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(回答先: 水の透視画法 辺見庸 投稿者 きすぐれ真一 日時 2009 年 2 月 04 日 09:32:44)
交差点にて 辺見庸
銀座のカフェをでたら、街がうすら寒い灰一色となり、ビルも人びともへんにひしゃげてみえた。どうしたのだろう。光の屈折ぐあいがおかしい。夕まぐれにちかいからだろうか。いぶかりつつ横断歩道をぼうっとわたっていた。スタートがややおそかったもので、途中で青信号が点滅しはじめ、あわをくっているうち赤になり、ひとり路上にとりのこされた。車の群れは徐行して私がわたりきるのをまっている。そこに、急発進のタクシーが一台、タイヤをきしませてつっこんできた。ぶつかりはしなかったが、ワックスがにおうほど車はからだすれすれだった。運転手があいた窓から私をねめて、なにかはげしくおめく。信じがたいことだ。が、たしかに聞こえた。「死ね、ばかやろう!」。一瞬である。タクシーは殺気をのこして走りさる。息がとまった。棒くいのように硬直して交差点にたちつくした。
浴びせられたことばは常軌をいっしていた。仰天したのは、だが、罵声だけではない。それ以上に、運転手の疲れた面ざしと血ばしった眼に心が乱れた。私と運転手は、たまゆら、じつにまぢかに眼をあわせたのだ。てっきり若いかとおもったかれは、初老の男だった。「死ね、ばかやろう!」というののしりにおよそにつかわしくない、意外にも静かで上品な目鼻口をしていた。顔はむろん怒気をはらんで、ふくらんではいた。ただ、車を暴走させ、あらぬ怒声をはなってしまった自分が信じられないといったひるんだような、とまどったようなかげりも運転手の眼はわずかにおびていたのである。
たぶん、うがちすぎであろう。けれども、なぜか確信にちかく私はおもった。かれは横断歩道の私をつかのま自身の影とみたて、その影をひきたおそうと車をばく進させ、「死ね、ばかやろう!」と発作的にさけんだのではないか。私にではなく、おしなべてたちゆかなくなったかれ自身への呪詛として。そしてすぐにわれにかえった・・・。そうおもいなせば、走りさったときのかれの不可思議な表情と符合する。そのとき、運転手の眼窩はスプーンでえぐったみたいに黒く大きくえぐれてみえた。ゴヤがエッチングで描画した死者の顔みたいに。ゴヤのタブローにはためらい傷のような黒い線がおおくのこされていて、人の輪郭全体がぶれて多重になり、あるべき位置がわからなくなっているものもある。私の記憶のなかのエッチングには色がなく、肝もこおるほどさびしくて、眼前の街の人と風景にとけあっていた。
かなつぼまなこの婦人がかけよってきた。ペンと紙片を手にしている。あなた、大丈夫ですか。タクシー会社の名前と番号をひかえたから、警察か会社に通報しますか、と問うている。うすれ日に香水が毒薬のようにきつくにおってくる。婦人は小声でなんどもしつこくくりかえした。「だまっていると、だれだってひき殺されてしまうんだから。あたまのおかしい人がね、いっぱい、いっぱい、いるんだから・・・」。はい、はい、とあいまいに受けながしながら、私は彼女の眼窩のほうを気にしていた。それらはやはりなみはずれて暗ぐらとしているようにおもわれてならなかったのだ。
時代がうつろうときには、それとはっきりわかるしるしがあるわけでなく、たいがいは暗転と意識もせずに、あぶない坂をみなといっしょに笑いながらころげていくものだそうだ。いいかえれば、ことが終わってからではなく、実時間にあぶない気配をスケッチするくらいむつかしいことはない。「たれひとりとくにこれといって風変りな、怪奇な、不可思議な真似をしているわけでもないのに、平凡でしかないめいめいの姿が異様に映し出されるということはさらに異様であった」「ひとびとの影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか。この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう」(「マルスの歌」)と石川淳は書いた。昭和十三(一九三八年)のことだ。そのような影のぶれ、光の屈曲の異様を、私はいまに感じている。
「死ね、ばかやろう!」と罵倒された日の夜、テレビをみたら、この国の首相が秋葉原にくりだし街頭演説をしていた。広場はおしかけた若者たちの大歓声にわいていた。得意満面の首相がさけぶ。「・・・日本の将来は暗いみたいな顔をするなって。だいたい・・・暗い顔をするやつはモテないしな。やっぱりモテたきゃ、明るい顔しろ、明るい顔」。若者らは嘲弄されているように私にはおもえた。かれらはそれでも大声援をおくっている。みなの眼窩がやはり黒くえぐれてみえた。
神戸新聞 2008.11.18
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