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(回答先: 「国民の生活が第一」は「革命」である (仁王像さんに応えて−2) 投稿者 SWAN 日時 2010 年 6 月 19 日 06:52:42)
私たちの眼前で日々生起する現象は、絶え間ない未知との遭遇であり、一つとして同じ
ものではありません。だからこそ、古人の警句にもあるように、歴史は一度目は悲劇とし
て、二度目は喜劇として繰り返すのです。
歴史的に考えること、従前の学問的成果を決しておろそかにするつもりはありません
が、これまでの視点から現実の諸現象を解釈するという在り方は、学問によって現実を切
り捨てるという、極論すれば教条主義的発想へ陥る畏れがあるのではないかと考えていま
す。
なぜ革命は暴力的な制度転覆でなければならないのか?そんな必要はどこにもありません。
高度に情報の伝達が発達した現代社会においては、一人ひとりが主体として自立してい
れば「無血革命」は可能であると考えます。むしろ、現代においてこそ、その物質的諸条
件が整ったと言えるのではないでしょうか。
更には、これまでの社会革命の歴史に対する深い反省があります。西洋の市民革命、社
会主義革命などが、歴史的栄光のみにおいて語られてはならないのです。これらの革命
は、おびただしい流血の上に成立したことを忘れてはなりません。「革命」と称するもの
の中で、どれだけの人が殺されていったか。
フランス革命の恐怖政治。ロシア革命のスターリニズム。中国の文化大革命。ポルポト
政権による大虐殺。「革命」の歴史は、ある意味「血塗られた歴史」でもあるのです。
流血は報復と復讐を生み、恐怖と猜疑心の中で、人々を暴力的狂気へと追い立てます。
誤解を恐れず言えば、流血が「内ゲバ」程度であるうちはまだいいのです。あれが全社
会的規模で起こったことを想像してみれば、「革命」というものが、ある種の「狂気」で
あるということがお分かりいただけるかと思います。
貧しく抑圧された人々が、今とちがう社会、今とちがう国のあり方を求めたばかりに、
更に大量に殺されていく。これを「犠牲」として乗り越えていく発想に、私はどうしても
組みすることができません。であればこそ、私は「無血革命」を求めるのです。
もちろん、「無血革命」が至難であるということは十全に理解しているつもりです。
チリのアジェンダ政権のように武力クーデターで簡単に転覆させられたケースもありまし
た。このクーデターを演出したのは米国CIAでありました。一国の軍隊は対外的存在と
してあるわけではありません。支配階級の利益を守る為には、軍隊の銃口が、自国の国民へ向けられることは理の当然です。ましてや、わが国には自衛隊のみならず、異国の軍隊
が日本全国に散在しています。彼らがいつ何時「国体護持」「体制維持」のために同様の
事をしないとは限りません。いや、すでにその一部は何らかの工作を日々行っているはず
です。
しかし、これらのことを考慮しても尚、私の「無血革命」への希求は止みません。
なぜなら、これが主体としての個人を基盤にした唯一の社会変革の手段であるからです。
これを補償する制度的(形式的)基盤があることを、私は小沢一郎からあらためて学びま
した。
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