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親しい人からでも、私に、日本人の悪口を言うなという非難がありますが、日本人の悪口を言わないと先に進めず、改革も有り得ないからです。実に改革の本質であり、最終課題ないし目標こそ、曖昧模糊の無責任で、自己主張もしないし、他にも自己主張を容認させない、排他・利己的な国民性なのであります。
日本人を賞めていたら、耳障りは良いのですが、改革もあったものではありません。だから日本人は超保守的であり、改革には抵抗し反発し、批判を封じ込める現状維持型なのであります。日本人は適当な賞め言葉にころっといかれて、厳しい批判には検挙に反省し受け止められない逆上型か、自虐型の両極端になることが多いのです。
これ以上言わなくても、林秀彦氏の「日本人はこうして奴隷になった」を奨めておきましょう。これでもかこれでもかと、国民性と日本語との関係を糾弾しており、私の見解と同じです。ただ彼は、解決策として、3つ挙げて、何れが正しいのか結論が出ずに迷走しているようです。
1.漢字が流入してくる以前の縄文大和言葉に帰るということですが、これは太田竜氏も提示しておりますが、膨大な語彙の創造を考えれば、今更不可能でしょう。
2.漢字が流入してきた時点で、音読み、訓読みなどの改変をせずに、そのまま中国語に転換することですが、漢字も簡略化し、漢字文明自身がインターネット、コンピューター化社会に適応できずに、世界的に衰退傾向にある中で、将来性に欠けることでしょう。
3.英語に転換すること。これは私も、『国民性変革に向けて「思い切って日本語を捨てる日」』の著作で提示しております。しかし、彼はこれでは益々奴隷化が増すだろうなどと言って嫌悪しておりますが、これはとんでもない偏見だろうと思います。そもそも英語に変換する前に奴隷化になったことを本末転倒しているからです。
ところで、彼の著作を周囲の者にも紹介し見せると、殆どが関心を示して読んでみようかと言いますが、「私は、賛同するよりも頭に来るようだから止めておいた方が良い」と言っておきます。国民性を批判すると、多くが嫌悪感を示して、日本人の悪口を言うな、絶交だなどと言いますが、彼が参加する講演での講師の殆どが日本人を糾弾し批判しております。一体彼は如何なる心境で聴いているのでしょうか。殆ど、日本人特有の心理で、無関心・無感動・無視ではないかと思います。
実に、邪悪な世界支配連中が画策する陰謀を打ち破って行くには、唯一、残された日本民族こそが、その責務と役割を果たすことができるのに、日本人自身が全くその自覚ができていないことに加えて、何処までも傍観者、第三者的立場、無視・無関心・無感動か、単なる興味本位で好奇心が旺盛なだけ、相対的価値観しか持てない、主体性のない国民性が駄目だと言っているのです。
単なる要領の良い三流国家に甘んじ、争い、抵抗、対立、主張を故意、卑屈に回避し圧殺し封印し、奴隷国家に堕落するのを唯々諾々と受け入れるのならば、こんな素晴らしい似非平和的国民性や似非平和的環境はありません。しかし、所詮は奴隷としての環境でしかありません。
これも次第に過酷な恫喝・収奪・蹂躙・支配に満ちた露骨な奴隷国家に転落していくことであり、この見えざる危機的事態に気付いている国民も極めて少ないと言えるでしょう。実に、近視眼的だから、現在の置かれた状況にも気付かず、将来展望も洞察も分析もできていないのです。
問題はこうした国民性を注意深く的確に観察・分析していかねば、せっかくの改革を志向したところで、もっとも改革自体が抵抗感がある国民性を前にして、とんでもないところで、足をすくわれて裏切られ捨てられていきかねないし、これも無節操で飽きっぽく、情緒に流され付和雷同で、空気に惑わされやすく、理念も信念もない国民性によるものなのです。
実に、いち早く歴史的・世界的な改革を達成できるほどの柔軟性を有しているのとは裏腹に、最も早く、飽きて見捨てて変質させる国民性とが同居しているのです。私もこれまでこうした国民性に大きく裏切られ捨てられ阻まれてきた次第です。これは歴史的にも既に証明済みの事実でもあります。ある意味では、対立を排除した素晴らしい談合・排他、排除の社会で、裏切り・密告の横行する似非平和国家でした。
今やここに来て、最大の味方も、何でも有りを平気で成し遂げられる柔軟性に富んだ国民性であり、また最大の敵も、無節操で飽きっぽい変質漢の付和雷同の感情的な国民性なのであります。今や、日本の改革に際して、国民全体を敵に回していくのか、国民の皆が付いてくるのか、実に、国民国家を二分するような天下分け目の関ヶ原に来ているようです。実に、徳川家康のような注意深い情勢や心理の判断が試されるようです。
この日本人の国民性は、変革しようと思って変革できるものではありません。また、自発的な変革も期待できません。それに、この国民性の本質は、勇猛果敢な男性的心理よりも、従属・隷属の支配する女性的心理であり、変革も容易ではありません。変革があるとしたら、天変地異、金融パニック、戦争などと言った世界が崩壊しひっくり変えるほどの事態が襲来しない限り不可能と言えるでしょう。
今や、資源・エネルギー・食糧の高騰化、天変地異の激化、資本主義の行き詰まりなどで、地球的規模での破局か再生かの歴史的転機が急迫化していると言えるでしょう。この意味では絶好の機会到来と言えるでしょう。ただ、勝ち組、負け組の存在する崩壊では何ら意味もなく、全世界が共倒れになって行くことが、人類総懺悔に向けて必須でしょう。
ベンジャミン・フルフォード氏などの一部の外国人が期待するような、日本が世界の指導国家・盟主となって世界を指導するには、肝心の国民性の変革無くしては有り得ず、その国民性の変革は、自発的変革など期待もできず、世界的崩壊の襲来も仕方のないことでしょう。残された時間はわずかであり、2008年が戦争・争奪に向かうのか、波動的に平和に転換できるのかの、歴史的な転機と言えるでしょう。
あとは播いた種が、如何に2012年に向けた開花していくかが勝負でしょう。それでも、せっかく成就し開花したものを、確信もなく簡単に破壊し見捨てていくのも、実に、中心もなく揺れ動く柔軟無節操の心理に満ちた日本人の国民性なのです。西洋人ほどの、命を賭けて戦い守るような頑固な信念が欲しいものです。