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ベルイマンと茂吉  辺見庸
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投稿者 きすぐれ真一 日時 2009 年 2 月 04 日 09:36:56: HyQF24IvCTDS6
 

(回答先: 伝染病と暗喩  辺見庸 投稿者 きすぐれ真一 日時 2009 年 2 月 04 日 09:35:43)

ベルイマンと茂吉 辺見庸

歴史が暗転するときには街路から「妖気のような、えもいわれぬ気配」がくゆりたつ。物故したある哲学者が昔、インタビューでそんなようなことをいった。おおかたはそれに気がつかないものだ、と。詩も書いた哲学者はそのとき、斉藤茂吉の歌を一首おしえてくれた。「おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨のもろごゑ」。「もろごゑ」は「諸声」であり、シュプレヒコールまたはときの声である。「妖気のような、えもいわれぬ気配」はこの歌にもこめられていると彼はいいそえた。若かった私は含意の深みをさとることができず、この歌と「妖気のような、えもいわれぬ気配」ということばだけを心にのこしたのだった。

茂吉の歌は日本ではなく、1923年11月のドイツ・ミュンヘンを詠んだのである。ミュンヘン大学医学部に留学中だった歌人が、ヒトラーらによるワイマール共和国転覆のクーデター未遂事件(ミュンヘン蜂起)にでくわし、ナチス突撃隊とおぼしいときの声を耳にして、行方もしれない不安を記したのだ。現代史の結節点は1930年代にあったとかんがえられがちだが、前述の哲学者はむしろ20年代とくに1923年に注目していたわけである。これから右にいくのか左にいくのか混沌としてはかりがたい日々にただよう妖気。闇をこぐような怪しい気配を、私はじつはいまに感じている。

それもあってかねがね23年には気をひかれていたのだが、最近になって、ゆくりなくも一本の映画にであった。イングマール・ベルイマン監督の異色作『蛇の卵』(77年作)である。ミュンヘン蜂起のころのベルリンを舞台にしたこの映画ほど堕ちてゆく社会の妖気を表わした作品はない。冒頭、霧ふるベルリンの暗い路地があらわれ「1923年11月3日、土曜日夜。タバコ1箱が40億マルク、人びとは未来への希望を失っていた」のナレーション。ハイパーインフレーションによりマルクが暴落したこの時期、ヒトラーらは「国家社会主義ドイツ労働者党」の名のもとに憂国の"革命集団"をよそおっていた。すくなからぬ人びとは、10月にハンブルクで武装蜂起するも失敗したドイツ共産党よりもナチスのほうに期待をかけていた。

街路にいきだおれた馬をその場で解体し肉をうばう飢えた市民たち、続発する奇怪な殺人事件、どこまでも低俗化する文化、ユダヤ人への憎悪をあおる新聞、希望ゼロのすさんだ世情。「新聞は暗い予言にみちていた。政府は無力だ。・・・雨に濡れた敷石から恐怖がたちのぼっている。空気にトゲがある。だれもが知らぬまに毒気をすいこんでいた」とナレーション。そんななかで〈いままでの社会は性善説を前提とし、現実とのズレを必死でごまかしてきたが、人間とは自然界の失敗作なのだ〉と主張する医学者たちが、人間の改造を目的におぞましい生体実験を秘密裏にくりひろげていた─というのが虚実まじえた映画の筋だてである。

ドキュメント性をそいだ形而上的寓意と暗喩がベルイマン映画の特質であるとすれば、『蛇の卵』はかなり例外的だ。それだけに、ベルイマンが世界史のあまたある重要なメルクマールのなかから、なぜ1923年のドイツをえらんだのか興味ぶかい。つらつらおもんみるに、やはりかの年、かの地の尋常ではない「妖気」がそうさせたのではないのか。そして、絶望的貧困、道義のすさみ、ファシズムの台頭のなかで、人びとの自我が奥底からこわれていくなりゆきを、ベルイマン年来の「人格崩壊」や「宿罪」といったテーマにからめてえがこうとしたのかもしれない。にしても、「おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨のもろごゑ」の不安感は、この映画の戦慄と土壌をおなじくしていることに、いまさらおどろかざるをえない。

もっとも、茂吉のいだいた怖れはミュンヘン蜂起だけにあったのではない。23年といえば、9月に関東大震災があり戒厳令が発令されている。故国とドイツをこもごもおそった大異変を歌は二つながらせおっているとみるべきであろう。関東大震災直後には軍隊や警察、自警団などがほうぼうで「朝鮮人狩り」をおこない6千人以上を虐殺した。狂気とある種の人格崩壊はドイツのそれだけではなかったのである。

23年は日本の政治が急速に右傾化してゆく起点ともなったが、当時は漠たる社会不安はあっても右傾化への危機感はドイツ同様にうすかったという。街路からくゆりたつ妖気を、私はなぜかいまにみている。

神戸新聞 2009.02.03  

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