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(回答先: 万物生成の原理は何か 投稿者 航海者・名もなき人 日時 2008 年 12 月 30 日 20:54:52)
霊は古来より生命や精神の根源とされてきました。この世界が火(霊)と水(物質の原型)の交わりで生まれるというだけでは霊が何であるのかはまだ不明確ですが、グルジェフの分類を参考にすれば、これまで霊とされたものはその性質から判断して密度の薄い水(物質の原型)からなるものだったと考えられます。
グルジェフの「超人思想」の謎
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hgr/_gurdjieff.html#05
■■宇宙に存在するあらゆるものを、振動密度/物質密度という考えで分類
グルジェフは、宇宙に存在するあらゆるものを、振動密度/物質密度という考えで分類した。
つまり精神や霊も、いかなるものも基本的に「物質」であり、ただそれは我々が手で触れることのできる物質と比較すると、振動密度が高く、そのぶん物質密度は低いのだ、という考え方だ。
振動密度と物質密度は反比例の関係にある。我々の肉体よりも、感情はもっと振動密度の高い物質だ。更に思考はもっと振動密度が高い。それでも、やはり感情も知性も有限の物質なのである。
以下、『私は宇宙人を知っている』より抜粋
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グルジェフは振動密度/物質密度の異なる物質を「水素番号」で識別した。といっても、いま一般に知られている元素の水素とはまったく異なる概念のようだ。
水素の番号は数が小さいものほど、振動密度が高い高次元の物質で、数が多くなるにつれて、一般にいう物質的な姿になってゆく。
◆水素1は、この宇宙で分割不可能な、絶対といわれる物質。
◆水素6は、高次思考能力の物質といわれる。だが、この思考能力は、ふつうの知性と違い、象徴を象徴そのままに考えることのできる知性で、神話はこの知性で語られているという。生命の根底にある本当の意図とでもいうべきだろうか。
◆水素12は、高次な感情能力だといわれる。これは宗教的な感動や、言葉で語りつくせない強烈に神聖な感情などに象徴される。一般の人間の感情も知性もこの強烈さについていけないので、たとえば瞑想家などもこの水素の体験をすると、一時的にエクスタシーに飲み込まれ、言語能力を喪失する。
◆水素24は、グルジェフ体系になじんだジョン・C・リリーの言葉を借りれば、専門家的悟りの意識だといえる。たとえばあるひとつの仕事に練達した人は、必ず常識では納得できない不思議な能力を持っている。レーサーが驚くべきスピードで、すでに脳の認識力では追跡できないはずの路面を冷静に観察し、正確に車を運転する能力などだ。また優れた武道家や兵士が、あるとき砲弾が自分に向かっているのを肉眼で見たりする、という例もあげられる。一瞬でも通常の「考え込む」状態に入ると、この危ないところを綱渡りするような優れた能力は失われる。レーサーはその瞬間事故を起こす。人はひとつの仕事に熟練することで、この水素を蓄積する。独特の高速の意識だ。
◆水素48は、一般にいう思考能力だ。考え、分析し、語るというレベルのことだ。ジョン・C・リリーは精神の無風状態だという。
◆水素96は、濃密な感情、たとえば怒り、嫉妬、憎悪など。われわれが、この物質に内面的に同化せず、外的な物質として観察する場合、これは“気”や、動物磁気として観察される。また光の速度もこの96だ。
◆水素192は、空気。
◆水素384は、水。
◆水素768は、私たちの食べている食物の水準に近い。水分の多い栄養の少ないものは水である384に近く、フレーバーの多い堅い食物は1536に近くなる。
◆水素1536は、樹木。
◆水素3072は、鉄。
グルジェフの分類だけでは振動が何処から生まれるのか分かりませんが、それを生み出しているのが元つ神と考えれば火水伝文の内容と一致します。これまで霊とされてきたものが密度の薄い水(物質の原型)であり霊体と呼ぶべきものであるのなら、純粋な意味で霊という言葉が当て嵌まるのは霊体をも生み出している元つ神そのものとなるでしょう。
「宇宙は霊の霊と物質とからなつてゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が福守護神ぢや。本守護神は大神の歓喜であるぞ。」(日月神示 『冬の巻』第一帖)
これまで霊とされてきたものが密度の薄い水(物質の原型)からできているのなら唯物論がこの世の本質を表わしていると思う人もいるでしょうが、火(霊)の響きがなければ水(物質の原型)は形を成さないのだから、やはりこの世の原則は霊が先の霊主体従です。水(物質の原型)の密度と共に火(霊)の響きも振動密度としてものの形成に関わっていると考えれば分かり易いと思います。
「神の元つ仕組みの大事な基申すは【火の御ハタラキ】先にタチ有りて後に【水の御ハタラキ】生ず。これであるぞ。簡単でござろうが。なれど、こに、この世の総ての響きがあるのじゃ。総ての秘密がござるのぞ。」(火水伝文 202)
本当の霊は元つ神そのものであり火(霊)の響きが万物を生み出しているのだから、すべての存在の根元は神に繋がっています。中でも人間は元つ神が自らを範型として生み出した存在ということです。そのため人間は主体的にこの世の物事を判断できる能力を持っているようです。人間は元つ神の分身であり、その内奥では元つ神と繋がっているのなら神と人は同じ存在ということになります。
「全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、神そのものの現れの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。」(日月神示 『二日ん(ジシン)の巻』第五帖)
「各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであつて限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様ぢや。心の守護神は肉体ぢやと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢやと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢや。順乱すと悪となるぞ。生まれ赤児ふみこえ、生まれ赤児になつて聞いて下されよ。そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢや。死と云ふことは、その衣、上からぬぐことぢや。ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになつてゐるのぢや。判るやうに申してゐるのぢやぞ。取違ひせんやうにせよ。天から気が地に降つて、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢや。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢや。地獄でないぞ。」(日月神示 『白銀の巻』第一帖)
「神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか悲しいとか云う事ないのであるぞ。理ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。人民いくら頑張つても神の外には出られんぞ。神いくら頑張つても大神の外には出られんぞ。」(日月神示 『夏の巻』第七帖)
「祈りとは意が乗ることぞ。霊の霊と霊と体と合流して一つの命となることぞ。実力であるぞ。想念は魂。魂は霊であり、霊の世界に属し、霊に生きるのであるぞ。ものは霊につけられたもの、霊の霊は、霊につけられたものであるぞ。ものにはものの命しかない。真の命は霊であるぞ。生命のもとの喜びは霊の霊であるぞ。霊の霊が主ざと申してあらう。奥の奥の奥の・は大神に通ずる・であるぞ。喜びであるぞ。・あるために人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるぞ。他のいきものにも・はあれど、外の・であるぞ。」(日月神示 『黒鉄の巻』第三十二帖)
「同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢや。分家は動植物ぢや。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。」(日月神示 『秋の巻』第一帖)
「考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、またたり得る本質がある。」(日月神示 『二日ん(ジシン)の巻』第十六帖)
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