★阿修羅♪ > 議論28 > 134.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』」F・W・ニーチェ/適菜収訳/講談社α新書‘05年から引用
〈「原罪」にダマされた哲学者たち〉
・キリスト教は「悪」そのものを作り上げてきたのです。彼らは強い人間を「悪人」と決めつけ、排除しました。キリスト教は常に、心の弱い人間、品性が低劣な人間、できそこないの味方になってきたのです。
パスカルという哲学者は、キリスト教の「原罪」という教えを信じて、腐ったのです。
〈間違いだらけのカントの哲学〉
・カントは危険人物です。彼は悪意に満ちた間違いを二つも犯しました。それは、実際にはありもしない「真の世界」という考えをでっちあげたこと。そして「世界の本質としての道徳」というわけのわからない考えをでっちあげたことです。
「道徳」とは、私たちの人生において、私たちが作り出したものであるということ。私たちを守るものであり、必要なものである。決してそれ以外のものではありません。
カントの考え方は自然界の法則に正反対です。
・人間の本能は、ある行動が正しいかどうかを、それが気持ちのいいことかどうかで判断します。しかし、キリスト教の本能を持つカントは「快楽」を曲解するのです。カントというのは本当にタチが悪い犯罪者なのです。カントの本質はデカダンスにすぎないのです。
〈真理とは「思い込み」にすぎない〉
・哲学者たちは、自分が勝手に考えて、自分で勝手に確信したことを、真理だとみなしてきました。調子にのってカントまでが、自分で勝手に考え出した「実践理性」を科学にしてしまおうとしたのです。
キリスト教徒が幅をきかせている世の中では、科学は「神の敵」と呼ばれて、長い間不当な位置におとしめられてきました。軽蔑されてきたのです。なぜそんなデタラメなことが続いたのか。原因は、人間にとって真理とは、もともと一つの美的な趣味にすぎなかったからではないかと。
〈仏教の素晴らしいところ〉
・仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。
そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものごとを考える宗教と言っていいでしょう。彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するのです。
〈多様な文化を認めないキリスト教〉
・(仏教の特徴は)仏教がとても温かい土地で誕生したということ、またその土地の人たちが寛大でおだやかで、あまり争いを好まなかったことなどがあげられるでしょう。重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。
ところがキリスト教の場合は、負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。
キリスト教徒というのは異なった文化を認めようとしないのですね。それどころか、考え方の違う人たちを憎むのです。そして徹底的に迫害する。キリスト教徒は、豊かな大地や精神的に豊かな人に対して、徹底的に敵意を燃やしました。キリスト教は、立派な心がけ、気力や自由、あるいは心地のいいこと、気持ちのいいこと、そして喜びに対する憎しみなのですね。
キリスト教が下層民のもとで誕生すると、やがてそれは野蛮な民族の間に広まっていきました。キリスト教というのは、人間の精神と文化への軽蔑なのです。
〔臭うぞう〜〕
バナナ教授(副島隆彦)は、西欧政治思想を論ずるに、キリスト教との関係については全くといっていいほど言及しない。西欧政治思想は、キリスト教の教義と不可分で、それによって裏打ちされている部分が多いと考えられる。キリスト教(初期イエスの教えを除く)の侵略性・野蛮性・残虐性(凶暴性)という鎧に、哲学・思想という衣で着飾っているのが本性ではないのか。
バナナ教授には、この部分では全くお手上げで門外漢なのであろう。紙の片面だけ論じ紙(「神」)のもう半面を見極めるにはまったく勝手が分からぬのであろう。片面だけ見て分かった風になり、世界普遍的価値がある、と宣(のたま)う。
ニーチェは西洋社会では異端児ではなかっただろうか。木田元によると、ニーチェは、19世紀後半までの伝統的西洋哲学の底流に「ニヒリズム」を見ていたという。それを批判的に乗り越えるために、「反哲学」を起こした、と。西洋社会に住んでいるので、その内部から西洋哲学・宗教の本質が(曇りのない目さえ持っていれば)よく見えたのではないだろうか。
バナナ教授とは反対に、あんこがカボチャの白饅頭というところか。ニューチェの思想は、東洋人のそれそのもののように思える。