸としてレトリック的に( 言葉上の意味合いで )誕生した 「 自由主義経済 」陣営なるものの両天秤を操るユダヤ金融勢力、或いはユダヤを隠れ蓑に用いる青い血が身体に流れる勢力、更にそれらと対抗する自由を標榜する勢力など、 現代に至る難問が待ち受けているようです。

進駐してきたアメリカGHQは、30箇条の検閲により、「 大東亜戦争 」と云う語の使用を禁止し、「 太平洋戦争 」なる単語を作り出します 。 「 大東亜戦争 」と云う語に含まれる「 アジアの正義の確立 」と云う匂いを完全に抹殺し、「 日本によるアジア侵略 」と云う概念を日本人やアジア人に植えつけるための政策です。

「 日本の侵略 」と云う語を今では何の抵抗もなく使うニッポン人が多いですが、侵略者は16世紀以来変わることなくコーカソイドの連中です。

   ※ コーカソイドの中に僕は多くの友人を持ちます。
      コーカソイドの連中 と云うのは、勢力としての。
      と云う意味であり、一般の生活者のことではありません。

アジアの国々は、コーカソイド+ユダヤによる分断工作により、いがみ合う関係に陥っています。 中華民国も中国共産党もアメリカやユダヤ・コミンテルンによって誕生し操られてきた勢力です。 それは昭和天皇や帝国海軍が同じように操られ、国内騒動を拡大した結果として招いてしまった第2次世界大戦アジア戦線であり、戦後のアメリカ植民地と化してしまった現在の亡国ニッポンの姿です。 幕末、徳川慶喜が最も恐れたのが国内を二分する内戦状態。 慶喜の恭順によって国内戦は最小限に食い止めることが出来ました。( 薩長の東北追撃戦は英米の内戦拡大の意を受けてのことです。)

そろそろニッポン人は、にほん人へと目覚める必要があるのではないでしょうか?


                     Japanって、どこの国よ?
                     ジャパンとニッポンとにほん


亡国日本、その最期のトドメが 「 TPP 」 です。
これを阻止し、フクシマの棺桶化や全国の土壌除染を行い、全国民に内部被曝完全除去を無料で実施し、侵略者:コーカソイド支配層をこの地球上から葬るためにも、現在の 「 明治簒奪ニッポン政府 」 を叩き潰し、日本人に卑屈な 「 お上 」 根性を植え付けてしまった江戸時代を逆上って、ヨーロッパによるアジア蹂躙を蹴散らす勢いだった 「 大うつけのバサラ 」 織田信長時代の 「 にほん人 」を取り戻し、にほん人によるにほん人のためのにほん政府を創り上げようではありませんか!


                         ザビエル 〜 黒船 〜 TPP
                織田信長 = チンギス・ハーン + レオナルド・ダ・ヴィンチ
                          安倍晋三 = 井伊直弼

   

https://nueq.exblog.jp/20859900/

193. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2019年8月15日 18:14:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3902] 報告
2019年08月15日
終戦直前 韓国・北朝鮮を生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き

ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。

画像引用:https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mili/sov808-jlp02617204.jpg

瀬戸際の駆け引き

現在の私たちは朝鮮半島の真ん中で北朝鮮・韓国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏の朝鮮半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によって韓国と北朝鮮が誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義の朝鮮民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。

またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「朝鮮自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。


全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、朝鮮半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北朝鮮に取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北朝鮮を独立させる気はなかったが、韓国との対抗上なりゆきで北朝鮮を建国した。
http://www.thutmosev.com/archives/80699739.html

194. 中川隆[-8820] koaQ7Jey 2019年8月16日 21:38:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3922] 報告
玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/08/15/223058

2019-08-15

今日は敗戦の日(昭和天皇裕仁が、連合国に無条件降伏することを自らラジオ放送で表明した日)だが、その内容の現代語訳をハフィントンポストが紹介してくれている。

これを見ると、そのいわゆる「玉音放送」においても、裕仁の発言は嘘だらけだったことがよくわかる。

玉音放送を現代語にすると...「耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して...」【終戦の日】
https://www.huffingtonpost.jp/2017/08/14/emperor-broadcasting-decleartion_n_17752858.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

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私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。

私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。

そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。

私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。(略)
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よく言うよ。

1943年5月31日に御前会議で決定された機密文書「大東亜政略指導大綱」には次のように書かれている。

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第二 要綱
(略)
四、対緬(ビルマ=ミャンマー)方策
  昭和18年3月10日大本営政府連絡会議決定 緬甸独立指導要領 に基づき施策す
五、対比(フィリピン)方策
  成るべく速に独立せしむ
  独立の時機は概ね本年10月頃と予定し、極力諸準備を促進す
六、其他の占領地域に対する方策を左の通定む
  但し(ロ)(ニ)以外は当分発表せず
(イ) 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発ならびに民心の把握に努む
(ロ) 前号各地域に於ては、原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ
(ハ) 「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては、前二号に準じ追て定む
(ニ) 前記各地に於ては当分軍政を実施す
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

マレーシアとインドネシア主要部(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス海域)は、欧米植民地からの解放どころか日本領土に編入してしまう方針が明記されている。ニューギニア等の地域もいずれ日本領にするつもりだった。

また、この「大綱」ではビルマとフィリピンは独立させるとしているが、いずれも傀儡政権であり、「独立」は見せかけだけのものだった。[1]

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 日本は43年8月ビルマの、10月フィリピンの「独立」を認め、両国での軍政は形式上は廃止された。しかし42年8月の「軍政総監指示」は「この独立は軍事、外交、経済等にわたり帝国の強力なる把握下に置かるべき独立なる点特に留意を要する」としており、日本の軍事的支配という実態はかわらなかった。

 この両国および満州国・汪政権・タイなど対日協力政権の代表者を東京にあつめて、43年11月、大東亜会議が開かれ、「大東亜共同宣言」を発表したが、占領の実態からかけ離れた美辞麗句をならべたものであった。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

だいたい、フィリピンは日本が「独立」させるまでもなく、以前から米国が1946年7月に独立を与えると約束していた。(戦後、約束どおりフィリピン第三共和国として独立。)いや、そもそもアジア太平洋戦争自体、日本が長年にわたって中国を侵略し、その領土を掠め取る戦争を続けてきたことの必然的帰結だったではないか。

なにが「他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない」だ。

また、最終的に降伏を決断した理由も、人民の犠牲を憂慮してのことなどではなく、このまま戦争を続けては自分たち天皇家が神の子孫だという神話的正統性(=「国体」の本質)を担保する「三種の神器」が失われることを恐れてのことだった。[2]

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
 また、「独白録」をみても、天皇が皇位の正統性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。「三種の神器」とは、歴代の天皇が継承してきた三つの神宝、八咫の鏡、草薙の剣、八尺瓊の勾玉の総称であり、そのうち伊勢・熱田両神宮には鏡と剣が祀られている。この「三種の神器」の喪失が「国体」を危うくするという論理は、あまりに神権主義的な色彩が強いために、現代のわれわれには理解しにくいが、現実の天皇の意識のなかでは、こうした判断が大きな比重を占めていたのだろう。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

総力戦の末の敗戦という最終場面に至っても、裕仁は人民には平気で嘘を語っていたのだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.411-412
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.221
 

195. 中川隆[-8781] koaQ7Jey 2019年8月17日 21:01:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3961] 報告

NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け
http://kenpo9.com/archives/6230
2019-08-16 天木直人のブログ

 たったいま、NHKニュースウオッチ9が衝撃的な史実を報じた。

 すなわち、初代宮内庁長官が書きとどめていた昭和天皇の反省の独白が公表されたのだ。

 明日以降、あらゆるメディアが大騒ぎして報じるであろうから、ここではその詳細を繰り返さない。

 私がここで強調したい事は、ここまでの史実が見つかったのである。

 この国の政治家たちは、戦後の日本のあり方を、もう一度根本的に議論して、令和時代にふさわしい民主国家日本をつくり直す作業に取り掛からなければいけなくなった。

 そして、日本国民は、政治家たちにそれを要求し、いまこそ自分たちの手で日本をつくり直す、つまり、はじめての民主革命を起こさなければいけなくなったのだ。

 この昭和天皇の告白を日本の夜明けにつなげなければいけない。

 天皇制を、日米安保体制を、憲法9条を、そして何よりも歴史認識を、根本的に考え直さなければいけなくなったのだ。

 私は懸念する。

 冒頭で私は書いた。

 明日からあらゆるメディアが大騒ぎして報じるだろうと。

 しかし、そうならないおそれがある。

 封じ込められるおそれがある。

 いまさら市民革命が起きては大変なことになるからだ。

 安倍首相の祖父である岸信介の大罪が追及される事になるからだ。

 なによりも安倍首相の歴史認識や外交が糾弾されるからだ。

 実際のところ、NHKは古川隆久という学者を登場させて要領の得ない解説をさせていた。

 古川隆久という学者は、みずから解説するのではなく、こういうべきだったのだ。

 こんな重要な史実を、私ごときが解説などする資格はないと。

 すべての歴史学者、政治家を総動員して、国民に本当の解説をしてあげなければいけないのだと。

 私はこころから願う。

 この昭和天皇の告白について、これからどんなに時間をかけてもいいから、国民的議論を行って、最後は国民が結論を出すようになることを。

 そして国民がそれでも、これまでの戦後の日本でいいと言うなら、それが日本の市民革命の結果だ。

 私はそれに従う。

 しかし、その前に、どうしても、昭和天皇の告白の評価は、国民が審判を下さなけければいけない。

 いよいよ新党憲法9条の出番が来るかも知れない。

 歴史が動く大きな地響きを感じざるを得ない(了)

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html
2019年8月16日 19時00分 NHK


動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html

天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」

さらに昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「現代生きる者にも重い記録」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

専門家「発言をほぼそのまま記録 非常に珍しい」

日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。

そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。


53. 2019年8月17日 14:38:31 : sIEk2edIV2 : cWlVdkZLR2wxWlE=[15]

『拝謁記』を遺した田島道治さんが宮内庁長官だった時期は、1948年(昭和23年)6月5日から、1953年(昭和28年)12月16日までの期間である。
この間、極東国際軍事裁判(1946年5月3日〜1948年11月12日)と、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)が、おこなわれている。

極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴は、1946年4月3日に極東委員会(FEC)が決定している。

英国は、第二次世界大戦終結と同時にソ連を敵国視する政策を始め、さらに現実に朝鮮戦争が勃発したことにより、日本の再軍備がGHQの政策
として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。

『拝謁記』は、既に「天皇は陸軍を掌握できていなかった」という「陸軍主犯説」が固まった時期以降の、昭和天皇の見解を述べている。

私は、昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないかと疑っている。

この点を解明するために、終戦前までの昭和天皇の作戦指導に関する記録や、終戦後から極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴決定に至るまでの、1946年4月3日以前の軍の資料や外交文書の発掘や開示が待たれる。


🔴 菊地史彦『昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理』
 
(論座,2019年04月30日)

「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。

 3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。

 以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。
 
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019043000002.html


🔴 第二復員省

《極東国際軍事裁判対策》

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。

裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。

そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ(英語版)准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

#NCC




56. 2019年8月17日 15:47:53 : aRgWENoWVg : RzZUQW9lTWUycjI=[17] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないか
例えば、1939年5月11日から1939年9月16日に起きたノモンハン事件では、大きな被害を出しながらも、関東軍の現場の指揮官たちは戦闘続行を強く望んでいたが、陸軍の参謀本部が出した作戦の終結を命じる『大陸命第343号』に従っている。

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いたという『昭和の動乱』には、「勅命」により、ノモンハン事件の停戦がおこなわれたと記されている。

収監中の重光葵が、昭和天皇へのGHQや国民への心証が良くなるよう、昭和天皇が平和主義者であることを印象づけるために、「ノモンハン事件」の停戦命令が昭和天皇の指示で出されていたことを強調しているように見える。

たしかに、陸軍に、「結果良ければ全て良し」の気風があり、結果が天皇が喜びそうな作戦であれば、独断で無謀な作戦にも独断専行で挑む傾向があったとは考えられるが、「勅命」である『『大陸命』に公然と逆らう気風があったとは考えにくい。

「ノモンハン事件」に限らず、陸軍が、停戦命令の時だけは、天皇の作戦の指示通りに動き、作戦開始時は全て陸軍の独断専行でおこなわれたと考えるのは、不自然ではないだろうか。

今日、陸軍の独断専行でおこなわれたとされている無謀な作戦のいくつかは、昭和天皇が作戦立案時に関与していたと考える方が自然ではないだろうか。
 
 
🔴 ノモンハン事件
 
《停戦成立までの戦闘》

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた。

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた。

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
  
🔴 重光葵(著)『昭和の動乱』

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いた、貴重な昭和の外交記録である。上巻は満州事変から宇垣内閣が流産するまでの経緯を世界的視野に立って描く。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2001/10/203918.html




61. 2019年8月17日 16:25:57 : QUN9jnHBkE : YWEwZjhoQlhMa1U=[12] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>日本の再軍備がGHQの政策として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。
 
 
昭和天皇が3度目に退位の可能性について言及した1951年から1952年にかけての時期は、朝鮮戦争中であり、サンフランシスコ講和条約が締結され、発効する時期に相当する。

1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAの協力者に対して、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。

戦後の皇室とGHQ・CIAとの関係は深く、天皇の「お言葉」ですら、米国政府の意向により形づくられていったように思う。
 
現在の安倍政権で自民党が掲げている憲法改正案も、戦後に、CIAから皇族の高松宮宣仁親王に働きかけた『日本の再軍備構想』の延長線上のものである。
 

◆ 野村吉三郎
(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)
CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)
(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c53

196. 中川隆[-8761] koaQ7Jey 2019年8月18日 20:40:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3981] 報告

78. 2019年8月18日 11:05:08 : 8OmLBqbYio : dFN4QS91VjU0amM=[3]

70、80年も経って、極秘文書が発見された云々と大騒ぎをやらかすのは、怪訝で、奇異なことだ。
バーガミニは、当時一級の資料を用いて、裕仁の陰謀を余すことなく、描き出した。

戦後、マッカーサーは、関係者を脅迫して、戦争の責任が、裕仁ではなく、偏に当時の政府・軍にあるように、半ば強制した。

来たる東京裁判では、すべての責任を、東條に押し付けることで一致していた。

> Fellers and MacArthur employed
simple intimidation. All Japanese officials and military
officers were expected to take the line that responsibility
for the war lay exclusively with the government and the
military; the emperor was not in any way to blame.・・・・
It would be best to blame all responsibility on Tojo.'


同時に、米国内向けに、平和主義者で、民衆と交わる裕仁のイメージアップ作戦が行われた。

> Starting in February 1946, the emperor was
put on the public relations
circuit, promoting his new image as a great
pacifist, touring Japan and shaking hands with the people.
(以上、Yamato Dynastyからの引用。)


記事の内容から、拝謁記も、この線にそって書かれていることは明白だ。




80. 2019年8月18日 17:11:55 : hHRyrQsPsY : Nk5rVnVxSUM2Vk0=[190]

>>78さん、同感だ。

天皇が「後悔している」と言うのは「後悔していない」と言うよりもその方が自分の安全に繋がるからであって、何も驚くことではない。本当に心から悔いているのであれば、もっともっと沢山の闇の中の真実を告白する筈だ。
バーガミニも「ヒロヒトが操り人形で真珠湾攻撃を12/2まで知らされていなかったというのは嘘だ」と暴露している。

「大海令第一号」(真珠湾作戦計画書)は天皇、2~3の皇族、永野、杉山、山本と数人の腹心だけが知っていた。


天皇「海軍は何日を(攻撃)メドにしているのか」

永野「12月8日」

天皇「それは月曜日ではないのかね」(ハワイ時間では7日、日曜日)

永野「休みのあとは誰でも疲れているでしょうからその日を選びました」

以上杉山メモより。

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#cbtm

197. 中川隆[-8728] koaQ7Jey 2019年8月21日 05:50:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4016] 報告
鴻毛より軽い、天皇の責任感の希薄さ。田島道治「拝謁記」に見る天皇の「肉声」(澤藤統一郎の憲法日記)

 
「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」。これが、「朕」が兵士に下した軍人勅諭の一節である。230万人もの「兵」が、この勅諭にしたがって、鴻毛より軽い死を余儀なくされた。

一方、上から目線で勅諭をたれた「朕」の責任はどうだったか。古来戦のあとには、敗軍の将は死をもって敗戦の罪を贖った。兵を語らず、言い訳をすることなく。敗戦時自決した軍人は少なくない。そんな政治家もあった。自決は忌むべき野蛮な風習だが、自己を一貫するための痛ましい選択であったことは、理解し得ないではない。それほどにも、自らの責任の重さを感じていたということなのだ。最高責任者である「朕」の場合はどうだったのか。ヒトラー・ムッソリーニと並び称されたヒロヒト本人に、いったいどれだけの責任の自覚があったか。

「朕」は、230万の英霊だけにではなく、「朕」のために犠牲になった民間人80万人に対しても、アジア太平洋戦争で皇軍によって殺戮された2000万人の人の死にも責任を取らねばならない。その責任の重さ心苦しさには計り知れないものがあるに違いない。そう考えるのが常識というもの。いや、下々の浅知恵というもの。

初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」公開が話題となっている。昭和天皇(裕仁)の「生の声」が甦ったとされる。NHKは、番組のサブタイトルに「語れなかった戦争の悔恨」とつけた。さぞかしの、慚愧・苦悩・悔恨の「肉声」かと思いきや、何のことはない。責任転嫁・見苦しい弁明をしようとして、許可されなかったというだけのこと。

彼がいう「反省」とは、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事がある」などいう程度のもの。「国民皆に反省すべき悪い点があった」とは、「私だけじゃない」という開き直りの弁明。これを毎日社説は「天皇から国民や他国への謝罪というより、日本人全体が軍の独走を止められなかったことを皆で「反省」しようという趣旨のように読める。」という。そのとおりだ。

それだけではない。「朕」は、再軍備と憲法改正の必要性にまで、言及していたのだ。およそ新憲法の精神を理解せず、君主意識をもったまま。主権が国民に移行した意味すら、分かってはいなかったのだ。

「英霊」諸氏よ。武器も食糧もなく戦場をさまよって餓死した英霊の諸氏よ。特攻という名の自殺を強いられた英霊の諸氏よ。あなた方に死を命じた人は、このような、この程度の人物なのだ。

とりわけこう言っていることが驚きではないか。

「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」

これは、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った1951年8月のこと。「退位したら、『私の場合むしろ好む生活のみがやれる』『むしろ楽』」と考えていたのだ。これが、多くの人を死に追いやった人の発言だろうか。こんな人物のために多くの人が殺し合い、尊い命を失った。

この「朕」の信じがたいほどの無責任ぶりをいかがお考えだろうか。都合の悪いことは国民に知らせず、ベールに包まれた一握りの権力者による忖度の政治。権力や権威に対する批判の言論が封じられた政治の行き着く先が、このような無責任の横行なのだ。実体のないものを有り難がったり、畏れいったりすることをやめよう。昔のこととして看過せず、今の教訓として、よく噛みしめようではないか。
(2019年8月20日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13231  

198. 中川隆[-8683] koaQ7Jey 2019年8月25日 02:03:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4066] 報告
 



「拝謁記」にあったのは「昭和天皇の反省」じゃない 戦争責任回避、侵略への無自覚、改憲再軍備主張、沖縄切り捨て…
https://lite-ra.com/2019/08/post-4921.html
2019.08.24 「拝謁記」昭和天皇は「反省」していたか 改憲再軍備、沖縄切り捨ても リテラ

   
   NHK NEWS WEB「昭和天皇『拝謁記』戦争への悔恨」より


 昭和天皇の「肉声」を伝える新史料が話題となっている。アジア・太平洋戦争での敗戦後、初代宮内庁長官・田島道治が昭和天皇との面会の際のやり取りを記録した「拝謁記」だ。

 長年、田島の遺族の間で極秘に保管されていたものをNHKが入手、『NHKスペシャル』でスクープしたのだが、そのNHKと新聞各紙が、拝謁記の内容としてこぞって大きく取り上げているのが、昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたというくだりだ。

 1952年5月3日のサンフランシスコ講和条約発効を祝う式典での「おことば」を巡って、田島長官に「ともすると昔の軍にかえる様な気持をもつとも思えるから、私は例の声明メッセージには反省するという文句は入れたほうがよいと思う」「私は反省というのは私にも沢山あるといえばある」と、繰り返し戦争への反省を自らの口で語りたいとの希望を伝えていた(引用者の判断で旧字体等を改め句読点を付した。以下同)。

 しかし、田島が天皇からの聞き取りをもとに草案を作ったところ、時の首相・吉田茂から、「反省」の一節全体を削除するよう要請されたのだという。

 周知のように、昭和天皇は公の場で自らの戦争責任について一切言及してこなかった。1975年の昭和天皇訪米後の記者会見(10月31日)で、ロンドン・タイムズの日本人記者から「戦争責任について、どのようにお考えになっておられるか」と予定にない質問を受けたときも、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」とはぐらかした。

 昭和天皇が側近らに「戦争への悔恨」を度々口にしていたということはこれまでの研究でも明らかになっていたが、いま、マスコミは拝謁記報道でわざとらしく「やはり昭和天皇は戦争責任を感じていた」「反省の意を国民に表そうとしていた」と驚いて見せているのだ。

 だが、この拝謁記で明らかになった事実は、そこまで評価すべき話なのだろうか。そもそも、声明に「反省の意」を込めようとして削除されたというが、天皇の意向を踏まえて田島が作成し、吉田茂から削除を要請されたくだりは以下のようなものだ。

〈勢の赴くところ兵を列強と交へて破れ、人命を失い、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて悔恨悲痛、寝食為めに安からぬものがあります〉

 ようするに、列強に無謀な戦いを挑んで、敗戦し、自国の国民の命と領土を失ったことに悔恨の念を述べているだけで、アジア諸国への侵略や虐殺への加害責任、反省を述べているわけではない。

 そして、吉田茂からの削除要請に対して、昭和天皇は当初、「私はそこで反省を皆がしなければならぬと思う」と抵抗していたものの、田島から「国政の重大事 政府の意思尊重の要」「祝典の祝辞に余り過去の暗い面は避けたし」「遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ」という3点を説得された結果、「長官がいろいろそうやって考えた末だからそれでよろしい」「いや、大局から見て私はこの方がよいと思う」と、削除を了承しているのだ。

■宮内庁内部で削除を進言されていた天皇の「事志と違い」という戦争責任回避の言葉

 しかも、「拝謁記」によれば、昭和天皇は戦争責任を背負うどころか、自らの責任を否定するような発言もしていた。

 実は草案の作成過程では、吉田茂に見せる前に、宮内庁に反対された箇所があった。それは「事志と違い」、つまり、開戦が「私の意志ではなかった」という天皇のエクスキューズの文言だった。

 報じられている拝謁記の内容からは、これが天皇の強い希望で入れられたものであることがわかる。それは、田島がその削除を昭和天皇に進言した際のことだ。田島が宮内庁内部の意見として「何か感じがよくないとの事であります」と説明すると、昭和天皇は、「どうして感じがよくないだろう。私は『豈、朕が志ならんや』といふことを特に入れて貰ったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」「私はあの時東條にハッキリ、米英両国と袂を分かつということは実に忍びないといったのだから」と抗弁。開戦が自分の本意ではなかったこと、開戦の詔勅にも「豈、朕が志ならんや」という文言を入れさせたことなどを強調していた。

 拝謁記には、これに対して、田島が「陛下が『豈、朕が志ならんや』と仰せになりましても結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が宣せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければよいではないかという理屈になります」と諌めたことも記録されている。

 他にも、拝謁記には、昭和天皇の責任転嫁や保身としか思えないような発言が出てくる。

「私の届かぬところであるが、軍も政府も国民もすべて下克上とか軍分の専横を見逃すとか、皆反省すればわるいところがあるから」

「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうする事も出来ぬという事になっていた」

「事の実際としては下克上でとても出来るものではなかった」

■天皇の開戦の責任、そして、無条件降伏の決断を引き延ばした責任

 改めて指摘しておくが、昭和天皇がいくら戦争は本意ではなかったと主張しても、その責任を免れることはできない。戦後、保守派は「天皇は戦争を避けたがっていたが、軍部が暴走した」などというロジックで、天皇の戦争責任を回避しようとしてきたが、これは戦中日本の加害性を矮小化するためのまやかしにすぎない。

 なぜなら、天皇は大日本帝国憲法において〈国の元首にして、統治権を総覧〉し〈陸海軍を統帥〉する存在であり、最終的に天皇の承認なしには開戦も終戦もできなかったからだ。実際、対米英戦争は1941年12月8日の昭和天皇による「米国及び英国に対する宣戦の詔書」で始まり、1945年8月15日の「大東亜戦争終結の詔書」で終わっている。

 天皇を擁護する人たちは、昭和天皇が立憲君主制に則って、ただ天皇を輔弼する内閣の決定を追認しただけのように言うが、その追認こそが問題なのだ。しかも、天皇は内奏を通じ、政策決定の過程に自らの主体的な意見を反映させることができた。関東軍による張作霖爆殺事件に激怒し、田中義一首相に辞任を勧告した(田中内閣の総辞職)ことは、国政における天皇の影響力発揮の最たる例だろう。しかし、開戦時も戦争中も、そうした大権を行使することなく、戦争遂行を「追認」したのである。

 また、巷間では昭和天皇の“超立憲主義的行為”のうち無条件降伏の決断(いわゆる「聖断」)ばかりが着目されがちだが、その「聖断」を引き延ばしたことによって、本土空襲の激化や広島・長崎への原爆投下など大被害を招いたことも忘れてはならない。

 1945年2月、すでに敗戦濃厚のなか、時の首相近衛文麿は昭和天皇に早期の講和実現を訴えた(近衛上奏文)。が、その進言を昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」として否定した。局地的であれ戦闘に勝利をおさめることで、皇統維持などの「条件付き講和」へ持っていこうという「一撃講和論」であり、同年の無謀な沖縄戦はその結果として行われたと言っていい。「無条件やむを得ず」の早期講和論へようやく舵を切ったのは5〜6月頃とみられている。要するに、どこをどうとっても、天皇の戦争責任は明らかなのだ。

 しかし、昭和天皇は在位中、こうした戦争責任を公の場で認めることはなかった。そして、今回、明らかになった拝謁記のなかでも、天皇はけっして自らの戦争責任を認めてはいない。

 それどころか、逆に、戦争は自分の本意ではなかったことを強調し、止めることができなかったのは、東條英機や軍部が暴走し、どうすることもできなかったのだと繰り返し弁明している。

 マスコミは今回の拝謁記報道で「天皇が戦争の反省にこだわったことがうかがえる」と評していたが、その戦争への言及を見ると、昭和天皇が本当に「反省」していたとはとても思えない。

■改憲「侵略者がある以上軍隊はやむを得ず」沖縄米軍基地も「犠牲はやむを得ぬ」

 その印象は拝謁記の戦後体制をめぐる天皇の発言を知ると、ますます強くなる。拝謁記には、天皇が日本国憲法に不満を抱いている発言がいくつも出てくる。サンフランシスコ講和条約祝賀式典での「おことば」をめぐって、「憲法の総ての条項に賛成ととれぬように書いて貰はないと困る。それかといって憲法自体わるいという事ではないから」と注文をつけていたことが記録されている上、以下のような改憲による再軍備も主張していた。

「私は憲法改正に便乗して、外のいろいろの事が出ると思って否定的に考えていたが、今となっては他の改正は一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様に思う」
「軍備といっても国として独立する以上必要である。軍閥がわるいのだ。それをアメリカは何でも軍人は全部軍閥だという様な考えで ああいう憲法を作らせるようにするし」

 そして、1951年3月には「侵略者のない世の中になれば武備は入らぬが、侵略者が人間社会にある以上、軍隊は不得已(やむをえず)必要だといふ事は残念ながら道理がある」と発言し、田島から「その通りでありまするが憲法の手前そんな事はいえませぬし、最近の戦争で日本が侵略者といわれた計りの事ではあり、それは禁句であります」と諌められている。

 これは、天皇には戦後も相変わらず自分たちが「侵略」をはたらいていたという意識が希薄だったことの表れ、というしかない。

 さらに決定的なのは、沖縄米軍基地について語った発言だ。「拝謁記」によれば、サンフランシスコ講和条約発効後の1953年11月24日、昭和天皇は田島に対し、こう述べている。

「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一応もっともと思う理由もあろうが、全体の為に之がいいと分れば一部の犠牲はやむを得ぬと考える事、その代りは一部の犠牲となる人には全体から補償するという事にしなければ国として存立して行く以上やりようない話」

 戦前・戦中は本土を守るための捨て石にされ、本土の「主権」が回復してもなお、米軍の占領下に置かれる沖縄を「一部の犠牲はやむを得ぬ」と斬って捨てる昭和天皇。ここからわかるのは、結局、昭和天皇は戦前と何も変わっていないということだろう。

 そこにあるのは、「豈、朕が志ならんや」と言いながら開戦の詔勅に署名をしたのと同じ、「やむを得ぬ」と大勢に従い、現状を追認し続けている姿だ。

 作家の保阪正康は昭和天皇の行動原理について、〈よく、天皇は平和主義者か好戦主義者か、といった質問が発せられるが、それは質問自体が間違っている。天皇はそのどちらでもなく、皇統を守ることが第一の責務であり、戦争か平和かというのはそのための「手段」と考えていたのである〉(『昭和史のかたち』岩波書店)と書いていたが、これは正しい分析と言えるだろう。

■戦争責任を問わなかったことが歴史修正主義と戦前回帰思想を温存させた

 昭和天皇はおそらく、大元帥だった戦前・戦中も、自らが開戦に詔勅をあたえた戦争で日本国民に未曾有の戦渦をもたらし、他国に多大なる被害を与えた後も、変わらず「万世一系の皇統の存続」を最大目的として行動し続けてきた。

「戦争への反省」の意を表そうとしたのも、その「反省」削除に応じたのも、当時、国内にあった退位論を抑えるためだったと思われるし、「改憲による軍隊保持の希望」も「沖縄の米軍基地容認」も共産勢力の日本進出で皇統が保障されない事態を恐れていたからこそのものだろう(実際、拝謁記からも共産主義への強い警戒心が見て取れる)。

 そう考えると、昭和天皇個人に「反省」を期待することも自体が、そもそも無意味なのだ。

 それよりも、私たちが考えなければならないのは、私たち自身の姿勢のことだろう。日本国民は天皇が戦争責任を自ら表明するか否かに関わらず、自分たちの手で、天皇の戦争責任を検証し、追及すべきだったのだ。しかし、国民もメディアもそのことから逃げたばかりか、一緒に自分たちの戦争責任にも蓋をしてしまった。

 その結果、安倍首相の祖父である岸信介をはじめ戦争に加担した政治家がなし崩し的に復権し、戦前回帰を目指し、大日本帝国と戦争を肯定する思想が温存されたのだ。

 もし、あの時にきちんと天皇の戦争責任を検証し、自分たちの戦争責任に向き合っていたら、1990年代の歴史修正主義の台頭や安倍政権の露骨な戦前回帰を許すことはなかったはずだ。

 昭和史と天皇制研究で知られる吉田裕は、日本の戦争責任に対する姿勢を「ダブル・スタンダード」と評して、こう分析している。

〈具体的に言えば、対外的には講和条約の第一一条で東京裁判の判決を受諾するという形で最小限の戦争責任を国家として認める、しかし、国内的には、日本の戦争責任を事実上、否定する、あるいはこの問題を棚上げにする、という形での対外的対応と国内的な処理の仕方とを使いわけるようなやり方である。
 当然のことながら、このようなダブル・スタンダードの成立は、日本人の戦争観や戦争責任観のあり方をも大きく規定することになった。一つには、国内的に戦争責任の問題が不問に付されたことの結果として、日本国家と日本人の対外的な戦争責任・加害責任の問題が曖昧にされただけではなく、国家あるいは国家指導者の自国民に対する責任の問題まで、事実上、封印されてしまったことである。〉(『現代歴史学と戦争責任』青木書店)

 しかし、今からでも遅くはない。戦争をめぐる天皇の「肉声」が明らかになったこの機会に、「天皇の言葉」に頼るのでなく、国民が自分たちの手で戦争責任の問題を検証し、追及する作業を開始すべきではないのか。

199. 中川隆[-8552] koaQ7Jey 2019年9月01日 16:06:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4204] 報告
2019.09.01
日本がウォール街の属国になる切っ掛けになった関東大震災から96年

 今から96年前、1923年の9月1日午前11時58分に東京周辺は巨大地震に襲われた。被災者は340万人以上に及び、死者と行方不明者を合わせると10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達していたと言われている。

 その直前、8月24日に加藤友三郎首相が死亡、山本権兵衛が組閣している最中だったことから政府は機能していない。そうした中、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監が震災対策の責任者になる。両者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビだ。

 1日の夕方になると「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」、「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・●姦をする」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電して戒厳令も施行された。

 こうした雰囲気が社会に蔓延、少なからぬ朝鮮人が虐殺されている。どういうプロセスでこうした流言蜚語が広まったのかは不明だが、その結果として数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに社会主義者やアナーキストが虐殺されているが、そうした犠牲者のひとりがアナーキストの大杉栄だ。彼は妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉だった甘粕正彦に殺されたのである。地震当時、東京に住んでいた人の話では、焼き殺された朝鮮人もいたようだ。実行者は日本の庶民にほかならない。

 その時、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われ、殺されそうになっている。伊藤は後に俳優や演出家として活躍することになるのだが、その時には「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、「千田是也」と名乗った。

 地震は日本の経済も揺るがした。そこで山本内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だ。

 銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になる。しかも銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 そこで復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助である。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。

 必然的にJPモルガンは日本に対して大きな影響力を持つようになり、緊縮財政と金本位制への復帰を求めてくる。1929年7月に誕生した浜口雄幸内閣がこの要求を実現、日本の経済状況を悪化させ、庶民は塗炭の苦しみをなめさせられることになった。その時の大蔵大臣は井上だ。

 JPモルガンは1932年から33年にかけての頃、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルト大統領を倒してファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。

 この計画はアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将が阻止、議会でクーデターについて詳しく証言している。そのバトラー少将によると、ウォール街は金本位制に執着していた。

 日本では金本位制へ復帰した結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

 ルーズベルトを大統領にした選挙は1932年に実施されたが、その年にハーバート・フーバー大統領は駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ派遣する。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。

 グルーは日本の支配層に太いパイプがあり、秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていた。その中で最も親しくしていた人物は松岡洋右。1941年12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、翌年の8月にグルーは日本を離れるが、最後にゴルフをした相手は岸だった。ちなみに、松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1932年に日本は「満州国」をでっち上げているが、そこで権勢を振るった「二キ三スケ」の中に松岡(スケ)と岸(スケ)は含まれている。そのほかのメンバーは東条英機(キ)、星野直樹(キ)、そして鮎川義介(スケ)だ。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。戦前レジームと戦後レジームはつながっている。


(注)●は「強」
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909010000/

200. 中川隆[-8486] koaQ7Jey 2019年9月06日 03:59:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4281] 報告

インドはロシアにとってもアメリカにとっても重要な国。アメリカ太平洋軍は2018年5月に名称をインド太平洋軍へ変更、インド洋から太平洋にかけての地域を統括して扱うようになった。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。

 ソ連が存在していた当時、インドはソ連、インドのライバルであるパキスタンは中国と結びついていたが、今、ロシアと中国は戦略的な同盟関係にあり、インドとパキスタンを接近させる力として働いている。

 アメリカと同じアングロ・サクソン系の国であるイギリスは19世紀からアジア大陸の東側を支配、略奪する拠点としてインドと日本を利用した。イギリスの後継国であるアメリカも同じだ。その戦略をまとめた理論をハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が1904年に発表している。今でもアメリカはこの戦略に基づいて動いているように見える。

 この理論はイギリス(アメリカ)が海洋を支配しているという前提で、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部、つまり中国やロシアを締め上げていくというもの。ヨーロッパの内陸国もターゲットだったのだが、ふたつの世界大戦で米英の支配下に入っている。NATOの役割のひとつはそのヨーロッパを支配することだ。

 フランスの大統領だったシャルル・ド・ゴールは1966年に自国軍をNATOの軍事機構から離脱させ、67年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出しているが、これはそうした事情を熟知していたからだろう。

 イギリスやアメリカの中国侵略が本格的に始まったのは19世紀のアヘン戦争からだが、イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒して新体制を樹立、その新体制を支援した理由は中国の内陸部を支配するためだったようにしか思えない。

 そのアヘン戦争でイギリスが奪い取った地域のひとつが香港である。それ以来、ここはアジア侵略、麻薬取引、マネーロンダリングなどの拠点として利用されてきた。シティを中心とするタックス・ヘイブンのネットワークにも組み込まれている。

 明治時代、朝鮮はイギリスの侵略に加担しようとせず、日本の侵略を受けた。現在、朝鮮半島は北の朝鮮と南の韓国に分かれているが、朝鮮だけでなく韓国も中国やロシアに接近している。アメリカが朝鮮半島を支配することは難しい情勢だ。

 アメリカとしては日本支配を強めようとするだろうが、ボリス・エリツィン時代のロシア人と同じように、日本人は絞め殺されることになる。ロシアでは大多数の国民が貧困化、その一方で西側巨大資本の手先になった一部は巨万の富を手にしたわけだが、それこそが日本の「エリート」が望んでいることだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909060000/

201. 中川隆[-9527] koaQ7Jey 2019年9月14日 16:40:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3259] 報告
戦前の犯罪的な行為を清算していない裁判所に期待できることは限られる
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201909140000/
2019.09.14 櫻井ジャーナル

 今から77年前、真珠湾攻撃から9カ月後の1942年9月14日に細川嘉六が逮捕された。その直前には外務省と密接な関係にある世界経済調査会で働いていた川田寿と妻の定子も逮捕されている。

 川田寿と定子は1930年にアメリカで結婚、41年に帰国してから世界経済調査会に就職したが、アメリカ時代にコミュニスト関係の活動をした疑いがかけられたという。

 その後、平館利雄や西沢富夫も逮捕され、家宅捜索で1枚の写真が発見される。1942年7月に富山県の泊(今では朝日町の一部)で細川の著作『植民史』の出版記念を兼ねた親睦会が開かれているが、その際に撮影されたものだ。それを神奈川県警察特別高等課は共産党再建準備会だと主張、大弾圧につなげたのである。

 結局、横浜事件では言論関係者を中心に60名以上が逮捕され、30名以上が有罪判決を受けた。そのうち4名は獄死、釈放直後に獄中の心神衰弱が原因で死亡した人物もいる。

 こうした弾圧を指揮していたのは当時の内務次官で1932年から36年にかけて警保局長を務め、東条英機の懐刀と言われていた唐沢俊樹だと見られている。1942年から43年にかけての警保局長は三好重夫、43年から44年にかけては町村金五だ。このでっち上げ事件では内務官僚や特高だけでなく、検察官や裁判官も共謀関係にある。

 この事件が冤罪だと言うことは警察や検察だけでなく裁判所も知っているはず。何しろ裁判所の職員も裁判記録を焼却しているのだ。現在の裁判官がこの事件を免訴という形で有耶無耶にした理由もその辺にあるのだろう。

 大戦後、唐沢は衆議院議員になり、岸信介内閣では法務大臣に就任。三好は公営企業金融公庫の総裁を経て自治省の特別顧問に就任、町村は衆議院議員、参議院議員、北海道知事などを務めた。その息子が町村信孝だ。

 この3人に限らず、内務官僚、思想検察、特高などの幹部は戦後も支配階級の人間として君臨した。裁判官も責任を問われたとは言いがたい。天皇制官僚体制は大戦後も存続、戦前の思想弾圧で中枢を占めていた人びとが戦後も要職に就いているのである。「国体」は護持された。

 戦前の日本には「軍国主義国家」というタグがつけられ、軍人に全責任を押しつけているが、実態は天皇制官僚国家。本ブログでは繰り返し書いてきたように、関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするアメリカの巨大金融資本の影響下にあり、その金融資本は1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにクーデターを計画していた。

 そのJPモルガンが日本へ大使として送り込んだのがジョセフ・グルー。「軍国主義国家」というタグは天皇制官僚国家の実態を見えなくする。しかもアメリカ支配層(ウォール街)にとって都合の良い軍人は戦後、厚遇されている。

 思想弾圧の最前線に立つことになる特高が警視庁で設置されたのは1911年。大逆事件の後だ。弾圧の法的な根拠になる治安維持法は1925年3月、普通選挙法と同時に成立した。公布されたのは治安維持法が4月、普通選挙法が6月である。

 大逆事件は明治天皇の暗殺を計画したとして多くの社会主義者や無政府主義者が逮捕され、24名に死刑(半数は無期懲役に減刑)が言い渡された事件。裁判は非公開で行われ、証人調べもなく、裁判記録も残されていない。つまり裁判官を含め、司法関係者は確信犯的に事件をでっち上げたのである。

 この事件の場合、裁判記録が存在しないため、検察側の主張や裁判の実態は不明。被疑者のうち4名は暗殺を計画したと推認できるとされているが、幸徳秋水がそれに関わったとする主張には疑問が持たれている。他の被疑者は全く無関係だった可能性が高い。

 日本の裁判所は戦前の犯罪的な行為を清算していない。国民はそれを許してきた。裁判官が戦前と同じように動くのは必然だ。

202. 中川隆[-11087] koaQ7Jey 2019年10月01日 22:29:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1734] 報告

大日本帝国は大英帝国を真似たもの


2019年10月01日
アジアを支配した東インド会社は世界最強の企業だった

東インド会社は世界と貿易するため、立ちふさがる者を倒し支配し奪った

画像引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20171210/09/x109loa/d9/aa/g/o0538028914087955779.gif

アジアの資本主義は東インド会社から始まった

現在全世界の上場企業数は約4万5000社で中小企業は2億社以上あると推測されています。

世界の総人口は70億人なので人類の35人に1人は社長という計算になります。

千年以上の歴史を持つ12社のうち9社が日本にあり、創業200年以上の世界5600社の約3100社は日本にあります。


日本の千年企業は大工や華道会、旅館、鋳物、仏具、和菓子屋など流行りすたりがなさそうな業種が並んでいます。

これらは店を構えたり職人が製造することで個人でも可能であり、一芸に秀でた人が代々相続している。

そうではなく現代の企業の始まりは東インド会社で、大航海時代に大成功した半面、アジアで悪行の限りを尽くしたことで知られている。


1581年にイギリスとトルコの間で貿易を行うためトルコ会社を創設し、83年にベネチアもトルコ貿易のためベニス会社を創設した。

1592年に両者が合併してレバント会社となり栄えたが、東インド会社など強力なライバルが登場し1825年解散した。

1595年にオランダはジャワ島に4隻の船団を派遣し、貿易会社を通さないアジア貿易を始めた。


危機感を強めた貿易商人たちはレバント会社よりさらに強力な東インド会社を創設し、エリザベス1世からアジア貿易独占の許可を得た。

欧州帝国主義は全盛期に入りつつあり、七つの海を支配し事実上アジアそのものも自分の所有物のように振舞っていた。

イギリス東インド会社はオランダ東インド会社とアジア貿易の所有権で対立し、通常はイギリスの方を東インド会社と呼ぶことが多い。


26万人の軍隊を持つ最強貿易企業

東インド会社の商売はもちろん貿易なのだが、当時は欧州からアジアへの航海が危険であり、海賊や荒くれものの職業でした。

相手が貿易を望まなかったりイギリスが望む条件に応じなければ、船員は軍隊に変身しお客様に襲い掛かります。

食べ物がなくなれば他国に上陸して勝手に食べ物を奪い、娯楽のために原住民をハンティングの対象にもしていました。


ただ当時のアジアはすでに欧州から大きく遅れていて、遅れていたから侵略され支配下に置かれました。

欧州から10周遅れくらいだったアジアに資本主義や近代の概念を持ち込んだのは皮肉にも支配者の東インド会社でした。

アジアの多くの国は侵略され支配されることで近代を学び、第二次大戦後にようやく本格的な資本主義時代を迎える事になる。


イギリスは産業革命によって経済発展したが同時にコスト上昇を招いて、織物工業でインドなどに負けていました。

するとイギリスはインドの織物職人の手を切り落とすよう命じ、ダッカの人口が10分の1程度に減少したと伝えられている(この話には異論もある)

東インド会社は特にインド周辺で大成功し、自らの軍隊でインドを占領し紅茶、香辛料、織物、贅沢品などの貿易を独占した。


この「貿易」は常にイギリスが望むルールで行われ、もしインド人が従わなければこの世から消えてもらうやり方だった。

大英帝国と東インド会社はスペイン、ポルトガル、オランダのライバルを圧倒し、あらゆる富を搾取した。


1588年に英仏海峡でイギリス海軍とスペイン無敵艦隊が会戦しイギリスが勝利したが、アジアの支配権も対立の要因だった。


1857年に起きたインドの反乱


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画像引用:https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/490/98/N000/000/000/130500946683516405367_indo-daihanran.jpg

カレーも東インド会社の遺産

スペインを倒したイギリスは1600年頃東インド会社を創設し、最盛期には26万人の軍隊をかかえイギリス貿易の半分を担っていた。

江戸時代に日本の平戸に居たのも東インド会社で、幕末まで日本貿易を行い薩長に兵器を提供したりした。

イギリス東インド会社はアジア諸国を次々に殖民地化し、キリスト教を布教し植民地帝国を広げた。


東インド会社が大成功した理由は強力なイギリス海軍や自前の軍隊を持っていたことだが、会社がもつ柔軟性によるところが大きい。

まず宣教師や牧師や商人が原住民と親しくなり、次に貿易商人が経済を支配し、最後に軍隊が相手国を支配する。

順番が逆な事もあるし、最初から軍隊が殴り込みを掛けることもあり、最終的に相手国を支配下に置く。


1850年後になると日本の明治維新やインドの反乱、フランスなどライバルの台頭で東インド会社のビジネスは困難になった。

イギリス海軍はもう無敵ではなく、アメリカ合衆国が驚異的な成長でイギリスの国際的地位を奪いつつあった。

1858年8月2日に東インド会社は保有資産すべてをイギリス国王に返還し事実上解散した。


日本ではカレーを初めて持ち込んだのが東インド会社とされ、香辛料を粉末化して簡単に調理できるよう商品にしたのも東インド会社だった。

調理方法が非常に簡単だったので幕末から明治にかけて大流行し、当時の著名人の多くがカレーを食べている。

ただ当時の日本では牛肉や豚肉は使わず、カエルの肉などが一般的だったようです。
http://www.thutmosev.com/archives/81103583.html



▲△▽▼

植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳


ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html

203. 中川隆[-10990] koaQ7Jey 2019年10月09日 18:14:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1844] 報告
2019.10.09
米英を後ろ盾とする香港の反中国運動に加わっている法輪功

 現在、アメリカやイギリスが中国を揺さぶるために香港で混乱を作り出している。黄之鋒(ジョシュア・ウォン)、羅冠聰(ネイサン・ロー)、周永康(アレックス・チョウ)などが前面に出てくるが、そうした若者の後ろには元王室顧問弁護士の李柱銘(マーチン・リー)、メディア王と呼ばれている新自由主義者の黎智英(ジミー・リー)、香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)副教授、あるいは陳日君(ジョセフ・ゼン)、余若薇(オードリー・ユー)、陳方安生(アンソン・チャン)などがいて、その背後にはアメリカやイギリスの情報機関、つまりCIAやMI6が存在している。

 こうした人びとだけでなく、法輪功というカルトも注目されてきた。このカルトが出現したのは1992年。その教義は仏教と道教を合体したものだとされているが、創始者の劉振営はキリスト教の福音主義者で、「エルサレムへ戻ろう」という運動を行っている。

 この団体は反コミュニズムでも有名で、アメリカの支配層はその点を評価。アメリカの政府機関であるUSAGM(米国グローバル・メディア庁)から法輪功へ資金が流れているのもそのためだろう。

 アメリカやイギリスは中国を揺さぶるため、香港で工作を進めてきた。香港は元々中国の一部だったが、アヘン戦争で中国(清)が敗北した結果、イギリスの植民地になった。この戦争は1840年から42年にかけて行われたが、56年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が引き起こされている。こうした戦争と並行する形で1851年に「太平天国」が蜂起、勢力を拡大した。この運動は1864年まで続いている。

 その後、香港は中国侵略の拠点になるが、それだけでなくユーラシア大陸東岸部におけるイギリスやアメリカの戦略拠点として機能、ロンドンのシティを中心とするオフショア市場ネットワークにも組み込まれた。つまり、香港は地下経済と地上経済の出入り口のひとつでもある。

 イギリスやアメリカは中国へアヘンを売ることで大儲けしたが、儲けたカネを扱うため、1865年に創設されたのが香港上海銀行。この銀行は1866年に横浜へ進出し、大阪、神戸、長崎にも支店を開設。明治政府とも深く結びついた。

 アヘン戦争で大儲けした会社のひとつ、ジャーディン・マセソンは1859年にふたりのエージェントを日本へ送り込む。ひとりは長崎へ渡ったトーマス・グラバーであり、もうひとりは横浜のウィリアム・ケズウィック。ケズウィックの母方の祖母はジャーディン・マセソンを創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉だ。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決め、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が選ばれ、63年にロンドンへ向かう。この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンで、すでに独立していたグラバーも渡航の手助けをしている。ケズウィックは1862年にジャーディン・マセソンの共同経営者となるために香港へ戻っていた。後にケズウィックは香港上海銀行の幹部になる。

 イギリスが中国へ売りつけたアヘンはケシを原料とする麻薬で、そのアヘンの麻薬成分がモルヒネ。そのモルヒネをジアセチル化したものがヘロインである。ベトナム戦争中、東南アジアの山岳地帯、いわゆる「黄金の三角地帯」は世界最大のケシの産地だった。

 そのケシを使って製造されたヘロインは、アメリカが本格的に軍事介入して以降、アメリカの犯罪組織を介して売りさばかれる。この麻薬取引を仕切っていたのはCIAにほかならない。1970年代終盤にアメリカがアフガニスタンで秘密工作を始めてからケシの主要産地は黄金の三角地帯からアフガニスタンからパキスタンにかけての山岳地帯へ移動した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201910090001/

204. 中川隆[-10493] koaQ7Jey 2019年10月29日 20:34:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2382] 報告
 かつて「赤恐怖(Red Scare)」といわれる現象があった。1950年代のマッカーシズムのことはよく知られているけれど、1910年代の「赤恐怖」についてはそれほど知られていない。

 1917年にロシア革命が起きると、アメリカでもアナーキストたちによる武装闘争が始まった。1919年の同時多発爆弾テロでは、パーマー司法長官の自宅まで爆破された。政府はこれによって「武装蜂起は近い」という心証を形成した。

 いま聞くと「バカバカしい」と思えるだろうけれど、その二年前、まさかそんなところで共産主義革命が起きるはずがないと思われていたロシアでロマノフ王朝があっという間に瓦解したのである。未来は霧の中である。アメリカでだって何が起きるかわからない。

 なにしろ、1870年代の「金ぴか時代」から後、アメリカ政治はその腐敗の極にあり、資本家たちの収奪ぶりもまた非人道的なものであったからだ。レーニンは一九一八年八月に「アメリカの労働者たちへの手紙」の中で、「立ち上がれ、武器をとれ」と獅子吼し、一九一九年三月には、世界37ヵ国の労働者組織の代表者たちがモスクワに結集して、コミンテルンの指導下に世界革命に邁進することを誓言していたのである。

 十月革命時点でのロシア国内のボルシェヴィキの実数は十万人。一九一九年にアメリカ国内には確信的な過激派が六万人いた。そう聞けば、アメリカのブルジョワたちが「革命近し」という恐怖心に捉えられたことに不思議はない。

 19年に制定された法律では、マルクス主義者も、アナーキストも、組合活動家も、司法省が「反アメリカ的」と判定すれば、市民権をまだ取得していないものは国外追放、市民権を取得しているものはただちに収監されることになった。この仕事を遂行するために司法省内に「赤狩り(Red Hunt)」に特化したセクションが設立された。パーマーがその任を委ねたのが、若きJ・エドガー・フーヴァーである。

 そのフーヴァーは革命組織が一九二〇年五月一日に全米で一斉蜂起するという不確実な情報をパーマーに上げた。フーヴァーは、取り調べをした活動家たちが彼らの機関紙に書き散らしていた過激な言葉(「抗議ストから始まり、それを政治スト、さらには革命的大衆行動に拡大して、最終的に国家権力を奪取する」)にいうほどの政治的実力などないことを知りながら、パーマーに武装蜂起が切迫しているという恐怖を吹き込み、それによって自分のセクションへの予算配分と政府部内でのキャリア形成をはかったのである。

 フーヴァーのささやきを信じたパーマーは五月一日に、ニューヨーク、ワシントンDC、フィラデルフィア、シカゴなど全米大都市の全公共施設と要人たちの私邸に警察官を総動員して厳戒態勢を命じた。だが、何も起こらなかった。全国の新聞はパーマーの「五月革命」を嘲笑し、ウッドロー・ウィルソンの次のホワイトハウス入りを有力視されていたパーマーはこの壮大な空振りで政治生命を失ったのだが、それはまた別の話。 

 私が言いたいのは、アメリカ人は意外に「怖がり」だということである。
 アメリカ人は久しくソ連を恐れていた。冷戦が終わった後はイスラムを恐れていた。そして、いまは中国を恐れている。
http://blog.tatsuru.com/2019/10/28_0831.html

205. 中川隆[-14806] koaQ7Jey 2019年11月20日 12:34:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1892] 報告

2019年11月17日
第二次大戦の日本空爆は必要だったというアメリカ人のウソ
http://www.thutmosev.com/archives/81498118.html


アメリカ合衆国は「日本が降伏しなかったから空爆した」という嘘を今も続けている


画像引用:https://www.warhistoryonline.com/wp-content/uploads/2016/06/00.b29.jpg


日本は一日も早く停戦したかった

日本が第二次世界大戦に参戦した真珠湾攻撃は、アメリカと講和条約を結ぶために実施した軍事行動でした。

大戦中日本と日本軍は一貫してアメリカとの講和による停戦を望んだが、アメリカが戦争継続を望んで拒絶し続けた。

日本空爆をアメリカは、日本が降伏せず戦い続けたから実施したと戦後ずっと嘘をつき続けています。




事実は日本は「一日も早く停戦したい」と言い続けたのに、アメリカが拒絶して空爆しました。

1945年になると誰の目にも日本の敗北は明らかで、日本政府はあらゆる手を尽くしてアメリカに降伏の意思を伝えました。

愚かな人は降伏は一方的にするものと思っているが、降伏とはする側と受け入れる側の合意で行われるものです。


日米戦争の場合は降伏したいと日本が伝えてもアメリカが無視して空爆を続けたため、日本は降伏できませんでした。

1945年4月にアメリカはようやく日本の降伏申し出に応じる姿勢を見せ、7月には既に合意していました。

日本側は一日も早い降伏と停戦を申し出たのに対し、アメリカは拒絶し1945年いっぱいは戦争を続けると拒絶しました。

マンハッタン計画では1945年中に8発から10発の原子爆弾を使用する事になっていて、すべての原爆を使い切りたかったのです。


B29や空母など工場でフル生産した「商品」が余ってしまうというのも、理由のひとつだったでしょう。


これには陸海空軍の綱引きもあり、陸軍のマッカーサーは大統領選出馬を希望しており、陸軍の成果を高めたかった。

1945年までに海軍は日本海軍を全滅させる大戦果を挙げ、空軍(陸軍航空部 )は空爆で戦果を挙げた。

アメリカは日本の降伏意思を知りながら空爆した

だが米陸軍地上部隊は開戦からずっと日本軍から逃げ回っていただけで、戦果らしいものを挙げていませんでした。

マッカーサーと米陸軍が戦果を挙げるため、本土決戦を望んだというのが「本土決戦」の真相でした。

これも戦後、まるで日本軍が本土決戦を望んだように仕立て上げて、口封じに陸軍軍人は東京裁判で処刑しました。


大戦末期に日本海軍は戦艦大和の沖縄特攻など無意味な作戦を繰り返したが、連合艦隊を無力化するのが目的でした。

なぜ海軍は連合艦隊を無力化させたかったと言うと、アメリカが降伏を受け入れないので、受け入れざるを得ない状況を作る為でした。

連合艦隊が全滅するともう米軍は日本海軍と戦えないので、日本の降伏を受け入れるだろうというのが海軍の観測でした。


だがアメリカ人の性悪さは予想の遥か上を行き、無抵抗な一般市民を標的に空爆を繰り返し数百万人を犠牲にした。

米軍パイロットは無抵抗な市民を標的に空爆を楽しみ、現在のネットゲームのように得点を競いました。

そして戦争が終わると全ての事実を逆に入れ替えて、「日本軍が降伏しなかったのでやむを得ず空爆した」と嘘を言いました。


空爆を正当化するために「南京事件」「従軍慰安婦」などありもしない日本軍の蛮行を作り上げ、「米軍の空爆によってこうした行為を止めた」と自分の手柄にしました。

これが真実の第二次世界大戦で、日本軍は民間人を標的に作戦行動した事は一度もありません。

戦後70年経ってもこうした嘘がまかり通り、ヒーロー気取りのアメリカ人に誰も反論しない。
http://www.thutmosev.com/archives/81498118.html

206. 中川隆[-15252] koaQ7Jey 2019年11月27日 13:50:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2331] 報告

2015/6/21
昭和天皇はアメリカと密約していたのか!
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8225138.html


先日から

「原爆の秘密(国外篇)----殺人兵器と狂気の錬金術」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E5%9B%BD%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%A8%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AE%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862320


という本をもとに記していますが今日この本を読み終え、また書きたくなったことがでてきたので書きたいと思います。それは‘昭和天皇は原爆が落とされるのを事前に知っていた’という驚愕な事実についてです。つまり昭和天皇はその事実を知っていて日本国民には知らせなかった、すなわち広島、長崎の人たちを見殺しにした、ということです。ではまずはそのことについて記させれている部分を同著から引用するところから始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑問を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で(私の注:アメリカの)陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。徳本栄一郎「英国機密ファイルの昭和天皇」(2007年)には次なる記述がある。

「1985年、彼(白洲次郎)は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨のあるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した‘密使’であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の‘エージェント’としての顔だ。」

徳本栄一郎の「英国機密ファイルの昭和天皇」には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。

クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも1982年、創業者のシグモント・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。

「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」

「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのがロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。

引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パーピスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグモント・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。

そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSS(私の注:CIAの前身)の中に入り日本向けの情報担当官となる。白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループ(私の注:戦前の吉田茂反戦グループの略称。実際は裏で戦争を推進していた)に流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け・・・」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムント・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざる状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。

私は前著「日本のいちばん醜い日」でヨハンセン・グループについて詳述した。その中で、外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されている「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を原爆13終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は(私の注:アメリカの軍事会議の)「目標管理委員会初回会議覚書」(1945年4月27日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

「彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報が---その真実性が私には判りませんが---入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジッとしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐ろしいものではないと信じられておりました。」

後述するが、原爆の情報は皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その心因を追求し続けねばならない。

(引用終わり)

戦前から、引用文にあるウォーバーグ財閥のエージェントであった白洲次郎という、元々は一般人だった人物がいました。この白洲は父親が確か服の卸しの小さな会社を経営していました。この会社が倒産し、イギリスにその当時留学していた白洲次郎は貧乏のどん底に落とされます。そんな白洲に、ロスチャイルド一族であるアメリカのシフ家の血族にあたるウォーバーグ財閥に目をつけられ、広島、長崎への原爆投下計画のためのエージェントにされる。ちなみに、このシフ家のジェイコブ・シフは日露戦争において、ときの蔵相であった高橋是清に戦争資金を調達した人物になります。戦争が起こるときにはロスチャイルドが影にいる、ということを思わせます。

この白洲はヨハンセン・グループという本当は、アメリカの国務次官であったジョセフ・グルーが操っていたグループと繋がっていた。そしてアメリカやイギリスの情報を流し、逆もやっていた。建前の‘反戦’ではなく、戦争推進という目的のために。

さらに白洲は皇室とも繋がっていて、皇室に広島、長崎への原爆投下の情報を流していた。だから皇太后は原爆投下を恐れおののいていた。

だが、原爆は東京には落とされず、広島と長崎に落とされた。それはこの引用文には書いてありませんが、昭和天皇は、原爆投下計画の真の張本人と、鬼塚氏がするアメリカのスティムソン陸軍長官側と密約ができていて、アメリカ側が「無条件降伏を要求するが皇室の地位は戦後も保持させ、東京には原爆を落とさない」とされていた。だから広島と長崎に原爆が落とされた、と著者の鬼塚氏は膨大な資料の検証のもとに、推測として書いています。

ただここで‘推測として’と書きましたが上記の引用文の「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」は外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されているものです。皇室が原爆投下情報を得ていたことを示す証拠としてはこれ以上のものはないでしょう。

そしてこの「原爆の秘密(国外篇)----殺人兵器と狂気の錬金術」にはアメリカ側はアメリカ軍の消耗をできるだけ少なくしたいため、沖縄上陸後の本土陸上決戦は避けたい。だからなるべく太平洋戦争を早く終わらせたい。だがそれは「マンハッタン計画」すなわち「原爆投下計画」が遂行された後での話だった。

その原爆投下計画の遂行の本当の理由は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」を製造したロックフェラー=メロン財閥と、長崎へ落とされた原爆「ファットマン」を製造したデュポン=モルガン財閥が原爆産業でカネ儲けするためだった。戦後の米ソ冷戦においての原爆産業の隆盛も視野に入れて。しかもその影で暗躍していたのが先日も記した、ヴィクター・ロスチャイルドであり、ウォーバーグ財閥である、とこの著作には書いてあるのです。

先日、安倍政権が出した「憲法改正法案」には、先日も書きましたが、「天皇、摂政は憲法に拘束されない」といった条項も入っていました。安倍が以前から天皇を戦前の「元首」にしたがっていたことも以前書きました。そして戦前はその元首であった昭和天皇ヒロヒトが日本軍の頂点に立って太平洋戦争が遂行され、広島、長崎に原爆が落とされたのです。

安倍がこの「憲法改正案」や「改正安保法制」をもって日本を戦争する国にしようとしているのは火を見るように明らかです。上述した鬼塚氏の解くところをどう解釈するかは個々人の見解によるところですが、今の安倍政権は極東情勢において中国、韓国、北朝鮮の、本当はありもしない、脅威を我々に煽り、中東情勢においては、可能性がかなり低い‘イランのホルムズ海峡封鎖’の脅威も我々に煽り、「集団的自衛権の行使」の必要性をうそぶいている今の状況が非常に危険な状態にあるのは事実です。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8225138.html

207. 中川隆[-15213] koaQ7Jey 2019年12月06日 11:48:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2278] 報告
2019.12.06
日本軍の真珠湾攻撃から78年


 中国での戦争が泥沼化していた日本軍は1941年12月7日(ハワイ時間)、守りが堅いと言われていたハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

 その直前、アメリカ政府は日本に対する石油の輸出を禁止していたと言われているが、フランクリン・ルーズベルト大統領はその当時、日本に対する石油の禁輸は「日本をインドシナへ駆り立てる」として消極的で、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていた。それに対して財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていたという。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)

 そうした中、日本軍はアメリカと戦争を始めたわけだが、その直前に行われた日本側の試算によると、アメリカと戦争を始めてから3年目には石油が不足すると見通されていた。ところが、石油がそのように劇的に不足することはなかったようだ。

 その当時、全世界における石油生産量の約半分はアメリカが占めていた。1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始したドイツの場合、アメリカのスタンダード石油から石油の供給を受けている。日本とアメリカとの間で戦争が始まったことでドイツへ石油を直接売ることが難しくなったスタンダード石油はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。

 ドイツの戦争は1938年10月1日にチェコスロバキアのスデーテン地方を占領したときに始まるという見方がある。9月にドイツのミュンヘンでスデーテン地方の帰属を巡る英仏伊独の首脳会談が開かれ、ドイツへの割譲が認められることになったことにともなう動きだ。その時、ポーランド軍がチェシン・シレジアへ、またハンガリー軍がカルパティア・ルテニアへ侵攻してくる。ただ、この見方を採用するとポーランドを犠牲者として描くことが難しくなる。

 それに対し、ドイツを警戒していたソ連はイギリスやフランスに対し、ドイツとの国境線まで軍隊を派遣すると提案したのだが、受け入れられなかった。そうした対応が1939年8月23日の独ソ不可侵条約につながるという考え方もある。

 その年の5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦した。日本側は関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を継続、外モンゴル軍との相互援助条約に基づいて派兵されたソ連軍と衝突する。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。その頃、ドイツとソ連が不可侵条約を締結する。そして日本軍の目は東南アジアへ向く。

 1941年6月にドイツ軍約300万人は東へ向かって進撃を開始した。西部戦線に残った戦力は約90万人と言われている。西側は手薄になった。この非常識な作戦はアドフル・ヒトラーが主導したものだ。

 ヒトラーは不可解な命令を出すことがある。例えば、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退したが、その時、ドイツ軍に対して追撃を止めている。その命令がなければイギリス軍とフランス軍は壊滅していた可能性が高い。

 1941年12月に入る頃、ルーズベルト政権は日本軍がアメリカの利権にかかわる「どこか」を攻撃すると予想、マレー半島へ日本の艦船が近づいていることに注目している。その周辺を日本軍は狙っていると考えるのが常識的な見方だったが、実際は12月7日に真珠湾を奇襲攻撃したわけである。

 アメリカ軍やイギリス軍は太平洋で日本軍と戦ったが、ソ連へ攻め込んだドイツ軍とは戦っていない。そのドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。

 その段階ではドイツ軍が優勢だったが、11月になって戦況が一変した。ソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまうのだ。1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 スターリングラードでドイツ軍が敗北した後、アメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。この際、ドイツ軍のアーウィン・ロンメルは有効な対応策を立てたが、ヒトラーに拒否されたという。ヒトラー暗殺が試みられたのはその翌月のことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912060000/

208. 中川隆[-15184] koaQ7Jey 2019年12月10日 01:01:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2249] 報告

ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない 2015年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846


ネットでは、いか@さま情報が横溢している。

おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。

いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。

なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。

もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。

そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。

例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!

そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;


https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177

そして、そのソース;


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108

そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

いや、いや、全然、全くの事実誤認。

コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。

CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。

⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。

   ⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ

確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。

でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。

(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、彼だ!)

CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣などである;

有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;


https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846

209. 中川隆[-15181] koaQ7Jey 2019年12月10日 09:06:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2246] 報告

イギリスが史上最悪の「ポン引き国家」であった事実と人類のドラッグ禍の歴史
2019.12.10
https://blackasia.net/?p=2741

阿片(あへん)が国中に蔓延するのを防止しようとする清に対して、イギリスは強引にそれを認めさせようとしていた国家である。当時のイギリスは、まさに世界最大の「ポン引き国家」だった。清という国家が国民を守るために阿片を禁止したら、それに難癖を付け「ドラッグを売らせろ」と言ってイギリスが戦争を仕掛けた。イギリスは4000人もの軍隊を中国に送り込んで戦争に臨み、2年に及ぶ紆余曲折の戦いの結果、最終的に清を完全に屈服させた。


人類は、ドラッグを撲滅することに失敗し続ける

芸能人がドラッグで逮捕されたら、「ドラッグは危険」だとか「ドラッグは撲滅させるべき」だと多くの人がしたり顔で口にするのだが、はっきり言うとドラッグを撲滅させることは無理だ。これは100%断言できる。

どんなに時代が変わっても、人はドラッグに取り憑かれる。ドラッグが人生を破滅させ、肉体を破滅させ、精神を崩壊させる。それに取り憑かれれば、最終的には精神的にも肉体的にも廃人同様になってしまう。

そんなことは誰でも知っている。しかし、人はそれを「終わり」にすることができない。人類は今までドラッグを捨てたことは一度もないし、これからもドラッグを撲滅することに失敗し続ける。

生物は快楽に弱い。ドラッグは快楽を約束する。快楽を求める人類は、必然的にドラッグから離れられないのだ。

かつて中国は、イギリスの東インド会社が持ち込んだ大量の阿片(あへん)で、国中
の人々が阿片中毒になった。この事実は歴史の教科書で覚えている人もいるかもしれない。

当時の中国は「清」の国だった。清はイギリスから大量に流れこんでくる阿片と、膨大に流出する銀(阿片の決済は銀で行われた)に業を煮やして、厳しい禁止令を出した。しかし、それでも阿片貿易は止まらなかった。

1839年、清は阿片の貿易を強硬に禁止して、イギリスはそれを不服として中国に戦争を挑んだ。これが阿片戦争だった。

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イギリスはドラッグで稼いでいた悪徳国家である

香港が中国に飲み込まれ、一国二制度は崩壊してしまうのではないかと世界は固唾を飲んで香港の行方を見つめている。私たちは中国共産党政権に「自由と民主主義の象徴」である香港を支配して欲しいとは思っていない。

香港の自由と民主主義は守られて欲しい。

ところで、この香港はなぜ中国とは「別の社会制度」になっているのか。なぜ香港は西側と通じる資本主義の拠点になっているのか。それは、香港はずっとイギリスの植民地だったからである。

では、イギリスはいかにして香港を植民地にしたのか。その裏側に「ドラッグを売りつけて非合法に儲ける暴力国家」としてのイギリスの姿があったことを私たちは忘れてはならない。

阿片が国中に蔓延するのを防止しようとする清に対して、イギリスは強引にそれを認めさせようとしていた国家である。当時のイギリスは、まさに世界最大の「ポン引き国家」だった。

清という国家が国民を守るために阿片を禁止したら、それに難癖を付け「ドラッグを売らせろ」と言ってイギリスが戦争を仕掛けた。

阿片というドラッグを売りつけようとするイギリスに、それを阻止しようとする清。道徳的に考えると、清の方が正しい。しかし、イギリスは4000人もの軍隊を中国に送り込んで戦争に臨み、2年に及ぶ紆余曲折の戦いの結果、最終的に清を完全に屈服させた。

そして、清は不平等条約を飲まされた。香港をイギリスに取られたのも、この戦争に負けてからである。

阿片を売りつけられ、国富の元である銀を吸い上げられ、戦争にも負け、以後の中国は「眠れる豚」になり、中国に残ったのは阿片中毒者だけだった。

誰がそんな惨めな状態に清を追いやったのか。イギリスだ。そうやって奪い取った香港が、今では自由と民主主義の象徴になって中国共産党政権と対峙しているのだから、何か歴史の皮肉を感じさせる。

今でこそイギリスは「紳士の国」とか偉そうに言っているのだが、ドラッグで史上空前の富を手に入れた国が「紳士の国」とは笑わせる。ドラッグで稼いでいた悪徳国家であったことは、歴史の教科書にきちんと記載しておくべきだ。

ちなみに、こんな歴史を抱えていてもイギリスは責められることはない。戦争に勝ったからだ。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

1933年というのは、人類にとって悪夢の年だった

阿片は英語でopium(オピウム)という。オピウムはケシの実から取れる樹脂を乾燥させたものであり、ケシが栽培できれば誰でも阿片を採取できる。阿片は「ケシさえ栽培できれば誰でも採れる」ものである。

この阿片文化は中国南部に下って行き、やがて東南アジアにも伝播してゆく。東南アジアの阿片文化は、中国からやってきて定着したものである。

さらに時代が変わると、その阿片が精錬されて結晶化し、ヘロインとして現在は世界を駆け巡るようになっていく。部外者にはあまりよく知られていないのだが、ヘロインは阿片をより純度を高めたものであり、阿片が元なのだ。

ヘロインがはじめて売られるようになったのは1898年だが、その頃に問題になっていたのはモルヒネだった。モルヒネと言えば、麻酔薬として今でも知らない人はいない薬だが、ここにヘロインが加わった。

さらには、コカインもまた同時期に開発されている。そして、トドメを刺すかのように、1933年にはベンゼドリン=覚醒剤が市販された。

ところで、この1933年とはどんな年だったのか。1933年は、ちょうどドイツでアドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任した劇的な年だった。

裏の世界ではヒトラーの首相就任とまったく同じ年に覚醒剤が生まれ、阿片・ヘロイン・モルヒネ・コカインという、今でも現役の「ドラッグの王者」がすべて姿を現していた。

もしかしたら1933年というのは、人類にとっては後(のち)に巨大な災厄を生み出す「悪夢の年」だったのかもしれない。

ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こして人類の歴史に大きな禍根を残し、ドラッグは今でも人類を蝕む巨大な害悪としてそこにあり続けている。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

最貧国が売ることができる最大の輸出品こそがドラッグ

1990年代まで世界最大のドラッグ製造拠点は、タイ・ミャンマー・ラオス国境の「ゴールデン・トライアングル」だった。現在では、アフガニスタンが世界最大のヘロイン輸出国となっている。

アメリカ大陸では、ラテンアメリカのコカインがメキシコを中継点にしてどんどんアメリカに流れこんでいる。ドラッグ製造拠点は最貧国、ドラッグの消費拠点は先進国。ドラッグ・ビジネスは今も昔もグローバルな流れでビジネスが成立している。

北朝鮮が密かに覚醒剤やその原材料であるメタンフェタミンを精製して大量に日本に持ち込んでいるというのも同じ構図だ。最貧国が売ることができる最大の輸出品は、紛れもなくドラッグである。経済が破綻した国であればあるほど、ドラッグの輸出が重要な産業になる。

ある意味、諸悪の根源であるドラッグが拡散しているのは、すなわち国と国の「格差」が生み出しているとも言える。これは「貧困層が金持ちに売ることができる唯一の商品がドラッグ」という構図とまったく同じだ。

ドラッグは法が整っていない国で作って、先進国に高く売るというのが最もシステマチックで利益が高い。だから、そのように発展している。そうだとすれば、グローバル化がさらに進み、複雑怪奇に絡みあって暴走していく今後も、同じ災厄が続いていくということになる。

特に先進国に人々の視点では、常にドラッグを供給する貧困国側(アフガニスタンやメキシコ)が悪いということになる。

「アフガニスタンや、メキシコのせいで、先進国の若者が悲劇に巻き込まれている。やつらを何とかしろ」

誰のせいでドラッグが蔓延しているのかの問いに、先進国の人々は「それらを製造・密輸する後進国のせいだ」と答える。しかし、それを求めているのは先進国であり、裏をかえせば先進国の問題とも言える。

需要があれば供給がある。それは単純なビジネスの法則だ。ドラッグもまた例外ではない。先進国の人間が求めるからドラッグが蔓延しているという答え方もある。ドラッグに大金を払う人間がいる限り、それはなくなることはない。

生物は快楽に弱い。ドラッグは快楽を約束する。快楽を求める人類は、必然的にドラッグから離れられない。ドラッグを撲滅させることは無理だ。

『GHQ焚書図書開封10: 地球侵略の主役イギリス(西尾 幹二)』。大英帝国の繁栄はインドへの暴虐、シナの阿片禍で築き上げられた
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4198638527/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4198638527&linkId=9c36b9cf67181dece99c1e0595156758

https://blackasia.net/?p=2741

210. 中川隆[-15175] koaQ7Jey 2019年12月10日 10:54:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2240] 報告

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた

211. 中川隆[-15134] koaQ7Jey 2019年12月16日 19:07:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2183] 報告
2019年12月16日
在韓米軍の足跡 韓国建国前史から半島撤退まで


最初の反米運動は1945年の「解放」直後から


引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Anti-Trusteeship_Campaign.jpg/640px-Anti-Trusteeship_Campaign.jpg


1945年9月8日から韓国(南朝鮮)を守ってきた米軍が、ついに撤退する日が近づいている。


文在演大統領側近の大統領補佐官は「韓米同盟を破棄して中国の同盟国になり守って貰えば良い」と驚きの発言をしています。


米軍撤退後の事は分からないが、朝鮮半島における米軍の歴史を振り返ります。


米軍の恩恵を受けた地域ほど米軍を憎む謎


韓国で2002年に女子中学生2人が在韓米軍の装甲車にひかれる事故があり、全国的な反米デモが巻き起こった。


半島人の特徴としてこういう時は、客観的に物事を考えず、アメリカを悪魔や侵略者として厳しく糾弾します。

1990年代にフィリピンやアジア、欧州から次々に米軍が撤退し、撤退ブームと言うべき状況があった。

特にフィリピンの場合は民衆が一斉蜂起して反米運動を起こし、米軍を追い出すというドラマチックな展開だった。


米軍が撤退したフィリピンは非武装中立国家になり、西側の領海の殆どを中国に占領されたが、それはずっと後の事である。


不思議な事に反米運動で米軍撤退を迫っているのは、フィリピン、沖縄、韓国と米軍無しでは成り立たない地域ばかりでした。

米軍に最も恩恵を受けた地域の住民ほど反米意識が強い。


日本本土、ドイツやイタリアなど、米軍が居なくても自力で守れそうな地域ではそれほどでも無い。


現実世界で米軍への依存が強いほど、それを認めたくないという意識が働くのかも知れない。

フィリピンは植民地時代からずっと米軍が駐留していたが、裏を返すとフィリピンは世界最強の軍隊から無料で守ってもらっていました。

沖縄も同じことで米軍が駐留している限り、最強の無料用心棒を雇っているのと同じなのです。


韓国などは朝鮮戦争で一度は負けて国土の95%を北に占領されたが、米軍に奪還してもらったのが現在の領土です。

こうした米軍依存の国や地域ほど「米軍は必要ない。米軍には迷惑している」と言いたがるのは不思議です。

日本軍の半島撤退


意外というか当然というか、米軍は1945年に朝鮮半島南部を占領していた日本軍から、朝鮮の統治を引き継いだ。

韓国という国が出来る前、既に在韓米軍は存在していて後から韓国と韓国軍が創設されました。


1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告しきました。


対する満州や朝鮮の日本軍は局地戦をしながら後退し、最後に本土へ帰還する計画を立てた。

日本に帰還するには海を渡らねばならないが、アメリカの海上封鎖で海路を塞がれていました。


この帰還作戦は日本がアメリカに降伏し、海上封鎖が解かれ兵士と居留民は帰国し、入れ替わりに米軍が朝鮮に上陸する事に期待していた。


そうならない場合には朝鮮半島の日本軍はソ連には降伏せず、ソ連軍と決戦し玉砕する事になっていました。

ソ連参戦が8月9日で昭和天皇が降伏を決めたのが8月10日過ぎ、終戦の詔勅(玉音放送)が録音されたのは8月14日だった。


8月13日に中立国を通じてアメリカには15日の降伏が伝えられていて、14日には目立った戦闘はなく、15日の玉音放送をもって日本軍は停戦した。


8月6日に広島、8月9日に長崎原爆投下し、米軍機は8月15日にも東京を爆撃している。

まさに一日を争うタイミングで、数日遅れたらソ連軍が北海道や朝鮮南部に襲い掛かってくるのは確実でした。


この時日本にとって切羽詰った問題は、米軍機による民間人への空襲を止めさせる事、米軍によってソ連軍を食い止める事でした。


大本営と関東軍は米軍の到着が早ければソ連に占領されずに済み、日本は分割を免れやがてまた独立できると計算した。

米軍の到着が遅ければ満州と朝鮮の日本軍と民間人数百万人が玉砕し、北海道や東日本はソ連の領土になってしまうでしょう。


9月8日に最初の米軍が仁川に上陸するまでの約1ヶ月間、弱体化した日本軍守備隊は強大なソ連軍と38度線で対峙した。


ソ連軍が攻めてくればソウルは一日で陥落し、1週間で朝鮮半島全体を占領されただろうが、何故か最後まで攻めてこなかった。

この1ヶ月間の空白は物資と軍隊を欧州から輸送するためという意味もあったが、ソ連首脳は特攻や玉砕を恐れない日本軍が兵力以上に強いと思い込んでいた。


アメリカは日本軍と本土で戦えば100万人以上の犠牲が出ると試算したし、ソ連軍もそうした見方をした。


特攻・玉砕はソ連軍を恐れさせ、食い止めたという意味はあったのかも知れない。

米軍の上陸によって日本軍は海路で帰国することが出来、韓国の統治権を米軍に引き渡した。

朝鮮戦争の米軍


日本軍の停戦は1945年8月15日だが、米軍が朝鮮に上陸したのは9月8日だった。

9月9日に朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名し、朝鮮半島で第二次大戦が終わった。


日本は満州も米軍に占領してもらいたかったのだが、軍に余裕が無いという理由で拒否されている。


1945年9月7日、米軍は南朝鮮に軍政を宣言し、1982年まで戒厳令を敷いた。

因みに「サウス コリア」(南朝鮮)をそのまま英語の国名として現在も使用している。

9月11日には軍政庁を作って統治を始めたが、中身は朝鮮総督府の朝鮮人役人達だった。


1948年8月15日に朝鮮総督府を公式に韓国政府とし、大韓民国を建国した。

即ち現在の韓国政府は、朝鮮総督府を韓国人に入れ替えた組織である。


独立2年後の1950年、米軍への反発や朝鮮半島の軽視から、米軍は韓国から撤退してしまっていた。


1950年6月25日、北朝鮮は突如として国境線を突破し28日にソウルを占領した。

頼みのアメリカ軍は、韓国の反米活動で「出て行け」と言われたので、韓国ではなく日本に居た。


米軍は最初日本からの空爆でお茶を濁したが、国連軍を結集して日本で準備している間に、韓国の大半を北に占領されてしまっていた。


北朝鮮軍は朝鮮半島の最南端の釜山まで快進撃を続けたが、そこには日本からの補給を受けた米軍が陣取っており、ようやく止まった。

北朝鮮軍が釜山を包囲したのが8月15日ごろで、9月15日に米軍が仁川上陸作戦を決行した。


北朝鮮軍は補給線が延びきったところで強力な敵に遭遇し、背後から上陸されて挟撃され、絵に描いたような大敗を喫した。


連合軍は38度線を突破して、中朝国境まで北朝鮮軍を追い込んだ。

ソ連軍と中国軍は「参戦しない」と言いながら参戦し、アメリカ軍は中国軍によって再び38度線に追い返された。

司令官のマッカーサーは中国への原爆使用を要求したが、大統領は将軍を解任し、中国と取引して停戦した。

これが朝鮮戦争で、韓国人は99%までアメリカ軍のお陰で命拾いをした。

戦後の在韓米軍


アメリカ軍のお陰で国土を守った事から、韓国における米軍の権限は強大な物になった。

韓国人は米軍によって抑圧的な生活をさせられていると感じ、反発を強めていった。


韓国人は米軍に感謝するどころか、敵とみなして反対運動を再開しました。


韓国政府は日本に対してもそうしているように、国民の敵意をアメリカ軍に向けさせ、政権への不満の捌け口に利用しました。

例えば韓国軍と韓国政府は朝鮮戦争の期間中、100万人以上の韓国人を「スパイ」として粛清していた。


だが米軍がもっと少数の韓国人を、同様の容疑で処分した方を大々的に宣伝して、自らの犯行を隠しています。


米軍による犯罪や交通事故も、韓国政府の犯罪を隠すために煽っている側面が強い。

米軍向けの慰安婦問題も、韓国政府が怒りを米軍に向けさせる為に煽ったのだが、意に反して国民の怒りは韓国政府に向った。


韓国では政府が批判され国民が不満を持つたびに、日本と米国を「いけにえ」にする事で批判をかわしています。


また韓国では米軍の存在で北と対立しているとか、統一の障害になっているという批判もされている。

たしかに北朝鮮が韓国を統治するには米軍は障害になっていて、文在演は米軍撤退を強く望んでいます。

2016年には規模縮小という名目で、韓国から在韓米軍は撤退する事になっていました。


撤退後も空軍の一部と、少数の陸軍は残る事になっているが米韓連合軍の指揮権は韓国に移譲される予定でした。


だが北朝鮮によるミサイル発射や核開発危機があったので、韓国は急に「撤退するな」と言い先送りになった。


今度はまた韓国が「撤退しろ」と言い出していて、アメリカもいい加減うんざりしている。
http://www.thutmosev.com/archives/35719532.html

212. 中川隆[-15131] koaQ7Jey 2019年12月16日 20:08:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2180] 報告
天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
https://saiba.tistory.com/3133


デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
https://saiba.tistory.com/3133



213. 中川隆[-15126] koaQ7Jey 2019年12月16日 20:37:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2175] 報告
二・二六事件 2014.02.13 by フジッコ
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48

真実を探すブログより引用

かなり確信に近い情報を見つけたので、メモも兼ねて紹介します。当ブログでは世界の裏事情と真実について、だれでも分かりやすいように少しずつ説明していますが、最終的には太田龍氏が述べているようなことに行き着きます。
ちなみに、彼が述べていることの大半は、それを示す資料などがあるので信憑性は高いです。もちろん、一般常識に染まっている人は無理に信じようとしなくても構いません。今は「こんな情報があるんだな」程度に思って、読んでみてください。


☆とある写真
URL http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

☆太田龍 二・二六事件の真相、全面開示
URL http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/721.html
引用:
太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (1/14)
http://www.youtube.com/watch?v=bxpAeRC6rvQ


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太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (2/14)
http://www.youtube.com/watch?v=H5ctMIV__js

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太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (3/14)
http://www.youtube.com/watch?v=dHNX0N867qk

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太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (4/14)
http://www.youtube.com/watch?v=qU6r9R-Epk4

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太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (5/14)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4YkACG9v48

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太田龍 二・二六事件の真相、 全面開示 (6/14)
http://www.youtube.com/watch?v=3p0VzYhU_sg


02. BRIAN ENO 2013年2月24日 21:08:42 : tZW9Ar4r/Y2EU : yhmbAsnuyo
2・26事件の全容を知り、天皇の呪縛を解こう

故太田龍氏の公開講義の録音テープを関係者の方から頂いた。太田龍氏の遺志を汲み取り、これについては自由に広めてもらってよいということなので、今回は、その中から、二・二六事件に関するものを紹介したいと思う。

これは日本人にとって超弩級に重要な内容だが、太田龍氏の話は少々聞き取りにくい上に、内容が難しいときている。それで音声だけでは伝わりにくいと思っていたが、今般、有志の方のご協力により、全部を文字起こしし、わかりやすい画像と字幕にしてYouTubeにアップすることができた。


全部で2時間15分ある。以下に講義の要約、続いて文字起こし全文を掲載する。これに関する私の解説は後日リリースする予定である。

講義のポイント

アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48

214. 中川隆[-15117] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:14:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2160] 報告
二 二六 事件 海軍は 1週間前に 詳細を知りながら 傍観 軍部の無責任さ・冷酷さ

215. 中川隆[-15115] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:16:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2158] 報告
2019年12月18日
終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか


開拓村のひとつ満州国弥栄村、日本軍が去った後でソ連軍が襲い掛かった

画像引用:満州国弥栄村の絵葉書が・・・・中国東北部にあった幻の村・・・ | 赤城山・赤城温泉 御宿 総本家 館主よもやま話http://souhonke.jugem.jp/?eid=6905

全人類にとって不都合な歴史

戦後ずっと中国、南北朝鮮、ロシアは自分たちが日本軍によって被害を受けたと言い続けてきました。

アメリカ、イギリス、フランスなど西側の連合国も、自分たちが正しいと言うために日本軍を批判してきた。

その一方で自分たちが日本人に行った行為は隠され、なかったかのように言いつくろっている。


安倍晋三をはじめとする歴代首相や政治家、言論人もこの事には目をつぶり、一種のタブーになっています。

終戦時に満州や半島、千島列島や樺太に居た日本人はソ連や中国に何をされたか、日本政府が口封じをして喋らないようにしていた。

終戦時に外地にいた日本人は数年後に復員や引揚げしたが、日本政府は棄民として扱い存在しないように振舞った。


日本軍が大陸から引き上げた時、満州周辺には200万人の日本人が居たが、民間人は置き去りにしました。

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、大本営は秘密裏に関東軍(大陸部隊)を日本本土に帰国させる計画を建てた。

この時200万人の日本人居住者は足手まといであり、船も食料もなく帰国させたらさらなる食糧不足を招くとして、現地に置き去りにする決定を下した。


200万人の居住者はソ連が侵攻してきたのを知らされず、移動や避難を禁止されその場に留まるよう命令された。

満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

日本軍に騙された200万人の日本人居住者

真に受けた日本人らは本当に軍はソ連と決戦に行くのだと信じ、感動して涙を流し日の丸の旗を振って見送りました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。

8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15日になってからでした。


8月15日の日本軍降伏と同時に、ソ連軍と中国軍、暴徒化した中国人らが日本人居住者に襲い掛かりました。

満州国の首都新京には100万人もの日本人が居たので団結して身を守ったが、地方に居た満州開拓団はされるがままでした。

満州開拓団とは日本の食糧危機を解決するため、日本軍が送り出した農村開拓団で、数十万人も居ました。


開拓団は表向き応募だったが、実際には県や村、集落単位で割り当てがあり、人数が決められていました。

長男は村に残るので開拓団に行くのは次男以下、満州で子孫を増やすため夫婦ものが選ばれたので、行く人は決まっていました。

もし満州行きを拒否したら村八分にされるので、個人の意思とは関係なく行かざるを得ませんでした。

開拓村の人口を増やすのに女性が必要なので、大勢の少女らを騙して満州に送り込んだ。

満州では内地よりずっといい暮らしができるとか、まだ判断力がない少年少女に吹き込んでいました。

実際の満州は見渡す限りの荒野だったので、現地に着いたとたん騙されたのに気づいたでしょう。


満州の開拓村とは荒れ地を手作業で開拓し、ゼロから村をつくるもので、日本からの支援はほとんどなかった。

それぞれの開拓村の人口は数十人程度で、ソ連軍に襲われたらひとたまりもなかった。

多くの村では若い女をソ連兵や中国人に差し出し、命乞いをしたという事実が記録に残っている。

ソ連や中国に酷い目にあわされ帰国したのに、祖国は彼らを犯罪者扱いした

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

被害者なのに帰国したら加害者扱い

関東軍は事前に終戦を知っていたので8月15日までに南朝鮮まで逃げ、38度線を防衛ラインとした。

日本まで逃げる船はアメリカにすべて撃沈されていたので、もしソ連軍が38度線を突破したら今度こそソ連と決戦するつもりでした。

ここで関東軍は計略をめぐらし、ソ連軍と接触して「もし自分達を助けたら東日本を差し出す」と提案したと伝えられている。


その効果があったのか関東軍は本土に帰還できたが、約束は反故にし東日本は米軍が占領した。

満州在留日本人や北朝鮮居住者には38度線の存在自体が隠され、「その場から動くな」と言って立ち去った。

せっかく北朝鮮まで逃げて来たのに38度線の存在を知らず、ソ連軍支配地域にとどまった人が多かった。


ここでまた朝鮮人は日本の女をソ連兵に差し出して、ソ連とのコネを作ったり食料を得たり、地位を得たりした。

千島列島や樺太でも同じ事が行われ、200万人居たソ連中国支配地域の日本人のうち、約50万人がなくなった。

強制的に開拓団に参加させられ散々な目に合って帰国した人々に日本政府は冷たく、軍人のような恩給も保証もなかった。


一般の日本人はGHQの宣伝によって「開拓団は中国を侵略した悪人」と思い込み、罵声を浴びせたり石をぶつけたりした。

こうして帰国した人々は開拓団や外地居住者だったのを隠すようになり、ソ連や中国からの被害もひた隠した。

連合軍だった国は自分たちの被害を訴え、日本政府すら満州ソ連居住者の被害を無視しつづけている。
http://www.thutmosev.com/archives/81755000.html

216. 中川隆[-15112] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:09:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2155] 報告
2.26事件は天皇兄弟の謀略

217. 中川隆[-15109] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2152] 報告
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』

218. 中川隆[-15106] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:08:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2149] 報告
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

219. 中川隆[-15099] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:50:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2141] 報告
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/

220. 中川隆[-15096] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:58:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2138] 報告
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

221. 中川隆[-15089] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:53:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2130] 報告
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】

222. 中川隆[-15086] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:03:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2127] 報告
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子

223. 中川隆[-13877] koaQ7Jey 2020年2月10日 18:09:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-539] 報告
2020.02.10
カーク・ダグラスが死ぬ前に息絶えていたハリウッド

 俳優のカーク・ダグラスが2月5日に103歳で死亡した。ジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」は軍の好戦派によるクーデターがテーマの作戦だが、その映画で彼は主役を演じている。

 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビューしたことが小説を書くひとつの切っ掛けになったとされている。

 言うまでもなく、ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾を使った空爆で焼き尽くし、多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者であり、広島や長崎へ原子爆弾を投下する上で重要な役割を果たした。

 1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任、50年6月に勃発した朝鮮戦争でも日本に対する以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどだ。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達する。

 ネベルとベイリーがインタビューした当時、ルメイはライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長と同じようにソ連への先制核攻撃計画に参加、その準備としてキューバへアメリカ軍を侵攻させようとしていた。

 このふたりを含む好戦派の計画を阻止したのが1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディで、1962年9月にはレムニッツァーの再任を拒否している。

 その前にはCIAの長官と副長官が解任されている。1961年11月には長官だったアレン・ダレスを、62年1月には副長官だったチャールズ・キャベルを大統領はCIAから追い出したのだ。ルメイをSACの司令官に留めたことがケネディにとって致命傷になったと考える人もいる。

 ソ連に対する先制核攻撃の準備が進められる中、アメリカ国内ではファシズムに反対する人びとの粛清が始まる。映画界へもその波は押し寄せ、下院の非米活動特別委員会が1947年9月にハリウッドのシナリオ作家、監督、俳優ら19名に対して召喚状を送り、10月23日に出頭するように命じている。

 そのうちのひとりはドイツから亡命していた著名な劇作家のベルトルト・ブレヒト。指定された日に実際、証言させられたのは11名だった。そのうちブレヒトを除く10名が「ハリウッド・テン」と呼ばれている。

 そのうちのひとりが脚本や小説を書いていたドルトン・トランボで、自分の名前で仕事することができなくなった。トランボが自分の名前を取り戻したのはスタンリー・キューブリックが監督、カーク・ダグラスが主役を演じた1960年公開の「スパルタカス」。映画のクレジットにトランボの名前が明記されたのだ。

 しかし、現在のハリウッドは支配層の利益に反する作品を作ることは不可能な状態になっている。表現の自由は失われた。エル・サルバドへアメリカの軍や情報機関が関与している実態を描いた1986年公開の「サルバドル」、ベトナム戦争を描いた86年公開の「プラトーン」、89年公開の「7月4日に生まれて」、93年公開の「天と地」、あるいは87年公開の「ウォール街」や91年公開の「JFK」を監督した​オリバー・ストーン​によると、冷戦が終わってから情況は悪くなり、今では軍を批判したりイラク戦争を取り上げることが困難になっているという。有力メディアと同じように、単なるプロパガンダ機関になったということだ。

 以前にも書いたことだが、「5月の7日間」を映画化するようフランケンハイマーに頼んだのはケネディ大統領である。1962年にホワイトハウス報道官のピエール・サリンジャーを介して依頼したのだが、その大統領は映画が公開される3カ月前にテキサス州ダラスで暗殺された。当時、ダラスの市長はチャールズ・キャベルの弟だ。

 映画の原作が書かれる切っ掛けになる話をしたルメイに対し、ケネディ大統領が暗殺された翌年に日本政府は「勲一等旭日大綬章」を授与している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002100000/

224. 中川隆[-13871] koaQ7Jey 2020年2月11日 18:49:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-499] 報告
020年02月11日
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍


アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した。

引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg


広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています。

だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている。


日米和平交渉

1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。

日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました。

一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした。


日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました。

アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした。

だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた。


日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった。

1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。

ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。


日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。

なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。

日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。

成功するかに見えた和平交渉

1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました。

このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました。

同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました。


日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした。

真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました。

5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした。


7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている。

条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった。

この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった。


日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている。

仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています。

アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。

この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。

日本の降伏を無視したアメリカ軍

だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。

7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた。

8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました。


これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった。

もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる。

だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります。


ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている。

この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた。

おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる。


1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた。

ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた。

昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました。


原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した。

本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた。

同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした。


米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている。

このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした。

http://www.thutmosev.com/archives/58195625.html

225. 中川隆[-13874] koaQ7Jey 2020年3月17日 18:56:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1008] 報告
2020年03月17日
アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚


アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦。

引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024x784.jpg


ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています。

だがこの作戦を決めたのが、ソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない。

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった。


スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら、日本軍にビビリまくっていた。

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました。

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが、終始スターリンが主導権を握った。


ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された。

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた。

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた。


ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した。

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る。

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった。

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚

だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった。

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない。

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった。


日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し、欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた。

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました。

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した。


逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した。

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった。

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました。


ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ、日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた。

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました。

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました。

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている。


ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg

スターリンが支配した1945年

さらにスターリンはドイツへの上陸地点を、バルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました。

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い。

ここにアメリカ軍が上陸したら、バルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない。


ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません。

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった。

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました。


ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました。

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました。

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった。


だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった。

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した。

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない。

戦後世界は偶然生まれた

ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました。

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した。

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い。


逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった。

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります。

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした。

http://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

226. 中川隆[-13387] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:33:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1517] 報告
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html

227. 中川隆[-13068] koaQ7Jey 2020年4月05日 22:31:58 : Xn5SZlss5A : TlhXc1FmV3I5ZFU=[2] 報告
1945年8月15日は昭和天皇の終戦の詔書がラジオ放送された日で、日本が連合軍に降伏した事になった。

終戦の詔書は8月14日に内閣が作成し、同日天皇が裁可し発布され、翌15日正午にNHKでラジオ放送された。

内容はポツダム宣言を受諾する事と、日本軍への停戦命令で、大本営は14日には全軍に積極的な戦闘停止を命令し、米軍側にも翌日の降伏を知らせた。

米軍は15日になっても、おかまいなしに本土空襲を実施し犠牲を出したが、この日を境に戦争は収束に向った。


これが当たり前だと多くの人は考えているが、天皇の命令で戦争が終わるのは、世界的に考えて例外と言っていい。

ドイツは降伏を許されず「本土決戦」のうえ全滅し、イタリアは大混乱の末に政府が転覆して軍が降伏した。

いずれにしろ、降伏する側の元首の都合で「今日で戦争やめる」と言い出したからといって、勝つのが分かっている戦勝側は同意しない。


ローマとカルタゴの戦争でカルタゴは廃墟にされたし、負ける側の都合など、勝つ側は少しも配慮してくれない。

ポツダム宣言で日本に降伏を勧告していたといっても、勝つ側は約束など守る必要がない。

戦争に負けた側は約束を破ったら罰せられるが、勝った側を罰する者など誰も居ないからです。

朝鮮総督府の最後

何故米軍が天皇の命令で戦争を辞めたのかは、一つには米国内でもソ連の脅威に備えて対日戦は終戦にしたいという意見が存在した。

終戦に積極的だったのは米国務省で、ルーズベルトやトルーマン大統領も、早期に終戦したいと考えていたようです。

米国は戦勝が決まっていたといっても、4年間の戦争でかなりの犠牲を出し、兵士や国民にも終戦への期待が高まっていた。


そしてソ連の脅威は現実になりつつあり、欧州の半分を占領し朝鮮半島や北太平洋にも進出していた。

アメリカ側にも「そろそろ終戦にしたい理由」があったから8月15日で戦争が終わったが、そうでなければ中東戦争のようにずっと続いたでしょう。

日本の外務省は中立国スイスで米側代表と交渉し、日本が提示した降伏条件を概ね受け入れるという言質を得ていた。


8月15日に戦争を終結させると決めた日本帝国は、日本が占領していた領土の保存に取り掛かった。

戦争が終われば日本軍は本土に撤退するが、その前に帝国から独立させて、日本の影響力を残したいと考えた。

まずタイは日本の同盟国だったのだが、日本軍が無理やり戦争に巻き込んだ事にして、急遽戦勝国にしてしまった。


朝鮮半島の北側はソ連が占領したが、南側は関東軍(日本軍)が守っていたので、これも独立させる事にした。

8月15日に朝鮮総督府は独立準備委員会をつくるよう独立運動家に命令し、タイのように独立させるつもりだった。

8月17日に独立運動家に施政権を名目上引き渡したが、米国側が拒否したので、翌18日に再び朝鮮総督府を復活させた。

アメリカは米軍が到着するまで、日本軍と総督府が統治するのを望み、その後は米国が信託統治するつもりだった。

http://www.thutmosev.com/archives/66414398.html

228. 中川隆[-13261] koaQ7Jey 2020年4月11日 18:59:03 : 8AFzBVbKDo : NXRHZUxHekZQOU0=[-10] 報告
2020.04.11
新型コロナウイルスは「新たな関東大震災」として利用されるのか?


 日本でもCOVID-19(新型コロナウイルス)の感染拡大を理由にして経済活動にブレーキがかけられ、恐慌に突入すると懸念する人も少なくない。巨大企業は例によって手厚く救済され、比較的小さい企業や庶民がその尻拭いをさせられることになるのだろう。

 2008年9月にアメリカの大手投資会社リーマン・ブラザーズ・ホールディングズが連邦倒産法の適用を申請したときと基本的には同じだろうが、今回の規模は1929年並みに大きくなるとも言われている。

 闇金を始め、他人の資産を掠め取ることを生業にしている人たちがいる。そうした人びとの典型的な手口は、まずターゲットを借金漬けにすることだ。他人の借金を背負わせたり、仕事を失敗させたりする。そうした略奪を世界規模で行っているのが欧米の金融システムで、いわゆる発展途上国は食い物にされてきた。

 日本の場合、1923年の関東大震災がウォール街に支配されるひとつの切っ掛けになった。この災害で関東周辺は大きな打撃を受け、復興のための資金を日本政府は外債の発行で調達することにする。その責任者が森賢吾財務官だが、当時、最もJPモルガンと親しかった日本人は井上準之助だと言われている。

 外債発行の交渉相手はアメリカのJPモルガン。この金融機関を創設したのはジョン・ピアポント・モルガンだが、その背後にはロスチャイルド家が存在していた。

 ジョン・ピアポント・モルガンの父親、ジュニアス・モルガンはロンドンでジョージー・ピーボディーなる人物と銀行を経営していたが、業績が1857年に悪化、倒産寸前になる。その銀行を救済したのがピーボディと親しかったロスチャイルド家。そのロスチャイルド家に目をかけられたのがジュニアスの息子である。

 1923年当時、JPモルガンはジョン・ピアポント・モルガンの息子であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの時代になっていた。その結婚相手のいとこが1932年から駐日大使を務めたジェセフ・グルーだということは本ブログで何度か指摘してきた。ダグラス・マッカーサーもその人脈に属す。

 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ウォール街と対立していたニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが当選、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除してファシズム体制を樹立するためにクーデターを計画した。それを阻止したのがスメドリー・バトラー退役少将だということも本ブログで書いてきた通り。

 ファシズムを「是」とするウォール街が日本の政治経済に大きな影響力を及ぼしてきた。時期によって程度の差はあるだろうが、1923年から現在に至るまで、その基本構造に変化はない。戦後日本の民主主義とはその上に築かれたのだ。

 現在、日本は多額の国債を発行しているが、その発行額が急増しはじめたのは1970年代の後半である。1979年に出された「住銀調査レポート」によると、日本では多額の借金をする一方、「資金運用部には余裕資金残高が激増」している。

 つまり、1977年度の国庫対民間収支は2兆4430億円の受超で、78年度は実質的に2兆円を上回る受超だと推測、資金運用部の余資残高を推計するとその規模は1978年度末で約7兆円に達するものと見込まれると指摘していた。「資金の効率的運用という観点から極めて不合理な事態といわざるをえない」というのだ。この時から日本では意図的に借金が膨らまされてきたのではないか?

 欧米の金融機関が作り出した略奪システムに日本を取り込むためには日本人ではなく彼らが債権者になる必要がある。COVID-19が「新たな関東大震災」として使われる可能性があるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202004110000/

229. 中川隆[-13316] koaQ7Jey 2020年4月14日 17:01:16 : TGfzBd95kB : Mmt5aUpoY1RKMEk=[18] 報告
2020.04.14
世界支配の道具としての恐怖

 世界をCOVID-19(新型コロナウイルス)という「恐怖」が覆っている。恐怖を利用してアメリカの支配層が被支配層を操ってきたことを考えると、COVID-19の場合でもそうしたことが行われていると推測できる。すでに現象として戒厳令的な情況が作り出され、ソ連や中国との核戦争を想定して計画された社会の収容所化も急速に進んでいるようだ。

 人間が容易に恐怖でパニックになることは1938年10月30日の出来事を考えてもわかる。この日、H・G・ウェルズ原作のドラマ『宇宙戦争』をCBSラジオがオーソン・ウェルズの演出で放送されたのだが、この番組が原因で少なからぬアメリカ人がパニックになったのだ。

 第2次世界大戦後、アメリカの支配層は現実世界で恐怖を使う。本ブログで繰り返し書いてきたが、ウォール街、つまり巨大金融資本の大物たちはファシズムを望んでいた。そのウォール街を1933年からニューディール派が押さえ込むが、45年4月、つまりドイツが降伏する前の月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死して情況が一変した。

 ルーズベルトはニューディール派のリーダーで、しかも1944年に実施された大統領選挙で副大統領候補は現職の副大統領で民主党員の65%から指示されていたヘンリー・ウォーレスではなく、支持率は2%にすぎないハリー・トルーマンになっていた。

 トルーマンとルーズベルトは親しい間柄ではなかったが、アブラハム・フェインバーグという富豪が後ろ盾なっていた。この人物はリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても有名で、後にイスラエルの核兵器開発を支援するひとりになる。

 ルーズベルトが大統領、ウォーレスが副大統領という政権なら、戦争が終わればナチスを支援した人びとの責任が問われた可能性は極めて高い。これも繰り返し書いてきたことだが、JPモルガンをはじめとするウォール街の大物たちは1933年から34年にかけてファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画、準備を進めていた。

 第2次世界大戦後、ファシズムに反対していた人びとが「アカ狩り」で粛清されている。「アカ」が恐怖に仕立てられ、国民はその恐怖の渦に呑み込まれた。

 イタリアで1960年代から80年頃にかけてNATOの秘密部隊と言われるグラディオが実行した極左を装った爆弾テロも恐怖戦術の成功例だろう。イタリアで支持者が多かったコミュニストにダメージを与え、社会的な緊張を高めて社会の収容所化を進めるという戦術だ。グラディオを動かしていたのはイタリアの情報機関だが、その背後にはアメリカやイギリスの情報機関が存在していた。

 21世紀に入ると「アル・カイダ」と「オサマ・ビン・ラディン」が恐怖の象徴になるが、アル・カイダは​ロビン・クック元英外相も指摘​しているように、CIAの訓練を受けたムジャヒディン(ジハード傭兵)の登録リスト。ビン・ラディンはサウジアラビアの富豪一族の一員で、ムジャヒディンのリクルート担当だった。

 アル・カイダ系武装集団とNATO/アメリカとの関係は2011年に西側のメディアも伝えるほど広く知られるようになるが、その頃からバラク・オバマ政権は新たな戦闘員を育成しはじめる。その危険性をDIAが2012年8月の段階でオバマ政権に警告していたことも繰り返し書いてきた。そして2014年に売り出された武装集団がダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)だ。

 ダーイッシュは2015年にロシアがシリア政府の要請で軍事介入してから急速に勢力が弱まる。そこでアメリカなど西側の政府や有力メディアはシリア、イラン、ロシア、中国を恐怖の対象として宣伝しはじめた。

 ここにきてアメリカ政府はシリア、イラン、ロシア、中国とセットでCOVID-19を恐怖として宣伝、社会の収容所化を推進、巨大資本やその資本を所有する富豪が支配する体制を築こうとしている。その新体制では人口を現在の5%、あるいは30%まで削減するという発言があった。

 そうした流れがある一方、COVID-19で支配システムの無残な実態が明らかになり、ファシズム化に反対する人が増えるのではないかという見方もある。実際、世界的に見るとアメリカ離れが進んでいるが、そうした動きが広がるかどうかは不明だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202004140000/

230. 中川隆[-12993] koaQ7Jey 2020年4月23日 17:18:14 : GQpq4C3J56 : WFRrYkRPZmZYYWc=[8] 報告
人びとに衝撃を与える出来事を利用して支配者は自分たちに都合の良い社会システムを築いてきた。例えば、関東大震災の際に公布された治安維持令などを集成する形で2年後の1925年に治安維持法が公布され、社会の収容所化が強化されている。この震災は日本をアメリカの巨大金融機関、JPモルガンの支配下に置くことになった。

 本ブログで繰り返し書いてきたことだが、JPモルガンをはじめとするウォール街の住民は親ファシズムで、1933年から34年にかけて、アメリカのニューディル派政権を倒すためにクーデターを実行しようと動いていた。

 JPモルガンが日本支配を始める前、徳川体制が崩壊する頃から日本はイギリスの影響下にあった。アヘン戦争でイギリスは清(中国)に勝ったものの、内陸部の制圧はできていない。戦力が圧倒的に足りなかったのである。そこで目をつけたのが日本。日本はイギリスの傭兵になることでイギリスからさまざまな支援を受けることになった。アジア侵略の手先になることで富と地位を獲得した人びとがその後の日本を支配することになるわけだ。

 アヘン戦争で儲けたイギリス系企業のひとつ、ジャーディン・マセソンが明治体制ができあがる過程で大きな役割を果たしているが、日露戦争の際にはロスチャイルド系銀行のクーン・ローブが日本へ戦費を貸していた。JPモルガンとロスチャイルドの関係も有名だ。

 こうしたイギリスやアメリカの金融資本を後ろ盾として築かれたのが日本の天皇制官僚システムにほかならない。1932年にアメリカから駐日大使としてジョセフ・グルーがやってくるが、そのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人だが、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 JPモルガンの中枢につながるグルーは第2次世界大戦後、日本の進路を定めたジャパン・ロビーの中心的な存在になった。「民主的」とされる日本国憲法は天皇制の維持を宣言している。戦前も戦後も支配体制は米英の金融資本を後ろ盾とする天皇制官僚システム。基本構造は同じということだ。大正デモクラシーも戦後民主主義も天皇制官僚国家の構造の民主化ではなく、政策の民主化にすぎない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202004230000/

231. 中川隆[-12761] koaQ7Jey 2020年5月06日 08:28:37 : JiV1eTDCIw : eXZlblBTcFo4T1k=[4] 報告
2020.05.06
新型コロナウイルスが作り出したファシズム化の波に日本も乗っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202005060000/


 大きな災害によって経済が大きなダメージを受け、体制を変化させる引き金になることがある。その典型例が1923年9月1日に関東地方を襲った巨大地震だ。これは相模湾を震源とするもので、死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

 多くの企業が苦境に陥り、日本政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円を限度として政府補償を条件に日本銀行が再割引した。ところが銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 クーデターの主力部隊として想定されたのは在郷軍人会。JPモルガンは指揮官としてダグラス・マッカーサーを考えていた。マッカーサーが結婚した相手の義理の父親はJPモルガンの幹部だったのだ。

 しかし、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけるのだが、この人物は憲法を遵守するタイプの人物だった。そこで計画内容を聞き出した上でカウンタークーデターを宣言、議会で詳細を明らかにした。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 その当時、ニューディール派より巨大資本に批判的だった上院議員がいた。ヒューイ・ロングだ。彼はルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考えて分かれる。ロングは純資産税を考えていたというが、1935年9月に暗殺された。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。

 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。

 COVID-19(新型コロナウイルス)が関東大震災と同じ役割を果たす可能性がある。このウイルス騒動はイラクへの侵略戦争を始める口実に使われた「大量破壊兵器」と同じ大嘘かもしれないが、このウイルスを利用して日本のファシズム化を促進、反ファシズムの声を封じるために収容所化を進めたいと考えている勢力は存在するだろう。少なくとも、そう思えるような動きがある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202005060000/

232. 中川隆[-10168] koaQ7Jey 2020年11月05日 00:46:29 : kkAOyoEBTY : SElVYkJwUVhnOWM=[36] 報告
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)


田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1

こういう話もありますが、マスコミではタブーになっています:

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁し、死後は火葬にする事にした理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。

表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。

ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。

真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。

______

美智子様の実子は1人だけ??? 2013年3月4日月曜日

ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。


ふうーん、そういえば美智子様に似ているのは確かに秋篠宮の1人だけ。

なんたって、世界の秘密を握るモサドのエージェントだから、情報は本物の確立は高い。

ちょっと「美智子様の子供は一人だけ」とネットをサーフィンしてみたが、逆に出てきたのは、

「秋篠宮の父親が違う」

という驚きの情報だった。と言う事は、秋篠宮だけが美智子様の子供で、しかも、父親は天皇陛下ではないと言う話になる。

233. 中川隆[-10165] koaQ7Jey 2020年11月05日 17:23:30 : QCRIRvqEQ6 : RGU1TWNOaTZGclE=[34] 報告
【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
2019.12.17
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html

 現在、アメリカではトランプ大統領の弾劾訴追へ向けた動きが活発化していますが、私のところに入ってきている情報では、いろいろな組織の陰謀や各国の思惑が絡み合って面白いことになっています。いま、その交通整理の真っ只中にいますので、準備とタイミングが整い次第、随時公開していきますので、お待ちください。

 今回はそのための予備知識として捉えておいてほしい情報として、日本の支配層を取り巻く不思議な話を紹介しましょう。

 皆さんは山口県の田布施という地名を聞いたことがありますか? 

 TOCANA読者であれば当然ありますよね。実はこの土地は我々エージェントにとっても注目する特異な場所なのです。

 どう特異なのかというと、小さな町なのに総理大臣を多数輩出しているからですよね。しかも、例の替え玉天皇であり、騎兵隊天皇とも言われた大室寅之祐の伝説や田布施システムという噂もありますから、私も気持ちが高鳴るんですね(笑)。あとでお話しますが、都市伝説ってエージェントにとって結構大切なんですよ。

 しかし、話が荒唐無稽すぎて、多くの人は田布施システムなんか信用してはいません。もちろん、私も信用していません。なぜなら、確証を探すのが極めて困難だからです。

 それではなぜ、この連載で取り上げるのかというと、日本を読み解く上で重要な部分が田布施および田布施システムという“伝説”には内包されているからです。

■田布施システムという情報を整理

 まず、事実関係から整理していきましょう。そもそも、あのあたりの土地は昔から地元では朝鮮部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸は朝鮮半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。

 ですから、彼らは自らの出自を恥じてはいませんし、地名や家名に半島の名残りを示す名や縁のようなものを残しています。

 実際、戦国武将の秦氏は百済の王族弓月君の祖先だと言われていますね。『日本書紀』にも弓月君が百済から日本に渡ってきたといった記述があります。単純な話、名前を見ただけで半島っぽい感じがするのでだいたい想像はつきます。

 ところが、田布施出身の人々は少し違います。半島らしい名前があまりないのです。そのいい例が岸信介氏であり、佐藤栄作氏です。岸も佐藤もごく普通の日本人名であり、半島名とはとても思えません。

 実は田布施の謎、不思議さはここにあるのです。田布施システムも興味深い内容ですが、岸家と佐藤家の謎を解かない限りは田布施の本質は見えてこないのです。

■岸家、佐藤家の秘密

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!の画像2
岸信介。画像は「Wikipedia」より引用
 半島から渡ってきた人たちが名前をつける場合、例えば、金さんであれば、金田など、わりとわかりやすい日本名をつけます。

 ところが、岸家も佐藤家もそういった半島らしさがありません。ですから、多くの人は「朝鮮系の人たちが多く住む田布施」と言われてもピンとこないのです。しかし、それは私たちが日本の歴史と半島の歴史をしっかり理解していないからです。

 まず、近代の半島を語る上で李氏朝鮮を理解しないといけません。李氏朝鮮は1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏朝鮮王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。

 とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。

 勘のいい方ならもうおわかりですよね。彼ら政争に負けた朝鮮の人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

 そして、岸家も佐藤家も地位の高い両班(李氏朝鮮における貴族階級)であり、もっと言えば、岸家は李氏王朝の血を引く一族で、その証拠が「岸」という家名なのです。


■岸家と李氏朝鮮の関係

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!の画像3
佐藤栄作。画像は「Wikipedia」より引用
 岸と李氏のなにが関係しているのか?

 たぶん、皆さんは不思議に思うでしょう。しかし、李=岸なのです。

 種明かしをしましょう。まず李の文字はよく見てください。分解すると「木」の下に「子」という文字でできていますね。これを日本語で読むとどうなるでしょうか? 

 木=キと読みます。子はコと読むのではなく、シと読むのです。

 そうです。李という文字はキとシの文字から成立しており、だから「キシ」=「岸」なのです。

 岸家は李氏朝鮮を興した李氏に直接つながる王家の一族だった可能性が極めて高いのです。

 どうですか? 多くの朝鮮集落が存在する瀬戸内で田布施だけが特別なのは、こういう理由だからです。

 これは佐藤家もそうです。佐藤の佐は補佐の佐を意味します。藤は藤の花の藤ではなく、朝鮮語で舟を意味する藤になります。佐藤家の祖先は李氏朝鮮時代の海軍の将軍補佐のような役目をしており、佐藤とは舟の補佐という役職を表す家名だったのです。

 実はこれが田布施システムの大元になっているのです。

■朝鮮と明治維新の濃密なつながり

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!の画像4
伊藤博文。画像は「Wikipedia」より引用
 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏朝鮮王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。ただし、それは朝鮮から見た場合であり、日本から見た場合は話が変わってきてしまいます。

 考えてもみてください。田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。

 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保は朝鮮系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地は朝鮮集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新と朝鮮は極めて親しい関係なのです。

 このことを皆さんはどう感じますか?

 エージェントという外から日本を見る立場で言えば、明治維新は朝鮮系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新は朝鮮系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。

 実は私たちにとってここが大切なのです。

 ちょっと調べれば、明治維新の実態や正体は簡単に見えてくるのですが、明治以降の約150年間もこれを問題視する人たちがいませんでした。明治維新に対して疑義を唱える人たちが出てきたのはここ数年のことです。

 もちろんそこにはメディアの操作があったのです。

 具体的に言えば、朝日新聞などですが、ここで不思議なのは、彼らは朝鮮系というよりは共産主義の人たちなのです。

 そして、再び話は田布施に戻ります。田布施からは岸や佐藤のほかにも有名な人物が輩出されています。その一人が日本共産党の書記長であった宮本顕治です。

 そして、その後ろにはもちろん、ソ連のエージェントがいます。

 彼らは田布施システムを上手に利用して、日本のメディアを巧みに操り、世論を操作していたのです。

 現在、我々の世界ではロシアの諜報技術に学ぶものが多いと感じていますが、その実力、その結果がまさに日本の戦後を作っていたと言っても過言ではないのです。

 ただし、ロシアが介入したのは戦後であり、戦前は別の勢力が日本を影から操っていました。その勢力とは維新の志士たちのスポンサーであったイギリスです。そして、その裏には隠れユダヤの存在もありました。

 次回はイギリスの植民地支配と隠れユダヤの観点から日本の維新を見ていきましょう。ただし、先にトランプ大統領の弾劾ネタの整理がつくかもしれません。その時はそちらを優先しますが、この話の続きは必ず書きますので。

 さて、今回もウソのような話ばかりでしたが、私はエージェントです。事実をもとにした“誇大”推論がこの世界のやり方です。実はこのやり方が真実にたどり着く一番の近道なんですよ(笑)。

文=ジェームズ斉藤

234. 中川隆[-10158] koaQ7Jey 2020年11月05日 17:30:41 : QCRIRvqEQ6 : RGU1TWNOaTZGclE=[41] 報告
【重要・証拠アリ】安倍首相辞任の裏に「CSISと朝鮮・田布施システム」! 米に見捨てられ実は逮捕寸前だった…暴かれた二階と今井の親中政治とは!?
2020.08.29
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry.html

 8月28日、突如、安倍首相が辞任を表明した。前日まで辞める意思などまったくなかった首相がなぜ、一転して辞意を固めるに至ったのか? 首相の側近たちも寝耳に水の事態で、永田町界隈が大騒ぎとなった、安倍首相の辞任劇の裏側を某国現役エージェント、ジェームズ斉藤が最新にして最深の情報を徹底暴露!

ジェームズ 結論からいいますと安倍さんは辞める気なんかなかったんです。しかし、辞めざるを得なかったのはアメリカが見放したからです。しかも、その見放し方は内々に首をすげ替えるといったものではなく、CSIS(戦略国際問題研究所)のレポートという形で全世界に公開されたのでダメージが大きかったんです。CSISについてはトカナ読者なら知ってると思いますが、日本政府が最も信頼しているジャパンハンドラーのシンクタンクです。特に安倍政権になってから、官邸機密費からCSISに毎年数億規模の研究資金を提供したり、安倍首相自身も2012年に首相の座に復帰してすぐにCSIS詣でをしています。そんな安倍首相肝いりの機関でもあったところから、先月23日に、「日本における中国の影響力」というレポートが出て、自民党幹事長の二階(俊博)さんと首相補佐官の今井(尚哉)さんが名指しで親中派と批判されたんです。

──それ覚えています。結構ニュースになっていて、今井さんと二階さんは中国に媚びている媚中派だと日本でも辛辣に書いていましたね。

ジェームズ ただし、日本の記事は肝心なことは書いていません。まず、このレポートが出された裏側には米国務省の世界関与センターが暗躍しています。ここは表向き中露の影響工作と戦うことを目的とした諜報機関ですが、本当はアメリカが世界中で内政干渉するための口実を作るための機関です。ここが今回のレポートの研究資金を提供しています。

──ということは最初から安倍政権をひっくり返す目的があったということですか? 

ジェームズ そのとおりです。しかも安倍総理が長年信頼し、永田町や霞ヶ関では「泣く子も黙る」CSISがこれを出したのですから、インパクトは計り知れないないものだったでしょう。特に、二階さんは自民党の幹事長ですし、今井さんなんか「影の総理」とまで言われた、安倍首相の側近中の側近です。その二人を「中国のための政治をしている二人」と書いているんです。これは完全に内政干渉であると同時に、トランプ政権が安倍政権に対して最後通牒を突きつけたということでもあるんです。大切なのはここなんです。その証拠にレポートの表紙を見てください。安倍さんの顔が大きく出てますよ。明らかに安倍さんに対するメッセージなんです、このレポートは。

https://www.csis.org/analysis/chinas-influence-japan-everywhere-yet-nowhere-particular

──あっ、確かに思い切り安倍さんの顔ですね。

ジェームズ トランプ政権の感情としては日本に対する苛立ちがずっとあったんです。なんの苛立ちかというと米中が対立している現在の国際政治において、日本のアメリカに対する貢献度が少ないと。安倍さんはトランプ大統領とゴルフをやって親密度を演出するなど、パフォーマンスばかり夢中ですが、経済政策はずっと中国寄りだったんです。日本のカジノ事業なんてその最たるもので、これらはもともと中国の意向のもと、今井さんと二階さんが率先して進めてきたんです。レポートでもそれははっきり書かれています。

──安倍政権は極右だと言われていたんですが、中身は全然違ったんですね。

ジェームズ 媚中政権です。それを今井さん、二階さんが率先してやってきたんです。もともと二階さんは朝鮮系で国内政治では朝鮮利権と被差別利権をうまくマネージして第三者的存在として中国の利権を引っ張ってきたんです。ですから、中国といえば二階さんと決まっていて、安倍政権では絶大な影響力を持っていたんです。今年4月予定されていた習近平の国賓級来日は、二階さんに対する恩返し的な意味合いが強かったのです。その一方で、都知事の小池(百合子)さんと裏でつながって彼女の国政復帰を画策したり、フィクサー的なことをずっとやってこれたのも中国のバックがあったためです。それは今井さんも同じで、やはり彼も朝鮮系なんですよ。実は安倍政権というのは朝鮮政権のA級戦犯的な人たちの集まりなんです。

──ちょっと待ってください。「朝鮮系」ってどういうことですか? 安倍さん、今井さん、二階さんって在日朝鮮人ということなんですか?

ジェームズ そういう意味ではありません。永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

──えっ、そんなこと初めて聞いたんですが…。本当のことなんですか!? 

ジェームズ これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。安倍政権というのは、完全にお友達政権ですから、これまで以上に朝鮮系の人々が集まっていて、21世紀の「両班政権」だったのです。国益や公益など一切無視で、「政治でビジネスをする」という、完全な拝金第一主義が安倍政権の正体でした。したがって、経済政策は単に一番儲かるという理由だけで中国寄りだったんです。だから、尖閣問題なんて最初からやる気なんかなかったんです。そういったところがいま対中政策で強行になっているアメリカにとっては我慢ならなかったわけです。安倍首相はこのCSISのレポートが出てから急激に体調が悪化し始めるんですけど、それでも退陣する気なんかありませんでした。彼の意向としては11月のアメリカの大統領選挙まで粘ろうと。それでトランプが勝てば、さらに続行し、バイデンが勝てば、辞任して麻生(太郎)副総理に暫定的に首相を譲って、いまアメリカ側で評価が高まっている河野(太郎)防衛大臣を一旦、財務大臣にし、その後に首相にする、という流れだったはずです。詳しくは安倍総理辞任前に発信した私のツイートを見てください。

──じゃあ、急に辞めなければいけない状況が起きたってことですか?

ジェームズ たぶん、辞意を表明する前日の夜だと思います。安倍首相のお母さんの安倍洋子さんから「もう辞めなさい」と言われて辞めることをしぶしぶ決意したもようです。

──お母さんから言われたってことですか!?

ジェームズ 簡単に言ってしまえばそういうことです。安倍さんはマザコンですから、お母さんの意向は大きいと思います。ただし、洋子さんが「もう辞めなさい」と言った理由は息子可愛さだけではありません。安倍さんに司法の手が伸びていたからです。実は、安倍さんは逮捕される寸前だったんです。河井(克幸)前法相夫妻の選挙違反がらみの件をきっかけに、警察も検察も現役首相を捕まえようと本気になっていました。安倍さん一派はこれまで司法を捻じ曲げることばかりしてきましたからね。お友達の記者のレイプ事件を揉み消したこともありましたし、検事長の定年を延長しようとしたこともありました。あんなやりたい放題なことをしてたら、警察、検察に恨まれて当然です。そういう中で、アメリカに見放された安倍さんを現役首相のうちに牢屋にぶち込みたい、というのが検察側の狙いだったんです。それに関してはアメリカからのお墨付きも出ていたと思います。首相辞意表明の当日にアメリカで下のような記事が出ていますから。

https://www.thedailybeast.com/japans-longest-serving-pm-shinzo-abe-quits-in-bid-to-escape-potential-prosecution

──それでも、安倍さんは辞める気はなかったんですよね?

ジェームズ なかったんですが、お母さんの安倍洋子さんから「岸家から犯罪者は出せない」ときつく言われたようです。洋子さんは岸信介の長女ですし、李氏朝鮮の元王族のプライドも高い人ですから。それで辞めるしかなかったんだと思います。たぶん、このことは、麻生副総理の耳にも入っていなかったんじゃないでしょうか。辞意を表明した28日にかなり翻意を促していたようですが、安倍さんの意思は固かったので、麻生さんも諦めたんでしょう。以後、麻生さんは表に出てきていませんから。

──二階さんはどうですか? CSISで酷評された二階さんが次の総裁選を取り仕切っているようですが。

ジェームズ 日本ではまだまだ、二階さんは力を持っていますから、まとめ役としてはうってつけなんでしょう。しかし、今後は変わってきます。トランプが大統領選で勝ったら完全に終わりでしょうね。次期首相に関しては菅(義偉)さんが最も有力でしょう。日本のメディアもいま誰が次期総裁になるのか、とかやってますけど、いま彼らがやるべきことは総裁選レースの予想屋ではないと思います。安倍さんの追及こそ彼らの仕事で、メディアが率先して「東京裁判」を開き、安倍政権のA級戦犯たちを裁くべきです。確かに民主党時代の迷走よりは安倍時代のほうがはるかにマシで、総理には「お疲れ様」と見送るのが礼でしょう。しかし、首相時代の彼の縁故主義に基づく独裁は目に余るものがありました。自分のお友達を集めて、都合の悪いことがおきると、やはり友達の検事たちに頼んで事件を揉み消すという、本当に頭の悪い、政治ごっこをしてきたんです。これは朝鮮式両班政治の極みです。日本本来の武士政治では、もっと高潔さがあったはずです。しかも、多くのマスコミがこれに異を唱えず、提灯記事を垂れ流していました。こういうものをすべてえぐり出さないと、この国は終わってしまいますよ。1920年代の政党政治の迷走を彷彿させます。辞任したから逮捕は許してやるという、判官贔屓的ないまの風潮は大きな間違いだと私は思いますね。なので、真実をありのままに伝えるトカナの役割は非常に大きいと思います。ポスト安倍の日本はメディアの在り方から変えていかなければなりません。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry.html


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【重要】菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり…ジェームズ斉藤が暴露
2020.09.27
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html

 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 


ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 下馬評通り、菅さんが総理になりましたね。早速日経の世論調査が出てましたが、支持率74%はさすがに異常です。発足したばかりで何日も経っていない政権を10人中7人以上が支持するのはありえないです。さすがは取材権を餌にアメとムチを駆使して、マスコミに菅グループと呼ばれる御用ジャーナリストを養成している菅さんらしい老獪さです。今後日本の主要メディアは壊死するでしょう。

──いきなり辛口ですね。菅さんって一見地味な方ですが、実際どういう人なんですか?

ジェームズ はっきり言えば怖いですよ。まず、彼のお父さんの菅和三郎さんですけど、謎多き人物で、公開情報のほとんどがフェイクです。私の情報源である永田町のドンの方々の話によると、和三郎氏は●●●●の調査部出身です。これはググっても出てきません。

──えっ! ●●●●の調査部って!

ジェームズ そうです。バリバリの諜報機関です。特に、菅総理のお父さんが所属した時期は第二次世界大戦の真っ最中で、関東軍肝入りの特務機関の頃でしたから、世界最高レベルのエージェントばかり揃っていました。ゾルゲ事件の尾崎秀実や大川周明なんかもいましたので。ただ、日本が戦争で負けたあとは、秋田で暮らし始めたんです。

──秋田で!?

ジェームズ そうです。日本の政治家の中枢がそうであるように(詳しくはこちらの記事を参照)、菅さんのお父さんも朝鮮半島の人ですから。正確に言うと日本統治下の朝鮮で生まれているので日本の臣民とも言えますが。菅総理の名前菅義偉が朝鮮名みたいなのもそういう理由です。これで「すが・よしひで」と読むのは珍しいですからね。また、菅和三郎氏も「和」という、「清和会」の由来にも通じる朝鮮系が好む漢字を使っています。しかもあえて音読みとなっているので、朝鮮系であることはほぼ間違いないところです。

──ということは今回の総理も、例の永田町独特の朝鮮系の人ということなんですね。

ジェームズ いえ、朝鮮系は朝鮮系なんですけど、安倍(晋三)さん、今井(尚弥)さん、二階(俊博)さんみたいな人たちとは違います。彼らは李氏朝鮮の両班出身で、要は貴族です。彼らの祖先が渡日した時期も古く、ほとんどが豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連れられてきた人たちです。一方、菅総理は戦後日本に来た家系なのでかなり新参者です。

 だからこそ、お父さんは切った張ったの世界でのし上がれる特務機関に入っていったんだと思います。そこで人脈を作った。そして諜報活動の経験が功を奏してか、新天地秋田ですぐにイチゴ栽培の事業に成功し、後に地方議員にもなり、地元の「ドン」になっていきます。

 ですから、菅総理はそこそこの名望家の出ということになるのですが、永田町でいう「両班朝鮮系」ではありませんので、そっちのグループには入れません。じゃあ、何系かという最初の派閥が宏池会の小渕派なんです。この小渕(恵三)さんと最初につながったというのが菅総理らしいんです。実は、小渕さんは菅総理と一緒の諜報系の人なんですよ。


──諜報系? あのブッチホンの小渕さんがですか? 

ジェームズ まあ、小渕さん自身が諜報機関の人というわけではないですけど、小渕さんの叔父さんが陸軍中野学校出身で台湾どで活動していた人だったんです。なので、小渕さんは叔父さんの薫陶を受け、その知識と人脈を外交に活かしていました。例えば、エリツィン大統領が病気になった時には病状を確かめるために官房機密費を使って、あの大物三重スパイの佐藤優さんをモスクワに送ったりもしています。ですから、小渕さんと菅総理というのはインテリジェンスの世界でつながっていたんですよ。この二人は、親しい身内に諜報組織の人間がいたという点で、戦後の総理の中でも際立った存在です。


──なんか、インテリジェンスな首相って聞くとカッコいい感じもしますが。

ジェームズ いや、それは映画や小説の世界の話で、実際はかなりドロドロですよ。その辺のことはあとで話しますが、菅総理はそういう出身だということです。これが意味することは本来、永田町の中ではメインストリームには上がってこれない、ということです。なにしろ、日本の政治家としての出世には両班であることが第一条件ですから。しかも、両班であれば誰でもOKではないんです。両班の中にも序列があって、足の引っ張り合いやいがみ合いがしょっちゅうおきてますから。それで思い出しましたが、昔、宏池会の林芳正さんと清和会の安倍さんがケンカになったことがあって、「お前は同じ両班でも俺より下だろう」とか言ってたらしいですよ。ホント、どこの国の話なのかと思いますが(笑)。

──まったくです。ちなみに、そのケンカは安倍さんが勝ったんですよね、李氏朝鮮の王家ですから。

ジェームズ いえいえ、勝ったのは林さんです。李氏朝鮮の王家であっても直系と傍流ってあるじゃないですか? それで見ると林さんのほうが直系に近いらしいんですよ。だから、安倍さん対林さんのケンカは林さんが勝ったみたいですよ。しかし、日本の政治ではこれが重要なんです。なぜなら、普通に実力勝負だと上にいけば行くほど似たりよったりで優劣がつかないんです。例えば、組閣になったときにどっちを大臣にするんだって場面で実力は一緒となったら、バックグラウンドで決めるしかないんです。つまり、両班かどうか? 両班同士であれば、どの階級の両班なのか? なんです。これが日本の政治の実態です。


──永田町にはいまどのくらい両班階級がいるんですか? 

ジェームズ かなり多いですよ。この前話しました安倍さん、二階さんもそうですし、岸田(文雄)さんもそうです。小泉純一郎、進次郎親子も鹿児島の旧田布施出身(田布施システムについてはコチラを参照)ですからそうですし、清和会の創設者の福田赳夫、康夫親子も釜山系の両班です。一方、宏池会の岸田さんは北系の両班なので、釜山よりは上なんですよ、林さんもここですね。

──もともと李氏朝鮮って北にあったんで、北出身のほうがヒエラルキーは上だと。

ジェームズ 中華の世界観では、北が特別な意味を持ち、北を制するものが政治権力を支配します。したがって、北系のほうが格は断然上です。ただし、宏池会は清和会のような朝鮮系というわけではないです。宏池会を作ったのは池田勇人ですから、吉田茂の流れです。

──そうするとイギリス系ですか?

ジェームズ そうですね。どちらかというと。吉田茂の義理のお父さんは大英帝国のジャーディン・マセソンという横浜にあった商社の支店長で、イギリスのユダヤ利権を継承していましたから。11歳だった吉田茂に当時で60億円ぐらいの遺産を残しています。もともとこの家系は幕末に暗躍した武器商人グラバーの財務下請けをやっていて、坂本竜馬とかああいうのが営業ですね。伊藤博文は転売屋というイメージです。一言で言えば、せどりですね(笑)。吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。

──日本人の勢力はないんですか?

ジェームズ もちろんありますが…●●●系ですね。日本の政治の世界は朝鮮系が多く、次いで●●●系が多いです。普通の日本人の勢力でいうと、ごくたまに麻生太郎さんのような旧貴族系日本人がいる程度という構成です。

──日本の政治が日本のためにやっているように見えない理由がわかりますね。  

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菅義偉首相の黒い正体(中編)― ユダヤに売った魂、五族協和…安倍政権の方が断然マシな理由をジェームズ斉藤が解説!
2020.09.28
https://tocana.jp/2020/09/post_172263_entry.html

 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 


──ところで、菅さんはがのしあがったということはバックなり、金なりが相当しっかりしていたんですよね? 

ジェームズ そうです。彼は、議員秘書時代は神奈川で活動してたんですけど、そこで横浜の港湾労働者を配下に収めて裏社会とも関係ができたんですよ。横浜のドンである藤木企業の藤木幸夫会長も、菅総理の政治キャリアを語る上で欠かせない人物です。

──横浜のドンに可愛がられていたとよく書かれていますね。

ジェームズ 可愛がられた理由は、お父さん譲りの情報収集能力に長けていたからだと思います。彼はいまでも毎朝5時に起きて腹筋100回と散歩の後、優秀な官僚を招いて情報交換しながら朝食を摂るんです。この官僚たちが菅グループと呼ばれる人たちで、すべての省庁にいます。菅さんはカリスマ性はないんですけど、情報収集能力、集金能力があるんですよ。

 そういう姿を見ていると、私はアメリカの政治家のディック・チェイニーに似てると思います。彼も菅総理と同じでカリスマ性はないんですが、ずっとバカなブッシュJrを好きなように操って、アメリカを動かしていましたから。

 菅総理も、岸家のボンボンの安倍さんのもとで、政治を牛耳っていました。その象徴的な話として永田町界隈に伝わっているのが、官房機密費5億円を政党「●●」の××さんに渡したという噂です。官房機密費は年間12億円ぐらいしかないのに、当時の菅官房長官は5億円も渡してしまったんです。なぜそんなことをしたのか、というと、●●を菅さんのバックにつけるためです。これは自民党のバックにつけるためではありません。あくまで菅さんの個人のためで、これで完全に●●は菅さん支持になったと言われています。


ジェームズ 菅政権は利権政治、金権政治で相当ヤバい政権です。最初に怖いと言ったのはここです。菅さんはお金のためなら義理人情も関係ありません。そのわかりやすい例が国内カジノのIR政策の件です。菅さんはトランプ大統領に儲け話を囁かれると、カジノ反対派だった恩人の藤木会長を切り捨て、「ユダヤのカジノ王」シェルドン・アデルソンが運営するラスベガス・サンズの横浜IR参入に同意してしまうのです。横浜IRの実現によって港湾労働者と裏社会ネットワークを完全制覇し、自身の不動の地を築く計算です。そのためには、同胞や恩人を裏切り、ユダヤにも魂を売ります。そんな冷酷無比な菅総理が目指しているのが「五族協和」です。
──つまり、韓国、中国、日本が手を組んでいこうということですか?

ジェームズ いえ、これは国内の話です。日本の中にあるマイノリティのバランスをうまく取るという国家ビジョンです。だから、政党「●●」とも組んでいるんです。●●●●●●●(※あまりに危険な情報なので削除しています)。

 これの恐ろしいところは、日本にはそれほどマイノリティがいないということです。いないのに五族協和を謳うわけですから、これはマイノリティをこれから作り出すつもりんです。これは在日の人たち、アイヌの人たちにとって迷惑と困惑と混乱を生み出します。なぜなら、いまほとんどの在日の人たちは日本に帰化しています。その子供たち、孫たちは自分たち在日だと知りもしません。実際、日本に生まれて日本に育っているのですから、間違いなく日本人ですよ。親たちだって教えるつもりなんかありません。

 ところが、「五族協和」はこれをわざわざ掘り起こし、「キミは朝鮮人なのだから朝鮮人としての誇りを持て」「アイヌの誇りを持て」というんです。これは本人も含めて誰も得しません。得するのは差別ビジネスをする人たちだけです。これはいまのアメリカ民主党がやっていることと同じです。みんながアメリカ人という、ひとつのアイデンティティを持とうとしている時に、「いや、お前は黒人だ、黒人の誇りを持て」「お前はスパニッシュだ。スパニッシュの誇りを持て」とやっているのです。これをしたら国がバラバラになります。暴動だらけの今のアメリカがその証拠です。だから、怖いのです。


──本当にこれからの日本が心配になってくる話です。

ジェームズ 極めて危険です。変な話ですが、安倍政権のほうがまだマシだったと思います。なぜなら、一応、安倍さんには夢があったからです。ビジョンとまでは言えないものの、「こんな国にしたい」という夢はあったんです。それに国民も乗った時期があったと思いますが、菅総理の場合、夢もビジョンもなにもないです。完全に「自分ファースト」の利権政治です。岸信介の悪いところ、田中角栄の悪いところ、竹下登の悪いところを全部合わせたような人物です。欧米メディアも菅総理が選ばれた背景をクレムリンの密室政治だと揶揄してましたが、本当にプーチン顔負けの密室政治がこれから展開されるでしょう。これについては、安倍政権で大臣も務めた超大物議員が私に言ってました。「菅さんが首相になる様子を見ていると、日本に民主主義がないことがよくわかる」と。つまり総裁選からして金権、利権争いだったんです。

──今はつなぎの総理という扱いですが、長期政権になるかもしれないですね。

ジェームズ すでに菅総理は安倍夫妻を逮捕しないよう、検察と警察も黙らせました。検察と警察の目付役として、それぞれ配下の上川陽子法務大臣と小此木八郎国家公安委員会委員長を任命していますので。これで安倍さんは菅総理にもう文句は言えないです。

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菅義偉首相の黒い正体(後編)― 恐ろしい組閣人事「4人の裏事情」と裏の北方領土ビジネスをジェームズ斉藤が暴露
2020.09.29
https://tocana.jp/2020/09/post_172879_entry.html

 大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露! 

──組閣人事で気になるところってありますか?

ジェームズ 組閣にこそ、菅総理の恐ろしさが出ています。菅内閣の人事に共通していえることなんですけど、自分の手を汚さないんです。自分の手を汚さずに汚い仕事を、将来性のある若手にやらせて、自分の権力が脅かされるのを防ぐというやり方です。


画像は「Getty Images」より引用
──つまり、将来有望な若手を潰すってことですか?

ジェームズ そういう配置ですね。日本のことをまったく考えてないです。

・岸信夫

 例えば、防衛大臣で初入閣した岸(信夫)さんはご存知のように安倍さんの実弟です。この人事は一応安倍さんのお母さんである安倍洋子さん肝入りの両班朝鮮系継続人事だそうですが、防衛はイージス・アショアの後始末とか面倒なことが山積しています。初入閣ではかなり荷が重いと思います。

・河野太郎

 そして、将来の総理候補と言われた河野(太郎)さんが行政改革大臣になりました。これは本当にえぐい人事です。行革大臣はみんなに恨まれる仕事をやらないといけないんです。いろんな反対を押し切って強引に解約、解体する役割を担うことになってしまうので、のちのちまで禍根を残す、どう考えても汚れ仕事なんです。議員たちの話を聞いていても河野さんはもう総理の道を断たれたんじゃないか、というぐらい悲観視されています。

・小此木八郎

 極め付けは前述の小此木さんです。何しろ、犯罪の温床だった安倍政権と、これからそうなるであろう菅政権を警察から死守するというのが今回の国家公安委員会委員長の役回りです。これは法の支配を完全に踏みにじる、ヘタすれば後ろに手が回りかねないものです。司法機関に人治主義を押しつける最凶ブラック人事と言っていいでしょう。

 しかも、そんな役回りを小此木さんに振ったというのが私には信じられません。小此木さんのお父さんの故・小此木彦三郎議員は、若き日の菅総理を同じ朝鮮系として私設秘書に雇い、政治人生をスタートさせてあげた大恩人です。その息子さんを自分が官房長官時代には冷や飯を食わせておいて、総理の座についた瞬間、恩返しのように大臣(内閣府特命担当大臣)の椅子を作ってあげたんですが、実際は国家公安委員会委員長という爆弾を押し付けているんです。これは小此木さんを政治的自殺行為に追い込むような、恩を仇で返すようなことになる可能性があります。


──河野さんは嫌われたなとは思いましたが、小此木さんは普通に恩返しをしたのかと思っていました。官房長官になった加藤勝信さんはどうですか?

・加藤勝信

ジェームズ これも表向きは、安倍洋子さんの肝入りの人事だそうですが、真実は菅総理からのメッセージです。加藤さんは釜山グループの両班です。福田康夫さんと一緒の系統で、自民党の両班序列の中では一番下です。それを党の要職につけたということは、「別階級が両班階級をコントロールする」というメッセージを岸田さん、林さんら北系両班に突きつけたってことです。

 これでわかるように、今回の組閣でいろんな流れが変わりました。菅総理の独裁体制ですね。自分の権力をほしいままにしたいというのがアリアリです。

・北方領土問題

 日本もこれから変わってくると思いますが、注目しておかなければいけないのは北海道です。去年の3月に菅さんがバッグについて鈴木直道という人が北海道知事に当選してるんですが、ここで菅さんとディールがあって、北海道の道庁予算の特別枠として5000億円をつけたんですよ、菅さんが。この5000億円は何に使うかというと北方領土事業です。しかし、北方領土にいま5000億円なんか必要ありません。これは完全に北海道の公共事業を地元の土建屋さんにバラ撒くためのものです。あとアイヌ問題です。これは鈴木宗男さんと結託してアイヌ新法みたいなものを作ったんです。ですから、最近、アイヌの博物展とかが多いんですよ。

──あれは『ゴールデンカムイ』が人気だからかと思ってました。

ジェームズ それもあるかもしれませんが、いまアイヌ関係の仕事は予算がつくんですよ。その流れを菅さんが作ったんです。つまり、これから彼がアイヌの利権を代弁するってことなんです。これがさきほど言いました「五族協和」の正体です。そもそもいまの日本にアイヌを制度的に差別するシステムなどありますか? ないですよ。なのに、アイヌの権利を守るアイヌ新法を作った真意は利権勢力図の塗り替えです。差別がないところに差別を作り出して金にする、いままでにないような利権政治が今後始まってくると思いますよ。


・日中、日米関係はどうなる?

──最後に対米関係、対中関係は変わりますか?

ジェームズ 外交は安倍政権の継続ですね。菅総理はビジョンをもっていないので変わらないと思います。ただし、対中に関しては二階さんが持ってる利権をうまく吸い取りたいというのがあると思うんです。二階さんはCSISのリポートもあって息子さんに権力基盤を継承するようですが、菅総理が黙っているとは思えません。

 対米関係も変わりません。これは安倍元総理にも共通しますが、日米同盟が大事だと言っている一方で、アメリカの目が届かないところでコソコソやりたいんです。彼らは単純でアメリカが見てなければ何をしてもいいという発想なんです。しかし、アメリカは全部見てます。電話も全部盗聴してます。

 ともかく、菅政権は五族協和を旗印に利権、金権政治に徹する「自分ファースト」の政治をすると思います。特に懸念されるのが日本のマイノリティ勢力の利権を吸収しようと画策しているところです。これは、以前、記事で紹介した現米国民主党副大統領候補のカマラ・ハリスのやり方と酷似しています。つまり、菅総理の正体は極左です。極左は実質、全体主義ですから、ポスト安倍の日本は、ビジョンなき政治と極左の国、全体主義の国になり、亡国の道まっしぐらです。新総理自身の陰湿なイメージのように、菅時代の日本は全体主義の特徴である暗く、息苦しい雰囲気が漂うでしょう。

文=ジェームズ斉藤


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怪情報?<本澤二郎の「日本の風景」(3893)
http://jlj0011.livedoor.blog/archives/26844325.html
2020年11月03日 


<「菅義偉の黒い正体」(J・斎藤)記事は本当か?>

 昨日、大手出版社に勤務していた知り合いが、ジェームズ・斎藤情報なるものをメール送信してきた。開いて見ると、既に知っていることや、全く知らなかった、事実なのか嘘なのか確認しようがない事柄が記述されている。

 菅の実父・和三郎は、満鉄調査部で活躍していた。いうなれば関東軍の特務機関である。電通の元祖・アヘン王の甘粕と関係があったのか、なかったのか?諜報機関の人物ゆえに、いち早く逃亡してソ連抑留を回避できたのだろうか。

 和三郎のルーツは不明というが、秋田県に定住すると、イチゴ栽培で成功して、地方のドンになっている。

 毎朝、腹筋運動100回と散歩のあと、ホテルでの秘書やその他様々な人物と会って、直接自ら情報収集に専念している姿は、父親譲りというのだ。昼食や夕食でも、首相として諜報活動に専念しているだという。合点するほかない。

 背後を警察官僚による「防護服」で身を固め、なんと電通株主の共同通信から、現役記者を引っこ抜いて、そばに置いている。恩師・小此木彦三郎の息子・八郎を、警察庁を監視・監督する国家公安委員長に起用、官邸犯罪捜査をさせない布陣はさすがだ。こうした完璧ともいえる「防護服」は、議員秘書時代に、横浜の悪役のドン・藤木企業の藤木幸夫会長から学んでいたという。裏社会とのつながりは、桜を見る会でのやくざとの記念写真でも証明されている。

<政治屋の「出自」を暴きながらの政治分析は欧米流なのか>

 ジェームズ・斎藤という名前は本名ではないだろうが、一つ参考のなるのは、政治屋の出自を暴くことで、人脈の太さ、つながりを分析している点である。

 岸信介と文鮮明の関係を無視してきた政治記者は、いま老いて猛省するばかりである。安倍晋太郎の「俺は朝鮮人」にも、首をひねるばかりだった。

 そもそも政治記者20年の間、政治屋の出自を話題にすることなどなかった。社会党の議員の中に「部落出身者がいる」という情報にも、一向に意に介さなかった。そもそも、今もそうだが、差別主義反対の憲法人間だったのだから。

 朝鮮をルーツにする人たちの祖先は、言うところの貴族階級・両班が、永田町でも出世頭という。ただし「菅家は戦後組で、身分は低かった。それゆえの諜報勤務だったろう」と分析している。この両班にも、身分上の高低があるというのだ。

 「祖先は豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連れてこられた」という。嘘か真か、清和会の創設者の福田赳夫は、釜山系という?半島の北部、現在の北朝鮮の出身者の方が、格が上だという。

 欧米の諜報機関の日本分析は、この出自に注目するらしい。原文をコピーして、ここに貼り付けようとしたが出来なかった。

<「日本の政治屋は朝鮮系が多い」は本当らしい>

 安倍晋三分析で、長州の田布施を知った。同時に、安倍を天下人に押し上げた小泉は、薩摩の田布施だったことに、当初は驚いていたが、ほかにも沢山いるではないか。

 「日本の政治屋に朝鮮系が多い」というのは、もはやハッタリでもなんでもない。本当らしいのだ。朝鮮人は、よく勉強するは、安倍晋三には当てはまらないが、勉学と清潔さは、他を抜きんでて優秀である。

 宇都宮太郎・陸軍大将が、長男の徳馬に対して「大きくなったら朝鮮の女性をもらえ」は本当のことである。経済界のみならず、スポーツや芸能界も、朝鮮系の活躍が目立つ日本である。

 韓国・北朝鮮いじめをやめて、協力支援する関係が正しいのだが、日本の朝鮮系の政治屋は、なぜか逆のことをしてふんぞり返っている。

<海を挟んで朝鮮半島と日本列島は結びついてきた>

 朝鮮人・韓国人・日本人と区別する国際政治は、どうかしていると思えてならない。確かに言葉の発音は異なるが、それ以外に違いなどないだろう。顔かたちは同じである。区別など出来ない。

 世は戦国時代ではない。覇を競う時代ではない。お互い隣組として、仲良く楽しくがいいに決まっている。どちらかというと、それでも両班は陰謀と喧嘩好きである。強い日本を目指そうとする。そこから改憲軍拡に傾倒する。そこで恩恵を受けるのは、財閥のみである。

 改憲軍拡は、戦争によってのみ、彼らの期待する蕾が開花する。毒花である。この毒花を解毒、解消する憲法9条である。南北朝鮮にも、9条が誕生すると、東アジアは永遠に平和が約束される。帆船・日本丸が隣国にも波及すれば、極東にL字型の平和と繁栄する世界が開花するだろう。

<朝鮮王朝史を知らないと日本政治は分からない?>

 旧赤坂プリンスホテルは、朝鮮王朝の末裔である世継ぎ(世子)、すなわちプリンスの住まいだった。敗戦後に西武が買い取って、赤坂プリンスホテルとなった。ここに福田赳夫の清和会が、本陣を構えた。岸信介派も流れ込んだ。現役時代はよく通ったが、そこに朝鮮の歴史があることなど気づかなかった。

 朝鮮プリンスの屋敷を、西武に売却する手助けをした星島二郎の書生の話では「神社の神主の靴は間違いなく朝鮮靴。天皇家も神社も、半島から渡ってきたものだ」は事実に相違ない。

 神社の鳥居の原型は、古く中国に存在する。大陸―半島ー列島は、悠久の古からの、人・物・食材などの往来を見て取れる。そもそも日本という名称は、いつ確立したのか。朝鮮王朝時代は、倭国・倭寇である。やはり明治なのか。

 朝鮮王朝史を紐解きながら、日本史を学ぶと、正確な歴史が見えてくる。そのことを、安倍ー菅の内閣が教えているではないのか。

2020年11月3日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

235. 中川隆[-10151] koaQ7Jey 2020年11月05日 18:03:57 : QCRIRvqEQ6 : RGU1TWNOaTZGclE=[48] 報告
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった


故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画




熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)


田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。

永田町における「朝鮮系」というのは李氏朝鮮時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏朝鮮の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏朝鮮の王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「朝鮮系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「朝鮮系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏朝鮮系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「朝鮮系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏朝鮮最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1

こういう話もありますが、マスコミではタブーになっています:

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁し、死後は火葬にする事にした理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。

表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。

ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。

真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。

______

美智子様の実子は1人だけ??? 2013年3月4日月曜日

ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。


ふうーん、そういえば美智子様に似ているのは確かに秋篠宮の1人だけ。

なんたって、世界の秘密を握るモサドのエージェントだから、情報は本物の確立は高い。

ちょっと「美智子様の子供は一人だけ」とネットをサーフィンしてみたが、逆に出てきたのは、

「秋篠宮の父親が違う」

という驚きの情報だった。と言う事は、秋篠宮だけが美智子様の子供で、しかも、父親は天皇陛下ではないと言う話になる。
236. 2020年11月10日 14:01:49 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[10] 報告


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

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 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
********************************************************************
以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

237. 中川隆[-9995] koaQ7Jey 2020年11月11日 15:44:39 : BRl4i9uah6 : aDBCTkFVU0g3Nnc=[15] 報告
正力松太郎を振り返る 2020年11月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

 戦前の日本国が、繊維産業以外、まともな輸出産業を持たなかったにもかかわらず、太平洋戦争における現在価値にして数百兆円の超巨額の兵器製造、戦費を調達できたことは、世界近代史最大級の謎であった。
 https://ironna.jp/article/3827

 この謎を調べてゆくと、後藤新平・里見甫・二反長音蔵・岸信介らのアヘン・モルヒネ・ヘロインの、当時世界流通量の9割にも及ぶ莫大な密売にあったことを、前編にて紹介した。
 日本政府による麻薬販売が始まったのは、実は、江戸時代末期、アヘン戦争を見てからのことで、後藤新平らの献策により明治政府、台湾総督府で行われたのが始まりらしい。

 この後藤新平と、「原子力の父、テレビの父」と呼ばれるCIA工作員、正力松太郎が深い関係にあった。
 警視庁ナンバー2の警備局長だった正力は、虎ノ門事件で責任を取らされて警視庁を退官させられ、民間人となったが、このとき巨額の資金を提供して、読売新聞社を買い取らせ、世論統制工作をさせるお膳立てをしたのが後藤新平だった。読売は朝日を抜いて日本一の発行部数を持ち、日本国民の戦争鼓舞世論に大いに貢献した。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/39038

 民間人とはいえ、正力は、戦前、「大政翼賛会」の会長となった。これが理由で敗戦後、A級戦犯となったが、岸信介が巨額の麻薬密売資金で米軍と取引し、自分と、里見甫・正力・笹川良一、児玉誉士夫らのA級戦犯を釈放させた。
 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎らは極右思想(陸軍統制派)の同盟者で、いずれも朝鮮における巨大な麻薬密売組織=昭和通商に関係していたといわれる。

 わけても、里見甫は「上海アヘン王」と呼ばれ、上海・満州・朝鮮におけるアヘンの供給を担ったが、実は、天才麻薬技術者であった二反長音蔵の協力により、北京通州(蒋介石に襲われ残虐な被害を受けた)麻薬製造工場で、アヘンを精製して、モルヒネ・ヘロインの製造販売を行ったことが明らかにされていて、アヘン王ではなく「麻薬王」と呼ばれるべきである。この販売資金が日本陸軍の主要な資金源になっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

 なお通州麻薬(ヘロイン精製)工場は、国民党の指示によって襲撃を受け、恐るべき残虐な皆殺し破壊を受けたが、これに怒った日本軍は、蒋介石軍に対する報復のため、第十軍を再編し、南京大虐殺を引き起こした。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1290.html

 電通は里見甫が創始者だが、設立目的は、中国・満州における世論工作にあるとともに、里見の麻薬密売網の中核であった疑いが強い。一種の諜報工作機関だったといわれる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%80%9A

 日本政府は、自国では麻薬の製造販売を厳禁していたが、インドやパキスタンなどから莫大なアヘンを輸入し、それを輸入港で積み替えさせ、東アジアの諸国、インドネシア・ベトナム・中国・朝鮮などに輸出して、超巨額の利益を得た。
 麻薬を密売した目的は、巨額の利益とともに、現地での日本に対する報復や独立を抑制し、人々を麻薬中毒にして抵抗を奪うことだった。

 一部は里見甫の麻薬精製工場に送られ、中国などでモルヒネ・ヘロインとして販売された。
 朝鮮では、岸信介の昭和通商が、麻薬と武器の巨大な密売網を作った。
 これが日本における帝国主義侵攻の資金となり、満州や朝鮮で鉄道、市電などを大量に敷設し、戦闘機や船艦などを大量に製造した。

 こうして考えれば、日本が朝鮮や中国で「いいこともした」という、広く浸透した日本帝国主義の正当化が、本質的に間違っていたことが分かる。
 確かに、日本政府は麻薬密売資金を利用して、朝鮮や満州で学校や病院を建設し、鉄道を敷設し、現地の文化水準を飛躍的に向上させたが、一方で、人々の主体性を奪い、日本国の領土を拡大する目的で、「天皇の臣民」として馴致し、麻薬漬けにして抵抗を奪ったのだ。

 さて、今回の本題は、正力松太郎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 正力が、その交友関係である里見甫や岸信介、児玉誉士夫ら、そして何より後藤新平との深い関係から、戦前の日本政府による麻薬政策の根幹に関係する人物であることは明らかだ。

 正力は、日本国家の国威発揚、拡大を求める帝国主義者だった。それは正力買収後の読売新聞社の姿勢をみればはっきりしている。
 正力は、日本敗戦後、それまで日本国家を支えてきた、中国・朝鮮における麻薬密売資金が得られないことから、それに替わる基幹産業を創立することに腐心していた。
 そして目をつけたのが原子力産業だった。

 https://www.news-postseven.com/archives/20160902_438114.html?DETAIL

 正力は、日本の未来のために新しいエネルギーを導入したという類いの美談化が見られるが、それは嘘だ。正力は、第五福竜丸事件が起きて、日本の反米反核世論が高騰したとき、「原発の平和利用」を持ち出して、反核アレルギーを洗脳しようとしたが、実際には、正力自身は核物理や生物学に関して完全な無知蒙昧だった。
 広島の被曝被害を知りながら、それを一切学ぼうとせず、空前の破壊力だけに目を奪われた。

 「この新兵器を、なんとか日本のものにしたい」
 それだけが、正力を日本における核開発に駆り立てた動機だった。
 だから、原子力発電という新しい文化が登場したとき、正力が欲しかったのは、同じ核エネルギーを利用した核爆弾だけだった。
 そのために、原子力発電という綺麗事を利用しようとしたのである。

 日本で最初の原発は、正力が導入させた東海村1号機である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96

 実は、戦時中、日本軍は、陸軍が仁科芳雄に、海軍が湯川秀樹に命じて、ウラン濃縮に当たらせていた。仁科は成功できなかったが、湯川は遠心分離法によってウラン235濃縮に成功し、一個分の核爆弾原料を抽出していた。
 これを長崎原爆被害の一報を聞いた関係者が、証拠隠滅のため、理研濃縮工場のあった朝鮮、興南道沖合に持ち出し、我が身もろとも核爆発させた。

 https://twitter.com/atsuhik007/status/944141928580374528

 https://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/b84906973e9debd41e8b81ab0aaacb5a

 この一連の核開発を、正力は知っていた。そして、平和利用の原発を口実にすれば、プルトニウム239、長崎型核爆弾の原料を確保できると判断し、東海村1号機には、当時、すでに発電用軽水炉が実用化されていたにもかかわらず、あえて地震に弱く非効率な黒鉛炉を導入した。
 理由は、黒鉛炉によってプルトニウム239を増殖し、抽出できると考えたからである。

 なぜ、プルトニウム239なのか? それは、当時すでに米軍が開発していた核ミサイルの核弾頭原料として最適だからだ。
 つまり、正力は、日本で核ミサイル核弾頭を作らせようとした。その最大の理由は、日本の核武装はもとより、核ミサイルが超高額で外国に売れるからだ。
 正力は、麻薬密売に替わる資金源を核ミサイルに求めようとしていた。

 2020年現在、日本には47トンのプルトニウム239があり、6000発分の核爆弾原料と言われている。しかし、現在では、核ミサイルはプルトニウム2Kgあれば十分な破壊力があるので、23000発分のミサイル核弾頭の原料である。
 なぜ、これほど大量に溜め込んだかといえば、正力が核ミサイルを外国に売ることを計画していたからだ。

 以下は、原発推進派の諸葛宗男の文章だが、相当に嘘が多い。
 http://www.gepr.org/ja/contents/20180710-01/

 まず、核弾頭には兵器級の93%純度のプルトニウム239が必要で、47トンの大半が純度60%程度の原子炉級と書かれているが、これが最大の嘘だ。
 純度が高くないとプルトニウム240が核暴走するリスクがあって、まともなミサイルができないのは事実だが、この純度を高める方法がある。

 それは、既存の原子炉内に、低純度プルトニウムを入れて、短期間の間歇的核分裂を繰り返すことで高純度になる。原子炉級が兵器級に変えられるのである。
 これを、2011年3月、福島第一原発4号機炉内で行っていた疑いがある。定検中で熱が出るはずのない原子炉を米軍が撮影すると、ありえない大量の熱がサーモ写真に写ってしまったのだ。
 つまり、東電は、秘密裏に日本政府の命を受けてプルトニウム純度を上げていた疑いがある。

 日本の原子力政策が、最初から純粋に電力需要から定まったものではなく、実は兵器用プルトニウム蓄積を目的にしていた疑いは、事故後の東電の対応にも良く現れている。
 原発を止めれば電力不足が起きると吹聴して、311後、関東の電力を停止させて世論洗脳を図ろうとしたのもその一つであり、このとき、東電本社や皇居は、一切停電しなかった。

 事故後、日本政府が、再稼働させるすべての原発に危険なMOX燃料を使うよう強要している理由も、プルトニウムの核兵器疑惑を払拭しようとする意図からである。
 日本政府(自民党)は、311事故が起きなければ、三菱重工に核ミサイルを製造させる計画だったようだ。
 それが事故で核ミサイルを、戦前の麻薬密売のようなボロ儲けネタにする計画が吹き飛んだ。三菱重工も、今は瀕死の状態で倒産まで視野に入る事態になっている。

 https://iwj.co.jp/wj/open/archives/12292

 戦後、正力や中曽根、岸が企んだ、麻薬密売に替わる核ミサイル密売路線は、現在脆くも崩れ去っている。しかし、安倍晋三らをはじめ、まだ極右自民党グループは、まったく諦めていない。
 日本政府に巨額のカネが入れば、戦前のような帝国主義の野望が復活するのは間違いないところだろう。
 これを阻止するために、戦前の日本が麻薬密売で戦争に至った真実を暴露することは、何よりも大切だろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1307.html

238. 中川隆[-9411] koaQ7Jey 2020年12月09日 08:26:42 : hL0yAobYvA : Z0UuOENibGdrenM=[10] 報告
2020.12.09
真珠湾攻撃の直前、石油を目的に始まったマレー作戦で太平洋の戦争が勃発
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012090000/

 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したのは現地時間で1941年12月7日午前8時、マレーシア北端の港町コタバルを奇襲攻撃したのは現地時間で1941年12月8日午前1時のことだった。UTC(協定世界時)に直すとハワイは7日の18時、コタバルは7日の17時。つまり太平洋で日本軍が戦争を始めたのはコタバルが最初だということだ。

 当時の日本にとってもエネルギー資源、つまり石油の確保は重要な問題だった。戦争を始めるとなればなおさら。アメリカと戦争を始めると3年目から石油が不足すると見通されていた。

 戦争に突入していない段階でも日本に対する石油禁輸を実施すれば似た状況になることは明らか。対日石油禁輸は「日本をインドシナに駆り立てる」とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領も考え、1941年8月の段階では石油禁輸に賛成していなかったという。1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていたようだ。そうした中、アメリカの財務省が石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えた。(岩間敏、戦争と石油(1)、石油・天然ガスレビュー、2006年3月)

 東南アジアにおける石油生産量が多かったのはボルネオ、ジャワ、スマトラといったインドネシア。ルーズベルトの判断は常識的なものだ。他国を侵略したり、その国の資源を奪うため、イギリスは様々な布石を打つ。例えばその地域を分断し、傭兵を雇うが、日本は単に軍隊を送り込んだ。大悪党と小悪党の違いと言えるだろう。

 ドイツの場合、アメリカと戦争になってもロックフェラー系のスタンダード石油から石油を買っている。同社はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。日本の場合も事前に推測されたような劇的な減少はなかったようだ。

 日本とアメリカが戦争を始める前、アメリカ陸軍は電子情報機関SIS(通信情報局)は日本もターゲットにしていた。日本の外務省は自分たちが使っていた暗号機B型(パープル)は解読不可能だと信じていたようだが、ドイツの外交官ハンス・トムセンはその暗号をアメリカが解読していることを気づいてヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相へ報告、1941年12月より前に、その情報は日本側へ伝えられている。それにもかかわらず、日本の外務省はパープルを使い続けた。1942年3月には日本海軍が使っていた呂暗号(JN-25)が解読され、6月に実行されたミッドウェー諸島攻略作戦の内容をアメリカは事前につかんでいたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012090000/

239. 中川隆[-6976] koaQ7Jey 2021年3月02日 10:30:45 : FnXfRqdhm6 : NHdEMUozR20zbHc=[8] 報告
昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年〜1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?

syouwakyoukou01.jpg
 


 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 https://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 

 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。
*******************************************************************
私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。
 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  https://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち
 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
**********************************************************
 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2〜3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。
 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

240. 中川隆[-17229] koaQ7Jey 2021年8月14日 18:38:01 : gzyd9RRqFI : Z3R2dlZPSEFCOUE=[32] 報告

10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
国民を守ろうとはしなかった…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614?imp=0


頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。

10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」
1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。

現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。

この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造・東京都長官(現在の知事にあたる)と坂信弥・警視総監も、都民にむけた告諭で次のように呼びかけた。

【東京都長官と警視総監の連名による告諭】
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。
「恐れるな」など無理な話だ。しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったはずである。


さらに、この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。

【小磯首相のラジオ演説】
・敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。
・断じて一時の不幸に屈することなく、国民が聖戦目的の達成に邁進することを切望する。
家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない。

2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けた。いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害を生じた。

3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びかけを掲載。同日の朝日新聞は、「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」と一面に掲載した。

夜間大空襲の明朝に、内務省が発した命令は
空襲の夜が明けて、東京に広大な焼け野原が広がった。この光景をみて直ちに、防空対策を担当する内務省が発した命令がある。

残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。

空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである。時期により内容が異なり、1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。

米軍機が1945年7月に各地で散布した空襲予告ビラ (国立公文書館所蔵)
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なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている(高岡市の空襲被災地域は現在は射水市内となっている)。

予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。

この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。

そこで、憲兵司令部は火消しに走った。

「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。

ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。

そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった(内務省令「敵の文書、図書等の届出等に関する件」)。

左から、朝日新聞1945年2月18日付、読売報知同年5月22日付、同年3月10日の内務省令
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避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。

本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない。


たとえ自衛戦争だったとしても
それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくが、政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかった。

広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた(過去記事を参照)。

日本が「我が国の権益を守るための自衛戦争だ」という名目で始めた戦争だったが、最終的には、国民が命を捨てて国を守るよう命じられた。

たとえ自衛戦争だったとしても、国民を守るのではなく、国民が犠牲となって国家を守るという意味での「自衛」だったように思う。

こうした過去の事実は、現代の私たちにも示唆を与える。

憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されているが、もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう。

自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい。

かつて日本政府は「戦争には必ず勝てる」「空襲の被害は軽微だ」という嘘を重ねた。それが国民総動員の原動力となった。

今の政府は、同じような過ちを繰り返さないだろうか。

ニュースをみれば、資料の廃棄(南スーダン自衛隊派遣、加計学園問題)や、不適切な比較資料(裁量労働問題)など、不都合な事実を隠蔽しているのではないかと疑わしい事態が繰り返されている。

こうした体質の政府が「非常事態だから自衛のため武力行使をする」というとき、国民に向けて正しい情報と判断材料を提供するだろうか。もし疑問をもっても、特定秘密保護法が壁となって事実を知ったり知らせたりすることは困難なのではないか。

あらためて、戦争は国民に何をもたらすのか。政府は国民を守るのか。過去の事実から学ぶべきことは多いように思える。

前回記事はこちら:焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54545
拙著『逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法』には、戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。本稿で触れた帝国議会での審理や、当時の新聞記事も豊富に掲載している。敗戦へ向かう社会の空気を感じ取っていただければ幸いである。

焦土に立つ議事堂で「逃げろと言っていただきたい」
東京大空襲の翌日(3月11日)、午前10時9分から貴族院本会議、午後3時9分からは衆議院本会議が始まった。議事堂の周囲は、1月27日の銀座空襲と前日の東京大空襲により焦土と化していた。


貴族院では小磯首相が演説した。空襲で傷ついた国民にムチを打つように、「職場に、防衛に、輸送に、国民ことごとく戦列につき、断じて我が国体と我が国土とを護り抜かんこと」を要望した。

各議員からの質問は、国際情勢や本土決戦をめぐり政府を礼賛する内容が多かったが、最後に登壇した大河内輝耕(おおこうち・きこう)の質問は様相が違った。次のように政府の空襲対策を批判したのである。

政府のやることが全て後手に回っている。例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。


学童以外の疎開を制限してきた政府方針を真っ向から批判する。空襲の翌日、焼け跡の異臭が漂うなかで、1人の人間として政府の方針を批判せずにはいられなかったのであろう。

大河内議員は、3月14日にも貴族院本会議で登壇した。大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対し、「簡単に質問をいたします」と立ち上がり、次のように迫った。

私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。
避難を禁止して消火義務を負わせる防空体制を根本から否定している。この大河内議員は、東条英機首相による選挙干渉を議会で批判するなど、時流に流されない立ち位置を維持してきた稀有な議員であった。

これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。

東京大空襲の惨状をみても、国民を守るための軌道修正をしようという姿勢は皆無であった。


241. 中川隆[-17227] koaQ7Jey 2021年8月14日 18:42:31 : gzyd9RRqFI : Z3R2dlZPSEFCOUE=[34] 報告
東京大空襲の前、政府は金持ちだけを疎開させ、金を用意できない物は空襲にそなえて労働をさせた。
国に従っているとこういう目に遭う

画像引用:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614?page=3 10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか(大前 治) _ 現代ビジネス _ 講談社(3_4)

国民に自粛させ、上級国民は贅沢を楽しむ

日本政府は何度目かの緊急事態を宣言し、帰省や外出の自粛を呼び掛けているが、従う人は減っている。

1回目、2回目、3回目と回を重ねるごとに人々は自粛しなくなり、堂々と出歩いて会食している。

飲食店の営業自粛も裏道が考案され、営業していないように装って営業している店もある。


自粛を要請している政府関係者が会食し、後でばれて言い訳したり謝罪するのも恒例になっています。

緊急事態宣言が出される度に前の流行の感染者数を上回り、最近は一日1万人以上が新規感染している。

政府はさまざまな給付金を配ったが、はっきり言って困っている人には金を出さず、金が余っている人に配った。


売上がコロナ前と比較し50%減、使い道はコロナ対策に限るなど様々な条件を付けて給付や融資を絞っている。

実際に政府が金を出して個人事業者に融資する制度に申し込んでみると、「アンタなんで申し込んだの?」のような対応を受けるという。

告知には誰でも融資を受けれるように書いてあるが、政府系金融機関の担当者によると「優良企業で使い道はコロナ対策のみ」だそうです。


こんな風に総理大臣や政府当局が説明している事と実際にやっていることは大きく食い違っている。

コロナで多くの人が収入が減ったり解雇された筈だが、今までに国民全員対象の支援は10万円の1回だけです。

その後の給付金や融資には必ず条件をつけ、国民のほとんどが該当しないように仕組んであります。


それでいて優良企業や大手企業には大盤振る舞いで、無利子無審査でいくらでも貸し付けている。

そのおかげでコロナにも拘わらず倒産件数は少なく、政府は「景気は回復しているので何も対策しない」と言っている。

大企業優先で小企業は後回し、個人は「豊かな人優先」で困窮者には絶対に支援しない


これらへの国民の答えは「国の命令なんかばからしくて聞けるか」という事です。

国を信用するな

東京五輪が開催されたが国民には自粛を強要しておいて、五輪村では自由になんでもやり放題でした。

さらにIOCの五輪関係者は事実上の治外法権扱いで、自粛と関係なく遊び歩いていました。

こんな姿を見ても政府に従い自粛している人は、筋金入りの愛国者だと思います。


話は変わるが第二次大戦のとき、徴兵、学徒出陣、疎開、防空壕つくりなどがあった。

これらは国民全員平等だったのではなく、金持ちの息子は徴兵を免除され、優先して田舎に疎開していた。

疎開にはお金が必要で、政府は子供1人当たりいくらと決め、金を用意できない家の子供は疎開できなかった。


集団疎開は子供がするものだったが、大人でも金さえあれば富裕層の人たちは家族ぐるみで安全な田舎に避難しました。

学徒出陣は悲劇としてマスコミが好む題材ですが、大学生は徴兵を免除されるなど優遇されていた。

少年達が戦場で戦っている時に大学生は徴兵を免除されていたのが、末期にやっと出兵したのが学徒出陣で、悲劇だったのは大学に通っていない少年兵たちでした。


出陣した大学生は最初から少尉なので命令する側、自分は安全な場所にいて多くの人は生きて帰国した。

さてお金がなくて疎開できなかった大人たちは東京などで防空壕つくりや空襲に備えた作業をやらされた。

金持ちは田舎で疎開ライフをエンジョイしているのに、お金がない人達は東京で労働をさせられ、ほとんどの人がなくなった。


満州から日本軍が引き上げた時は、「ソ連軍と最終決戦に行く」と嘘をついて列車で38度線まで逃げ、足手まといになるので数百万人の日本人を置き去りにした。

国なんかを信用して従っていると、最後にこういう目に遭います。

http://www.thutmosev.com/archives/86505307.html  

242. 中川隆[-15320] koaQ7Jey 2021年11月12日 17:13:14 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[33] 報告
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】

※本記事は、公開するにあたって非常にリスクの高い危険な内容を含む記事となっておりますので、後半部分は有料化します。本記事の内容を拡散・コピペ・引用することは固く禁じます。

ジェームズ 今日はアメリカのデフォルトにからんだ日本のゴールドの話をしましょう。

──アメリカのデフォルトと日本のゴールドが何か関係しているんですか? 

ジェームズ 密接な関係です。まず、アメリカのデフォルトの説明からしていくと、今年の9月28日にイエレン米財務長官が「このままではアメリカは10月18日にデフォルトする。議会は連邦債務の上限を引き上げるか、上限を停止しないといけない」と訴えていました。実は今年の夏頃からデフォルトの話は出ていたんですが、9月28日に米議会が債務の上限の引き上げを拒否したんで改めて財務長官が訴えたわけです。その後、米議会は一旦、否決していた連邦債務の法定上限を引き上げることにし、デフォルトの期限は12月3日まで延びたんですが、根本的な問題は解決していません。

──それはわかるんですけど、デフォルトはアメリカの国内問題じゃないですか?

ジェームズ もちろん、アメリカの問題です。ただし、アメリカは10月の間、何度も「ゴールドを送れ」と日本に言ってきているのです。それは日本のゴールドの担当の一人から聞いています。

──すいません、それはどういうことですか? なぜ、日本がアメリカの借金返済にゴールドを送らないといけないんですか? というか、日本のゴールドって何ですか? ゴールドの担当って何ですか?

ジェームズ 日本のゴールドについてはきちんと話したものってそれほどないのでわからない人も多いのですが、昔、高橋五郎さんという人が書いた『天皇の金塊』が最も詳しいでしょう。

──あっ、それは読みました。でも、あれって本当なんですか? 超スパイのベラスコとか。

ジェームズ 基本的に間違っていません。超スパイのベラスコはイエズス会の神父でバチカンの使者です。彼は第二次大戦中、天皇のスパイとして、つまり、天皇の手足として働いていました。彼はマンハッタン計画にもエージェントを送り込んでいました。


Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像
──えっ、あの原爆計画ですか!?

ジェームズ はい。天皇は計画の初期の頃からかなり正確な情報を掴んでいたはずです。それもベラスコがバチカン経由で、エージェントを送り込んでいたからです。そのベラスコが天皇に近づいた理由は天皇のゴールドです。

──なんか凄い話になりそうですけど、そもそも天皇のゴールドって第二次大戦中に東南アジア各地で集めた金塊で山下財宝とかそういう話ですよね。

ジェームズ そうです。それが日本のゴールドの一部です。

──でも、山下財宝とかってフィリピンのマルコスが盗んだとか、マッカーサーが掘り起こしてしまってもうないって話じゃないんですか?

ジェームズ 『天皇の金塊』にはそうは書いてないですよね? 日本のゴールドはいまでもあるのです。だいたい、ちょっと考えてみればわかるじゃないですか? なぜ、敗戦国の日本が急激に復興できたんですか? 1960年代にはGDPで世界ナンバー2になっていますよ。あれは全部、天皇のゴールドを使ったからですよ。

──そうなんですか? 朝鮮動乱による戦争経済で発展したというのは。

ジェームズ それもありますが、大元である工場とかはどうしたんですか? 日本の都市という都市は焼け野原だったんですよ。単純な話、その復興の資金はどこから出ているんですか? あと極めつけは日米安保条約です。日本は米国に一方的に守ってもらうという条約ですよね。普通に考えたら、米国にとって不平等条約ですよ、あれは。なぜ、そんな条約を戦勝国が結んでいるんですか? 現に米韓同盟を見てください。韓国は軍隊を持ち、徴兵制まで敷いて米国の極東戦略に貢献しようとしています。なのに日本は軍隊を持ちたくないと言って拒否してますよ。そんなことは国際条約では普通は有りえません。常にギブ&テイクが国際関係です。

──つまり、日本のギブは天皇のゴールドだったと。

ジェームズ その通りです。そもそも日本のゴールドは米国に日本の防衛をしてもらうために昭和天皇とマッカーサーが合意し、吉田茂首相が米国と協力して1951年の日米安保条約調印の時に秘密条項として制度化したものです。ちなみに、国際条約には必ず秘密協定があります。これは世界の常識で、知らないのは国際法の学者ぐらいです。しかも国際条約の秘密条項にはほぼ必ずバチカン関連のゴールドが運用されます。

 つまり、条約締結国家が違反をすると経済的な締め上げをくらうということです。このようなことができるのは超国家勢力でしかも「神」の力をバックにしたバチカンくらいでしょう。やはりGHQも日米安保条約締結前には、イエズス会の大物であった、エドマンド・ワルシュ神父を来日させて、様々な調整をさせていました。日米安保条約では、米国は日本を守り、日本は米国にゴールドを貢ぐという役割分担です。これによって世界史でも唯一と言っていい、「片一方が軍隊を持たない軍事同盟」という奇妙な体制ができあがったわけです。ですから、日本はその密約によって、米国が困った時にはゴールドを供出する義務があるのです。

──そんな密約がまだ有効なんですか?

ジェームズ 当然です。日米安保が有効である以上、有効です。ですから、日本にゴールドがある限り、尖閣は大丈夫とも言えます。

──う〜ん、なんだか、半信半疑ですが。だって、日本のゴールドはGHQが既に隠退蔵物資として接収しまくっていたという話もあります。

ジェームズ いえいえ、あれは銀行等に預けてあった貴金属やダイヤなんかを持っていっただけです。実際にGHQは日銀の金庫の一部に捜査に入っています。一方、退蔵物資は日本中に隠していました。天皇のゴールドはいまでも日本国内にありますし、フィリピンにもあります。また、スイスの銀行にも天皇の名義で保管されています。もちろん、かなりの量、アメリカに取られていますが、それでもまだ大量に残っていると聞いています。

──実際いくらぐらいなんですか?

https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html  

243. 中川隆[-14774] koaQ7Jey 2021年12月07日 08:43:21 : 2zSsj4hxA6 : M1FvMG5mVWxiOGc=[54] 報告

昭和天皇は戦争に前のめりになっていた?元侍従長の日記
2021-12-05  

80年目の12月8日(太平洋戦争が始まった日)を迎えようとする中、12月5日の朝日新聞に「昭和天皇が10月の段階で既に開戦に前のめりになり、気持ちが先行しているので側近がお引きとめ申し上げている。先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った」などと書かれた元侍従長の日記の記述が報じられ、注目されていま(朝日新聞記事から抜粋)太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10〜11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、当時侍従長だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872〜1963)の日記から見つかった。

戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇は開戦に慎重で平和を望んだが「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意に至った」として不起訴とされた。しかし近年の歴史研究により、開戦直前に開戦を前提に戦争終結策を思案したり、開戦後は戦果に満足し積極的な作戦を求めたりするなど、戦争に前向きな姿勢を示した時期もあったとする史料も見つかっている。百武の日記の記述から、開戦に対する天皇の姿勢の変化についての研究が深まりそうだ。 


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※朝日新聞、紙面一部文字起こし

昭和天皇 開戦「覚悟」の秋

侍従長日記に記述 内大臣「ご先行お引きとめ」

 太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10〜11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、侍従長だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872〜1963)の日記から見つかった。開戦の是非をめぐって悩み、揺れ動く天皇の日々が記された中に「すでに覚悟あらせられる様子」「ご先行をお引きとめ申し上げる」などの側近の言葉が書かれていた。▼2面=にじむ苦悩

 日記は8日で開戦80年となる今年、遺族から東京大学に寄託された。

 戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇は開戦に慎重で平和を望んだが「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意に至った」として不起訴とされた。しかし近年の歴史研究により、開戦直前に開戦を前提に戦争終結策を思案したり、開戦後は戦果に満足し積極的な作戦を求めたりするなど、戦争に前向きな姿勢を示した時期もあったとする史料も見つかっている。百武の日記の記述から、開戦に対する天皇の姿勢の変化についての研究が深まりそうだ。

 開戦をめぐる姿勢についての記述があったのは、百武の41年10月13日の日記。昭和天皇に拝謁(はいえつ)(面会)した松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣から「切迫した時機に対し、すでに覚悟あらせられるようなご様子だ」と聞いたと記載。天皇の気持ちが先行する様子を懸念したとみられる木戸幸一(きどこういち)内大臣の「ときどき先行するのをお引きとめ申し上げている」との発言も記した。

 日中戦争や日独伊三国軍事同盟について日本を非難する米国との戦争を避けようと41年春に始まった日米交渉が進展せず、事態打開のため近衛文麿(このえふみまろ)首相が8月に提案したルーズベルト米大統領との首脳会談も米国側は拒否。近衛内閣が行き詰まり、10月16日に総辞職する直前のことだ。

 百武は11月20日にも、木戸が「陛下の決意は行き過ぎのように見える」と語ったと記し、「(東郷茂徳〈とうごうしげのり〉)外相の前ではあくまで平和の道を尽くすべきだと印象づける発言をするようお願いした」との木戸の発言を書き取っている。

 百武は日清と日露の戦争に従軍した海軍軍人。36年の二・二六事件で襲撃され負傷した鈴木貫太郎の後任として同年に侍従長に着任し、終戦直前の44年まで8年近く務めた。

 在任中に書き留めた日記などの記述は、宮内庁書陵部が編纂(へんさん)し2014年に公開された「昭和天皇実録」に多数引用され、初めて存在が明らかにされた。遺族から東大大学院法学政治学研究科の近代日本法政史料センター原資料部に日記や手帳計25冊やメモ類が寄託され、今年9月から閲覧可能となった。

 これまで百武については政治に関与せず、侍従長として「天皇の身の回りの世話役」に徹したとする見方が強かった。日記に天皇をめぐる政治や軍事に関する記述が多く残されていたことに、歴史研究者からは驚きの声も出ている。

 戦前や戦中の昭和天皇の動向に詳しい茶谷(ちゃだに)誠一・志學館大教授(日本近現代史)は「昭和天皇の姿勢が開戦に向けて傾斜しつつあることに側近から懸念が示されたとの詳しい記述は、昭和天皇実録を含む従来の史料にはなかった。日本の指導者がどのような過程で開戦に至ったかを天皇側近の目から記した重要な記録だ」と話している。(編集委員・北野隆一)

http://www.asyura2.com/21/senkyo284/msg/501.html

244. 中川隆[-14695] koaQ7Jey 2021年12月08日 10:06:20 : SJtHPiXsUc : Sm45S0QzRkFPMFE=[47] 報告

2021.12.08
琉球併合から真珠湾攻撃への道を先導した米英の金融資本は今も日本を操る
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112080000/


 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したのは今から80年前、1941年の12月7日(現地時間)のことだった。真珠湾に対する攻撃によって日本はアメリカと戦争を始めることになるが、その直前に日本軍はマレーシア北端の港町コタバルを奇襲攻撃している。UTC(協定世界時)に直すとハワイを攻撃したのは7日の18時、コタバルは7日の17時だ。

 当時の日本にとってもエネルギー資源、つまり石油の確保は重要な問題だった。戦争を始めるとなればなおさら。アメリカと戦争を始めると3年目から石油が不足すると見通されていた。

 対日石油禁輸は「日本をインドシナに駆り立てる」とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領も考え、1941年8月の段階では石油禁輸に賛成していなかったという。1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていたようだ。そうした中、アメリカの財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えた。(岩間敏、戦争と石油(1)、石油・天然ガスレビュー、2006年3月)

 言うまでもなく、アメリカとの戦争を始める背景には中国における戦争が泥沼化していたことにある。

 日本の大陸侵略は1894年に勃発した日清戦争から始まったと言えるだろうが、そこへ到達する道を作ったのはイギリスとアメリカだった。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、あるいはアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちは日本政府に対して大陸を侵略するようにけしかけている。

 ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して帰国する途中、日本に立ち寄ったが、そのルジャンドルをデロングは日本の外務省に対し、顧問として雇うように推薦する。そして外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。

 1874年に日本は台湾へ派兵、続いて75年には李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。

 1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略を始めたわけである。

 朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害した。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。

 イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北する。

 そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。

 一連の動きの中で金子堅太郎の果たした役割は大きい。金子は小村と同じようにハーバード大学で法律を学んでいるが、彼らの2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなった。なお、金子の親友だった団琢磨は同じ時期にマサチューセッツ工科大学で学び、三井財閥の大番頭と呼ばれるようになる。

 日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 当然のことながら、朝鮮側では独立運動が起こる。その拠点になったのが中国吉林省の間島地方だった。そうした事情もあり、日本では中国東北部への支配願望が強まり、1932年の「満州国」樹立につながる。この傀儡国家の矛先はソ連にも向けられていただろうが、それはイギリスやアメリカの金融資本の思惑とも合致していた。

 ところが、その金融資本を震撼させる出来事が1932年にアメリカであった。彼らが担いでいた現職のハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。

 フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれたと言われている。大統領として大企業/富裕層を優遇する政策を続け、庶民の怒りを買っていた。その怒りが選挙結果に表れたわけだ。そのフーバーが大統領の任期を終える直前に駐日大使として日本へ送り込んだのがジョセフ・グルー。

 この人物は皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。

 グルーのいとこであるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。しかもグルーが結婚していたアリスの曾祖父オリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 大統領就任式は1933年3月に予定されていたが、その直前、2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会でルーズベルトは銃撃事件に巻き込まれる。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。誰を狙ったか不明だが、当時の状況から次期大統領を狙っていた可能性が高い。

 フランクリン・ルーズベルトを中心とするニューディール派の政権が誕生した後、ウォール街の巨大金融資本はニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画した。この事実を明らかにしたのは名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー少将だ。

 バトラー少将によると、1933年7月に在郷軍人会の幹部ふたりが少将の自宅を訪問したところから話は始まる。在郷軍人会の改革に協力して欲しいということだったが、訪問の目的を図りかねたバトラーは明確に答えず、口を濁している。

 そのふたりは1カ月後に再びバトラーの家を訪れ、シカゴで開かれる在郷軍人会の大会へ数百人の退役兵士を引き連れて参加し、演説して欲しいと要請する。必要な経費を負担するということだった。ふたりは演説の原稿を置いて帰ったが、その原稿に金本位制への復帰を求める文言が含まれていたという。

 後にふたりはバトラーから急かされる形でスポンサーのひとりがグレイソン・マレット-プレボスト・マーフィだということを明かす。マーフィは在郷軍人会を創設したメンバーのひとりで、ウォール街で証券会社を経営するほか、モルガン系のギャランティー・トラストの重役でもあった。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse Publishing, 2007)

 ウォール街からの訪問者は、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万名規模の組織を編成して政府を威圧し、「スーパー長官」のようなポストを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。

 クーデターの計画を聞き出した上でバトラーはカウンター・クーデターを宣言、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると宣言する。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(Public Hearings before the Speecial Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session, Testimony of Major General Smedley D. Butler, December 29, 1934)

 計画が発覚すると、名指しされた人びとは誤解だと弁解したが、非米活動特別委員会はクーデター計画の存在を否定することはできなかった。それにもかかわらず、何ら法的な処分は勿論、これ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。

 この問題でウォール街を追い詰めても内戦になる可能性があったからだろうが、第2次世界大戦が終わった後ならウォール街とファシストとの関係が追及される可能性があった。そうならなかったのはルーズベルトが1945年4月に急死、ホワイトハウスでニューディール派が主導権を奪われ、大戦後にレッド・パージで反ファシスト勢力が弾圧されたからだろう。

 この問題でバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣している。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。この話をフレンチは議会で証言している。

 大戦後、アメリカ政府はナチスの幹部や協力者を保護、南アメリカなどへ逃亡させ、雇い入れた人物も少なくない。アメリカの情報機関が戦後に行った秘密工作にファシストの幹部だった人物が参加している。

 日本でもアメリカのハリー・トルーマン政権は民主主義勢力を弾圧している。そうした政策の最前線に立っていたのが「ジャパン・ロビー」と呼ばれるグループ。その中心だったACJ(アメリカ対日協議会)が創設されたのは1948年6月のことだった。その中心にいたのはジョセフ・グルーで、背後にはウォール街の大物がいた。

 アメリカ政府が慌てて作った憲法では天皇制の維持が宣言され、思想や言論を統制するシステムの中核だった思想検察や特別高等警察の人脈は戦後も生き残った。軍の一部幹部はアメリカの手先として活動することになる。中でも「KATO(H)機関」は有名だ。その後、警察や自衛隊をアメリカの軍や情報機関が教育するシステムが作られた。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112080000/

245. 中川隆[-12323] koaQ7Jey 2023年8月31日 08:15:44 : 97C3ZsY32U : bFVLejFHU3JNZFE=[4] 報告
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2023.08.31XML
100年前の関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の影響下に入った
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/

 今から100年前の1923年9月1日、東京周辺を巨大地震が襲った。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。必然的にJPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば「新自由主義経済」を導入させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。

 そうした政策に反発する人たちもいた。例えば血盟団は1932年に井上準之助や団琢磨らを暗殺、36年2月26日には陸軍の青年将校が軍事蜂起している。腐敗した政治家や財界人を排除すれば天皇が素晴らしい政治を行ってくれると信じていたようだが、勿論、間違っていた。天皇も彼らの仲間だったのだ。

 ウォール街は帝国主義の牙城だが、その中核がJPモルガンにほかならない。そのウォール街を揺さぶる出来事が1932年にあった。大統領選挙で彼らに担がれていたハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。

 フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街に目をかけられたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 その当時、大統領の就任式は選挙から4カ月後の3月に行われていた。式の直前、1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会に参加したのだが、銃撃事件に巻き込まれている。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。弾丸はルーズベルトの隣に立っていたシカゴのアントン・セルマック市長に命中、市長は死亡したものの、ルーズベルトは無事だった。

 ザンガラの足場が不安定だったうえ、そばにいたW・F・クロスという女性がザンガラの銃を握っていた腕にしがみついて銃撃を妨害、すぐ別の人も同じようにザンガラの腕にしがみついたと報道されている。クロスによると、ザンガラはルーズベルトを狙っていた。(‘Woman’s courage foils shots assassin aimed at Roosevelt,’ UP, February 16, 1933)

 次期大統領の命が狙われた可能性が高いのだが、徹底的な調査は行われていない。事件の真相が明らかにされないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。

 ルーズベルトが大統領に就任した後、ウォール街の住人はクーデターを計画する。1933年から34年にかけてのことだ。この事実は名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー少将が計画の詳細を聞き出した上で議会において告発、明らかにされた。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)

 バトラーによると、ウォール街の住人たちはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万人規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。動員する組織として想定されていたのは在郷軍人会だ。

 クーデターを計画したグループはアメリカに金本位制を復活させようとしていた。ウォール街に利益をもたらすからだ。失業対策として彼らが考えていたのは強制労働収容所にすぎず、労働者の権利を認めたり公教育を充実させるといった政策は考えていない。

 クーデター計画を聞き出したところでバトラーは反クーデターを宣言した。50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると応じた。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(前掲書)

 関東大震災から日本の政治経済に大きな影響を及ばしたJPモルガンをはじめとするウォール街の金融機関とはファシストにほかならない。そのJPモルガンは1932年に駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ送り込んでくる。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥だ。

 また、グルーの結婚相手であるアリス・ペリー・グルーの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通ったという。

 グルー夫妻は官僚や財界人だけでなく天皇周辺にも強力な人脈を持っていた。例えば松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らがその人脈には含まれていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

 しかし、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在した。離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 ところで、震災当日、日本の政府は機能していなかった。8月24日に加藤友三郎首相が死亡し、山本権兵衛(ごんのひょうえ)が組閣している最中だったのである。親任式が行われたのは翌日のことだ。

 そうした中、震災対策の責任者として活動していたのは水野錬太郎内相と赤池濃警視総監。朝鮮の独立運動を弾圧したコンビだ。

 赤池総監は震災当日の午後4時半に東京衛戍司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請し、皇居、官公庁、駅、銀行、物資集積所などを部隊が警備、憲兵も市内の治安維持にあたった。さらに総監は罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言している。

 夕方になると「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか「朝鮮人が来襲して放火した」、あるいは「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・●姦をする」といった流言蜚語が飛び交いはじめた。そして9月2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電し、戒厳令も施行されている。

 どのようなプロセスで流言蜚語が広まったか不明だが、結果として数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに大杉栄や伊藤野枝を含む社会主義者やアナーキストが虐殺されている。こうした出来事は、少なくとも結果として、中国占領の準備になった。

 明治維新以降、日本では民主主義勢力が徹底的に弾圧されていたが、1925年4月には治安維持法が公布され、5月に施行された。1927年5月には第一次山東出兵、28年4月に第二次山東出兵、5月に第三次山東出兵、6月には張作霖を爆殺、31年9月に柳条湖で満鉄の線路を爆破(柳条湖事件)、32年3月に「満洲国」の建国を宣言、そして37年7月の盧溝橋事件というように中国侵略を進めていく。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/

246. 中川隆[-12098] koaQ7Jey 2023年12月02日 12:18:48 : rC9mo2zeZs : TEdnOVNHY3RqU0k=[4] 報告
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2023.12.02XML
バイデン米大統領、尹韓国大統領、岸田首相で作った軍事同盟が注目されている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312020000/

 アメリカのジョー・バイデン大統領は8月18日に韓国の尹錫悦大統領と日本の岸田文雄首相をキャンプ・デイビッドへ呼び寄せ、軍事問題について話し合った。この会談で「鉄の三国同盟」が形成されたという人もいるようだが、日本と韓国がアメリカの戦闘部隊になったということにすぎない。

 この同盟とは別に、アメリカはアングロ・サクソン系国の軍事同盟を太平洋地域に作っている。オーストラリア(A)、イギリス(UK)、アメリカ(US)で構成されるAUKUSだ。この地域におけるアメリカの軍事拠点はオーストラリアであり、日本や韓国は前線基地ということになる。

 こうした軍事同盟のターゲットは中国にほかならない。これは19世紀にイギリスが侵略を試みて以来、アングロ・サクソンの戦略に含まれている。イギリスは1839年から42年にかけて「アヘン戦争」、56年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を仕掛けた。イギリス東インド会社は中国(清)を食い物にするためアヘンを売りつけたが、中国の反発を招き、戦争になったのだ。

 この戦争でイギリスには中国を制圧する軍事力がないことが明確になり、目をつけたのが日本だと言える。そしてイギリスの私的権力は明治維新を仕掛けたわけだ。このクーデターで成立した明治体制はまず琉球併合、次いで台湾派兵、江華島への軍艦派遣、日清戦争、日露戦争と進む。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながる。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになった。

 1895年10月、ロシアとの関係を強めていた閔妃を三浦梧楼公使は日本の官憲と「大陸浪人」を使って暗殺、その際、閔妃を含む女性3名を陵辱している。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本軍は1904年2月に旅順港を奇襲攻撃してロシアとの戦争を開始するが、この戦争の戦費を日本に用立てたのは、ロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。戦争はセオドア・ルーズベルト米大統領の調停で終わった。この当時、ロシアは国内が混乱していたこともあり、調停に応じた。

 ルーズベルト大統領はハーバード大学出身だが、その先輩にあたる金子堅太郎と親しい。日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っている。日露戦争の後にルーズベルトが書き残した文書には、日本が自分たちのために戦ったと書かれている。こうした関係が韓国併合に結びついた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 アラスカ、ハワイ、フィリピンを手に入れ、東アジア侵略を視野に入れていたアメリカにとって日本の韓国併合は願ってもないことだった。アメリカが最も欲しがっていた場所はカリフォルニアのはるか西にある「新たな西部」、つまり中国東北部だった。その場所に日本は「満州国」を建国している。ちなみに、関東大震災以降、日本に大きな影響力を及ぼすことになった金融機関は親ファシズムのJPモルガンだ。

 日本の動きを見てもわかるように、台湾や朝鮮半島は中国を侵略するためのルートだ。台湾は日本列島と同じようにアメリカやイギリスの侵略拠点であり、朝鮮半島は橋頭堡だ。台湾がイギリスやアメリカの支配下に入ることは安全保障の上から中国は容認できない。

 第2次世界大戦後、アメリカの私的権力は中国に国民党体制を築く計画で、蒋介石に20億ドルを提供しただけでなく、軍事顧問団も派遣している。1946年夏の戦力を比較すると、国民党軍は200万人の正規軍を含め総兵力が430万人。それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のもので、勝負は明らかのように見えた。

 ところが1947年の夏になると農民の支持を得て人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始、兵力は国民党軍365万人に対し、人民解放軍は280万人になる。1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになり、49年1月になると解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りする。

 大戦後、アメリカの私的権力は破壊工作を目的とする極秘機関OPCを創設、その拠点は上海にもあったのだが、国民党軍の劣勢を見て拠点を日本へ移動させ、厚木基地をはじめ6カ所に拠点を築いた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)

 その1949年、日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。いずれも共産党が実行したというプロパガンダが展開され、組合活動は大きなダメージを受けた。

 アメリカは「反転攻勢」を計画、日本が兵站基地になることは明らかだった。そのためには輸送が重要で、ストライキされると戦争を遂行できない。労働組合を潰す必要があったのだが、国鉄の「怪事件」でその目的は達成された。朝鮮戦争だけでなくベトナム戦争も対中国戦争の一環だと考えるべきだ。

 中国大陸から蒋介石たちは追い出され、台湾へ逃げ込んで反撃のチャンスを狙う。その準備の一環として1949年から岡村寧次)大将など旧日本軍の幹部に接近している。その岡村は上海で戦犯として裁判にかけられたのだが、中国共産党が彼の情報を入手する前、1949年1月に無罪の判決を受けて帰国し、GHQ/SCAPの保護下に入っていた。

 蒋介石が岡村の下へ曹士徴を密使として派遣したのはその年の4月。曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して「台湾義勇軍」を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。

 白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡っている。1969年に白団は解散するが、それまで台湾に大きな影響力を及ぼし続けた。その後、台湾はアメリカの支配下に入る。

 白団へ軍事情報を渡していたのは「富士倶楽部」、つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たちだ。

 服部はノモンハン事件で作戦指導を行った軍人で、G2(情報担当)のチャールズ・ウィロビー部長から信頼されていた。1949年に服部は市ヶ谷駅の近くに「史実研究所」をつくり、その後、白団へ軍事図書や資料を提供している。その中には自衛隊の教科書も含まれていた。

 服部のほか有末精三陸軍中将、河辺虎四郎陸軍中将、辰巳栄一陸軍中将、中村勝平海軍少将、大前敏一海軍大佐らはアメリカ軍と特に緊密な関係にあり、「KATO機関」、あるいは「KATOH機関」と呼ばれた。ジャーナリストの森詠によると、このうち辰巳中将を除く5名は東京駅前の日本郵船ビルを拠点にし、その3階には「歴史課」と「地理課」があった。

 要するに、アメリカは旧日本軍の将校を使い、台湾を拠点として中国との戦争を始めたのだが、1972年2月にアメリカと中国は国交を正常化させる。当時のアメリカ大統領、リチャード・ニクソンは北京を訪問して中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明した。「ひとつの中国」だ。その合意を2022年8月2日、アメリカの下院議長だったナンシー・ペロシが台湾を訪問して壊しにかかる。ペロシが台湾を訪問してからアメリカ政府は台湾への軍事支援を鮮明にした。中国にとって台湾の「独立」はアメリカの軍事基地になりうることを意味すると言える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312020000/

247. 中川隆[-10929] koaQ7Jey 2024年4月13日 01:57:08 : kmMjUwx9vE : YkJGUkkvZWRkQlE=[4] 報告
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2024.04.13XML
日米首脳会談の背後に明治維新から続くアングロ・サクソンの野望
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

 岸田文雄首相は4月10日にジョー・バイデン米大統領と会談、軍事、バイオ、教育を含む「国家改造計画」的な取り決めを打ち出した。アメリカの支配層による日本支配のシステムを強化する内容で、軍事面では1960年代以来の大幅な増強だと世界的に評価されている。かつてなら大規模な抗議活動があったような出来事だ。これまで日本はアメリカの意向に従って戦争の準備をしてきたが、その総括とも言えるだろう。

 日本に対するアメリカからの命令は「日米合同委員会」で伝えられてきたと言われている。1960年に締結された日米地位協定に基づいて設置されたもので、協議(伝達)内容は秘密だ。日本側の代表は外務省北米局長、アメリカ側の代表は在日米軍司令部副司令官だという。日本は現在に至るまでアメリカ軍の占領下にあると言える。

 日本は1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで「対日平和条約」に、また同じ日にプレシディオで日米安保条約に調印、アメリカ軍だけが日本を占領し続けられることになった。その1週間前、同じプレシディオでアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの3カ国はANZUS条約に調印している。安全保障条約は1960年に改定され、地位協定も設置された。岸田とバイデンはそれ以来の大改訂を実施したというわけだ。

 しかし、戦後日本の在り方はその前から定めれていた。その道筋を定めたのは「ACJ(アメリカ対日協議会)」を中心とする「ジャパン・ロビー」で、その背後にはウォール街の巨大資本が存在していた。その中心人物であるジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアと結婚した女性のいとこにあたり、1932年から駐日大使を務めている。グルーの妻、アリス・ペリーも日本と関係が深い。彼女の曽祖父は幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の兄。こうしたことから、ジョセフ・グルーは日本の皇族や華族に人脈があった。

 こうした人脈が日本に大きな影響力を持つようになる切っ掛けは1923年9月1日の関東大震災である。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。

 復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争を始めたが、日本に戦費を用立てたのはジェイコブ・シッフ。ロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していた人物だ。日本に対して約2億ドルを融資している。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新の前後、日本で暗躍していた。その手先として1859年に来日したのがジャーディン・マセソンのエージェントだったトーマス・グラバーとウィリアム・ケズウィック。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとり、ウィリアム・ジャーディンの姉である。

 ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。

 グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。

 明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。

 1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。

 それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形を作ろうとしたのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。

 琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)

 デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めたのだ。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)

 ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。

 そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。

 清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 明治維新以降、日本にはアングロ・サクソンの手先となり、権力と財力を握った人たちがいる。そうした人びとによって天皇制官僚体制は築かれたのである。その頃から日本列島はアングロ・サクソンが大陸を侵略する拠点になり、日本人は傭兵になった。岸田とバイデンによる会談の背景には中国侵略の野望があるのだろうが、アメリカにそれだけの力があるようには思えない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202404130000/

248. 中川隆[-9134] koaQ7Jey 2024年9月13日 17:00:50 : P3g0N01uLY : dWE0NWRmMlhZcm8=[16] 報告
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『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線U』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677


https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)

 敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。

 この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。

 日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。

 この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。

 しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。

 一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500`の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。

 この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。

 この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。

 済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」

勝利の見込みなく日米開戦

 著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。

 さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。

 (角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677

249. 中川隆[-8780] koaQ7Jey 2024年10月22日 06:28:14 : dZ1znMeMU2 : QlpBN2wuYkZHNXM=[1] 報告
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2024-10-16
『日本のいちばん長い日』 -- 天皇の「わたくし自身はいかようになろうとも」発言はあったのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231

日本のいちばん長い日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5


映画『日本のいちばん長い日』(1967年)
https://www.dailymotion.com/video/x8obxsl
https://www.bing.com/videos/search?q=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&lq=0&pq=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&sc=10-15&sk=&cvid=07A7D05E8AC044729CB84C60768D9D5F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=


岡本喜八監督による映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作、と評価されている。

ただし、私はこれが名作とはまったく思わない。その理由は以前こちらの記事に書いておいた。

『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516

この映画の「感動的」シーンの一つに、最終的にポツダム宣言受諾を決めた御前会議(1945年8月14日)の席上、天皇裕仁が涙ながらに降伏を決意した理由を語る場面がある。

映画のこの場面での天皇の発言全文は以下のとおり。

(阿南陸相の受諾反対論を聞いた後で)

反対論の趣旨は、つぶさによく聞いた。

しかし、わたくしの考えは、この前も言ったとおりで、変わりはない。

これ以上戦争を続けることは、無理である。

陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領は耐えられないであろう。

国民が玉砕して国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる。

しかし…(ここでポケットからハンカチを出して涙を拭う)しかし、わたくし自身はいかようになろうとも、国民を…国民にこれ以上苦痛を舐めさせることは、わたくしには忍び得ない。(涙声)

できることは、何でもする。

わたくしが、直接国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立つ。

陸海軍将兵を納得させるのに陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけて、なだめて説き伏せる。

(鈴木総理に向かって)鈴木、内閣は至急、終戦に関する詔書を用意してほしい。

(列席者一同すすり泣き)

いかにも、苦しむ国民を救うために我が身の危険もかえりみずに決断を下す指導者、というイメージだが、裕仁は本当にこんなことを言ったのだろうか?

敗戦後は保身に汲々とし、マッカーサーに媚びていた裕仁の姿を知っていれば、こうした疑問が出てくるのは当然だろう。

原作である半藤一利の『日本のいちばん長い日』では、この天皇発言についてこう注記している。[1]

(9)天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている 。

「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。

 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」

本文での御前会議の描写もこの内容に基づいたものとなっており、映画版の天皇発言は、脚本を書いた橋本忍(戦後日本人の被害者意識をくすぐって大ヒットした『私は貝になりたい』の脚本家でもある)による、この内容の見事な要約と言えるだろう。

ところが、半藤はこれに続けて御前会議に出席していた陸軍参謀総長 梅津美治郎によるメモの内容も載せていて、こちらの天皇発言は大きく違うのだ。[2]

 なお梅津参謀総長の鉛筆書きのメモが残されている。それによれば、天皇の発言は、

「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ

 内外ノ情勢、国内ノ情態、彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々二考へタモノデハナイ

 国体二就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ 敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹ノ不安ガナイデハナイガ 戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモ子モナクナル

 今停戦セバ将来発展ノ根基ハ残ル

 武装解除ハ堪へ得ナイガ 国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉二対スルト同様ノ気持デヤラネバナラヌ

 ドウカ賛成シテ呉レ

 陸海軍ノ統制モ困難ガアラウ

 自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ

 速二詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ伝へヨ」

と要約されている。

こちらには「わたし自身はいかになろうとも」云々の言葉はないし、降伏を決めた理由も、降伏しても「国体(天皇制)」は維持できると確信しており、逆に降伏しなければそれが「元も子もなくなる」からである。

大本営『機密戦争日誌』には、同じく御前会議に出席していた陸軍省軍務局長 吉住正雄から伝達された、「御言葉」の要旨が記録されている。[3][4]

十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。

自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。

内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較二附テモ軽々二判断シタモノデハナイ。

此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否しかラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題卜思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵二我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之二附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ラスレバ、多少ナリトモ力ちからハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。

――以下御涙卜共ニ――

忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。

ドウカ賛成ヲシテ呉レ。

之ガ為ニハ、国民二詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

内容は梅津メモとよく一致している。

また、こちらの発言要旨からは、裕仁が涙を流したのは国民の苦難を思ってのことなどではなく、自分の軍隊である皇軍を武装解除させられる屈辱からであったことも分かる。

御前会議の席上でリアルタイムに書かれたメモや当日中に伝達された内容と、戦後になってから関係者(単にその場にいた人ではなく、裕仁を免責したいという強い動機を持つ利害関係者である)の手記や聞き取りをもとに書かれた内容と、どちらが信用できるだろうか?

常識的に考えて、答えは自明だろう。

ついでに言えば、下村宏がまとめた天皇発言自体からも不自然さは読み取れる。

裕仁は「明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」と言っているのだが、三国干渉とは、西欧列強の圧力により日清戦争で日本が清から強奪した権益の一部(遼東半島)を返還させられたものだ。

確かに明治天皇睦仁にとっては屈辱だっただろうが、天皇その人が戦犯として裁かれるかどうか(処刑もあり得る)という事態とでは比較にもならない些事だろう。三国干渉がどうこうと言っている時点で、裕仁には「わたし自身はいかになろうとも」などという覚悟はないのだ。(ちなみに映画版ではこの「三国干渉」云々はカットされている。)

ところで、半藤が「いちばん忠実に写しとっているとされている」と評する内容を記した下村宏は、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁である。つまり、玉音放送の直前までデタラメを流し続けてきた大本営発表の親玉なのだ。

映画『日本のいちばん長い日』で描かれた感動シーンは、下村宏がでっち上げたシナリオを半藤一利がもっともらしく修飾し、橋本忍が感動ストーリーに仕上げた醜悪なフェイクでしかない。

[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.73-74
[2] 同 P.74-75
[3] 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』 錦正社 1998年 P.763-764
[4] 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』 祥伝社 2021年 P.225-226
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231


▲△▽▼


2021-04-08
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516

半藤一利の原作をほぼ忠実に映画化した、岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作と評価されている。

以前見たときは確かに私もそう感じたのだが、最近改めて見直してみたところ、もう、この映画はただの茶番劇にしか見えなくなっていた。

脚本や演出が悪いのではない。役者の演技が大根というわけでもない。実際、この映画では、錚々たる名優たちがそれぞれの役を熱演していた。

鈴木貫太郎首相 - 笠智衆
阿南惟幾陸相 - 三船敏郎
米内光政海相 - 山村聡
天皇裕仁 - 松本幸四郎
下村宏情報局総裁 - 志村喬
井田正孝中佐 - 高橋悦史
畑中健二少佐 - 黒沢年男
徳川義寛侍従 - 小林桂樹

ダメだったのは、彼らが演じた人物たちそのものだ。

号泣する男たち
この映画では、いい大人の、それも責任ある地位にある男たちが、実によく泣いている。

たとえば、ポツダム宣言の受諾にあたって、天皇および日本政府の権限は連合国軍最高司令官に「subject to(従属)」する、という条件を受け入れるかどうか、閣議では決められないまま8月14日11時頃から開かれた御前会議の場面。

裕仁が立ち上がり、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたくしには忍び得ない。できることは何でもする。わたくしが国民に直接呼びかけることがよければ、マイクの前にも立つ」と語ると、居並んだ閣僚たちはみな嗚咽をもらし、ある者など椅子からくずれ落ちて絨毯に膝をつき、泣き声を上げる。裕仁本人もしきりにハンカチを頬に当てて涙をぬぐっている。

バカじゃなかろうか。

事ここに至ったのは、戦局が既に絶望的になっているにもかかわらず戦争をやめるという決断ができず、何の見通しもないままずるずると事態を引き延ばしてきたこの者たちの無能・無責任のせいではないか。

もちろんこの無責任集団には裕仁本人も含まれる。半年前の45年2月、近衛文麿元首相が「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と上奏して終戦交渉を促したとき、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこれを拒絶したのは裕仁だったのだから[1][2]。仮にこの時点で降伏に向けた交渉を始めていれば、東京大空襲も沖縄戦も原爆もなく、国民に無用の苦痛をなめさせずに済んだはずだ。

「わたくし自身はいかようになろうとも」という裕仁のご立派な発言も、せいぜいその場の雰囲気にのまれて口走った程度でしかなかったことは、その後責任回避に汲々とし、退位すら拒否したその行動から明らかだろう。

御前会議から戻った阿南陸相に無条件降伏が決まったと聞かされ、陸軍省の幕僚たちが号泣するという場面もあった。

彼らが呼号してきた本土決戦が不可能になり、(もともと成算はゼロだったのだが)上陸してきた連合軍に痛撃を加えて有利な講和に持ち込むことも、最後まで戦って「悠久の大義」に散ることもできなくなった痛憤からだろうが、なんという幼稚さか。

お前たちが安全な内地で非現実的な作戦計画にうつつを抜かしていたころ、前線ではロクな補給も受けられないまま兵たちがばたばたと餓死し、あるいはバンザイ突撃で無意味な死を強いられていたのだ。

だいたい、大事な夫や息子や父親や兄弟を徴兵された家族たちは、彼らが白木の箱に収められた一片の骨、ひどい場合には珊瑚のかけらや石ころになって帰ってきても、お国のために命を捧げた名誉なこととして、泣くことすら許されなかったのだ。そんな非道を強いてきたお前たちに、自分らの妄想が実現できなくなっただけで泣く資格などありはしない。

最後の場面に至ってなお字句の修正に執着する愚か者たち
無条件降伏が決定し、「玉音放送」で裕仁が読み上げる「終戦の詔書」を作成する段階になると、閣僚たちは今度はその細かな字句の修正にまた貴重な時間を費やしていく。

大して長くもない詔書なのに、修正は何十箇所にも及んだ。

とりわけバカバカしいのは、原案のまま「戦勢日に非にして」とするか「戦局好転せず」と修正すべきかをめぐって争われた論戦だろう。


阿南陸相は、「個々の戦闘では負けたが、最後の勝負はまだついておらん」「陸軍は小さな島で戦いをやっただけで、一度も本格的な会戦はやっておらん」「しかるに負けたという、この戦勢非にしてというのでは、その死んでいった三百万の人々になんとして申し訳が立つ」と言って修正を主張するのだが、「戦勢日に非にして」であろうが「戦局好転せず」であろうが、どちらにしても、負けっぱなしでもうどうしようもない、という意味に違いはない。こんな字句にこだわることに何の意味があるのか。

ちなみに、映画ではセリフとして出てこないが、阿南は「この原案のままではいままでの大本営発表がすべて虚構であったということになる」とも述べたようだが[3]、詔書の文面をどういじろうが大本営発表が嘘だらけだったことに変わりはない。字句をいじって現実を糊塗しようとするその手口は大本営発表そのままであり、そういうことをしているからこんな事態に追い込まれたのだ。

すったもんだの末、詔書は裕仁本人も数箇所修正してようやく完成するのだが、粗末なラジオで雑音だらけの玉音放送を聞かされた国民には、どうやら戦争に敗けたらしい、とおぼろげに理解できただけで細かな文言など聞き取れなかったのだから、もはや笑うしかない。

戦争犯罪の証拠を燃やす隠蔽行為をあっさりスルー
降伏と聞いて号泣したり虚脱状態に陥っていた陸軍中央の一部若手将校たちは、やがて宮城を占拠して玉音放送の録音盤を奪取し、天皇に翻意させて戦争継続に持ち込もうという、クーデター計画に走っていく。

彼らが陸軍省で愚かな計画を練っていた頃、その背景として、裏庭にせっせと省内にある文書を持ち出しては焼き捨てる光景が映し出されていた。

これは、侵略戦争の犯罪性を示す証拠を隠滅しようとする、それ自体重大な犯罪行為である。後に、主犯の一人である奥野誠亮が次のように平然と述べている。(読売新聞 2015/8/11)

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

だいたい、政府・軍部はこの戦争を、欧米の植民地支配からアジアを解放する正義の戦いだと言ってきたではないか。それが事実なら、ここで燃やされている膨大な書類は、たとえ敗けても裁判の場で連合国に対して日本の正当性を主張するための貴重な証拠となったはずだ。それを自分で燃やしてしまうというのは、「正義の戦い」など大嘘だったことを自ら白状しているに等しい。

しかしこの映画では、そうした犯罪性には一切言及することなく、まるで当然のことのように燃やされる書類の山を淡々と映しているだけだった。

エンディングから垣間見える独善的歴史観
ある映画が何を描いてきたのかは、そのエンディングに集約した形で示される。

この映画の終わりでは、廃墟となった街や戦死者の姿に重ねて、次のような文字列が映し出される。

「太平洋戦争に兵士として参加した日本人 1,000万人(日本人男子の1/4)」

「戦死者200万人 一般国民の死者100万人 計300万人(5世帯に1人の割合いで肉親を失う)」

「家を焼かれ 財産を失った者 1,500万人」

そしてナレーションで「いま私たちは、このようにおびただしい同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、そして、日本と日本人の上に再びこのような日が訪れないことを願うのみである。ただそれだけを…」と締めくくられるのだが、そこに、日本がどれほどの惨害を近隣アジア諸国に与えてきたかの言及は一切ない。ただひたすら、戦争で日本人はこんなにひどい目にあった、だから平和が大事、というだけである。

この映画は、自分たちが何をしてしまったのかへの反省がまったくない、最後まで独善的な茶番劇でしかなかった。


[1] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.22
[2] 山田朗 『昭和天皇の戦争 ー「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 岩波書店 2017年 P.244-245
[3] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.124
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516

250. 中川隆[-8392] koaQ7Jey 2024年11月25日 11:49:03 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[4] 報告
<■208行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html

https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021〜2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885〜1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻〜第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。

 本書は、2015〜2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949〜1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。

 昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。

 日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。

 こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。

 本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。

 昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。

 昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。

 敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html


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