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(回答先: 日本の文化、風景、四季は大好きですよ 投稿者 mei 日時 2008 年 7 月 12 日 01:18:22)
>meiさん どうもです。
>【周りに合わせることも大事ですが、自分の信念で行動することも大事です。常識の範囲内で。】
meiさんの言う、この部分が今回の問題の本質です。
まず、自殺した校長先生を「自殺させない」には、どこを、どのように変えれば良かったのでしょう?
巡回構造を考えてみましょう。
1 君が代が国歌になった。
2 国歌を式典に歌うべきと主張する都知事が当選
3 都条例ができる。
4 教育委員会が君が代を半ば強制とする
5 管理職的教師は式典での君が代斉唱の協力依頼をする(以外の選択肢なし)。
6 体制側的教師は式典で君が代斉唱をする。
7 反対教師が君が代不起立で抗議する。
これが、一連の流れで、この先は、5〜7の繰り返しです。
1〜4までは、巡回構造から外れた「確認事項」
後は「上が決めてきた事だから、仕方がないよ」と「断固拒否」の現場の教師の対立でしかないのでしょう。
ここで、人権派の校長などだと、苦しむことになります。
家庭家族に対する責任などもあるから、給与・地位を投げ打って君が代不起立擁護をすれば良いという単純な代物ではないのです。
ここで、重要なのは事件構造は「最終的には、支配階級による労働者分断化による現場の意見対立」でしかないという事です。
誰が、自分の意見を引っ込めれば「校長先生の自殺がない?」のでしょう。
都知事か、不起立教師だけです。
都知事は「選挙で選ばれた公人」、不起立教師は「自分の主観を正しいと自分で判断しているだけの人」です。
>【右翼・左翼に限らず、テロは何の関係もない一般市民などを巻き込むのでよくありませんし、他人に迷惑をかけるような行き過ぎた行為はよくありません】
何故、この詭弁に気が付かないのでしょう?
もちろん、故意に詭弁を弄しているのではないのでしょうが、君が代不起立というのは「アピール行為・抗議行動」ですから「口パク」というような「目立たない行為」では意味はなく、「相手に対して、十分な嫌がらせ効果」を意識した行為でなければ価値がないのだろうと思います。
で、式典等には一般的には都知事までは来ませんから。
基本的には「君が代斉唱」を容認する校長や同僚教師に対して「嫌がらせ」を行うという「式典妨害」と、ならざるを得ないという性質を有してしまうのです。
「自殺校長が出る」という事態を知りながら「式典妨害とは言えない」とか「行き過ぎた行為とも言えない」と言うのは詭弁以外の何ものでもないような気がします。
イジメを認定するのは「いじめられた方」であり、式典妨害か、迷惑行為か、を認定するのは「式典の主催者」であり、校長を中心にした「式典を成功させようとする教師達」でしょう。
>【なぜ教師が反対しているかということが大事なんだと思います。】
ここは、理解しているつもりですよ。
なんせ、Kの中学時の恩師の一人は「ガチガチの思想教師」でしたから、もう40年くらい前から、「君が代不起立」とは付き合ってきたのです。
でも、君が代不起立する教師の「正義」は「自分の中で成立した正義」の行動でしかないのですよ。つまりは「主観の強弁」でしかないのです。
これを、「庶民の正義の行動」にするためには民主的な審査を受ける必要があるのです。
>【しかし、多数決で決定したからと言って、多数決による決定に、必ずしも少数派が決定に服従する必要はないと思います。】
この意見は、一定の正当性を有します。
「この多数決結果は疑問なので、再審査を求めます。」と主張するのは「自分の自由時間で行うべき事」でしょう。
少なくとも、賃金報酬を受けている「拘束時間内」に「実力行使的抗議行動」で、行う事ではないのではないでしょうか?
>【私が少数派なら(内容によっては)可能な範囲で協力はしますが、多様な意見を排除するのはどうかと思います。】
「信念によって歌えない」のなら「口パク」で協力しているフリすることすら、可能な範囲の協力にならないという意見もあるようなので、憑き物が憑いていると主張しているのですが、「多様な意見を排除すべきではない」にも限度はあるでしょう。
良いですか、どのような場合にも「意見の対立は起こり得て、多数決によっても解決しない場合」に、闘争という破滅的戦闘を避けるには「最終的には、どちらかが、その場を離れる」しかないのです。
君が代を歌いたくないなら「歌わなくて済む職場に行ってもらう」
日本の国旗・国歌が受け入れられないのなら「日本国から出て行ってもらう」しかないでしょう。
選挙の結果という多数決も受け入れられず、その再審査は「言論による話し合いによって、次なる機会を待つ」という「戦術を取れ」という意見すらも受け入れようとも出来ずに「実力行使に走ることを是」として、それ以外の意見を聞けば「権力側の走狗と罵り」、処分するほどの事ではないと、処分されるような実力行使を後押しして、実際に処分が出れば、不当と日本の「文化を受け入れない」のでしょう。
つまり、日本には住めないと「そちら側の人が言っている」のですよ。