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「核の非選択」というドイツの選択について、具体的かつ直接的な情報は他の相応しい方に譲るとして、この事に関しての私なりの見方を付け加えておきましょう。
ことは、思想とかイデオロギーなどとも不即不離ではありますが、優れて政治的でもあると考えます。
つまり、(反)核の思想やイデオロギーの探求は国際政治の地ー図を浮び上がらせることになるでしょうし、翻ってそれは歴史(世界史)の再審をも請求することに繋がって行くでしょう。 先回りして言うなら、(原爆にせよ原発にせよ)核のイデオロギーの克服には第二次大戦の結果とその正当化の言説(多くは戦後に創られた神話に基く)の批判更には解体は避けて通れない、と考えます。
”脱原発”を志向するのがドイツやイタリアの「旧枢軸国」であり、原発の推進側が第二次大戦の戦勝国=国連安保常任理事国(米英仏露中)であるのは、果たして、偶然なのでしょうか?
そのことを問う前に、戦後史の大半を占めた冷戦(体制)とは何だったのでしょうか?
様々な論点や観点からのアプローチが在り得ると思いますが、先の大戦の結果と絡めて今日の視点からすると、”ウオッカ=コーラ”即ちアメリカによる(ソ連をジュニア・パートナーとした)世界の管理(=支配)であり、それは大戦後の国際秩序を取り決めたヤルタ体制の戦後の更新版ーヤルタの戦後バージョンであったことは明らかだろうと思います。
冷戦体制とその図式を金科玉条にしてきた左右の言論が、冷戦後、何ら有効な言説を組織し得ず、只管現状追認を繰り返し(総保守化)、殊に日本においてこの傾向は顕著ですが、あたかも敗戦直後に戻ったように、親米翼賛(ポチ保守)に前のめりになるのも当然と言わねばならない。 認識の枠組み※を問わない以上それは<信仰>と何ら変わることはない、地金が出たというしかないからです。 彼等にとって”躓きの石”となる(はずの!)ベトナム戦争に一切触れようとしないのはその何よりの証明でしょう。
日本とドイツ、その違いは何処から生じたのかを探る時、何よりもこの戦後過程及び冷戦体制にその因が求められるように思います。
つまり、東西に分断され、国家組織を徹底的に解体されて、文字通りの無条件降伏であったドイツと、軍の改変や省庁の改編はあったものの、統治機構がほぼ無傷のまま残され、戦後30年を経ての「戦前と戦後はそんなに変わってない」との昭和天皇の感想(昭和50年)に表れてる様に、支配体制が温存された日本ー彼我の違いを生じさせた原因を見るに、アメリカの@イデオロギー及びA軍事的な世界戦略から来ているということが言えます。 @のイデオロギーについては後ほど述べるとして、先ずはAの軍事的な世界戦略ー特にその中核に在る地政学的な要因から見て行きましょう。
日独の違いを観る時、南北分断された朝鮮半島やインドシナ半島で分かるように、海洋地政学的に観てリムランド(半島域)であったか否か?ー争覇の対象であったか否か?ーがかなり重要な要因であるように思います。
従って、先ず言えることは、この地政学的な差異こそが当事者意識の濃淡を生み出し、日本においては国際政治への不感症(不干渉)に繋がって行ったのではないか?ーということ。
ここで改めて確認しておきますが、ヨーロッパにおける現状凍結(とする、対独封じ込めの結託)=冷戦とアジアに於ける争覇=熱戦(朝鮮戦争、ベトナム戦争)というのが<冷戦体制>の裏から見た真実でありましょう。
即ち、ヨーロッパにおける冷戦とアジアにおける熱戦は裏腹、表裏一体のものであったわけです。
戦後日本の言論や保革の論争においては、「戦争に巻き込まれるか否か」が極めて重要な争点になっておりますが、かかるアジアの置かれた状況からして、それなりに現実性を帯び、一定程度迫真性を伴った問い掛けでは在り得たわけです。
しかしながら、他方、当事者ではなく、自らを局外に置くこのスタンスこそ、<冷戦>を他人事とすると同時に、その本質への理会を妨げるもととなった、とは考えられないでしょうか? それに比して、「冷戦体制」のホットスポットー冷戦の最前線で在り続けたドイツの人々にとっては、その本質への理会は我々が思ってる以上に容易だったのかも知れません。
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