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戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 28 日 17:00:37: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 投稿者 中川隆 日時 2010 年 2 月 27 日 22:54:18)


父の遺言 倉橋綾子

 憲兵だった私の父・大沢雄吉(1915年群馬県生まれ)は、1986年に肝硬変を患い、71歳で亡くなりました。その直前に私は父から紙切れを手渡されました。鉛筆書きのふるえる字で、次のように書いてありました。

「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其ノ間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)トシテ天津、北京、山西省、臨扮、運城、旧満州、東寧等ノ憲兵隊ニ勤務。侵略戦争ニ参加。中国人民ニ対シ為シタル行為ハ申訳ナク、只管オ詫ビ申上ゲマス」

 父はこれを墓標に刻んでくれと言い残しました。しかし様々な事情により、その願いをかなえることができないでいます。(昨年、羽生市の翁抗日反戦美術館に、父の遺言文と写真を置かせていただき、ほっとしました。)

 父は祖父の道楽のため貧しい少年時代を送り、中学校には行けませんでしたが、猛勉強して憲兵試験に合格したとのこと。高い給料が欲しかったのだと思います。敗戦を旧満州で迎え、二度逃亡して帰国できたそうです。

ゼロから始めた洋品店を大きくすることに心血を注ぎ、働きづくめでした。従軍看護婦だった母もまたよく働きました。父は枕元にいつも「中央公論」を置き、林芙美子の「放浪記」、深沢七郎の「風流夢タン」などがお気に入りでした。五味川純平の「人間の條件」を読んで泣き、その映画を私たちに見に行かせました。田舎には珍しく進歩的、合理的な人間で、尊敬されたり煙たがられたりしていました。

 私は父に可愛がられ、人生観、世界観にその影響をもろに受けました、やたら正義感がつよくて突っ走ってしまうのは、父そっくりです。私は子供の頃から、父があの戦争に加わったことを悔やんでいたのは知っていました。しかし一度も、父が実際には何をやったのか聞いたことはありませんでした。

 父の死後、謝罪の遺言を残すほど悩み抜いたことを思うにつけ、父があわれでなりません。その苦しみを分かちあってやれなかった自分が情けなくもありました。そこでせめて、父の戦友からどんな事があったのか、話を聞いてみようと思いたちました。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/03/kurahasi_yuigon.htm


君のお父さんが中国で何をしていたのか教えてあげるよ.

仕事だから仕方無かったのさ:


拷問の光景を見てみよう。

  土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・
 
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。士屋ど同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・

 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。

 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・

 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・

 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/dokusyo/special/kenpei_kiroku.htm


広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持であった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するのであったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。

私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。

中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。
http://page.freett.com/sokagakkai_komei/www.sokagakkai.or.jp/sokanet/HBK/Heiwa/hansen-7.html

日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html


洗脳して人間性を失わせないと一人前の兵士にはなれない


一般兵士は軍紀などまとまって教えられず、初年兵が軍隊に入って最初に叩き込まれたのは、

「上官の命令は絶対」
「死んでも捕虜になるな」
「天皇陛下からいただいた三八歩兵銃は死んでも離すな」

の三つだったと言われます

水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビンタとの戦いが始まるわけですね。*3

(ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。


軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。


軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。

ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)


二等兵
初年兵と称され一年中、毎日なぐられる

一等兵
いくらからくになるがウカウカしてられない

上等兵
普通にカミサマといわれもっぱらなぐる係りである

兵長
上等兵の上で早い人は分隊長となる、これもカミサマ


「はァじゃねえよ きさまだよ」

ビビビビビン


「はァとはなんだ!」

ビビビビビ の ビビビビビン


「ばっかやろぅ〜!」

ビビビビビン ビビビビビーーーン☆


ラバウル戦記にはラバウルにいたころ初年兵同士で「敵よりもこの古兵にやられてしまう」と話し合ったことや、「初年兵はすべてノイローゼ気味だった」ことが書かれています。


【追記】

みなんさん「兵隊やくざ」という1965(昭和40)年に制作された映画を知ってました?

舞台は1943(昭和18)年、満州北端の孫呉に駐屯する関東軍部隊にヤクザあがりの初年兵・大宮貴三郎(勝新太郎)が入隊してきて次々にトラブルを起こす、という内容らしいんですが、封建的な軍隊内での私的制裁(ビンタ、鉄拳、足蹴りなど)の様子がけっこうリアルに描かれいるんですよ。これがまた。

http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080527/1211981896


陸軍の内務班生活については下記の本が詳しいです。

兵隊たちの陸軍史 (新潮文庫)
伊藤 桂一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101486123/

海軍が兵隊をバッターで殴るのであれば、陸軍は革製のスリッパで殴るというのは概ね事実のようです。
顔にあまり跡が残らないが、非常に苦痛を与えたようです。

また、「精神的な屈辱と肉体的な苦痛を同時に与える私的制裁」として様々なものが考案されていたのも上記の本に書かれています。水が一杯に入ったバケツを両手に持って各内務班を回って班長に「ビンタをして頂き」、少しでも水をこぼすとまた殴られる・・・と言った類のものです。

そして、新兵を私的制裁以上に苦しめたのは、同じ内務班の「古兵」 (新兵より少しでも前に入営した兵隊) に対し、奴隷のように無限の奉仕を強いられたことのようです。新兵は、寝る時間を削って古兵の洗濯物を洗い、靴や銃などの手入れをし、内務班(兵隊が生活をする場所)を磨き上げねばなりませんでした。新兵は3時間寝れれば上等だったと伝えられています。

そのような苦しい生活に耐えかねて自殺する新兵が絶えず、各連隊には必ず「新兵の幽霊が出る場所」が存在したそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1129979156

陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。

 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」

 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。

「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。

男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。

内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。

 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。

そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・


・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。

 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/03/post_3d8f.html


そして洗脳されて人間性を喪失した兵士はこういう感じになってしまいます.

何時も上官から苛められている下っ端兵士が苛め返せるのはチャンコロ位だもんね:

860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


上の話が嘘だと思うなら,まずこれを否定してね:


小平義雄連続殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kodaira.htm

小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。

…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


取り調べと裁判の段階で明らかになったことがあるんですね。それは、彼の戦争体験のことだったんです。

「済南事件」:南京大虐殺の先駆けですね。住民の殺戮です。その時にもの凄く多くの中国人の女性が日本兵によって強姦されて殺された。この小平という人物は、その時の兵隊だったんです。

「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。
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南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html


南京大虐殺については

南京大虐殺関連資料集
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html

南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html


日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。

8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html

まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。
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血の酩酊

南京大虐殺に一番近いのはこれかな。
どちらも黒幕が居て,黒幕のエラーイ人に命令されて最初はいやいや やってる内にどんどんエスカレートしていったんだ:

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。

お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、

●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 
●ライターのオイルで皮膚を焼いた 
●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った) 
手足を縛り、膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、

苦しさのあまり何度も気絶する。その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、500ccの尿を
飲まされた。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされた
そうである。また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている
部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしいころに、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、
誰も通報しない。(死体が発見されるまで)
そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。 なお、死体は手足を縛られた状態であった。

◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には数本の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。

黒幕のエラーイ人とは

コンクリでは:

あのコンクリ事件では「被害者が監禁されている事を知り、あるいはその現場で犯行にも参加」していた不良仲間が100人もいた、という話だ。スマイリーキクチというお笑いタレントもネットで関与を噂されて騒ぎになったりしている.

警官になるときの教官がこの事件の取り調べをなさった方で、被害者が監禁されていた部屋を見てただの青少年の犯罪とは思えなかったとおっしゃったそうです。
床・壁はもちろん天井にまで犠牲者の血が飛び散っていたのです。私がそこを聞き流す様子を見て、

「でもね、言っとくけどね。人を殴って天井に血はつかないよ。もう、だらだら血を流している人間の顎を更に殴り上げるようなことをなんべんもくり返したんだよ」と。

「さらってきた女の子相手に、いわゆるやくざや過激派のリンチ顔負けだよ」。

聞くところによると、ドラム缶の中から出てきた遺体には頭髪が残っていなかったそうです。なぶられ続けたストレスで、生きている間に全部抜けてしまっていたんですね。

 「あの事件は本当に悪いヤツが実はつかまっていない。つかまったのはグループのメンバーで、一番悪どいその頭はつかまっていないんだよ」。
http://www.asyura.com/0610/news4/msg/465.html


362 :朝まで名無しさん:2008/12/27(土) 00:09:52 ID:0jccYLtr
当時の記録見ると、コンクリ事件の一部始終は全然明らかにはなっていないよね。
主犯格の4人以外に少年院送りになってる他数名の供述はまるで一致してないし。

拉致して部屋に連れてくるなり暴行した、って言ってる主犯連中と
始めのうちは、被害者はチヤホヤされた客人扱いだったと言ってる連中がいる。

後者の供述が真相で、黒幕と言われる人物は確かにいたように思える。
被害者が脅されながらも犯人達の言う事聞いてたのも、監禁場所のバカ親にしても息子が女を引っ張り込んでる程度の認識しか持っていなかったのも。

被害者に以前から目をつけてた黒幕が拉致を指示して最初に被害者に接触、最初のうち4人はただの拉致監禁役だった。

そのうち黒幕がどうでもよくなり、あとは好きにしろみたいな展開になってから殺人に至る暴行にまで発展した。

上の指示から始まってるから拉致に関しては計画性がある。その後、途端に無計画な暴行にエスカレートした感じあるね。

組織関係の命令で動いてるという感覚と、そのご褒美にもらったおもちゃという感覚が、あそこまで無茶苦茶な凶行の土台になってる気がした。
犯人達が気を大きくして言葉悪いが異常な狂宴状態になった背景として、黒幕の存在があったからでしょ。

犯人はそれまでも何回かひったくりやレイプしたりしてたみたいだが、どれも短絡的で突発的なもの。 この件だけ集団行動してるし、最初から監禁する理由が黒幕の存在以外に見えない。


「あの事件は本当に悪いヤツが実はつかまっていない。つかまったのはグループのメンバーで、一番悪どいその頭はつかまっていないんだよ」。

「そしてほんとは誰もつかまるはずじゃなかった。ほとんど完全犯罪だったんだよ」。

 犯行グループの一人がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。

彼がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがりと爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。

どうしてそんなことをするのか尋ねられ、彼はぽつりぽつりと話し始めたそうです。実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。

 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしてもうそをついている様子ではない。供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。

 話を聞き終わって、その友人がぼそり、「俺はお化けや幽霊がいるかどうかは知らない。だけど人には、自分の心を欺けない時っていうのがあるんだな」と言いました。

49 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 14:10:40
黒幕は加藤
加藤の同棲相手が松枝 知らないはずはないだろうて


52 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 19:50:34
言われている石川あかねの様に、被害者を妬んでいた女は居るそうだからね。
俺が思うに、被害者の方のあの笑顔や眼は間違いなく人目を惹きつけていたと思う。
彼氏ともプラトニック恋愛だった点も考えると、清潔な方だったんだろうな。

ヤン女に憎まれるのも大方解る。

…それで、結局大久保松恵って…?


53 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 21:47:51
松枝が「あの女を殺って」と依頼したんだな。
偶然じゃなくて、知っていて拉致。
だから殺さないと、ばれるので殺った。

松枝も関与してんだな。


56 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 02:42:38
松枝と被害者は面識があったってことだな。

拉致は「ヤクザが追っているからかくまってあげる」と言ったとか。
ヤクザからストーカーされてたかもね。 それが加藤。

加藤の指示で、拉致、監禁、暴行。
そして加藤の気が済んだので、下に払い下げた。

松枝は嫉妬から、暴行に加わり、更に・・・・


58 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 03:54:08
>>48宮野・神作・湊コイツらの逮捕は
未成年者の特権である少年法を利用した黒幕の策略に過ぎなかった。真の黒幕は捕まってないんだ。組織には迷惑どころか反対に貢献したんだからそういう事も許されるんだよ。


59 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 04:03:01
>>53松枝が被害者の女子高生が美人だったことに対して嫉妬していたと聞いた。

暴行のあとが一番酷かったのが顔だったというから最初は案外松枝の嫉妬からの拉致監禁だったのかも知れない。 それがこんな結末を迎えるとは予想外だっただろうがな。


77 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/24(木) 13:43:04
加藤が美人女子高生を気に入ったのが
発端で被害者に嫉妬したxxが宮野らに暴行強姦を命令したと聞いた。
xxは当時は整形前なので超〜不細工だったと考えられる。


134 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/06/02(土) 02:24:58
事件関与は間違いない。ソースもあるし。
事件の発端は加藤が被害者の子を気に入って拉致したことに松枝が嫉妬してブチギレて宮野に被害者を強姦するように命令した。

この事件の黒幕は加藤と xx なんだよ。一億円は宮野への謝礼金だ。


171 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/06/11(月) 02:00:32
同棲相手の加藤が彼女に惚れて湊の家に拉致監禁した。それがバレて彼女を宮野達に押し付けて逃げ出した。

飯島は加藤の浮気と彼女への容姿のコンプレックスに逆上して彼女をトコトンいたぶるように命令した。

xxも暴行に加わってた可能性もあるね。AV女優になったのは全身整形で美しく生まれ変わった自分を見て欲しいという願望とか自己陶酔。

よほど芸能界を目指していた彼女が羨ましくて妬みや嫉妬が酷くてかなり自分の容姿にコンプレックスを抱いていたんだと思う

顔が変形するほどに殴るとか女性器を破壊するなんて…

全部 xx の妬みや嫉妬から始まった事件だろう。黒幕なら
一億円払うくらいは当たり前だしもう逃げられないよ一生加藤と宮野に付きまとわれて金ズルにされるんだろうな。写部中の噂もあるし xx は鬼畜野郎の仲間入りしたんだ。


355 :事情通 :2007/03/01(木) 14:43:06 ID:aY56fsh8hs0

俺、20年前に埼玉県の三郷の高校に通ってた。
隣が八潮市でその隣が足立区だったからあのへんの連中と付き合いがあったよ。
コンクリ事件の最中、ある知り合いから「2万でヤリ放題の女を紹介してやる」
って誘いを受けたけど断った。

ダチが何人かついてったら、コンクリ殺人の監禁場所の家だった。
そこにはヤンキーが数人たまってて、女のヤンキーも何人かいた。

ある女が被害者女性の身体に刺青をほったり、根性焼きをしたりやりたい放題。

それをみたダチが怖くなって逃げてきた。 その後でコンクリ事件が発覚。

あの時いたヤンキー女どもは、円光や風俗店でバイトとかAVに出演して
ヤンキー男らに貢いでいたとかって聞いたことがあるけど、まさか
某人気AV嬢がその中に入っていたなんて誰も知らないと思うよ。

一方,南京大虐殺の黒幕の方は:


南京大虐殺は○○○○に指示された組織的な虐殺だったことは間違いないですね

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。
また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。
また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。


終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

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○○○○の命令で行なわれた(?)生体実験

731部隊の全貌
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言
http://www.youtube.com/watch?v=-qOV2saI5kQ

 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた
東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は
教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。
それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。

 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま
喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。

それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、
初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。

堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に
喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、
その病因を究明するためのものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。
いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。

やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。
耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていく
あの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。

私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。
それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_44a5.html

実験その1。

厳冬の厳しい真冬の寒さの中に「マルタ」を長時間置き、凍傷を作りその治療をするという人体実験。

この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。

死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。

零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、
角材で、手、足を殴り、痛いうちはまだ凍傷になって
いないため更に、長時間、外に凍傷するまで置かれたという。


実験その2。

腹部に銃弾を撃ち込み、その銃弾の摘出手術をするという人体実験。
治癒するまでの時間がどの位掛かるのか。


実験その3。

無理やり全身麻酔の注射をして、人体を解剖し、足、腕、を切断し、接続する人体実験。
頭部を切り落とし脳の中の仕組みを調べる。


実験その4。

「マルタ」の男女にセックスをさせる実験。目的は梅毒に感染させるため。
日本兵が梅毒に感染した時の治療方法の研究。


実験その5。

細菌に感染させる人体実験。チフス、ぺスト、コレラ、赤痢、結核、梅毒等に感染させて、
その病状の変化の様子を克明に記録した。


実験その6。人間はどの位食べ物を摂らずに生きていられるかの実験。

兵士の背負う重装備の「背嚢」→はいのう。約30キロはある重い物を
背負わせ。5時間〜6時間歩かせ、水、食べ物をも与えず何日位位耐えられるのか。

あるいは飲料水と乾パンだけで、何日耐えられるか。

この実験には2人の中国人が使われた。何も与えない人。水と乾パンだけの人。
それぞれのデーターが記録された。


実験その7。

臓器摘出の人体実験。「マルタ」に全身麻酔をして、切り開かれた体内の臓器に、
刺激を与えどのような反応をするのかの人体実験。

そして摘出をして、ホルマリン漬けにする。まだぴくぴくと動いていたという。

実験その8。

「マルタ」を逆さつりにして、何時間何分で死に至るのかの人体実験。
身体の各部はどのように変化するるのかのテスト。

実験その9。

猿や馬の血液と人間の血液の交換実験。「マルタ」の体内血液を全て抜き取り、
どの位の分量の血液が搾り取る事が出来るかの人体実験。


凍傷の人体実験では、極寒の零下40度に長時間放置し、冷凍人間に近いものを作って
人体実験をした部分は記載中涙が止まらなかった。何故そのような事が行われたのか?

答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。
この凍傷の克服のために731部隊では、凍傷実験が行われたのです。

この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。
そして最終的には毒ガス実験などに「再利用」されたという

その他「マルタ」を柱に縛り付け、空中から細菌爆弾を投下し効果がどの位あるのかを実験した。
「細菌の効力を確かめるため」

毒ガス実験では、ガラス張りの中に「マルタ」を入れ、毒ガスで死亡していく経過を映像に記録したり。絵画を描いたという。
http://homepage2.nifty.com/yocyan1854/ikari4.htm


そやね。私たちが片付けにいったとき、中国の女の人がありましたね。

梅毒の実験の。スペロヘータの実験の。それは思い出ありますね。

えーと、やられた先生は、園田中佐。教育隊の中佐のね。

それで私たちが入ったのは梅毒のそれをやったあとですから、恥部をずうっと切り開いとったですね。

その実験がどういうようにしたとかはお聞きになりましたか?

いやー、それは聞いてない。それは恥部と、それとあばらを開いとったですね。

その中をどうあたっていたかは覚えてないですね。顔とかはあたってないです。
まあ、そのような繰り返しです。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm


その真空試験いうのは?

結局カプセルの中に入れて空気を抜くわけです。そうすると穴という穴から腸とか全部飛び出してくるいうて、凄かったらしいです。

それを言われた方、覚えていますか?

はい、1班におったのですね。茨木の方です。4年次になってちょっとして聞いたですね。

何班ですか?

それは研究班になるんですね。岡本班ですね。どういう意味でやったのかそこまで聞かなんだけどね。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm


証拠隠滅=殺しつくし、焼きつくす

 撤収作業で緊急を要したのは、マルタの処置であった。

 ロ号7,8棟に、青酸ガスを噴出させて、かなりのマルタを殺した、
また、私たちが直接手を出さないで確実に殺す方法を編み出した。

つまり、マルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープをまき、その中央に棒を差し込んで、2人がねじるのである。

もちろん、私たちはかたわらで銃を構えている。2,3分で2人とも自らの首を自らの手で締め上げていった。

この方法で私たちは多数のマルタを殺した。また、その他いろいろな方法で、マルタを整理したのである。

 私たちは、マルタを殺す前、マルタ自身に溝を掘らせてから処置することも忘れなかった。

そんな時、彼らは足かせを引きずりながら、生気の無いドロンとした眼で、シャベルや鍬(すき)をにぎっていた。
きっと、その溝が何のためのものかわかっていたのだろう。
http://xa0007.blogspot.com/2009/10/731_27.html

アメリカが主導した○○○○の戦争犯罪の証拠隠滅

○○○○と731部隊

欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。

 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。

 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。

 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。

 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。

 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。

 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。

 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。

 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。

 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?

 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。

 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?

 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)

 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。

昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。

新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。

1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。

・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・

 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。


・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。

このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。

 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・

 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。

日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html


戦後も731部隊出身研究者の大活躍が続きます

石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。

1947年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。

1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[7]。

1952年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。

同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。

1956年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍の生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。

1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。

1993年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。

近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A


細菌戦部隊を支えた主な人物 戦後の就職先

安東洪次(大連衛生研究所→武田薬品顧問)

石川太刀雄丸(731郡隊→金沢大医学部)

江島真平(731部隊→国立予防研究所〔予研〕)

緒方富雄(防疫研究所〔防研〕→東大医学部)

岡本耕造(731部隊→兵庫医大・東北大等)

小川透(1644部隊→名古屋大医学部)

笠原四郎(731部隊→北里研究所)

春日仲善(731部隊→北里研究所)

北野政次(731部隊→ミドリ十字取蹄役)

木村廉(防研→京大細菌学教室)

草味正夫(731部隊→昭和薬科大)

小島三郎(1644部隊→予研第2代所長)

児玉鴻(731部隊→予研初代所長)

正路倫之助(防研→京大)

園口忠男(731部隊→陸上自衛隊衛生病学校、熊本大)

田中英雄(731部隊→大阪市立大医学部長)

田部井和(731部隊→京大医学部)

所安夫(731部隊→東大病理学、帝京大医学部)

内藤良一(防研→ミドリ十字会長)

中黒秀外之(731部隊→陸上自衛隊衛生学校校長)

細谷省吾(防研→東大伝染病研究所長)

増田美保(731部隊→防衛大学)

湊正男(731部隊→京大)

村田良介(防研→予研第7代所長)

八木沢行正(731部隊→抗生物質協会)

山口一季(731部隊→国立衛生試験所)

吉村寿人(731部隊→京大航空医学教室、京都府立医大)

柳沢謙(防研→予研第5代所長)
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/731butaiseturitu.htm


七三一部隊と「ミドリ十字」

 帰国した次の日、二十日の「しんぶん赤旗」で、私は「ミドリ十字」の見出しの
小さな記事を目ざとく見つけた。「七三一部隊はこうしてまだ息の根を止めていない」と、怒りがわいた。

 某病院の照会に、C型肝炎汚染の血液製剤の納入はしなかったとうそをついていたミドリ十字が、実は納入していたことを認めていたニュースだった。このため、医師は汚染血液製剤を患者に使ってしまっていた。

 薬害エイズの問題を初めとし、人工血液で捏造問題を次々起こしている「ミドリ十字」の前身「日本ブラックバンド」は、
七三一部隊二代目の元部隊長、北野政治が創設した会社であることは、誰もが知っている事実である。

命を何とも思わない考えは脈々と流れているではないか。
これは偶然ではなく、中国で行った人体実験の実績が利用された疑いも、最近濃厚になっているという話もあるくらいだ。

 七三一部隊の責任者だった石井四郎は、許しがたいことにアメリカ軍との取引で、
細菌戦の膨大な資料の提供と引き換えに戦犯を免れているのである。
当然一級戦犯になるべき人物が!

 アメリカの侵略戦争は、マルタとなった命を踏みつけて、
さらに罪なき人の屍を無数に積み上げる人でなしの行為である。
http://www.akazukin-sanae.com/column/china2004/c05_03.html

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従軍慰安婦は売春婦か?


日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中という者は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、
次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中という者は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。 私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日帝野獣は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、
乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日帝は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、
死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。
http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm

『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』

耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。

731部隊やら南京大虐殺と並んで有名な従軍慰安婦問題。
A級戦犯が永眠る靖国を総理が未だに参拝している事が大陸で問題視されているのも、生の声を聞くと頷ける。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

兵隊は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいまし た。ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお 母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして 弟たちを養いました。   私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋 に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。
弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、
男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの 娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴っ たりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大 連へ連れて行かれました。
私たちが列車の 外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりし ました。 私は、弟たちのことも心配だしこ れから何が起きるかという不安で泣き出し たのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江な どで娘たちの一部を汽車から次々と降ろし て行きました。 私は東寧県で汽車を降ろさ れ、20人くらいの女性たちとトラックでプ チャゴルに連れて行かれました。

到着する と将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを 聞かないと殺す」と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日か ら強姦されたのです。
あちこちの部屋から も悲鳴が聞こえてきました。
それからは、 少ない日でも30人くらいの日本兵の相手を しなければなりませんでした。

  ある日、2人の女性が兵隊の相手をする のを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に「犬のよう なお前たちの言うことなんか聞かない」と 言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って 沸いた湯の中に入れました。
そして、その 煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように
足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。
私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってし まったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。

  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。
私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいま した。

私はここの「慰安所」に8年間いま した。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。
1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生 むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html

日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:

A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのか
と尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、
裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を
切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を
煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令
され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。

C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を
切られ、ぶつ切りにされた。

D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦
の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。

F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。

(上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、

http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm


従軍慰安婦は売春婦か?

日本の戦争責任資料センターの声明では「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」となっています。

又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。


研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦

出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 31 拉致 軍人 霊岩 満州

陳キョンベン 16 39 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)

鄭学珠 14 38 拉致 軍人 釜山 ハルピン

文玉珠1 16 40 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)

姜ムジャ 13 41 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール

林グマ 16 39 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)

李相玉 14 36 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ

金春子 16 39 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)

洪愛珍 14 42 就業詐欺 民間業者 統営 上海

李玉粉 11 37 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾

金ブンソン 15 37 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾

金ボットン 15 41 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東

*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1


朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。

現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。



慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/


______________________________________________________________________


わたしを犯さず、やさしくしてくれた特攻隊員が一人いた。

彼はわたしに何度もいった。

『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』


 元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道 


 フランスのルモンド紙の東京支局長で、日本の歴史文化に明るいフィリップ・ポンス記者が3月5日、先にワシントンの連邦議会下院小委で証言したイ・ヨンス(李容洙)さん(78歳)と都内の韓国レストランで会い、彼女の話を聞いて記事にした。

 ポンス記者はこう書いている。
 
 「現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。

『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。

汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された」

 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。

 「(慰安所になった)船上で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」

 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。

 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」

 イさんの証言は続く。

 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。船室には寝床と布団と消毒液がありました。

最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」


 そして、ついに光復の日が……。

 「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』と」

http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/992.html


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。

”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。
今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  

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コメント
 
01. 2010年3月02日 00:18:09

今さら何十年も前の不確かな証言を書き連ねることに何の意義がある。
わたしが生まれたのは戦後で父も母も戦争に関係していない。
もはや従軍した経験どころか戦後の復興さえ知らない世代の時代だ。
何度も何度もこんな話を聞かされる度に不愉快な思いをさせられた。

知らねえよ。そんな昔の話。当時の人が本当に何をやったかなんて。
はっきり言って現代の人間には関係ない。
ご先祖様がやらかしたことを何もしていない我々が責を負う必要など
微塵もない。

大陸や半島との賠償問題もとっくの昔に終わっている。
子供の頃から毎度毎度外交使節が訪問する度に謝罪しているのを見て
、こいつらいつまで謝ってんだと不愉快だったよ。
戦争なんだから残虐行為はあっただろうよ。それは双方同じだ。
侵略だ何だって言ったって当時はそれもOKな時代だったわけでしょ。

欧米がアフリカやアジアでしたことをいつまでも謝罪しているか?
過去は過去なんだよ。その過去のことをいつまでも持ち出す中国や
韓国の連中にはうんざりなんだよね。
はっきり言ってここから先はどんな謝罪も賠償も後世の我々の税金は
びた一文使ってほしくない。(無駄金だ!たかられるだけ)

だいたい昭和天皇も死んで何年たってると思ってんだよ。
いい加減、前大戦を引きずるのをやめてほしい。
少なくともソ連や中共、カンボジアなど共産国家みたいに同胞を何十万
も粛清させなかっただけ、そんな政治体制よりマシだと思っている。

あーバカバカしい。別に自分が右翼だとも思ってないよ。
天皇制なんざどっちでも良いし、軍歌鳴らして走る右翼の車はうるさいし、
戦争に駆り出されたくもない。
だけど被害者面してたかる奴らに頭を下げたり金を恵む必要がないって
思うだけ。

残虐な出来事なんか歴史の中で何度もあったわけで、いくら日本軍の
蛮行を読んだところで、「へぇー、恐いね」としか思わない。
ローマ帝国でキリスト教信者を惨殺した話を読むのと同じだ。
だからって現在の中国に対して悪かったなんて普通は考えないよ。



02. 2010年3月05日 04:04:32
>残虐な出来事なんか歴史の中で何度もあったわけで、いくら日本軍の
>蛮行を読んだところで、「へぇー、恐いね」としか思わない。
>ローマ帝国でキリスト教信者を惨殺した話を読むのと同じだ。
>だからって現在の中国に対して悪かったなんて普通は考えないよ。

そうなんだ〜?
自分の中にも自分の知らない自分がいるかも知れないと思うよ。
戦争や大災害などで極限状態に陥ったとき、人間性を失わずに自分を保つにはどうしたらいいのかと考えるてしまう。

取りあえずは戦争や紛争だけは避けなければならない。



03. 2010年3月07日 19:47:37
>>01
お前のような人間が居るかぎり日本の贖罪は永久におわらんだろうな

04. 2010年3月08日 02:20:25
>>01
自分も以前はあなたのような考えだった。
しかし、小泉フィーバーや小沢たたき等を見て考えを変えた。
戦争に残虐行為は付きものだし、古今東西どの国の軍隊もやっている。
しかし、かっての大日本帝国、ナチスドイツ、ソ連、そして、紅衛兵等々、国民が
自分の頭で考えられない全体主義国家の場合は特にひどい。
そして、冒頭に書いたような社会現象から読み取れるように、現代日本も自分の頭
で考えられない国民が多い。
同じ過ちを繰り返さないため、自国民の特質を認識し、また、人間のなかに潜むお
ぞましい残虐性を知るうえで、過去の行為を明らかにする意味は大きい。

05. 2010年3月13日 11:24:01
01のような人間はまた鬼のような所業をやりたくてたまらない奴である。
なぜならこの投稿に対して30行にも及ぶコメントを書く努力は普通の人間ではあるまい。
たぶん冷血残忍な深層心理が表面的な無知蒙昧な野人面の下でうごめいている
×違以外の何者でもないと思われる。

06. 2010年8月23日 23:27:13: 7wnUHc1DpX
過去の事象から、人間の本性、本質、日本人の特質とか、よーく洞察するがいい・・
居るぞ・・、現在も・・とんでもないやつが・・日本人とは限らないが・・。

07. 2010年10月01日 01:51:59: zjY5Z19cGQ
私達の今があるのは、過去の人たちのお陰です。
今自分が享受あるいは直面している、喜びもや悲しみその他のものは
両親や祖父母の影響を多少なりとも、受けているはずです。
突然、今ある自分に成ったのではなく、自分が存在するよりもっと前の過去の
積み重ねの集大成として今(の自分)があります。
よって過去の出来事を無視するというのはお門違いというか、
自分には関係ないと断言してほしくないなあ、というところです。
また、最も効果的な贖罪は語り続けること、だと思います。

08. 2011年6月29日 09:45:41: XZZkYUFk3A
そんなに謝罪したい人は個人で全私財を投げ打って償いの気持ちをあらわせばいいのに・・・

09. 2011年7月13日 13:50:29: LGUfwnafEI
えーーと

国民が・・とか全体主義だから〜とか関係なく

どこの軍隊もやってます。

だって戦争ですから

まさかアメリカ軍やら中国軍やらは御清潔でご潔癖とかいうんじゃないよね=


なにを言いたいのかよくわかんないけど

どこそこの軍隊はひどい!という言い方そのものになにか「隠したい」ほんとの理由があるような気がしてならないんですよ

ほんとは戦争なんかネタでしかないような薄汚い理由がね


10. 中川隆 2012年1月07日 19:27:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


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      ` ''' ‐-=二 ̄二ニ===─────----───====ニ二 ̄ ニ= '' .¨´
                ̄ ¨'''         ──     '' ¨  ̄

悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html

日本の恥 _ 詐欺師 TORA を放置するな _ 南京大虐殺は昭和天皇が直直に命令して実行させた
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/519.html

30万人もの南京大虐殺があったとする俗論は、歴史の真実をゆがめる歴史の改ざんであり、アメリカ政府と朝日新聞が作り上げた虚
のコメント 百人斬り 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/518.html

相場に失敗すると奥さんとお嬢さんはこういう運命が待っている
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/538.html

中川隆_アジア関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/909.html

中川隆_風俗関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/912.html

                                           ,. -―._====>ミ'ヽ、
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                    ,. -‐''"´  ``ヽ         /(ノ7            ,; :::::::::::..  / xく l!ノ
               ,. '"           \ ,.-‐=ァ==ァ':l/'.    __  、   ::::::::::o'´xェ;-‐''" l!/
            ,,. '"      _,.          Y  ./ ,.ィ/.とノ     ヾヽ.ヽ    ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_
           ,. '"    u  /         ヽ、(   {:l/ ./l      、 ヾ,、}    ::::::::::::.Yi芽.l-‐|
        ,. '"  _,.っ,,.__o゚ノ            ヽ`゙'ー--‐'".:::::l         ノ'       ::::::::ノ'"}lメ! ,レ
    ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、  ``丶、      u     ヽ.   / .:::::::l、   ι´´   _     ::::U '゙’-ィ-/
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'"/     : : :: : : : : : : : : :                              `゙' ァ,.、 _  ゞ_,.-‐'ア´__ノ__ノ ノ
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   ι                u'´       (ノ ̄ ̄フ‐'"´ ̄    ̄``丶 、゙ ‐- l.,l_l //l { / / l !(
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11. 2012年1月10日 22:48:05 : tLQl6jVbUU
アナルや浣腸とかの話はないの?

12. 2012年9月23日 12:14:18 : 2lpK854o8M
拷問の一覧が日本式じゃなくて中華式なのはなぜなんだろう?
日本の軍隊なら、日本の文化に即した拷問を行いそうなものなんだが…

13. 2012年9月23日 12:34:22 : 2lpK854o8M
連投すまん、書き漏れ。
強姦やら民間人の殺害はあっただろうし、戦場の狂気も否定できないのだが……

「ガソリンの一滴は血の一滴」どころか、冗談抜きで人間よりガソリンの方が大切、
燃料も無い、武器弾薬も無い、食料も無いの無い無い尽くしなのに

『子宮に手オ留弾をさして爆発』
『膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました』
他食料の無駄遣い……

おかしくない?


14. 2013年5月20日 04:04:02 : riEHMZNJeM
 読んでいても とても辛いですね、全てが事実なら。
中国が出す「残虐な日本軍」の写真の中には 日本軍の装備で無いモノが有ったり
 中国人らしき人物が日本兵と云われる人物の隣に平静でいたり・・ 何かおかしくないですか? 女性器に棒を突っ込んだり、切り裂く文化は ”中国古来の文化”だと私は認識しています。  ”写真”が世に出回り始めた頃、現在の中国人が行ってきた残虐な行為の写真は、ネットでも見ることの出来る恐ろしい民族の性質!なのでは ないでしょうか?
 現在においても、罪を一切認めない 自分の悪行を他者の仕業と擦り付ける姿は我々が実感できる漢民族の本性でしょう。
 今朝TBSの番組を拝聴しましたが、左に凝り固まった思考が、日本国民内に”洗脳”されてゆく事に恐怖を覚えました。
 第一次大戦後、民家への爆撃を禁じた取り決めを、米は破り日本国民に爆弾と焼夷弾、そして原爆を浴びせ。 謝罪のひとつも ありません。
 中国も戦勝国?(日本は蒋介石と戦ってたんですけどね) 敗戦国である日本に難癖つけてる史実も多いのでは? 「南京大虐殺」でも死体の山など見たこと無い・・と証言する外国人も居るのですが。こっちは”ウソ”なのでしょうか?
 日本軍が中国で大量虐殺していたなら、同じ日本軍、きっと韓国でもやってますよね?
 よって私は、記述、証言の全てを信じる事ができません。   ”正しい事実”を両国が突き詰めなければ日本に対する”誤解”部分は世界の事実になってしまい、世界を蝕む中国に永代””支配””されてしまいます。  正しい事実 嘘の事実 を今こそ明確にすべき ではないでしょうか?

15. 中川隆 2013年6月19日 11:03:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

>日本軍が中国で大量虐殺していたなら、同じ日本軍、きっと韓国でもやってますよね?


朝鮮ではこういう事をやっていたんだよ:

日本が三国の圧力に屈服すると、朝鮮では明成皇后[閔妃]を中心に日本の勢力をくいとめるためにロシアに接近する動きがあらわれた。これに日本は、彼らの勢力をばんかいするために軍隊を先頭にして宮中に侵入し、明成皇后を殺害する野蛮な行為を犯した。これを乙未事変という(1895)。
[中学国史 1996年版]


刺客は、各部屋をすみずみまであまねく捜索し、ついに王后を刺して弑逆した。遺体は緞衾につつみ、松坂の上に安置し、殿庭から鹿園の林の中に運び出し、遺体の上に薪をのせて油をそそぎ、これを焼いた。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]


八月二十日、ニ、三十人の日本の大陸浪人が、景福宮の閔妃の寝所に踏み込んで斬殺した。それは三浦の命令であった。一国を代表する公使が、外国の王妃斬殺計画の首謀者になるとは、世界史でも稀な事件である。しかも、斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。
[金両基『物語韓国史』1989年]

少女の柳寛順は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。彼女は水原の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。[同]


ソウルで独立運動が展開された日、まだ年のいかない女学生が、右手に国旗をもち「万歳」を叫んだ。

日本兵は、剣をもち、その右手を切りおとした。女学生はさらに左手で旗をあげて「万歳」を叫んだ。

日本兵はまたその左手を切りおとしたが、女学生はなお「万歳」の連呼をやめなかった。
日本兵はその頭をつき刺してこの女学生を殺した。[同]


日本兵二名が左右にあって、一人は女学生の手をきつくにぎり、一人は竹針をたばねて頭に刺した。しかし、それでもなお屈服せず、激烈となり、かえって日本人を怒りののしった。

日本兵はいよいよ怒り、刀をぬいて唇をさこうとしたが、長官が引きとめ、「顔の表面は傷つけてはいけない」と言った。[同]

日本の野蛮人どもは、女学生のうち美貌の者何人かをえらび、輪姦をかさねた。(略)

日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(苽)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。

そこでまた他の十字架にうつし、四肢と頭髪など五ヵ所を縛り、天空に架けて仰臥させ、膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ、冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて、血があふれるように流れ、大地を染めた。

日本の野蛮人どもは、大笑してこの残虐を楽しんだ。[同]

平壌では、拘留され入獄した女学生に対し、日本の野蛮人どもは、焼きごてをかの女らの陰部にあて、「男は何人いるか」など質問し、拷問を加え、いいしれぬ恥辱を与えた。[同]

朝鮮人女子は、監獄に入るとかならずはだかにされて訊問を加えられた。すでに判決をうけた女学生も、かならず日本人の姦淫暴虐をうけた。(略)

女子をはだかで仰臥させ、その腋毛、陰毛をぬいた。

また膏薬を煮解かし、女子の陰部にそそぎ、冷却して固まってから、いきなりこれをぬきとった。その陰毛はことごとく脱落した。[同]

1942年から始まった朝鮮での徴用の無慈悲さに就ては今更に喃々喋々を要しないであろう。戦時中朝鮮の官憲は日本への食糧供給を確保する為の「米穀供出」に狂奔し農家の糞溜の底まで目を光らした。

「労力供出」も之に劣らない方法、例えば市場とか村落をトラックを以て急襲して手あたり次第に捕えては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法が取られた。
[朴在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』1957年]

とくに大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。

日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たりしだいに拉致していくなど、文字どおりの「朝鮮人狩り」をおこなった。
[朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』1965年]

日帝が太平洋戦争末期の一九四五年、教師らを動員、一二歳の国民学校少女までも挺身隊に引きずっていった事実が一国民学校の学籍簿で確認された。

この学籍簿には七六年に廃校になったバンサン国民学校(戦前の京城第二公立小学校)六年制の担任だった池田正枝(六八・日本生駒市居住)氏が過去、子供たちを挺身隊に送った後、良心の呵責を感じて昨年八月、日本フジテレビの取材チームとともにバンサン国民学校卒業生学籍簿を保管中だったソウル江南区逸院洞永禧国民学校を訪問し発見した。

一四日、永禧国民学校が公開した池田氏が直接作成した学籍簿には、池田氏が担任だった六年生四班(女学生班)生徒七〇名余りのうち一名が四四年二月二五日に、五名が七月二日に富山不二挺身隊として出発したと記録されている。[朝鮮日報 1991年1月15日]


私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。

強姦が犯罪なら、日本は集団的強姦を制度化したまれな国である。

私は、従軍慰安婦というのは日本がわが国の女性の全てを集団で強姦したようなものだと思う。おそらく日本はその血の代価をこれからずっと払い続けねばならないだろう。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]
http://www7.plala.or.jp/juraian/panil.htm

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020

この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。


 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。

そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母­親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・


慰安婦強制連行は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。

女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。

「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」

と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。

 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・

女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。

性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。


性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた



16. 中川隆 2013年6月19日 11:08:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

焼きごて、子宮摘出… 
元「慰安婦」李守山さん、シンポで証言 2013年6月17日

「従軍慰安婦」にさせられた過去を語る李守山(イ・シュサン)さん=16日、那覇市の沖縄大学

 日本の歴史認識を考えるシンポジウム「『朝鮮人強制連行』と『従軍慰安婦』をめぐってPart2」(おきなわ「日韓政経・文化」フォーラム主催)が16日、那覇市の沖縄大学で開かれた。約150人が参加した。

病身の体を押し、元「慰安婦」の李守山(イシュサン)さん(85)が証言した。

李さんが沖縄で証言するのは初めて。

旧日本軍による拷問で体中にやけどを負い、妊娠発覚後に子宮を摘出させられた過去を振り返った李さんは、「慰安婦」の強制性を否定する日本国内の動きに

「これが私の人生です。皆さん、力を合わせて一緒に、『慰安婦』は強制だったと言ってほしい。そうしてくれれば、何も望まない」

と声を振り絞った。


 海辺の村で暮らしていた17歳の時、警察官に「紡績工場に就職できる」とだまされ、少女7人で汽車に乗せられ、満州の牡丹江にあった旧日本軍の慰安所へ連れて来られた。兵隊は毎日、列をなした。

脱走した李さんを焼きごてによる拷問が待ち受けていた。

妊娠して子宮を奪われた後も、慰安所に戻された。涙する李さんに、会場も泣いた。李さんは

「これが強制じゃなくて何なのだろう。日本政府が謝らなければ、心に一生傷が残る」

と訴えた。


 元外務省欧亜局長で京都産業大学教授の東郷和彦さんも登壇。日本国内の「慰安婦」問題への対応が、日韓関係の危機的な状況を生んでいると指摘し、「彼女たちが生きている間に、新しい政治的ページをめくらなくてはならない」と強調した。

 琉球大学大学院1年で言語政策を主題に学ぶ岩原日有子(ひうこ)さんは「証人がいなくなり、歴史がなかったことにされるのが怖い。次の世代として、新しい関係をつないでいくことが大事だと実感した」と話した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-208097-storytopic-1.html

まあ、日本人はこういうのが大好きだからね:

女縄−裸女を縄で縛る悦楽
http://w.livedoor.jp/onnanawa/d/%B2%D6%BB%D2%A4%CE%C9%F4%B2%B0
http://w.livedoor.jp/onnanawa/d/%cc%dc%bc%a1%20/%20MENU
http://w.livedoor.jp/onnanawa/d/%e6%ea%cc%e7%c5%db%ce%ec


17. 中川隆 2013年6月19日 11:25:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

本当は日本女性も待遇はそんなに変わらなかったんだけど、大和撫子は絶対に逆らわないし何も言わないからね:


雌犬達の宴
http://video.fc2.com/flv2.swf?i=20110519rLwtNLUz&d=2559&movie_stop=off&no_progressive=1&otag=1&sj=13&rel=1%22%20/

相場に失敗すると奥さんとお嬢さんにはこういう運命が待っている(第2稿)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/818.html

日本の農村は怖い
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html

大阪 飛田遊郭 _ 江戸時代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/328.html

欧米のポルノは何故日本の AV に敵わないのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/325.html



18. 中川隆 2013年6月19日 13:38:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
大和撫子は何されても泣き寝入りしちゃうからね:


バッキー アダルトビデオ「問答無用強制子宮破壊」シリーズ


強制子宮破壊14
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04713.wmv

強制子宮破壊13 
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04695.wmv

強制子宮破壊12
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04671.wmv

強制子宮破壊11
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04650.wmv

強制子宮破壊10
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04575.wmv

強制子宮破壊9
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04571.wmv

強制子宮破壊8
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04564.wmv

強制子宮破壊7
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04562.wmv

強制子宮破壊6
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04561.wmv

強制子宮破壊5
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04559.wmv

水地獄
http://www.lovegoods.net/pc/image/video/04715.wmv

COLLECTOR Online Store (旧バッキービジュアルプランニング)
http://www.collector-web.com/store/top.html

11 名前: 名無しさん 2006/10/08(日) 08:54 ID:pPXnnTVo7W

見ました?。

いくつか あったけど 12ぐらいで見たのは 最後に字幕で やばいとか 書いてたけど 死んじゃったのかな?
 
それで ムショに入ったんですか? 

14 名前: 名無しさん 2006/10/17(火) 12:00 ID:i0y~78Ab'O

ロータスに登録して 7万でAV出演してしまった。

1〜2時間ぐらいで7万稼げたけど レンタルショップに行くと出演したやつが置いてあるのがキツイ。

厚化粧でわかんないよって事務所に言われてしたけどビデオ見たら私だった。もう2度としない 長い髪をばっさりショートにした こんなことしても変わらないけどね


15 名前: 名無しさん 2006/10/17(火) 15:56 ID:9g6)Ssh!X↑意外に安いんですね。
それで 生だったんですか?

なんだか興味は あったけど映像は 残るしなぁって思うので迷ってました。


16 名前: 名無しさん 2006/10/17(火) 23:36 ID:EXxNR.a.Cz

生じゃないよ S着でしたよ。金額は相場だと思います。
H 2回すれば大10枚らしいです。

チョコボールさんに会えてうれしかった。私の相手じゃなかったけど


30 名前: 名無しさん 2007/02/21(水) 16:12 ID:LDz'TbVqpd

私は東京の事務所に所属し企画、企画単体、単体すべて経験しました。(単体は芸名変えて)

ギャラは企画10万、企画単体20万、単体70万程度でした。

ロータスは大手だから福岡在住の女の子は、交通費など費用がかかるからよっぽどの逸材じゃない限り(単体レベル)連絡来ないと思う

他の事務所ほうがいい。

でもすっごい良い対応してくれる事務所もあれば話聞くと怖いところもある
最近この業界厳しいから、単体はモデル並のルックスや話題性(元グラビアなどの肩書)がないとなかなか撮ってもらえないかも。でもロリ系に自信ある子は指示あるょ

企画はある程度ルックスと条件がゆるかったら仕事とれます

31 名前: 名無しさん 2007/02/21(水) 16:43 ID:Wt:P()JwD8

でもこの仕事はおすすめしません

私はとても後悔してます↓周りの目が気になり一時人込みが恐怖でした。

ネットでは個人情報(たぶん知り合いから)が流され知らないアドレスから嫌がらせが来たり(私の友達にも)1番は最愛の人を裏切るカタチになってしまいました

すべて自業自得ですがもし愛する家族、彼氏、友達がいるなら辞めたほうがいいです

悲しいけどこの仕事に対する世間の目は厳しいです
本当に自身に自信を持って行うならいいですが引退某有名女優サンもストレスや周りの批判に耐え努力の上実績を残されてました

今はその時以上厳しいし、蒼井そらサンみたいに芸能界目指すのも皆無ですね
でもやるからには頑張って下さい


39 名前: 名無しさん 2007/04/28(土) 18:27 ID:*ynoP0dR2b

最低でも、数十年仕事もせず遊んで暮らせるお金が貰えるっていうなら考える。いろんなリスクを背負うくらいなら、まだリスクが少ない風俗嬢で十分。
でも、自分はしようと思わないけど、出てる人はすごいなと思います。


40 名前: 名無しさん 2007/04/29(日) 16:30 ID:Tfw-KQuMgH

特に中出し女優がよくやれるよなぁって思う

41 名前: 名無しさん 2007/09/20(木) 13:16 ID:P)lOPJZ*Vx

↑↑確かにピル飲んでるだろうけど 中出しばっかしてたら膣の中とかおりものが臭くなりそうだよね?何かヤダ!!

42 名前: 名無しさん 2007/09/27(木) 14:18 ID:'!LYmTzqu=

臭いより性病のが怖いよ。エイズや梅毒やコンジ怖い。
AV出るくらいならモデルクラブや芸能事務所入って枕仕事した方がいい。


49 名前: 名無しさん 2007/10/22(月) 16:06 ID:h.ID3PkbSc

バッキーみたいなのはまだ存在してる。拷問だ。やめときなさい。


プールに沈めて、死ぬ寸前まで上から押さえ付けたり、

アソコに、工事とかで使う電動ドライバーの先をバイブに替えたものを入れて超高速で回したり、

両手足を拘束し、低周波治療器をたくさんつけて、レベル最大にしてみたり、


下手したら死ぬよ
騙されてそんなことされたらどうする

50 名前: 名無しさん 2007/10/24(水) 10:40 ID:uOQ)lUdAGE

素人男優30人位にレイプされるビデオ見ました。

それぞれアソコに入れたいのを持ち寄って…
電球や鉄棒入れるバカもいました。
押さえ付けて次々に中出しされてたんでかなり悲惨でしたよ…

51 名前: 名無しさん 2007/10/27(土) 13:34 ID:nwRpk(34ZS

電球とか割れたらどうするんだろうね。

バッキーのやつでは、大量の生きた虫を入れてた。
中で風船膨らませて、破裂し人工肛門になった子もいるのに

52 名前: 名無しさん 2007/10/29(月) 09:17 ID:ohYOLL!0sR

虫は気持悪かったです。

水槽に蓋して裸の子入れて大量に虫入れてましたからね…
菌感染で卵巣傷付けられて妊娠出来なくなったみたいです。
これって女の子知らないで現場来たみたいですね。

アナルバルーンは破裂した後も何度も続けざまに中出しされたみたい…

53 名前: 名無しさん 2007/10/29(月) 23:00 ID:XRS'p62aBL

てかありえないよね。

前に妊婦で超色んな物突っ込んだりしてたやつ見て、途中で見れなくなったよ。(泣)

ニーズや金の為にやってるんだけど作る側って鬼畜に違いよね。

でもすごいきれいな映像をとる監督もいるんだけどね。昔のポルノ映画みたいな。まぁ一回に5万程度でもほしいなら出たらいいけど、後々残るからね?精神的につよくないとできないよね。みんな気を付けて下さい。


54 名前: 名無しさん 2007/11/15(木) 12:41 ID:SfcV0Kd,_W

虫を入れるやつは、アソコにイモ虫みたいなのを100匹くらい入れてた
数週間、頭から映像が消えなかった


56 名前: 名無しさん 2007/12/06(木) 01:46 ID:YDvTd-cRCh
>>51
虫のはバッキーじゃないよ?

55 名前: 名無しさん 2007/12/05(水) 08:43 ID:LEBF2qguY=

口を器具で開けさせてバイブや金棒や喉の奥まで突っ込まれてた。

数人に押さえ付けられて何度も何度もされてるんでゲロまみれで泣いてて…
笑いながらビデオ撮影してるんですよね?

57 名前: 名無しさん 2007/12/13(木) 22:45 ID::t=(Y.H;I(

ドグマのAVコエ?

あそこにタバスコ塗られてヒィイと、のたうちまわってるのに中だし連続レイプ。口に金属のワッカ きおつけようブルっ


58 名前: 名無しさん 2007/12/14(金) 04:31 ID:Q2XB:KFkb0

AV女優にならなきゃいいだけじゃん☆

64 名前: 名無しさん 2009/04/09(木) 09:59 ID:i:)eTO6(Kp

脅されたらどうしようもないしね。
泣き寝入りが多いはず。鬼畜系AV見てみるといい。激しいじゃなく拷問。
何かあっても人に言えないでしょ
http://www.gofukuoka.net/bbs_01/front/thread/930/


19. 中川隆 2013年6月19日 13:56:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

43 : 可愛い奥様 : 2010/08/05(木) 03:08:17 ID:7CkbRR9K0 [1回発言]

異常者の集まりだよね…
サンプル見たことあるけど…
30人くらいにレイプ、中だしされてアソコがびっくりするくらい腫れ上がってて
女優が痛い痛いやめてーと絶叫してた

45 : 可愛い奥様 : 2010/08/05(木) 09:05:51 ID:Vafa6sYB0 [1回発言]
>>43
その異常者をビデオの販売サイトで一般から募集してたんだよね。
出演する男優募集って事だけど、自分もやってみたい、参加してみたいって男が結構いるんだろうね。

実際にその参加者で作った暴力、うんこぶっかけビデオもサンプルにあったよ。

女性のまぶたをペンチでつまみ上げたりさ。

陰毛焼いたりもしてる。

出演する女性が怯える表情や叫び声は、とても喜んでやってるように見えない。命の危機さえ感じているようにも見えるし。

撮影途中に女性が逃走したサンプルもあった。 男たちは笑ってるみたいだった。


あと普通のAVだと思って、笑顔で契約書にサインしたと思われる女の人が、判を押した直後に男に髪をわしづかみにされてすぐ奥の部屋へ引きずられて行くのもあったけど、とっさに理解できなかった様子で笑いながら「え?なに?どうしたの?」って表情の人もいた。

契約書になんでもオケ的な言葉が小さく書かれているんだろうね。

判を押した途端にそれまで優しく丁寧な対応だったと思われる男たちが、待ってましたとばかりに豹変、奥の扉が開いて恐ろしいプレイの始まり・・・・・・・・。

いつも騙してやりたい放題やってるんだろうな。 女性も後ろめたさがあってなかなか被害届けも出せないだろうし。 個人情報も提出しているだろうから、脅しもあるのかも。

アニメの規制をしろって言っている人たちは、こういうビデオを知ってるのかな?どう思うのかな?

46 : 可愛い奥様 : 2010/08/05(木) 19:38:21 ID:S7wzank10 [1回発言]
>>45
やらせで、同意のもとで演技で作っているのならOKなのだけど
女性を普通のAVと騙して、残酷の限りを尽くすのは可哀そうだよ。

確かに女性も、浅はかだし、馬鹿だと思うけど
だからと言って、こんな残酷な目に逢うのはいくらなんでも許せないと思う。

9 : 可愛い奥様 : 2010/07/29(木) 15:12:11 ID:hp0WC1LC0 [7回発言]

こういうのがあるってことは需要があるってこと

こういうのを求めてる男性がたくさんいるんだよ

でも暴力的な部分をどうにか隠して生活してる、もしかしたらあんたの旦那もこういう要素を隠して生きてるかもしれない
発散させるためにこんなビデオがある

男のエロ本コーナー見てみ?

四肢を切り落としてレイプして妊娠させ出産間際にお腹破いて胎児取り出し胎児レイプっつー漫画がたくさんある

それらがコンビニや普通の書店で売られてて会社帰りのサラリーマンや学生が堂々と読んでるわ

男は女とは違うんだから女の価値観で男を判断するな
女が思ってるほど男は美しい生き物じゃない


25 : 可愛い奥様 : 2010/08/03(火) 09:37:47 ID:uZ3589yQ0 [1回発言]

ここのスカトロもののビデオって 本物の尿や糞を使っているのか?

こういう所にでる女性って本人自身もスカトロマニアなのか、それとも出演料がいいのか
どっちなんだろう?

26 : 可愛い奥様 : 2010/08/03(火) 14:31:51 ID:fbvOOYE+0 [2回発言]
>>25
ごく普通のAV撮影だと騙されているんでしょう。
もちろん尿や便も本物でしょ。

サンプルで、複数の男どもが女性の膣に便を手で強くこすりつけてるのがあるんだけど、激しく嫌がりながら「病気になっちゃう!!」ってマジで絶叫してたもん。

スカトロ女性だってさすがに、膣に誰のか分からない便を押しつけるように塗られたら嫌でしょう。

なかなか被害者も訴え出るのが難しくて、なくならないのでしょうね。


529 : 可愛い奥様 : 2010/11/27(土) 03:00:56 ID:l8d6gCnq0 [16回発言]

マンコをクスコで開いて糞を詰めて小便で流し込む

SM器具で強制的にあけた口に男が4人でおさえて、下痢便を直注入

バイブにうんこを塗って挿入

チンポにうんこを塗って挿入

口にホースを固定してうんこ水を大量に流す


最高!

68 : 可愛い奥様 : 2010/08/11(水) 10:49:13 ID:dxlkQ8YhO [2回発言]

これって女嫌いのゲイが出ていたんでしょう?
別に差別する気はないけど、嫌いだから何をしても良いと言う事にはならないのに最低

69 : 可愛い奥様 : 2010/08/11(水) 11:13:07 ID:v+T0KRRy0 [3回発言]
>>68
あー、だから女性の性器を汚すシーンが多いのかな?
膣にうんこ詰めたり、器具を使ってひろげて尿や昆虫を注いだり。
でもゲイだけではなく、暴力好きの男もいそうだけど。


174 : 可愛い奥様 : 2010/08/20(金) 09:39:13 ID:SWdivzCG0 [1回発言]

そういう企画物のAVにでる女優さんって 大概借金があって出演にNOといえない立場なんだとおもう。 NGなしで書類にサインさせられる。
ソープに沈むよりましって思ってでちゃう女性もいると思います。(撮影は一日で終わるし)

犬や馬とからむAVにでる女性は精神がいっちゃってる子が多いと聞きました。薬でとんじゃってるとか。スカトロは変態趣味で出来る範囲ですが、獣カンものはそうとうキテル精神じゃないと持たないんだそうですよ。


490 : 可愛い奥様 : 2010/11/08(月) 00:17:52 ID:mYPZtAka0 [1回発言]

同意を得ずに犯罪行為を犯しているのが問題なのよ。
「AV出るのは馬鹿ばっか」とかじゃない。 馬鹿なら何してもいいってわけ?

それにAV女優はメンヘラが多いって言うけど、知的障害者や精神障害者みたいな判断力が持たない人も強制的に出させられることもあるんじゃないの?

http://logsoku.com/thread/hideyoshi.2ch.net/ms/1280383035/#354


53 : 可愛い奥様 : 2010/08/07(土) 16:18:29 ID:JC14bQaR0 [1回発言]

出演する女優が居なくなったら、どっかからさらって来る とか言ってたらしいよね。
怖い。


109 : 可愛い奥様 : 2010/08/14(土) 00:46:26 ID:gz/+SmXKO [2回発言]

バッキー時代に撮影によって人工肛門になった女優はドラッグを仕込まれ、気がついたら撮影が始まっていた。

いまや女優潰しは有名で、会社名を聞けば女優は避けるとか。

『こりゃ一般人を拉致でもしないと(笑)』

という冗談を関係者は飛ばしていた。 恐ろしいことだ。


468 : 可愛い奥様 : 2010/10/28(木) 17:23:49 ID:xThry7eE0 [1回発言]

こういうのって海外での販売も想定しているんじゃないの?
海外では規制が厳しいから、日本のAVが人気なわけで…
どちらにしても、常人向けとは思えない内容ですね


56 : 可愛い奥様 : 2010/08/09(月) 15:24:38 ID:Nd1FsVrd0 [1回発言]

バッキー(コレクター)が怖いのは、内容が強姦や拷問だからじゃなくて それが女優の了承なしに撮影開始されるという点。

もし女優が納得して出演しているなら、それは仕事で自己責任だがバッキーの場合は、内容をしらないままいきなり輪姦や暴行がはじまる。 サンプル動画のなかで

「聞いてないです!」
「これマネージャーさん知ってるんですか!?」

と叫んでいる女優もいる。 本人が把握しないまま、いきなり”仕事”として暴力・暴行がくわえられるというのがまかりとおるというのは、とても恐ろしいことだ・・

58 : 可愛い奥様 : 2010/08/10(火) 19:25:38 ID:W+Xzgzc40 [3回発言]
>>56
それって完全に犯罪だよね。
女優は、恐ろしい暴行を受ける事は了承してないみたいだし。
ごく普通の、男優に愛撫されるAVのつもりで、半殺しにされてたのならひどすぎ。

男の力で水の中で逆さまにされて押さえつけられたり、思いっきり蹴られたり、みんな死の恐怖を味わったと思う。

もちろん病気の恐怖もね。

77 : 可愛い奥様 : 2010/08/11(水) 21:15:03 ID:v+T0KRRy0 [3回発言]

サンプルの静止画だけで恐ろしさは伝わってくるよね。
失神してるのか、白眼むいてる女優もいるし。


78 : 可愛い奥様 : 2010/08/11(水) 21:35:16 ID:v+T0KRRy0 [3回発言]

契約書に、

膣を糞ツボにされますとか、
不特定多数の男たちにレイプ、中出しされます、

中には刺青の人もいて感染症の恐れもかなりの確率でありますとか、
本気で何度もぶん殴られ、蹴り飛ばされます、

まぶたもペンチで強く引っ張り上げます、


膣にコオロギも大量にぶっこみます、
直腸内で器具を破裂されます、人工肛門にもなりますよ、

死ぬ直前まで強いアルコールをホースやロートで喉や膣、肛門に大量に注ぎます、
両足を複数の男たちがつかんで逆さにして水風呂に浸けます、

抵抗してもやめません、


その他もろもろ半殺しにされてもいいですね?って書いてあって全てを了承してサインをしたとは思われないから、どうなの?って 話でしょーよ。

契約とは全然違う事をされて、障害を負ったりするのは許されるの?自己責任なの?
http://logsoku.com/thread/hideyoshi.2ch.net/ms/1280383035/


慰安婦も鬼畜ビデオの出演女優も騙す手口は同じ。

日本女性は泣き寝入りしてくれるから楽なんだよね。


20. 2013年6月28日 17:50:10 : MUywgL6w4H
>>12>>14
日本の歴史も知らないのか在日ネトウヨ
腹裂き遊びは大名の娯楽ですよ

21. 中川隆 2013年7月15日 03:20:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


インリン?・強制子宮破壊Part1
http://say-move.org/a/comeplay.php?comeid=394512

強制子宮破壊2
http://www.collector-web.com/store/cdt/bky031dl.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊3(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り3)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊4(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り4)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊5 ポッチャリM女に八つ当たり暴行編(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り5)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

問答無用 強制子宮破壊5
http://www.collector-web.com/store/cdt/bky041dl.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊6 ロリータ美少女・愛田瞳(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り6)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊8 現役明治大学生 松島杏(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り8)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊9 ゆりあ(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り9)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/category1-1.html

[旧バッキー作品、問答無用強制子宮破壊10 子持ち人妻 真央21歳(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り10)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-1.html

[旧バッキー作品、問答無用強制子宮破壊11 レースクィーン ひかる19歳(人格崩壊・女性器狩り11)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊12 精神病のゴスロリ美少女 美咲天使19歳(人格崩壊・女性器狩り12)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

問答無用強制子宮破壊12 精神病のゴスロリ少女・美咲天使19歳
http://www.collector-web.com/store/cdt/bks013dl.html

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊15 病院勤務 川崎美紀22歳(人格崩壊・女性器狩り15)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊16 エロリスト逆襲編(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り16)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

[旧バッキー作品、問答無用・強制子宮破壊17 単体女優 はらだはるな(現タイトル、人格崩壊・女性器狩り17)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

強制子宮破壊17
http://video.fc2.com/ja/a/content/20120818cFhLU0rC/

[30人で部屋ごとレ●プ]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/

[性処理奴隷少女(コレクター作品、俺専玩具)]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html

[体罰女2  ※コレクター作品、凹女凹(ボコボコオンナ)2と同一内容]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html

[体罰女]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html

[体罰女3]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html

[体罰女4]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html

[体罰女番外編]
http://honnmonoreipudouga.dtiblog.com/blog-category-8.html


22. 中川隆 2013年7月17日 17:18:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本人はこういうのが大好きなんだね:

肉だるまhttp://newsfilter.org/47292

切腹おねえさんhttp://newsfilter.org/48312


「肉だるま」呪いのビデオは決して見てはいけない。
穴留玉狂(あなるたまきち)監督の作品です。愛玩目的でベッドに拘束した女性の四肢を切り落とすなど、AVでありながら猟奇スプラッタ殺人色が強い内容です。

このAVに出演した女優は発売日前日に線路飛び降り自殺をし、本当に肉だるまと化しました。


23. 2013年7月17日 17:27:54 : W18zBTaIM6

見た人はみんなトラウマになってるので絶対に見ないでね。

24. 中川隆 2013年7月18日 16:04:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

472 :2006/11/16(木) 07:26:52 ID:Pr1CjVsrO

昔の話なんですけどねぇ…あたし、山に人を埋めたんですよ。

なかなか、キチ○ガイのくせにやたらいい体してる女がいましてね、そいつをちょいと犯っちまったんですよ。

一通り楽しんだ後はオモチャ遊びしましてね、それにも飽きてちょいとSMの真似事をしてみたんですがねぇ…

えぇ…お尻に鉄パイプを突っ込んだり、チクビを切り取ったりしていましたら、何だかぐったりしていましてねぇ…

そんなんじゃ詰まらないもんですから捨てたんでさ。
http://www6.plala.or.jp/ohzora-soul/md/text/015_99.html

四肢切断され、レイプされる女たち
http://www.bllackz.com/2010/11/blog-post_5173.html

絶対見てはいけない XX写真
http://gurox.net/7/modules/wordpress2/index.php?cat=22


997 : 本当にあった怖い名無し :2012/03/19(月) 00:14:11.74 ID:1t9NXHX00

やっぱ女の子のグロはいいね
http://worldrankingup.blog41.fc2.com/blog-entry-2095.html


25. 中川隆 2013年7月18日 17:06:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

ニューギニア ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)
日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。

それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました


胸を切断され死亡した女性19人
性器を蛮刀でえぐられて殺された女性8人
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html


26. 2013年8月15日 05:14:05 : tWvHsHqJ3E
こんなにいろんな証言があるのに、証拠の1つも出てないから「旧日本軍は普通の軍隊でした、っていうか賠償金目当てにメチャクチャ言ってるだろお前ら」としか思われないのは大変悔しいでしょうね。敗戦国のくせに!って。確かに敗戦国が戦勝国から冤罪を押し付けられて認めざるを得ない現実はありますが、戦勝国の恩恵がお前らにまで及ぶかどうかは彼らの胸先三寸ってことです。

27. 2013年10月13日 07:53:06 : W18zBTaIM6
>証拠の1つも出てないから


一番基本的なところで勘違いしてますね。


歴史書の記述も刑事裁判の判決も


証拠 = 目撃者の証言


整合性のある証言が歴史書でも刑事裁判でも証拠とされている。

そもそも強盗殺人するのに役所に強盗殺人許可を申請するアホはいないからね。


28. 中川隆 2014年8月14日 14:30:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

・ 中国が日本人戦犯の直筆供述書を初めて全文公開 45人分を毎日1人ずつ
http://j.people.com.cn/n/2014/0704/c94474-8750978.html

ということで、現在のところ、日本人戦犯36人の直筆供述書が公開されている。



29. 中川隆 2014年8月14日 14:30:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc


・ 日本人戦犯1人目・鈴木啓久の供述書を公開 八路軍幹部を毒ガスで惨殺
http://j.people.com.cn/n/2014/0704/c94474-8751014.html

・ 日本人戦犯2人目・藤田茂の供述書を公開 村民を虐殺(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0707/c94474-8751784.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0707/c94474-8751836.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0707/c94474-8751838.html

・ 日本人戦犯3人目の供述書を公開 毒ガスで掃蕩 軍民多数を殺害(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0707/c94474-8752080.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752659.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752667.html


30. 2014年8月14日 14:31:07 : 3cdYZYbVIc

・ 日本の戦犯4人目・佐々眞之助 中国人を針金で数珠繋ぎにして殺害(一)〜(四)
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752182.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752681.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752690.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752693.html

・ 日本人戦犯5人目・長島勤の供述書公開 様々な虐殺手段を使用
http://j.people.com.cn/n/2014/0708/c94474-8752240.html

・ 日本人戦犯6人目・船木健次郎の供述書公開 部落を壊滅 毒ガス使用も
http://j.people.com.cn/n/2014/0709/c94474-8752926.html


31. 2014年8月14日 14:31:40 : 3cdYZYbVIc

・ 日本人戦犯7人目・鵜野晋太郎の供述書公開 「生体刺突」を命令(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754020.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754129.html

・ 日本人戦犯8人目・榊原秀夫の供述書公開 731部隊の細菌戦に協力(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754210.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754240.html

・ 日本人戦犯9人目・富永順太郎の供述書公開(一)〜(五)
http://j.people.com.cn/n/2014/0714/c94474-8754934.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0714/c94474-8754959.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0714/c94474-8754970.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0714/c94474-8754997.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0714/c94474-8755004.html

・ 日本人戦犯10人目・城野宏の供述書公開 解放軍に毒ガス使用(一)〜(四)
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755610.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755618.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755623.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755625.html

・ 日本人戦犯11人目・相楽圭二の供述書公開 8年で831人殺害(一)〜(四)
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755651.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755669.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755670.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0715/c94474-8755671.html

・ 日本人戦犯12人目・菊地修一の供述書公開 中国人俘虜に対する生体解剖(一)〜(四)
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756321.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756334.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756335.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756336.html


32. 2014年8月14日 14:32:27 : 3cdYZYbVIc

・ 日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(一)〜(五)
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756420.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756428.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756430.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756433.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0716/c94474-8756437.html

・ 日本人戦犯14人目・住岡義一の供述書公開 中国人を教育材料として刺突(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0717/c94474-8756862.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0717/c94474-8756866.html

・ 日本人戦犯15人目・大野泰治の供述書 趙一曼を拷問(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0718/c94474-8757222.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0718/c94474-8757366.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0718/c94474-8757384.html

・ 日本人戦犯16人目・笠実の供述書公開 多くの平民を殺害(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758308.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758312.html

・ 日本人戦犯17人目・神野久吉の供述書 女性多数を強姦(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758577.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758582.html

・ 日本人戦犯18人目・武部六藏の供述書 偽満州国総務長官(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758588.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0721/c94474-8758597.html


33. 2014年8月14日 14:33:24 : 3cdYZYbVIc

・ 日本人戦犯19人目・古海忠之の供述書 華中汪政権にアヘン10万両販売(一)〜(八)
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759181.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759199.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759218.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759233.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759246.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759258.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759265.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0722/c94474-8759266.html

・ 日本人戦犯20人目・齋藤美夫の供述書 中国人を集団虐殺(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0723/c94474-8759762.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0723/c94474-8759833.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0723/c94474-8759839.html

・ 日本人戦犯21人目・中井久二の供述書公開 兵士慰安の妓楼に場所を提供(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0724/c94474-8760136.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0724/c94474-8760139.html

・ 日本人戦犯22人目・三宅秀也の供述書公開 細菌戦に備えペスト研究を指示(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0725/c94474-8760570.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0725/c94474-8760589.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0725/c94474-8760599.html

・ 日本人戦犯23人目・横山光彦の供述書公開 革命志士多数に死刑を宣告(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0728/c94474-8761549.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0728/c94474-8761571.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0728/c94474-8761573.html

・ 日本人戦犯24人目・杉原一策の供述書公開 3万人以上を処刑・弾圧(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762119.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762128.html


34. 2014年8月14日 14:33:47 : 3cdYZYbVIc

・ 日本人戦犯25人目・佐古龍祐の供述書 愛国志士多数を検挙(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762342.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762347.html

・ 日本人戦犯26人目・原弘志の供述書 中国人民を虐殺(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762350.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762360.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0729/c94474-8762365.html

・ 日本人戦犯27人目・岐部与平の供述書公開 中国人約4万7000人を徴用
http://j.people.com.cn/n/2014/0730/c94474-8762615.html

・ 日本人戦犯28人目・今吉均の供述書公開 中国人農民を斬首殺害
http://j.people.com.cn/n/2014/0731/c94474-8763094.html

・ 日本人戦犯29人目・宇津木孟雄の供述書公開 生体病理実験に協力
http://j.people.com.cn/n/2014/0801/c94474-8763820.html

・ 日本人戦犯30人目・田井久二郎の供述書公開 一般人民を虐殺(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0804/c94474-8764652.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0804/c94474-8764661.html


35. 中川隆 2014年8月14日 14:34:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

・ 日本人戦犯31人目・木村光明の供述書 武力で農民を追い払い無人地帯に
http://j.people.com.cn/n/2014/0804/c94474-8764866.html

・ 日本人戦犯32人目・島村三郎の供述書公開 中共地下組織を弾圧(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0805/c94474-8765050.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0805/c94474-8765106.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0805/c94474-8765135.html

・ 日本人戦犯33人目・鹿毛繁太の供述書公開 「無住地帯」を強制設立
http://j.people.com.cn/n/2014/0805/c94474-8765205.html

・ 日本人戦犯34人目・筑谷章造の供述書公開 残酷な手段で拷問(一)〜(三)
http://j.people.com.cn/n/2014/0806/c94474-8765892.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0806/c94474-8765897.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0806/c94474-8765903.html

・ 日本人戦犯35人目・吉房虎雄の供述書公開 平和人民を虐殺(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0807/c94474-8766465.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0807/c94474-8766468.html

・ 日本人戦犯36人目・柏葉勇一の供述書公開 乞食を山中に放棄(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0808/c94474-8767038.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0808/c94474-8767043.html


36. 中川隆 2014年8月14日 14:45:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

要するに、みんなこういうのが大好きなんだよね:
http://amezor-iv.net/shisou/131216002631.html  

37. 中川隆[5732] koaQ7Jey 2016年12月28日 08:00:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6173]

誘拐まで事業化していた満州憲兵隊
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/888.html
 


極悪非道、やりたい放題、軍人天国、…、1931年満州事変以降、満州を事実上占領した日本軍部、「ひどいことをしていた」との認識は一般日本人にもあるでしょうが、完全にギャング化して、誘拐まで事業としたとの記事を見つけました。

以下、引用冒頭の菱刈とは、1933年8月に新しく、満州国大使および関東軍司令官に就任した菱刈隆大将のことです。

なお、引用元の一貫した主張は、1945年までのこういう軍部のやりたい放題は天皇の命令、承認、黙認の下で実行されたものであり、天皇に反逆する意志を持つ軍人など一人もいなかったということです。


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた ディビット・バーガミニ 著
ガスペ誘拐
http://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_3.htm#kaspe
より


(引用開始)

 菱刈は満州に新趣向のたくらみを持ち込んだ。誘拐である。多くの裕福な中国商人は、その死亡か倒産が確認される前に、二度も三度も誘拐された。西洋人たちも、その他の形の身の危険を領事館に訴えたが、誘拐の頻発には対抗のしようがなかった。誘拐に実施にあたっては、憲兵は常に盗賊と見なされれる一味――中国人の誘拐には中国人のをれを、白系ロシア人には白人のそれを――を利用した。誘拐犯たちは、日本の憲兵による保護扱いを受け、身代金が支払われた場合、その1パーセントに当たる報酬すら得ていた。いくつものケースで身代金が支払われ、被害者が自宅に帰された。それでも、彼らは、日本人からの報復を恐れて、その体験談をマスコミに明かすのはまれだった。

 菱刈大将の任命からひと月も経ていない1933年8月24日、ハルピンのスパイ機関の工作員は、満州で最も金を脅し取れそうな、ヨセフ・カスペという裕福なロシア系ユダヤ人の息子を襲った。ヨセフの父は、日露戦争の後の1907年に、ハルピンにやってきていた。その宝石商は、時計修理と質屋から身を起こし、今では、東洋でもっとも富裕な宝石と銀の商人となっていた。そうした家業とともに、彼はハルピンの主なカフェとモデルヌ・ホテル、そして、北満州の映画館のほとんどを所有していた。彼の商売敵たちは、彼のその富は、ロシア革命の際、白系ロシア人貴族から押収された宝石や美術品の買取商売のゆえ、ソビエト連邦に感謝すべきだと影口をたたいた。このソビエトの盗品の密売の容疑のため、カスパは、彼のまわりに暮らす白系ロシア人からは徹底して嫌われていた。それは、ハルピンのユダヤ人社会でも同じだった。かくして反ユダヤ主義が白系ロシア文化に染み込まされ、近年、多くの白系ロシア人がアドルフ・ヒットラーの賞賛者となっていた。

 その頃、日本人もまた、フリーメースンやボルシェビイキと同じように、ユダヤ人を宣伝材料に使い始めていた。だがそれは、多くの西洋人にとって奇妙なことだった。というのは、日本人にユダヤ人と非ユダヤ人を見分けられる者はほとんどおらず、ユダヤ教徒に自ら進んで転じた者も日本中で一ダースにも満たなかったからだった。しかし、日本人の潔癖好き精神にとって、それが悪魔であるなら、馴染みの有る無しに拘わらず、大した違いはなかった。ハルピンのユダヤ人は、事実上、地位も自分を守る術を持たない人々で、神道による迫害は、キリスト教徒に負けず劣らず容赦のないものであることをやがて知ることとなった。1932年に関東軍がハルピンに侵入すると直ちに、地元のロシア・ナチ指導者の工作員で協力者を、 『ナシュ・プト』 という宣伝新聞の編集をするロジャエフスキーとの名のやくざまがいの知識人に仕立てた。

 大金持ちのカスペは、日本の政治状況の動向を察知して、自分のすべての財産を、フランス国籍の二人の息子の名義に移した。日本人の眼から見れば、それは日本人を無視する行為であり、1932年末に満州自活方針が実行に移された後、日本の統治当局は、カスペの財産を何とでも搾り取ろうと躍起になった。だが、カスペも、それに気付かない人物ではなく、彼がモデルヌ・ホテルの自室を後にする時は、必ず頑強な護衛を付けていた。

 しかし、カスペの息子の一人は、そういう用心が不足していた。1933年の夏、彼は、フランス国立高等音楽院を卒業し、コンサート経験を積むことを望む前途あるピアニストとして、ハルピンに帰国した。父親が彼のために、その機会を準備しようと東京や上海に行っている間、彼は、毎日のようにハルピンの夜を楽しみ、川端のゲイ地区や、タトスあるいはイベリア・クラブの中国人歌手、日本人ママさん、あるいは、ロシア人キャバレー女を求めて出かけて行き、その際は父親が用意した武装運転手を同行した。

 1933年8月24日、息子のセムヨン・カスペが、L. シャピロ嬢を自宅に連れて帰ろうとした時、日本の憲兵に雇われた二人の白系ロシア人ファシストがその車に乗り込み、車を町外れへと運転させて行った。そこで彼らは運転手を追払い、その女に手紙の秘密受渡し場所や電話番号を教えた後、彼女を身代金交渉の仲立ちにするために解放した。その後の彼女の陰に日向にの献身的な働きは、彼女は若いカスペを深く愛していたか、憲兵から金で操られていたかのどちらかを物語っていた。誘拐犯はセムヨンをハルピンの西、約 「55ロシアマイル」〔約60km〕 の森の隠れ家に連れて行き、そこから毎日、電話や身代金通告や最後通牒を発した。

 セムヨンの父は、要求された10万ドル〔現在価値で約5億円〕を憤然と拒絶し、本人と引き換えに1万2千ドル〔同6千万円〕を支払うと返答した。一ヶ月の交渉の後、彼には血にまみれた息子の片耳の半分が送られてきた。それでも彼は、徹底した倹約心と、脅迫に対する頑固な勇敢さから、その支払いを拒否し続けた。彼はフランスの副領事シャンボン氏とは非公式で関わりがあり、同氏の部下が手掛かりを探し始めた。さらに日本の憲兵の司令官自身は、その件に部下のすべてを配置していると言っていた。その部下たちは、誘拐犯からの身代金要求の電話を探知するため、ハルピン中央電話交換所に陣取っていたが、日本人の説明によれば、その巧妙な誘拐犯は、傍受している四つの回線全部にいつも同時に電話をかけてくるので、技術的理由から、その探知を行うのは不可能であるとしていた。

 10月、熱心なシャンボン副領事の部下は、コミサレンコという十代のごろつきを誘拐犯の一人として捕らえた。彼は共犯者の白ロシア人の名を白状した。日本の憲兵はコミサレンコを逮捕し、町から連れ出した。憲兵は、彼を南満州鉄道の敷設権内――憲兵を見下す日本の鉄道公安官の管轄下にあった――に彼を隠すという失敗をした。鉄道公安官の責任者、大井深大佐は、いかにも、日本の武士の典型のような人物だった。彼は自分の権限を駆使して、コミサレンコの憲兵を解任し、その若い暴漢を自分の下に拘留した。憲兵は、シャンボン副領事の部下の全員をでっち上げの罪で逮捕し、ファシストのロジャエフスキーに、シャンボン副領事はユダヤ人ボルシェビイキであったと彼の新聞 『ナシュ・プト』 に書き立てるようそそのかした。大井大佐はコミサレンコをハルピンに連れ戻し、地元の満州警察に公式の自白を行わせた。やがて外国の新聞がこの事件に注目し始め、当惑させられることとなった。

 誘拐されたピアニスト、カスペはその間、しだいに弱っていっていた。誘拐犯たちは彼を飢えさせ、時に殴打し、そして、そのピアニストの柔らかい指から、爪を剥ぎ取っていた。少なくとも一度は、憲兵は彼と誘拐犯たちを別の隠れ家に移すために車を用意した。彼の最後に詰め込まれていた場所は、凍土の中に掘られた穴で、それが蓋で覆われていた。1933年11月28日、遂に、大井大佐が二人の誘拐犯を逮捕すると、その一味たちは混乱に陥った。その内の一人は、セムヨンを3千ドル〔同約1200万円〕で返すと父親と話をつけた。その日の夜、 「勝利の手入れ」 と穏便に表現されながらも、憲兵がその隠れ家を急襲し、その最後の犯人を射殺し、護衛についていた者たちを逃亡させ、その不具者にされ壊疽に冒されていたピアニストを殺すか、あるいはそのまま埋めてしまった。

 数ヶ月の捜査と起訴手続きの後、彼らの裁判が満州の法廷で始まった。そしてその公判は、東京で行われた5・15事件や三件の脅迫事件の英雄たちのために行われた公判のミニチュアのごとく、外交的茶番への中国人の憤激をもって実行された。被告には弁護のための政治談義の展開が許された。彼らは、カスペの懐はボルシェビイキの黄金で満たされており、それは、ソ満国境に展開する白系ロ  [引用元脱文]

 中国人判事たちは、二年間にわたって、丁寧かつ忍耐強くそれを聞いた。そして1936年、一味の6人に、 「三日以内」 の絞首刑、他の者には長期投獄の判決を言い渡した。だがそれに驚かされたのか、満州国の操り人形舞台の背後にいる日本人支配者は、不可解でとっぴな行動に走った。その判決の二日後、彼らは、その判事と検察官を連行し、 「汚職」 の嫌疑で取り調べた。それと同時に、その誘拐犯の一人の妻の上告について、関東軍参謀総長の板垣は、刑法の無法行為条項ではなく、――日本人判事によって公判が進められるべきという――政治的理由でもって、新たな裁判を開始することを命じた。

 その再審において、検察は情状酌量の困難と被告席の 「清く若き愛国者」 の純粋な動機を力説し、10ないし15年以内の寛大な判決を求めた。法廷はそれに応じ、投獄は軽減された。しかし、日本国内では、他に役立つかもしれない者を監獄に遊ばせておくことをよしとはしなかった。受刑者たちは、その一週間後、再び法廷に呼び立てられ、自身でも驚かされたことに、恩赦が申し渡された。そして10日後、彼らは、判決と誓約に免じて釈放され、満州の他の都市においての特務機関の仕事が与えられた。

  『ハルピン・ヘラルド』 や 『ハルピン・オブザーバー』 の各紙は、その司法処置を茶番であると非難した。長い弾圧をなめてきた両新聞社は閉鎖され、編集者は国外追放された。大井大佐は日本に呼び戻され、シャンボン副領事は、好ましくない人物と宣告され、本国フランスに召還された# 5。父親のカスペについては、彼が身代金に応じなかった息子の遺体が掘り出された時、とうとう気がふれたと言われた。彼は自分の金融帝国への興味を失い、その後、フランス人妻と共に身を引き、忘れ去られた。彼の映画館は満州映画協会によって買収された。この団体は、甘粕正彦の率いる独占組織で、彼は、1931年にヘンリー・溥儀を満州に招いたいわくつき憲兵であり、かつ、1923年の関東大震災の際には、社会主義者大杉栄、その妻、そしてその甥を絞殺した人物だった。

 # 5 その当時、日本との間にいかなる紛争も起こさないというのがフランスの政策だった。1920年代に日英同盟が破棄されて以来、日仏同盟の可能性が多くのフランス政治家の魅力となっていたようだ。クローデル将軍は、リットン報告を無力化させようと努力し、1933年10月17日、国際連盟のボイコットを最初に破り、満州国に6千万ドル〔現在価値で約3千億円〕を融資したのは、政府の後押しを受けたフランスの融資団であった。そこで南満州鉄道は主にその資金を用いて朝鮮に港と海軍基地を建設した。最終的に日本が欧州の同盟国に選んだのは、衆知のように、フランスでなくドイツであった。
(引用終了)


38. 中川隆[6286] koaQ7Jey 2017年1月24日 16:38:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6738]

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。

特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。

出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。

九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。

日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。

この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


39. 中川隆[7883] koaQ7Jey 2017年4月19日 09:49:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8374]

テレビは血と暴力と死と修羅場と阿鼻叫喚を何も報道しない

私たちはテレビや新聞の報道番組を見ると、それがリアルであると思ってしまう。しかし、それは間違っている。日本の報道番組は報道になっていない。

日本社会は、注意深く「死と暴力」が隠されている。

テレビや新聞でも、プライバシーだとかトラウマ軽減だとか様々な理由を盾にして、暴力や死体は注意深く、執拗なまでの潔癖さで隠されている。つまり、リアルが隠されている。

日本人が見ているのは「現実」ではない。

マスコミは「生々しい映像」と喧伝して映像を流しているが、それは編集されて「見たくないもの」が取り除かれている。本当に日本人がリアルに知らなければならない凄惨な「暴力の現場」がない。

人々が半狂乱になっている現場や、大怪我をしてのたうちまわっている人たちや、家族を失って怒り心頭に震えている人たちさえも出てこない。

憎悪を剥き出しにしている人や、互いに殺し合っている現場や、血まみれの暴力や死体が転がる戦場も出てこない。日本の報道番組は報道になっていない。

あなたは報道番組という娯楽番組を見ているだけ

日本のマスコミは、ただ口当たりの良いものだけを選んで、あたかもそれが100%の現実のように見せているだけだ。暴力と血と修羅場がきれいに掻き消されている。

もちろん、誰もズタズタに引き裂かれて原型を保っていない死体や、流血と混乱の現場を好んで見たいと思わない。しかし、それは間違いなく現場には存在していたものである。

つまり、それが現実だったはずだ。それを追及し、報道するのが本当の意味の報道番組である。

報道番組というのは、美人の女性アナウンサーを眺めるために存在しているのではない。そんなものは要らない。それを売りにするなら、それは娯楽番組である。美人アナウンサーなど、どうでもいい。

現在の日本人は報道番組という娯楽番組を見ているだけだ。娯楽番組を現実だと思っているから、日本人は平和ボケし、現実が分からなくなっている。

もちろん一部の人は「現実はもっと悲惨だったのに、マスコミのフィルターを通して、きれいごとになってしまった」と気付いている。

本当は現実をそのまま報道すべきだが、「現場の人はトラウマを感じている」とか、「死に対する尊厳はないのか」と、現実を見たくない人々が叫んで報道規制させる。

しかし、本来は「見たくもない血みどろ」が現実ではなかったのか。こうしたリアルに起きていることを隠し続けているから、日本人は現実思考ができなくなってしまっている。

国外で新聞を見ると、新聞の一面に凄惨な死体の写真が載っていることがある。アジアでも中東でも中南米でも当たり前にそうである。

死体が剥き出しになって写真に載ることは、それが現実である以上当たり前の話なのだ。それなのに、日本は剥き出しの死体が新聞に載ることはまずない。

だから、日本人だけ何も分からない。


ISISの暴力は今もまだ中東やEUで続いている。死体が剥き出しになって写真に載ることは、それが現実である以上当たり前の話なのだ。それなのに、日本は剥き出しの死体が新聞に載ることはまずない。だから、日本人だけ何も分からない。


死や暴力を隠蔽すると「重大さ」が伝わらない

日本人は現実を見ることを「規制」されている。

女性の裸を何のためらいもなく載せるイエロージャーナリズム新聞でさえ、剥き出しの死体を「載せない」という奇妙な徹底がなされている。

節操なく他人のスキャンダルを暴露し、意味のないヌードを載せるのにためらいのないこれらの新聞が、「死体」となると途端に自制する姿勢がどうも理解できない。

「人権」を理由に持ち出すのならば、噂の域も出ない他人のスキャンダルを大見出しで書き立てる姿勢も人権に反しているので規制すべきと思わないのだろうか。

「死者の尊厳」を持ち出すのならば、なおさら「生きている人たちの尊厳」を考えて他の記事も修正すべきだろう。

別に私は死体愛好家でもサディストでもないので、何らかの事件で変死した人々の遺体を進んで見たいわけではない。

しかし、死や暴力を隠蔽すると事件の「重大さ」が伝わらないし、それによって現実が隠されてしまうのだから、死体の隠蔽は反対だ。

「赤ん坊が虐待されて殺された」のであれば、どのように虐待されたのか「死体を見せる」のが一番ではないのか。

アザ、疵、打撲痕、発見現場。それらを見せてくれなければ、何が起きたのかまるで分からない。暴力は隠してはならないのだ。暴力も死も何もかも隠そうとするところから、日本はおかしくなってしまっている。

嫌なものは遠ざける。嫌なものは見ないことにする。嫌なものはなかったことにする。嫌なものは先延ばしする……。

「死体を見ない、見せない」というのは、つまるところ「現実は見ない」のと同じなのだ。マスコミは現実を報道する気がないのだろうか。


「死体を見ない、見せない」というのは、つまるところ「現実は見ない」のと同じなのだ。マスコミは現実を報道する気がないのだろうか。


血まみれになった現場は決して見ることはない

私たちはニュースに触れて、「戦争が起きた」「暴動が起きた」と知る。そして、その地で凄惨な虐殺や殺し合いが行われていることを知る。

しかし、日本のニュース、テレビ、新聞では、それらはただの「記号」にしか過ぎない。

たとえば、中東では自爆テロが続出して何人もの人々が犠牲になっている。

しかし、そこには爆発で燃え上がる建物の写真はあっても、手足や内臓が飛び散った血まみれになった現場は決して日本では見ることはない。

シリアやイラクで起きているISISの凄惨な暴力や、欧米やロシアが行っている空爆による被害、欧米で起きているテロ、次々と起きている凄惨な憎悪殺人……。

日本では、何ひとつ実態を知ることができない。

海外ではどうなのか。もちろん、どこまで見せるのかはそれぞれの国のスタンスに関係してくる。しかし、それを完全に隠すという発想はどこの国にもない。それが現実だからだ。

現実社会で何が起きているのかを知らしめるのが報道の正しい「道」であるならば、現場を正しく捕らえた写真が一枚も掲載されないというのは不自然すぎる。

日本が隠しているのは「死」だけではない。国家間の対立、憎悪、暴力、戦争。日本人に向けられた凄まじいまでの反日感情。何もかも隠してしまっている。

こうした現実を「直視」することは、恐ろしいことなのだろうか。それとも、日本人に現実直視させたくない勢力があるのか。

美人アナウンサーを話題にしてあれこれ言う人も多いようだが、そんなものは枝葉末節でまったくどうでもいいことだ。事件のリアルを隠すから美人アナウンサーを見るしかなくなっているだけのことで、それは本当の姿ではない。娯楽は他でやるべきだ。

美人アナウンサーは、爆弾で吹き飛んでバラバラになった死体を見つめ、暴力を解説し、テロの現場を見つめなければならない。それが仕事だからだ。

暴力も、死体も、隠してはいけない。憎悪を映さなければならない。現実から目を逸らしてはならない。報道番組は「リアルな現実」で埋まらなければならない。報道は現実に追いつかなければならない。

世界はとっくに「暴力の時代」に入っているのだから、日本人も暴力に免疫をつけておくべきだ。日本にも、遅かれ早かれ暴力はやってくる。


報道番組は「リアルな現実」で埋まらなければならない。報道は現実に追いつかなければならない。世界はとっくに「暴力の時代」に入っているのだから、日本人も暴力に免疫をつけておくべきだ。日本にも、遅かれ早かれ暴力はやってくる。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170419T0155510900.html


40. 中川隆[-7840] koaQ7Jey 2017年5月01日 13:17:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


41. 中川隆[-6707] koaQ7Jey 2017年8月14日 09:48:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

731部隊の真実  〜エリート医学者と人体実験〜
NHKスペシャル 2017年8月13日 170813 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TK9MbTgmUAc

731部隊の真実 〜エリート医学者と人体実験〜

初回放送

総合 2017年8月13日(日)
午後9時00分〜9時49分

戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。部隊が証拠を徹底的に隠滅、元隊員が固く口を閉ざしたため、その実像を知る手がかりは限られてきた。

今回NHKは、終戦直後、旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録を発掘。20時間を越える記録では、部隊中枢メンバーが、国防や国益のためとして細菌兵器を開発した実態、そして旧満州で日本に反発していた中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、細菌兵器開発の「実験材料」として扱っていた実態を、克明に語っていた。

さらに、元隊員の資料や当時の学術界の膨大な記録からは、軍だけでなく学術界からも多くの研究者が部隊に参加していた実態が浮かび上がってきた。満州事変以降、学術界が軍と関係を深めていった過程、そして日本軍が旧満州で反発する人々を死刑にすることについて世論の支持が高まる中で「死刑囚」を研究に活用する動きが相次いでいた実態も明らかになってきた。

731部隊はどのようにして生まれ、そして医学者たちは、どう関与していったのか。数百点にのぼる資料をもとに、731部隊設立の謎に迫る。


42. 中川隆[-6628] koaQ7Jey 2017年8月23日 09:15:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本陸軍が終戦後に毛嫌いされた理由

関東軍は100万人以上の満州日本人に、ソ連との開戦も知らせず避難指示も出さず、見捨てて逃走した。
引用:http://www.yomiuri.co.jp/special/70yrs/main/img/honsho_1_06_sub_03.jpg

関東軍の敵前逃亡

現代では旧日本陸軍は悪の象徴とされていて、悪い事はなんでも全て日本陸軍のせいになっている。

このような思想が広まったのは戦後GHQによる統制と、世界的な宣伝の為だが、他にも理由があった。

朝鮮と満州で日本陸軍関東軍は、永遠に日本人から恨みを買うような行為を、終戦前の最後の5日間で行っていました。

          
関東軍は1945年8月9日にソ連が攻撃を開始すると、防衛地域を放棄して、いの一番に逃げ出したのでした。

しかもソ連の攻撃や、もうすぐソ連地上軍がやってくるのを住民には隠し、「絶対に安心だからここから動くな」とまで指示していました。


関東軍が防衛していた満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

しかも軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。


その次に8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15になってからでした。

日本の降伏を知ると同時に中華民国軍とソ連軍、暴徒化した中国人が日本人に襲いかかり、帰国できずに悲惨な目に遭って満州でなくなった人も多かった。

朝鮮半島は38度線で分断されたが、これは関東軍がソ連参戦と同時に38度線まで撤退したためで、このために裏取引までしていたようです。

北朝鮮に残された日本人

関東軍はアメリカには米軍に早く来るよう促し、ソ連にはソ連軍に朝鮮を明け渡すかのように、仄めかしていました。

ソ連は8月10日から米軍の朝鮮上陸までの15日間、のらりくらりと立ち回る関東軍への攻撃をためらい、8月25日に米軍がソウルに上陸しました。

この15日間の関東軍の行動によって、韓国はソ連占領を免れ、現在の民主国家に発展していきました。


関東軍がこうした行動を取ったのは韓国人のためではなく、満州の日本人を躊躇無く見捨てたのを見れば、日本人の為でもありませんでした。

釜山から日本への海上航路は米軍艦と空襲によって途絶しており、関東軍が帰国するには朝鮮南部をソ連から防衛する必要があったからでした。

朝鮮北部と満州在住の日本人に避難指示が出たのは8月15日以降で、しかも鉄道は軍が独占していて、指定された列車にしか乗れませんでした。


軍属、軍人の家族が優先され、次が婦女子と子供、その後は鉄道が機能しなくなり、取り残されてしまいました。

朝鮮北部の日本人は線路に沿って歩けば38度線を越えれるので歩いたが、途中で大半がソ連軍につかまって捕虜になった。

捕虜を拘束しておくと食料が必要になったので、ソ連軍は面倒になり、翌年までに歩いて南側に行くように指示して解放された人が多かった。


だが食料や医療品をくれた訳ではないので、38度線を越えるまでに倒れてなくなった人が多かった。

終戦後も数ヶ月間は朝鮮南部に関東軍が駐留していたので、38度線さえ越えれば復員船で釜山から帰国できた。

朝鮮北部からの日本人の脱走を助けたのは朝鮮人たちで、日本人を襲う朝鮮人が居た一方で、食料を分けたり匿った人も居ました。


朝鮮北部は南部に比べて日本人が少なく、日本に敵意を抱いていた人間も多かったと言われている。

それでも満州の中国人やソ連兵に比べると、朝鮮人に捕まったほうがましだった。

全ての朝鮮人や韓国人が日本人を憎むようになるのは、北と南の政府が反日教育を行った後のことです。


氏名が分かっただけで未帰還者31万人だから、総数は遥かに多かったかも知れない
0901Yomiuri37
引用:http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0901Yomiuri37.jpg

満州に残された日本人

満州に取り残された日本人はもっと過酷で、日本から遠い上に歩いて日本軍支配地域へ行く事はできなかった。

しかも米軍は日本本土と朝鮮南部を占領したが、満州や中国本土に進駐しなかったので、米軍の保護下に入ることもできなかった。

「我が皇軍に撤退なし」と言っていた関東軍は一番先に逃げ出してしまい、満州は完全な無法地帯になりました。


満州には100万人以上の日本人が取り残されたと推測され、翌1946年5月まで誰も関心を持たず放置された。

後に判明した事実によると、大本営は関東軍に「本土は食糧不足だから日本人は帰国させるな」という命令を出していたようです。

米軍は1946年5月から軍用船舶で日本人の輸送を始めたが、これは保護のためではなく、「日本人が中国で暴動などをしないように」との配慮だった。

つまりアメリカは日本人が現地で全滅せず生きていたので、中国から除去したかったのだった。


引揚者は米軍によって犯罪者のように輸送されたのだが、帰国できなかった人が何人居たのか、現在も分かっていない。

ただ差し引きすると30万人以上が満州で行方不明になっていて、残された日本人の4人に1人は現地でなくなったようです。

つまり中華民国(台湾政府)とソ連は無抵抗な30万人の満州の日本人を犠牲にしたと推測できる。

最後の皇軍

一方の日本陸軍関東軍だが、その最後は非常に情けないものだったとされている。

優秀な兵士や優秀な部隊は太平洋の戦場に引き抜かれて米軍と戦い、関東軍は戦意のない劣等な兵士や新参兵、高齢者(40代)だけになっていました。

脱走者が続出し、我先に帰国しようとし、避難民に紛れ込んで38度線を目指した。


避難民に「荷物を持ってあげましょう」と言って、僅かな食料や金品を持ち逃げする脱走兵が数多く目撃されていました。

さらに避難民の家族が兵隊に出ていると知ると、「XXXX殿は亡くなられました」と嘘の報告をします。

当時家族の戦死をしらせてくれた人には、どんなに困窮していてもお礼をするのが礼儀であり、脱走兵は僅かな食料目当てに誰にでも「ご家族はなくなられました」と言いふらしていました。


戦場を放棄して敵前逃亡したうえに、保護するべき住民を見捨てて逃走し、最後は避難民からわずかな食料を騙し取った。

これが置き去りにされた日本人が最後に目撃した日本陸軍の姿であり、この悪評はたちどころに本土の日本人にも広まりました。

だから東条英機や日本陸軍将校が裁判にかけられても、反対する日本人があまり居なかったのです。
http://www.thutmosev.com/archives/72262171.html


43. 中川隆[-6576] koaQ7Jey 2017年8月25日 18:03:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

北朝鮮からの脱出1945 僅かな判断ミスが生死を分けた

引揚げ船で満州から帰国した避難民、カメラのような高級品は略奪されたため、引き揚げ中の写真はほとんど無い
引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

多くの人は帰国を躊躇した

第二次大戦終了後に、朝鮮半島北側に取り残された日本人は、30万人以上と言われています。

満州で取り残された日本人は100万人以上で、ソ連と中国支配地域を合計すると、200万人に達したとされています。

このうち帰国できなかった人は50万人前後と推測されるが、正確な人数は今も分かっていません。

          


この50万人はソ連と中華民国(台湾)、共産党軍(中国)によって捕らえられたり、暴行された末になくなりました。

これほど多くの残留者を出した原因は、日本本土の大本営が「日本は食糧が不足し混乱している」として帰国させるなと関東軍に命令したからでした。

200万人もの大陸在留日本人が帰国したら、ただでさえ危機的状況にあった本土の食糧事情が、さらに悪化すると考えました。


その一方で関東軍は自分たちだけは安全に帰国できるように計らい、満州や朝鮮北部から、38度線南側に密かに撤退しました。

満州と朝鮮北部の在留日本人には撤退を秘密にし、ソ連と戦いに行くと言って騙して逃げ出していました。

まず軍人が逃げて、ついで軍人の家族が逃げ、次に軍属や警察官、役人が逃げ出して、民間人が列車に乗るのを禁止すらしました。


関東軍が撤退した後でやっと一般人が列車を使えるようになったが、既に8月15日になっていました。

ソ連軍が満州や朝鮮北部に攻撃開始したのが8月9日で、それから終戦の15日まで、民間人は事実上避難を禁止されていました。

ソ連軍は北から満州と朝鮮に進軍を開始し、一刻も早く逃げないとソ連占領地域になってしまいます。

わずかな判断ミスで帰国できなかった人達

ところが関東軍や日本軍はソ連と日本が開戦した事や、日本が降伏した事実すら民間人に秘密にしたため、避難しなかった人が多かったのです。

在留日本人は8月15日に戦争が終わったのは知っていたが、「戦争は終わったのだから逃げる必要はない」と考えた人が大勢居ました。

終戦時点では朝鮮や満州の行政機構はそのまま存在し続ける可能性があり、日本人の資産も保護されると考えられていました。


満州や朝鮮北部に居住していた日本人の多くは、何十年もかけて家を建てたり現地で生活を築いて来たので、捨てるのをためらいました。

かなりの日本人居住者は、このまま自分たちの資産が保全されるほうに期待をかけ、なるべく避難したく無かったのです。

だが関東軍が撤退してしまったので、ソ連軍も日本軍を追いかけるように南下し、戦闘せずに38度線に達する事ができたのです。


ソ連軍はすぐに南下した訳ではなく、その速度は牛歩の歩みくらいゆっくりしたもので、すぐに行動すれば逃げれない訳ではなかった。

理由はソ連軍主力がドイツ占領のため欧州に集中し、極東ではトラックすら不足し、兵士は徒歩で歩いていたからでした。

国境付近にいた日本人がソ連軍に襲撃され、避難民(当時避難民と言っていた)が南下するのを見て人々は始めてソ連軍が迫っているのを知りました。


日本軍や政府が避難指示を一切出さなかったため、避難するかどうかは個人の判断にまかされ、多くの人は「残りの給料を貰ってから」「家や家財を処分してから」ゆっくり日本に戻ろうと思っていました。

8月15日にはソウル行きの列車が出ていたのに(ソ連軍が到達していない地域は、また日本帝国が支配していた)、何日か遅らせたために列車の運行が止まりました。

ソ連軍は満州や朝鮮北部を占領すると鉄道を自分のために使用し、日本人が列車に乗るのを禁止しました。


しかもソウルや38度線近くまで行けば良いのに、「食べ物を調達したい」(暫くは日本円が通じた)一晩休みたいなどの理由で途中下車したグループが大勢居ました。

8月15日から数日間は一日や1時間で列車の運行状況が悪化し、途中で降りた人は全員ソ連に拘束される事になります。

ソウル直行列車は既に運行していないので、どのみち列車が止まった場所で降りる事になるが、ここでも多くの避難民グループが致命的な判断ミスを犯します。


ソ連や中国に捕まった日本女性は兵士の略奪対象になった

引用:https://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fcdn-ak.f.st-hatena.com%2Fimages%2Ffotolife%2Fo%2Fooidoya%2F20150104%2F20150104213716.png&twidth=1000&theight=0&qlt=80&res_format=jpg&op=r

避難民を襲う負の連鎖

38度線までは数百キロで、線路沿いに一日30キロから50キロ歩けば数日であり、しかも8月15日からしばらくはソ連軍は38度線に到達していませんでした。

少し無理をすれば歩いて帰れるのに、ほとんどのグループは「列車が再開したら乗って帰ろう」と思い、降車駅の学校などで滞在してしまいました。

列車の再開を待っている間に、ソ連の先発隊が町にやってきて日本人の移動を禁止し、全員が収容所に拘束される事になります。


終戦から1ヶ月ほどは徒歩なら移動は自由で、朝鮮総督府はまだ(一部が)機能していて、日本円で買い物もできたので、これが最後のチャンスだった。

だが多くの人は無為に時間を潰してしまい、朝鮮総督府は崩壊し、日本円は数分の一に下落し、朝鮮の人々の日本人への態度は悪化しました。

日本帝国や総督府が存在したから朝鮮人は日本人に従っていたので、それがなくなりソ連という新たな支配者が来れば、日本人への態度はきついものになります。


それでも朝鮮北部の避難民は満州よりは良く、満州では日本発行通貨の価値が、半年で400分の1になりました。

退職金代わりに現在の価値で数百万円貰った公務員が多かったが、半年後には1万円分の価値しかなくなっていたのです。

朝鮮北部ではそれでも、3割ほどのレートで朝鮮通貨に交換でき、38度線への帰還でも現金が重要な役割を果たしました。


1945年の冬は日本人はソ連収容所に入れられ、飢えと寒さと疫病で多くの人がなくなりました。

最初に列車に乗って楽をして帰りたいと思ったために、もう歩く体力すら失って力尽きた避難民が多かったのでした。

ソ連軍は略奪を繰り返し、銃をぶっ放しては「女を出せ」と言って暴れ、ソ連占領地域に残った女性全員が被害に遭ったと考えられています。


ソ連はわざと衰弱させて反抗できなくする管理方法を取っていたので、男は栄養失調で動けなくなり反抗するものはいなくなりました。

中国人や中国軍の捕まっても同じ事で、男は衰弱させて反抗できなくし、数十万人の女性全員が暴力の対象になりました。

朝鮮北部の冬は北海道程度の寒さなので健康でも歩く事は出来ず、1946年の春になってから、ソ連軍や朝鮮人になけなしの現金や金目の物を渡して、ようやく避難民は38度線を目指しました。

日本政府とソ連と冷戦

実は38度線は完全に閉鎖されていたのではなく、朝鮮人は裏道から南北を自由に往来していて、目先の聞く日本人もこうしたルートで38度線を越えていました。

1946年になると収容所の日本人の多くが飢えと病気で衰弱し、これがアメリカとソ連の冷戦外交に利用されました。

アメリカは散々日本人をいたぶってきたくせに「ソ連は非人道的だ」と善人ヅラして非難し日本人を帰国させるよう圧力をかけた。


ソ連はこれで困ってしまい、もし帰国させたらソ連が日本人に暴行して数十万人も死なせたのがばれてしまいます。

そこでソ連は外交問題にならないようにこっそりと、夜中に日本人を列車に乗せたり歩かせたりして、少しずつ38度線を越えるように仕向けました。

集団ではなく少人数でバラバラに帰還させることで、戦争犯罪が表面化しないようにしたのです。

ソ連は1946年10月19日に日本人帰還を正式に発表したが、すでに取り残された人の97%は脱出するか亡くなった後だった。


1946年6月には満州からの正式引揚げも始まったが、略奪や襲撃にあい、多くの人が帰国できずになくなった後でした。


不可解なのは日本政府で、敗戦前も敗戦後も大陸に取り残された日本人に一切関心を持たず、帰国を要請した形跡も見られません。

どちらかというとアメリカの方が、大陸で日本の影響力が残るのを懸念して帰国させるよう圧力を掛け、渋々日本側が応じたように見えます。


1946年の日本は1000万人が餓死すると総理大臣が訴えたほど深刻な食糧不足で、アメリカは飢えて苦しむ日本人を見て楽しんでいました。

帰国者を受け入れる余裕が無いのも確かだったが、それでも敵前逃亡して逃げてきた関東軍を受け入れて、取り残された在留日本人を放置するのはおかしい。

特に日本帝国が地上の楽園と宣伝して送り出した満蒙開拓団は、ほとんどが中国人やソ連軍に襲撃されてなくなっています。

さらにおかしいのは現在の日本政府の安倍首相に至るまで、こうした中国、台湾やソ連(ロシア)による悪行に対して、抗議した事すらないことです。
http://www.thutmosev.com/archives/72311647.html


44. 中川隆[-6461] koaQ7Jey 2017年9月09日 17:12:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

樺太の敗戦と引揚げ ソ連の略奪で数万人がなくなった

南樺太を占領したソ連軍は、食料・衣類・貴重品など全て日本人から略奪した
引用:http://ironna.jp/file/5a5942a00b98bf04335b9aa2da72bc03.jpg

敗戦後の外地からの帰国

1945年8月15日に日本は戦争停止を宣言したが、敗戦はすべての日本人が一様だった訳ではなかった。

最も幸運だったのは本土の日本人で、日本に帰国する必要もなく、敵から逃げる必要もなかった。

敗戦国になった時に重要なのは「敵」との交渉力で、これが無いと大変な目に遭います。



交渉力は数が多いか力が強いか、敵と取引できる何かを持っているのが重要になります。

最も不幸で悲惨だったのは満州国の辺境地帯で開拓していた満蒙開拓団で、ソ連軍の奇襲と中国人の略奪を受けた。

ソ連は8月8日に対日宣戦布告し翌9日から空爆と地上戦を始めたが、日本軍はこの事を日本人居住者に一切知らせなかった。


なぜかというと戦力を維持するためにまず関東軍が朝鮮南部まで脱出しなくてはならず、住民が居たのでは足手まといになる。

それにこの時日本本土から満州の関東軍には、「敗戦時に在外日本人は帰国させず、現地に永住させろ」という命令が来ていました。

日本本土はじゅうたん爆撃で都市が廃墟になり、食べ物もないので大陸の日本人が帰国したら、食料が不足するからでした。


こうした種々の理由で満州在住日本人全員を置き去りにする事が決定されていたので、何も知らせず軍だけが満州から脱出しました。

ただ当時は家族や子供を満州に呼び寄せて住んでいた軍人が多かったので、動揺を防ぐため軍人の家族だけは脱出させました。

満州に残された日本人は100万人以上だったが、数が非常に多かった事が、この人達の命を救った。

南樺太に残された日本人達

数千人や数万人しか居なかったら、おそらく満州の日本人はソ連と中国に粛清されていた筈だが、100万人では秘密に出来ず、国際問題になった。

米ソ間の取引によって満州の日本人は帰国するのだが、帰国者は4分の3ほどで、4分の1つまり25万人ほどが、戦後にソ連と中国によって粛清や略奪でなくなった。

女性はほぼ全員がソ連兵や中国人の略奪対象になり、これを隠すために戦後「日本軍による従軍慰安婦狩り」を創作した。


朝鮮半島南側、後に韓国になる地域に残った日本人は、アメリカ軍の管理下で帰国できたが、北朝鮮地域に残された人達は、ソ連収容所に入れられて、やはり略奪と暴行を受けた。

満州は当時アメリカが支援する中華民国(台湾)に占領されたので、アメリカの口利きで帰国できたが、ソ連とは米ソ冷戦が始まっていた。

ソ連は日本人に略奪行為を働いたのを隠したがり、このため日本人の帰国を妨害し収容所に隔離した。


10万人ほどの日本兵が流刑地であるシベリアに輸送されて、なくなったとも言われている。

北朝鮮に居た日本人も、戦後数年間を生き延びる事ができたら、追放のような形で歩いて38度線を越え、韓国側にたどり着く事ができた。

ソ連は対面を保つため、衰弱した日本人を返すつもりはなかったので、自力で歩けない人は極寒の収容所でなくなるか、途中で倒れてなくなった。


終戦時に樺太(サハリン)の南半分は日本の領土だったので、ここにも45万人もの日本人(と朝鮮人)が住んでいたとされている。

樺太でもソ連軍は8月9日に攻撃開始したが、2万人の日本軍守備隊に対してソ連軍(1万人程度?)は苦戦し、8月25日にやっと南樺太を占領した。

この日付は重要で、8月15日以降も大本営の命令を無視して守備隊は戦い続け、破れたが約15日間の時間を稼いだ。


ソ連との戦闘が始まってから本土への避難が始まったが、多くの日本人居住者が逃げ遅れてソ連軍に捕捉されました。

終戦前後に大半の朝鮮人は日本に避難したが、終戦後に集計したら4000人ほどの朝鮮人が残っていた。

なお戦後に北朝鮮から労働者として4万人ほどが、樺太に強制移住させられていて、多くの情報で「日本軍が強制連行した」と間違って記録されている。


戦前の樺太は真岡、豊原など賑わっていた
RIMG0159
引用:稚内商工会議所写真展http://hit-u.ac/excursion/06Karafuto/0820/RIMG0159.JPG

置き去りになった朝鮮人達

この15日の苦戦でソ連は北海道上陸作戦が不可能になり、アメリカ軍が先に北海道に上陸する事になった。

戦後北海道が日本のままだったのは、樺太守備隊の命令違反(軍規では極刑)と、ただの偶然の結果に過ぎなかった。

樺太を占領したソ連軍は例によって略奪を働き、日本人の家に銃を乱射しながら押し入って「女出せ!」とロシア語で叫んで暴れまわった。


この時のソ連軍兵士の格好は「日本の浮浪者より貧しい身なり」だったとは、満州や樺太引揚げ者が共通して証言している。

ソ連軍は食料も支給していなかったから、やはり日本人の家を襲撃しては食べ物を奪い「日本人はこんな豪華な物を食べているのか」と目を見張ったという。

終戦末期の樺太の食卓が豪華だった筈が無いが、ソ連軍はそもそも兵士に食料を配給せず、住民から奪えと命令していた。


1945年8月22日には日本人避難民を乗せた帰国船3隻をソ連潜水艦が攻撃し、婦女子ら1700人がなくなっている。

潜水艦攻撃は北海道上陸作戦のための海上封鎖と思われるが、今日に至るまでソ連=ロシアは戦争犯罪を認めていない。

こんな樺太の終戦後だったが、40万人以上と人数が多かったのでソ連も全員を粛清できず、日本人は翌年以降に帰国して行った。


取り残されたのが朝鮮人たちだが、強制連行などではなく、全員が自ら希望して樺太に労働や移住に来ていた。

徴用というのも高額報酬で応募が殺到したほどで、全員が自ら希望して志願したものです。

樺太は寒いので日本帝国は労働者に高額報酬を支給し、報酬に釣られた朝鮮人が自主的に樺太で働いていた。


ここで問題になったのが北朝鮮で、ソ連は北朝鮮の宗主国なので北朝鮮に帰国させようとしました。

北朝鮮行きに応じた人も居たが、「樺太に戻りたい」といって脱出する人が続出し、悲惨な暮らしぶりを手紙で書いてよこしたという。

戦前の樺太と比べてすら北朝鮮は最悪であり、以降北朝鮮への帰国を希望する者はいなくなった。


日本人妻や日本人夫と結婚した朝鮮人は「日本に」続々と帰国していったが、朝鮮人の韓国への帰国は、結局ソ連崩壊まで認められなかった。

ソ連と日本の交渉では帰国が何度も決まりかけたものの、必ず北朝鮮が抗議してソ連が態度を豹変させた。

「朝鮮人の祖国は北なのに、なんで傀儡国家(韓国の事)に出国させるのか」という言い分でした。


これが樺太の韓国人問題で、戦後数千人居たと推測されるが、ほとんどは帰国を果たさずになくなりました。
http://www.thutmosev.com/archives/72487962.html


45. 中川隆[-6460] koaQ7Jey 2017年9月09日 17:19:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (1) [北の街] 2005-10-14
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14
 旭川市から南東(空港から少し東側方向)に向かうと東川町があります。市から外れるとすぐ穏やかな田園が広がっていて車で走っていても心が和む場所です。

 ところが、そこは戦前戦中をとうしてや朝鮮半島から、騙されたり、強制的に連れてこられた人が過酷な労働を強いられて、多くの人が命を落とした所でもあります。その人たちは、ある所では石炭掘り、山林の伐採などをさせられました。

 そしてここでは、田んぼに必要な水を溜めておく遊水池を掘らせれていました。また、それに必要な道路整備やその水を市内に流す放水路作りにも強制的携わらせられたのです。その過酷さは、聞いただけでも見もよだつ思いです。さぞや辛かったろう、さぞや日本人を憎んだろうと思わせます。

 その一つの証言を紹介します。そのTさんは、その当時中学生ぐらいでした、御年77歳になります。学徒動員でその年なりの仕事をしたいたそうで。そのとき見た光景は今でも脳裏から離れずに記憶は鮮明に残っているそうです。

 何があったのか!!その頃は何につけ「兵隊のために」が合言葉のようになっていました。ここは農地ですので当然お米の生産に全力を上げていました。お米には水が欠かせません。それには雄大な大雪から湧き出る水やつき解けで流れる水をどこかで堰き止め、溜めておく必要があります。

 そこで遊水池が必要になったわけです。働き盛りの青年や成人の男どもは戦地に持っていかれていますから、残っているのは一部の兵隊さんと農家の女性と子どもしかいません。そこに、連れてこられたのが中国人や朝鮮人の人たちだったのです。その過酷さは次で紹介します。

このに見える放水路がその一つです
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。 

 どんな戦争でも、領土の奪い合いは民族間の支配関係を露わにします。支配する側は、支配される方を奴隷同様の扱いをし、自らの国家を「神の国」扱いにしたがります。だから、お前らは俺達の言うことを聞けと。

 しかし、歴史を見ても、たとえ一時それが最頂期を迎えたとしても、いずれは廃れます。そこに、また新しい怨念の連鎖が始まるだけなのです。

 3日にわたって、旭川の近郊で起きたことを書きました。是非、戦争の悲惨さを若い人に伝えたくて書きました。今、イラクでも同じようなことが起きています。


中国人殉難裂士慰霊碑                           

忠別発電所

中国人墓地
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理


28. 中川隆[-6461] koaQ7Jey 2017年9月09日 11:42:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

朝鮮人強制動員被害のはなし 過酷なタコ部屋は 11カ所あった - 東川町
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/.../2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf
太平洋戦争前の戦前から戦後にかけて、忠別川流域の東川町内であったといわれる朝鮮人強制労働の実態解明調査を行っている「江卸発電所・忠別川 遊水池・朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る会」(近藤伸生代表)は昨年 10 月、掘る会メンバー6人と、東川町から企画総務課長も同行して慶尚南道に 調査へ行きました。


タコ部屋近くに住んでいた方、仕事 でたこ部屋に出入りしていた方からの 証言では、東川町内 11 カ所、旭川市東 旭川忠別地区遊水池の近く1カ所、東 神楽町3カ所の存在が今までに明らか になっている。およその位置は以下のようだった。

@東9号第一遊水池側(東川の方の証   言)


A東8号第一遊水池の向かい(同)   遊水池工事は、中国人を強制連行し てくる前は朝鮮人が働かされていた。 韓国で聞き取りの中でも当時朝鮮から 動員された方が証言している。


B東6号南(同)   第2頭首工から東川の 第2遊水池に向かう用水 路の一部では朝鮮人が働 かされていた。当時、中国人や朝鮮人がとてもひ もじそうだったので、工 事現場近くの農家の方が 日本人監督の分も含めて かぼちゃ、じゃが芋を蒸 かしたものを鍋に入れて人数分用意し、 そっと差し入れしたこともあった。


C志比内橋のふもと、東川寄り(元忠   別村の方の証言)   鉄条網を周りに張り巡らし、逃亡を 防ぐため囲いの中に犬が放されていた。 複数の方から犬と金網の証言が出てく る。江卸の工事現場から逃げ出した朝 鮮人を探すため、山狩りにはよく犬が 使われていた。

D熊の沢つり橋の手前(東川の方の証   言)


Eピウケナイ取水口の近く=2つたこ   部屋(同)


Fノカナンの沢取水口(同)


G小桧山温泉近く=ノカナンの沢の奥 (同)


H旧江卸発電所放水路の上(札幌市内   在住の方の証言)   学徒動員の学生と発電所技術者用の 小屋、その隣に朝鮮人のたこ部屋があ った。当時現場で学徒動員の学生と朝 鮮人が一緒になることはなかった。


I旧江卸発電所放水路の下(東川の方   の証言)


Jノカナンの沢と忠別川の合流点そば (元忠別村の方の証言)  


ノカナン、ピウケナイから出た土砂 で大きなずり山ができている。忠別湖畔の散策広場から対岸のずり山が見え る。親からは工事でなくなった朝鮮人 もあの中に埋まっていると聞かされた ことがある。  

当時、忠別村には江卸発電所の工事 現場から逃げてきた朝鮮人が何人もい たようだ。戦後、村の中で戦時中のこ とを自由に話せるようになって、初め てかくまって逃がしていた家が何軒もあったことが分かったという。

この村 では、朝鮮人が逃げてきたという密告 は一件もなかった。  

戦後しばらくたってから、

「逃げてきた人にご飯を食べさせ、母親が夜なべしてその人に合うように父親の服を 縫い直して着せて逃がした、というこ とが数回あった」

と親から聞いて当時 の事情を初めて知ったという人もいた。 逃がした朝鮮の人が、戦後お礼にやっ てきたことがあったという。   逃げてきた朝鮮人も、逃がした日本人も命がけの時代だった。  

母親から

「やせてシラミだらけの服 で命ごいをする朝鮮人を見て、『人間 をこんなにまでして』と思うと、とて も警察に突き出すことはできなかった」

と聞かされた。


江卸発電所・忠別川遊水池・朝鮮人強 制連行・動員の歴史を掘る会 代表 近藤伸生 


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北海道で行われた強制労働について 2011年06月19日


 北海道は今やクルマ社会であるといえるが、かつては、鉄道があちこちに張り巡らされて、道路が完全に整備されていなかった昭和30年代頃までは、鉄道が地域住民の足として機能していた。その鉄道建設工事の影には、たいてい強制労働がつきまとっていた。

 ここでは、北海道の強制労働の歴史について触れながら、私が入手した資料と現地で見聞きして得た、強制労働の実態を取り上げるものとする。

 北海道は、明治時代になって本州から移住民による開拓が行われるようになった。だが、未開の地であった為に道路がなかったので、まず囚人を使って道路を敷設する事にした。

 小樽から札幌の北を経て旭川方面に至る道路、旭川から北見峠を越えてオホーツク海の湧別・網走に至る道路、更に網走から標茶を経て釧路に至る道路等は、囚人の手によって造り上げられ、開拓民や屯田兵は、囚人の造り上げた道路を使って奥地を開拓し、入植をしていった。

 また、北海道の森林資源や鉱石・石炭資源が着目されて、鉱山等でも囚人労働が行われ、あらゆる土木工事で囚人労働が行われるようになった。

 ここで、鉄道トンネルに人柱が立てられた石北本線の常紋トンネル付近の鉄道工事がいかに過酷であったか、湧別線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …奔無加上生田原間ハ北見国常呂、紋別両郡境前後ノ深山幽谷ナルヲ以テ分水嶺ニ延長千六百六十余呎ノ隧道ヲ穿チ上リ下リ共四十ノ一乃至五十分ノ一ノ急勾配ヲ設クルモ尚ホ高築堤、深切取ヲ要シタル

此ノ区間ハ密林鬱蒼トシテ昼尚ホ暗ク時ニ猛獣出没スルアリ
人跡未タ至ラス固ヨリ既成道路ノ材料ノ運搬ニ特別ノ考慮ヲ要シ工事施行上困難ヲ極メタリ…

 この強制労働で使われた囚人は、明治政府の方針に反対して捕らえられた政治犯が多かったという。鎖に繋がれて死ぬまで労働をさせるので、死刑よりも過酷であるこの刑には反対の声が上がり、また、土木工事での労働力の不足から、明治中期には囚人労働はなくなった。

 しかし、未開の地であった事から、人を募集しても人が集まらない事は目に見えていたし、途中で脱落者が生ずる事も考えられた。また、公共の職業斡旋の形態ができあがっていなかった事もあり、民間業者が労働力をかき集めてある場所に幽閉し、劣悪な労働環境下で酷使する、いわゆるタコ部屋労働が行われるようになった。

 本州でも、タコ部屋労働はあったが、北海道では未開の地であった等の理由で労働者が敬遠する為に、後々まで行われたのである。

 民間の職業斡旋業者が、騙したり強引に連れ去ったりして確保したタコは、土木業者に引き渡されて、監獄のように鉄格子を窓にはめ込んだ建物に閉じ込められた。

 このように、強制労働は、囚人を使った囚人労働から、騙す等の違法な手段によって集めて働かせたタコ部屋労働へと変貌していったが、これだけでは終わらず、ついに外国人を強制労働に使うようになった。

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

 私は、そのような思いで、鉄道の跡地の探索の時間を削ってでも聞き取り調査を優先している。ここで、私が実際に聞いた目撃談を2つ紹介する。


北海道河西郡更別村 国鉄広尾線鉄道工事現場における事例

 この辺りでもタコ部屋労働が行われ、労働者には朝鮮の人も含まれていた。朝、小学校に通学する際に、仕事場へと向かう労働者(7時位から仕事をしていたらしい)とすれ違っていたが、10月(※当時 現在の十勝地方の11月位の気温に相当か?)なのに衣服は赤い腰巻だけであった。

 この付近の工事は難航し、南4線川になかなか橋を架ける事が出来なかったので、とうとう6人の人柱を立てる事にした。人柱は、橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。また、この付近の工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった。

 広尾線が開通し、戦争もたけなわになって村から多くの男子が兵士として出征していった頃の事、駅長が終列車に老男性が乗っていたのを見たはずなのに実際には乗っていないとか、終列車の後に線路の点検をしながら歩いていると、火の玉を見たり足音を聞いたりしたとか、変な事が立て続けに起こった。

 あまりにもこのような事が続いたので、当時の更別駅長が地元の方々に慰霊碑の建立を依頼してきた。そこで、ささやかな祠を建立したところ、このような事はなくなった…。


北海道宗谷郡猿払村 旧軍浅茅野飛行場建設工事現場における事例

 当時は重機もないので、飛行場の滑走路は人の手で土を運んで均していった。この作業は真冬でも除雪しながら行われたが、彼らの服装は、むしろ(?)を体に巻きつけただけで、裸足(?)のままで作業を行った。

 滑走路は複数用意しようとしたらしく、滑走路が1本完成したのに続いてもう1本着工したが、完成までには至らなかった。

 今回聞き出した事例は、暴行の事例ではなかったものの、季節に関係なく服装が粗末であった点が共通している事から、タコ部屋労働は劣悪な環境であった事がうかがえる。実際、雨竜ダム建設工事を始めとするタコ部屋労働における犠牲者の死亡原因は、ビタミン不足が原因で起こる脚気が多かったらしい。

 空知民衆史講座のパンフレットによれば、胆振縦貫鉄道(→国鉄胆振線)建設工事では、温泉がある大滝村北湯沢の熱湯の湧き出すトンネル工事で1時間に50人の朝鮮人労働者の突入を繰り返した事例があったそうだ。

 「人柱」の事例は、科学が発達していなかった迷信や神仏が信じられていた時代ならともかく、人類が空を飛ぶ20世紀になって「人柱」がまかり通っていた事実は信じ難い。

 人柱に関する情報として、国鉄瀬棚線の建設工事では、花石〜北住吉間の鉄橋(一説には、第一白川橋梁)に人柱が埋められたという噂がまことしやかにささやかれているが、既に撤去された今となっては、確認のしようがない。

 また、前出のパンフレットによれば、自衛隊の矢臼別演習場の前身である陸軍種馬場建設工事で、朝鮮人労働者を人柱にした等の残虐な行為があったらしいし、北海道雨竜郡幌加内町の雨竜ダム建設工事では、コンクリートに埋め込まれた人もいるとの証言がある。

 さて、住民から国鉄広尾線建設工事のタコ部屋労働の事例をとりあげてみたが、広尾線建設概要では当該工事現場を含めて全ての工区で犠牲者が出たとか工事が難航した事は書かれていない。という事は、故意にとりあげなかったのではなかろうか? ここで、タコ部屋労働が行なわれた国鉄瀬棚線の鉄道建設工事について、瀬棚線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …国縫起点自三一粁五○○米至三二粁,自三五粁七○○米至三六粁三○○米,自三六粁六七○米至四五粁二○○米附近の場所は何れも泥炭地帯にして築堤の沈下を見又三三粁○五○米附近の切取箇所は流水甚しく工事の進捗を阻ぐるものがあつた

殊に大正一五年一一月一四日本線二粁四○○米附近の切取に於て又同年一二月十二日五粁八○○米附近用地外土取場に於て更に昭和二年四月十二日二粁三○○米附近用地外裏込石採集場に於て何れも岩石崩壊し之が為め前後三日を通じ人夫三名の死者と重傷者二名を出した事は昭和五年九月四日二五粁五七○米附近「下ハカイマツプ」川橋梁四○呎四連の架渡工事中桁転落の為め職員一名即死人夫二名の重軽傷者を出した事と共に本線建設工事の一大犠牲であつた…

 この文書を単純に読むだけでは、鉄道工事が容易ではなかった事しか読み取れないだろうが、瀬棚線の工事現場は凄惨を極めた。

 昭和50年代後半から本格的に始まった国鉄赤字ローカル線の整理に対して、瀬棚線を守る住民会議が設立された際に、住民会議の事務局の仕事をしていた方がタコ部屋労働に関する噂を聞きつけ、工事に従事したり工事に関係した人達を探し出して、当時棒頭をしていた方からやっと聞き出す事ができた工事の実態は、ひどいものであった。

 何でも、1号トロに3分間で1.5リューベ積みこむ、今の10倍位の労働であったそうで、少しでも遅れれば殴られた。また、労働時間は06時から18時までという名目であったが、実際には03時から始められたそうだ。

 また、逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれたと確信している。

 また、工事の際には人柱もあちこちに立てられたと思っている。人柱が立てられるようになった歴史的経緯を考えると、鉄道工事では地形の険しい箇所の長大トンネル工事や主要橋梁に人柱が立てられたのではなかろうか。

 過去に自分が体験した事が余りにも荷が重過ぎるかも知れないし、タコは親不孝者や怠け者の成れの果てと教え込まれて無意識のうちにタコの話をしたくない方もいるかも知れない。タコ部屋労働が過ちであったと思う気持ちが少しでもあれば、今からでも遅くはない。誰かに伝えるべきである。

 過ちを過ちと認めないのは愚かな事であり、同じ人間なのに人格を否定されてタコとしてむごい最期を遂げられた労働者がいつまでも浮かばれない。もし、今からでも歴史の過ちを後世に伝える気持ちがあったら、情報をお願いします。

 ささいな情報でも構いません。あなた自身若しくはあなたの先祖が見た光景が、歴史の重要な証言となります。

 最近、後世に「負の歴史」を伝える行為を「自虐的」であるとする風潮があるようだが、私は決してそのように思わない。

 人間は高度な知識と知恵を有する動物だが、人間がとる行動は全て正しい訳ではない。長い間生きていれば失敗する事も必ずある。過去の失敗を振り返って反省する行為は、人間がより賢くなろうとする純粋な行為であり、決して恥ずべき行為ではないと確信している。
http://blog.goo.ne.jp/80k700/e/0285e5b12f4510db384f391e977c8287


北海道中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭in旭川


2016年7月7日、北海道旭川上川郡東川町東14号共同墓地で、第44回中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭が行われました。

資料: 中国人強制労働による殉死の墓

戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。

1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。

うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。

戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。

しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。

残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。

こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。

戦後、多くの人々や心ある人達によって何回かの大法要がおこなわれ、特に東川町はこうした行事にも力を入れまして、昭和47年7月7日、旭川市の日中友好協会の方々と共に「中国人強制連行事件殉難慰霊石碑」を除幕するに いたったのであります。

そして遊水地は今もなお東川町、旭川市に及ぶ美田をうるおし、農産業に多くの貢献をにない、日中の友情と平和のちぎりをむすんでいるのであります。
http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494


46. 中川隆[-6335] koaQ7Jey 2017年9月22日 06:05:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中国の90年代生まれの若者、日本軍側の戦争史料を基に日本軍の暴行を暴露―中国メディア
http://www.recordchina.co.jp/b191129-s10-c10.html
2017年9月20日(水) 21時20分


江紫辰さんは1994年に中国で生まれ、今年の9月に「中国を侵略した日本第6師団の南京戦役及びその暴行に関する実録」という自身初の書籍を出版した。

出版を担当した中国重慶出版社の劉嘉主任は、「これまで出版されてきた抗日戦争の歴史を研究する書籍のほとんどは中国軍の史料を使用し、中国人の視点から抗日戦争を見るものであったが、これに対し、江さんが日本軍の戦争史料を大量に収集し、日本軍史料の角度から日本軍の暴行を暴露したことは、抗日戦争史の研究における空白部分を埋めたといえる」と語った。

▽日本軍の戦争史料で日本軍の暴行を暴露

2009年、当時15歳の江さんはテレビで中国の抗日戦争を語るドキュメンタリーを偶然見て、その見知らぬ戦争や人物に好奇心を持った。彼は一年かけて中国の抗日史料を大量に読み込んだあと、友達に頼んで日本軍の戦争史料を収集・購買し始めた。江さんを激しく憤らせたのは、一部の日本軍の戦争史料が侵略戦争を美化して南京大虐殺の事実を歪曲していたことだ。

1937年の南京戦役の期間中、2万人以上の日本第6師団(熊本師団とも呼ばれる)は谷寿夫団長の許可の下で、南京の数十万人の市民を虐殺した。日本の降伏後、乙級戦犯として南京で裁判を受け銃殺刑に処された谷寿夫だが、1960年代に日本が出版した「熊本兵団戦史」という本の第二巻「熊本兵団戦史―支那事変」は、第6師団や谷寿夫団長が無罪だと指摘した。

南京大虐殺について詳細かつ正確に記録した『揚子江が哭いている ―熊本第六師団大陸出兵の記録』という本で、第6師団第13連隊の真田一介は、「日本軍は南京城を攻め始めてから占領するまで、ほとんど毎日城内外で虐殺をしていた。虐殺とは、すべての住宅を漏らすことなく燃やし、すべての市民を殺すということだ」と回想している。

▽抗日戦争をミクロな視点から考える

江さんがこれらの史料を研究する際に、日本軍の死亡者数を少なめにすることで、日本軍による虐殺の真相を隠し、中国軍の抗日戦争の成果を否定する史料も存在していることに気づいた。

靖国神社が提供する戦没リストを記載している『第47師団史』という本では、第47師団の403人が戦没したとされているが、『弾部隊戦記』という本にある日本軍の兵士が整理して保存したリストによると、第47師団の131連隊だけで625人が戦死した。江さんは、「連隊の死亡者数が師団よりも多いため、靖国神社のデータが明らかに捏造したものだと見られる」としている。

一方、中国軍人が抗日戦争に現れた勇ましい姿に、日本軍さえも感服したという資料もある。『南京作戦の真相―熊本第六師団戦記』には、日本軍は南京戦役後に戦没した中国軍人のために墓碑を立て、さらに、坂井徳太郎が、「敵ではあったが、祖国を守るために戦没した人を尊敬すべきだ」と語ったと記されている。

劉嘉氏は、これまでの抗戦史料では連隊に関するものが不足していたが、江さんが収集した史料は抗日戦争をミクロな視点から考えることを可能にしたと語った。

▽抗日戦争に参加した中国軍人の勇ましさを覚えてもらいたい

2015年、当時21歳だった江さんは友達の呉さんと共に、南京防衛戦に関する本を完成させたが、結局50社ほどの出版社に断られた。ネットユーザーは、「書いた以上は、ほかの中国人に伝えるべきだ。断られても何の損もない。出版される日が必ず来る」と彼らに励ましのコメントを寄せた。

その後、五カ月を経て、32万字の「中国を侵略した日本第6師団の南京戦役及びその暴行に関する実録」が出版された。多くの民間の抗戦史研究者と接触した経験のある劉嘉氏が、この本に隠れた価値を見出した。それは、日本軍の戦争史料を用いて、南京大虐殺への日本右翼勢力の否定を反撃することが、非常に説得力があるということだ。

現在、淞滬会戦と百団大戦の歴史に関して最も全面的に研究された本を出版し、中国人に中国軍人の勇ましい姿を覚えてもらうという大きな夢を抱いている江さん(23)は、数カ月後、「南京防衛戦全史」を出版する予定だ。これで彼は夢に向かって一歩近づくことができたといえる。(提供/人民網日本語版・編集HQ)


47. 中川隆[-5869] koaQ7Jey 2018年1月23日 11:23:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

731部隊の真実  〜エリート医学者と人体実験〜
NHKスペシャル 2017年8月13日 170813 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=731%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F+%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%A8%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93%EF%BD%9E


731部隊の真実 〜エリート医学者と人体実験〜

初回放送

総合 2017年8月13日(日)
午後9時00分〜9時49分

戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。部隊が証拠を徹底的に隠滅、元隊員が固く口を閉ざしたため、その実像を知る手がかりは限られてきた。

今回NHKは、終戦直後、旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録を発掘。20時間を越える記録では、部隊中枢メンバーが、国防や国益のためとして細菌兵器を開発した実態、そして旧満州で日本に反発していた中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、細菌兵器開発の「実験材料」として扱っていた実態を、克明に語っていた。

さらに、元隊員の資料や当時の学術界の膨大な記録からは、軍だけでなく学術界からも多くの研究者が部隊に参加していた実態が浮かび上がってきた。満州事変以降、学術界が軍と関係を深めていった過程、そして日本軍が旧満州で反発する人々を死刑にすることについて世論の支持が高まる中で「死刑囚」を研究に活用する動きが相次いでいた実態も明らかになってきた。

731部隊はどのようにして生まれ、そして医学者たちは、どう関与していったのか。数百点にのぼる資料をもとに、731部隊設立の謎に迫る。


____


BS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔
2018.01.21 by Kenhasejp - Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x6dhev7
http://www.dailymotion.com/video/x6dhg47


unit731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BUJsksb6b34

凍傷実験(黒い太陽) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wJJ2en75guk

映画 731部隊 黒い太陽731 悪魔の飽食:復号731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c3aL9XqmvHw


48. 中川隆[-5868] koaQ7Jey 2018年1月23日 11:24:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

731部隊の真実 前編
生理学的実験
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html

731部隊では、凍傷実験、ガス壊疽実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた[29]。

731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。 「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄リました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました[30]。」

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった[31]。」

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている[32]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった[33]。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね[34]。」と語っている。


細菌爆弾の効果測定

731部隊では、単なる生物兵器に留まらず、ペスト菌や炭疽菌を砲弾や爆弾に詰め、大砲や飛行機で都市に散布するための研究が行われた。731部隊は、細菌爆弾や砲弾の改良や性能を調べるための屋外実験場を安達に持っていた。マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化したことが資料や証言で明らかになっている[35]。731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている[36]。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10〜20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという[37]。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された[38]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している[39]。


「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)

覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)

「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。

そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた物、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」


--- 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店、94-97頁 ---
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html

731部隊の真実 後編 
性病実験と女性マルタ
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html

また731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった[40]。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した[41]。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医大学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものと考えられている[42]。

元731部隊員の胡桃沢正邦は、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように証言している。


(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」

(胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、45-46頁 ---

手術演習[編集]

中国大陸の陸軍病院で幅広く行われていたという「手術演習」という名の生体解剖も、731部隊で頻繁に行われていたと考えられている。拡大を続ける中国戦線において、傷病兵を素早く治療して戦場に送り返すためには軍医が外科手術の腕をあげる必要があり、そのために中国人の生体解剖が頻繁に行われたのである。

731部隊員ではなかったが、軍医として中国に滞在した3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖して殺したという湯浅謙は、最初に経験した手術演習の様子を次のように語っている。


「手術演習は外科医を速成させるための練習だった。今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。集まっていたのは、軍医、衛生兵そして看護婦だった。(中略)1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。部屋の中には手術刀、ノコギリそれにメスなどがあり、自分の運命は分かっていた。彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内臓を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は、「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと私を見たのだった[43]。」


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、99頁 ---

なお、731部隊との関連性が疑われている、1989年に7月東京都新宿区戸山で発見された大量の人骨には、四肢が様々な位置で切断された形跡が残っている。11個の頭蓋骨と長骨のほとんどには、鋸で引いた跡やドリルで穴を開けた跡があった。頭蓋骨には銃撃されたものがあり、鋭利な刃物で刺された頭蓋骨も1つあった[44]。

そして1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果により、人骨について次のような事実が明らかになっている。


1. 人骨は100体分以上のものである。

2. 人骨は一例を除き人種的にはモンゴロイド(アジア系の人種)だが、単一の人種からなるものではない。

3. 10数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡がある。

4. いくつかの頭蓋骨その他には、拳銃で打ち抜かれた孔や刀で切られた跡が残っている。

5. 骨が現地に埋められたのは1890年〜1940年頃までの間である。

6. 人骨は四股の骨の多くは何ヶ所かで切断された形跡がある。


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、107頁 ---

以上の理由から常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している[45]。
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html

731部隊に関与した医師・医学関係者     作成者:小俣和一郎
https://web.archive.org/web/20150807215132/http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm
 

氏名(生没年)・出身地・卒業校(卒業年)・職歴・勤務地・地位・最終階級・戦後履歴

*顔写真あり

 

1.石井四郎(1892[3?]−1959)Ishii Shiro *

千葉県(千代田村加茂)・京大医学部卒(1920)・陸軍軍医・1930陸軍軍医学校教官・1932東郷部隊長(背陰河)・石井部隊(のち731部隊)長・軍医中将・1939ノモンハンで細菌戦指揮・1940寧波細菌戦(ペスト菌散布)指揮/記録映画撮影・1942チェーガン細菌戦(ペストノミ散布)指揮・1945/731部隊長(再任)/対ソ細菌戦準備・1945平房から逃走(大連より帰国?)・1946初頭に尋問(A.T.トンプソン獣医中佐)・1947年5月以降に再尋問(フェル、ヒル)・東一で癌死(喉頭癌、67歳)

2.北野政次(−1986)Kitano Masaji *

東大医学部卒(1920)・陸軍軍医・軍医学校教官・満州医科大学教授(細菌学/瀋陽1936−42)・731部隊長(1942・8−1945・3)・上海派遣軍軍医部長・軍医中将・1945上海で中国軍捕虜・1946上海から帰国(脱獄?)・日本ブラッドバンク東京支部長(のちミドリ十字役員)・「防疫秘話」ほか(日医新報)執筆・日本学術会議第一期南極特別委員


3.梶塚隆二(1888−)Kajitsuka Ryuuji

田尻市・東京大学医学部卒(1914)・東一勤務・陸軍省医務局衛生課長・関東軍軍医部長(1939−45)・細菌爆弾の実験・軍医中将・ハバロフスク裁判被告・1956帰国

4.増田知貞(1901−52)Masuda Tomosada *

石川県金沢市・京大医学部卒(1926)・陸軍軍医学校防疫研究室・多摩部隊(南京1644部隊)長(1939‐45)・軍医大佐・千葉で開業まもなく交通事故死(頭部外傷)

5.内藤良一(―1982[1?])Naito Ryouichi *

1931京大医学部卒・陸軍軍医学校防疫研究室・1937−39ドイツ・アメリカへ派遣・1939輸血用血液の凍結乾燥を実用化(国産第一号の凍結真空乾燥機製造)・南方軍防疫給水部設立・軍医中佐・GHQと取引き(サンダース通訳)・(株)日本ブラッドバンク社長(1950)・1977勲三等旭日中綬章

6.北条円了(1894‐)Houjou *

防疫研究室・1933東郷部隊・1941ベルリン大使館付・1945年6月20日米軍に逮捕・軍医大佐・

7.西村英二()Nishimura Eiji


8.金子順一()Kaneko Junnichi

東大卒・伝研・東郷部隊・東芝生物理化学研・軍医少佐・1947フェルにより尋問

9.北川正隆(−1943)Kitagawa Masataka

731部隊第二部長・南方軍防疫給水部隊初代部長・軍医大佐・1943年5月飛行機事故死

10.朝比奈正二郎 ()Asahina Seijirou

731部隊昆虫班・戦後予研(昆虫部長)

11.梅沢浜夫 ()Umesawa Hamao

予研

12.所安夫 ()Tokoro Yasuo

東大助手・軍医中尉・1943/731部隊(石川の後任)・診療部・帝京大教授

13.白川初太郎()Shirakawa Hatsutaro

軍医学校防疫研究室・

14.高橋正彦()Tkahashi Masahiko

731部隊・軍医少佐/731部隊第一部(ペスト菌)・戦後千葉県茂原市で開業

15.永山太郎()Nagayama Taro

731部隊診療部長・軍医大佐

16.園田三郎()Sonoda Saburo

731部隊教育部長・1942

17.園田太郎()Sonoda Taro

軍医少佐/731部隊病理

18.川島清(1893-)Kawashima Kiyoshi

千葉県(山武郡)・1934東郷部隊・731部隊第四部長(1941−43)・ハバロフスク裁判被告・1956帰国、千葉県八街市少年院医師

19.柄沢十三夫(1911‐1956)Karasawa Tomio

長野県(豊里)・東京医学専門学校・軍医学校・731部隊第四部第一課長(川島の部下)・安達の野外人体実験(炭疸菌/1943)・ハバロフスク裁判被告(禁固20年)・軍医少佐・1956年11月自殺(帰国直前)

20.貴宝院秋雄()

京都府立医大講師・防疫研究室・1939/731部隊・1942南方軍防疫給水部(シンガポール)・結核菌研究・京都微生物研

21.三谷幸雄()

731部隊第四部第二課長(乾燥菌の製造)・軍医少佐

22.降旗武臣()Orihata Takeomi

軍医少佐・731部隊第一部(ペスト菌)

23.佐々木義孝()Sasaki Yositaka

軍医中佐・孫呉支部長(1940−43)・

24.榊原秀夫(1908-)Sakakibara Hideo *

1934岡山医大卒・1940軍医学校入学・1941漢口第11軍軍医・1942チャムス代10師団防疫給水部長・1944林口支部長・軍医少佐・1956年中国で裁判・1957年釈放帰国、山口県内の総合病院勤務医

25.秦正氏()Hata Masaujji

千葉医科大学卒・1941第28師団軍医・1944/731部隊総務部翻訳班長・軍医中尉・1951逮捕・1956中国人民法廷被告・

26.西俊英(1904-)Nishi Toshihide

鹿児島県・北京防疫給水部・1944年731部隊教育部長・1943年孫呉支部長兼任・軍医中佐・ハバロフスク裁判被告・世田谷区で開業

27.尾上正男(1910-)Ogami Masao

鹿児島県・1943牡丹江支部長・軍医少佐・ハバロフスク裁判被告

28.加藤恒則()Kato Tsunenori

ハイラル支部長・軍医少佐

29.安東洪次()Andou Kouji *

大連衛生研究所長・1939/731部隊大連支部長(二等技師)・1947帰国・東大教授(伝研)・日本モンキーセンター所長

30.菊池斉()Kikuchi Hitosi

731部隊第一部(研究部)長・軍医少将・1947尋問(N.H.フェル)

31.荻原

大連

32.碇常重()Ikari Tsunesige

731部隊第二部(実験部)長・軍医大佐・ノモンハン細菌戦(1939)決死隊長・1947尋問(フェル)

33.太田澄()Oota Kiyosi *

岡山大学医学部卒・731部隊総務部(第四部)長・南京1644部隊長・1941常徳細菌戦指揮官・1943再び常徳細菌戦(コレラ)指揮・軍医大佐・1947尋問(フェル)・山口県で開業・自殺

34.村上隆()Murakami Takasi

軍医大佐・ノモンハン細菌戦・1947尋問(フェル)

35.佐藤俊二(1896-)Sato Shunnji

愛知県(豊橋市)・医科大学卒(1923)・軍医学校防疫研究室・関東軍第五軍医部長・軍医少将・ハバロフスク裁判被告・1956年帰国

36.羽山良雄()Hayama Yoshio

南方軍防疫給水部隊長(1943−45)・軍医少将・

37.目黒 正彦()Meguro Masahiko *

軍医少佐、大連衛生研

38.山下 昇()Yamasita Noboru

曹長・1952中国で供述書

39.山口 省一()Yamguchi Shouichi

軍医大佐・初代林口支部長

40.荒瀬 清一()Arase Seiichi

軍医少佐・第二代林口支部長

41.藤野 恒三郎()Fujino Kouzaburo

南方軍給水部・技師・阪大教授(生物学研)

42.小林栄三()Kobayashi Eizou

軍医中尉・

42.安東清()Andou Kiyoshi

慶応助手・軍医中尉・慶応助教授

43.三井但夫()

多摩部隊・慶応大助教授・予研検定部長

44.湊正男()Minato Masao

京大医学部卒(1935)・平房731部隊コレラ班長・奉天/鉄西捕虜収容所でも人体実験

45.石川太刀雄丸(?−1973)Isikawa Tachiomaru *

京大講師(清野の弟子)・1938/731部隊六等技師・1943帰国(840の剖検標本を持参)・金沢医大教授(病理)・同大医学部長・日本ブラッドバンク企業株主

46.田名部(田部井?)和()Tanabu Nagomu

京大助教授(細菌学)・731部隊・1945帰国・兵庫医大教授

47.吉村寿人(1907−90)Yshimura Hisato(Toshinndo?)*

1930京大医学部卒・京大講師(1936、生理学)・731部隊凍傷研究班長(1938)・1945帰国・1950−52英文日本生理学会誌に論文発表・日本学術会議南極特別委員会委員・生気象学会長・1967京都府立医大学長・1972兵庫医大教授・1980神戸女子大教授/1978勲三等旭日中授賞

48.二木秀雄()Futaki Hideo

731部隊六等技師・結核班長・金沢医大(細菌学)・戦後日本ブラッドバンク

49.渡辺辺(‐1940)Watanabe Hotori

熊本医専卒・京大・731部隊第四部長・二等技師(コレラ)・1940年10月新京ペスト作戦中オートバイ事故死

50.渡辺廉()Watanabe

陸軍一等軍医・東郷部隊・

51.岡本耕造()Okamoto Kouzou *

京大助手(病理)・731部隊コレラ・ブルセラ・ペスト・近畿大学医学部長・兵庫医大教授

52.林一郎()Hayashi Ichiro

京大助手(病理)・731部隊・自主的に帰国・京大講師・長崎医大教授

53.斉藤幸一郎()Saito Koichiro

京大助手(生理)・1938/731部隊・1941帰国・山口医専教授・長崎医大教授

54.石野琢次郎()Ishino Takujiro

京大(外科)・石川の協力のもと肝切除実験・戦後医学部同窓会誌『芝蘭』第79号に回想文(1977)

55.池田苗夫(1902−90)Ikeda,

1929新潟医大卒・1940/731部隊・軍医中佐(流行性出血熱で人体実験)・戦後(1958)大阪で開業(皮膚科・性病科)・日本伝染病学会誌に1942当時の記録を発表(1967/68)

56.田中英雄 ()Tanaka Hideo *

京大講師(医動物)・731部隊(昆虫研究、ペスト蚤増産)・大阪医専・大阪市大医学部長

57.田中巌 ()Tanaka Iwao

軍医大佐・広東波部隊長

58.岡田啓(−1945)Okada Hiraku

東大医学部卒・社会主義者(クリスチャン)・増田の義弟・伝研・1945自殺

59.宮川米次()Miyagawa Yoneji

北京・伝研教授(細菌学)・公職追放・東芝生物物理化学研究所長

60.神林浩()Kanbayasi Hirosi

陸軍省医務局長・軍医中将

61.小泉親彦 (―1945)Koizumi Chikahiko *

近衛師団軍医部長・1933陸軍軍医学校長・1934陸軍省医務局長(軍医総監)・1941第三次近衛内閣+東条内閣厚生大臣・1945自殺

62.小島三郎()Kojima Saburo *

1935伝研教授・1941+1944多摩部隊・1947ヒルによる尋問・1954予研第二代所長(1954−)

63.福見秀雄()Fukumi Hideo

多摩部隊(1944)・予研所長(インフルエンザワクチン禍)・長崎大学学長

64.細谷省吾()Hosoya Shougo

東大医学部卒・1936台北大医学部教授・破傷風トキソイドの人体実験・1937軍医少尉・東大伝研教授・朝日賞受賞

65.柳沢謙()Yanagisawa Yuzuru

東大伝研・内藤とともに凍結乾燥BCGの研究に人体実験・予研第五代所長・朝日賞受賞

66.笠原四郎()Kasahara Shiro

北里研究所員・1939/731部隊(六等技師)・北研副所長・都立豊島病院

67.宮川正

東大・731部隊レントゲン班長・東大教授・

68.谷口腆二()Taniguchi

東大卒・防疫研究室嘱託・大阪大学・デング熱・浅川賞受賞・阪大微研観音寺研究所長・第二期日本学術会議会員

69.小林六造()Kobayashi Rokuzo

慶応大学(北研所員兼務)・予研初代所長

70.小酒井望()Kozakai Nozomu

防疫研究室・軍医中尉・順天堂大学付属病院長

71.石光薫()Ishii Kaoru

東大卒・技師・731部隊(破傷風菌人体実験)

72.村田良介()Murata Ryosuke

南京多摩部隊・予研所長

73.有田正義

軍医少佐・731部隊第三部(ワクチン開発)

74.内野仙治(?−1957)

京大教授(生化学)・防疫研究室嘱託・名古屋市大学長

75.上田正明

赤痢菌

76.上田弥太郎()Ueda

1938陸軍入隊・承徳陸軍病院衛生兵・1941/731部隊・1943離隊・1956人民法廷被告・

77.浜田豊博

78.山之内裕次郎

731部隊(ブルセラ)・ヒル+ヴィクター尋問

79.早川清()Hayakawa Kiyosi

731部隊(ツツガムシ)・南方軍・軍医少佐・早川予防衛生研究所開業

80.鈴木啓之()Suzuki

731部隊・軍医中佐

81.清野謙次()Kiyono Kennji

京大教授(病理学)・京都の古寺から骨董品を窃盗・辞任

82.木村廉 ()Kimura

京大教授(細菌学)・京大名誉教授(内藤の恩師)・名市大学長・日本学術会議会員

83.戸田正三(1885−19 )Toda Shouzo

京大教授(衛生学)・金沢大学学長(1949−61)・日本学士院会員・日本学術会議第一期南極特別委員

84.正路倫之助(1886−1962)Masamichi Rinnnosuke

京大教授(生理学)・兵庫県立医大学長・日本学術会議会員

85.緒方富雄(1901−)Ogata Tomio

東大助教授(伝研・病理)・陸軍嘱託・秋元を派遣・東大教授(学生部長)

86.緒方規雄

87.木下良順(1893−)Kinosita

阪大教授(病理)・六研嘱託

88.波多野輔久(1898−)Hatano

熊本医大教授(病理)・七研嘱託

89.田崎一二(1910−)Tazaki Kazuji

陸軍技研嘱託

90.田宮猛雄()Tmiya Takeo

東大・北京・伝研所長・東大医学部長・国立ガンセンター総長・日本医師会長

91.中山英司(1904−)Nakayama Eiji

京大講師(解剖)・陸軍省嘱託

92.青木義勇(1905−)Aoki

長崎大名誉教授

93.篠田統()Shinoda Osamu

京大理学部(昆虫学者)・北京・大阪教育大教授(−1965)

94.秋元寿恵夫()Akimoto Sueo

731部隊秋元班(血清)・1945帰国・秋元波留夫の実弟

95.井口昌夫(1904−)Iguchi Masao

慶応助手(細菌学)・軍医学校嘱託

96.大林静男(1911−)Oobayashi Shizuo

慶応助手(細菌学)・陸軍嘱託

97.小林栄三(1901−)Kobayashi Eizo

慶応助教授(細菌学)・軍医学校嘱託

98.田辺操 (1895−)Tanabe Misao

京城大助教授・軍医学校嘱託

99.田村乙一(1900−)Tamura

軍医学校嘱託

100.谷友次(1896−)Tani

金沢医大講師・軍医学校嘱託

101.遠藤雄三(1912−)Endou Yuuzou

慶応助手

102.阿部俊男()Abe Toshio

伝研・新京衛生技術廠長

103.井田清()Ida Kiyosi

伝研・100部隊技師

104.野星隆一

105.菅原敏()Sugawara

106.遠藤武()Endo Takesi

107.中井俊夫() Nakai Toshio

108.井沢馨()Izawa Kaoru

109.村田礼二()Murata Reiji

110.佐藤清()Sato Kiyoshi

111.竹脇潔()Takewaki Kiyoshi

112.大月明(1910−)Ootsuki Akira

京大助教授・大阪市立医専教授(細菌学)

113.宮内正広()Miyauchi Masahiro

114.長谷川昇()Hasegawa Noboru

115.江口豊潔()Eguchi

陸軍軍医学校防疫学教室・一等軍医・神奈川県で開業

116.井上隆朝()Inoue

117.勝矢俊一()Katsuya

118.小嘉多晴雄

防疫研究室嘱託

119.山内豊紀()

1938防疫研究室技師・731部隊(渡辺辺の助手)・戦後に囚人暴動事件を証言

120.永井寅男(1914−)Nagai Torao

北大助手(生理学)・軍医学校嘱託

121.安部英(1916−)Abe Takesi *

東大医学部卒・海軍軍医学校・内藤と関係・帝京大副学長・薬害エイズ事件被告

122.作山元治 ()Sakuyama Motoharu

軍医少佐・防研

123.津山義文 ()Tsuyama Yoshifumi

1943−45軍医学校・

124.浅沼靖 ()Asanuma Yasushi

1942−43・731・伝研(田宮の部下)

125.土屋毅 ()Tsychiya Tsuyoshi

南京・順天堂名誉教授

126.山田秀一 ()Yamada Shuuichi

大連・熊本大教授・横浜市衛生局長

127.山中太木 ()Yamanaka Motoki

南京・大阪医科大学長・日本微生物学会長(1974)

128.川上善 ()Kawakami

京大・満州で死亡

129.近喰秀大 ()Konjiki

南京(1644)

130.秋貞

満州医大・731(赤痢)

131.内海 ()Utsumi

731部隊(血清)

132.江島真平 ()Ejima Shinpei

731部隊(赤痢)・国立予研

 

(以下、非医師)

133.天辰良道()

長崎薬専・薬剤中佐

134.川島三徳()

東大・薬剤大尉

135.増田美保()Masuda

東京薬専/薬剤少佐・石井の親類・自衛隊勤務

136.増田美積()Masuda *

731部隊航空班長・細菌散布

137.大谷()

731部隊資材部長・薬剤少将・

138.草味正夫()Kusami Masao

薬剤中佐・昭和薬科大教授

139.山口忠重(山納?)

金沢医大・1939・731部隊/薬剤大尉・1940薬剤少佐・南京1644へ/興和化学東京研究所長

140.若松有次郎()Wakamatsu Yujiro

獣医少将・1941/100部隊長(関東軍軍馬防疫廠)・1945帰国・

141.高橋隆篤(1888‐1952)

秋田県・東大農学部卒(1928)・1935関東軍獣医部長・100部隊を監督・軍医中将・ハバロフスク被告・1952年夏脳出血死

142.平櫻全作(1916-)

石川県金沢市・獣医中尉・100部隊員・ハバロフスク裁判被告・

143.八木沢行[和?]正()Yagisawa Kazumasa *

北大理学部(植物学)・戦後日本ペニシリン協会事務長・国立予研

144.朴沢三二()Hoozawa Sanji

東北大学(昆虫学)

145.加藤陸奥雄()Kato Mutsuo

東北大(昆虫学)・東北大学長

146.栗原義雄

東郷部隊雇員

147.田村良雄(旧姓・篠塚)(1923−)

1939・731部隊少年隊員/1941雇員(第四部)/1952中国で拘束

148.山下昇

149.熊沢治郎吉

東京工業試験所第三部長

150.河島千尋

東京工業試験所(珪藻土)・東京工業大学教授

151.安川隆()Yasukawa

水産講習所・食品衛生・水産大学長(?)

152.竹田宮 Takeda

昭和天皇の従兄弟(明治天皇の孫の一人)・関東軍司令部作戦部副長・石井部隊担当・中佐・戦後は竹田恒徳として日本スケート連盟会長・1962日本オリンピック委員会長

153.石井剛夫

石井四郎の実兄・731部隊構内監獄監督者

154.石井三男

石井四郎の実兄・731部隊動物舎管理

155.荻原英夫

156.荻原周夫

航空班操縦士、細菌爆弾の投下

157.在田勉

158.三友一男(1924-)

埼玉県・農業学校卒・100部隊員・ハバロフスク裁判被告・

159.菊池則光(1922-)

愛媛県・農業学校卒・643部隊衛生兵・ハバロフスク裁判被告

160.久留島祐司 (1923-)

香川県・162部隊衛生兵・ハバロフスク裁判被告・

161.森三吾

162.堀口正雄

163.高木貞次郎

164.成井昇

166.高見忠男

167.津田玄郎

168.山下正

731部隊カメラマン

169.胡桃沢正邦

731部隊解剖助手

170.石橋直方

 

171.上園直二

731部隊総務部印刷班

172.山田乙三 (1882?−1965)Yamada Otozou

1939日本軍教育総監・関東軍司令官(1944−45)・ハバロフスク裁判被告・

173

 

174.保利信明

海軍軍医中将

175.山本本治

100部隊・獣医

 

 

*1945年8月撤退時731部隊の博士号をもつ医官は53名いた。731部隊の最大人員数は約3900人(支部含め)といわれ、陸軍防疫給水部隊の総数は約5千人といわれる。
https://web.archive.org/web/20150807215132/http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm
 


49. 中川隆[-11069] koaQ7Jey 2018年4月23日 07:52:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11947]

日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html



50. 中川隆[-13809] koaQ7Jey 2018年8月14日 11:19:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17872] 報告

北大教授、戦時下に人体実験 中国人から摘出の睾丸で
8/14(火) 6:03配信 北海道新聞


小熊氏の講演録と英論文。講演録には「匪賊を一人犠牲に供しました事…」と書かれている


「どの時代であれ許されない」

 北海道帝国大(現北大)理学部の男性教授(故人)が1930年代、旧満州(現中国東北地方)で旧日本軍が捕らえた中国人から摘出した睾丸(こうがん)を使い、染色体を観察する実験を行ったことが、北大図書館の保管資料などで分かった。男性教授は日中戦争開戦直前の37年6月、実験結果を基に論文を米国の科学誌に寄稿しており、専門家は「被験者の承諾がなく、どの時代であれ許されない人体実験だった」と指摘する。

「GLAY」見て乗って 函館にラッピング市電

 戦時下の大学の研究者による人体実験を巡っては、九州帝国大医学部で45年、米軍捕虜を生きたまま解剖し、殺害したことが分かっている。道内の大学研究者による人体実験は、ほとんど知られていなかった。
.

自宅は「旧小熊邸」として知られる

 男性教授は小熊捍(おぐま・まもる)氏(1885〜1971年)。生物学や遺伝学が専門で、30年に北大理学部教授に就任。37年から6年間は理学部長を務めた。

 資料は小熊氏が39年に行った講演の速記録「人類の染色体」。旧厚生省発行の「民族衛生資料」に収録された。当時、染色体は遺伝を担う存在として注目されていたが、まだ人間の染色体の本数も分かっておらず、盛んに研究された。

 小熊氏は講演で、遺体や病人から摘出した睾丸は染色体の観察に向かず、若く健康で生存している男性の睾丸が適していると指摘。「匪賊(ひぞく)(抗日武装勢力)を材料にしたらどうだろうか、どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と述べた。

 満州・奉天(現瀋陽)に渡り、軍に協力を依頼したところ「非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。捕へた匪賊の一人です」と説明。得た試料によって染色体を明瞭に観察できたとして「匪賊を一人犠牲に供しました事は決して無意義ではありません」と語った。

 北大は北海道新聞の取材に対し「研究を承知しておらず、回答を差し控える」とした。

 小熊氏の札幌時代の自宅は旧小熊邸として知られる。北大退官後は国立遺伝学研究所(静岡)の初代所長を務め、国内の遺伝学の第一人者だった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180814-00010000-doshin-hok&pos=1

51. 中川隆[-13321] koaQ7Jey 2018年12月30日 09:42:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告
>>38 あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

>>49 日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

に追記


2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。

しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。

大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。


脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告


昭和十八年 雑誌広告

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。


‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。

坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)


 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥

坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」


昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが

(略)

或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。

(略)

その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)

医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。

(略)

そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)

○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)

○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。

(略)

このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。

(略)

このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)

○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。

○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。

(略)

ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、

(略)

一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。

興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。

○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。

○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。

旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、

(略)

この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)

最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない

(略)

従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。

(略)

この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)

医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。

(略)

例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。

(略)

そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。


<以上引用>

◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
 同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
 (密造というのもあったようですが)

 上記議事録に名前が挙がった会社の沿革 
 昭和20年代はスルーです。

 旧大日本製薬の沿革
 昭和3年から昭和24年の間はスルー。

上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。

「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。

▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。

参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。

(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。

田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。

<以上引用>

▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果

ヒロポン関連の画像

20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代

中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)


前掲議事録のほぼ1年前のもの

第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日

○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。

そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。

併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>

 ※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
  当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。

類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年) 
photoplay-6

メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

52. 中川隆[-11283] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[723] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

53. 中川隆[-10122] koaQ7Jey 2019年5月26日 20:27:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2227] 報告

 再び大麻問題 2019年05月26日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-755.html


 KAT-TUNの元メンバー・田口淳之介容疑者と女優の小嶺麗奈容疑者は22日、東京・世田谷区の自宅マンションで乾燥大麻数グラムを所持していたとして、厚生労働省の麻薬取締部に現行犯逮捕された。

 https://www.huffingtonpost.jp/entry/taguchi-taima-drug_jp_5ce798dee4b0a2f9f28cab00

 このニュースに対して、大麻使用で執行猶予中である高樹沙耶は、以下のように書いている。
 https://hochi.news/articles/20190524-OHT1T50076.html

 また、国家権力に迎合する右翼思想の持ち主として知られる松本人志は、「大麻合法化論を言う人は自分で大麻をやっている人だけだ」と語っている。 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/26/kiji/20190526s00041000101000c.html

 私も大麻合法化論者だが、残念ながら、私は1970年頃、ベトナム戦争の最中に立川基地の米兵から、大麻をもらって吸った経験が一度あるだけで、あとは合法麻薬も含めて、一切経験がなく、松本人志の勝手な思い込みはウソである。
 しかし、合法化されたなら、一度は経験してみたいと願っている。

 すでに私は、大麻使用取締問題について、社会的にみて、タバコや酒と比較して毒性や依存性が低く、無意味なものであることを何度も書いている。
 羽鳥モーニングショーの玉川徹も、田口逮捕に関係して、タバコと比べて耽溺性・依存性・有害性が低い大麻だけを悪者にするメディアはおかしいと批判している。
 
 元KAT-TUN田口淳之介・小嶺麗奈の大麻逮捕報道で玉川徹も疑問! 酒やタバコも依存性あるのに“大麻だけ悪”はフェアじゃない
 https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_kat-tun/

 私も、すでに玉川と同じ視点で、何回も大麻問題を書いている。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html

 これを書いてから、見知らぬ人物が、私の土地の周囲をうろうろするのを見たので、おそらく私が大麻を栽培吸引していると思い込んだ警察か麻取関係者だろう。

 大麻取締に賛成する人たちの主張は、「大麻に手を出せば、次々に毒性の強い麻薬使用がエスカレートしてゆき、最終的に人格破壊を引き起こす」というものだが、実際には、それは権力側の主張を調べずに鵜呑みにしてオウム返ししているにすぎず、事実認識を完全に見誤っている。

 厚労省による「大麻が身を滅ぼす」というような告白・宣伝も、官僚の頭のなかで描かれた妄想作文にすぎない。
 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000180755.html

 むしろ、こんなウソを書いているから、自分でやりたくなるのだ。
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45230130U9A520C1CC1000/

 私の経験からいうと、薬物濫用は社会の常識である。
 大手タクシー会社の周囲にある喫茶店に行くと、昼間から勤務時間中に運転手がたむろしていることがあるが、これはシャブの取引であることが多い。タクシー運転手のような深夜業務は、眠気覚ましに覚醒剤に手を出す者が多い。
 客にも暴力団関係者がいて、走行中に隠語で販売を示唆されることもある。

 これは1970年代の経験だが、この頃、私は大型免許を取得し長距離トラックを運行したことがある。眠くなって浜名湖や足柄のような大型パーキングに入ると、決まって誰かが忍び寄ってきて「眠気覚ましがあるよ」とか持ちかけてくる。
 もちろんシャブ売りだが、本当のターゲットは、むしろ観光バスの運転手であった。

 トラックは適当にパーキングに入って眠れるが、観光バスは、客がいるため、それが許されない。ところが、眠気覚ましの本当に効く妙薬がないのだ。
 あられを食べたり、ガムを噛んだり、コーヒーを飲んだりで醒ませる眠気は一時的なもので、最悪、運転しながら眠っている自分に、ハッと気づくことさえある。
 そこで、違法行為だと知りつつ、事故を起こして身を破滅させるより、確実に眠気を覚ませるシャブに手を出すのである。どちらが罪が重いかといえば、事故を起こした方だからだ。
 
 「眠気覚ましの妙薬がない」このことは「絶対に寝てはならない」いくつかの職種にとって、非合法と知りつつもシャブに手を出さざるをえない喫緊の理由になっている。
 航空機パイロット、列車運転手、バス運転手、タクシー運転手などである。
 実は、シャブ=ヒロポンというのは、日本軍の研究機関によって、零戦などのパイロットが眠気を催さない薬として開発したものだった。
 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/040500003/041100003/

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%95%B7%E7%BE%A9

 私などは、長距離運行中に、どうしても眠気を覚ませないとき、最後の手段として、タバコの火を腕に押しつけて火傷させるという方法を用いた。これはめちゃくちゃに効いた。一発で、眠気が完全に覚めたが、精神的な後遺症が残る。
 トラック運転手のなかには、手の甲が火傷だらけという人も珍しくないが、それは、こうした事情なのだ。
 これに比べればシャブ=ヒロポンの方がはるかにマシだが、これも寝たいときに眠れないという後遺症が残る。

 そこで、シャブのお得意様であるパイロットたちは、次のフライトに備えて無理矢理眠るため大量の酒を飲むのが普通で、この1・2年、パイロットがアルコール検出で罪に問われることがある本当の事情は、実はパイロットが日常的にシャブを常用しているため、睡眠コントロールがきかなくなっているのである。

 これも公然たる秘密だが、実は、自衛隊も米軍も、世界の多くの空軍が、パイロットに覚醒剤を供与しているのである。あるいは航空会社もそうかもしれない。
 これも観光バスと同じで、事故を起こすより薬物の方がマシという切羽詰まった事情からなのだが、世間に知られると困るので、もちろん秘密裏に配布しているのである。 「パイロットはシャブ中患者、睡眠のためにアルコール依存症になる」と考えておいた方がよいいかもしれない。

 http://untiwar.jugem.cc/?eid=243
 
 以上のような事情で、日本における薬物濫用の真の姿は、メディアの報道とはかけ離れたものである。
 観光バスなど運転手・パイロットからシャブを取り上げたら、もの凄い数の深刻な事故が起きるだろう。バスや旅客機は禁煙なので、手を火傷させることができないからだ。
 その意味では、運転手やパイロットの薬物は、耽溺目的では決してなく、乗客を守ろうとする意思でもあることを知っておいた方がよい。
 シャブを禁止させる前に、「間違いなく効く眠気覚まし」を開発してから文句を言えということだ。

 つまり、薬物濫用は、決して、人間の堕落的意思、耽溺性要求ばかりでなく、実用上の要求があるわけだ。
 また大麻については、現在カンナビノイドの重要な薬効が論議されていて、外国ではパーキンソン氏病などの治療に欠くべからざる地位があり、日本だけが、世界のカンナビ治療ブームから取り残されているのである。

 https://www.youtube.com/watch?v=PwBnogYTdZw

  マリファナの合法化進む、薬効研究が盛んに
 https://style.nikkei.com/article/DGXMZO87342950X20C15A5000000/

 大麻の薬効と規制・・・騙され続けてきた70年間
 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=317076

 なぜ、これほど優れた医薬品が「人を破滅させる麻薬」として認定され、不可解な取締の対象になってきたか?
 私のブログでも何度も説明した。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html

 それは、1920年にアメリカで成立した禁酒法時代に、大麻がアルコール耽溺の代替品として用いられたことに対し、当時のアメリカ政府高官の大半が、ユダヤ人・モルモン教徒など禁欲主義者で占められていたため、大麻に対する憎悪が感情的に累積し、何が何でもアルコールや大麻のような快楽薬物を社会から排除するという強い意志を抱いたことである。

 また、大麻は、あらゆる病気に対し強い薬効を示したため、当時勃興中だったアメリカ医療薬品産業が、商売敵である大麻の排除を狙った。
 https://www.youtube.com/watch?v=HpE3ouEdeJQ

 https://www.youtube.com/watch?v=ftK8cJ_O8YM

 日本政府は、主体性を失い徹底的にアメリカに隷属している事情から、大麻問題も深く考えることなく、アメリカ=モルモン教徒・ユダヤ教徒に盲従したといってもよい。

 本来、大麻の薬害というなら、タバコや酒よりも、はるかに低いものであって、取締の対象にするならば、先にタバコも酒も排除されなければならないのである。
 https://togetter.com/li/51054

 大麻は、数千年の大昔から神道など日本文化と切り離せない本質的な要素を築いてきた。
 https://matome.naver.jp/odai/2151632859100820201

 衣類だけでなく、あらゆる繊維や、民間薬としても利用されてきた長く深い歴史があった。
 ところが、戦後、自民党のアメリカ盲従勢力が、アメリカ官僚の嫌悪感をそのまま日本に持ち込んで禁止してしまったのである。
 そこには、科学的・合理的な意味はほとんどなく、モルモン教倫理観への盲従だけがある。この価値観は、日本の伝統的文化を破壊するものであり、アメリカに盲従すべき必然性など、まったく存在しないのである。

 薬物依存性問題の解決は、まずは眠れない職種について対策を考えることと、有効な睡眠阻止薬を開発することなどが先だろうと私は思う。
 薬物に耽溺しなくとも、人生を楽しめる趣味を若者に拡大することも大切だ。
 私の若い頃は、年間50回以上の登山で、薬物どころではなかったのだから。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-755.html

54. 中川隆[-9571] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:29:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2903] 報告
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

▲△▽▼


上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

55. 中川隆[-9304] koaQ7Jey 2019年6月25日 09:41:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3189] 報告

『慰安婦問題の決算』=秦郁彦は歴史学者の肩書を返上せよ! 2018/3/2
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html

     エロ・グロ・ナンセンス

第10巻でもっとも迫力があるのは、日本軍の残虐行為を描いた@斬首A銃剣術の刺突B妊婦の腹裂きC女性器に一升瓶を押し込む4コマ続きだろう。しかし@〜Bは洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番と言える。Aの代わりに赤ん坊を空中になげ、銃剣で刺すシーンが入ることもある。われわれの世代だと、どこかで見聞きしたはずだ。

マニアの間では起源をめぐるろんそうも起き、赤ん坊を放り上げるのはトルコ軍かロシア軍の得意技らしいと書いた論文を読んだことがある。

そこで元兵士に聞いてみると、彼は銃剣を構える動作を試みた後、「技術的に無理だと思うよ」と答えた。マスコミで流通している斬首写真の多くは、日中戦争期の中国の特務工作部が、アマ俳優を使って撮影した「やらせ写真」であることが立証されているが、さりとてこの種の行為がなかったとは言えまい。

しかしCは見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよいと思う。念のため友人の医師に聞いてみたが、「物理的に不可能」という返事だった。
  (『慰安婦問題の決算』(p116)


これは秦郁彦の「慰安婦」問題がらみの最新作『慰安婦問題の決算』のp116である。最初に書かれている「第10巻」というのは、『はだしのゲン』の第10巻の事だ。要するに『はだしのゲン』に書かれている内容を秦郁彦が否定的に扱っているのである。


             


問題視しているのはこのシーンである  ↓


皇軍が戦争中にやったことをゲンが話しているシーンである。嫌なシーンだが、皇軍がしばしばこの手のことをやっていたのは、多くの記録が物語っている。

              @ 「銃剣術の的にした話」

                


例えば、「銃剣術の的にした話」は、皇族である三笠宮崇仁も戦地で陸軍参謀時代に同僚から聞いたという。
( 『This is 読売』1994-8 )

<殿下にインタビュー>

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(p56)

        A捕虜を試し切りしたり銃剣で刺すのは

        よくあることだった

十二月十三日 天気晴朗
一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり
(第十六師団長、『中島今朝吾日記』より)


陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。
               (『偕行』1985年1月号 P32「住谷盤根氏の回想」)

一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い・・・(略)・・・
             (『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P36「斉藤次郎陣中日記」

十一月二日、夜半、中国軍正規兵一名を捕えた。
朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。
               (山本武『一兵士の従軍記録』)


陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書「俘虜殺害の教育指示」
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
   (『侵略の証言−中国における日本人戦犯自筆供述書』新井利男・藤原彰編)


鬼になる洗礼
 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目もそうだった。
恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。
         (『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞山形支局「元憲兵 土屋芳雄の話」)

秦は「@〜Bは洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番」と述べ、得意の「どこにでもあった論」で誤魔化そうとしているが、到底誤魔化せるようなものではないだろう。

               B赤子を銃剣で刺し殺す話

赤子を銃剣で刺し殺す話も、創価学会青年部が熊本第6師団の元兵士の回想を集めた『揚子江は哭いている』はこう書いている。 


 

      

 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。
 赤子は、声を出す間もなく、即死した。
 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに・・・。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。
                    (『揚子江は哭いている』P93〜P94)

           C「一升瓶を女性の性器に叩き込む残虐行為」

「Cは見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」と秦は書いているが、”バカを言うな”と言うしかない。


秦は色川大吉が戦時中の出来事を半自伝的に書いた『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともないのだろうか?

秦にとっては、歴史学者として先輩になるわけだが。

このブログではすでにここに書いている。



               (『ある昭和史 自分史の試み』p68)


まさに『はだしのゲン』が描いた通りのシーンであり、『はだしのゲン』の作者である中沢啓治はこうした話を読んだり、出征兵士から聞いていたのかも知れない。近現代専門の歴史学者秦郁彦よりも漫画家中沢啓治の方が歴史に詳しいという事実に我々は失笑せずにはおれない。


この色川大吉の話は吉田裕教授(近現代専門の著名な歴史学者)も『天皇の軍隊と南京事件』に引用している。秦の「見聞きした記憶がなく」や「ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」は、秦の不勉強から生じた見解であると断じてよいだろう。

イメージ 1


イメージ 2

(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』)

『はだしのゲン』への攻撃は在特会とその周辺がはじめたことである。まるで歴史資料を知らないレイシストたちが、日中戦争時に皇軍兵士が犯した罪悪について無知なのはまだしも教育の弊害として情状酌量の余地がないでもないが、専門研究者であり近現代史について数多くの著作をし、南京事件に関しても本を書いている秦がそれに同調し、「見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じて」しまうのは甚だしい不見識である。


また、たとえ色川の『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともなく、あるいは読んだが失念している場合でも、日中戦争史の強姦で、異物を女性器に入れて殺害する行為は、様々な著作物に書かれていることなので、「性器に一升瓶を入れて殺す」もあったかも知れないと考えるのが正しい考察の仕方であろう。


例えば、秦が『現代史の争点』P10で、「シンドラーとは比較にならぬほどの義人」「インパクトと説得力を持っている」と高い評価を与え、*関西の新聞に「資料的な価値は高い」とコメントしたという「ラーベの日記」には、

1938年2月3日
局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえなんども暴行されているのだ。
                             (ジョン・ラーベ『南京の真実』P222)

と書かれている。


                *http://www.history.gr.jp/nanking/rabe.html 南京大虐殺に関する資料は全て

                イチャモンをつけるという東中野センセイの姿勢をよく表している文章だが、秦

                 のコメント自体には違和感はない。

イメージ 3


イメージ 4



(『現代史の争点』)

自分がこれほど高い評価を与えた「ラーベの日記」を、まさか読んでないなんてことは無いだろう。


さらに秦は『南京事件』(p121)に「小原立一日記」を掲載しており、「殺して陰部に木片を突っこむ」と書いている。

十二月十四日

最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。


自分でも皇軍が女性の陰部にいたずらをする例を書いているのである。


南京事件では強姦が嵐のようになされており、家族を殺された夏さんの母親も性器にビンを押し込んで殺害されたという。https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64396076.html


しかし、秦郁彦は「見聞きした記憶がない」ようである。歴史学者という肩書に恥ずかしくないのだろうか?


【備考】その他「強姦殺人+性器へのいたずら」

川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコ丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。「チンポコ3万本」と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな」(p46)
『証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』 森山康平 1975「第10軍に従軍したカメラマン河野公輝の話」


もっと残虐な行為をする者もあった。妊娠している婦人を連行して全裸にし、大きく膨らんだ腹に刀で突き立てる者、木の間に女の両手両足をゆわえ、子宮に手榴弾を指し込み爆発させる者等・・・・・とにかく手当たり次第に、女という女には、ありとあらゆるいたずらをしたのである。女たちにどれほど酷い事をしたかという話しが、兵隊仲間で興味本位に、しかも得意げに語られていたものである。(元軍曹T氏)

(月刊誌『潮』1971年7月号、特集「大陸中国での日本人の犯罪=100人の証言と告白」より)

支那の時より軍紀は概して良好で、それにそんな悪いことをする間もないほどの急進撃だったからな。女の死体の陰部などに竹の棒をさし込むような凌辱を加えられてあったのを一度だけ見たけれど、あんなことはさすがに嫌な気がして面をそむけちまった。
                                        昭和17年、シンガポール
(鮎川信夫著『鮎川信夫著作集第七巻』思潮社、1974)

変態性欲的行為トシテハ勿論其例ハ多クハナイ。其ノ例トシテハ死人ノ陰部ニ悪戯セルモノ(男女)捕虜ノ陰部ニ特ニ悪戯スル者(即チ陰茎ニ油ヲ注ギ是ニ点火セルコト)或ハ他兵若クハ支那人(殊ニ夫ノ前)ニ見ラレツヽ性交セル者、或ハ性交ニテ足ラズ虐待シ或ハ是ヲ銃殺セル者等ヲ挙ゲル事ガ出来ル。亦支那婦人中ニハ金ヲ貰ヒテ陰部ヲ見セル悪風ガアル。兵モ是ニ興味ヲ感ジ脅迫ノ上見ルコトニ止マラズ遂ニ強姦ニ及ンダ例モアツタ。上海事変ノ時ニハ女ノ乳首ヲ切リ取リ紙ニ包ミテ持チ歩キタル兵ガアツタト聞イタ。今度ノ事変ニハ女ガ逃ゲテ居ラナカツタカラコンナ例ハナカツタト思フ。
  (『戦場心理ノ研究 』 p78 https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64338135.html)


銃剣で突きさしたり、妊娠している女の腹に刺して子供を引きづり出しました。私も4,5人やりました。相当残酷な事をしたもんです
               連続強姦殺人で死刑になった小平義雄談
(『新評』1971年8月)


 

それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。

 町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。二十歳前後だろうか。その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、どこをみているのか、うつろな瞳だった。通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。 女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って「かたづけろ!」とどなった。

 いったいどこへ片付けろというのだろう。病院もなければ、住民もいない。手当するようなところもない。数人の兵が姑娘をかついで行った。

 夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。
 「あの女、どこへかたづけた!」
 「焼いちゃいました。あんな恰好でころがっていたのでは、死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました」。

 彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

(『侵掠』小俣行男P53〜P54)
(追記2018-3-9)

https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html

56. 中川隆[-15122] koaQ7Jey 2019年12月17日 00:32:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2171] 報告
【ノモンハン戦役】 L 日本兵士の隠されたトラウマ(戦争神経症疾患)

57. 2020年9月23日 16:46:54 : VumBhQdrYQ : a1FlQUZBTWNFVUE=[63] 報告
2020-09-20
飢えていなくても人肉を食った日本軍
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/09/20/131848


日本軍によるエクソ・カニバリズム「父島事件」
文春オンラインに、アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた、小笠原諸島父島での事件を取り上げた記事が掲載されている。[1][2]

ガダルカナル、インパール、フィリピンなど、拙劣な作戦計画のために補給を絶たれて飢餓状態に陥った日本兵が人肉食に走った事例はよく知られている。これらの事例は、人肉だろうが何だろうが食えるものは何でも食わなければ死ぬしかないという極限状態で行われた行為なので、おぞましいとはいえ安易に非難できることではないだろう。

しかし、この「父島事件」は、特に飢えているわけでもなかったのに、島に駐屯していた部隊の隊長をはじめとする将校たちが、敵兵の肉を食う宴会を開いたという異常な事件だった。[1]

アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは

なぜ日本兵は“人肉食”を求めたのか

(略)

「大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す」

 この日の朝、私は部隊長室へ呼ばれた。的場部隊長はこう言った。「本日の午後、捕虜を処刑することになっているが、今夜もまたお前にキモと肉を切り取ってもらいたい。そしてそのついでに、教育中の補助衛生兵たちに解剖を見学させてやれ」。今回は部隊長直々で私に命じた。心ならずも命令に従うほかなかった。

 全てを悟ったホール少尉は、さきほどの陽気な影は全く消え失せ、蒼白な顔面には悲痛の色がみなぎっていた。現場には既に穴が掘られていた。彼はその穴を前にして座らされた。自分の墓穴を目の前にした彼の心境はどうであったろう。本部付きの中村伍長が捕虜の背後に立ち、曹長刀を振りかぶって気合いもろとも切り下ろした。見事に皮一枚残して首は切断され、捕虜は前のめりに倒れた。

 その夜、308大隊の全将校は防空壕内の部隊長室に召集され、大宴会が催された。ホール少尉の試食が目的であることはいうまでもなかった。「出席せよ」という部隊長の命令が届いた。満員といってよい室内では、いまや酒宴はたけなわであった。

 部隊長はすぐに私を彼の右隣りの席に招いた。私が座ると、彼ははしで挟んだものをいきなり私の口の中に押し込んだ。「はっ」と思ったが、吐き出せばどんな難題を吹きかけられるか分かったものでない。私はそっとかんでみた。鶏のモツのような味がした。例の肝臓だなと思うと、どうしてもそれ以上かみ続ける気にはなれなかった。口の中でしばらく転がして、いかにも食べたようなふりをしてから便所に立った。そして口の中の物をすっかり吐き出し、そのまま自分の部屋へ帰って寝てしまった。遠くから聞こえる酒宴の音は、不愉快さに拍車をかけた

「告白の碑」=「父島人肉事件」所収

 この時、いかにも奇怪な命令が口頭で出されている。的場少佐が記憶を書き留め、グアム島裁判の証拠として提出された。「極東国際軍事裁判審理要録第5巻」に載っている。

【米軍飛行士の人肉を食することに関する命令】

1. 大隊は米軍飛行士ホール少尉の人肉を食せんと欲す

2. 冠中尉は配膳を担当すべし

3. 坂部見習軍医は処刑の現場に立ち会い、肝臓と胆嚢を遺体より切除すべし

大隊長 的場末勇少佐
1945年3月9日午前9時

 まともな神経とは思えないが、これが戦争なのか。

記事によると、父島事件では、無差別爆撃を行う米軍への敵愾心から、戦意高揚のために人肉食を行ったらしい。[2]

「父島人肉事件の封印を解く」によれば、立花中将は全てを否定。殺害にも人肉食にも関与しておらず、何も知らなかったと主張した。態度は最後まで毅然としていたという。的場少佐は最初は部下がやったことだと主張したが、やがて全てを認め、宴会の様子なども詳しく供述した。

 それに対し、吉井大佐は「全て自分がやらせた」と認めた。「小笠原兵団の最後」には、疑いをかけられてグアムに連行された海軍父島特別根拠地隊参謀の海軍少佐に漏らした「Y大佐」(吉井大佐)の言葉が載っている。「君は心配ないよ。近くここから出られると思う。森司令官、篠田防備参謀に、罪を背負うのは一人でたくさんだから、全部俺に(罪を)着せるようにと伝えてくれたまえ」。吉井大佐は法廷でも「無差別爆撃をする米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令は全て自分が出した」と主張して非を認めなかったと秦郁彦「人肉事件の父島から生還したブッシュ」(「昭和史の謎を追う」所収)は述べている。

典型的な「エクソ・カニバリズム」だ。[3]

通常の場合、人肉食は二種類に分けられる。その一つは、敵愾心ゆえに自己の集団外の者を殺害して食べる「エクソ・カニバリズム(外食人)」であり、もう一つは呪術儀礼として集団内の人間を「いけにえ」にして食べる「エンド・カニバリズム(内食人)」である。

中国人蔑視の果ての人肉食
一方、中国戦線では、同じく特に飢えているわけでもないのに、中国人の少女を殺して食うという事件が起きている。[4]

 第一一一大隊第二中隊が(1945年)五月になって、とある山村に宿営したときがやはり「空室清野」であった。第一日は前の部落から略奪してきた食糧で何とかまにあわせたが、二日で食いつくした。手にはいるものといえば、村の畑にわずかに残る野菜ぐらいのものである。主食類も秋の収穫時期にほど遠いこの春らんまんの季節だ。とりわけブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源が全く見当らないのがこたえる。三日目の夕食の用意にとりかからなければならない時刻だった。指揮班長の榎本正代曹長にも着想がうかばない。

「今日はもう肉類が全然なくなっちゃったんでどうするかなあ」と、中隊長の伊藤誠少尉(愛知県出身)に、話しかけるともなく独り言を言った。

「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」と伊藤少尉が榎本曹長をのぞき込むように言った。小柄だが目のクリッとした賢そうな青年だった。榎本曹長からみれば四、五歳若く、二三、四歳の上官である。榎本曹長には「やっちゃう」の意味が、その瞬間よくのみこめなかった。

「仕方がない、人間をやるんだ」と、少尉が曹長の表情に応えるようにつけ足した。中隊長はそう言い残して、宿舎として使っていた農家から出て行った。やっと榎本曹長にも、これから何事が起こるかがよくわかった。ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのは、年のころ一七、八歳と見える中国人の娘だ。この部落の農民だった。皇軍は三日前この部落に侵入したときに、部落に残っていた者をことごとく捕えた。男たちは「苦力」として皇軍の使役に使われようとしていた。女たちは「尋問」の名目で捕えておくのだが、尋問をされる風にも見えなかった。若い女性が十余人はいたはずである。その一人がいま少尉に連れられて来たのだ。少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。さすが「人殺しの名人」を自認しているだけに、彼の腕は確かだ。短剣は正確に少女の心臓を突いており、彼女は悲鳴もあげずに、いま二人の足元に息絶えていた。武器に鉄砲やピストルを使わなかったのは、銃声で村人や他の皇軍兵士たちに知られてはまずいという判断からだった。

 二人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。最も短時間に「処理」できる部分として、二人は少女の太股の肉のみを切りとって、その場でスライスして油でいためてしまった。一個中隊分といっても、最前線にあっては七〇人ほどだったのだが、人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。

 中隊長は別の部屋に五個小隊の炊事班員を呼び集めて言った――「今日は特別に大隊本部から肉の配給があったので各小隊に配ることにした」

 もちろん中隊長は嘘をついたのである。この事実について、二人はまったく口をつぐんでいることにした。よく拷問や殺人体験を自慢話としていた「天皇の軍隊」にあっても、ただ食用の目的だけで中国人民を“屠殺”したことは、やはり口外がはばかられた。

これは、飢餓による人肉食でないばかりか、現地民の娘など別に敵ではないのだから、エクソ・カニバリズムでさえない。強いて言えば、中国人に対する蔑視の果てに、相手を家畜並みの存在と見なして気軽に「屠殺」してしまったのだろう。

人肉食というと、ウヨ本やウヨサイトでは、近代以前の事例などを理由に中国人を食人種呼ばわりして罵倒しているが、それなら20世紀も半ばという時期に、飢えてもいないのに敵兵や現地住民を殺して食った日本人のほうが、よほど立派な食人種ではないだろうか。

[1] 小池新 『アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは』 文春オンライン 2020/8/16
[2] 小池新 『「これはうまい。お代わりだ」硫黄島激戦の裏で、日本軍将兵はなぜ“アメリカ人将校の肉”を食べてしまったのか』 文春オンライン 2020/8/16
[3] 田中利幸 『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』 大月書店 1993年 P.238
[4] 本多勝一・長沼節夫 『天皇の軍隊』 朝日文庫 1991年 P.371-373
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/09/20/131848

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