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第二次冷戦が最高潮に達した80年代前半、巡航ミサイルの欧州配備を切っ掛けとして、巨大な「反核運動」の波が、ドイツを中心に、西欧全域を覆い尽くしましたが、当時は勿論のこと、今に至るまで、この運動の本当の意味とか果たした役割について殆ど知られていません。
アメリカしか、或いはアメリカを通してしか世界を観ることをしない以上当然なのでしょうが、これまで観てきた冷戦=欧州管理という視点から見れば、「西欧防衛強化」を名目とした核ミサイル配備の真の狙いは西欧への管理・統制の強化以外ではあり得ない。 事実、70年代に進展した”デタント”や「全欧安保協力会議」等はベトナム戦争での軍事的敗退を契機に進行した米軍の全般的な軍事的プレゼンスの低下と裏腹のものでした。 従って、”ソ連の脅威”を前面に押し立てての斯かる動きは、そういった事態に対してのアメリカ(軍産複合体)側からの巻き返しであり、タガの締め直しとして見て取ることが出来ます。
とすると、この広範かつ大規模な「反核運動」はかかる支配の強化に対する抵抗運動、従ってその本質は対米レジスタンス運動であった、ということが出来ます。 そうして、ドイツ(西独)を先頭に、この運動の中心を担ったのが”緑の人々”と言われる人達であり、彼等の主要な部分が「68年革命」(ウォーラーステイン)の担い手であった、ということ。
そして、68年当時の彼等の重要な政治課題が「ベトナム反戦運動」であったことに表れてるように、<冷戦体制>の最も弱い環として、その矛盾が集中して露れ出たのがベトナム戦争であるからこそ、「ベトナム反戦」は欧州における(冷戦という名の)<支配体制ーその本質は冒頭で言った通り、対独封じ込め>打破と地続きのものとして彼等から捉えられていた、ということです。
もちろん、この認識は、彼等のみならず、政治家も共有していました。
だからこそ、ベトナムでのアメリカの軍事的敗退が明瞭になるや直ちに、西独の政治指導者は戦後体制克服の行動に打って出たのです。
ブラント首相のいわゆる「東方外交」がそれで、<冷戦>を終わらせた最初にして最大の立役者、今日のEUへの道を切り開いた最高の功労者は、紛れも無く、彼を措いて他には居ないのです、本当はね。
そうして、お分かりでしょうか?
こうした国際潮流の変化を逸早く感じ取り、他の誰にも増して、大胆な行動に移したのが田中角栄氏でした。
対中に引き続いて対ソ、更には東南アジア諸国へと、近隣諸国との善隣友好関係の積極的な増進を図ろうとしたその外交は、通常”資源外交”と概括されていますが、これは明らかな間違い、と言って悪ければ一面的であり、その本当の意図する処は、ブラント氏と同じく、それまでのアメリカの顔色を伺い、その許容する範囲でご機嫌取りに終始していた姿勢を改め、自前の外交を構築することに在ったのです。
即ち、殆ど同時期に行われたブラント首相の(対東欧・ソ連)「東方外交」と田中首相の(対中ソ)西方外交、期せずしてユーラシアの西端部(西欧)と東端部(東亜)から為された<冷戦体制>=戦後支配体制を克服しようとする試み(それはアメリカの地政学的戦略に真っ向から抗うものでした)は、戦後政治は元より、日独の国際及び国内政治の観点から見ても、全く同じものであった、ということが出来ます。
そうして、だからこそ、その後、殆ど同じ時期に双方とも政治スキャンダル(西独ースパイ事件、日本ー金脈問題)に見舞われ、政権を追われることになったわけです。
つまり、そのような両氏の姿勢に危機感を持ったアメリカと現地カイライ勢力による執拗な追い落とし工作の挙句、権力の中心から排除されたーここまでは日本も西独も変わらない。
ドイツと日本、彼我を別けたものはその後の両氏の辿ることになった対照的な運命ー首相を退いた後も、社民党党首として政治的影響力を保つ一方、社会主義インターナショナル議長や欧州議会議員等、国際政治にも隠然たる力を発揮し、死去の際には「国葬」という最高の栄誉で以って遇されたブラント氏に対して、「ロッキード事件」で更なる汚名を着せられ、政治の表舞台から遠ざけられて、不遇の侭に死んでいった田中角栄氏ーに見て取れます。
従って、政治からみる彼我を別けた当のものは、ブラント氏とその路線を守り切ったドイツと、田中角栄氏と共にその路線を切って捨てた日本ーという風に概括出来る、と思います。
そうして、前者の路線が「東西和解」−全欧安保協力会議ー冷戦の終焉ードイツ再統一EUの中核勢力として浮上させることに繋がり、後者が、<冷戦>が終わって20年以上経つにも関わらず、極東周辺に冷戦状態が残り、今日の「領土紛争」に見られる様に、近隣諸国との和解と善隣関係の樹立に失敗し続け、周辺からの事実上の孤立化と、それ故の(アメリカへの)属国化が昂進しているーということに繋がっている。
「政権交代」後の2年間、殊に小沢氏を巡っての裁判沙汰を見ても、田中氏の場合と同じ論理、同じ政治力学が、依然、働いているのが見て取れます。 こちらで何度も繰り返していますが、私が小沢氏を支持することに決めたのは、斯かる田中氏の政治路線を受け継いだ政治家だからでもあります。
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