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(回答先: 神と人の関係 投稿者 航海者・名もなき人 日時 2008 年 12 月 30 日 21:00:34)
人間が神と同等の存在なら何でも好きなことをしていいのかといえばそう単純にはいかないみたいです。神の力を出せないようでは元つ神の分身といえども神に成ったとは言えないようです。そして現在の日本人は神の力を出せていないそうです。
「日本の大変が酷いのは上に立つお偉い様方、ヒノモトは《元つキの国》なるを『あやま知』に惑わされすっかりだまされ忘れ去り、神気息も出来ぬほどにケガレ気枯らしてしもうたが由なるぞ。
汚してはならぬ元つ神のご神体でありたのじゃ。汚したるご無礼、末代ワビつると申せど取り返しのつかぬ事でありたのじゃ。一度は日本はもう潰れたと、誰もが思うひどき有りざまにせなならぬ。神も辛いがこれも人民様にマコト無きが由ぞ。マコト無き所にマコトの神は降りぬのぞ。」(火水伝文 10)
「人が神なるお仕組みは、元つ真釣りに依り立つが、唯一叶うるミチなれば、真先に身欲を控え捨て、外した真釣りを取り戻し、真釣るマコトに帰一するが事にてござるのぞ。今までの世でありたなら、失敗致しありても次の世に賭けるが出来たなれど、こ度は後はないと、くどう申して居ろうがな。こ度はどうありても、神のコトワリをハラの真中に据え立てて下さらねば、至るは叶わぬミロク代じゃ申す事、解かり取られて下されよ。遂には『恐れず好きな事を成し行きても良い時節になりた』申す者出て来るぞ。そは『総てを好きな様に成されても何のご心配も無きが証は、汝等ご自身が今の今でも完全な神であるからぞ』と申す事にてあるのぞ。ちょっとでもご苦労を成された者なれば、何を馬鹿なと一笑に伏されも出来ようが、今世にありて、老いて居ろうが若くあろうが、マコトのご苦労を知らぬ者いうは、どんな時でも安楽な道しか歩めぬ者にござるから、ご都合の宜しき道なれば、後先解からずついて行くが見えるによりて、この方は心配致すのであるぞ。それ由、今今にくどき思われる程に注意致し居るのぞ。解かりたでござろうが。身欲の事はそのままに形ばかりの小手先の、ご自身の神成る基も知らぬ人知にては、末は滅ぶしか無いが世でござるよ。汝等皆々、神と真釣ろえば神と成るのじゃ。早うそれに気付きありて、いずれケガレを出さずとも、何でも出来るものと成りて下されよ。汝等の一力で神成れ、申して居るので無いから安心致すが善いぞ。なれど汝等が真釣りに向こうて下さらねば、叶わぬ事じゃ申して居るのぞ。」(火水伝文 40-41)
「汝等、始源の時この方と共にありたのぞ。光輝そのものでありたのじゃ。汝等その時、万物万象生かし活かせしチカラと共にありたのぞ。マコトそのものでありたのじゃ。なれど、光幸はう神代の末期、汝らこ度の深因なる囚われの病みにかかりてカムハタラキ成せなくなりたのじゃ。汝等の真ハタラキ、闇を光に不秩序を秩序に、不調和を調和に転質転換なさるマコト尊きカムハタラキでありたのじゃ。ここそすべての鍵なるを知りて下され。汝等の取り違え居る善悪のハタラキあるも自由なる真姿も、転生生じたワケも汝等が見失うたマコトのすべて解き明かすカギあるぞ。そは汝等本来のマハタラキに関わりて、現れい出たるが由なるぞ。」(火水伝文 26-27)
人が神と成り神の力を出せるようになるにはどうしたらいいのかということは人間の力で説明できるものではないので日月神示や火水伝文を読んでそれぞれが感じ取ってもらうしかありませんが、人が神の力を喪失した原因については何とか分かる気がします。それは言葉が一番大きな原因となっていると思います。
「神と人の和は神よりなさるものであるぞ。本質的には人間から神に働きかけるものでないぞ。働きかける力は神から出るのであるから人間から和し奉らねばならんのであるぞ。」(日月神示 『黄金の巻』第六十八)
万物を生成する原理は元つ神から発せられる火(霊)の響きですが、人間が発する言葉も音の響きです。おそらく言葉の元は火(霊)の響きそのものであり、それが霊界から人間の霊魂に伝わることで目に見える世界に音の響きとして生み出されるのだと思います。火(霊)の響きが水(物質の原型)と交わることでさまざまな響きが生まれ、その変化が言葉として伝わってくるのでしょう。
「地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのではない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢや、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互いに入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物質、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。」(ひ月神示 『星座之巻』第十二帖)
「心とは、霊界そのものでありますのじゃ。
霊界とは、ありとあらゆる物の形を生む原型そのものであり源でありますのじゃぞ。
霊界に在るものすべてが現界に現れておりますのじゃ。
このこと判りてくだされよ。このこと霊人殿、神々様みな御理解くだされよ。」(日月地神示 『さ』の巻)
ものを生み出している響きを伝えるからこそ、人間は言葉からものの本質を感じ取ることができるのでしょう。言霊の思想はここに由来しているのだと思います。人間が信仰により神を求めるのはこの霊界から伝わる響きを神の声として求めているからではないでしょうか。それが目に見える世界での信仰となって表れるのです。
「神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、言波で天地にごるぞ、言波で天地澄むぞ、戦なくなるぞ、神国になるぞ、言波ほど結構な怖いものないぞ。」(日月神示 『地(九二)つ巻』第三十四帖)
「神は人間の想念の中に入ってゐるのぢや。想念が一致するから神の想念が人間に伝はるのぞ。人間の言葉となつて人間に現はれる。言は神であるが人間でもあるぞ。自分が自分に語るのであるぞ。この道理、よく心得なされよ。」(日月神示 『黒鉄の巻』第二十七帖)
古神道−日本的霊性
http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/koshindo.html
古神道ついて
http://www.interq.or.jp/earth/tkaneko/pages/kosinntou.html
言葉の実体は響きにありますが、現代人にとって言葉は頭で考えるためのものとなってしまっています。この言葉の性質の変化を仕掛けてきたのがユダヤ・イルミナティです。日月神示などによるとユダヤの霊統である神は元つ神の仕組を九分九厘までは知っているとされています。
「神の国を千切りして膾にするアクの仕組は分りて居る、アクの神も元の神の仕組を九分九厘までは知ってゐて、天地ひっくり返る大戦となるのぞ。残る一厘は誰も知らぬ所に仕かけてあるが、この仕組、心で取りて呉れよ、神も大切ざが、この世では臣民も大切ぞ。臣民この世の神ぞ、と言ふて鼻高になると、ポキン折れるぞ。」(日月神示 『上つ巻』第二十八帖)
「汝等、ユダヤ十二部族申すを知りて居るか。今世に至りて、失われた十部族の血統をのみ、探すが如き成さり様を致し居りては、マコトの事は解かりはせんぞ。そは知らず『あやま知』に囚われ居るからであるよ。ちいとは真釣りに気付いて下されよ。こは汝等スメラだけにはあらずして、ユダヤのイシヤも囚われ居るのじゃ。オカシキ事にてござろうが。『あやま知』操る者共も、自ら囚われ居るを知りて無いのぞ。こに秘密がありたのじゃ。思いも出して下されよ。ユダヤに至る御霊統は、竜には成れぬ『蛇の力』と呼び習わしめた『知恵の神』がその源でござろうが。なぜに竜には成れぬと申すかは、ただただ、真釣る真中を知らぬからでござるよ。【元つマコトの神真釣り】を知らぬが由でござりたのじゃ。彼の者共も九分九厘まで知りて居れど、知りては居るが肝腎要の真中の一厘を、知りたくありても知れぬのじゃ。そは【真中の一厘】を見失うた御霊統にあるからでござるよ。彼の者共にとりては、越すに越されぬ真中の一厘じゃ。由に彼の者共は、彼の神の一力より他に何も無き思い込み、一厘のあるをも知らず、そのままに総ての総てを知りて居る思いておるのじゃ。そこそ囚われ居る証でござろうが。ただの一厘申せども、こが無くれば何も無い、総てを顕し生かしある、彼等の神をも生かしある、総ての総ての基なる【元つマコトの神真釣り】を知りて無いのでござるから、こ度の仕組みのマコトも知らず、汝等と同じく、見失われた十部族の、人の流ればかりに、血統ばかりに惑わされて居りたのじゃ。 」(火水伝文 143-144)
「真釣りた火のご霊統と、真釣りて無い火のご霊統を取り違え居りては、大失態をやらかすぞ。
真釣りた火のご霊統申すは、竜体にて現れなさる生き通しの元つ大神様のご霊統にござる。真釣りて無い火のご霊統申すは、蛇の体にて現れなさる知恵の神のご霊統でござるよ。竜と蛇とをハキリ、タテワケ成さらいで居りてはマコトは見えんぞ。汝等の申す邪竜いうは、蛇の化かした姿にてあるから、何時までも化かされて居るのでないぞ。」「火水伝文 121)
シオン長老の議定書(プロトコール)十五
ゴイムとわれわれの間のこの能力の差違こそが、ゴイムの空っぽ頭と対比して、わ
れわれが神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められているゆえんが明
白に証明される。ゴイムの目は開いていても何も見ていないし、何も創造しない(恐
らく物質的なもの以外は)。このことをもってしても、自然はわれわれが世界を導き
支配するように創造したことが明白である。
この世界は火(霊)の響きが水(物質の原型)と交わることで生み出されていきますが、それを彼らは蛇の神の力を用いて水(物質の原型)がそれ自体の力で形となってこの世界は作り出されていると思わせて、言葉の性質を言霊の響きを伝えるものから水(物質の原型)の形を概念として伝えるものに変えたのです。響きは全体に響き渡りますが、形は外面を伝えるだけです。火(霊)の響きを感じ取らなければものの本質は認識できないということなのでしょう。
「水はス直が基の御ハタラキにござるから、主次第で【真ス直】にも『魔ス直』にも鳴るは解かりて下さるな。こ度はこの御座に、全きマコトの響きを成り鳴らせる御代となるのであるぞ。好い加減のところで手は打てぬ、申すも解かろうが。
今今は『魔ス直』の世にてござるから、水の顕すカタチを基と成して正邪のご判断をなさるで無いぞ。美しきカタチにだまされるぞよ。水は万象万物【成化】の基なれば、火の位の響きあらば必ずマ素直にカタチに結び顕すは伝え知らしたな。なれど、マコトの父の火を間違うてはならぬぞ。水のカタチ(陽の構え)を火と偽りて、父の火の如く振る舞わせても、マコトのモノは出来はせんぞ。そうでござろうが、水と水が組み結びても流れるだけではござらぬか。末は解けるモノばかりじゃ申したはこの事にてあるよ。【真ス直】にお戻し致すも『魔ス直』に誘うも汝の仕事じゃ。汝等は『魔ス直』だけを知り取りて、水の活きを忘れたのであるよ。」(火水伝文 69-70)
「神に委ねて真釣ろいあらば、総ては神がピタリ、ピタリと真釣ろうて、金でも、物でも、食べ物でも、要る時に要るだけのご用意を致して下さるのじゃ。こ度タテカエ真中にありても、変わる事無き真釣りの響きぞ。人知に委ねて魔釣ろいあらば、総ては真釣り外れて滅ぶのみ。人知申すは真先にありてはならんなり。真先に神に真釣ろうて、初めて真釣ろう智恵の響きと鳴りなさるのじゃ。言の葉のカタチから入りてはならん申すも同じ事ぞ。言魂の響きより入らねばならん申す事、解かり取りて下されよ。ス直にありせば出くる事ぞ。」(火水伝文 105-106)
人は言葉の形に気をとられて言霊の響きを忘れ、それだけ響きの大元である神から遠ざかってきました。人の内奥から伝わる響きを取り戻すことが人間が神の力を取り戻すことにも繋がるようです。
「汝等の霊性申すは開発するモノにあらず。真先に心払い清めるが霊性顕現の基であるぞ。真釣りを外して霊性を開発なさる申すは、蛇の封印を解く事にてござるぞ。神を心底敬う心が無いから身欲が先に立ちて、そが甘き誘いにもすぐにだまされしもうのじゃ。
汝等の念にて汝等も、汝等の周りも変え行くは叶う事にてあるなれど、神経綸の神法はちいとも変わりは致しはせんぞ。この事、[[特に気を付けて下されよ]]。こが悪神のまやかしの手口にござるのぞ。汝の思いを叶える事もご修行のうちでござるなれば、それはそれで良いなれど、真釣り無き思いは、必ずメグリを育む事になるから申して居るのぞ。汝等が創造出来る申すは、火水(カミ)が正位であろうとなかろうと、十字が傾きてござろうと、元つお仕組みによりて、マ十字に組み結びてあるが由、真中の何でも産み成す御座に、汝の思いを叶える力がハタラクからでござるよ。汝等皆々神成る身ゆえ、自らの真中から何でも、創り出すが出来るからであるぞ。なれど、そは真釣りて無くればマコトに結ばぬ由、末はメグリを持ちて、情けを持ちて解くしか無いものばかりでござるのじゃ。人民様の今今は、お命短き由、今さえ良けら良いなぞと申してござるが、今今の短きお命と、これからの至楽至善の永き御代に生くるお命と、どちらか選べ申すも愚かなことにてござろうが。」(火水伝文 124-126)
「心スミキリてマコト真釣りて結ぶを一二三(ヒフミ)申すぞ。マコト真釣りた息吹の事ぞ。真言であるぞ。生く言魂の事にてあるよ。
マコト真釣りた火土水いうは剣のことにてもあるのざぞ。邪をハライ、マコトを顕す草薙の剣の響きのことにてあるのじゃ。」(火水伝文 59)
「草薙の剣いうは火土水(ヒトミ)の事であるぞ。一二三(ヒフミ)の火土水(ヒトミ)の事であるぞ。真言の事であるぞ。息吹合うた言魂の事であるぞ。生く言魂の事にござる。マコトを申すのでござるよ。余りにケガレた身魂のままである者に取りては、一挙に一回でマコトをハラに据えられては、生くるも成らず、死ぬも成らず、苦しみの余り改心致すも底の見えてる改心由、それも成らず。悶え暴れ狂いて、しまいには自らの頭を、自らが潰す末路と成り果てしもうのぞ。
蛇はアタマを潰さねば死なぬと同じ道理でござるよ。神、頼むぞ。汝はこう成りては下さるなよ。」(火水伝文 122-123)
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