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前から、同じような事を何度か書いているが、因果律に従った論理考証を出来ない人が「増殖」している。
意見の対立は「良い」、人間十人十色で、十人いれば「それぞれ、考え方は違う。」
だから「感情論」を表面に立てる限りは「対話は無力」である。
人間は「間違った思い込み」であっても「その理由が、理解できなければ、絶対に感情論は変化しない。」
「信じ込んでしまっている、思い込みは、それが間違っているという論理考証を示さなければ、変えられない」と言う事である。
「それは、間違っています。」と何度言っても、「どこがどのように間違っているのか」を説明できなければ、それは説得ではなく、主観の押しつけである。
方法論に最初からタブーを作る。
その愚かしさが「分からない」ようなら、思考停止であり、狂信者である。
その行為は「なぜ、タブーとされたのか?」
どのような形であっても「活かす方法はないのか?」
そこを「考えることすらタブー」としてしまえば、その方向での進歩は止まる。
以前、憲法改正の「議論をすることすらタブー」とした「思考停止の左翼」
結果は、どうなったのか?
多分だが、牛歩戦術という「時間の引き延ばし」策しか思いつかないという「退化した頭脳」を大量生産したのに「貢献しただけ」だろう。
上の「指導者的左翼の大物」が「それは駄目だ」と言えば「無条件に、受け入れる」
なぜ「駄目」なのかは「考えることなく」、「それは駄目」が「常識として根付いてしまう」
宗教の狂信者と「どこも変わらない」
Kの主張など「かなり変な物が、混ざっている」
しかし、どこからも「論理的な反論が来ない」
私は「それは間違っていると思う。」というのは「反論」とは言わない。
下手をすれば「K自身が、これは、暴論だな」と思っている。
しかし、暴論であると思うだけでは「暴論と証明されていない」のである。
暴論ならば「なぜ暴論なのか?」を説明しなければ「意味がない」
まあ、どうでも良い、主観に捕らわれていても、それで平和ならば結構なことである。