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(回答先: それは、違う。 投稿者 忍 日時 2008 年 7 月 11 日 23:16:13)
私は今年の初めまで、真珠湾攻撃は誘い込まれたものだとしても大東亜戦争は西洋近代文明の超克とその延長としての西欧諸国の植民地支配からのアジアの開放を目的として戦われた戦争だと考えていました。その原動力となったのは明治以来、日本人の意識の根底で燻り続けた攘夷の思想だと思っていました。しかしそうだとすれば戦中の鬼畜米英のスローガンが敗戦を境にして急にアメリカ万歳に変わってしまった理由が分かりませんでした。それと大東亜共栄圏の思想が何処から生まれたのかも疑問でした。英米と戦うためとはいえ思想からはやや独善的な印象を受けたからです。その独善性を左翼側は昭和に入ってから終戦まで日本人はおかしくなっていたとする歴史観の根拠としています。これらの疑問が東亜連盟戦史研究所のサイトの大東亜戦争史を読むことで一気に氷解しました。同サイトは陰謀論には触れていないので限界はありますが、私がこれまで見た大東亜戦争論の中では解釈は最も的確だと思います。
私も国民や一般兵は西欧諸国の植民地支配の打倒やアジアの解放を願って大東亜戦争を戦ったと思います。だからこそ対米開戦に歓喜したのです。しかしそれは明治以降、アジア人のために何もできなかったことに罪悪感を感じていた日本人の心理に付け込まれてそうなるように仕向けられたのだと私は考えています。反西洋主義を喚起する大東亜共栄圏・百年戦争論の思想を吹聴したのは日本で共産革命を画策する共産主義者です。それらの思想の本当の作者はイルミナティ(具体的な名を挙げればタヴィストック研究所)でしょう。
「さて、日華事変で泥沼にのめりこみ、動きがとれなくなった日本政府は、何とかして、この窮地から脱しようと努力したが、蒋介石政権との和解工作は、英、米、ソなどの暗躍により、ことごとく阻止された。そのうえ、思考硬直化した日本の参謀本部の中には、百年戦争論などをぶって、早期に事変を解決しようとは全く考えない者も少なくなかった。しかし、百年戦争論や長期戦論、東亜協同体論などを、しきりに軍部に吹きこんだ者は、尾崎秀実などにつながる仮装マルキストの論客が大半であった。」(倉前 盛通『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』日本工業新聞社 64頁)
山本五十六率いる海軍も英米に内通していた裏切り者だったのでしょうが、祖国敗戦革命を画策したのはあくまで陸軍統制派だと思います。ユダヤの両建て戦術です。イルミナティは日本を英米と戦わせてその後の敗戦革命を考えていたのでしょうが、親英米派の海軍ではその役割を担うのには不都合があるから、嫌西洋とアジア主義の傾向があった陸軍に共産主義者を浸透させてアジアの解放と独立を名目にした対英米戦の思想を吹聴して統制派を形成させたのでしょう。東条英機が祖国敗戦革命の思惑をどこまで知っていたのかは分かりませんが、彼の言説からは革命の意思は窺われないことから彼はおそらくは大東亜戦争の本当の目的を隠蔽するためのスケープゴートにされたのだと思います。これらの企みに昭和天皇陛下がどこまで関わっていたのかは判断するための資料を持っていないので私には分かりません。
以上に書きましたが大東亜戦争はイルミナティに戦わされた戦争だったと思っています。では大東亜戦争は愚かな戦争だったと考えているかというとそうではなくて英米が新世界秩序のアジェンダを進めるならいずれ戦うことは当然、避けられないことでした。しかしそれに対峙するには当時の日本では決定的に力不足だったと思います。私は大東亜戦争の本質は日本対西洋文明との戦いだと考えています。大抵の人なら頭がいかれていると思うであろうその戦いに勝つための方法を別投稿で示したいと思います。新世界秩序に対する私の最終的な見解もそこに書きます。
【国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い67〜69帝国陸軍南進論者の正体】
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/from67to69ww2.htm
昭和十八年に入り、日独の攻勢作戦が限界に達して崩壊へ向かい始め、それに伴い東条内閣に対する信頼感もまた減退し、一部識者の間では、東条首相の更迭の必要性が囁かれる中、三月十八日、近衛文麿は、突然、小林躋造海軍大将を「荻外荘」に招いた。
開戦後、小林大将は、吉田茂と共に、まず日支間の講和実現により米英から対日戦遂行の大義名分を奪うことを画策し、外務省に、
「日独両軍が攻勢を継続していることに乗して、蒋介石に、恃むに足らざるを恃み、戦争を継続するの愚を説き、要すれば我が方に於いて政治経済的に若干の譲歩をし我が襟度の寛容さを示して彼を講和に誘導してみてはどうか」
と提案するなど、如何にして急速に戦争を終息すべきかを研究しており、梅津美治郎と共に次期首班候補として名前を挙げられていたからである。近衛は、会談劈頭、
「満洲事変発生以前より石原莞爾はソ連の復仇乃至共産主義の南下を恐れ早きに於いて之に痛撃を加えざるべからずと考えていた。之が為には我が国の軍需生産増加を必要とするのみならず国内体制も亦更新を要すとし、彼の影の人たる宮崎正義をして産業五カ年計画之に伴う国内革新案(註、中止された政治行政機構改造案)を作らしめた。この二案は池田成彬、結城豊太郎君も一読し両君共納得出来る議論だとして居た。
石原は満洲事変には其の対ソ連観から大いに努めたけれ共、之を拡大し支那事変に導くが如き考え方には反対した。之が為に追われて晩年不振であったが、彼の作らしめた産業五カ年計画及び国内革新案は其の儘軍に保管されて居た。之を軍の新進気鋭の徒が読んで大いに之に共鳴し、世の所謂新人乃至革新派の連中に近付き之が実現の方策を練らしめた、所が此の「新人」の内に共産主義者が居り、彼等は軍を利用して其の理想を具現せんと決意し切りに軍の新進に取り入った。何しろ「新人」は頭がよく其の理論も一応条理整然として居るので軍の新進は何時の間にか之に魅せられ、国内革新を目標に、而して其の手段として長期戦争を企てるに至ったのである。
要するに陸軍の「新人」は作戦上の必要に藉口し、独断で戦争を拡大し、之に依って国家改造を余儀なくせしめんと計画したのである。」
と陸軍中堅層が抱懐するという『国家革新の陰謀』に言及し、
「陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にまで追い込んで仕舞った。しかも其の目的は戦争遂行上の必要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとするのである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途深憂に堪えない。翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しかも次々に後継者を養っている。」
と警告を発し、小林大将に、後継首班を引き受け、この「赤に魅せられた」陸軍の革新派を速やかに粛清するよう要請したのである。
小林大将は、かねてから岡田啓介大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いていたが、岡田自身も余りこれを信用しておらず、小林大将もまた「真逆」と思って重視していなかった。彼は、自分の微力は総理の任にあらざる旨を答えたが、近衛から改めて「陸軍統制派アカ論」を聞かされ、とにかく早く戦争を止めねばならないと痛感したのであった。
この近衛小林会談から一週間の後、陸軍中央は、近衛の警告を裏付けるが如く、彼等の正体を明らかにしたのである。
(中略)
帝国を中心とする世界戦争終末方策および大東亜戦争終末方策において、陸軍中枢は我が国の戦争目的を「大東亜新秩序の建設」とし、「日ソ間の友好親善の促進」「独ソ和平の斡旋」を図り、日独の綜合戦力を米英撃滅に集中発揮し、次いで日独側に「ソ連の導入」を図るという。この陸軍中枢の戦争指導方針は、
「戦争は飽くまで世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるのでありますから、欧州での英独対抗の結果というものがまた直接問題となるでありましょう。つまり東西いずれの一角でも崩壊するならば軈て全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、ドイツとイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります(註、日独の勢力圏が英米の支配下に入り資本主義化するからである)。
(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見透しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を東亜新秩序創建の絶対条件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張と殆ど矛盾することなく主張される点であります。ところで、現実の戦争の進出過程に照らして以上の如き私の見解と予想は如何に喰い違って来たかと云う点について若干反省を加えて見たいと思います。先ず第一に私の予想の違った点は、昨年六月の独ソ開戦であります。私達はソ連があくまで帝国主義諸国の混戦に超然として実力を保存すべきものであると考えていました。」
という尾崎秀実の獄中手記とほとんど変わらない。
尾崎が、支那事変勃発から逮捕されるまで、近衛文麿の最高政治幕僚として近衛に助言し或いは支那問題の権威として多数の戦時論文を発表し、大衆世論を煽動し、我が国の国策を思うままに操り、「東亜新秩序」「東亜協同体」の実現を目指してきたことは既述した通りである。
尾崎は、獄中手記と、彼が逮捕される直前に執筆した「改造昭和十六年十一月号大戦を最後まで戦い抜くために」の中で、彼が推進してきた「東亜新秩序」構想と第二次世界大戦の本質を、僅かではあるが偽りなく告白しているのである。まず獄中手記から見ていこう。
(中略)
そして以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として尾崎がしきりに心に描いたことは、
「第一に、日本は独伊と提携するであろうこと。第二に、日本は結局英米と相戦うに至るであろうこと。第三に最後に我々はソ連の力を藉り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於いて日本自体の社会主義国家へ転換を図る。」
ことであり、第二次世界大戦における日本の進むべき道として次のように述べた。
「日本は結局に於て英米との全面的衝突に立ち至ることは不可避であろうことを夙に予想し得たのであります。勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであろうと思います。日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうがその後の持久戦により消耗が軈て致命的なものになって現れ来るであろうと想像したのであります。而も斯かる場合に於いて日本社会を破局から救って方向転換乃至原体制的再建を行う力は日本の支配階級には残されて居らないと確信しているのであります。結局に於て身を以て苦難に当たった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建(註、敗戦革命のこと)を企図しなければならないであろうと思います。
ここに於いて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によって不必要な犠牲を払わされることなく立ち直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行い、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考えられるのであります。英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、更に中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本と、ソ連との三者が緊密な提携を遂げることが理想的な形と思われます。以上の三民族の緊密な結合を中核として先ず東亜諸民族の民族協同体の確立を目指すのであります。東亜には現在多くの植民地、半植民地を包括しているので、この立ち後れた諸国を直に社会主義国家として結合することを考えるのは実際的ではありませぬ。
日ソ支三民族国家の緊密有効なる提携を中核として更に英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として前述の三中核体と政治的、経済的、文化的に密接なる提携に入るのであります。この場合それぞれの民族共同体が最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件ではなく過渡的には夫々の民族の独立と、東亜的相互連環に最も都合良き政治形態を一応自ら択び得るのであります。尚此の東亜新秩序社会に於ては前記の東亜諸民族の他に蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が参加することが考えられるのであります。
申すまでもなく東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすべきものでありますから世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります。
世界的共産主義大同社会が出来た時に於ては国家及び民族は一つの地域的、或は政治的結合の一単位として存続することとなるのでありましょう、かくの如く私は将来の国家を考えているのであります。この場合所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません。」
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