★阿修羅♪ > 雑談専用31 > 629.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: Re:Re: 「連合赤軍事件」について 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 5 月 25 日 06:50:43)
>当時流行しつつあった実存主義的な思潮の洗礼を受けたことも関係している
>「傘が無い」と宣う人間が相当数いたとしても何ら不思議なことではありません。
>行動心理学的に原因の特定が可能かどうか、
では、同時期、その辺のところを「傘が無い」よりもっと直截的に歌ったを挙げましょう。
「政り事などもう問わないさ。 気になる事と言えば今をどうするか、だ。 あいつとうまくやらなければ、」「置き去りにした悲しみは」
勿論、聞いたことあるでしょ? 特に一番の歌詞などを見れば、これは彼岸楼さんの当時の心情を歌ってるような気が、しないでもない。
(生きて行くのは,みっともないさ。 あいつが死んだ時もおいらは飲んだくれてた。 おい等も罪びとの一人さ..)
社会への関心(その最も先鋭なものが政治でしょ?)を失い、自分の身の回りへと向かう。
その後が「神田川」等、所謂「四畳半フーク」の時代です。
小生が言っておるのは、社会性を失い、自分を超えたものへの関心や欲求は、社会ではなく、それを引っ繰り返した会社へと移った、ということです。 社会主義はおイエ社会主義へ。 おイエ=企業というコップの中に没入し、社会や家庭を顧みることなく、と。 そしてその最前線で踊り、狂った(バブル)。 そうして今、経済敗戦の結果として、夥しい死者を出している。
こうして、彼岸楼さん達世代だけ見ても、<過剰適応>と<不適応>を繰り返す、<近代>における日本の縮図と言えるのであり、宿命とか運命といったものが透けて見える、ということ。
即ち、我々にとって<近代>とは、適応すべき何ものかであり、決して自ずからその一員という意識は無い、−そうである限り、常に「遅れてきた青年」(大江健三郎)でしかない、ということです。