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(回答先: 江戸幕府から明治政府になった時、何故か国が利子を払わないと通貨が発行できなくなった弊害に気づいている人たち 投稿者 ブッダの弟子 日時 2008 年 8 月 25 日 03:56:31)
金座の収支金座は、金貨を鋳造するごとに幕府からその鋳造高に応じて手数料を受けた。これを分一金ぶいちきんという。
分一とは、百分の一の意味で、初代後藤庄三郎光次が、徳川家康から慶長金の鋳造を命じられたとき、出来高1000両につき、10両を鋳造諸雑費として下賜されたのに始まった名称である。
もっとも手前吹時代、幕府から庄三郎に下付された分一金、つまり金子は出来金1000両につき10両で計算された諸雑費であったが、このほか金吹費および小判細工費用として、それぞれ出来金10両につき5分および1分9厘4糸の金目を下賜されていた(日本銀行調査局[1974])。
直吹となり、前者は金座人役所、後者は吹所がそれぞれ分担することになったのに伴って、これらの金目は貨幣に換算され、それぞれに直接分与されることとなった。したがって金貨鋳造の実際の費用は、御金改役、金座人、吹所と3分割され、しかも金子に統一されたので分一金の観念はなくなったが、名称だけが残りそれぞれ分一金とよばれるようになった(日本銀行調査局[1974])。
『金位並金吹方手続書きんいならびにきんふきかたてつづきしょ』によると、元禄金以降元文金までの金座の分一金は、鋳造高1000両につき後藤役所10両、金座人役所10両2分、吹所4両と分与されたようであるが、『金局秘記』(塚本[1923 ]所収)によると、文政12(1829)年には後藤役所7両、金座人役所7両1分永100文、吹所3両1分永75文であった。
なお、慶長金、宝永金、正徳金以外の金貨は品位が劣っていたので、吹所に対し、仕上げの色付け用薬品代として鋳造高1000両につき永750文がその分一金に加えられた。このように分一金は、貨幣鋳造に必要な器具、消耗品、光熱費、雇い人・職工の雇用費等を含んでいたが、後藤役所においてはその15∼20%が御金改役に、また金座人役所においてはその30∼50%が金座人に分配された(日本銀行調査局[1974])。
このほか、収入としては、手当金があったがこれは、勘定所から金座に交付された経費を差し引いて手代、金座人、吹所棟梁に支給された。文化7(1810)年では、手代のうち年寄は江戸詰が30両、京都詰が25両、佐渡詰が20両、改役は江戸詰が2061江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割
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両、京都詰が17両、佐渡詰が15両、並役は江戸詰が15両、京都詰が12両、佐渡詰が10両2分などであった。金座人は座人10両、吹所棟梁は10両であった(『金局秘記』・40、塚本[1923 ]所収)。
一方、金座は分一金の一部を冥加金として幕府に上納していた。冥加金がいつから上納されるようになったのかは明確ではないが、『金局秘記』(塚本[1923]所収)によると、文政元(1818)年に文政真文二分金の分一金が定められたのに伴って、金座人役所は当初からその分一金の20%、吹所は文政2(1819)年からその分一金の10%をそれぞれ冥加金として上納したようである。
冥加金は江戸時代における納税の一種で、本来上納者が自発的に上納したもので、その上納額は上納者が幕府に請願して決定されたものであった。したがって、金座の冥加金は銀座の納めた運上金のように幕府の命じた上納額を貨幣鋳造の都度納めたのではなく、鋳造事情の繁閑ないしは鋳造費用の多寡を考慮し、金座の判断により上納された(『金局秘記』・76、塚本[1923 ]所収)。
いずれにしろ、分一金、冥加金については、金座と幕府の間に微妙な駆け引きが存在したと思われる。手代、金座人、吹所棟梁は個別に非常用の公金を備蓄していた。これを除金という。始めは積金とも称された。文政元(1818)年には、分一金のうち手代は50%、金座人は10%、吹所棟梁は5%を充当している(瀧澤・西脇[1999法人法政大学出版局、