★阿修羅♪ > カルト6 > 148.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 神と悪魔が聖書内で殺した人間の数を比較、オ〜 my god 投稿者 kokopon 日時 2008 年 12 月 16 日 12:07:01)
正教の奴が編集を消してしまったのでここに貼って置きますね?
史的イエスをめぐる議論の経緯
リオのイエス像プロテスタント圏を中心に始まった史的イエスの分析の上で最重要の史料は、ナザレのイエスの言行を収録した新約聖書のなかの福音書である。従って、近代以降の史的イエスの実像の研究が、福音書の史料批判上の評価のさまざまな仮説に基づいていることには、特に注意しておかなければならない。また我々は、史的イエスを問うにあたり、我々が常にすでにそこに実存するところの我々自身の「生活の座」(後述)としての歴史の歴史性についての若干の考察も必要とするであろう。
中世まで
380年のローマ帝国皇帝テオドシウス1世によるキリスト教の国教化以後、教皇権を中心に形成された正教一致の中世カトリシズムでは、福音書の成立についての理解はエウセビオスの『教会史』に代表される教会伝承が揺るがぬ史料であった。ここでエウセビオスはマルコによる福音書について、使徒ペテロの従者的立場にあったマルコが、ヘブライ語の出来ない離散ユダヤ人キリスト者の求めに応じ、ペテロの教えていた通りの内容を元にペテロに断りなく初めてイエスの伝記をギリシャ語で執筆したと伝えている。また、福音書中収税人として登場する使徒マタイはイエスの語録を編纂したとしている(マタイによる福音書中の山上の垂訓がそれに該当するかも知れない)。
古代より教会神学におけるギリシャ思想の影響はプラトン主義、またはその派生形である新プラトン主義的なものであったが、十一世紀に始まった十字軍はアリストテレスの形而上学や自然科学のイスラムからの導入を促し、やがてそれは人文主義の隆興と宗教改革への準備となった。聖書に対する文献学的な考察はこれらの歴史的な流れによって始まった。
進化論の普及による世界観の革命
中世世界がいつ終わり、近代世界はいつ始まったのかという問題については議論の分かれるところであろうが、近代の中世に対する最終的勝利として考えられるのはイギリス人チャールズ・ダーウィンによる、1859年の『種の起源』の発表をきっかけとした進化論の普及であろう。その黎明期以来、流布されて続けて来た進化論についての(政治的理念としての進歩主義と容易に混同される)通俗的なイメージや、そのような世俗的なイデオロギーと表裏一体の目的論的な進化論観に科学的な観点から反対しつつも最終的にはそれに合流してしまったと言えるダーウィンの評価などについては今日、様々な言及が行われている。しかし結果として見れば、ダーウィンの厳格な科学的方法論に基づく体系だった研究はそれまで評価が曖昧だった進化論を権威ある学説として世に知らしめることとなったと言えるのである。進化論は激しい議論を経て、古代、中世を貫いた聖書的な世界観に決定的な打撃を与え、1861年のイタリア王国建国とそれに伴うローマ法王領消失やフランス人エルネスト・ルナンによる『イエス伝』の執筆を促すことになった。ルナンはその合理主義的な史的イエス伝の冒頭で、聖書の内容は非科学的で神秘的であるが故に迷信と誤謬に満ちていると高らかに宣言している。
近代以後
マタイ、マルコ、ルカの共観福音書のうち、最初に書かれたのが素朴な『マルコによる福音書』であると言う「マルコ優先説」をカール・ラハマンが提出(1835年)すると、『マルコ福音書』の分析に基づけばイエスの歴史的実像にたどり着けるというのが当時の学者の大方の見方となった。ホルツマンはこの学説に基づき、福音書は救い主(メシア)であるイエスが自己を啓示する過程の記述であるとの見解を提出した(1886年)。
しかしこの見解はヴレーデが提出した「メシア秘密」の研究によって深刻な打撃をこうむることになる。つまり、福音書の中にイエスが弟子や人々に対し自分をメシアであることを言いふらすことを禁じる命令をしている(メシア秘密)のはイエス自身がそもそもメシアとしての自覚を持っていなかったためで、そのような記述は当時の教会神学が生んだものであると断じたのである(1901年)。これに対してアルベルト・シュバイツァーは『イエス伝研究史』を著わし、これまでのイエス研究そのものが研究者の思想的背景の単なる投影に過ぎないことを明らかにし、イエスは終末論的世界観の中に生きておりメシアとしての自覚を持っていたと言う見解を表明した(1906年 - 1913年)。
その後、J・ヴァイスはこのような教会神学の所産である福音記者の編集部分を取り除くことでイエスの歴史像を解明しようと、マルコの分析を行なった。しかし、伝承の編集は予想以上に複雑な過程を経ていると判断した(1903年)。またユリウス・ヴェルハウゼンは、マタイとルカから再構成される仮説上のイエスの言葉資料であるQ資料が形作られる過程においても、マタイとルカにおけるQ資料の編集においてすらも、教会神学が作用していると主張している(1905年 - 1909年)。つまり批判的立場に立った場合、すべての福音書に編集の手が加わっていると考えられるため、福音書成立の順序に基づく研究のみでは歴史的なイエス像はわからないばかりか、後代成立の福音書の部分であるという理由で重要な伝承が切り捨てられてきた可能性すら出てきた。
ここで、すでに編集されて福音書を形作っている個々のイエスの言葉や物語それぞれの編集の過程と歴史的な位置付けをしようとする「様式史研究」という試みがM・ディベリウス(1919年)やルドルフ・カール・ブルトマン(1921年)らの一群の学者によって始められた。この研究方法では、イエス伝承の形成者としての原始教団と言う集団は固有の「文体」、「様式」、「文学類型」を生み出したと想定し、個々の伝承がどのようにして生まれ、どのように個々の福音書の現在見られるような位置に編集されるに至ったか、歴史的経緯を明らかにすることを目的としている。したがって、物語の中のどの言葉が編集のために福音記者が補った言葉(編集句)であるか特定をすることで伝承を洗い出すことが行なわれ、「論争」、「奇跡行為」、「伝説」などの教団の「生活の座(Sitz im Leben)」のどこにその伝承が位置付けられるかを明らかにすることで、イエスの歴史的実像に関する諸伝承の成文化以前の歴史的価値を決定しようとする。
この「様式史研究」をさらに発展させた新たな試みがH・コンツェルマン(1960年)らによって始められた。この研究を「編集史研究」と呼び、それぞれの福音書がどのように編集されたか(編集句)を想定することで、それぞれの福音書の著者の思想的傾向や文書成立の歴史的背景による文書の特性や編集方法の特異性が明らかとなると主張、それらの福音書ごとの特性を傍証にして、歴史的なイエスの実像にさらに迫れる足がかりとしようとする。日本でも荒井献、田川建三らによって進められている。
一方、1980年代以降、福音書の原資料として想定されるQ資料仮説に基づき、終末論をイエスの思想の核とは考えず、イエスをキュニコス派(犬儒学派)的な知恵の教師とみなす研究者も現れ(バートン・L・マック他)、ある程度の支持を集めている。
これらの議論の経緯からもわかるとおり、史的イエス研究は、主たる歴史資料となる福音書そのものの歴史的な価値をどう評価するかに大きく左右されている。また同じ研究手法を採用しても、個々の語句の歴史的評価が研究者によって異なるため、研究者ごとに結論が大きく異なる場合が日常茶飯事である。さらに日本における編集史研究の流行の中では、学説で想定された資料であるQ資料の存在による二資料仮説を前提とした議論が大きくなされているのとは対照的に、欧米においてはマルコ福音書の先行性を否定したりQ資料の存在に強く反対する史的イエス研究も根強く存在していることには、特に注意が必要である(Q資料および福音書の「共観福音書の問題」の節を参照)。
史的イエスの問題をめぐって、聖書学界全般において合意が得られた研究手法や、「定説」と言える学説は、現状では存在しないと言える。