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(回答先: ベンジャミン・フルフォードは「天気操作」を疑う(政治戦略・軍事戦略について)。 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 5 月 13 日 14:06:54)
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■■第1章:ベルリンのチベット人死体の謎
●1945年4月末。ナチス・ドイツの首都ベルリンは、瓦礫と死体の散乱する廃墟と化していた。
血なまぐさいヒトラーの野望は、連合軍の総攻撃の前に打ち砕かれた。6年間にわたる忌まわしい狂気が、もうすぐ終わろうとしていた。激しい爆撃で破壊された街の中を、連合軍の戦車が、砂煙を舞上げながら走っていた。ドイツ兵らしき人影が、ちらっとでも見えたら容赦なく発砲した。上空にはソ連軍の戦闘機が飛び回り、たえず地上の動向を監視していた。
●その日、連合軍の兵士たちは、東ベルリン地区の壊れたビルの中をパトロールしていた。隠れているドイツ兵を摘発するためであった。
彼らは崩れかけた部屋を一つ一つ見て回った。1階のある部屋に踏み込んだ彼らは、そこでSS(ナチス親衛隊)のマークを付けた7人のドイツ兵らしい死体を発見した。ありふれた光景だった。変わっている点といえば、6人の死体が円を描くように横たわっており、中央に1人の死体があることだった。彼らはそのまま通り過ぎようとした。
●しかし、そのとき兵士の1人が、死体の様子がおかしいことに気付いて、仲間を呼び止めた。
彼らは改めて7人の男の死体を眺めた。円の中央にあおむけに倒れている男の両手は祈るようにしっかり組まれていた。その手には不気味な「緑色の手袋」がはめられていた。しかし何より彼らを驚かせたことには、男の顔がまぎれもなく東洋人、それもチベット人のものだったことである。中央の男ばかりではなかった。ドイツの軍服を着てはいるが、周りの男たちもみなチベット人であった。
「これは、いったい……」
連合軍の兵士たちは、説明のつかない目の前の光景に声も出なかった。
ただ明らかなのは、チベット人たちは、殺されたのではなく何らかの儀式的な自殺を図ったらしいということだけだった。
それらの死体は、いずれもドイツ軍の制服を着てはいるものの、認識票もなければ、身分証明書も所持していなかった。遺体は整然と地面に横たわり、それぞれが儀式用の短剣で自分の腹を貫いていたのである。
●この事件を皮切りとして、ベルリンの至る所で、数百体にものぼるチベット人の死体が続々と発見された。
また、ヒトラーが自殺したとされる日以降も、ベルリンにおいて最後まで頑強に抵抗する部隊があったが(特にベルリンの通信管理センターでの戦闘は激しかった。全てが倒され、最後の死守がなされていた)、この通信管理センターの廃墟から発見された兵士1000人の遺体はチベット人だった。彼らはヒトラーの近衛兵でもなく側近でもないのに、最後の最後まで命を賭して戦っていたのである。
●これはコーネリアス・ライアンの『ヒトラー最後の戦闘』にも記述されている広く知られた事実である。いったいチベット人たちは第二次世界大戦下のベルリンで何をしていたのか? ナチス・ドイツとチベットの間には、どのようなつながりがあったのか? 謎は深まるばかりであった。そして、この謎の鍵を握っているはずの最大の人物アドルフ・ヒトラーは、ナチス帝国崩壊とともに姿を消しており、チベット人の死体の謎を解く手掛かりは何もなかった。
しかし戦後、ナチスの「影の部分」についての研究が進むにつれ、意外な事実が明らかになる。
その意外な事実はこれから少しずつ段階的に紹介することにします。
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■■第2章:ヒトラーに思想的影響を与えたハウスホーファー教授と「緑龍会」
●カール・ハウスホーファーはドイツの代表的な地政学者である。
「地政学」とはイギリスの帝国主義者サー・ハルフォード・マッキンダーのひねり出したもので、植民地拡大主義を正当化したものである。ハウスホーファーは第一次世界大戦で数々の軍功をあげた将軍であり、大戦後はミュンヘン大学の地政学教授となった。そして彼は「ミュンヘン地政学研究所」の所長も務めた。
●ハウスホーファーは単なる著名な地政学者というだけではなかった。彼には秘教的な傾向もあった。
1908年から数年間、武官として日本に滞在したが、その間に禅の研究を行なった。また、その来日前、インドやチベットで諜報活動に従事しており、チベットでラマ僧から奥義を受けたと主張していた。
彼はベルリンに『ヴリル協会』といった秘密結社をつくった。この結社の目的は、アーリア人種の根源を探り、ヒンズー教のクンダリニー・エネルギーに相当する“ヴリル”の気力を呼び起こすために精神集中訓練を行なうことだった。
ハウスホーファーは、“超人”の秘密を所有するチベットの結社と関係があると称し、イギリスの作家で神秘主義者のブルワー・リットンの、未来の超人種に関する著書『来たるべき民族』を字義通り受け入れていた。
●このミュンヘン大学教授のハウスホーファーはランズベルク刑務所において運命的な出会いをする。1923年、ミュンヘンのビヤホール暴動に失敗して捕らえられていたアドルフ・ヒトラーとの会見である。この会見は、ヒトラーの片腕であり、ミュンヘン大学で教授の教え子でもあったルドルフ・ヘスの仲介によって実現したのであった。
ハウスホーファーは毎日のようにヒトラーを訪れては、ユダヤ人によるドイツ支配を崩し、優秀なゲルマン民族によって全世界が支配されねばならないと説いた。そして、オカルティズムによる世界征服という思想をヒトラーに植え付けた。そしてヒトラーに『我が闘争』の執筆を勧め、共同執筆者となった。(ヒトラーは1924年12月20日まで刑務所に収容されていたが、ヒトラーへの待遇は極めて寛容なものであった。『我が闘争』はその間に執筆されたのである)。
こうして、ハウスホーファーは1920年代にはヒトラーの政治顧問を務め、同時に、「トゥーレ協会」の黒幕ディートリヒ・エッカルトに次ぐ、ヒトラーの第2の“秘教助言者”となったのである。彼は「ドイツ総力戦研究所」の所長に就任し、彼が発刊した雑誌『地政学評論』はナチス政権の政策・理論の基礎として重用された。
●なお、ハウスホーファーはナチ党員にはならなかったが、ヒトラーに対して援助は惜しまなかった。
ヒトラーはハウスホーファーとの出会いののち、ミュンヘン大学へ聴講に行き、ハウスホーファーの尽力で大学の図書館に通いつめ、独学で収蔵されている図書をほぼ全て読破してしまった。これをみたハウスホーファーはヒトラーに次のように言っていた。
「君は人が4年かかってもできないことを、わずか1年でやり遂げた。君は素晴らしい天才であり、全ドイツ国民が君を求めている。」
◆
●ハウスホーファーやその他の「ヴリル協会」のメンバーの後押しにより、ナチスは何度もチベットに調査団を派遣することになる。1926年から1942年まで毎年派遣された調査団は、チベットの僧侶に接触し、深い関係を築きあげていった。1926年頃には、ベルリンとミュンヘンにちょっとした「チベット人区」ができあがっていた。1929年には、チベットの海外本部がドイツに設立され、ベルリン、ニュルンベルク、ミュンヘンに支部が開かれた。
だが、チベットはナチスに全面的に協力したわけではなかった。ナチスに協力してくれたのはチベットの一派だけで、彼らはドイツでは「緑の男の会」として知られた。これは数百年におよぶ日本の「緑龍会」との強いつながりから来ていたという。
●ベルリンでは、ヒトラーは「青衣の魔術師」とも「緑の手袋をした男」とも呼ばれるチベット教団の指導者と定期的に会っていた。透視力と予知力に定評のある僧侶で、新聞紙上でドイツ議会で選出されるナチスの代表議員を三たび正確に予言した。更にヒトラーがドイツの指導者になる正確な日付ばかりか、第二次世界大戦が始まる日付まで予言した。
この正確な予言がオカルトに興味を抱くナチ党員の間でたちまち広い関心を呼び、ヒトラー同様ヒムラーもまたチベットのラマ教に強い関心を抱くようになった。そしてベルリンにオカルト訓練カレッジを開設して、SSの幹部に特に魔術課程をとるように命じたのであった。
●なお、「緑龍会」とは、ハウスホーファーが日本駐在の武官時代に入会した秘密結社である。
「緑龍会」の会員たちは人間に内在する神秘能力を修行によって開花させようとしていたらしい。また、この会の起源はチベットにあったという。そしてハウスホーファーは「緑龍会」に入会を許された、たった3名のヨーロッパ人のひとりだったという。この「緑龍会」所属の7人の会員がドイツの会にも参加していたそうだ。
この「緑龍会」に関しては不明な点が多く、その存在自体を否定している研究家もいるが、いずれにせよ、日本にひそかに伝えられている何ものかを汲み取ろうと試みていたことはまず間違いない。実際、ハウスホーファーの日本理解は驚くほど深いのである。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。
●ハウスホーファーが日本に関して書いた本は、まず『大日本(大いなる日出ずる国)』(1913年)。そして次が『日本の地理的闡明におけるドイツ人の分け前』(1914年)。後者はミュンヘン大学の哲学の学位論文として提出され、彼は最高の栄誉をもって地理学、地質学および歴史学についての学位を得たのであった。
陸軍を退役後、ミュンヘン大学の講師となってからは、著作活動が盛んになり、『日本帝国』(1920年)、『日本の国情』(1921年)、『日本帝国の地理的発展』(1921年)、『日本及び日本人』(1923年)、そして大著『太平洋地政学』(1924年)などと続いた。
特にこの『太平洋地政学』は岩波書店や青年外交協会から翻訳刊行され、日本でも多くの識者に強い影響を与えた。例えば、マルクス主義経済学の平野義太郎や歴史学の信夫清三郎といったそうそうたる学者を擁した「太平洋協会」が設立されたし、京都帝国大学の地理学教室を中心としたグループは地政学に転向し「日本地政学宣言」なる旗揚げまで行なったのである。
●ハウスホーファーの著書のほとんどは日本を対象としているが、なぜ日本なのだろうか?
ハウスホーファーによると、日本人たちの間における、あの不思議な一体感に大いに関心を持ったという。日本民族はその島国的な生存圏に対するあらゆる危険をテレパシーのように敏感に感知する能力を持っていると、彼は言う。このような一体感はドイツには欠けていた。それはナチスがドイツ民族を集団化させるのに、宣伝にいかに苦心したかでも分かる。
また彼は、20世紀が大西洋文化の窒息状態からの解放であるとしたら、太平洋という呼吸空間を柱としなければならないのは当然と考えた。アメリカやイギリスが大西洋的国家から転じ、植民地政策により太平洋的国家へ変身しようと望んだのは、先見の明というものだと感じていた。当時のドイツは、この西洋列強による太平洋分割競争に乗り遅れていたため、今後太平洋に討って出るためのドイツの戦略として、彼は地政学的に太平洋の“高気圧”とみたてた日本の動きを重要視していたのである。
●なお、彼は、日本民族の起源を南太平洋の「海洋遊放民族」に求め、その最初の国家は瀬戸内海地方に建設されたと主張していた。太平洋=大洋州の各地の“天地創造”がそれを裏付けていると、彼はいうのである。更にかつて太平洋は「中心の盆地」であり、日本人の祖先である海洋民族はインドの島々からアメリカ大陸の太平洋海岸地方にまで、結合的な文化圏を築いていた、と推測していた。
◆
●ハウスホーファーは、第二次世界大戦への日本の動きにも理解を示した。佐藤信淵の「世界征服計画」の一部を肯定するのだ。
例えば満州ヘの進出は、“日本国民の生活圏に対するあらゆる危険をテレパシーのように感知する能力”がしからしめた賢明な戦略であった、と評価する。日本は満州と経済ブロックを組んで力をたくわえ、ゆくゆくは中国とインドを含む「モンスーン諸国」のリーダー格となって、その自立と発展をはかるべきだ、とまで主張したのだ。当時の日本の「大東亜共栄圏」講想に、遠くドイツから地政学による理論的支柱を贈ってきたのである。
だが、なんのために? 現代のハウスホーファーの批判的研究者もその点を指摘している。
曽村保信氏は著書『地政学入門』の中でこう書いている。
「なぜドイツの陸軍軍人だった彼が、本職をなげうってまで、太平洋の地政学に心魂を傾けるようになったのか? これは、やはり解きがたい一種の謎である。」
●ただここで注意しなければならないのは、ハウスホーファーは当時の日本の生活圏拡大の動きに理解は示したが、その全部に賛成したわけではないという点である。地政学的観点から、満州の日本による秩序化までは認められるが、それ以上は侵略であるとともに、全く勝ち目がないと日本軍部にアドバイスしていたのである。
1936年に日本とドイツの間で「日独防共協定」が締結された際、ドイツ側の功労者として、ハウスホーファーは日本政府から勲二等瑞宝章を授与され感謝された。しかし、その翌年の夏、日本軍部が盧溝橋事件によって日中戦争(支那事変)に突入し、上海・南京を占領して、ハウスホーファーの助言を裏切る形に出ると、彼は在日のドイツ武官を通じて、この無謀な侵略を中止するよう警告していたのである。
●彼は日本は大陸より太平洋に目を向けよ、と強調していたのであるが、同時に地政学的には日本とドイツはソ連と提携しあうのが必須だと考えていたようだ。そのため、のちにヒトラーが彼の地政学的主張を無視する形でソ連侵攻を開始(1941年6月)すると、ハウスホーファーのヒトラーに対する影響力は決定的に低下したのであった。
このハウスホーファーとヒトラーの関係悪化の状態は、ずいぶん前から始まっていたようで、1937年にハウスホーファーが日本に再来日した際には、ナチス本部から日本支部に秘密指令が出されており、その内容は「彼の歓迎を極力控えるようにし、しかも滞日中の動静を逐一ベルリンに報告するように」というものであったという。
●ちなみに、ハウスホーファーの息子アルブレヒト・ハウスホーファーは、1944年夏、ヒトラー暗殺計画に関与した罪で、レフルトレスラッセ刑務所で他の大勢の容疑者と一緒に処刑された。彼のポケットからは、次のような言葉を書きつけた紙片が見つかったという。
「わが父は、悪魔の息吹きを意に介さず、かくして悪魔をばこの世に解き放ちたり」
ハウスホーファーは、この息子の事件および彼の妻がユダヤ系という2つの理由で、全ての地位を剥奪され、ナチス当局から監禁状態の生活を余儀なくされるようになったのであった。
◆
●さて、最後に、ハウスホーファーが日本で入会していたとされる「緑龍会」のことだが、個人に課せられた使命に失敗すれば、「緑龍会」の会員には儀式的な自殺が求められていたという。実際、ナチスの「使命」に失敗したあと、ハウスホーファーがやったのもまさにこれだった。
ナチス・ドイツ崩壊後の1946年3月10日、ハウスホーファーは、妻を道づれに毒(砒素)をあおって死んだ。(このとき日本流の「ハラキリ(割腹自殺)」をしたと主張する研究家がいるが、真偽のほどは定かではない)。
彼の埋葬地には十字架も墓石もない。彼が抱いていた秘密は全て、彼の死とともに消え去った。ハウスホーファーはヒトラーが自分の意図した方向から徐々に外れていき、暴走していくのを目にして、彼に「知識」を授けたことを大いに後悔していたのではないだろうか。
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■■第3章:ナチスと「来たるべき民族」伝説
●かのカール・ハウスホーファーが夢中になっていた本に『来たるべき民族』があった。
彼はこの本をヒトラーに貸し与えたが、案の定、ヒトラーもまた夢中になった。
この『来たるべき民族』は、1871年にイギリスの小説家ブルワー・リットンによって書かれたSF小説であるが、この物語はヒトラー世界観に決定的な影響を与えたのであった。この本は、チベットの「シャンバラ伝説」とナチスとを結び付けるうえで、非常に重要な役割を果たしたのであった。
●では『来たるべき民族』とは、具体的にどのような内容の小説なのだろうか。
ひとことでいうなら、地底に栄える高度な文明社会の秘密を描いた物語である。
そこで描かれた地底民族「ヴリル・ヤ」は、もともとは地上に住んでいた民族の一部族だったが、大洪水などの天変地異を逃れて、山中の洞窟に避難し、最終的に地底に都市を建設するまでになる。そして、そこで凄まじい未知エネルギー「ヴリル・パワー」を発見したことにより、地上の人類より遥かに進んだ超科学を駆使するようになった。更に人々は「ヴリル・パワー」に基づいたサイキック能力を開花させるようになった。もちろん、この地底民族はいつまでも地底に住み続けるつもりはなく、ある時期が来たら地上に戻って、地表民族を滅ぼして地球全体を支配することを目的にしているという。
著者ブルワー・リットンは最後に、この恐るべき地底民族が地上に現れるのが、少しでも遅くなるようにという願いを書き付け、人類への警告として、この物語を結んだのであった。
『来たるべき民族』の詳しいあらすじは、別の機会に載せたいと思う。
●『来たるべき民族』が発表された当時、この物語の真偽を巡って、イギリスの秘密結社「黄金の夜明け」団の会員たちの間では何度も議論が行なわれた。著者のブルワー・リットンは、この物語はフィクションであると主張していたが、ブルワー・リットン自身、神秘主義に深く通じていて、実際に薔薇十字系の結社の会員であったという事情もあり、「黄金の夜明け」団の会員の多くは、ブルワー・リットンが実際に地底の超人たちと接触をもっているにちがいないと考えた。
この「黄金の夜明け」団ドイツ支部の草創期からのメンバーに、カール・ハウスホーファーがいた。彼は軍人時代に参謀本部の一員として、インド、アジア、日本を訪れていたが、この時、アジアの神秘主義を深く研究し、「シャンバラ伝説」についても知識を得ていたのであった。彼は「地政学」のドイツの代表的エキスパートであったが、彼は「地政学」に独自のアイデアを加えて、ナチス政権の政策・理論の基礎として重用されたのである。
●ハウスホーファーは、地底王国(アガルタ)は「瞑想の場、神の隠れた都市、世界のどんな人間も入れない場所」であり、その首都シャンバラは「その力が個々の人間や集団に命令を下し、人類が時代の転換点へと達するのを助ける町」であると述べている。
更にハウスホーファーは、アガルタを中心とした中央アジア地域こそ、ゲルマン民族発祥の地であると信じた。そして、ドイツ人の究極目標は、この地域(ハートランド)を完全に支配することによって、世界をユダヤの支配から解放し、ひいてはゲルマン人による世界制覇を達成することであると主張するに至った。地政学の観点から「ハートランド」を制する者はすなわち世界の覇権を握るのである、と強調した。
この点で、ブルワー・リットンの『来たるべき民族』は、彼がアジアで得た信念と一致した。つまり、地底民族「ヴリル・ヤ」とアーリア人は共通の祖先を持つがゆえに、自分たちも全生命力の源泉「ヴリル・パワー」を用いる能力を持っているという確信であった。そしてその確信に基づいて「ヴリル協会」なる団体が組織されていたが、ハウスホーファーはこの団体にも参加し、重要な役割を演じていた。「ヴリル協会」はヴリルの制御技術を開発することを目的としていたが、彼はヴリルを自由に操る者が世界を制覇する、という『来たるべき民族』の思想を、そのまま信じていたのである。
●ハウスホーファーとヒトラーの運命的な出会いは、第一次世界大戦後のランズベルク刑務所であったことは、既に紹介したが、ハウスホーファーがヒトラーに『来たるべき民族』を貸し与えたのはこの時であった。
独房の中でページをめくるヒトラーは、強い興奮を覚えたという。ハウスホーファーの解説により、この奇書が事実に基づいて書かれたものだと知らされたヒトラーは、自分たちこそこの小説に書かれた「来たるべき民族」にほかならないと信じたのである。更に、1925年、中央アジアを探検したポーランド人の地理学者F・オッセンドフスキーの『獣・人間・神々』が出版されるにいたり、地底の超人たちの存在に関するヒトラーの確信は不動のものとなった。
●ヒトラーは学者たちに命じて、著者ブルワー・リットンの生活を詳しく調査させ、ブルワー・リットンが「ヴリル・ヤ」にいたる坑道を発見したと思われる鉱山の正確な場所、そして訪れた日時までを割り出させた。
一方でヒトラーは、シャンバラと深いかかわりがあるはずのチベットの僧侶たちを大勢ベルリンに迎え、彼らが受け継ぐはずのヴリルの技法によって、軍事政策を支援させようとした。彼らは、ベルリンの随所に配置され、ナチスの勝利を祈る儀式を行なったという。そして、ヒトラー自身も、政策を進める上で、高位の僧侶に意見を求めることがしばしばだったという。また、ヒトラーは軍事行動を起こす時、特殊なチベットの秘教カードを用いて、一種の易を立てたとも言われている。この方法は、ナチ党の母体となった「トゥーレ協会」で用いられたものだが、ヒトラーはこの易に熟達していたという。
また、アーリア人=チベット人起源説を実証するために、ナチスの科学アカデミー「アーネンエルベ」の傘下に「スウェン・ヘディン協会」が設立され、チベットに調査団を送り出している。
●このように、ドイツのチベット人グループとカール・ハウスホーファーは、ヒトラーから高い評価を受けていた。
だが、それは1941年までのことである。その後、ソ連軍がスターリングラードでドイツ軍を撃退し、戦局が大いに不利になると、ヒトラーはチベットの魔力を以前ほど信じなくなる。またヒトラーに対するハウスホーファーの影響力も低下し、もっと邪悪な人物フリードリヒ・ヒールシャーがこれに取って代わる。
フリードリヒ・ヒールシャーはハウスホーファーより更に高度の“魔術集団”に属し、一段上の秘術を身に付けていたという。SS長官のヒムラーさえも彼を恐れ、ヒトラーに次ぐドイツの実力者と述べたぐらいだ。ヒールシャーの冷酷な悪魔的な指導のもと、ヒトラーは急速に破滅的な道を辿っていった。
(後略)
(写真説明は削除しました)
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