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(回答先: Re: ててて 投稿者 きすぐれ真一 日時 2008 年 11 月 16 日 22:07:45)
インタビュー
ジャパネットたかた社長 高田明(2005年3月25日)
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/person/interview/050325takata/
“売る”という職人芸を社員と顧客に捧げる
2004年の春、ジャパネットたかたは企業の根幹を揺るがされるような大事件に遭遇した。約51万人分もの顧客情報が流出し、名簿業者に売られていたのである。同社はこの事件で50日間にわたってテレビ・ラジオの通販番組を自粛し、その影響は約150億円もの減収につながった。
事件が発覚した時、社長、高田明の妻で同社の副社長も務める恵子は、激しく動揺した。
「一体、誰がこんなことしたの?」??。
だが、高田は言葉少なに、「これからどうするかを考えるのが先決だ」と語るだけだった。
3カ月後、同社の元社員2人が逮捕された。ダイレクトメールの担当だった彼らが現役社員だった頃、名簿を光磁気ディスクにコピーし、外部に持ち出していたのである。
半年後、逮捕された元社員らの公判が始まった。夫婦が「事件を見届けたい」と足を運んだ法廷で、元社員は情報流出への関与を否認した。閉廷後、報道陣に囲まれ、高田はぽつりと語った。
「本当のことを言っていないですよね……」
この事件を振り返る時、高田は今も悔しさで胸が一杯になる。そして5年前のある出来事を思い出す。
その元社員の一人が、99年に退職した時のことだ。朗らかで、笑顔を絶やさない青年だった。彼は退職に当たって、「社長にぜひ色紙を書いてほしいんです。一生の記念にします」とせがんだ。日頃はめったにサインや色紙には応じない高田だが、その時だけは自らこう書いて渡した。
「人は人のために生きてこそ人」
人のために--その言葉には、高田の人生が凝縮されている。恵子は、「これほどまでに人に裏切られたのは、私達にとって初めての経験でした」と胸の内を明かした。
番組制作に妥協はない
JR佐世保線早岐(はいき)駅から小さな商店街を抜けると、すぐに道は早岐瀬戸の細い海に沿って走り始める。両側には山が迫り、奥の深い自然の中へと吸い込まれていく。やがて道は海から離れ、高台へと駆け上がる。そして、突如として道は開け、明るい日宇(ひう)の街が姿を表す。遠く、明るいグレーの建物が陽射しを浴びている。ジャパネットたかたの本社である。
中では、約300人の社員が働いている。ビルの7階には立派な社長室が用意されているが、高田はほとんど利用しない。社員のいる3階フロアの一角に机を置いて陣取り、オフィスの中を常に歩き回る。
「子供はどうしてる?」「風邪は治ったか?」??高田は社員達に話し掛けては倦(う)むことがない。
テレビ制作部チーフの中島一成は、言う。
「入社して間もない頃、遅くまで残業していたら、遠くから『どうだあ?』と声を掛け、ミカンをバンバン社員達に投げながら歩いてくる人がいた。それが高田社長だったんです」
社員と共にいる時の高田はオフィスの光景に溶け込み、強烈な存在感はない。お馴染みの甲高い長崎弁はテレビの時だけで、日頃の声は低く穏やかだ。
毎週火曜日には、本社から車で数分の自社スタジオに入る。
取材で訪れた日、収録していたのはマイク型のパーソナルカラオケだった。音程の採点機能が付いたこの製品の紹介を、高田は何度も撮り直す。牧村三枝子の「みちづれ」を自ら歌ってみせるのだが、上手過ぎる高田は音程が外れず、機能をうまくアピールできない。一つのテイクが終わる度に高田は顔をしかめ、最終的に10回近くも撮り直した。
見ていて気付くのは、高田が決して映像としての完成度を求めているのではないということだ。完璧と見えたテイクでも、高田からダメ出しがある。逆に途中、言葉に詰まったり、言い間違いをしても気にしないこともある。不思議に思って尋ねると、こんな答が返ってきた。
「要は視聴者へのメッセージの伝わり方なんです。カメラワークで商品にズームで寄っていった時の速さを例に挙げれば、1秒、2秒の差でイメージが全然違ってくる。その微妙な部分を変えていくことで、売り上げが3倍に跳ね上がったりするんです」
高田が求めるメッセージの伝わり方の完璧性は、本人にしか理解できない“職人技”だ。
テレビ制作部リーダーの塚本慎太郎はこう話す。
「高田社長は時にはわざと訛ったり、言葉を間違えている時もあるのではないかと思う。それが地なのか演技なのか、いまだに分からない」
収録の途中、高田はあの甲高い特徴的な声でハイテンションに語り続ける。スタジオの中で、そこだけが熱を帯びている。だが、撮影が終わると、高田の存在感はすっと薄れ、穏やかになる。その変わりようは鮮やかだ。
普段の穏やかな経営者の顔、収録中の職人然とした姿、画面から伝わるどこか土着的なイメージ。高田の内面を形作る重層構造は、どのようにして形成されたのだろうか??。
実家のカメラ店で基礎築く
高田は48年、長崎県平戸市で生まれた。兄と弟、妹の四人兄弟。実家はカメラ店である。
県立猶興館(ゆうこうかん)高校時代の同級生、吉永正範は、当時の高田について、「何だかいつも、遠い先を見据えているような不思議な雰囲気の生徒でした」と振り返る。そして、「女の子から好かれていても気付かない、朴念仁だったなあ」とも評した。
大阪経済大学経済学部に進み、英会話のサークルに入って英語に熱中した。貿易業務で好きな英語が生かせると聞き、阪村機械製作所(京都府久御山町)に就職。すぐに欧州に派遣され、機械の売り込みで西欧から東欧、北欧までを飛び歩く生活を続けた。まだ海外旅行が一般的になる以前、外国語に憧れていた20歳そこそこの若者には、刺激的な毎日だった。
だが、高田は8カ月後に帰国すると、あっさり会社を辞めてしまう。大学時代の友人に「一緒に翻訳の仕事をしないか」と誘われたためだ。しかし、その話は立ち消えになり、高田は実家の平戸に戻ってカメラ店を手伝い始めた。
「きっちり10年後とかを描くタイプじゃないんですよ。その場その場で、目の前のことに執着してしまうというか…」
そんな高田は、それまで好きだった英語の仕事をすっかり忘れるほど、写真の仕事に夢中になった。特に熱中したのは「観光写真」という仕事だった。
ホテルの宴会場に出掛け、社員旅行や親睦会などの宴席に入り込み、客の写真を撮りまくる。その日の内に現像・焼き付けし、翌日の朝食の席に持ち込んで販売するというビジネスである。誰もが気後れしそうな仕事だが、高田は最初からのめり込んだ。
「お客さんが下を向いたままの写真は買ってもらえない。どうやって話し掛け、顔を向けてもらえるかが秘訣。僕が撮った写真の9割は顔がこちらを向いていて、他の誰にも負けなかった」
この頃の経験が、後の通販番組の素地になっていったのだろう。メッセージを相手にどう伝え、どう受け止めるかという貴重な訓練だった。
平戸の実家から独立し、仕事はさらに忙しくなった。一日に数百人も撮影し、店に戻ってからは妻と二人で夜っぴて写真を現像した。写真やカメラの販売と並行し、ビデオカメラやカラオケセットの販売なども手掛けるようになった。戸別訪問を繰り返し、玄関先でビデオカメラの使い方を説明して歩いた。
子供は3人立て続けに産まれた。店舗兼自宅の一階で高田が接客をしていたら、幼子が二階の階段から転げ落ちてきたことも何度かあった。親恋しさに自力で階下に降りようとして、そのまま落ちてしまうのである。それほどまでに夫婦は忙しかった。
その頃、高田の下にパートとして入社し、今はジャパネットでラジオ制作部長を務めている浦明美は、当時のある光景を鮮烈に覚えている。高田が店の片隅の薄暗がりで、子供達を抱きしめていた姿だ。
「奥さんが所用で数日間自宅を離れていた時、寂しそうな子供達を見て、辛くてたまらなかったのでしょう。胸に抱いて、じっとうずくまっていました」
後に長女は、高田の50歳の誕生パーティーでこんな風に挨拶している。
「いつも両親は忙しくて、近くにいませんでした。でも、社員の皆さんが周りにいてくれて、少しも寂しくなかった」
そして彼女は、こう言葉を継いだ。
「でも、父と母の姿をずっと見てきて、大人になったらこんな夫婦になりたいと思ってきました」
高田がラジオショッピングを始めたのは、90年のことだった。きっかけは、地元のNBC長崎放送が商店街にラジオカーを派遣し、店先で店主に商品の説明をさせる企画を始めたからである。興味を持った高田はすぐに申し込んだ。約5分間の放送で、ビデオカメラが10台も売れた。
自らの買い物の失望が原点に
これを機に、高田はラジオにのめり込んでいく。番組枠を増やそうと局に掛け合うなど知恵を絞り、やがて全国展開を進めるようになる。
<このビデオはね、ズームが凄いんですよ。10人並んで記念撮影して、普通は5人ぐらいしか入りませんよね? でも、このビデオだとね、10人並んでも全員が入っちゃうんですよ>
観光写真や戸別訪問で鍛えられたそんな商品トークが、マスメディアという媒体を得て一気に花開いた。14万円近いビデオカメラをラジオで紹介し、一度に200台の注文が殺到したこともあった。
94年にはテレビにも進出。その後の成功はあまりにも有名だ。現在、全国で流れる同社のテレビ通販番組は、年間で延べ1万本以上に達し、年商は700億円を超えるようになった。
“周りの皆が幸せであってくれればいい 会社を大きくすることに魅力は感じない”
テレビ通販という物質文化の権化のようなビジネスを手掛けるのだから、さぞかし自身もこだわりの品々に囲まれた生活をしているのではないか。しかし、意外にも高田は、物欲とは無縁の人物だ。広報担当の島田万里は、「車は社用車。自宅にもモノは少なく、モノに執着する様子はほとんどない」と言う。
試しに「最近、どんなモノを買いましたか?」と聞いてみると、やおら携帯電話を取り出した。
「今年ね、沖縄に社員旅行で行った時にこのストラップを買ったんです。これぐらいかな?」
そんな高田が、番組の中ではモノを使うことの楽しさを言葉巧みに訴え掛ける。
<デジカメも600万画素になったらね、こんなに大きく引き伸ばせるんですよ。毎月1枚、こういう大きな写真を1枚作ったらね、一年に12枚。これをお子さんに残してあげたらね、たいへんな宝物になりますよ!>
メッセージは、一貫している。商品の機能やテクノロジーそのものではなく、その商品をどう使えば生活が豊かになるのかを、語り続けているのだ。
モノへの期待と、落差
戦後、日本の商品開発は徹底的な技術先行型で行われてきた。それは技術の進化を促したけれども、一方で使いにくく、分かりにくい大量の製品群を生み出してしまった。高田がテレビやラジオで発信し続けているメッセージは、そうした文化への強烈なアンチテーゼではないか。
そんな高田の思いをさかのぼると、ある“買い物”に辿り着く。カメラ店で頑張っていた80年代、日頃あまり面倒を見られない子供達の姿を記録に残そうと、ビデオカメラを購入した。まだビデオが珍しい頃で、巨大なビデオカメラは60万円もした。夫婦は無理をして月賦で新製品を購入したのである。
だが、カメラは重くて使いづらく、子供の運動会に一度活躍したきりだった。モノへの期待と、落差。その苦い思い出が、今も高田の心の奥底にある。
恵子はこう話す。
「あの時の悔しさは、皆さんに安くいいモノを提供して、生活を豊かにしてほしいという気持ちの原点になった。分割手数料を当社負担にしたのも、あの悔しさがあったから」
高田の願望は、2004年秋に放映されたテレビCM「新しい人。ビデオカメラ篇」に、象徴的に描かれている。このCMは、高田が企画段階から全面的に関わって制作された。
--テレビ画面を見つめる男の横顔。独白が流れる。
<子供の頃の自分を見て喜ぶ男は少ない。僕は今、古いビデオの中の父の姿をじっと見ている。僕を叱る顔、僕をなだめる顔、僕を見守る目。そんな父の姿は、遠い幸せな日々に僕を連れ戻してくれる>
ビデオには、若かりし頃の父親が子供達と遊ぶ古い映像が流れている。ソファに座る男のひざには、まだ幼い息子が遊んでいる。静かな独白が続く。
<子供のために僕を撮ろう>
「豊かな生活」を実直に提案し続ける
「豊かな生活」を実直に提案し続けたからこそ、ジャパネットは世間に受け入れられて来たのだろう。では、自らの会社が「豊か」になる方向性をどう考えているのか。高田の答えは常に恬淡としている。
--株式公開の目標は?
「その気持ちは僕の中にはない。公開すれば株主のためにということを考えなければならず、責任のあり方が違ってくる。それは自分が望む生き方ではなく、僕自身が支えられない」
--でも、企業体としては成長を志向すべきでは?
「ベンチャー企業が大きくなろうとするのは立派なことだと思うけれど、僕の考えとは全然違う。個人としては、そこまで自分の人生でやりたくない」
--都会に本社を移転させることは?
「それで5000万円のコスト増になるんだったら、そのお金で社員旅行をして皆で楽しんだ方がいいですよ」
取材の終わりに、どうしても聞きたかった質問を高田に投げ掛けた。
--個人としての、高田さんの目標は何なのですか?
高田は、笑いながらこう答えた。
「僕も含めて、周りの皆がハッピーになる。それでいいんじゃない?」
そこには会社という組織を徹底的に共同体としてとらえ、家族として共に歩んでいこうという頑強な意志があるように思えた。
それは、90年代以降の苛烈なグローバリゼーションに洗われる以前、古き良き時代に日本企業が目指した理想形でもあったのではないか。
同級生の吉永は、高田を「天性の商売人だと思う」と評する。商売人としての才能、誰にも真似できないトークでモノを売りまくる卓越した才能。
しかし、高田はその才能を、米国的な企業拡大に結び付けようとはしていない。むしろ“職人技”として割り切り、家族と社員、そして顧客の豊かな生活のために捧げようとしている。そんな高田の思いは、彼の風貌にある種の清々(すがすが)しさを与えているようにも思える。
高田はひょっとしたら、自分が「年商700億の企業経営者」であることを、憎んでいるのかもしれない。(文中敬称略)
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高田 明 Akira TAKATA
1948年長崎県平戸市生まれ。71年大阪経済大学経済学部卒業後、阪村機械製作所に入社。74年父親が経営する「カメラのたかた」入社。86年に独立して株式会社たかたを設立、社長に就任。90年に始めたラジオショッピングをきっかけに通販に力を注ぐ。99年ジャパネットたかたに社名変更
取材・文◎佐々木俊尚
写真◎的野弘路
※この記事は日経ベンチャー2005年1月号に掲載されたものです。その時点での取材内容となります。