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(回答先: 「無血革命」の今日的意味 (仁王像さんに応えて−3) 投稿者 SWAN 日時 2010 年 6 月 19 日 07:00:27)
ファシズムについても同様です。確かに現象的にはヒトラーやムッソリーニに顕著なも
のです。スターリニズム、毛沢東、あるいは日本型天皇制ファシズム。さまざまの全体主
義として規定されてきたのがファシズムです。それは独裁と結びつけられてきました。
小沢一郎の強権は独裁を連想させ、まことしやかにファシズムの危険性が彼において語
られてきました。
しかし、ファシズムが常に独裁と同義であるわけではありません。私は、むしろ一人一
人の主体性の喪失と他者への主体性の投棄こそがファシズムを生み出すと考えています。
投棄への対象は様々です。個人であったり「神」であったり、「民族性」であったり、
「天皇」であったり、「国家」であったりするでしょう。主体性の投棄は「擬似的共同
性」の中である種の恍惚感を生じさせ、集団化した人々のエネルギーは暴力的にその発露
を求めます。これこそ、ファシズムです。
近年では、9・11以降の西アジア侵略へと突出していった米国にこの現象を求めること
ができると思います。先進民主主義国家で起こるファシズム。これはパラドックスではあ
りません。現実です。
この意味において、小沢一郎はその真逆に立っています。彼ほど主権者としての国民の
自立を率直に要求した人はおりません。彼は、あるいは厳しく、あるいは歯に衣着せず、
国民に自立を要求してきました。しかし、一度として、国民の「民度」を冷笑したことは
ありません。これは動かしようのない事実です。(謂われなき中傷でマスコミから袋叩き
に会い続けている彼であれば、「冷笑」する権利は当然あると、私は思うのですが)
さて、これまで長々と文言を連ねてきましたが、申し上げたいことは只一点です。私は
自立した個人であり、自己の主体性を小沢一郎に投棄したわけではない、ということで
す。これを以っても「小沢信者」呼ばわりされるのであれば、私にはこれ以上申し上げる
ことはありません。
この点を了解していただいた上で、
ようやく、「曳かれ者の小唄」を歌うときがきたようです
別稿として、改めて投稿します。
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