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日さん、今日は、ご無沙汰しております。
表題に関する私なりの答えは月並みなものですが、“概観的にはとにかく人間は生きて来たのであり、そして今も生き、これからも生きてゆこうとしている”となります。では、“何のためにそうして来たのか、そうしているのか、そうしようとしているのか”、おそらくその問いにたいする答えは“人間の存在理由は種の保存(=遺伝子の承継)であり、その完結が存在目的なるが故だ。”となるでしょう。
様々な物語(歴史)がその過程では紡がれて来ましたし、現在も尚進行中の物語もあります。さらには、この先それらがどのように展開しどんな帰結に到るのか定かではありません。しかしながら、種の保存に因む格闘劇は人類を含む多くの生命体を巻き込みながら今後も続いていくと想われます。
そして、この一見乾いた現実(=存在状況)に対峙しそれを起点としながら、我々は自身の“生”の意味を問い直さなければならないでしょう。すなわち、果して我々の“生”には存在理由を完結すること以上の意味があるのだろうかと。
例えば自己の救済が他者の救済へと導かれると説くのは仏教的な教えの、他者を救済することで自己が済われるのは神の思し召しであるとするのはキリスト教的なそれの特徴を成していると謂えるでしょう。何故そのような特徴(差異)が生じたのかと言えば、仏教を生んだ生存環境(世界)では曲がりなりにも人間活動の正当性が豊かな自然によって担保されていたこと、後者の場合にはそれが全く無かったわけではないが極めて過酷な生存環境に置かれていた人間にとっては自らの行動の正当性がとりわけ超自然的なものによって認証されていると考えざるを得なかったことに起因しているのではないでしょうか。
“苦”を説くことが出来たほどに生存環境に恵まれた世界があったのであり、それすらも不可能なほどに万人にたいし平等に生存環境が苛烈な世界があり、それぞれに救済の意味も様態も本質的に違ったものになってしまったのかも知れません。
かくしても人が存在理由の完結以上の意味を“生”に見出そうとするかぎりにおいて、Zoe(生物的存在)としての生命的規範(生命維持)とBios(集団的存在)としての社会的規範(秩序保持)を媒介にして自らのConatus(自己保存力)を対象化しつつその展開を模索してゆかねばならないことには何ら変わりがないでしょう。
Auf Wiedersehen.