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(回答先: 少し補足させていただきます。 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 11 月 28 日 22:18:02)
>願わくば、覚りの中に生き、覚りの中に逝きたいものですね。
悟りと書けば己の心のひとつの有り方。差取りと書けば差を取る事。覚りと書くなら...覚ますことですよね。
眠りから覚醒へ、死から生へ。
黒澤映画の「生きる」の一場面、50年程前に作られていながら、このテーマでこれを超えた表現を私はまだ知りません。
癌で余命数ヶ月と宣告された主人公。やる気の無い、役所の市民課長の恐怖と孤独と絶望。
どうせ死ぬならとあらゆる欲望を満たそうと街をさ迷い歩くも、満たされない。
そして、気付く。「今の仕事に命を投げ打とう。」今までが死んでいた。そして今、生まれた。
「ハッピバースデイツーユー♪」と、無関係に流れるその場に居合わせた隣の若者たちの誕生パーティの歌声を背にして、階段を下りてゆく主人公。ここでいつも感動で涙を禁じえません。
> 時間的に余裕がないことも一因でもあります。しかし、それ以上にあっしら氏のことは勿論ですが、影の闇氏の不在や松浦氏の辞去も投稿を控える原因になっているのかも知れません、そんなことが思い当たります。
カミングアウトすると松浦さんには過去の呼び掛けで個人的にメールを頂いたことがあります(この方にとってそれは問題ではないと思います)。あの方の中で完成されている未来の理想社会と日の中で描けている理想社会との突合せは数通で途切れたままです。並外れた人であり、度台日の手に負える相手では無かったので、保留させていただいております。が、蛮勇を奮って近々にも今度はこちらからコンタクトさせていただく事になるでしょう。
> 願わくば、覚りの中(うち)に生き、覚りの中に死にたいものです。それは、神を信じる者にとっては、神と共に生き、神の腕に抱かれて死にたいと謂うことになるのでしょう。
前にも書きましたが、森羅万象、太陽までもが擬人化して、日に微笑みかける、その不思議な感覚は神を意識する前からあったのです。
それが何であるか、その由縁を理解せぬ幼き日には一瞬で通り過ぎた感覚でしたが、今ではそれが日常の中に安定してあります。
日は既に生きながらに神に抱かれております。
> この“納得論”はまさしく日さんの真骨頂が表出しているものであり、あらためて納得させられました。
はい。日は真理を求めているのではありません。それは知り得ぬ身です。ただ納得出来ぬものは断じて受け入れぬだけです。