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(回答先: 彼岸楼さん はじめまして。 ありがとうございます。 投稿者 memento mori 日時 2008 年 3 月 23 日 15:08:17)
memento moriさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
>脱線してしまいましたが、「子供を殴ってはいけない」は守るためにある(守り負ければ価値を失う)のじゃなくて、徹底的に守ろうとする努力の中に子供の幸福を追求する道がある、そういうものだと思います。
殴ることに短絡せず、他の方法で諭すべく智慧をはたらかせようとするのは、子供が理解するまで忍耐強く待つことを含めて、腕力を振うこととは比較がならないほどの愛情に充ちた行為と謂えるでしょう。
>貴重な経験を披瀝していただき、ありがとうございました。
それ以降は、一度たりとも此方の感情を一方的に子供に押しつけることには到りませんでした。けれども、想い出すたびに今尚も胸を掻き毟られる出来事です。私にとっては野球で云う自打球ですむものが、子供にとってはトラウマになっていなければと、それが心配でしたが、その息子もとうの昔に私の手を離れて今では一児の親となっています。
>この頃のKさんに見られるように、どんな高尚な原則を掲げても安易に流れることはよくあることです。 一生懸命やっている人の傍らにたって(手も汚さず)「その原則は社会をだめにしている」なんて、余計なお世話以外の何物でもない。プンプン。(おまけに、論立ては雑駁だし。)
考察者k氏の論考には全く進歩の跡が見られず、むしろ退化しているように感じています。粗削りな論法であっても、せめて人間的感情の発露のようなものが見られるならばそれが済いになる筈ですが、実状は徒に読者の心を惑わしているだけだと思うのです。
ところで、以前よりハンドル・ネーム「“memento mori”[remember you must die](死を想い起こせor死を忘れるな)」は、その意味を含めて私の心を掴んで放さずにおきませんでした。それを、「何時死んでもよいように一瞬一瞬を懸命に生きるべし」と云ったような戒めとすべきか、それとも「どうせ死ぬ運命にあるのだから今この時を愉快に生きるべし」と解すべきか、受けとめ方(解釈)は時代によっても紆余曲折があったようです。果してmemento moriさんはどのように捉えられているのでしょうか。
私の死生観と謂えば、勿論自分が死んだ後の世界と云う意味での“死後の世界”は存在すると想っていますが、自身の死の延長線上に何か別の世界(彼の世)があるのか想像することには限界を感じます。それよりも、平均寿命に到達せずとも認知症やアルツハイマー病を患ったならば、その末期には“memento mori”ですら意識に表出することがないまま、三途でさえも過ぎってしまうことになるのでしょうから、その先に何があるのか私には全く見当がつきません。
死んでしまえば感覚受容器(身体)に蓄積された感覚の記憶は失われるのが条理ですし、また「何時死んでもよいように一瞬一瞬を懸命に生きるべし」と決めた覚悟ですらも虚しく映るかも知れません。けれども、彼の世については言及せずに此の世の真相を喝破してみせた釈尊の見地と本来“memento mori”がもつベクトルとは限りなく暗合しているようにも想います。そして、きっと“苦”と“楽”とに点滅する灯明に翻弄されながらも直向きに人生街道を歩んでいくのが数多の人間の姿ではないか、そんな気もするのです。
Auf Wiedersehen.