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(回答先: 海洋国家同盟論再論―日本の選択 拓殖大学 学長 渡辺利夫 投稿者 Ddog 日時 2008 年 8 月 04 日 22:03:26)
「海洋国家」日本の戦後史 を読む シリーズ日本とアジアを考えるE
「海洋国家」日本の戦後史
宮城大蔵著(評:山岡淳一郎)
ちくま新書、720円(税別)【日経ビジネスオンライン】(評)山岡 淳一郎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080717/165649/?P=1
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080717/165649/?P=2
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タイトルを見て、思わず手に取った。と、いうのも、海運や造船をモチーフにした歴史ノンフィクションの執筆にとりかかっており、これは見逃せない、と職業的直感が働いたのだ。ところが……表紙扉を開いて、やや肩透かしを食らった。
「アジア」と日本の外交史が書かれており、期待していた海運に関する記述はほとんどない。「海洋国家」日本というタイトルは、象徴的な意味でつけられたようだ。ふつうならゴメンナサイ、早とちりでした、と閉じてしまうのだが、章立てを眺めていて、興味がわいてきた。
1.「アジア」の誕生―バンドン会議と日本のジレンマ/2.日本の「南進」とその波紋―独立と冷戦の間で/3.脱植民地化をめぐる攻防―日英の確執、中国との綱引き/4.戦後アジアの転換点―1965年/5.アジア冷戦の溶解―米中接近と「中国問題」の浮上……と戦後の復興期から70年代後半までの「アジア」と日本の政治関係の変容が描かれている。
読みだすと、これが面白い。蕎麦屋に入ったら、焼肉が出てきたのだけれど、食べてみたらすこぶる美味い。しっかり平らげ、満足。そんな新書である。
とくに東南アジアの大国インドネシアと日本の政治家とのかかわりが整理されて描かれている点が、新鮮だ。
これまでにも、首相だった岸信介が戦後処理で、スカルノ大統領と総額8億ドルの賠償をまとめた1957年頃から、自民党とインドネシア要人の間に政治資金の還流ルートができていたらしいことは、資料で読んでいた。
背景に、日本の工業力とインドネシアの石油やボーキサイト、ゴムなどの資源を結びつけ、日本を「アジアの工場」にして経済力を高めさせる一方でアジアの物資不足を解消させ、社会不安を取り除いて、共産主義の浸透を防ごうとする米国の思惑があったことも、知られている。
あるいはスカルノ大統領の第三夫人だったデヴィ夫人(日本名:根本七保子)が、日本とインドネシアの経済交流に積極的役割を担った話も聞きかじっていた。65年9月のクーデターでスカルノを追い落としたスハルトは、共産党の関係者とみられる人びとを数十万人も虐殺したといわれる。デヴィ夫人は、夫の失脚後、フランスに亡命した。そのタレント姿からは想像もできない現代史の凄絶な修羅場をデヴィさんはくぐっている。
しかし、どれも断片的な知識で、わたしにとってインドネシアはどこか遠い存在だった。本書は、そのバラバラの点と点を結んでくれた。
太平洋戦争で近隣諸国に多大な犠牲を強いた日本は、サンフランシスコ講和条約の発効で米国を中心とする連合国の占領を解かれ、国際舞台に復帰した。しかし、足もとのアジアにはスムーズにとけ込めない。サンフランシスコ講和会議に中国、朝鮮は招待されず、インドやビルマは出席を拒否。インドネシアは講和条約に調印したものの、賠償条件に不満で、議会が条約を批准しなかった。
□ アジアの海を漂流する日本、バンドン会議に碇を降ろす
日本はアジアで浮いていた。
そんな日本が「脱植民地化」で次々と主権国家が誕生するアジアに再デビューしたのは1955年の「アジア・アフリカ会議」。インドネシアの開催地の名をとって「バンドン会議」とも呼ばれる。会議では、「平和共存」を志向するインド、中国、インドネシアと、これを「平和攻勢」ととるパキスタン、トルコ、フィリピンなど自由主義陣営が激しく衝突した。冷戦構造を反映して、平和宣言案はまとまらない。
そこで国連憲章を尊重し、経済問題を強調した日本の玉虫色の平和宣言案が見直される。中国代表の周恩来が日本案に賛同したのを機に流れが変わり、「バンドン宣言」が発表された。著者は記す。
〈「反共最大の大物」として共産主義を相手に立ち回るのではなく、経済によって日本とアジアを広く繋げること、それがバンドン会議に際して日本が選ぶことになった方針であった〉
吉田茂は「賠償は一種の投資である」と発言したが、実務レベルでも賠償支払いが現金ではなく、生産物や役務の提供で行われた。日本企業が商品を輸出し、相手国の建設プロジェクトを請け負う形が定着する。インドネシアと日本の賠償交渉では、トップ会談に先立って、財界から送り込まれた特使がスカルノにこう述べたという。
〈日本には古来兄弟の契りを誓い合う際、共に血をすすりあって行う習慣がある〉〈岸総理とスカルノ大統領が共に血をすすりあって日「イ」両国が兄弟の交わりをすることが出来るようご援助を得たい〉(外務省外交記録)
自民党とインドネシア要人との政治資金のパイプは、こうしたドロドロとしたアジア的情念(?)でつくられた、ともいえようか。
岸―スカルノ交渉の過程で、表題「海洋国家」日本の発想のもとになったと思われる出来事が起きている。インドネシア政府は、旧宗主国オランダの資本を接収すると、たちまち経済運営に行きづまった。インドネシアは1万7千以上もの島々からなる群島国家だ。接収を察知して、オランダ資本の船が逃避したために海運が途絶したのである。
物流が滞り、物価は高騰。インドネシアは、日本に賠償による船舶調達を要請する。最終的に51隻の船舶、賠償金額の四分の一が海運関係に支出された。名実ともに「海」でアジアと日本は繋がった。その分、賠償疑獄も船舶関係で多数生じている。
親米派のスハルトもまた日本との関係を重視した。佐藤政権末期、沖縄返還が目前に迫る72年5月9日、スハルトは不可解な訪日をしている。おりしもポスト佐藤の座をかけて福田赳夫(福田康夫首相の父)と田中角栄(田中真紀子衆議院議員の父)が壮絶なバトルをくり広げていた、という。著者は、こう断定する。
〈スハルトの狙いは、(中略)福田赳夫が来る自民党総裁選で勝利することであった〉
福田はスハルト体制を支持する日本側の中心人物だったのである。豪外交文書にも〈石油取引に関するコミッションが福田派に流れることになった……〉とある。
ところが、総裁選では、「コンピーターつきブルドーザー」田中角栄が勝った。田中政権は、従来の非公式ルートではなく公式チャンネルで石油開発の借款を行う、とスハルト側に通告。間接的に福田派の糧道を絶とうとした。74年1月、インドネシアを訪れた田中は、ジャカルタで反日暴動の嵐に巻き込まれる。宿舎は暴徒に囲まれ、田中はヘリコプターで脱出した。
それから3年後、首相に就任した福田が東南アジアを歴訪する。「心と心のふれ合う相互信頼関係」で、日本がASEANとインドシナ諸国の橋渡しをすると示した「福田ドクトリン」は、熱烈な歓迎を受けた。心と心のふれ合いに、再び非公式な資金パイプが通ったのだろうか……。
□ 田中角栄とのリンクが見えてきた
じつは、田中角栄の評伝をわたしは「草思社」(民事再生の途上)のウェッブ・マガジンに連載しているのだが、ずっとインドネシアでの反日暴動の背景が気になっていた。あれは、石油利権に絡んだものであり、田中の行動を米国の石油メジャーが牽制した結果だろう、とみていた。日本とアジアの関係も、しょせん米国の手のひらで泳がされているなかで培われたのだ、とさめた見方をしていた。恥ずかしながら、スハルトの動きはノーマークだった。こうしてスハルト―福田のラインを整理して示されると、なるほどと合点がいった。
つまり、米国の強い影響下にある日本もインドネシアも、その権力闘争の内部では、むしろ米国のパワーを利用する勢力が根を張ってきたのだ。ここのカラクリが大衆からは見えにくい。
現在、世界的な経済格差が広がる一方で、イスラム教徒は増えている。そのひとつの軸が人口2億4千万人(世界第4位)のインドネシアだ。イスラム教徒は人口の76パーセント以上を占める。資源を介した日本とのつながりは、いまもなお深い。賠償から経済援助、石油利権による非公式な政治資金パイプという先人のまいた種は、今後、吉と出るか、凶と出るか……。
それを占うためにも、いま一度、田中角栄の歩みをたどりなおそうと考えている。草思社も、先月、東京地裁で民事再生の認可が決定した。もう少しで再出発だ。本書が与えてくれた視点を、田中角栄伝にも生かしたい。良書とは、楽しみながら、発想や思考モデルのバトンタッチができる本だとわたしは思う。
(文/山岡淳一郎、企画・編集/須藤輝&連結社)
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上記書評は日経ビジネスオンライン山岡氏の書評だが、私も同感であった。蕎麦屋に入って焼肉ではないが、川勝平太の「海洋国家論」の亜流か、地政学的本を期待して読んだら、インドネシアを軸とした、日本とASEAN諸国、印度パ、キスタン、中国、英国、アメリカの複雑に絡まった、戦後史のテキストとして、秀逸な内容であった。
日本の戦後東南アジア外交のテキストとして期待を超えた内容であった。私は、「回転寿司へ行ったら、ちゃんとした割烹料理が出てきた」といった印象だったとしよう。
バンドン会議の各国の思惑が面白い。バンドン会議=AA会議アジアアフリカ会議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BC%9A%E8%AD%B0
教科書では、『1955年、インドネシアのバンドンで開かれた会議、日本を含むアジアアフリカ29カ国が集まる。反帝国主義、反植民主義、民族自決の精神。 冷戦における、西側陣営でも東側陣営に属さない第三世界の存在を確立。 アメリカ、ソ連の対立を緩和する立場、会議において「世界平和と協力の推進に関する宣言」を採択した。 』といったことしか書いていない。私の知識もその程度だ。
最も熱意をもって、バンドン会議を推進したインドネシアであったが、中国共産党の取り扱いが意見の割れるところだった。印度とパキスタンは100万人の犠牲者を出した第一次印パ戦争後で対立し、現在とは違い印度が中国共産党の出席を強く推し、パキスタンが阻止しようとした。印度のネルー首相は中共に好意的で、中共の勝利は農民革命の勝利であると錯誤していた。印度は中共とチベットパミール高原で、国境紛争を起こしている。ネルーは、中共がアメリカに封じ込められている為過激なイデオルギーに走った結果、国境紛争を起こすと考えた。(甘い)「平和共存」を高らかに宣言し「友好による封じ込め」を画策した。カシミールの帰属をめぐり対立中の印パ両国は激しく対立していた。パキスタンは中印が手を結びアジアの主導権をとることを嫌い、日本招致を強く主張し、日本が参加することとなった。
日本は日本で、親米英の吉田内閣を倒した鳩山一郎は、「対米自主」(中ソとの国交回復重視)路線であったが、重光外相(大東亜共栄圏大東亜共栄会議開催時の外相でもある)は反共の立場で、親米英路線であった。なんという歴史のめぐり合わせなのだろう。
日本と中共との戦後ファーストコンタクトはこの会議である。