★阿修羅♪ > 雑談専用32 > 209.html
 ★阿修羅♪
影の闇殿人を笑わせるにもほどがあるぞ!
http://www.asyura2.com/08/idletalk32/msg/209.html
投稿者 Ddog 日時 2008 年 6 月 24 日 01:04:19: ZR5JcjFY1l.PQ
 

(回答先: 影の闇殿の理屈は破綻している。ところで、能力が無いDdogと論争しないと言ってませんでした? 投稿者 Ddog 日時 2008 年 6 月 22 日 23:04:12)

影の闇殿 人を笑わせるにもほどがあるぞ、笑い転げてはらわたがねじれそうだ。
あんた、似非インテリだな。わたしも実は似非インテリだが、生半可な知識は己を陥れることになる。

自由主義とはイギリスの哲学者ジョン・ロック(1632〜 1704)が「人間は生来自由で可能性に充ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められている」と自然権を主張。当時、市民の生活に強力な王権で干渉し、人々の財産までその一存で奪うことができた絶対主義政府の国家権力に対抗する思想としてロックが生み出した主張が、自由主義=リベラリズム(liberalism)の始まりだ。

私は、王権を支持するリベラリストねー。消極的親米保守主義よりユニークな新発想だな。むちゃくちゃな発想だ。悪く言えば「自由主義」すらわかっていないのかも。

『どこまで幼稚かつ無知なのかね? 西郷隆盛は政治家であり、何より維新の志士、つまり革命家だよ。 当然、守ろうとしたものは、その政治的信条であり、革命家としてのレーゾン・デートル=大義以外に在り得ないだろうし、「決起の理由」はそれが侵されたからーと見るべきだろう。』

司馬史観でいえば西郷は決起したのではなく、暴発を抑えきれ無くなり、もはや潔く散る覚悟をしただけだろう。「南洲残影」の主題はそこにあるのは本を読めば明白だろう。
以下の抜粋は、西郷が政治家で、革命家として自ら決起したならば、あまりに杜撰な決起であることを裏づけした部分があるので「南洲残影」より抜粋。

「南洲残影」P46
したがって、薩軍は、出兵直後から軍資不足に苦しむことになり、承恵・撫育の両会社に命じて六万円の証券を発行させたり、諸学校の資金を徴収したり、更には警察費と称して県下の人民から臨時の課税を行うというような、苦肉の策を採らざるを得なかった。このような軍資不足を、最も端的に示しているのが、桐野利秋の発案したという、「西郷札」の発行であることはいうまでもない。実際に発行されたこの不換紙幣の総額は、十四万二千五百円に及んだと記録されている。
P50
今更何をいうまでもない、官軍側の戦備と軍資は圧倒的であり、最初から薩軍に歯の立つ余地は全くなかった。西郷は、その事実に思いを致さなかったのか、いや、思いを致しはしたが、にもかかわらず立たなければならぬと思ったのか。

司馬遼太郎も江藤淳も書いてはいないが、私はなぜ西郷が暴発した学校党の領袖となったか?神輿に乗ったか仮説を持っている。

江戸幕府を倒し、新政府が出来たが、革命の有り余ったエネルギーの最後の蕩尽をする機会に西南戦争を利用したと思う。なぜ、計画性も無く決起し、しかも中原に出る作戦をとらず。奇跡的に西郷が再び東京へ凱旋できた可能性も無くはなかったかもしれない作戦を捨て、熊本城攻城という最悪の作戦を支持した理由は、維新の完成の秘めたる目的があったのではないか?桐野や篠原は、あえて西郷の意思の通り名誉ある敗戦を実行していったのではないか?村田や永山も、敗戦になるのは予想して参軍したのである。

まあ、影の闇殿の歴史観はいかばかりか想像がつくが、司馬先生や江藤氏の西郷像がすべてではない。

『第一「島津斉彬の遺訓」って何の事だか、お前さん知っているのか?ww当面の敵ロシアに対する、日本と清国と朝鮮の共同防衛構想ーこれが島津斉彬の「遺訓」とされているものだ。  そうして、この「遺訓」を受け継いで、西郷が目指したものこそ、無道の国(西洋)に対する共同防衛に立脚した、道義外交であったろう。俗に「征韓論政変」と言われるものはその意味が180度異なっており、こうした視点に立ってのみその後の決起の理由も見えてくるのだ。』

江戸時代の日本人観は、シナ朝鮮半島の人々は孔子や孟子の国、その国に近い人達であるからさぞや道理が通じるであろうと考えていた節がある。島津斉彬は、シナ人半島人の実態は計算外であったろう。島津斉彬公の遺訓の根本は日本が西洋の植民地とならないために日本はどうするかである。朝鮮やシナと友好関係を結べということではない。斉彬の遺訓を西郷が遺訓原理主義として行動していたら、明治維新は達成できなかったろう。 征韓論は180度異なっているのではなく、延長線上にある。まあ、影の闇殿の歴史の認識は大学生の小論文程度ならきっと「良」をとれるだろうよ。

 
『勿論西郷軍の決起の意味がそこに在ったからこそ、西南戦争はシンボリックな意味を持つことになったのである。 どういうシンボルか? 革命政権から革命の大義及び革命色を一掃する、ということだ。 だからこそ、一掃された革命の大義は、宮崎滔天や頭山満等、西郷の遺志を継いだ者たちによって、「大アジア主義」として甦って来たのだ、但し今度は体制の思想ではなく、在野の思想及び運動として。』
この点については司馬史観の私も同意見だ、異存がない。

『>薩英戦争を機に攘夷の旗印は捨てている これでお前さん、政治(学)の基本にも無知なことがよく分る。』
じゃあ何か?攘夷の旗印を掲げて英国から武器弾薬を買っていたのか?「尊王攘夷」の建前はあったが、真に「攘夷」であったならば、夷敵と取引はしないだろう。違うか?

貴殿の歴史観は、誰かが書いたらそれだけを記憶しているだけじゃないの?事実と事実をつなぎ合わせ、自分の頭で整理して推理し、歴史のからまった糸をほぐし、その整合性を確かめる。それが真の歴史の解析ではないのか?

『幕府権力の政治的正統性(レジティマシィ)は征夷大将軍、即ち夷敵を力づくで征する処にある。黒船以降の経緯がそれに致命傷を与え、残るは(権力を保障するのは)権威(朝廷)のお墨付きのみ。 薩長を遥かに上回る軍事力を持っていながら、あれほどアッケなく幕府が瓦解した理由はこのお墨付きを失ったことにある。 逆に、お墨付きを得て、武力で打倒した維新政府は、幕府の失権の理由である「夷敵を力づくで征する」能力とその処方箋を突きつけられているーということでもあるのだ。』
よく分かっているじゃない、だから日本には皇室が必要なのである。なんだ、影の闇殿も保守主義者か。

幕末から明治にかけての歴史的断片は司馬先生の本にちりばめられている。有名無名をとわず、日記の断片であり、その日記を書いた子孫であったり、実際に歴史的人物に子供時代に会ったことがある最後の世代に直接話を聞くことができたタイムリミットが一連の司馬作品であろう。

「南洲残影」も司馬先生の「翔ぶが如く」を読んでいなければいったい何が書いてあるのか理解できないのではないか?少なくとも私はそうだ。江藤淳も、それを承知で執筆したのではないか?
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 雑談専用32掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。