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(回答先: IWAKUNI迫る爆音【深層を追う】[1]再編協議の裏側 「厚木の受け皿」日米着目(中国新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 2 月 28 日 17:40:42)
http://www.chugoku-np.co.jp/iwakuni/Bakuon/Ib08021901.html
[2]消えた夢 跡地返還要求棚上げ '08/2/19
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▽沖合移設優先で「遠慮」
「跡地返還がセットだったからこそ、沖合移設にも賛同したのに」。岩国基地に隣接する岩国市旭町の元自治会長、宮原武夫(84)は、はがゆさを隠せない。宮原の父は戦前、土地を旧海軍に二束三文で買い取られ、今は岩国基地の一部になっている。沖合移設の完了後に基地を部分返還させ、地域のために活用したい―。長年の夢は米軍再編でさらに遠のいた。
作戦として封印
福岡市の九州大構内へのファントム機墜落を契機に沖合移設運動が始まったのは一九六八年。墜落の危険だけではなかった。隣接する工場群の高さ制限をはじめ、基地が経済発展を阻害しているという認識は、市民の大半に共通していた。
行政、経済界、住民が一体となった運動。跡地の返還と活用は当然の議論だったが、国に事業化を求める作戦としてとりあえず封印される。岩国市議会が沖合移設を正式に打ち出した七一年の決議。「面積と同等もしくはそれ以上の土地を日本国を通じて岩国市に返還させること」との文言を入れるよう求めた修正動議は否決された。
だが、国の視線は冷ややかだった。当初、六千億円と試算した事業費。国会議員らへの陳情を繰り返した元市議の沖本旭(69)は「地元選出の佐藤栄作、岸信介両先生は動いてくれたが、当初は本気にしてくれない人も多かった。夢みたいな話を言っちゃいかん、とも諭された」と振り返る。
実現が不透明なまま七三年度以降、調査費だけが国の予算に計上される。それも大蔵原案から外され、ぎりぎりの復活折衝で。「県と市、周辺町村でつくる期成同盟会は東京ですごい交際費を使っていた。今で言う『官官接待』もあった」。当時を知る元市職員は明かす。地元の危機感はそれだけ強かった。
八二年一月、東京・砂防会館の「岩国基地沖合移設促進大会」は約千五百人の熱気であふれた。自民党幹事長代理の竹下登をはじめ衆参国会議員四十八人が出席。「これ以上待てない」と住民代表も力説した。この年、防衛施設庁の審議会が現在と同じ千メートル移設案を打ち出す。「あと一歩」のムードの中、着工を優先するため跡地返還は完全に棚上げとなった。
道路や公園要望
ただ、九二年に国が事業推進を決定した後も「遠慮」は続く。翌年末、基地に近い川下地区連合自治会が跡地返還を求めようとした市議会請願は取りやめになった。返還部分を道路や公園、運動広場に―との要望も出ていたが、「事業への悪影響が出かねない。将来の課題にしたい」と市が説得。漁業補償費などが政府予算案に計上されるか焦点となっていた。
「百五十ヘクタールの返還を国に求める」。市長の貴舩悦光が市議会でようやく表明したのは、着工を翌年に控えた九六年十二月。二十年後をにらんで段階的に返還を進める構想だった。市は道路予定地として五ヘクタールの返還交渉を国と始めたが、めどが立たないうちに米軍再編の渦に巻き込まれた。
昨年五月、国は市に米軍再編後の基地のマスタープランを示した。空母艦載機部隊、空中給油機部隊…。新たな部隊を織り込んだ配置図では、面積が一・四倍となる基地全体を活用する。
かつて跡地返還を求めるデモ行進までした住民の願いは、かなわなかった。「一緒に頑張ってきた仲間はほとんど亡くなった。自分が基地の行方を見届けないと」。宮原は自らに言い聞かせる。(敬称略)
【写真説明】沖合移設実現への熱気であふれた「促進大会」。跡地返還の声は棚上げになっていた(1982年1月、東京・砂防会館)
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