★阿修羅♪ > 戦争a3 > 556.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
ソルジェニーツィン氏が他界しました。
氏の処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』
の一節を引用します。
−−「自由がなんです?自由の身になればあんたのひとかけらの
信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ!
ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか!
使徒パウロはこう申されました、『汝ら、なんぞ嘆きてわが
心をくじくや?われ、主イエスの名のためには、ただに縛ら
るるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」
シューホフは黙って天井を見つめていた。もう自分でも、
自由の身を望んでいるのかどうか、分からなかった。はじめ
のころは激しく望んでいた。毎晩のように、刑期は何日すぎ
て、何日残っているかと、数えたものだ。が、やがてそれも
飽きてしまった。それに、流刑地とここでは、どちらのほう
が暮しやすいのか、それすら分からなかった。自由の身にな
りたかったのは、ただ家に帰りたい一心からだった。ところ
が、その家に帰してはくれないのだ・・・・−−
(ソルジェニーツィン作・木村浩訳『イワン・デニーソヴィチ
の一日』(新潮文庫2007年版・249〜250ページより)
上の一節には、氏の精神が良く表れて居ると、私は、
思ひます。「自由の身になりたかったのは、ただ家に
帰りたい一心からだった。・・・」と言ふこの箇所に、
氏の西欧人とは違ふ、ロシア人としての心情が表れて
居ると、私は、思ひます。一番大切な物は、「自由」
ではなく、故郷だと言ふ事です。
この小説の最後の箇所です。
−−こんな日が、彼の刑期のはじめから終りまでに、三千六百
五十三日あった。閏年(うるうどし)のために、三日のお
まけがついたのだ。−−
(ソルジェニーツィン作・木村浩訳『イワン・デニーソヴィチ
の一日』(新潮文庫2007年版・255ページより)
御冥福をお祈りします。
2008年8月4日(月)
西岡昌紀
http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
■露のノーベル賞作家・ソルジェニーツィン氏死去
(読売新聞 - 08月04日 06:56)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=566789&media_id=20
露のノーベル賞作家・ソルジェニーツィン氏死去
(読売新聞 - 08月04日 06:56)
【モスクワ=緒方賢一】「イワン・デニーソビッチの一日」「収容所群島」など、スターリン時代を中心とする旧ソ連の恐怖政治を告発した著作で知られ、ノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏が3日夜(日本時間4日朝)、心不全のためモスクワの自宅で死去した。89歳だった。
タス通信などが伝えた。心臓を悪くし、闘病生活を送っていた。
ロシア南部キスロボツク出身。第2次世界大戦に従軍したが、スターリン批判を理由に逮捕され、収容所で約8年を過ごした。実体験をもとに収容所の実態を描いた中編小説「イワン・デニーソビッチの一日」を62年に発表すると、世界的な反響を呼び作家としての地位を確立。その後、「煉獄のなかで」「ガン病棟」などを発表し、70年にはノーベル文学賞を受けた。
73年にパリで刊行が始まった代表作「収容所群島」では、数多くの国民を収容所へ送り、抹殺したソ連体制の暗部を明らかにし、共産主義を厳しく指弾した。
反体制派としての活動をブレジネフ体制は容認せず、ソルジェニーツィン氏は74年2月、国家反逆罪で逮捕され、国外追放された。その後、米バーモント州での亡命生活を余儀なくされた。85年のゴルバチョフ政権発足で転機が訪れ、90年に市民権を回復。ソ連崩壊後の94年に帰国した。
帰国後は、ソ連崩壊後の荒廃を招いたとしてエリツィン政権を厳しく批判し、「ロシアの再生」を求める民族主義的な主張を展開。プーチン前政権に対しては、大国としての国力回復を実現した点を評価していた。2007年にプーチン氏から国家賞を受けた。